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なべちゃんの散歩道
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2006/11/08のBlog
[ 07:56 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
閉会式に集合してチ-ム成績発表、表彰の賞品をわたす。全チ-ムの参加選手に分けられるよう賞品はビ-ル、ジュ-スのボトルなど。閉会挨拶で一日の試合の講評をし世話になったスタッフへの謝意などを述べる
用意された福引き賞品を番号を読み上げ理事役員から手渡していく
テニス・グッズを貰い喜ぶ
福引き商品の贈呈
商品の贈呈後解散、まだゲ-ムを楽しむ選手もいた
2006/11/07のBlog
[ 19:43 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
綾部市テニス協会主催の「テニス祭り」対戦中の選手たちを撮りました
対戦中の選手
対戦中の選手
対戦中の選手
対戦中の選手
[ 13:25 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
テニス祭りの一日に対戦中の選手たちを撮りました
対戦中の選手
対戦中の選手
対戦中の選手
対戦中の選手
[ 07:53 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
6チ-ムの対戦毎に両チ-ムの全員が対戦挨拶に集まる。チ-ム・リ-ダ-からダブルスの組み合わせ、試合順位の紹介が行われる。組み合わせは殆どのチ-ムがチ-ム内で変更して偏らない組み合わせをしていく
対戦中の選手
対戦あいさつ
対戦中の選手
対戦中の選手
[ 07:52 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
テニス祭りに参加、対戦中の選手を撮りました
対戦中の選手
対戦中の選手
対戦中の選手
対戦中の選手
2006/11/06のBlog
[ 13:26 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
テニス祭り対戦中の選手
チ-ム内の6~7人の男女の選手でペアを組むので、男子ダブルス、ミックスダブルス、女子ダブルスのペアが出来る。W1、W2、W3の対戦順位は、ペアのランキング・ポイント合計で決まる。だから男子ダブルス・ペア対ミックスペアの対戦になることも生じる
対戦中の選手
対戦中の選手たち
対戦中の選手
対戦中の選手
[ 10:04 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
6チ-ムに分かれ対戦中の選手たち
ダブルス三対戦をして勝ち越した方に勝ち点が入る。同点の場合は勝ちゲ-ム数の順位、さらに同じ勝ちゲ-ムの場合は、対戦スコアの得失点差を見て順位が決められる
対戦中の選手
対戦中の選手
対戦中の選手
対戦中の選手
2006/11/05のBlog
[ 14:25 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
対戦中の選手
対戦中の選手
対戦中の選手
対戦中の選手
対戦中の選手
[ 14:21 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
対戦中の選手
対戦中の選手
対戦中の選手
対戦中の選手
対戦中の選手
[ 10:13 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
テニス祭りの試合風景を激写する
各人が5試合をダブルス対戦するテニス三昧の一日となった
私は多用が重なり、このところ全くの練習不足なので、適当に交代要員にとチ-ムリ-谷お願いしたが、メンバ-が丁度6人しかいず結局5試合全てに出場した。チ-ムの総合成績は3位だったのでやれやれと思っている
対戦中の選手
対戦中の選手
対戦中の選手
対戦中の選手
[ 08:18 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
綾部市テニス協会恒例の「テニス祭り」を開催した。テニス協会に加入している協会員の親睦を深め、会費納入のお礼も兼ねて始めた大会で今年で7回目になる。福知山市テニス協会主管の四都市熟年大会が突然に割り込み日程が重なったが、年当初に定めて四市テニス協会に行事日程を通報済みの当市協会行事なので、綾部市は不参加になった。
そのこともあり協会会員以外の市民にも呼びかけ多数の参加を得て盛大なテニス祭りとなった。試合は6チ-ム各7人宛のダブルス3対戦で行う総当たり戦、各人が5試合を行った。チ-ム賞品と、最後に抽選による豪華なテニス・グッズが全員に配られた。
写真:6チ-ムの代表ミ-ティング中
開会式
チ-ムごとのミ-テイング
チ-ム別ミ-テイング中
対戦一覧表をみる
2006/11/04のBlog
[ 07:34 ] [ 美術・芸術・展示館 ]
11月3日は文化の日、市民センタ-二階の体育館で開催中の文化祭を見に行った。
当市の文化祭は、綾部市文化協会加盟の団体の出展、種々なジャンルで展示され、華道各派の展示などから山水石、組み紐、ちぎり絵、老人ホ-ム、小中学生の絵画など多岐にわたる。芸術性は勿論大切だがそれと共に市民性を大切にしている文化祭である。
4時を回る頃にも大勢の参観者が会場に詰めかけてきた
四方八洲男綾部市長の描かれた絵があった。
市長も市民の一人として参加される、この様な市民性が素晴らしいと思う
テニス、ソフトボ-ル、スキ-・・などにも時間があれば、自分もやりたいとの気持ちを表明され親しみを感じる
[ 07:34 ] [ 丹波・丹後の歳時記 ]
丹波の朝霧は快晴の印、9時を過ぎてもどんよりと霞んでいて都会から来られた方は何時降るか判らない曇天と思われる。それで朝から良く晴れていると反って10時過ぎに雨になるのですよと答えると驚かれる。
丹波霧」はテニス大会の開会式には重要なポイントだ。大原神社に向け質山トンネルを抜けると霧が晴れ、暖かい晴天の日差しが照りつけた。
大原神社は七五三参りで賑わっていた。
藁葺きの絵馬堂
天照大神の岩戸開き伝説の絵馬か、沢山の絵馬が掛かっているが色が褪せ大部分の絵馬は無地に近い
大原神社正面の龍の彫り物、八津合八幡宮と同じく彫物師:柏原の中井氏の手になる
七五三参りの家族が目立つ中で、孫の宮参りをしてきた
2006/11/03のBlog
[ 19:18 ] [ あやべの文化財 ]
重い屋台を先綱で引っ張り、後押しして丘を登っていく
丘に登りついた屋台
丘から降りてくる人々
丘の上で順番待ちの屋台
屋台の下りも大変だ。このあと各町区を巡行に御輿や屋台が帰って行く
近くにある丹の国荘老人ホ-ム(うづいの)に慰問に向かう屋台の行列も見かけた
[ 14:08 ] [ あやべの文化財 ]
三社の御輿の並ぶ広場(小畑馬場)を見下ろす丘(忠魂碑前)に待機する「鉾・御旗
」を目指して「屋台」が登っていく
街道では次の屋台が大きく左右に揺られ人目を惹きつけている
丘の上に増えていく鉾・御旗・屋台の人々
次の神社の「やっこ振り」の丘登りの演技が進む
中鳥毛を回しながら高く投あげ次々に引き継いでいく
[ 08:13 ] [ あやべの文化財 ]
両手を翼のように広げ、片足立ちする「ヤッコ振り」の演出
小畑の中心地ロ-タリ-(小畑馬場)から、大勢の見物客が声援をおくる
なんと丘の斜面を登りながら仲鳥毛を回し、投げて引き継いでいく
2006/11/02のBlog
[ 19:58 ] [ あやべの文化財 ]
三之宮神社の屋台飾りの主人公は「幸せ家族の人形たち
三之宮神社屋台の後ろ幕を飾る「龍の墨絵
屋台についている村人が古いものだと説明してくれた
Q:四方續夫(綾部史談会古文書研究会)さま
小畑やっこ振り、三之宮神社の屋台に掛けられていた後ろ幕です、読んでください(添付写真参照)
文久三葵亥仲春寫 干 年七十二 (花押印)
としか読めません。宜しくお願いいたします
A:四方續夫綾部の文化財を守る会事務局長より
小畑の屋台の龍の絵に有ったものですね。之は山家藩お抱え絵師の本名「長谷川素后(はせがわそごう)が文久三(1863年)発亥(みずのとい年)仲春(ちゅうゅしゅんと云う字(あざな)描
干O(其時)Oは候(そうろうの崩し文字)年72歳でそうろう(72歳でありました。長谷川をぬいて)素后と署名してあるのです。
この人は多くの掛け軸や屏風を描いた人です。私の書いた広小路羽室家の展示では長谷川素后の軸屏風が目立つ。と書いています。200円払い、是非3回ぐらい見ると其の趣がわかります。小生今日も、史談会の後、羽室功一氏、近澤館長の案内で又、見ました。後半に壷や皿等を入れ替えられるので又見ます。
[ 16:00 ] [ あやべの文化財 ]
二之宮神社の「やっこ振り
先箱・弓・ミケシ・台傘・槍の順序に左右に分れ、その中央で中・大鳥毛各三名宛交替で、或いは高く或いは低く掛声勇ましく振り回す。俗に云うヤツコ振り)様式は三社共異なる
屋台を両側から手を掛けて大きく傾けゆさぶる
こちらの屋台の飾り物は、何と「まったけ」毎年採れた立派な「松茸」がにょきにょき活けてあるあるという
屋台の後に太鼓を据え、鉦を吊し、笛を吹く者之に続く。この笛・鉦・大鼓による古色豊かな合奏が奉納せられ、一曲終る毎に十二名の青年(四本柱と言う)が笛や太鼓に合せて祇園噺を歌い、屋台は前進する。
三之宮神社の「やっこ振り
三社とも演出の趣向や年齢層など違って面白い
[ 08:06 ] [ あやべの文化財 ]
先箱・神弓・ミケシ立傘・台傘・槍を両側に配し、その中に大・中鳥毛を打振って供し、次に屋台が後に太鼓・鉦・笛等十数名の若者を従えて続く
写真:やっこふり
三社の屋台が並ぶ。一之宮神社から「奴振り」を披露
屋台を左右から揺さぶり傾ける、壊れないのか心配する
先箱・神弓・ミケシ立傘・台傘・槍を両側に配し、その中に大・中鳥毛を打振って供し・・
屋台の飾りは「野菜で作った狩猟風景」
サツマイモの馬に乗った騎馬武者、手足は莢豆などで出来ている。狩られる獣たちもジャガイモ、ニンジン・・・で作られている。
2006/11/01のBlog
[ 21:58 ] [ あやべの文化財 ]
小畑祭こども太鼓。太鼓も笛もしっかり揃っている。我が子の晴れ姿をカメラにおさめるお母さんもいる
子供たちの元気がすばらしい。皆行儀が良い
小さな子供も頑張って叩いている
記念写真を撮っている神社グル-プもある
突如「ヤッコ振り」の中鳥毛を二本両肩に載せた若者が走るパフォ-マンス
[ 21:17 ] [ あやべの文化財 ]
小畑のこども太鼓
あやべ太鼓など当市の各地に子供太鼓が盛んになっているが、この小畑太鼓のリズムもまた一味異なる。地元の方が是非後世に残すようしっかり子供達に引き継ぎたいと言っておられる
行列になって次々太鼓を叩いていく。側面でも太鼓を打っている
こども太鼓
三社の子供太鼓が3列になって太鼓をたたく。みな一生懸命で上手に叩いている
中学生達は笛を吹いてもり立てている
[ 17:48 ] [ あやべの文化財 ]
神輿や子供太鼓の広場を見下ろす小高い丘(忠魂碑)に、祭列で運ばれてきた矛・御旗が立てられる
若者に担がれ屋台が到着
一之宮、二之宮、三之宮の三社の御輿が勢揃い
祭壇が設けられ献餞が並べられる
三神社の総代などが一列に並ぶ前で宮司のお祓い、祝詞が行われる
[ 08:29 ] [ あやべの文化財 ]
小畑の馬場まで一之宮神社三之宮神社の御輿を中心に祭列巡行
その行列を「シグルマ」と称し、神木・金弊・木鉾・御旗を持ち、20~40名の壮者が袴の股立をとり、鉢巻を締め、白張に身を固めて神輿を担ぎ、獅子・鉾などが前後して続く
二連の御輿の前後に正装した行列、子供たちが続く
ヤッコ振りの会場に到着
小畑の馬場広場に御輿が入る
北にある二之宮神社の御輿も到着
2006/10/31のBlog
[ 20:07 ] [ あやべの文化財 ]
小畑一之宮神社本殿前の御輿。これから「小畑三社祭り」出動の待機中
集まってこられた氏子のみなさん
長い石段は危険なのか、本殿のよこの坂道から御輿の出発
小西町の三之宮神社から出た御輿祭列の一行と合流
一之宮神社、三之宮神社の祭列が続く
[ 17:25 ] [ あやべの文化財 ]
小畑六左衛門翁之碑「ポイの餅」
ある日報恩寺(ほうじ)の嫁の里へ行った時「ぼたもち」をごちそうになった。六左衛門はあまりにおいしかったので家でも作ってもらおうと思って「この食べものは何か」と尋ねると「ぼたもちや」と教えてもろうた。
忘れんように帰ろうと思って「ぼたもちぼたもち」ととなえながら帰ったそうな。途中で川があったので「ぽい」ととんでわたった。そのひょうしに忘れてしもうた六左衛門「はてな?」ああそうそう「ポイのもちだったわい」と思い出し「ポイのもち~~」と家に帰りついた。
嫁さんに「ポイのもち作れ」と大声でいった。嫁さんは何のことかさっぱりわかりません。仕方なく「ポイのもちは作れんが、ぼたもちならできる」と「ぼたもち」をさし出すと、六左衛門は「そうだこのもちだ」といって大きな口をあけてパクパク食ったそうな
あやべ里山ねっと
小畑のヤッコ振り」は元小畑小学校の付近で12時半頃にと聞き、下調査に元豊里西小学校であるここ「あやべ里山ねっと」事務局に尋ねに入った。元小畑村小学校とは当所のことであった。このHPにあるように里山交流研修センタ-として、さまざまな活動を展開する拠点になっている。
現在ホ-ムセンタ-「ケ-ヨ-」の創設者である永井幸喜氏(地元出身者・綾部名誉市民)の寄贈された永井基金(永井賞)を引き継ぎ、農村と都市の交流事業を担う拠点施設「永井山荘」が間もなく完成とのことである
とよさとにし つばさがはえるちず
京都府綾部市豊里西地区-小畑町・鍛冶屋町・小西町-
(八塚ケ谷の景色)
里山ねっとでいただいた散策マップです「ようこそ、そらいろの大地へ
このマップ栞にも次の小畑六左衛門民話が集録されていました
くすくすくす
 小畑の六左衛門さんが買い物やお土産をいっぱい持って、町から帰る途中、日が暮れてきたので宿屋に泊まることにしました。欲張りの宿屋の女将さんは、あの荷物を置いていってくれないかなぁと思いました。「それには食べるとぼけて物忘れをするという、みょうがを食わせるに限る!」もっと欲張りの宿屋の主が言いました。
女将さんは早速裏の畑から取ってきた、みょうがを、お汁やおかず、そしてご飯の中にまでもたくさん入れ、六左衛門さんに食べさせました。すっかりのぼせて、さっさと床についた六左衛門さん。次の日「早く買い物やお土産を届けなければ」と慌てて宿を飛び出してゆきました。それを見た女将さんは荷物を忘れていったに違いないと部屋を探しに探しましたが何一つ残っていません。
 そんなはずはないがなぁと考えていた主がやがて思い出したように言いました。「忘れた忘れた大変なものを忘れた。夕べの宿賃もらうの忘れた。」宿屋の夫婦もみょうがをたくさん食べていたのです!六左衛門さんのほうは荷物こそは忘れなかったけれど、宿賃を払うのを忘れてしまっていたのでした。
1587年(天正15年)おっちょこちょいで争いごとでもユーモアに変える力を持った小畑六左衛門さんは、この豊里地区に生まれました。笑うことによって幸せな空気が創られることを知っていた六左衛門さん。その数々のお話、生き生きした景色は、時代を超えて私たちまでも幸せにしてくれるのです。
[ 07:58 ] [ あやべの文化財 ]
小畑祭 小畑村史は作られていないようで「豊里村史」から集録した
 小畑祭は、古来郡内でも有名な祭であって、その賑かさは、近郊の祭礼中、最も人出の多いのは吉美高倉神社の祭 最も盛大なのは小畑の馬場といわれている。
 毎年旧9月16日が祭日である。馬場は鍛冶屋、幅三間・長さ一町半許り。15日の夜は、宵宮といって、各々氏神前で祭礼を行い、翌16日は、鍛治屋小西の三部落より、神輿四社・屋台三社、その他鉾2つ以上、獅子各々1宛の渡御がある。
 当日は正午を期して、各部落共氏神境内に参集し、勢揃いして馬場に向う。その行列を「シグルマ」と称し、神木・金弊・木鉾・御旗を持ち、20~40名の壮者が袴の股立をとり、鉢巻を締め、白張に身を固めて神輿を担ぎ、獅子・鉾などが前後して続く。次に祭礼組(屋台の練り込みを行う仲間)は、先箱・神弓・ミケシ立傘・台傘・槍を両側に配し、その中に大・中鳥毛を打振って供し、次に屋台が後に太鼓・鉦・笛等十数名の若者を従えて続く。これは徳川時代の大名の参観交替を擬した行列であり、神輿が全部揃うと見物の所謂練り込みが始まる。全員宮の定紋付き平袖の襦袢を着用し。脚絆・草鞋がけの姿も凛々しく、夫々の所礼を奉納する。即ち、先箱・弓・ミケシ・台傘・槍の順序に左右に分れ、その中央で中・大鳥毛各三名宛交替で、或いは高く或いは低く掛声勇ましく振り回す。俗に云うヤツコ振り)様式は三社共異なる。これに続いて屋台を引出す。屋台の後に太鼓を据え、鉦を吊し、笛を吹く者之に続く。この笛・鉦・大鼓による古色豊かな合奏が奉納せられ、一曲終る毎に十二名の青年(四本柱と言う)が笛や太鼓に合せて祇園噺を歌い、屋台は前進する。
 この練り込みが終ると、以前は三頭の神馬が競馬を行うこと三回を以て全祭礼が終了するのであった。(現在競馬は中止)そして神輿の還御・屋台は合奏しながら夫々の宮に帰る。
なお、子供の祭太鼓も有名である。これも亦練り込み太鼓とも云われ、三社各様式を異にするが、祭礼の華である。
 祭礼の起原については詳でない。
 赤国神社・沢神社・大川神社・大嶋神社合同の三宅天神馬場での祭礼も賑かである。小畑祭と大同小異。毎年十月九日が例祭日。

白髭神社
 所在 豊里村字中小字別所
 祭神 仲哀天皇、神功皇后、武内宿弥
 縁起 ロ碑によると。本社はもと本村北隅の宮ケ嶽頂上に鎮座、船並に火防の守護神として崇敬せられた。後年、参詣不便の為現在の山麓に遷座した。祭神の武内宿弥とは、明治十六年四月社寺取調の際からか、古くは猿田彦之命と伝えている。(明治十七半社寺明細帳) 宮ケ嶽の地名、天狗の止り松の老木はこれ等に関係があろう。
現在の社殿は、文政二乙卯年四月の改造、境内に梵字を記した塔身あり。
 境内小社
 ・八坂神社 祭神 素戔嗚尊 由緒不詳 文政二年本社再建の時創祭と記録あり。
 ・愛宕神社 祭神 火産霊神 由緒等仝豹
 ・山の神 もと原貝より現地に勧請
 祭礼
 古くは10月15日。作田の高稲場で、後松原の白ひげ馬場で行う。現在は10月16日。

武大神社
 所在 豊里村字中小字五反
 祭神 素戔嗚尊
 由緒 不詳 寛政11年再建と伝う。境内に大杉あり、周囲5米30

二の宮神社
 所在 豊里村字中小字正名
 祭神 速玉男之神、伊邪諾神、事解男之神
 由緒 一名熊野神社、創立年月不詳、口碑に貞観二年創立、寛文十三丑年紀伊国本宮より熊野神社を勧請し祭祀すと。御神体は、聖観音。
 祭礼 例祭は10月16日、武大神と共に行う、武大神には神輿なく御鉾あり、二宮には御鉾なく神輿あり。祭礼音頭は、京都三十三間堂の棟上音頭という。
 鳥居 本社は両部鳥居という。真言宗・天台宗に関係ある神社に用いると。
 末社
・蛭子神社 祭神 蛭子犬神 創立天明五巳年
・大社神社 祭神 大国主命 創立 仝
・八幡宮社 祭神 譽田別天皇 仝
・若宮神社 祭神 稚郎子皇子 仝 ・大川御社 祭御 由緒不詳

境外社
・八幡神社 所在 字中小字作田、祭御 忘紳天皇
・稲荷紳社 所在 字中小字原貝、祭紳 倉稲魂神 創立 文久二半正月三十日
 (資料として、稲荷本宮羽倉伯耆守内神役人の証二通あり。)

一の宮御社
 所庇 豊里村字鍛冶屋小宇佐陀 、。
 祭紳 伊那那岐神、速玉男之紳、事解男之神
 由緒 創立年月不詳、口碑によれば、貞観二庚辰年造営、又寛文十三癸丑年(延宝元年の棟札ありと。なお当社は元延喜式内佐陀神社たりしも、中古紀伊国熊野紳社を勧請合祀し、社号を一の宮神社と改称すと。
 資料 元禄十三年社堂改帳に「一の宮天明紳、右者熊野三社之内本宮権現のながれと申し伝候、然共何にてもゑんぎは無御座候」とあり、叉、元文五庚年申四月仏誕生会の丹波何鹿郡小畑庄鍛冶屋村神記に、当社並に二の宮・三の宮祭祀の記事あり。
延喜武内佐田神社に決定請願の文書あり。
 宝物 経筒瓶及び経筒あり。大正七年拝殿改築の際発掘
 神像二休 不鮮明で虫食なるも古雅な衣冠姿の像
境外社
・空山神社 所在 字鍛冶屋小字空山八番地 祭神 弥都波能売神 縁起 不詳
・秋葉神社 所在 字鍛治屋小字空山七番地 祭神 迦具土神 縁起 不詳
・三宝荒神(元禄十三年文書)村中に有り、奥津比古神社とも称す。
・大田神社 祭神は倉稲魂神 もと一の宮境内にあつたが大正15年4月移転して現在荒神の上
三の宮神社
 所在 豊里村字小西小字中山
 祭神 事解男之神、伊弉諾神、速玉男之神
 由緒 口碑に云う「往古は同村小西小字古宮に鎮座ありしが、何れの時代にか現在の地に移遷せり」と。叉、元禄十三年社堂改帳によれば、「此神社者昔小畑庄に熊野表三山奉遷三社其一座と申伝候」とあり。再建貞享三年、改修昭和三年。
末社
・稲荷神社 所在 字小西小字宮ノ前 祭神 倉稲魂神 由緒 創立不詳、享和三年再建
・八坂神社 所在 字小西小字荒神下、祭神 健速須佐之男命 由緒 不詳 俗称小西神社又祇園神社
・秋葉神社 所在 字小西小字宮の前、祭神 迦具土紳
・大川神社 所在 三の宮境内、祭神 風火金氷土神 由緒 不詳、口碑には往古山頂に祀る後、森ケ下に奉遷、天明二年社殿再建、明治六年現地に移遷とあり。

八幡宮社
 所在 豊里村字今田小字長源名
 祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、仁徳天皇、武内宿弥
 由緒 不詳。本社は惣持院の鎮守、小西、今田立合の宮、往古は結構の宮なりしも、今は大破して昔日の面影を止めずと。
 資料 元禄十三年社堂改帳に曰く、「八幡宮、普明山如意輪観音鎮守也。(中略)右神社は小西村今田村立合の宮にて、則境内も面村入組に候」と
 伝説口碑 昔、本社に左甚五郎の作と伝える蝉錠あり。時ならぬ季節に蝉の鳴声を発す。人々不思議がり稀代の奇宝として珍重せしが、慶長三年九月。福知山城主小野木縫殿介、丹後国田辺城主(現舞鶴)細川幽斎を攻めんとして出陣の
2006/10/30のBlog
[ 15:27 ] [ あやべの文化財 ]
旧村部で一番賑やかな祭りと聞く「小畑のヤッコ振り」の資料を求めて綾部市図書館へ行った2冊の小冊子があった。
昭和52年3月発刊「ふるさち綾部の祭り」観光協会
一の宮神社(鍛冶屋町):祭りは10月10日、以前には有名な小畑祭の中心のお宮として盛大なお祭り行事が行われていたが、現在は神前に神輿をまつるだけになっている。
小畑祭は神輿、屋台の行列に大名行列、ヤッコ振り等その盛大さはまことに立派なものであったが、今全くそれが中止されていることは残念である。しかし道具や衣装などは大切に保存されているので、いつの日にかそれが復活されればうれしいことである。2冊とも同じように「ヤッコ振り」断絶を記録している内容であった
2000.3発行で現在、綾部観光案内所で配布の「ふるさと・あやべのまつり:綾部市観光協会」にも歳時記一覧表などに「小畑祭り:小畑ヤッコ振り」の記事がない
実際は昭和46年9月発刊の「丹の国・綾部:綾部青年会議所編」に写真家の撮られた「小畑のヤッコ振り」が掲載されているので、随分早くから復活していたことを地元の人から確認できた。
写真説明:小畑のやっこ振り
古来当地方で有名な祭りである。そのにぎやかさは、近郊の祭礼中、最も人出の多いのは、吉美高倉神社の祭、最も盛んなのは小畑の馬場といわれた
[ 13:45 ] [ あやべの文化財 ]
四方續夫事務局長より、投稿の某八幡宮の祭神について、応仁天皇とあるのは誤字で八幡大菩薩応神天皇、母:神功皇后であるとの指摘があった。
歴代天皇について文庫本「歴代天皇事典:高森明勅著:PHP文庫が出版されたので紹介する。なお綾部(漢部)に関係の深い漢氏(あやし)、秦氏(はたし)の来歴についても記述があり、応神天皇の項を引用する。
第十五代 応神天皇
御名・異名:譽田別尊(ほむたわけのみこと)生没年:?(?~394?)(?歳)、在位:41年?、父:仲哀天皇、母:気長足姫尊(神功皇后)、皇后:仲姫命(五百城入彦皇子の孫)
 仲哀天皇の死後、皇太后(神功皇后)が朝鮮に出兵し、新羅を服属させた。そして、筑紫に帰り、皇子を産んだ。こうして誕生したのが譽田別尊だが、出産のとき、この皇子の腕には肉が盛り上がっていた。それが、皇太后が雄々しく男装して鞆(ほむた:弓の弦が左臂に当たるのを防ぐためにつける革製の道具)をつけたのに似ていた。そこで、それをたたえて譽田天皇といった。
 譽田別尊は幼いときから聡明で、ものごとを深く遠くまで見通した。立ち居振舞いにも不思議と聖帝のきざしがあったという。三歳で皇太子となり、摂政として政事を行っていた皇太后が崩御すると、即位した(応神天皇)。
 応神天皇は四世紀後半から五世紀前半にかけて活躍したと考えられる天皇で、皇太后のあとを受けて、積極的な外交を行った。高句麗、百済、新羅から入貢があり、それに伴いたくさんの文化や技術も伝えられた。たとえば、応神十六年に百済から王仁が来朝し、皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらっこ)に諸々の典籍を教えた。この王仁の来朝により、日本に儒学が伝来されたといわれている。
 かっては、文字が日本に伝わったのも王仁の来朝によるものといわれてきたが、文字の伝来はずっと古く、一世紀には入っていたと考えられる。
 技術についても、応神20年に漢人の阿知使主(あちのおみ)が大勢の人々を率いて日本に渡来し、漢氏(あやし)となって大陸の新技術を伝えた。
 また、秦の始皇帝の子孫という秦氏が日本に渡来したのも天皇の時代といわれ、秦氏は各地に分散して養蚕、機織の技術を広めた。こうして日本は、政治、外交だけでなく、文化や学問においても国家としてより一層発展していった。
 応神二十二年、天皇が難波の大隅宮で高台に登って遠くを眺めていると、妃の兄緩(えひめ)が大いに歎いた。そこで天皇が理由を問くと、「父母が恋しく悲しくなったのです」と答え、「しばらく親元へ帰して欲しい」と願った。すると天皇は、兄緩か何年も両親と会っていないのを思い、ただちに願いを聞いたという。
 天皇は『古事記』によると百三十歳(『日本書紀』では百十歳)で崩御した。応神天皇陵といわれる誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(大阪府羽曳野市)は、国内第二位の大規模な古墳として知られている。
[ 06:50 ] [ 平和 世界連邦 ]
あやべ太鼓の熱演
あやべ太鼓の熱演
ミッシェル・フローさん プロフィール
出身 フランス
経歴 アーティストの登竜門として有名な「ラ・コンテレスカープ」、「ル・ラバンアジル」などで活躍。
 映画ではジルベール・ペコー、イブモンタンなどと共演。
 ベルギー国際音楽祭シンガーソングライター部門で優勝。
 31歳の時、パリで日本人に出会ったのがきっかけで来日。コマーシャルソングやシャンソン教室など各音楽方面で活躍。フランス語教授としての肩書きも持つ。
現在 阪急インターナショナルホテル、ホテルグランビィアや京都ブライトンホテルなどで、ディナーショーを行う。日本に帰化し、綾部市民として週末は五泉町で暮らす、自然と人を心から愛する人である。
ミッシェル・フローさん 『シャンソン ミニコンサート』
曲目
「パリの空の下」「ミスタ-・サマ-タイム」「トワ・モナミ」「アブラハムの思い出」「愛しのエリン」
ミッシェル・フローさん 『シャンソン ミニコンサート』
曲目:
「愛のよろこび」「ラ・メ-ル」「愛の賛歌」「枯葉」
[ 06:50 ] [ 平和 世界連邦 ]
催しとして国際色を演出するイベントがいくつか用意された
タイ舞踊
出演:シリンティップさん
シリンティップさんに花束の送呈
中国の歌
出演:黄蒙蒙さん、郝磊磊さん、王新宁さん、李国(凡?)さん、安達正義さん
あやべ太鼓子ども会
子供たちに司会者がインタビュ-
あやべ太鼓の演奏