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なべちゃんの散歩道
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2006/07/04のBlog
河合神社 下鴨神社の摂社
祭神 玉依姫命 祭神は神武天皇の御母神
例祭日 十一月十五日
神徳 神武天皇とともに御母神として日本の建国に貢献された内助の御神徳は、日本婦人の鑑とも仰がれており、安産、育児、縁結び、学業、延命長寿の守護神として広く知られている。
由緒 鎮座の年代は不詳であるが、神武天皇の御代から余り遠くない時代と伝えられている。「延喜式」に鴨河合・・(駒札より集録)
参観の綾部の文化財を守る会一行
河合神社の参観
参観の一行
糺の杜(ただすのもり)の名所(摂末社(せつまつしゃ)など
河合(かわい)神社と鴨長明(かものちょうめい)
 玉依媛命(たまよりひめのみこと)(初代の天皇・神式天皇の御母神、本宮のご祭神とは同名異神)をまつっています。古くから本宮に次ぐ大社として歴史に登場し、女性の守護神として信仰されています。
 『方丈記』の著者、鴨長明はこの河合神社の神官の家に生まれましたが、いろいろの事情によって、この重職を継ぐことができませんでした。
 このこと方ら強い厭世観を抱くようになり、やがて『方丈記』を書くにいたったといわれています。復元された方丈が現在展示されています。
 末社には任部社(とべしゃ)とよび八咫烏(やたのからす)をまつるお社があり、昭和六年(1931)日本サッカー協会設立時より現在のJリーグにいたるまで、ご祭神の姿をシンボルマークとしています。(入場パンフレットより集録)
[ 08:03 ] [ 花だより・紅葉だより ]
下鴨神社の摂社・河合神社;方丈記の鴨長明でも有名の駒札、パンフレットからの集録に大変手間取っている。毎日少しづつすすめるしかない。
赤い花
赤とピンク
紫にピンク
良く見ると虻が止まっている。梅雨の晴れ間のブログ中休みも、これでおしまい
2006/07/03のBlog
[ 15:43 ] [ 花だより・紅葉だより ]
紫の袋のような花 りんどうの一種?
花が終わり棘だらけのみが出来ている
棘だらけの種になる前の花
芹の花?
鶏頭の一種か?
[ 06:44 ] [ 花だより・紅葉だより ]
このところ日曜日の天候が気になっている。というのは市民総体テニス選手権大会が開催中なのだ。水無月まつり協賛大会を兼ねるので、毎年梅雨時に開催する。
一日目の男子、女子の各シングルスは先々週に小雨模様の中で終了。昨日曜日は、男子、女子の各ダブルス試合の予定。朝からの降雨で順延かと思われたが幸い雨が上がり、試合開始時間を11時にづらして実施された。日の長い時節と1昨年完成した夜間照明も利用できるので、この点大変便利になった。
来日曜日は、この大会の予備日コ-トを利用して、テニスの催しをおこなう予定。そして来々週の日曜日は我が家の余儀ない予定がある。
もし雨が降れば次々に順延して来るので、それで日曜日のテニス行事の試合消化が気になっている理由である。
青い花、白もある
赤と白も混じる
白の縁取りがきれい
白いしっぽみたいな花
2006/07/02のBlog
[ 21:40 ] [ 花だより・紅葉だより ]
このところ毎週のように知人の告別式に参列している。こう蒸し暑いと高齢者の方は大変だなと思う。人間は暑さ寒さに弱い生き物かも・・。
今日は母の百ケ日もかねてお寺の住職様に来ていただいて初盆をした。自宅周辺および自宅の公共下水路への排水接続工事がやっと一段落。初盆には少し早いが、八月盆にはお寺で新仏の施餓鬼法要が営まれるそうだ。
文化財研修旅行記の資料の整理、パンフレットをスキャナ(OCR)でとっても殆ど文字の再入力になり、また現地の駒札の写真から筆記で書き出して、文字入力するのも大変な根気仕事だ。
息抜きに自宅周辺に咲く花を撮りまくってきたので、順不同、花名不詳で並べるのでご容赦願いたい。
これは白
楼門(重文)前で権禰宜・村松晃男さまを囲んで記念撮影、1号車の皆様
記念写真は事務局から参加者全員、お世話になった宮司さま、京都SKY観光ガイド協会の皆様にお送りしました。
高倉殿(重文)、神宝展が行われているようで、本殿参拝を終えた一行が次々と入って行かれる
白い祭幕の張られた本殿・権殿参拝の入り口。参拝者はその手前の廊下に上がり下足を預け、白い襷を首に掛け左手の控え室に入っていく。2号車一行は入ってかなり時間が経つがまだ出てこない。心配そうに幕の前で待つ四方事務局長。案内をしていただいた祢宜さまが出てこられたが、交代で入る肝心の1号車の会員の姿がない。
ここで「献上・紀州梅道中」の一行が登場。予期せぬハプニング1号車の会員の姿も行列見物の向こう側に垣間見えるが、私は続いて楼門内の撮影に回ったので連絡のとりようなし。
立砂のみえる細殿(重文)
このあとにわかに北山時雨が降り出し、参道を一ノ鳥居、のバスまで急ぐ。
2006/07/01のBlog
祭 祀
賀茂祭(葵祭)勅祭 五月十五日
 欽明天皇の御代(六世紀)天下風雨順ならず、庶民大いに嘆いたので勅してうらなわしめ給うたところ、賀茂大神の崇りであると判った。そこで馬に鈴をかけ走らせ祭祀を行った結果、五穀成熟して天下奉平となった。
このことにより毎年国家的な行事として祭が行われるようになった。これが賀茂祭の起源である。
 神前に葵を献じ、全部の社殿には葵を飾り、奉仕員全て葵を着けるので葵祭ともいう。平安時代は殊に盛んであって、「まつり」と言えば葵祭を指すほどであった。現今は五月十五日、皇室より勅使を御差遣になり旧儀によリ行われる。その行列は近衛使代を中心に牛車、花傘、斉王代(さいおうだい)列など総勢五百名、列の長さは八百メートルに及ぶ。
 先づ、午前京都御所を出発、下鴨神社にて祭儀を行った後、再び行粧を整えて、賀茂川の堤を北上し、午後当神社に到着。勅使の御祭文奏上、牽馬(ひきうま)、東游(あづまあそび)、走馬等の儀が約二時問にわたり、古儀のまま行われる。清らかな流れと、新緑の境内で行われるこの祭儀の有様は、さながら王朝絵巻を見るが如くである。(入場パンフレットより)
競馬会神事 五月五日
 稲沢天皇の寛力士年二〇九三年)に始まる。早朝より頓言遷御、菖蒲の根合せ等が行われる。見尻(騎手)は左右口分れ、左方は打毬、右方は柏餅の舞楽装束を善げ、馬口見って社頭口参進する。
 勧盃、日形見、月形見、修祓、奉幣の儀を行い、次いで馬場にて順次競脂する。号の様子は『徒然草』などにもよく書かれている。蓋し天下の壮観である。京都市登録無形民俗文化財。これ口先仁志、五月コ已には、五日の競馬に出場する馬足の、優劣を定める足汰式がある。

烏相撲 九月九日
 菊花を献じ無病息災を祈願する重陽神事を了えて後、細殿の前庭にて童子二十人をして相撲(すま)わしめ神覧に供する。その問、刀禰が烏鳴き、烏の横飛びなどをして、頗る興趣のある行事である。烏の行事は八咫烏(やたがらす)伝説に由来し、細殿にて葵祭に奉仕された斎王代が御覧になる。
権禰宜・村松晃男さまの説明
川尾社に向かって拝礼する一同
癒しの神様、精神安定、傷ついた心を癒していただける神様
やっと楼門前に1号車一行が到着、集合写真を撮るが、楼門の中には入らずに他に向かわれた。ならの小川にからる玉橋(重文)越しに撮っていて、制止縄が両側に張られ渡れないので、またカメラ道具の後始末で何処に行かれるのか聞く余裕がなかった。
権禰宜・村松晃男さまの説明を拝聴する1号車一行
ならの小川の橋の上で
岩上(がんじょう)
賀茂祭(葵祭)には、宮司この岩の上に蹲踞(そんきょ)勅使と対面し、御祭文(ごさいもん)に対して神の御意志を伝える「返祝詞(かえしのりと)」を申す神聖な場所である。 太古、御祭神が天降りされた秀峰神山(こうやま)は、本殿の後方約2kmの処に在り、頂きには降臨石(こうりんせき)を拝し、山麓には御阿礼所(みあれしょ)を設け、厳粛な祭祀が斉行されてきた。
 この岩上は神山と共に賀茂信仰の原点であり、古代祭祀の形を今に伝える場所である。神と人との心の通路(かよいじ)でもあり、「気」の集中する場所である。(駒札から集録)
片山御子神社(片岡社・重文)?を参観
片岡橋(重文)を渡る一行
[ 10:12 ] [ Doblog 朝顔・風船蔓部 ]
風船蔓部(どぶろぐ・花環の会)シルバ様からいただきました種子から育てた風船蔓も元気に伸び、可憐な花を付けています。
風船蔓部(どぶろぐ・花環の会)は、Rolling 55 (belage) さまが主宰されています
本当に清楚な感じです
小さな花が分かれた花枝についている
2階のベランダ横の鐵柵まえに植木鉢をおき伸びている
[ 10:05 ] [ Doblog 朝顔・風船蔓部 ]
シルバ様からいただきました種子朝顔部(どぶろぐ・花環の会)から育てた朝顔、プランタ-仕立てです。
家内が「青」が好きなので、ブル-ばかりです
2階のテラス出入り口の日除けをバックに伸びています。
玄関横の鉢植えのピンク
玄関横の鉢植えのブル-
2006/06/30のBlog
世界文化遺産登録 山城国一ノ宮 賀茂別雷神社(上賀茂神社)
御祭神 厄除明神賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)
御神徳 厄除・方除・電気の守り神
御由緒
 神代の昔、本殿の北北西にある秀峰神山(こうやま)に御降臨になり、天武天皇の御代(678)現在の本殿に御鎮座になった。御鎮座以来広く人々の信仰を集め、特に皇室の御崇敬は歴代にわたり、行奉啓は枚挙にいとまあらず、国家の重大事には必ず奉幣御祈願があった。
 『延喜式』では名神大社に列し、のち山城国一ノ宮として尊崇せられ、明治以後終戦まで宮幣大社として伊勢の神宮に次ぐ、全国神社の筆順に位した。

社 殿
 本殿・権殿(ごんでん)東西に並び建ち、共に流れ造の典型として国宝に指定されている。文久三年(1863)の造替で、他の祝詞舎(のりとのや)、透廊(すいろう)等四十二棟の建物は、おおむね寛永五年(1628)の再建で重要文化財に指定されている。又、境内全域は平成六年(1994)十二月十七日「古都京都の文化財」の1つとしてユネスコが制定する人類共有の世界文化遺厘に登録された。(入場パンフレットより集録)
記念写真の撮影に楼門(重文)まで出迎えていただいた祢宜様を真ん中に2号車の一行を撮影。楼門の前に流れる「ならの小川」にかかる玉橋(重文)があり、人が立ち入らないように制綱が前後に張られている。それでもう一つ上手の片岡橋(重文)をわたり、楼門前に整列した一行を玉橋越しに写真に納める。記念写真を撮り終えると2号車の一行は祢宜さまのご案内で楼門をくぐり本殿参拝に拝殿に上がっていった。
ならの小川沿いの美しい植栽
ならの小川:6月30日夏越大祓は、「百人一首」にも詠まれ、初夏にはホタルが舞い秋の紅葉が美しい川

いつもなら続いて1号車の記念撮影となるのだが、待っていても楼門前にやってこない。しびれを切らして迎えに行く。上賀茂神社の本殿・権殿参観は少人数づつしか参拝できないとはあらかじめ聞いてはいる。
細殿(重文)の裏手で、権禰宜:村松晃男さまから説明を受けている1号車の一行をみつける。
権禰宜・村松晃男さまを囲み熱心に話を聞く1号車の一行
美しい立砂(たてすな)の見える細殿(重文)
立砂(たてずな)
二ノ鳥居を入ると、細殿の前に一対の立砂がある。円錐形の麗しい御神体山である神山をかたちどったもので、一種の神籬(ひもろぎ)(神様が降りられる憑代(よりしろ))である。鬼門、裏鬼門にお砂「清めのお砂」をまくのはこの立砂の信仰が起源である。
土舎(つちのや)重文
橋殿(はしどの)重文
有名な葵祭、夏越(なごし)の大祓の舞台
夏越祓 六月三十日
夕闇が迫る頃、茅ノ輪をくぐる人で境内は賑わう。所々に篝火が焚かれ雅楽が奏でられるなか、橋殿より大祓詞の奏上とともに、人形(ひとがた)がならの小川に投ぜられ、祈願者の一切の罪穢が祓い清められる。当神社の夏越祓は古くより有名で、次の百人一首のなかのうたは鎌倉時代の当神社の夏越祓の情景を詠ったものである。
 風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは みそぎぞ 夏のしるしなりける。 藤原家隆
楼門(重文)
綾部の文化財を守る会から研修のお願いを差し上げた、担当の権禰宜:村松晃男氏のお出迎えを受ける。
2006/06/29のBlog
昼食後バス二台で上賀茂神社に到着
一の鳥居から続く広い参道を二の鳥居まで歩く
道一杯に広がる一行
二の鳥居をくぐる
右手に楽舎(がくのや)重文
2006/06/28のBlog
HP「綾部の文化財」編集の下書きとして、このブログで仕事の合間を見て作業を続けていますが、今回「東寺」が終わりましたので、綾部の文化財日誌(ブログ)に投稿しました。
先に投稿した「献上・紀州梅道中に遭遇」の第二弾です。
まだ上賀茂神社、川合神社、下鴨神社などと続きます。全て終わってからHPに再編集いたします。
東寺・金堂まえの金銅製六角灯籠
緑に囲まれる東寺・金堂
太子堂(御影堂)に通じる広い参道
2台のバスに乗り昼食に出発
五重塔が、春に植えられた「しだれ桜」の養生囲いに遮られて見える。
八島神社(八島殿)
祭神は東寺の地主神とも、大己貴神(おおなむちのみこと)とも言われる。八島社というのは、わが国を大八洲瑞穂国(おおやしまみずほのくに)と言うところから起た社号である。それゆえこの社は東寺以前より鎮座されており、弘法大師は、この神の夢想を被ってここに伽藍建立に先立ち、この神へ寺門造立成就、方位安全、法道繁盛の祈願をされ、地主神とあがめられたと伝えられる。(駒札より)
八島神社
南大門にて
南大門は市道への出入りができる。五重塔を見上げる。
東寺・金堂を見上げる
東寺の研修について、朝の交通が順調で時間が余り、京都SKY観光ガイド協会ガイド様のご厚意で毘沙門堂と南大門を見学コ-スに加えていただいた。
金堂
南大門へ
八幡社殿
796年創建、平安京と東寺を守護する為まつられたが、明治元年(1868)焼失、平成3年に123年ぶりに再建。本尊は檜材の一木造りで一本の巨木から弘法大師作と伝えられる。僧形八幡神坐像と女神坐像二躯の三躯が安置されている。
足利尊氏が東寺を本陣としていた時、鎮守八幡宮の神殿から流鏑(かぶらや)が新田勢に向かって飛び、勝利を収めた故事は余りにも有名である。
修業大師像
修行大師様にお花を上げましょう。
2006/06/27のBlog
毘沙門堂
拝殿参拝中
石碑を前に京都SKY観光ガイド協会ガイドさんの解説
石の亀に乗った大きな石碑を読む会員
三面大黒天に参拝中の会員
大黒天は大地の神で、大地は糧を表し、土は槌で表され、それを振ると福寿円満が訪れます。毘沙門天は、四天王の北方の守護神で、財宝を司る神です。弁財天は、インドでは河の神で弁舌・音楽・技芸上達の神です。
 その三体の天神が合体したのが三面大黒天で、東寺・大黒堂にお祀りされているのは、お大師様作の像と伝えられています。我々の誓願をことごとく成満し、お救いいただける、この三面大黒天と御縁を結ばれ、無上の大功徳の霊験をお授かり下さい。
大黒天・毘沙門天・弁財天 三尊のご利益が一度に授かれます。(駒札より)
毘沙門堂山門へ
山門を通り境内に入った一行
毘沙門堂 江戸時代
天慶二年(939)平将門の乱の際、都の守護神として羅城門に安置されていた兜跋毘沙門天立像(現宝物館・国宝)を天元元年(978)7月大風にて羅城門が倒壊の後、東寺に移し食堂に安置したりしたが、文政五年(1822)現在の堂を建立してお祀りした。創建千二百年記念事業で平成六年(1994)に修復された。
京都SKY観光ガイド協会ガイドさんから説明を聞く
参拝・格子から安置仏を拝見する。
[ 07:56 ] [ Doblog 朝顔・風船蔓部 ]
シルバ様からいただきました種子で朝顔部(どぶろぐ・花環の会)から育てた朝顔の赤が咲きました。
青い朝顔も毎日咲いて目を楽しませています。
ブログ背景写真用サイズ
2006/06/26のBlog
弘法大師さまのおことば
心暗きときは、すなわち遇う所ことごとく禍(か)なり、
眼(まなこ)明らかなるときは途(みち)に触れて皆宝なり 性霊集

心が暗いときは、どうしても暗く受け取り、どんな幸せもけちをつけて逃してしまう。眼が明らかな時は、どんな道であっても全てが宝物のように光って見える。
いつも「こころのほほえみ」をたたえている人には、この世のことが全て好ましいと目に映る。こころのほほえみは、学歴やお金のあるなしにまったくかかわりなく存在する。不幸せのさなかでも、ぐちひとつこぼさず、ほほえみをたたえている人がいる。ほほえみの人、それは人生のチャンピオンである。東寺
写真:大師堂(御影堂)参拝へ山門をくぐり移動する
京都SKY観光ガイド協会ガイドさんから案内を受ける
国宝大師堂(御影堂)室町時代
創建年代は未詳。弘法大師御在世中の住房で西院(にしのいん)とも呼ばれる。天福元年(1233)仏師康勝法眼が斎戒沐浴して、一刀三禮毎に「南無大師遍照金剛」と唱えつつ彫刻した大師像(重文)と、何面不動堂には大師の念持仏の国宝不動明王(秘仏)が安置され、毎月21日に沢山の参拝者で賑わう(駒札から収録)
お賽銭を供え、手を合わせる会員達
参拝をすませ、太子堂(御影堂)から出る一同
2006/06/25のBlog
[ 13:08 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
雨の中でプレ-する選手達の様子を撮る
運動量で雨をはじき飛ばしている
サ-ブ
セルフ・ジャッジなので、アウト・コ-ルをしている。左上にボ-ルが見える
伸び上がって高い位置でサ-ブを打つ
[ 12:51 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
第21回綾部テニス選手権大会一日目は、男子シングルス(18名)、女子シングルス(8名)二日目には男子ダブルス(12組)、女子ダブルス(8組)がある。
この大会は第29回京都府民総合体育大会選手選考会・第18回綾部市民総合体育大会・あやべ水無月まつり協賛をかねる
あいにくの小雨の中で試合が行われている
雨にも負けず頑張る選手達はりっぱだ
雨でシャツが素肌にべっとりと付き素肌が透けて見える
傘をさして応援している。かなり降っている時もある。梅雨だから上がりそうにない。
金堂を見上げながら京都SKY観光ガイド協会ガイドさんから説明を聞く
南大門-金堂-講堂-食堂が一直線に並んでいる。
写真:手前:講堂、奧:金堂
講堂を後ろに食堂(じきどう)へ向かう
食堂(じきどう) 近代
僧侶が齋事に集まって食事をした場所で創建年代は未詳。896年、理源大師・聖宝により6mの千手観音立像(現宝物館安置)と四天王像を造立。千手堂とも呼ばれ、足利尊氏もここに居住した。昭和5年(1930)12月21日消失、昭和9年4月竣工。春日厨子に納まった十一面観音立像は明珍恒男氏の作である。
入門ゲ-トの側には縁台を置いた、お茶屋さんもあった。
2006/06/24のBlog
講堂内・立体曼荼羅
堂内の白亜の壇上には、大日如来を中心とした五智如来をはじめ、五菩薩、五大明王、四天王、梵天、帝釈天の二十一躯の仏像が安置されています。これは弘法大師の密教の教えを表現する立体曼荼羅(密厳浄土の世界)です。六躯は後補像ですが、十五躯は平安時代前期を代表するわが国密教像の秀作です(入場パンフレットより
以下同じ)
大日如来像 重文
不動明王 国宝
梵天 国宝
身は高野 心は東寺におさめをく
延暦十三年(七九四)桓武天皇は、動乱の中に奈良から長岡京を経て平安京へと都を遷され、羅城門の東西にそれぞれ大寺を置かれました。現在の京都は御所をはじめとして大部分が東方へずれてしまっていますが、東寺はもとの場所にそのまま残っていて一級史蹟に指定されています。東寺は左寺とも申しますが本格的に活動を始めたのは弘法大師の造営以後であります。
このお寺にはアショーカ王以来の伝統に従って、仏法によって国の平和が護られ、その光が世芥の隅々にまでいきわたるようにということと、それぞれの思想が共に侵さず共存していく原理を見出し仕え、共々に力を合わせ実現されていくようにとの大師の願いが込められています。東寺の伽藍は南大門を入って金堂・講堂、少し隔てて食堂が一直線に置かれ、左右に五重塔と灌頂院が配置されています。塀で区別された境内はそのまま曼茶羅であり蜜厳浄土であります。我々はそこから様々なメッセ-ジを汲み取ることができます。
大師はまた高野山を自らの修禅の場として開かれ、そこで得られた智慧を利他行として東寺で実践されました。生老病死に代表される衆生の苦悩の解決法とその生活への表現が大師の一生でありました。
大師は祈りなき行動は妄動であり、行動なき祈りは妄想であるとの信念から、水なき所に池を据り、橋なき所に橋をかけ、道なき所に道をつけ、食の乏しき者には金を得る方法を教え、病む者のために良医となられたのであります。
 「弘法さん」は毎月21日、大師の今日に催される京の風物詩。境内には千軒以上の露店が並び、20万人以上の人出でにぎわいます。これは大師に寄せる民衆の信仰の深さを表わしているといえましょう。
東寺は平安京以来千二百年の間に幾度も台風、雷火、兵火等の災害を受け、堂塔の大半を消失しましたが、その都度、一般民衆の信仰の力によりもとの姿に再建され、とくに五重塔は古都の玄関の象徴として昔の姿をそのまに伝えて今日に至っております。
また大師の遺品をはじめとする、国宝・重要文化財は国民の宝であります。一人でも多くの方がご参拝下さって平安文化との出会いを通し今の自分を見つめ直し、明日への新しい糧を得ていただければ幸せであります。
東寺境内案内図
平成6年12月15日「世界遺産条約」登録
○東寺の年中行事
初詣(五重塔初層公開)1月1日~5日
修正会(牛玉宝印授与)1月3日
後七日御修法 1月8日~14日
初弘法 1月21日
講堂修正会 1月28日
鎮守八幡菩薩会 春3月15日 秋11月15日
春の彼岸会 3月21日
正御影供 4月21日 灌頂院絵馬(朱馬)ご開帳
降誕会 6月15日
万灯会(盆踊り)8月15日 午後6時より
秋の彼岸会 9月21日
終い弘法 12月21日
大般若会 毎月1目
布薩会 毎月15目
御影供 毎月21目
骨董市 毎月第1日曜日

○拝観時間
夏時間/3月20日~9月19日
 (午前8時30分~午後5時30分)
冬時間/9月20日~3月19日
 (午前8時30分~午後4時30分〉
○宝物館特別公開
春季/3月20日~ 5月25日
秋季/9月20日~11月25日
金堂・薬師三尊・十二神将 重文
金堂本尊の薬師如来坐像と日光、月光の両脇侍菩薩像です。光背上には七躯の化仏を配して七仏薬師をあらわし、台座の周囲には十二神将像を配しています。これら三尊像は桃山時代の犬仏師康正の作で密教的な薬師信仰の形をとどめています(入場パンフレットより)
十二神将 重文
金堂本尊の薬師如来坐像の台座の周囲には十二神将像を配しています。
講堂 重文・室町時代
東寺の創建時にはなかった講堂は、天長二年(825)弘法大師によって着工され、承和二年(835)頃には完成しました。その後大風や地震で大破し、度々修理を重ねてきましたが、文明十八年(1486)の土一揆による戦火で焼失しました。現在の講堂は延徳三年(1491)に再興された建物で、旧基壇の上に建てられ、様式も純和様で優美な姿を保っています。
帝釈天 国宝
金堂・講堂など内部は撮影禁止なので、諸仏像、解説などは全て入場の時にいただいたパンフレットより集録しています
講堂内曼荼羅諸尊配置図
両界曼荼羅(りょうかいまんだら)
 「まんだら」は,仏語で本質を有するものを意味する。両界曼荼羅とは金剛(こんごう)界・胎蔵(たいぞう)界の両曼荼羅で,真言密教の二大経典である金剛頂経・大日(だいにち)経を典拠として密教修法(ずほう)のため描かれた絵画である。仏数的世界観を仏像を借りて図式化している。金剛界はかたくて壊れない金剛不壊(ふえ)の仏法世界を,胎蔵界は生成発展を象徴化し,理と智とは別物ではないという意味の理智不二,表裏一体の表現とみなしている。両者とも真言宗の本尊で万物にあまねく通ずる理智の本体大日如来を中心に,諸分身・諸眷族(けんぞく)・護法の諸神を四方に配置する。胎蔵界は累積的,金剛界は同じ大きさの九つの部分「九会(くえ)」からなる。
 両界曼荼羅は8世紀の初め善無畏(ぜむい)・金剛智(こんごうち)によってインドから中国にもたらされたとみられ,のち空海が師恵果(えか)から伝授され、806(大同元)年、唐から持ち帰ったものを正系「現団曼荼羅」とする。現存最古のものは高雄神護寺(たかおじんごじ)のもので,空海請来の転写であるが,彩色されていない。東寺のものは,もと宮中の真言院にあり,「真言曼荼羅」とよばれる。
南大門と金堂の間に立つ、金銅製六角灯篭
木立に囲まれて立つ金堂
金堂の屋根
金堂 国宝・桃山時代
金堂は東寺一山の本堂で延暦十五年(796)創建されたと伝えられています。文明十八年(1486)に焼失し、今の堂は豊臣秀頼が発願し、片桐且元を奉行として再興させたもので、慶長八年(1603)に竣工しました。天竺様の構造法を用いた豪放雄大な気風のみなぎる桃山時代の代表的建築ですが、細部には唐・和風の技術も巧みにとり入れています。(入場パンフレット)
金堂内諸尊配置図
五重塔に向かい、京都SKY観光ガイド協会ガイドさんから説明を聞く一同
金堂に向かう
金堂前で京都SKY観光ガイド協会ガイドさんの説明を聞く2号車の一同
南大門に向かい京都SKY観光ガイド協会ガイドさんの説明を聞く1号車の一同
南大門
瓢箪池の景観
逆光の五重塔
五重塔
五重塔(国宝)の如来像
南 宝生如来坐像 63.8cm
西 阿弥陀如来坐像 65.1cm
東 阿閤如来坐像 64.8cm
北 不空成熟如来 64.8cm
江戸時代寛永二十一年(1644)
五重塔は寛永十二年(1635)消失したため、同十八年(1641)明正天皇の詔を奉じて、三代将軍家光が大壇那となって寛永二十年(1643)より復興がはじめられた。過去に四度消失しており、五度目の塔となるわけである。初層内部は極彩色が施され、中央心柱を大日如来とし、四方柱に金剛界曼荼羅、四面の側柱に八大竜王、四方の壁には八祖像が描かれ、これら四如来とともに曼荼羅を形成している。
寺伝では長谷川等竹筆とされている。五重塔の初層は、毎年正月三が日だけ一般公開されている。(駒札より)
五重塔 国宝・江戸時代
東寺の象徴として広く親しまれている五重塔は、天長三年(826)弘法大師の創建着手にはじまりますが、しばしば災火をうけ、焼失すること四回におよんでいます。現在の塔は寛永二十一年(1644)徳川家光の寄進によって竣工した総高55mの、現存する日本の古塔中最高の塔です。
全体の形もよく、細部の組ものの手法は純和様を守っており、初重内部の彩色も落着いて、江戸時代初期の秀作です(入場パンフレットより)
[ 06:37 ] [ Doblog 朝顔・風船蔓部 ]
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シルバ様からいただきました種子で朝顔部(どぶろぐ・花環の会)から育てた朝顔が芯を止めたのでもう咲きました。
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「シルバさんの朝顔」の初咲きです