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なべちゃんの散歩道
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2006/10/29のBlog
[ 10:33 ] [ 平和 世界連邦 ]
綾部世界連邦運動協会長賞
ポスタ-の部:「戦争を見つめて」:綾部小学校6年Tさん
作文の部:「世界連邦宣言」:東綾中学校1年Uさん
佳作
ポスタ-の部:
NO WAR!」:綾部小学校6年Iさん
世界平和」:綾部小学校6年Uさん
One World」:八田中学校1年Aさん
地球の笑顔のひとピ-ス」:八田中学校3年Sさん
世界平和 みんなで願いたい世界の平和」:八田中学校3年Tさん
佳作
作文の部:
「 」:物部小学校3年Sさん
 のために」:東八田小学校6年Sさん
世界の平和}:豊里中学校2年Iさん
戦争」:豊里中学校3年Aさん
つながる世界」:豊里中学校3年Sさん
市長賞作文朗読
戦争をなくすために
八田中学校3年Wさん
市長賞作文
戦争をなくすために
八田中学校3年Wさん
[ 07:11 ] [ 平和 世界連邦 ]
綾部市議会議長表彰
ポスタ-の部:「平和への願い
八田中学校3年Sさん
議長表彰
平和への願い」:八田中学校3年Sさん
司会者インタビュ-
市議会議長賞:
ポスタ-の部:「平和への願い」:八田中学校3年Sさん
作文の部:{平和とは」:八田中学校3年Sさん
教育長賞
ポスタ-の部:「世界平和~地球の願い・みんなの願い~」:綾部小学校6年Kさん
作文の部:「とどけ歌声」:物部小学校3年Kさん
綾部市市民憲章推進協議会会長賞
ポスタ-の部:「世界はひとつ」:八田中学校2年Oさん
作文の部:「車のリサイクル」:物部小学校3年Kさん
[ 07:10 ] [ 平和 世界連邦 ]
綾部市議会議長:川北 淳氏の開会挨拶
市長表彰
あなたも地球のいピ-ス
市長賞、ポスタ-の部:八田中学校3年Oさん
作文の部、市長賞「戦争をなくすために
八田中学校3年Wさん
市長賞受賞の二人に司会者がインタビュ-
2006/10/28のBlog
[ 17:06 ] [ 平和 世界連邦 ]
世界連邦ポスタ-・作文コンク-ルの表彰式のあとで行われる、イベントの出演者たちも歓談中
国際ポランティアの外国人の方々が飲み物の接待サ-ビスを務めている。マンゴ・ジュ-スを貰って飲んだ
国際交流会の活動を紹介する手作りの壁新聞
ユニセフ綾部支部の活動も活発。そろいの青いユニフォ-ムを着て来場者と交流中。
ペピ-・コンサ-ト in 綾部」のチケットを買わせていただいた。
ユニセフで大きくなったよ
[ 11:23 ] [ 平和 世界連邦 ]
戦後間もない昭和25年10月14日に綾部市議会において、我が国はじめての「世界連邦都市宣言」が行われた。それを記念して「平和と環境の日」と定めて、さまざまな市民行事が開催されている。
今回は「地球市民の集い」~人として地球市民として国境を越え、世界の恒久平和を築くために~の取り組みを取材紹介する。
第15回世界連邦推進綾部市小・中学校ポスタ-・作文コンク-ルの作文展示を読む参会者
ドリンク・休憩コ-ナ-が設けられ、開演までの一時、話が弾む会場
表彰を受ける小中学生も家族や友達と一緒に
周辺の壁に入省したポスタ-、作文が張り出されている
綾部市の平和と環境の日に開催された、地球市民の集い、世界平和と環境 作文・ポスタ-コンク-ル表彰式の会場で、ユニセフあやべ支部の会員の皆様からいただいたチラシです。
11月11日(土)午後7時開演、綾部市市民センタ-、大人1000円、子供500円
チケット代金の収益はすべてカンボジアに送り、ペピ-・プロジェクトのために使います。
PEPY(ペピ-)=地球を守り、自分自身を守るは、カンボジアの教育活動の援助を行っている非営利な団体です。活動にはペピ-・スク-ルの建設とその維持、遠くの中学校へ通学する手段のない小学6年生への自転車の支給、何千人もの生徒達に対する健康や環境に関する授業などが含まれます。
スペッシャル・イベント ペピ-コンサ-ト
素晴らしい太鼓や踊り、綾部高等学校AETのTom をはじめ、京都府英語指導助手による演奏など、みんなで楽しい夜を過ごしましょう。みなさんの参加を待っています!
2006/10/27のBlog
[ 15:36 ] [ 平和 世界連邦 ]
我が国で第1号の「世界連邦平和都市宣言」を採択した昭和25年10月14日の「綾部市議会」再現シ-ン
世界連邦都市宣言を記念して建てられた「平和塔」の前で,
元教師(和男が成人した定年の姿)と激しく対立する地元出身の平和ゼミ受講の学生
特攻機出撃の準備をする主役の特攻隊員(和男の父)
日本の平和と家族の幸せへの想いを胸に秘めて、いよいよ体当たりの特攻に出撃
父の戦死を知らず、母に抱かれすくすく育つ和男
[ 15:28 ] [ 平和 世界連邦 ]
補助席を含め中丹文化会館を満席にする熱狂の内に上映会が開催され、市民の大声援を受けた。NHKの取材放送があり全国にも報道され、綾部市の世界連邦都市宣言第一号都市としての世界恒久平和推進への大きな一歩となった。

愛の前に立ちはだかるものは・・・【ものがたり】
二つの物語が並行して流れていきます。
一つの物語は、第二次戦時中の日本。その時代の一組の夫婦、手紙のやり取りで始まります。
夫は特攻隊員、妻は生まれたばかりの乳飲み子を育てています。
特攻に出撃するまでの間に夫から残していく妻や子どもに込めた思い、死に行く夫に捧げる妻の愛をつぶさに紹介し、半世紀前の日本人の平和への悲痛な叫びを表現しています。
もうーつの物語は、綾部へ平和学習に訪れた学生達と戦争で父を亡くした元中学校教師の出会いで始まり、学生と初老の元教師は激しく対立します。 しかし、元教師の生い立ちや体験を知るに至り、現代の学生達も次第に心を開き、「平和」の意味を感じ取って行きます。この学生達の心の変化を特攻隊員と妻の手紙と並行させながら展開させています。
平和は、一人の力では決して勝ち取ることはできませんが、一人ひとりの意志が無ければ達成することもまたできません。
 多くの人々の平和への願いを結集することを目的に上映する「塔のある街」。ぜひ、ご鑑賞ください!
綾部市市民憲章にある「1.平和を願い祈りのある街にしよう」について、前年の市民手作りの演劇による取り組みに続いて映画DVDでの取り組みについて語る平野正明綾部市市民憲章推進協議会会長
司会の今村博樹製作委員会副委員長(映画で世界連邦都市宣言制定当時の綾部市議会議長役をつとめる)
万感の思いを込めて映画の完成の喜びと感激を語る林田順一:塔のある街製作委員会委員長とキャスト・スタッフ一同
ステ-ジに並び拍手を受ける出演者とスタッフ一同 (以下敬称略)
キャスト
特攻隊員:出口啓文、その妻:北原博美、白波瀬:今川信吾、田 中:斎藤順次、大 槻:白猪加奈子、元教師:木下和美
塔のある街製作委員会
平野正明(顧問)、林田順一(委員長)、今村博樹(副委員長)、荒井良博、羽室 了、塩見聡之、白波瀬清孝、荻野浩志、土田哲生、永井 晃、武田 誠、岸見第右、山口豊和、塩見麻理子、後藤裕美、四方秀一、東 勝史
綾部高等学校同窓会館で表記の会合が行われた。
高倉信正綾部高等学校同窓会長あいさつ
桑波功一郎綾部高等学校校長から綾部高等学校の様子についてお話し
左:桑波功一郎学校長
中:吉田龍一副校長(教頭)
左:綾部高等学校東分校教頭
同窓会新聞の発行について、「独立採算方式による同窓会報発行」の提案説明をされる(株)サラト社員
ピアノ・リサイタルについて
両議案とも熱心な意見交換が行われ原案通り決定されました。
[ 10:14 ] [ 魚釣り ]
今日の釣り行楽一日の成果:アジが21匹
グレ(メジナの子)、キュウセン(ベラの仲間)、ウマヅラハギ(カワハギの仲間):合計19匹
ふじもと様から「グレ」について、「石鯛の子」としたのは誤りでは?、石鯛の子は小さくてもしっかり分かる白黒の縦縞がある。「ツカヤの子」ではとのご指摘をいただきました。
グレ」について検索で調べると「メジナ:スズキ目メジナ科」と出ました、「グレ」は西日本の呼び名で沿岸で良く釣れる魚とのことです。
また福井県嶺南地方の地方名として「グレ・ツカエ・ツカヤ(嶺南)」と呼ぶようです
友人から「グレの子」と聞き覚えましたが、実際は、縞のない少し青みのかかる黒い魚、黒っぽいかなり縦縞のある魚(これが大多数)、今回は釣れませんでしたが明らかに「石鯛の子」とわかる魚、桜色の鯛のような魚(こちらも数種類ある)が混じって釣れます
マアジ(アジ科)日本各地沿岸の沖合の中水層に住む。
小アジは岸壁からも釣れます。群れをなして回遊しているようです
石鯛(イシダイ科)日本各地の岩礁域に住む
キュウセン(ベラ科):日本各地の内湾の岩礁域や砂地に住みます。
ベラと呼んでいましたがオスとメスで色が違うのですね。良くグレ、カワハギなどと一緒に群がって見えます
2006/10/26のBlog
[ 11:24 ] [ 魚釣り ]
夕日が射して海が金色に輝く。釣り行楽日もこれで終わりだ
岸壁で夕日を浴びて釣りを楽しむ
突堤にはまだ釣り人の家族がいる
沖合を漁船が通る
半島先端の手前にある突堤。何時もはここまで行って釣る
[ 10:54 ] [ 魚釣り ]
宮津漁港での釣りは全く魚の気配がなく空振りに終わった。再び移動することになり宮津湾沿いに車を走らせ、海洋センタ-前を通り、栗田半島先端の田井に行く。
海岸道路はここで行き止まりになり、山を登る峠を越すと最初に行った栗田湾の発電所(魚っち館)に出られる。
サビキ籠にオキアミを入れ海に投げると、たちまち引きがあり、少し大きいグレ(石鯛の子)が釣れた。あわてて車に置いたク-ラ-を取りに戻る。友人のク-ラ-も運び釣りに専念した。サビキの餌かごにオキアミを入れ海に投げると、魚がわっと集まってきて騒ぐが、針に食いつかず魚体に引っかかり釣れる。
思いついて針に付け餌(蒸した小エビ)をしてみた。今度は針に食いついて良く釣れる。グレ、ベラ、カワハギ、アジが22匹の成果だった。
宮津つり場でも針に付け餌をすれば、もっと良かったのにと後の反省である
対岸にリゾ-ト・マンションが立ち並んでいる
栗田半島の先端、道は付いていない
漁村が並ぶ海岸、夕日を浴びている
宮津方面の海岸、橋立ホテルが見える
2006/10/25のBlog
[ 18:10 ] [ 魚釣り ]
宮津つり場から近いところというので、宮津湾の漁港に移動した。橋立ホテルの水上交通のマリ-ナが止めてある
釣り人もちらほら見かける。竿を出して釣りにかかったが全く魚の気配がなく、また移動することにした
対岸の砂利集積所付近
行幸にもやってある漁船、この付近で竿を出した
突堤
[ 18:09 ] [ 魚釣り ]
波のしぶきが上がり赤い岩に砕け散る
テトラポッドに強風の波が散っている
釣り場の周辺の景色も素晴らしい
近くに魚っ知館(うぉっちかん)の一画が見える
釣り場の料金所、トイレもある。戸口に大物を釣り上げた子供達の写真がベタベタ張り出してあった。2時前に場所替えのため移動した。ここでの釣り果はアジ18匹、他の魚は全く釣れなかった
[ 07:17 ] [ 魚釣り ]
陸地とつながる陸橋の上にも釣り人が並ぶ。網鉄板のデッキの中央通路には、ゴムが敷かれ雨天でも足が滑らないようになっている
海面まで高いのでバケツで水が汲めない。しかし水道施設が設けられていて水が得られる。掃除の人も巡回して数人でゴミを集め清潔な釣り場になっている
風が少しは治まったが釣れなくなった。
昼寝をしている人もいる。デッキ・チェアも良いなと思う
ゴムボ-トの釣り人も見かけた
2006/10/24のBlog
[ 21:17 ] [ 魚釣り ]
友人は餌を買った釣具屋で情報を聞き、チヌ釣りの仕掛けを準備して、サビキ釣りと竿を二本出しいる。一人で竿を三本まで使える規則のようだ。投げ釣りや撒き餌は禁止である。しかし2時前まで見ていたが潮の加減が悪い日だったのか、一人も大物を釣り上げていなかった。アオリイカの仕掛けの人も駄目だったようである。
足場がしっかりしているが、こんな端まで行くと目が回りそうだ
中央部は釣っている人が多く賑やかだ
私たちは釣り場の内側で釣った
対岸の山が見えて景色が良く気分爽快
[ 08:24 ] [ 魚釣り ]
いきなり強い引きがづしりときた。そろそろとリ-ルを巻き上げる。大物だ!。水中に白いものが光る。友人に「網、網、あみを出して」と言う。とたんに白く光る魚体が見え、プツンと糸が切れ、逃げられてしまった。大きかった!
サビキ針の7号では所詮無理かも、針が分かれる枝糸の付け根から綺麗に切られていた。以前、この針でもボラの大物が釣れ網で上げることもある。今回は竿の選択を誤り釣り場と云うことで穂先のかなり太い竿、リ-ルも手入れ不足で今一ギクシャクしたものだった。やはりしっかりした準備が必要。例え釣り上げられなくてももう少し魚体の大きさなど確認できるまで楽しめたと思う。
釣り場から並んで釣る
子供の世話をしながら釣る。子供の方が沢山釣っているようだ
広い釣り場なのでゆっくり釣れる
サビキ釣りが多いが、浮子をつけて釣る人やアオリイカの仕掛けで釣っている人もいる
2006/10/23のBlog
[ 19:26 ] [ 魚釣り ]
久しぶりに所用のない(会合一つ欠席)土曜日、友人と「宮津海洋つり場」に行った。7時に出発して由良SPAで弁当を買い、栗田半島付け根の釣り具屋で餌を買う。宮津発電所構内に入ってしまった。道を聞き引き返すが判らず、結局道路中央に通行止めの立て札のある道がそうだった。(帰りには移動してあった)
宮津市にできた、手軽にチヌ釣りを楽しむことができる公共の海釣り場。40メートル四方の釣り桟橋は、同時に150人が釣りをできる大きさ。チヌ(黒鯛)、メバルなどの岩場の底物から、キスやアジ、イカ、カワハギも狙える。釣具や釣りエサのレンタルもあり、足場も良いので、準備なしの軽装で手軽に本格的な海釣りを楽しめるのが特徴である。お子さんに初めて海釣りを教えるには、特にお薦めのポイントです。釣り場の一番先端は、岸から120mの距離にもなります
たくさんの釣り人がいる
風が強く鉄工構造なのに揺れを感じる。足下の簀の子の鉄板から吹き上げる風もきつい。
天気が良いので暖かいが、下半身は冷え込む
アジがぼつぼつ連れる。水面までかなりあり、更に水深も深い
2006/10/22のBlog
綾部市資料館第14回特別展示
会期:平成18年10月28日(土)~11月26日(日) 展観料200円(中学生以下は無料)
羽室家収蔵品と綾部の文化
 綾部藩綾部組大庄屋であった羽室家は、綾部一の豪商として藩財政を支え、近代においても綾部の経済界の一翼を担ってきた名家です。その羽室本家を今に引き継ぐ広小路羽室家の蔵に収蔵されてきた資料は、各種道具類・軸物・屏風・古文書など数千点にもなり、これらはまさに綾部の近世~近代の町の歩みを物語るものです。今回、羽室家のご協力を得て、初めて蔵の封印が解かれ、綾部市資料館で展示公開されることとなりました。
羽室家展」について
綾部資料館に広小路・羽室家の収蔵品一括寄贈
 広小路・羽室家は、元禄5年(1692)広小路の現在地に屋敷を構えて以来、三百有余年の歴史を経て今日に至っています。
 今度び「広小路・羽室家展」の展示品は、昨年(平成↓7年の春から夏にかけ)、綾部資料館に広小路・羽室家の「蔵の収蔵品を一括寄贈」いたしました。
 収蔵品は、各道具類・掛軸・屏風・古文書などであり、郷土・綾部の研究に、役たてばという願いから、私(羽室功一)の一存で決定し寄贈いたしました。
 江戸時代から明治時代に至る「古文書」類は、今後の郷土・綾部の歴史が郷土史家により、いっそう深く解明されます事と思われます。
 亦「各道具類・掛軸・屏風」などは、「丹波之国・綾部藩」「広小路・羽室家」の解説文を、ご覧いただければ幸いです。
 <期間中「展示品」は、数回に亘り入替えがあります。>
「広小路・羽室家展」の展示期間は、下記の通りです。
 平成18年10月28日(土)~11月26日(日)
 この機会をお見逃しなく、是非ご覧ください。
 綾部・広小路・羽室家 第十一代当主 羽室功一
丹波の国・綾部藩(解説)
 江戸時代、丹波の国・綾部藩(藩主・九鬼氏)は、外様二萬石の極小藩であった。藩士の数は約200人で、その4~5割前後は江戸藩邸詰、他に京都藩邸詰も若干いた。
 綾部藩は江戸藩邸を経済的に支えるための費用を、大坂で捻出するために、生産物の米を船便で輸送していた。
 米を大坂に輸送するためには、由良川筋の綾部・福知山・田辺(現在の舞鶴市)各藩の領川を下り、日本海に運び出す必要があった。川を船で運送するためには、通行料のほか・船代・船頭・人足を他領から借用しなければならなかった。
綾部藩米は大嶋の津、今の中筋地区大島町から20石船で出港し、福知山で50石船に積替え、丹後の国・有路にいったん寄港、由良みなとから500石船、10 0 0石船に積替えて西廻り航路で大坂に運んだ。(大坂~江戸間の輸送は、三井等の豪商が為替で精算・送金する)

 綾部藩は輸送航路のほとんどを他領・他藩に依存するため、通船料・運賃・船頭・人足料などの負担で、大坂に着いたときには米が何割も目減りしたという。
 領内の奥地から外洋に至る土地を領有する大藩は、運送路を他領・他藩に依存することがないためその差は大きかった。大藩は物資の運送を懸屋(かけや)に任せ、取扱いの特権を受けた廻船問屋の大商人たちは、他の湊に寄港する度に産物の売買で莫大な富を蓄積していった。たとえば、庄内平野(今の山形県酒田市)の本間家は北前航路で産を成し、「本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に」と唄われたぐらいであった。

 同じ石高の小藩であっても海添の藩とは財政的に大きな差を生む宿命を背負っていた。しかも、綾部藩は後の繭・生糸のような米に代わる産物を持たなかったため、山林から上る収益の小物成(米以外の諸税・雑税)も、山林の差配が山家藩の権益であったため、藩はいっそう困窮していたと言われている。
広小路・羽室家(解説)
 羽室家は寛永11年(1634)に綾部に入ったといわれ、商才を発揮、次第に産を成し、宝暦(1751)頃には幾家にも枝別れする経済力をもった。いずれも屋号を「京屋」と号し、領内中枢の綾部組・中筋組の大庄屋を世襲するようになった。
 広小路・羽室家は元禄5年(1692)に広小路の現在地に分家し、屋敷を構えることになった。(延村、現在の中筋地区延町の羽室嘉右衛門家は、元禄15年、町の羽室家から分家した。)
 その後、広小路・羽室家は領内の経済の中心地である綾部組(今の綾部小学区)12ケ村を束ねる大庄屋を代々勤めるようになった。
 江戸中期後、羽室家は懸崖(掛屋)として藩の出納を取り仕切るようになり、藩札の発行、両替等で藩の財政に深くかかわっていくと共に、酒造業・油搾業も営んでいった。
 しかしながら、同じ石高の他藩に比べ、米の換金での大きな差や、米以外の主産物・特産物をほとんどもたなかったため、流通や売買での利益の蓄積ができなかった綾部藩での御用商人、「羽室家の展示物」であることをおふくみいただきたい。

 明治に入ると、広小路・羽室家(九代当主・羽室榮吉)は、「郡是製絲創立」にかかわり、延村の羽室家(羽室嘉右衛門)、町の羽室家(羽室九左衛門・羽室荘治)と共に中心的な役割を担った。明治36年(1903)金融恐慌の影響(取立て騒動)で綾部の蚕糸業を中心とした三銀行(明瞭銀行・綾部銀行・綾部貯蓄銀行)は、解散の止むなきに追詰められた。
 その後、綾部三銀行の経営に参加した羽室一族(羽室榮吉・羽室九左衛門・羽室荘治・羽室嘉右衛門)と、大槻藤左衛門(山崎屋)、大槻重兵衛(扇屋)等は没落の一途をたどることになった。
 広小路・羽室家(羽室榮吉)は、こうした経済的背景の下で、辛うじて生延び現在に至っている。
 上述の歴史的背景を勘案の上で、「羽室家展」をご覧いただければ幸甚である。
http://ayabun.net/rekisi/hamuro.html
2006/10/21のBlog
[ 20:42 ] [ あやべの文化財 ]
犀川にかかる下流側の橋を諏訪神社に向かいわたる剣鉾、秋葉神社御旗。屋台の渡っている上流側の橋と見合うかたちになる
秋葉神社御旗が橋を渡っていく
府道に出る手前で折り返し、狭い隘路を諏訪神社に向かう屋台
犀川に掛かる橋を登り勾配で勢いを付けて曳く
おっとっと今度は下り勾配、暴走すると大変。慎重に後ろに引き戻しながら進む。ここで11時半になる。諏訪神社まであともう少し。
次の「小畑のヤッコ振り」取材のため早手回しに諏訪神社前に止めた車を、府道沿いの久木さん宅駐車場に移動させた(練込巡行コ-スは車が通行禁止になる、しかし神社の奧から出られる道も存在するいうことではあった)諏訪神社前広場には「タコヤキ」など屋台店が数店開店準備中であった。
2006/10/20のBlog
[ 16:45 ] [ あやべの文化財 ]
提灯、見送りに飾られた屋台の後は囃子方で締め太鼓、鉦4人笛8~10人が続く。曲は京都祇園祭の囃子を模したもので、幽雅な曲が屋台の止まる要所毎に奏される.。鉦は屋台の上部から細い紐でつるされており、それを左手に引きよせて槌で叩いている

屋台の後ろを行く囃子方
真っ直ぐ西に行くと諏訪神社下に出る旧物部街道であるが、巡行コ-スは南に折れ、広い通りを道一杯に広がって「犀川」の橋に向かう
堤防にコスモスの咲く「犀川」の橋で休憩、両橋詰めの接待所で飲み物やお茶菓子を頂きながら頑張る練込
上流側の犀川の橋を渡る屋台
[ 09:17 ] [ あやべの文化財 ]
諏訪神社下に真っ直ぐ通じる、古い物部街道筋を行く練り込み
交替しながら大鳥毛、中鳥毛を回して演技
広い交差点で子供太鼓の披露
大人が力強く打つ太鼓も響き渡る
屋台の出発前のお囃子の演奏。屋台の後ろに据えられた太鼓を力強く打つ
2006/10/19のBlog
[ 18:41 ] [ あやべの文化財 ]
いよいよ練込み開始の柝が打たれると、先ず傘鉾が先頭を行き、次いで剣鉾、秋葉神社御旗、古槍と続いて立道具となる。これは江戸時代の参勤交代の様を模したもので、先ず挟箱が二人、次に立傘、台傘、大鳥毛、中鳥毛と続き、奴姿の若衆が「エッエッ」と毛槍を振り回しながら進み、最後は屋台である。提灯、見送りに飾られた屋台の後は囃子方で締め太鼓、鉦4人笛8~10人が続く。曲は京都祇園祭の囃子を模したもので、幽雅な曲が屋台の止まる要所毎に奏される
太鼓が終わり拍子木が打たれ、いよいよ練り込みが開始された
ずいぶん重い大鳥毛を膝を回しながら回す。バランスを取るのが難しそうだ
見物客が大勢詰めかけている
屋台を大勢の人が引き綱で惹いている。小さな木の車輪が付けてあるが、舵取りは人の手で進む向きを変えていく
[ 08:16 ] [ あやべの文化財 ]
飾り付けられた屋台、赤い獅子舞の頭が置かれ、諏訪祠と染め抜かれた幕がかかり、おなじく諏訪祠の提灯が下がっている
9時の練込巡行出発を前に準備中
子供太鼓も楽しそう
次々に叩いていく
練込出陣前の大人による力強い太鼓
[ 07:11 ] [ あやべの文化財 ]
御旅所まで出迎えの一行、下市の練込コ-スを行く
物部町の繁華街
太鼓をたたいて子供達が迎えてくれた。宵宮巡行で宮遷した屋台が見える
大勢の子供達が代わる代わる楽しそうに太鼓を叩いている
ここが発祥の地か飾り付けられた屋台が置かれている。物部の信号機のある五叉路はこの先の由。この道路は物部中心地に向かう道路で、交通の激しい府道:綾部-大江線、志賀郷、八田線からの西に向かう主要町内道路に当たる
2006/10/18のBlog
[ 15:22 ] [ あやべの文化財 ]
物部城上原氏について
 上原氏のことは、当地にその記録を失し、全容がわからないといったほうがよい。物部古城記によれば「建久四年信州上田の城主上原右ヱ門丞景正、源頼朝に従い其の命によって、丹波国何鹿部を賜い物部村に居往す」(物部村史)そして大永六年(1526)(綾部市史)大永五年(物部村史梗概)赤井氏の侵略を受けて潰滅的な打撃を被り、結局元亀二年(1571)赤井直正によって亡されたようで(梗概・市史)378年に亘って物部を拠所としていたようである。
 その存在と、行動を確かめ得るものは、わずかに二つの資料にすぎない。
・「楞厳寺縁起」市内館町楞厳寺蔵
・「織田信長知行安堵状」「渡邊家文書」
 で①について、綾部市史は「位田の乱」として何鹿地方で起っている大規模な争乱を伝えている。
 以上に次の資料を加え、上原氏解明を一歩進めたいというのが、本稿の趣旨である。
 その一つは、丹後資料館発表の「南北朝時代の丹波・丹後」に集録された片山家文書である。
 ⑬片山彦三郎高親申軍忠事
建武三、京都御合戦之時、自正月十六日、至于同甘七日晦日、属御手致所々合戦。□□州河原御合戦之時、家子竹鼻平四郎親康、被疵(左眉射疵)畢。同甘九日(左膝口切疵)、甘八日一條河原口夜攻仕候畢。此等次第同所合戦之間志賀弥大郎、物部孫神太所令見及也。然早賜御證判、以此旨可有御披露候。恐惶謹言。
 建武四年十月十三日 承了 花押 平高親 上杉朝定代官力 (片山家文書)

 ⑱片山彦三郎高親申軍忠事
去六月上旬、山門西坂本御合戦之時、同九日責上雲母坂、一城戸口致昼夜忠勤畢。同十九日致散々合戦處、家子竹鼻平四郎親康両所被疵(左手股右膝口射疵)播差、木三未弘被疵(右ノモモ射疵)是等子細吉見小三郎、物部孫神太同所合戦之間、令存知者也。然早為後證、可下賜御判也之旨相存候。以此旨可有御披露候。恐惶謹言。
 建武三年 六月日 平 高親
 進上御奉行所 承了 花押 仁木頼章

 わたしは、この二葉の文書に出てくる物部孫神太を物部城上原氏、志賀弥太郎を吾雀荘の家族志賀氏であるうと推定する。しかし、直接それを実証する文書を志賀氏も上原氏も亡失してしまっている。

 傍証であるが、これより二十五年後の「延文五年(1360)雀部荘で、何鹿部の志賀勘解由左工門らが濫妨したので足利義詮が停止させ、神主の奉相季に知行させたごという記事がある。(史料綜覧)
 孫神大の子孫、元秀(紀伊守)が「物部神六」、「奉六」と公文書に記名している。おそらく孫神太は「マゴシンタ」なのであろう。(後参照)
 次に当時の状況である。八田郷は足利尊氏自身と、その母上杉氏誕生の地であって、尊氏としては、ここを源家再興の旗上げの中心と、深く心中に期していた地である。
 上原氏の拠る物部郷は、その西に境を接し、吾雀荘はその物部の北隣の仲なのである。建久四年、頼朝の家人として入部したと伝える上原氏に尊氏の行動が波及しないわけがない。ましてや、当何鹿部全体が大きく揺れ動いたことにおいておやである。
 「建武四年十月二十八日上杉朝定奉引付奉書」(八坂神社文書)
 この奉書の宛先が上原孫神太 志賀弥太郎とあることから、今西 明氏は、両名は上杉朝定の代官に従う被官(家来)となっているのではないかとしておられる。京都大 今西明「室町戦国期の丹波守護と土豪」)
 注:今谷氏は、後部市史(資料編)安国寺文書:「暦応元年十月五日 某宛行状」の某花押が、本稿「建武四年十月十三日片山彦三郎軍忠状承了の花押(朝定代官カ?)と一致することから推論している。

 次に⑬⑱の二葉の文書の内容が、上原氏の行動を明記するものであるから、それについて記す。
 ⑬この戦いというのは、義貞が奥州にいる北畠顕宗と応じて、尊氏を挟撃しようとするが、足柄・箱根の戦いに敗れて京に追く。義貞を追った尊氏直義軍は、応じて播磨から京に攻め入る赤松軍と共同したので、後醍醐帝は難を叡山に避けた。正月十一日尊氏も京に入るが、尊氏を追ってきた北畠顕宗も、十三日近江に入ってきたので、南朝方は勢いをもりかえす。こうして文面にあるように、一月十六日以後は両軍京都各所で激しく渡り合った。特に東山から賀茂河原一帯に広がった戦いで旗色を悪くした尊氏方は、文面の一月二十七日から晦日にかけて、崩れたち、殿りは京にいるが、尊氏自身は二十七日篠村に退く、この戦いに「属御手致所々合戦」とあるように、片山、志賀、物部の面々は、上杉朝定の手に属していた。
 尊氏に踏み止まるひまを与えず急追されるので二月三日播磨に移った。ここで尊氏は軍崩壊の危機の中、仁木頼章に命じて、再度丹波の兵の集結を令する。丹波の土豪連は敗戦とともにす早く自分の村に逃げかえっているのである。敗戦によって兵糧の問題があったのだと思う。

 ・仁木頼章奉軍勢催促状
新田右衛門佐義貞、己雖被追悼猶以一族以下与党人等、為誅伐可令発向于京都也。率一族不廻日時、馳参于井原岩屋。可致合戦之忠於賞者可依功之由候也。仍執達如件。
 建武三年二月三日 伊賀守(仁木頼章) 花押

和知片山人々御中
 二月三日は前述の如く、南朝方の追撃をかわし切れず、篠村の根拠地を捨てて播磨に移った日で、尊氏が崩壊を支えようとして必死の様子がうかがえる。時を与えないのが軍略、南朝方の鋭い追撃を受けて、丹波の兵を勤かすひまもなく、十二日、兵庫から舟で九州に向けて再起の土地を捜すわけで、軍潰走の中、右状を発し、ひとり丹波に踏み留まり尊氏を支える仁木頼章は、尊氏の命令を奉じて丹波の軍事指揮権を揮っているのだから、これによって守護権が確立することになると考えてよい。
 文に命じている軍の集結地の「井原岩屋」は、播磨境の氷上郡井原荘で、荘内に岩屋があり、石龕寺は、尊氏の御教書を多く伝存する。この寺がその策源地であった公算が大きい。当時後醍醐帝領であった。後年
[ 15:15 ] [ あやべの文化財 ]
諏訪神社 (物部町荒山四番地の一に鎮座)
 創祀年月日は不詳であるが、建久年中に創祀されたと考えられる。安永八(1779)己寅年に再建。
 信州上田の城主上原右ヱ門丞景正がその一族を率いて丹波何鹿部六万石の領地を与えられ、建久四年(1193)物部の地に入った。上原氏は物部に入るとまずほぼ中央の小高い山、高屋山を居城と定め、密蔵院高屋寺の裏山一帯を陣屋とした。斯くして、地頭として物部に入った上原氏は丹波の経営に着手したが、まず何よりも守護神として故郷の信州一の宮諏訪大明神を勧請し、須波伎仙人隠れの山麓に祀った。こうして、この地帯を由良川に向けて南流する川を「犀川」と名付けたと言われている。
 その後、文明年間(1469室町時代)この陣屋は高屋山の西方五町の物部盆地中央に当る荒山(城山)に移され、守護神諏訪神社もその南麓に移し祀られて今日に及んでいる。
 当社には貴重な古文書として、上原氏一族の上原神六が病気平他の願かけをし、それが奇しくも大神の神徳により著しく叶えられた事を喜び感謝して神社に納めた次の一文の写しが残っている。『上原神六、永正十六己卯年(1510)に当社筆頭氏子となり諏訪神社の神威神徳をお讃えしていたが、日ごろは心ならずも氏神へのお参りも怠ることもある日々であった。ところが思いかけず痛気にかかってしまい毎日悩み苦しむこととなった。そこで諏訪神社の御前に参詣し願をかけた。それは(願いをお叶えいただく時は、お礼のため臨時のお祭りをもち、今日のように尾頭つきの魚、猿楽その他色々と神事に必要なものをお供えいたします。どうか施主の儀式に応えて下さって、病患を始め一切の枉事災難を祓い除け給わんことを)と一途にお祈り申し上げたところ、大神のご威光の尊さは全く計るべくもなく、願を読み終わらぬうちに卯の年天文廿二年(1543)病気たちまち快方に向かい、息災延命、更に家業繁栄、家運隆昌することとなった。このことへのお礼と感謝の気持ちを込めて翌年に願済ましのお祭りを営んだ。そこでそのしるしにと、願文と祭旨を書き止める。天文廿三甲辰年二月二十日、上原神六拝」とある。願文は長いため特に前半部を省いた。

諏訪神社祭り
例祭日:今年は10月14~15日
宵宮:10月14日夕刻、社頭で宵宮の祭典を執行、終わって宮川町のお旅所まで宮遷しを奉仕、お旅所祭りを執行後本宮発興地点まで巡行
本祭:15日の本祭当日は、早朝本社で宮司が例祭の式典を執行後、祭列組供奉の人達が練込みの発興地点まで行列する。この行列の囃しが「川渡り」という軽快な囃しである。屋台は前夜のうちにここに運ばれ、お旅所として鎮座されている。いよいよ練込み開始の柝が打たれると、先ず傘鉾が先頭を行き、次いで剣鉾、秋葉神社御旗、古槍と続いて立道具となる。これは江戸時代の参勤交代の様を模したもので、先ず挟箱が二人、次に立傘、台傘、大鳥毛、中鳥毛と続き、奴姿の若衆が「エッエッ」と毛槍を振り回しながら進み、最後は屋台である。提灯、見送りに飾られた屋台の後は囃子方で締め太鼓、鉦4人笛8~10人が続く。曲は京都祇園祭の囃子を模したもので、幽雅な曲が屋台の止まる要所毎に奏される又この曲とは別に軽快なリズムの「しぐるま」という曲があり、これは余興的に途中休憩場所等で囃される。こうして練込みは三時間程を要して下市の町を練り、諏訪神社へ還幸されてお神楽は終わる。午後は獅子舞が氏子の各戸を廻る。

 上原氏によって勧請された諏訪神社であったが、今は下市の総氏神として住民の篤い尊崇を集め、こうして祭礼が行われる様になった。戦中戦後の一時期は取り止めとなり、祭礼の形も忘れられようとしていたのを、再び盛時のように復活できたのは住民の厚い崇敬の念と伝統保持の熱意によるものである。

〈境内末社)
○天満宮 御祭神 右大臣菅原道真公 学問の神 諸道芸能の神 文学詩歌の神として崇敬篤い。7月24日の例祭日には、町を挙げての神賑行事が催され、近郷近在の子供連れの人々が夏の夜祭りに参詣し、夜店も多くたち大勢の人で賑わう。
○厄善神社 厄除の霊験あらたかであり、1月18日の例祭日には古くから近郷近在の人々の参詣で賑わう。特に早朝参りにはお蔭が厚いと言われ早暁からの参拝が多い。また当日は講中の人達の奉仕によって甘酒の接待かある。
○稲荷神社 厄善神社社殿に合祀されていたが平成7年12月に新に社殿を造り、分祀して祀ることとなった。
[ 08:40 ] [ あやべの文化財 ]
8時に諏訪神社を出発。練込行列のコ-スを昨日の宵宮巡行で御旅所に遷宮した屋台を迎えに行く
諏訪神社を出る一行
太鼓、鉦、笛を鳴らしなから進む
街中を行く
傘鉾を先頭に犀川に架かる橋をわたり、その先で折り返して再び犀川の上流をわたる
2006/10/17のBlog
[ 08:13 ] [ あやべの文化財 ]
秋晴れの15日(日)8時前に物部町の「諏訪神社」に到着。氏子の人々が続々集まってきて、練り込み行列の準備が整えられていく。南田物部地区連合自治会長より「上原氏について」「諏訪神社・大祭由来」の資料をいただく。「片山家文書」が考証に引用されていたので、研究家の綾部史談会片山会員にも提供することの了解を求める。
写真は全てマウスでクリックすると拡大します
赤い旗が立てられ子供達も集まってきた。
たき火にあたる子供達。傘鉾などお練り行列の先頭集団が並び始める
鉾屋台の台車と準備中の氏子の皆さん
間もなく出発の8時
2006/10/16のBlog
[ 13:55 ] [ あやべの文化財 ]
綾部の文化財を守る会の会報63号が会員に配布されましたので、HP「綾部の文化財」に転載しました。
(記事提供)は高津八幡宮宮司:大槻正明氏、(写真提供)は綾部市資料館、大槻和巳氏(守る会事務局)です。
http://www.ayabun.net/kaiho/63/takatu8b.html