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なべちゃんの散歩道
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2007/09/29のBlog
綾部の文化財を守る会事務局追記
右下の庭園は小さいが見事なもので「素心庭とどんぐりの古木そして、その後方に観音堂が見える」
引用文献:綾部市資料館発行「あやべ歴史のみち」、写真撮影:「綾部の文化財を守る会事務局」
綾部の文化財シリーズ(第九回) 阿日山 佛南寺(臨済宗妙心寺派) 原稿執筆:住職:渡邊秀山
一.所在地 
 京都府綾部市里町向屋敷103番地
 「元、何鹿郡大字吉美小字里」
一.佛南寺の略歴
あやべ西国観音霊場第七番札所でもあります佛南寺は綾部市でも極めて古い歴史を誇る寺院です。平安時代初期の国家の歴史書である三代実録(858~887)には有名な社寺・貞婦・名族を記載されておりますが、その貞観五年(863)6月3日の条に「以ニ 丹波国何鹿郡佛南寺- 為ニ真言院- 即付ニ 国司検校-」とあり、佛南寺は国によって真言院とされ、国司の監督を受ける官寺として財政援助を受ける代わりに、護国法会等を行なう義務がありました。当時は官寺として七堂伽藍をもつ、地方屈指の巨刹であったと云います。
 足利時代末期には荒廃していましたが、万治年間(1658~1660)に宗讃禅師が臨済宗として堂宇を建設しました。下がって、江戸時代の元禄の初め火災にて焼失しましたが、元禄八年(1695)に再建され現在に至ります。
 この寺の霊場ご詠歌は「法のみち ひろく栄ゆる 吉美が代を よろずよかけて 願ふさとひと

一.佛南寺の文化財(仏像等)
佛南寺のご本尊としてお祀りされているのは左の写真の像高一尺二寸(約40センチメートル)の「木造釈迦如来坐像」です。両脇侍は文殊菩薩普賢菩薩で知恵と実行の佛と云われています。
左下の「木造大日如来坐像」は運慶作とも伝えられる三尺七寸(像高1177.2センチメートル)は綾部市の指定文化財で、髻を結い条帛をかけ、智挙印を結び裳をつけて、右足を外に結跏趺座する金剛界大日如来様です。肩の張り、腰部から膝にかけての重厚な造型は力強く、着衣のおおまかで明快な表し方、面相の優雅な彫技によく時代の特色がうかがえ、髻は高く太く、面相部も長さに比べて幅があり、面奥も十分にあります。この幅のある顔に目鼻立ちを中央に寄せて小さく刻み、眉を著しく切れ長に、唇は厚めに表現し、平安時代初期の密教像の作風を忠実に表現しているといわれています。
 現在表面の彩色はほとんど剥落し、まだらになっていますが、十二世紀初頭を下らないと云われています。
左下の「木造虚空菩薩立像」は同じく綾部市の指定文化財で、五尺五寸三分(像高は165.8センチメートル)もある等身大の像で髻を結い、条帛・天衣をかけて左手まげて宝珠をのせる蓮華を執り、右手は躰側に垂れ下げ、右足をわずかにゆるめて立つ姿です。頭部は量感豊かで、目鼻の彫りは浅く、耳上の頭髪一条幅広く巡らして、じだ耳朶を貫通させずに表現しています。肩幅は広く躰躯も太造りで、腰をわずかに左に引く体勢もおだやかで、全体に彫りは浅いといえます。
 構造はうちぐり内刳(像の内部を空洞にして重さを減らす。)の大きな一木造りです。全身に傷があり時代の判定が難しいと云われていますが、平安時代の特色が強く出ているといわれ、十一世紀頃の作と云われております。
本堂前左下にある聖観世音菩薩を祀る瀟洒な「観音堂」もこの頃(元禄年間)建設されたと云われる由緒あるもので、境内地と離れていたため、一時期独立した尼寺(善住寺)となっておりましたが、平成九年春に旧に復して今の境内地に移転整備されたもので、この古刹にかけられた大悲を願う思いが今結実しつつあります。又この観音堂はあやべ西国観音霊場第七番札所の「聖観世音菩薩」で、伝によれば「聖徳太子の念持仏として鳥佛子(師)一刀三礼の彫刻せん鐫する所にして開帳佛なり」とあり、祈願によって母乳湧出の願いが叶えられると名高く、遠くからお参りに見える方もあります。
左下の梯子が沢山お供えされている地蔵堂「地蔵菩薩様」はお参りすると夜尿症を止めるための願いが叶うと云います。
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写真:加古川市の鶴林寺の国宝・本堂をバックに、ご住職・幹栄盛師と共に
一号車 事務局会計 綾中町 渡邊敬治
 バスから降りてお寺を見上げると、お堂らしき建物が見える。小さな坂道を登って行くと目の前に金堂が聳える。奈良の大仏殿程ではないが、かなり大きな建物である。その前でバスガイドを含めて八十四名一度に写真撮影をする。
 八百十五年も風雪に耐えて、今も堂々とした姿を見せる浄土堂、中に入ると中央円形の須弥壇の上に立つ阿弥陀三尊像は見上げるばかり、五米三十糎もあるという。小さく見える両脇侍の観音・勢至の両菩薩も三米七十一糎とか。
 本尊の胎内銘から「建久六年四月十五日」とあることから八百十二年も以前に造られたことになる。この阿弥陀三尊は東大寺南大門の金剛力士像を造った名仏師快慶の作とか。その力強さは共通する技法を窺わせる。天井を見上げると八百年以上も経た建物とは思えないしっかりした木組みで偉大である。大仏様(天竺様とも云う)という特異な建物で、東大寺南大門と我が国に二つしかないという重要な建物である。
 仏像の背面(西)の透蔀を通して差し込む夕日が浄土堂の化粧天井に反射するのを背景に黄金色に輝くこの像を拝む時、雲に乗って来迎する仏の姿を目のあたりにして、拝観者は感動するという。残念ながら私達は午前中の拝観なのでその姿を拝することは出来なかった。
 境内には薬師堂があり、東大寺に手向山八幡宮があるように、同寺にも八幡神社が祀られていた。見るものは沢山あったが時間の都合で見学もそこそこに浄土寺を後にした。
 法華山一乗寺は山の中にある。細いくねくねと回りくねった道をバスは一杯になって登っていく。
 一乗寺は印度僧法道仙人の開基である。
大化五年、時の帝孝徳天皇不予の病に患り、仙人が召されて一七日間加持し奉るとたちまち平癒し給う。此の年に本堂建立の勅を受けて建立したという。実に一三五七年も続くお寺である。
 バスを降りると本堂に向かって石段が続く、迂回路を通って本堂下の三重の塔までたどり着く、本堂は今まだ修理中なので拝観できない。国宝の三重の塔だけを拝して石段を降りる。本堂裏から二百米ばかり奥に開山堂がありそこには、賽の河原があるという。賽の河原まで登れない人は麓の石の観音堂の屋根に小石を積んで賽の河原の供養代りにするという。
 「一乗寺には沢山の宝物もあり、仏像もある」とガイドさんの説明だったが、本堂が改築中でもあり、十分に拝することは出来なかった。
 昼食をはさんで午後は鶴林寺の拝観である。住職様が本堂でお待ちいただき一緒に記念撮影に納まっていただく。
 本堂に入って住職様のお話を聞く。
昔、加古川から舞鶴まで歩かれた時、調度綾部で夜になり、昔の綾部駅で一夜を明かしたことなどを交えながら、本堂は天竺様(大仏様ともいう)、和様、禅宗様が見事に調和して折衷様式の代表的な建物である。本尊の薬師如来・月光・日光菩薩・毘沙門・持国天の五体仏は厨子深くに鎮まる秘仏であり六十年に一度のご開帳という。本堂の住職であっても拝むことは許されない。
「あいたた」どうして、昔、鶴林寺に盗賊が入り、この聖観音像を持ち去り、壊そうとして、槌を腰の辺りに打ち付けた 
所「あいたた」と声がした。驚いた賊は改心して観音様を元の所に戻したという。
 それ以来この観音様を「あいたた観音」と呼ぶようになったとか。いまにもこぼれ落ちそうな微笑みを浮かべ、のびやかな肢体は腰をかすかにひねっているかに見える。しなやかな腰の線は女性のようにさえ見れる。まさに鶴林寺の至宝である。
ほかに太子堂は宝珠をいただいた桧皮葺きの優美な姿を見せる。太子堂に入り壁画の「九品来迎図」「還り来迎図」などのビデオを見ながら解説を聞く。
 鐘楼も立派で袴腰造りの優美な建築であり、釣るされた梵鐘は小振りながら朝鮮高麗時代の鐘で、鐘の上部に煙突様の筒がつけられている。これは鐘の響鳴に関係するのか、妙なる音色は天下一品という。
 宝物館の内には野外の舞楽演奏に用いられた楽太鼓の縁と太鼓の断片が残されていた。この楽太鼓の縁だけでもニ米からもある大きな物だった。昔はこんなに大きな楽器を使って舞楽を奉納したのだなと感心する。
 ここでも時間に追われて十分な見学はできないままに次ぎの見学場所に向かう。
 明石文化博物館の見学は十分な時間がとれないままに慌しく見学をして博物館を後にした。
[ 18:41 ] [ 文化財を訪ねて ]
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2号車 事務局総務 延町 森本一郎
 前回一号車の始発を白道路にしたことが大変好評だったので、今回はニ号車も上林を始発として、山家経由で綾部駅北口に集結し、出発する事と成った。
 その効果が出たのか、参加申し込み人数は過去最高の九十五名もあったが、インフルエンザの感染や近所のご不幸などで取り消しが相次ぎ、結局八十一名の参加者で実施する事となった。
 駅北口では一名出発前になっても顔が見えないので、電話しても出られないし、どうしたものかと気を揉んでいたら、事務局長が味方から乗られると聞いていたとの事で一安心する。
 私は播磨の有名寺院では、書写山圓教寺くらいしか行ったこともなく、今回は建物が国宝となっている物を多く見せて貰えると言う事で楽しみに出発する。
 兵庫県の南部は、それほど用事もないので来たことが無かったが、丘陵地帯で綾部とは少々様子が違う。播磨と讃岐は、同じ瀬戸内海気候で河川も少なく、奈良と共に溜池の多いところと、ガイドさんの説明であった。麦と米の二毛作の為、遅い田植えの水田地帯からやや小高い丘の裾に着いた。浄土寺である。着いて直ぐ西尾公認ガイドと共に全員で記念写真を撮る。国宝の浄土堂に入る。金箔がしっかり残った阿弥陀如来さんと、脇侍の観音菩薩さん、勢至菩薩さんの三体が、圧倒的な迫力で我々を迎えて下さった。これまで色々な仏さんにお出会いしたが、今回ほど感動した事はない。”オォー“と言った感じである。天井もない屋根裏丸見えの空間一杯にお立ちになったそのお姿は、実に我々を魅了するものだった。快慶作とのこと。桧四本の寄木造りで、その基台は床下の地面に有るとの事である。八百年間動く事無く変わらぬお姿とのこと。あまりの感動で拝む事も忘れて見とれていたら、西尾ガイドさんに「お堂に入ったら先ず仏様に挨拶する(手を合わせる)ものだ」と、お叱りを受けた。以後気をつけよう。それにしても此のお堂の木組みは立派なものである。虹梁を支える挿肘木、豪快に丸柱に文字通り挿し通されている。その組方も良く考えられていてバランスが良い。屋根を支える垂木受けのもやを、桁から天秤状の腕木で上下に支えてあった。この様な処理をされた建物は初めてである。天竺様と言うそうだが、建築学会で注目されていることも良くわかる。
 堂内の木材は朱で塗られていて、仏像の金色と良く合い夕日の光が入ったら素晴らしい浄土が見られる事だろう。外に出て軒端を観ると確かに垂木の端は化粧板で隠されている。又、軒丸瓦も軒平瓦も蓮華模様や唐草模様でなく、「南無阿弥陀仏」といずれも文字が入っていた。これは国内にニ、三例しかない貴重な物との事であった。いずれにせよ平安時代の終わりから鎌倉初期の建物であり、それがそのまま遺っているという事は素晴らしい事である。もう一つ感激したのは、明治の初めの神仏分離令で、従来全国的に神仏混合であったものが破壊され、今ではその形態を見る事は出来ないものと思っていたが、ここにはそのまま、しかも鎌倉時代から室町時代に建てられた八幡神社と共に、存在していた事が嬉しく、又それが見られたことで、この旅に参加した甲斐が有ったと満足に思った。
 今回は、此の浄土寺の印象があまりにも強かったので、感想もここで止めたいと思う。此の地方に一乗寺や鶴林寺など、いずれの建物も、物としてだけではなく、その教えと共に八百年の昔から延々と守られて来たことに、深い感銘を受けた。
 地味な旅ではあったが、適度な歩行距離で天気も良く、定刻に無事帰着できたことは、世話役としても幸いだった。
2007/09/28のBlog
ミヤマキンバイ(バラ科)?
ミヤマアキノキリンソウ(コガネギク)
ミヤマアキノキリンソウ(コガネギク)
キオン?
黄色い花(きく科)
2007/09/27のBlog
ヤマハハコ(きく科)
ヤマハハコ(きく科)
ミヤマゼンコ(セリ科)
ミヤマゼンコ(セリ科)
2007/09/26のBlog
コバイケイソウ
コバイケイソウ?
バイケイソウ(ゆり科)?
チングルマ
立山を代表する高山植物で、草のように見えますが、実際は超小型の樹木です。群生するクリ-ム色の花も見事ですが、風車のように風にゆれる実と紅葉した葉も、すばらしいものです。
チングルマの実
風に吹かれるチングルマ
2007/09/25のBlog
帰りの立山高原バスの車窓から剣岳を撮影。
同じくバスの車窓から、薬師岳を撮影
称名滝を撮影、バスの車窓から
登山ケ-ブル・カ-が上がってきた
地鉄の終点・立山登山口の、立山駅(千寿ケ原駅)に降り立つ
重要文化財 立山室堂
現在残っている日本最古の山小屋で、立山における信仰や民俗の様子を伝える重要な建造物です。「室」とは宿泊所という意味があり、「堂」とは御堂などといわれるように宗教施設を示すもので、室堂は、その両方の役割を合わせもったものでした。
文献には、現在の建物は1726年(享保11年)に再建されたと伝えられており、それ以前にも建物があったことが確認されています。平成7年には国の重要文化財に指定されました。
立山開山の伝説がある 玉殿岩屋
立山火山が噴出した溶岩が冷却する際にできた板状節理(板状の岩盤)が発達してできた2つの洞窟を玉殿岩屋と呼んでいます。
立山を開山した佐伯有頼が熊を追って、この洞窟に入り込んだところ、熊は実は阿弥陀如来の化身で、有頼に立山を開山することで、人々を導くよう命じたという伝説があります。
室堂診療所
室堂タ-ミナルに戻ってきた
高原バスの終点、室堂タ-ミナル
2007/09/24のBlog
ミクリガ池温泉ホテルで一泊した翌朝も快晴。立山連山の続きに、剣岳も姿を見せている
大日岳連山
ミクリガ池に映る山並み
陽光を浴びてミクリガ池が輝く
室堂平の遊歩道の要所を行き交う人々
2007/09/23のBlog
[ 10:51 ] [ カメラ・画像処理 ]
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先日の蜂雀(ホウジャク)のブログについて、えんとひなたぼっこ★ソラと追いかけっこ:えん様から
我が家にもハチドリちゃんが来た?! のTBとコメントをいただきました。
これは、いつも見させていただいている「ハチドリ日記 by lulu様」のブログにTBした記事の縁で来られたという嬉しい経緯になりました。
弾丸のように飛来しては、ホバリングして蜜を吸っていく「蜂雀:ホウジャク」の鮮明な写真が撮れず、手振れ防止付きのCanon EF 100-400mm IS USMレンズで、短焦点1.8mで撮影するのですが、短焦点では手振れ防止機能が不十分なのか、鮮明な写真にはほど遠い状態です。
文化財を守る会の研修旅行で記念写真撮影担当として使っていた、スリック社のSDV-10は、先般の花火撮影で壊れてしまいました。(写真の白いネジが見える部分、実際は締め付けるグリップ(頭)が付いている)のが外れて紛失してしまった
カメラ店に行き、ベルボン社のCarmagne G5300Ⅱを買ってきた。スリック社のが3000円までだったので、今回は定価、65000円位のを張り込んだ。カ-ボン入りの三脚でしっかりしている。
スリック社の三脚が壊れた原因は、夜間の花火撮影で、カメラ・ボデイを三脚に付けて撮影し、途中で前記の400mm大型ズ-ムレンズに交換して撮影。本来はレンズの鏡胴に三脚用の固定ネジ足座が設けられているのを使わず撮影。そのため荷重が偏り、三脚の雲台に無理な力を加えたためであると反省した。
そこで購入したのが、ワンタッチでカメラ、レンズなどを雲台に着脱できるもの。
ベルボン社 クイック・レリ-ズ・アダプタ- QRA-635L(B)を購入した。三脚と合わせて3万円丁度の投資になった。
実はカメラ用と大型レンズ用に、互換性のある嵌め込む半分だけ2個いりそう。
[ 10:41 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
今日・明日の彼岸連休の中、恒例の自治会のみちつくりが8時半から行われた。各自、自宅回りの雑草をとり、みぞ掃除をする。12軒ある7組では、殆どの家庭から夫婦が出られて作業に加わっていただいた。組長をしているのでお礼のあいさつ回りをしておいた。
昨日も舞鶴市の気象台発表では32.6度だった。今朝の気温も28度ある。本当に残暑が厳しい。ホウレンソウの種を蒔きたいのだが、地温が20度以下にならなければ発芽しない由。まだ播けそうにもない。例年だとタマネギ苗の定植前に、ホウレンソウの早採りができるのだが・・
とった雑草や、みぞから揚げた土砂は手際よく集められ、道路周辺の掃除が終わった。ご苦労様でした。
夕映えに赤く染まる立山連山を照らす夕日は、沸き上がる雲の中に沈んでいった。夕日の残照で輝く雲間に向かって、飛行機雲が白く尾を引いて空を渡っていく。
ミクリガ池温泉ホテル前の展望台からの平和な眺めだ♪
夕日に赤く染まる黒雲と、白く尾を引く飛行機雲
夕日に赤く染まる黒雲と、白く尾を引く飛行機雲
夕日に赤く染まる黒雲と、白く尾を引く飛行機雲
2007/09/22のBlog
夕日に照らされた立山連山
夕日に照らされた立山連山
夕日に照らされた立山連山
雄山と浄土岳の間に月が昇った
満月から、かなりすぎている
夕暮れの夕日に照らされた立山連山を撮影。雄山浄土山の間、一の越の上に月が見え、薄雲が室堂山荘のある地表を漂う
夕日に照らされた立山連山
月が昇ってきた
夕日に照らされた立山連山
夕日に照らされた立山連山
2007/09/21のBlog
今夜宿泊するミクリガ池温泉ホテルに、地獄谷から雷鳥沢の一角を周回して戻ってきた。剣岳はまだ頂上にガスがかかっている。ホテルの前のテラスは絶好の展望台。三脚を据えて、カメラの砲列が敷かれていた。ソフトクリ-ムを食べる。
大日岳連山
素晴らしい展望を楽しむ
立山御山神社直下の絶壁
雪渓
剣岳がガスの間から頭を見せ始めた。しばらく粘ったがガスは晴れなかった
国指定 天然記念物 立山の山崎圏谷石碑
山崎カ-ル:正面に見えるお椀のようなくぼみは、氷河によって山腹が削られてできたもので、カ-ル(圏谷)と呼ばれています。立山には、このようなカ-ルがいくつもあり、氷河が削った岩の傷(さっこん)も見られます。
山崎カ-ルは、表が地形の研究家であった山崎直方氏によって1905年に指摘されたカ-ルで国の天然記念物に指定されています。
立山連山
立山連山
2007/09/20のBlog
血の池
火口跡が池になったもので、酸化鉄が多く含まれているため、赤い色をしています。
昔、人々は立山地獄の一つとして、血の池地獄と呼んだのが、この名の由来です。
立山曼荼羅に描かれている血の池地獄
緑の高原を散策
起伏がある散策道
ホテルが見えてきた
2007/09/19のBlog
雷鳥沢のキャンプサイト
近くまで雪渓が残っている
ミクリガ池に戻る周回ル-トを散策
素晴らしい眺望
眺望を楽しみながら歩く
2007/09/18のBlog
雷鳥沢からの登山道
400mm望遠で撮影。この登山コ-スは、一の越からの立山連山縦走の下り、剣岳大日岳縦走の登りによく使う。登山する場合、本格的な登高なのでかなりのアルバイトが必要になる
多人数がグル-プで登山中。時間的に見て、登り切った別山乗り越あたりで宿泊と思われる
立山連山尾根(別山?)の山荘
立山連山尾根(真砂?)の山荘
剣岳方面
変化の多い眺望と高山植物の宝庫 大日連山
大日岳の山名は、大日如来に由来し、この山は古くから修験者の修行の場になっていたと云われています。また大日連山は、登山道からの見晴らしも良く、高山植物の種類も多いことから登山者に人気のあるコ-スになっています。
七福園や大日平のお花畑などの見所を通り、称名滝に下りるル-トは手軽な一日コ-スです。
雷鳥沢のキャンプ場
雷鳥沢温泉
大日連山の素晴らしい眺望
眺望
2007/09/17のBlog
地獄谷から温泉の熱水を山荘に送っている。噴出する熱蒸気を利用して、水を加熱し泉源として使っている。熱ガスの噴出量が変わると、水温が一定にならないので、昔は入浴客の好みにより、湯元まで走って都度、調節したとのことである
立山連峰
雷鳥沢
弥陀ケ原と大日平の間を流れ下る
ロッジ立山連峰
2007/09/16のBlog
地獄谷 有毒ガス危険 歩道以外立ち入り禁止
社会人一年生として富山に就職し、その夏、先輩に案内されて地鉄(千寿が原駅)から歩いて称名滝(八郎坂)を登り「地鉄-剣岳-大日岳縦走:徹夜24時間登山」を果たしたが、弘法平、弥陀ヶ原、美松、天狗、室堂、ミクリガ池と懐中電灯を頼りに歩きに歩いて登り、深夜にこの地獄谷に入った思い出がある。初めての地獄谷が懐中電灯に照らされて「しゅうしゅう、ぶくぶく」と噴煙を上げ臭気に悩まされて恐ろしい風景であった。当時は歩道など皆無であり、人の歩いた痕跡の残る道筋を先輩の案内で歩いたものだった。窯地獄、鍛冶屋地獄など懐中電灯の光の輪に入る所まで近づいて見たものだ。
地獄谷
地獄谷
地獄谷
地獄谷
立山に地獄あり
地獄谷は立山火山の水蒸気爆発でできた、多数の噴気孔や温泉の泉源などがある窪地で、日本でも最も高所にある温泉としても知られています。
また歴史的に立山の地獄は、全国の亡者が集まるところとされ、平安時代に書かれた記録や説話の中にもたびたび登場します。江戸時代には、立山信仰の中核をなすものとして、立山の地獄が立山信仰布教の手段として作成された「立山曼荼羅」に大きく描かれ全国に広められました。
雷鳥沢
ミクリガ池山荘
地獄谷
地獄谷 火山ガス危険区域 火山ガスに注意
地獄谷には、たいへん有毒な火山ガスが発生しています。特にぜん息の人、気管支に疾患のある人は立ち入らないようにして下さい。
歩道から外へは絶対に出ないでください。警報が発せられたり、臭気が強いときは急いで通り抜けてください。
2007/09/15のBlog
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U君から同窓会の掲載された京都新聞が送られてきた。
京都新聞夕刊9月10日(月)
綾部小学校(綾部市)1949(昭和24年)卒業
写真左:13人が集まった今年の同窓会(6月17日、京都市中京区の京都弥生会館)
写真右:兄や姉のおさがりを着た子が多かった卒業記念写真(昭和24年3月)
疎開・引き揚げ組も一緒に
終戦を鋏んでの小学生時代。みんな貧しく、衣食も乏しかった。クラスには、外地から引き揚げてきたり、綾部に疎開して定住した友達も。約30年前から続く同窓会を世話する幹事の梅原正美さんも旧満州(中国東北部)からの引き揚げ組。「入学は1学年遅れたが、懐かしい思い出ばかり」と振り返る。担任は師範学校を出たばかりの朝子つる枝先生で、春田、諸熊、渡嘉敷さんは「公私ともに先生と触れ合え、楽しかった。今もご健在でうれしい」と口をそろえる。
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10月28日開催予定の同窓会の準備会が行われ、出席返信の集約が出来ました。
先生方:6名、1組:8名、2組:11名、3組:10名、4組:6名、5組:12名、6組:5名、7組:12名、8組:10名、9組:10名の合計90名です。男子:52名、女子38名。二次会の参加は、40名+未定25名。
各組の幹事さま方、大変お世話になりました。
幹事会では、具体的な同窓会の内容について、参加者に楽しんでいただけるよう打ち合わせをして、分担を決めたり準備に取りかかっています。どうぞご期待ください。
次回の幹事会は10月5日(金)1:30からの予定です。
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いつも見させていただいている「ハチドリ日記 by lulu様」のブログに、昨日の蜂雀(ホウジャク)1のブログでTBしたところ、早速つぎのコメントと、「虫になれなかったハチドリ」のTB記事をいただいた。
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[ lulu ] 様からのコメント・・
>この度は再TBありがとうございます~.大好きなハチドリ関連なので嬉しいです♪
ホウジャク、やっとメドセージに気が付いたのですね。やはりハチドリは、鳥というよりも、むしろ蛾と同じ飛び方、習性を持っているのだなと実感できる画像でした。
うちには、ホウジャクが来ないので参考になりました♪ もしかしたら、来た事があるのかもしれませんが、ハチドリに追い払われている可能性もありますね。そんな瞬間を撮れたら面白いですし貴重なんですけどね・・・
ホウジャクの来訪で、ハチドリ撮影がいかに難しいか、実感されたのではないでしょうか(*^・^*)
昨日、我が家に居座っているハチドリの飛んでいる姿を観て、「やっぱり虫に見えるわ・・・」と思っていた所でしたが・・・
虫になれなかったハチドリ」のTB記事の中で、
>全然懐かないタビオのそばに行ったら当然のごとく近くの木にゆっくりと逃げたのですが、遠めで見るその姿はやはり鳥ではなく虫でした。 北米Hummingbird事典に掲載されていたハチドリに間違えられやすい蛾写真です。
などの素敵なハチドリ:タビオの写真、貴重な北米の蜂雀の写真・資料が掲載されています。
lulu 様、いろいろと貴重な情報をいただき有り難うございました。
2007/09/14のBlog
蜂雀(ホウジャク)
なんと!頭を持ち上げ体をくねらして密を飲む? 謎の多い生物だと思う。
・「ハチドリ」のように「子育て」をするわけはない。
ミツバチのように女王蜂のいる「」に「」を運んでいるのか?まさかそんなはずは・・?
♀と♂の蜂雀がいるはずだが、その違いは?
・こんなに激しく運動するので、吸った密を全部自己消費している?
・しかし密を集めると定期的にとの間を往復しているように見える。
ホバリングして蜜を吸っている間も、その後も、決して花や葉、枝に止まり休むことがない。「蝶」「蜂」「コガネムシ」・・などは、花などに触れたり止まって蜜を吸う。
・いったい何時、何処で止まるのだろうか?
・真昼と夜間は「」で休むのだろうか?
・どこかに「」を貯めているのか? その目的は?
・どれぐらいの行動半径を持っているのだろうか?
・どれぐらいの寿命があるのか? 成熟にかなり日数がかかりがたくさん必要とも思われる。
・どんな植物? どんな場所産卵するのか?
幼虫時代はどんな形の虫? その食物はなに?
などなど疑問がつきない。
」なら、「孵化」した、「幼虫」から、「脱皮」、「加齢」して、「」を作り、「さなぎ」になり、「羽化」して「雀」になり、「成熟」して、「交尾」して、「産卵」後に死ぬ・・という生命サイクルのはずだが、何故こんなに沢山の「」を集める必要があるのだろうか・・?
蜂雀(ホウジャク)
蜂雀(ホウジャク)
蜂雀(ホウジャク)
蜂雀(ホウジャク)
白い花の蜜も吸っていた。どちらかと言えば袋(ラッパ)状の花が好き