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なべちゃんの散歩道
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2007/10/10のBlog
[ 09:08 ] [ 美術・芸術・展示館 ]
ナウマンゾウ生体模型
このナウマンゾウは、最も大きなオスを復元しています。肩までの高さは約3mもあり、氷期にも生息していたことから、長い毛を生やしていたと考えられます。富山県では富山市長川原(旧大沢野町)から臼歯や骨片化石、南栃市祖山(旧平村)から臼歯が発見されています。監修 京都大学名誉教授 亀井節夫氏
ナウマンゾウの骨格
このナウマンゾウの骨格は、頭部が千葉県成田市から、その他は、北海道幕別町忠類から発見されたものを参考に作られています。
ナウマンゾウの名前は、1875年に来日し東京大学地質学教室の教授を務めたドイツ人のエドムント・ナウマンにちなんで付けられました。
入善沖の海底林
入善沖の海面下20mの海底に根を張った状態で発見されたカエデの樹根です。海面下20~40mで発見された樹幹の生きていた年代は、8000年~10,000年前です。氷期に海水面が低かったことを直接示す証拠です。
富山に社会人一年生として就職して、休日に富山市郊外を散策したことがある。社員寮のあった不二越町から西に神通川に向かって歩くと、途中に富山刑務所の塀に閉ざされた広大な建造物があった。この跡地が再開発により公園に生まれ変わり、富山市内の南北・東西をつなく大動脈の交差点になり、越州村ができ、公園の中には、富山県立近代美術館富山市科学博物館(旧名:富山市科学文化センター)(写真)が建っている。
[ 08:55 ] [ 美術・芸術・展示館 ]
自然のなかには、おくりものがたくさん
花が咲く、実がなる、雨がふる。
そして、季節のうつりかわりはわたしたちを楽しませてくれます。
自然には、「おくりもの」がいっぱいあります。

野見山暁治「みくりが池」1979年
立山にある「みくりが池」。空の青、深い緑の水面、
池にうかんだ氷は、時間とともに形を変えます。
風景がうごきだしそうですね。

南桂子「歳時記シリーズ」より1974年
季節のうつりかわりを、12枚の小さな作品として描きました。
この2つの作品は「3:自然からのおくりもの」のコーナーにあります。
「おくりもの」がたくさん!
フランスの画家、ルノワールが描いた子ども。
金色の首かざりが光っています。
フランスでは、“神様が守ってくれるように”という願いをこめて、子どもに金の首かざりをおくることがあるそうです。
子どもは、そんなやさしく見守る人たちの「きもち」につつまれて幸せそうです。
カタチがある首かざり、カタチのない「きもち」。どちらもすてきな「おくりもの」。
わたしたちのまわりには、いろんな「おくりもの」があるのです。
ピエール=オーギュスト・ルノワール 「子どもとリンゴ」 AIGスター生命保険株式会社所蔵
アートの世界へようこそ 美術のおくりもの
2007年6月23日(土)~8月26日(日) 富山県立近代美術館
「おくりもの」ということばから、私たちは何を連想するでしょう。たとえば、誕生日や記念日の贈物、旅先で見つけたお土産などが思い浮かびますが、いずれも大切な相手への祝福や感謝を託して伝えるものであり、そこには相手が喜ぶ顔が見たいという気持ちもこめられています。また、このような形あるモノばかりでなく、生命の誕生、自然からのめぐみ、そして作家からのメッセージがこめられた作品などその解釈はさまざまです。こうして見回せば、私たちのまわりは、様々な「おくりもの」で満ちていることに気がつきます。この展覧会は、国内の美術館や所蔵家からの出品による優れた近現代の美術作品と、当館の収蔵作品をあわせた絵画・彫刻・版画など約80点を通して、このように私たちの身近にある「おくりもの」を見つけ出そうとするものです。
会場では、「おくりもの」をキーワードとした6つのテーマを通して、作品の世界を紹介します。また、常設展示の一部でも「おくりもの」をテーマとした展示をおこないます。数々の作品の魅力にふれるとともに、様々な「おくりもの」を発見する機会となることを願っています。
立山のミクリガ池温泉ホテルに泊まり、ミクリガ池を心行くまで眺めてきたあとで、この野見山暁治「みくりが池」の絵を見たので、印象がひときわ深かった。
2階、常設館の入り口正面に、パブロ・ピカソの「広場の入り口」の絵が掛けられていた。ここを訪れると何時も見られるこの絵が好きだ。
写真:富山県立近代美術館
[ 08:17 ] [ 昆虫 ]
大きなカマキリがいた
2007/10/09のBlog
[ 22:15 ] [ 花だより・紅葉だより ]
キキョウ
ピンクの花
黄色の花
[ 13:26 ] [ 花だより・紅葉だより ]
サルビア
マリ-ゴ-ルド
マリ-ゴ-ルド
ミックス
赤、白
[ 09:02 ] [ 花だより・紅葉だより ]
コスモス
コスモス
コスモス
ピンクの花
つぼみ
2007/10/08のBlog
[ 19:23 ] [ 美術・芸術・展示館 ]
小雨模様の日曜日、舞鶴市総合文化祭の行事でもある、第6回 写団「北京都・写楽」写真展を見に、舞鶴市中総合会館・コミュニティホ-ルに出かけた。会期は6日から8日までで、今日が最終日であった。昨年の第5回写真展も見に行っている
主宰者の林正武氏をはじめ、22名の作品が、5点づつの組み写真で展示されていた。友人のふじもと様の写真、①踏み跡、②赤い葉、③木漏れ日、④黎明、⑤瀑底を見る。同行の家内は、谷川に緑の木陰が映る「木漏れ日」が好きだと云った。
黎明の作品の前で
高齢者の団体の方々が大勢、手押し車を押して参観に訪れていた。
主宰者の林正武氏の作品「夢幻花」(花火シリ-ズ・夏の夜の夢より)
昨日のテニス祭りで一緒だった、友人の石坪選手との話の中で、昨年の和知道の駅「和」で行われた、林正武氏の写真展、「美山の里}を彼も見に行ったとの事が出た。
今日もコ-ヒの接待を受けながら、「北京都・写楽」の写真展アルバム、「美山の里」のアルバムを拝見した。
[ 18:56 ] [ 花だより・紅葉だより ]
黄色のリコリスが咲き出した。赤い彼岸花や白いリコリス、紫のコルキカムより咲くのが遅い
ピンクの花
ピンクの花
ひまわり
ピンクの花
[ 09:11 ] [ 花だより・紅葉だより ]
ダリア
ダリア
千日紅
千日紅
ピンクの花
[ 07:47 ] [ 花だより・紅葉だより ]
リコリスこれは栽培種、黄色もある。雄蘂がピンクになったのもある。
自然種にも、白・黄色の彼岸花があると最近知った。
彼岸花・曼珠沙華
岸花、曼朱赤華と読み漢字を替えると、白・黄色よりも赤色がふさわしい。
コルキカム
これも、リコリス・彼岸花と同族
タマスダレ
ピンクの花
2007/10/07のBlog
[ 07:49 ] [ 山野草・滝(ふじもと様投稿) ]
滝の頭
ふじもと様からいただいた写真です。写真をマウスでクリック拡大してご覧ください。
迫力ある水の奔流、すごい滝ですね。!
滝の登り
2007/10/06のBlog
[ 15:52 ] [ 山野草・滝(ふじもと様投稿) ]
まいづるのふじもと様から彼岸花の広がる写真を送っていただきました。 緋願花の当て字を思いました
曼珠沙華
赤い花の咲き乱れる中央に溝があるようで、青い露草 (つゆくさ)(藍花(あいばな)、月草(つきくさ))が咲いています。クリック拡大
万朱赤化と当て字をしてみました
広い稲刈りあと積み藁が広がり、背景に赤い彼岸花が野を染める
同窓会の開催を今月末に迎え、4回目の準備会を行う。プログラム、役割分担など、ほぼ全てにわたり準備が整った。10月26日(金)にもう一度、最終的な打ち合わせ確認をすることになった。
名札づくり 1~9組および恩師の出席予定者88名を12テ-ブルに分けて、名札づくりをする女性幹事たち。毛筆書きの名前をカ-ドケ-スに入れて揃え、受付に並べる準備が整った
雷鳥の雛?
ミクリガ池の周辺や大日岳のお花畑では、今までの登山では必ず「雷鳥」に出会っていたが、今回の散策では、目を凝らして探したが「雷鳥」を見つけることが出来なかった。
ところが帰り道で「ハイマツ」の上にいる「雷鳥の子?」らしき雛を見かけた。でもライチョウではなさそうに思える。
先日の朝日新聞夕刊に「減少目立つ神の鳥」の見出し記事があり、氷河時代の生き残りのライチョウ、個体数は北・南アルプスを中心に国内で約3千羽とされるが、近年、減少が目立つと・・・警告する。
とあった。たったの3千羽ハイマツ林は広いのに、これでは雷鳥を見るのも余程の幸運が必要なのかも。地球温暖化の影響を真っ先に受ける可能性があるとの「ライチョウ」の記事であった。

追記: みちくさ・ど・ブロク by caribou 様から、この鳥は、クロジ(すずめ目ほほじろ科)だと教えていただきました。検索すると立山で夏に見られる鳥の一つだと云うことです。caribou様、有り難うございました。
こちらは「すずめの様な」小鳥
追記:
みちくさ・ど・ブロク by caribou 様から、この鳥も同じく、クロジ(すずめ目ほほじろ科)だと教えていただきました。検索すると立山で夏に見られる鳥の一つだと云うことです。caribou 様、有り難うございました。
2007/10/05のBlog
血の池の近く
ワタスゲの白い花は見られなかった
コケモモ(つつじ科)?
ナナカマド(ばら科)?
2007/10/04のBlog
(たで科)の植物?
2007/10/03のBlog
ミヤマホツツジ(つつじ科)
イワイチョウ(りんどう科)
イチョウの葉によく似ていることから、この名がつきました。秋に黄色く色づく葉の様子は、イチョウの葉にそっくりです。
[ 11:45 ] [ スキ- 銀嶺会 ]
銀嶺会会長:木下實氏 平成19年10月1日
 謹啓、10月 水澄む好季節を迎え,会員の皆様方にはご息災にてお過ごしの事と存じ、お慶び申上げます
 さて、振り返って見ますに本会が発足致しましてから7年目を迎えますが、その間、皆様方の深いご理解とご支援を賜り、お蔭さまにで大した事故もなく、事業の遂行を致します中で、大いに親睦を深める事が出来まして本当に嬉しく存じて居ります。ここに改めて心より感謝申上げます。誠に有難うございました。
 就きましては、表記の事柄に就きまして、下記の通り総会を開催致します
 時節柄、何かとご多用の事と存じますが、諸事お繰り合わせを頂きご参席下さいますようお願い申上げます
 尚、同封致して居ります葉書に必要事項をご証入の上、10月20目(土)の締切日までにご返信下さいますよう宜しくお願い申上げます。 敬白

1、日 時 平成19年11月1日(本)午後4時より
2、場 所 綾部温泉(睦寄町)
3、内 容
 1) 平成19年度の事業並びに会計報告
 2) 平成20年度の事業計画の検討、決定
 3) 役員の改選
 4) その他(会員の動向に関わって意見交流)
4、 懇親会(会費=1 0、000円)
※ 当日20年度の会費(2、000円)を集金させて頂きますので宜しくお願い致します
 ※ 総会場{綾部温泉}までバスにて送迎致します
 ※ 当日の集合出発時刻=15時20分(綾部駅前=南側バス停)
(たで科)?
8月末にもなれば、花が咲き終わり実をつけている植物が多い。
お花畑も咲き残った花や咲き遅れた花など、一部が見られるだけであった
(たで科)?
2007/10/02のBlog
ハイマツ(マツ科)
ハイマツ(マツ科)
ハイマツ(マツ科)
2007/10/01のBlog
タテヤマアザミ(バラ科)
タテヤマアザミ(バラ科)
タテヤマアザミ(バラ科)
2007/09/30のBlog
ハクサンチドリ(ラン科)?
ハクサンチドリ(ラン科)?
2007/09/29のBlog
タテヤマリンドウ(リンドウ科)?
リンドウ池には、イワイチョウアオノツガサクラなどが生育しています。また丈が10cm位のリンドウが多く見られます。池から離れた斜面の瑠璃色に見えるのが、ミヤマリンドウです。池に近いところに藤色に見えるのが、タテヤマリンドウです。2種の区別は、花の色だけでなく、茎や葉の硬さや形でも見分けられます。
ハクサントリカブト(キンポウゲ科)
タカネスイバ(タデ科)?
第13回 秋の文化財・史跡学習会-綾部市文化協会後援- 事務局 四方續夫氏
見学箇所等についてのご案内
 今回の学習会は、「綾部が民俗・民具・文化財の宝庫」なら、「奈良・京都は国宝の山」の京都の伏見区を中心に、「世界文化遺産登録の醍醐寺と国宝を訪ねて」と称し、伏見区の醍醐寺醍醐三宝院霊宝館の秋季特別展御香宮神社、四万社とも五万社とも云われるお稲荷様の本山・伏見稲荷大社を見学します。
又、昼食は伏見の黄桜酒造経営の「カッパカントリー」で、又、酒作りの行程や近くにある、「寺田屋騒動」の寺田屋を見に行ってくることも出来ます。見所一杯でどうしても綾部への帰着が遅く成りますが、必ずや御満足して頂けるものと確信しております。
又、皆様に出来るだけご参加しやすいように上林・山家地区と物部にもバス2台を廻しますのでご家族・ご友人を誘って是非とも多数の方の申し込みを頂くようお願い申しあげます。

醍醐寺(世界文化遺産登録・真言宗醍醐派総本山)
(到着10時頃、醍醐寺、醍醐三宝院、霊宝館の秋季特別見学後、出発12時10分)
 到着時、専門のスカイガイドさん2名が待っておられます。京都交通のバスガイドさんとペアーで号車毎に案内して頂きます。
 醍醐寺弘法大師の孫弟子、理源大師・聖宝が、貞観十六(874)年に創建した。山岳信仰の霊山であった笠取山(醍醐山)に登った聖宝は、白髪の老翁の姿で現れた地主神・横尾明神より、こんこんと水(醍醐水)が湧き出るこの山を譲り受け、准胝如意輪の両観音を刻み山上に祀った。それが醍醐寺の始まりである。
開創後、醍醐朱雀村上の三代にわたる天皇の深い帰依によって山上に薬師堂五大堂、山下に釈迦堂法華三味堂五重塔などが次々に建立され、山上山下にまたがる大伽藍が完成した。通称、山上を上醍醐、山下を下醍醐と呼んでいる。
以後も、皇室をはじめ貴族や武士の支援を得て、三宝院をはじめとする諸院や種々のお堂が建立され、真言密教の中心的寺院として多くの信仰を集めている。
 しかし、長い歴史のなかで何度も火災にあい、文明・応仁の乱では五重塔を残して下醍醐は焼失、上醍醐も荒廃した。
 ながらく復興に至らずにいたが、慶長三(1598)年の春、豊臣秀吉が開いた「醍醐の花見」を契機に秀吉並びに秀頼によって、金堂三宝院、又、山上では開山堂如意輪堂などが再建された。
 江戸時代に入ると、醍醐寺歴代座主が居住する三宝院が幕府より当山派修験の本山であると明確に位置づけられた。そのことにより、山への信仰が高まり、再び活気を取り戻していった。
 明治維新の「神仏分離令」や「修験道廃止令」などの数々の法難で大打撃を受けたが、歴代座主の尽力により開山以来、醍醐の教えは燈し続けられ現在に至っている。一千百有余年の歴史をもつ醍醐寺は、日本仏教史上枢要な位置を占め、長年護り続けられてきた寺宝類の多くは国宝・国の需要文化財の指定を受けている。
 平成六年(1994)年にユネスコの「世界文化遺産」に登録されました。

醍醐寺の駐車場から徒歩で、霊宝館・醍醐三宝院へと向かいます。醍醐三宝院前の国宝・唐門をバックに号車ごとに記念写真を撮りますのでご協力願います。
醍醐寺では最初に入山料を支払い、
一.仁王門(西大門・桃山時代)を潜り抜け醍醐寺境内に入ります。
一.金堂(国宝・平安時代)
 秀吉の花見に新築が間に合わず、紀州湯浅村満願寺の本堂を移転したものである。平安末期から鎌倉時代初期の建物であるが、移築時に改修され桃山風になっている。
一.本殿(国重文・室町時代)
 三間社流造檜皮葺である。4月1日~20日の桜祭や花見の行列は、この神社の祭礼である。
写真:醍醐寺の国宝・金堂
一.五重塔(国宝・平安時代)
 高さや約47メートルで、天暦六(952)年の竣工。兵火を逃れた唯一の創建時代の建物で、京都市内最古の建築物である。内部に金剛大日如来像を安置し、壁画(国宝・平安時代)は両界曼荼羅図で祭礼の時のみ公開される。
その北に不動堂御影堂大師堂、祖師堂)があり、御影堂には理源大師聖宝を祀っている。更に奥に、大講堂、鮮やかに紅葉の池に浮かぶ「弁天堂」や女人堂等がある。女人堂が上醍醐の入口となっている。上醍醐は標高450メートルの頂上にあるので我々はここで、引き返します。
拝観受付所で拝観料を支払入場します。
醍醐三宝院(国特別史跡・特別名勝庭園)
 三宝院は永久三(1115)年、醍醐寺第十四世座主・勝覚僧正の創建である。
 醍醐寺の本坊的な存在であり、歴代座主が居住する坊である。現在の三宝院は、その建物の大半が国の重要文化財に指定されている。中でも庭園全体を見渡せる表書院は、寝殿造りの様式を伝える桃山時代を代表する建築物で国宝に指定されています。見ていく順序で記載していきます。
一.大玄関(国重文)
一.葵の間(国重文)
 京都三大祭りである葵祭、祇園祭、時代祭りのひとつ葵祭の風景が描かれている。下鴨神社から上賀茂神社へ向かっている様子である。
一.秋草の間(国重文)
 秋の七草が点在する広々とした風景が描かれている。
一.勅使の間(国重文)
ここの襖絵は竹林花鳥図である。桃山時代の作品で長谷川等伯に連なる一派の作といわれている。
一.表書院(国宝) 下段・中段・上段の間がある。下段は別名「揚舞台の間」とも呼ばれ、畳をあげると能舞台になる。中段の間、上段の間は下段の間より一段高く、能楽や狂言を高い位置から見下ろせるようになっている。
一.表書院・襖絵(国重文)
 上段の間の襖絵は四季の柳を主題としている。中段の間の襖絵は山野の風景を描いており、長谷川等伯一派の作といわれている。下段の間の襖絵は石田幽汀の作で孔雀と蘇鉄が描かれている。
一.国の特別名勝庭園の「亀島」は太い立派な五葉松が、島全体を覆っていて、亀の甲羅のように見える島がある。この松は雌松で樹齢六百年以上といわれている、天下の名木である。亀の「静寂」を表している。
鶴島」は亀島の西隣りにある島で、この松は黒松の雄松で、向かって左側の石橋が鶴の首にあたる。今にも鶴が飛び立とうとしている「躍動感」を表している。「賀茂の三石」池の手前に三つの珍しい形の石がある。向かって左の石は賀茂川の「流れの速いさま」を、中の石は「川の淀んだ状態」を、」右の石は「川の水が割れている様子」を表している。
藤戸石」は庭の中心に位置し、阿弥陀三尊を表している。歴代の武将に引き継がれたことから「天下の名石」といわれている。池の一番奥に「豊国大明神」が見える。是は太閤秀吉を祀る社。三宝院殿舎や庭園を整えただけでなく、五重塔の修復や金堂の再建など醍醐寺全体の修復に尽力した豊臣秀吉。その恩に報いるために建立された。
一.純浄観(国重文) 太閤秀吉が檜山で花見をしたときの建物を移築したものといわれ、内部の襖絵は、平成に入り浜田泰介画伯が桜・紅葉を描いた。
 その庭園の東南の奥に見える建物が「沈流亭」で、茶室である。茶室の出入口は「にじり口」が一般だが、沈流亭は「貴人口」なのでかがまずに出入できる。 
内部は三部屋に分かれ南側から上段・中段・水屋の間となっている。柱には棕櫚や栗などの珍しい木が使われている。
一.本堂(国重文)
 本尊は快慶作の弥勒菩薩である。よって別名「弥勒堂」ともいわれ、脇仏として向かって右に宗祖弘法大師、左に開祖理源大師が安置されている。本堂の裏に護摩壇があり「護摩堂」とも呼ばれる。
一.奥寝殿(国重文)
 江戸時代初期の建築である。違い棚は「醍醐棚」と呼ばれ、修学院離宮の「霞棚」、桂離宮の「桂棚」とともに「天下の三大名棚」と称されている。

霊宝館(宝聚院)秋季特別展
 昭和五(1930)年に一千年御忌記念として建造されたもので、七百余箱に及ぶ古文書と重源が宋より持ち帰った約六千巻もの宋版一切経などを収蔵し、春と秋の年二回の特別展で公開されます。
 今回この特別展を見学します。
駐車場の出発は12時10分(時間厳守)です。駐車場側にトイレが有りますので
ご利用ください。

昼食:黄桜カッパカントリー(伏見)(12時30分~1時30分)
電話:075161119919
昼食とお土産はここだけです。又、黄桜酒造経営のお店ですので、お酒の造りの様子が順序良く展示された博物館が見れます。
 尚、店の表から約5分で薩摩藩脱藩の勤皇の武士達7名が島津久光の命で刺殺され、2名は重傷で切腹した「寺田屋騒動跡」があり、坂本竜馬は女将お登勢の機転で逃れた。お登勢の娘・は竜馬の愛人である。のち、昭憲皇太后が竜馬の夢を見、寺田屋に金一封を与え、それを記念して「正四位坂本竜馬忠義碑」がたてられた。寺田屋の中に入ると柱や欄間の刀傷が見れるが入場料がいる。外部の竜馬像や記念碑は無料で見れますで、希望者は各自で見に行ってきてください。
(出発時間は午後1時30分時間厳守)
御香宮神社(午後2時~2時30)
京都府指定文化財の拝殿
日本第一安産守護之男大神として広く崇められている。神功皇后を主祭神として仲哀天皇他六柱の神をまつる。
初めは「御諸神社」と称したが、平安時代貞観四年(862)9月9日に、この境内から「香」の良い水が湧き出たので清和天皇から「御香宮」の名を賜った。
豊臣秀吉は天正十八年(1590)願文と太刀(重要文化財)を献じてその成功を祈り、やがて伏見城築城に際し、城中に鬼門除けの神として勧請し、社領三百石を献じた。その後、徳川家康は慶長十年(1605)に元の地に本殿を造営し社領三百石を献じた。
慶応四年(明治元年・1868)正月、伏見鳥羽の戦いには当社が薩摩藩(官軍)の屯所となったが幸いにして戦火は免れた。ここには官軍駐屯の石碑がある。
10月1日から10日までの神幸祭は、伏見九卿の総鎮守の祭礼とされ、古来「伏見祭」と称され今も洛南随一の大祭とされている。

一.本殿(国指定重要文化財) 慶長十年(1605)、徳川家康の命により京都所司代板倉勝重を普請奉行として着手建立された。大型の五間社流造でひわだぶき桧皮葺、正面のとう頭かん貫き木ばな鼻やかえる蠆また股、向拝の手挟みに彫刻を施し、全て極彩色で飾っている。又、背面の板壁には五間全体にわたって柳と梅の絵を描いている。全体の造り、細部の装飾とも豪壮華麗でよく時代の特色をあらわし桃山時代の大型社殿として価値が高い。

一.拝殿(京都府指定重要文化財)
 寛永二年(1625)徳川頼宣(紀州家初代藩主)の寄進によるもので、桁行七間、梁行三間、入母屋造、本瓦葺の割拝殿。正面軒唐破風は、手のいり込んだ彫刻によって埋められている。特に五三桐のかえる蠆また股や、だいへいつか大瓶束によって左右に区切られている彫刻は、向かって右は「鯉の滝登り」即ち竜神伝説の光景を彫刻し、左はこれに応ずる如く「琴仙人が鯉に跨って滝の中ほどまで昇っている」光景を写している。

一.表門(国指定重要文化財)
 元和八年(1622)に徳川頼房(水戸黄門の父)が伏見城の大手門を拝領してここへ寄進した。特に注目すべきは、正面を飾る中国二十四孝を彫った蠆股で向かって右から、楊香郭巨唐夫人孟子の物語順に並んでいる。
他に、当社の名の由来の清泉「石井の御香水」がこんこんと今も湧き出ている伏見の七名水の一つ。紀州藩祖・徳川頼宣、弟の水戸藩祖・頼房(水戸黄門の父)と尾張藩祖・直の各公はこの水を産湯に使われた。又、小堀遠州作庭の「石庭」もあるが、狭いので入場できないが、是非とも見たい方は、各人で入場券を購入し、団体の案内から外れて見に行ってください。
伏見稲荷大社
国重要文化財の本殿を持つ伏見稲荷大社 (午後3時~3時50分)
 バスから徒歩で大社へ行き、先ず全員で記念写真を撮りますのでご協力をお願いします。
 稲荷大神は元々五穀をはじめとする全ての食物・蚕桑のことをつかさどる神として信仰されていた。平安期に至って、東寺の鎮守とされてより朝野の尊崇をあつめ、宇迦之御魂大神(下社・中央座)、佐田彦大神(中社・北座)、大官能売大神(上社・南座)を主神として祀り、田中大神(田中社・最北座)、四大神(四大神・最南座)を合祀する。
全国四万社余の稲荷神社の総社で、和銅四年(711)秦伊呂具が三社を祀ったのを起源とすると云う。平安時代には「延喜式」明神天社に列し、天慶五年(942)には正一位が与えられている。本殿(国重文)は明応三年(1494)の建立で、五間社流造桧皮葺、前方に内拝殿(神饌所)を持つ稲荷造りである。本殿右手の御茶屋(国重文)などもある。大社後方の稲荷山の「お山めぐり」は4キロメートルもあり、とても我々には行く時間がないが、手前の壮観な「千本鳥居」は見て頂きます。
 出発時間は、バスへ歩いて戻り、午後3時後10分です。トイレを済ませ、時間厳守でお願いします。

綾部市文化協会後援」 第13回 秋の文化財・史跡学習会 参加のご案内 事務局 四方續夫氏
「隠れた紅葉の名所」とも云われる醍醐寺の紅葉は京都では大変遅く、醍醐三宝院近くでは11月下旬でもまだ、青々としています。しかしながら「弁天堂の紅葉」が池に映えるのは見ものです。醍醐寺の「秋の霊宝館特別展示」の内容は毎年変わります。一度参観された方も、再度の見学をお勧めたします。内容は担当役員・事務局一同自信を持っておりますので会員以外の方にも参加を勧めて下ださい。皆様の便宜を図るためバス二台を巡回させますので乗車場所を必ず申し込み葉書に明示願います。

 記
一、期日 平成19年11月20日(火)
二、集合場所・時間は乗車場所により違いますので、出発予定より十分ほど早くご集合願います。
三、見学箇所:醍醐寺醍醐三宝院霊宝館の秋の特別展示御香宮神社伏見稲荷大社
四、参加費 お1人 9,000円(貸切バス代、昼食代、拝観料及び入館料、心付、手作り記念写真二枚の代金を含みます。)
五、募集人員 90名(京都交通貸切バス2台予定)
六、申し込み方法 10月30日(火)までに参加者全員の〒番号・お名前・ご住所・電話番号・バスの乗車場所を明記し、葉書にて申し込み下さい。特別緊急以外の電話申し込みはお断りします。
七、申込先
 〒番号:623―0004 綾部市多田町後路28 四方續夫 宛
八、受付と出発案内は申し込み締め切り後、葉書にてお知らせします。
貸切観光バスと旅行のお申し込みは京都府知事登録第2-530京都交通株式会社観光課京都府舞鶴市喜多1048-27TEL:0773-75-6000FAX:0773-75-5957担当:塩見 元宏
九、尚、旅行には「この会報65号」を持参して参加願います。靴はスポーツシューズ等をおすすめします。

 日程表①号車:白道路公民館==物部バス停(たき 06:45 06:55たて)==新庄バス停==JR綾部駅北口= 07:00 07:30②号車:上林の大町バス停==井根口バス停 06:35 06:50=十倉バス停==JR綾部駅北口==綾部大 07:00 07:30 07:35橋バス停==山家バス停==京都縦貫道== 07:40=南丹PA(休憩)====醍醐寺・三宝院・08:30~08:45 10:00~霊宝館(秋の特別参観)==黄桜カッパカン~12:10出発(時間厳守) 12:30~トリー(昼食、買物、酒博物館、寺田屋見学等 )======= 御香宮神社====13:30(時間厳守) 14:00~14:30===伏見稲荷大社=========15:00~15:50(出発時間厳守)京都縦貫道==丹波町のやまがたや(休憩) 17:20~17:40===山家バス停===綾部大橋バス停=18:15頃 18:20頃==JR綾部駅北口===18:30①号車:新庄バス停==物部バス停== 18:50頃 18:55頃==白道路公民館 19:00頃②号車:十倉バス停==井根口バス停== 19:00頃 19:10頃==大町バス停 19:20頃
執筆:綾部史談会々員 塩尻千賀良
山鹿疎水の眠る西福院は、詳しくは臨済宗妙心寺派徳応山西福禅院である。 綾部陣屋のあった台地上の西側にあり、藤山々麓に位置する。元々は、現在地よりも更に西方の藤兵衛谷の裾野(南ヶ丘鶴吉翁碑の辺りの裏山)にあったが、現市庁舎辺りに移り、三度目が今の地である。創建は、今を遡ること四百年前の慶長八年(1603)である。この寺院境内の本堂裏に「山鹿素水」の墓がある。
素水は天保十四年(1843)~安政四年(1857)の15年間綾部藩に招かれ、兵学を講じている。そしてこの綾部を終焉の地とし、歴代藩主の菩提寺である隆興寺の隣寺であり、法類でもある西福禅院に葬られている。
(一)素水とその兵学思想
 素水山鹿流軍学の祖である山鹿素行(元和八年・1622)が活躍した時代より下ること二百余年、幕末の兵学者である。武田信玄勝頼を源流とする甲州流兵学が、幕府の正式の兵学として採用されて以来の宗家に生まれた。「余不肖を兵家にうまれ禀、家傅を講究する数十年、既に(五十歳の称)知命に至といえども雖、短材愚昧、更に得所なく固陋偏狭にして、徒らに父書を読むのみ。・・・・弱冠より発憤する所有て操練の事に心思をつく盡し、家傳を祖述し諸家を参考し、・・・・」(練兵説略抄録)と
家傅兵学を世に問い続け、堕落し続ける武士層に対する武士道の精神再興とその高揚を典籍をもって訴えた。又、別の箇所では「治に乱を忘れざるは、人君最も心を可盡の要たり。承平既に久しく、干才府庫に納り、将士目にせいき旌旗を見ず、耳にきん金こ鼓を聞ず、暖衣飽食、般楽怠傲に武備解弛、士気衰弱するは自然の勢ひ也
 平和な時代に戦乱の世を忘れてはならない。君主はとりわけ、この事に心を砕く必要がある。曽て武具は倉庫で埃を被り、実戦で使う幟も鉦も太鼓も見聞せず贅沢三昧暮らしからは、体力も気力も精神力も失い、遂には、戦意喪失にも等しい状態が、今日の武士層の実態であると泰平の世を慨嘆し、警鐘乱打している。
更に論を進め「戦国に操練なく、治世に必ず操練を要す。戦国に操練なきは、士卒常に水火の中に入、自刃をふみ蹈、矢玉を冒し萬死に入て、一生を得れば将の指揮に従ふと、左右の手の如くなれば、実地に練熟すれば也。」命を水火に曝す緊張感そのものが操練である。この極限の世界では、戦術を指揮する大将の一挙手一投足を見逃さずにその手足となって働く。まさに命を預けた将への信そのものが一糸乱れぬ統制のとれた組織戦を生む。
 併し今は平時の世である。故に「是治世必ず操練を要する所以也」「太平三百年に近く、軍陣戦闘の事は夢に見ることだになく、其備処も知らぬ烏合同様の兵を卒し、大節の場に出て何をかなさん喧嘩迷乱の外なし」としている。これでは、正に兵士は、戦場を右往左往するのみである。
 素水がこの幕末のこの時期に最も恐れていたのは、世界列強の鎖国日本への門戸開放の波である。即ち「然るに近年操練盛んに行れ、列国急務として専らきょう教えつ閲あり。」操練盛なれば「萬一、蠻夷の来寇あるも、何ぞおそれ懼るに足ん。」とその気運の高まりを喜んでいる。
 更に「専用火砲之説」(練兵実備)の項で大小砲を駆使することにより、器量の有無、技倆の高低、力量の大小に拘わらず、敵陣へのダメージが甚大になる。
 大きな損害を新鋭砲で与え、次に接近戦になった時こそ、弓矢・槍・長柄等の武器が戦法として有効で大きな効果を発揮する。このことを「鉄砲ハ火薬ノ力ヲ以テ猛烈ノ利ヲナス物ナレバ必シモ是ヲ発スル者ノ強弱ト術ノ巧拙ニ由ラズ」又「弓ハ練習ノ功ヲ積ザレハ中々貫透ニ至ラズ、然レドモ敵間既ニ詰リテハ玉込ナシガタクガ故ニ烈シク打立ガタク弓ニ手早ニ数矢ヲ発スルコトヲ得」とする。更に「七八間ヨリ詰マル時ハ足軽ノ弓ニテモ敵ヲたお斃スニ足ル」とそれぞれの長所特徴を活かす戦法を説く。
 この様に、素水の兵学には、天下国家の立場からの広い視野と、又実践的戦場のない平時に、如何に操練を通して、即戦的力量と精神力を定着させるかを一体的に把える必要を、あらゆる機会を通して説いている。この持説の裏には、「書を述るの後、あまね普く天下を廻歴し、度々実際に試るに、・・・是より又朝思暮練すること数年、いささ聊か自得する所有て、小備指掌・教戦練兵の大要・・・同志示す。」と言っている。
(ニ)吉田松陰の師素水
 素水松蔭も共に、山鹿兵学の宗家の継承者であったから、出会うべきして出会ったと言える。松蔭が、師素水に出会った、嘉永四年(1851)兵学研究のため、藩主に従って東行、江戸で学んだ時である。松蔭が師より学んだ期間は僅かであったが、同じ頃、佐久間象山からは洋式砲術を学んだ。江戸での素水松蔭の師弟関係を知る資料は今の処見当たらない。唯、素水の著書「練兵実備」の跋文を松蔭が添えているのが、唯一その関係を伺わせるものである。
松蔭が、長州藩や倒幕に及ぼした強烈な影響力、その原点にある松下村塾・塾生に説いた内容、これは松蔭の人格そのものであり、そのバックグラウンドに素水から学んだ兵学思想が位置付けられる。
 綾部九鬼藩九代藩主:隆都は藩財政の逼迫の中で幕府要職を退くが、素水のその後の処遇にも関連していたかは詳ではないが、素水の身辺に何らかの異変があったことを示唆する件が見られる。
 平和家文書(562・京都府立総合資料館所蔵)にある素水関連事項を以下抜萃する。
①「元来山鹿翁ヲも召抱候儀・・・当時武門第一之職柄之以被召置候
②右之通、山鹿素水儀ハ不届者二而既ニ
、御家二も拘り候仁故是迄軍法御指南申上其功莫大ニハ候へ共御上二者難替
③公辺御大事吾郷之安危存亡ニ相拘候間
④御家之安危存亡之堺目此斯を以万端御復政被遊御家中御領内一統安心仕候
⑤如何様御咎被御付候共御家御安之程を
奉願如何計難有仕合奉存候
⑥万一当願一件御藩中之向より御領内之乱を引出し内外一致之大乱を出し候様之義有之候而ハ御家甚以御大切之事与奉存候
 兵学の師範として藩に仕官した素水の命運を左右する何かが起こったことは間違いない。
(三)綾部に残る「素水自作」の掛軸
 掛軸一幅が残っているのは、芦田新左衛門家(現、広小路のゆらり)である。 
芦田家は「武田信玄公之家臣浪人して当所に」(系図覚書)とあり、甲州出身で丹波国に移住した。後、町年寄として活躍、五代・六代には家運隆昌し、豪商(醤油・酢製造販売)として財を為した。
十代現当主の話では、幕末には、三十間X三十間、約九百坪の敷地であったと、幼少の頃祖父から聞いたと話していただいた。六代秀堅は、山鹿流兵学の源流が甲州軍学にあり、甲州に特別の郷愁を持っていた。偶々、九鬼藩に仕官していた素水に「芦田家の今昔」を掛軸に託して依頼したものと思われる。病床に苦しんでいた素水は、秀堅の達ての頼みを断り切れず、製作に取掛かった。掛軸の讃には、「積善の家ニハ必ず余慶がある・・・其身のなすへき業のみ唯一筋に勤めはけまん・・・綾部の里なる芦田鎮作秀堅は・・・父のころ比よりなりはひも衰えしに・・・いつしか其産業も盛んに再び家を興しぬ・・・左巴の紋付たる麻の御上下を下し賜しハ永く其家の面目成へし・・・秀堅功成て・・・其子秀茂に家を譲り、其身は風月にうそぶ嘯き甲斐の国なる身延の御山に詣・・・大江戸の栄えヲ見んとし御前に召し出され御盃を下し賜りぬ。秀堅故郷にかさる錦にまさる家土産となし永く家の宝に秘置かぬ・・・秀茂其姿を紙に写し子孫のすえまでも伝えんとする・・・後略」(村岡敬公先生釈文)。
 掛軸上部に讃辞を、下部には、秀堅を中心に、先妻貞女、後妻八重女の肖像画を配して描かれている。
(四)晩年の素水
 幕藩体制の弛みと、内部矛盾を内包しながら、ひたすら、そのレジームを堅持しようとした幕府。幕府は、開明的思想やその文明が、鎖国政策を続行する我国の封建社会に上陸することを、極端に警戒した。この動きの浸潤を阻止すべく、幕府は、洋学蘭学研究や科学的合理性の思想的系譜を一にする思想家・研究者グループを、蛮社の獄を初めとして厳罰に処分した。偶々、反幕勢力の急先鋒となって活躍していた松蔭と師弟関係にあったというその一点が、晩年の素水のその後に影響したとでもいうのだろうか。
 晩年の兵学者素水は、蟄居幽閉に近い暮らしを強いられ、その上最愛の妻にも先立たれ、妻の死後、失意の中にあって二ヵ月余りで、素水も、又静かに綾部の地で息を引きとった。
 兵学という保守的思想に拠って立つ素水でさえ、動乱の幕末の荒波に飲み込まれていった一人なのかもしれない。
*参考図書及び聞取り・資料・写真提供
練兵説略抄録・練兵実備 山鹿素水著、増訂丹波史年表 松井拳堂著、綾部町史 村上祐二著、
吉田松陰 日本の名著(31)山鹿素行 日本の名著(12)中央公論社、聞取り・写真提供 臨済宗妙心寺派徳応山西福禅院住職 渡辺尚志様、聞取り・資料提供 十代現当主 芦田美知子様、釈文引用 古文書インストラクター 村岡敬公様。