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なべちゃんの散歩道
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2006/03/09のBlog
[ 17:22 ] [ 丹(に)の国・綾部 ]
神の都・あやべ 1
 四尾山の尾根をふみしめて綾部をみわたせば眼下には由良川が、平野をおしわけて「く」の字に流れ、まちなみが人々のなりわいに息づいて横たわる。
 本宮山を中にした四囲の山々は丹波高原につながり、山なみがおだやかで緑が美しい。「山紫水明」がぴったりする平和な郷である。
 大本の神が、明治25年に「綾部は結構なところ、昔から神が隠しておいた世の立替えの真誠の仕組の地場であるぞよ」「三千世界の神々様守護神殿に気をつけますぞよ、谷々の小川の水も大川へ末で一つに成る仕組、綾部世の本誠の神の住いどころ」といわれたことばが、なるほどとうなずかれ、ズッシリと心にひびく。
 真誠の神とは、艮金神・国常立尊であることはいうまでもない。綾部を経綸の拠点としたこの神は、まず三千世界の立替え立直しを断行して「みろくの世」の実現を約束された。 では「みろくの世」とは、どんな世の中なのであろうか。筆先には「今度天地の岩戸が開けたら、草木も、人民も、山も海も光り輝いて誠にそこら中がキラキラいたして、楽もしい世の穏やかな世になるぞよ。是が誠の神世であるぞよ。
 雨も欲しい時分に降り、風も欲しいときに吹いて、人民の身魂も清らかになりて、天下泰平、天地の身魂が勇む世になるぞよ。月も日もモット光り強くなりて、水晶のやうに物が透き通りて見え出すから、悪の身魂の隠れる場所が無きようになるぞよ(明36・旧6・4)」と示されている。
 そしてこの大理想を地上に具現するために、人民の改心と御用をよびかけている。言葉をかえれば、「みろくの世」とは、神と人の共働のもとに実現される「神と人と自然の調和した世界」ということであろう。
 そのために世界中をますかけひきならし一つに丸めてしまおうとされる神の構想は、実に雄大であり、かつ悠久である。
 だがここで注目すべき神のことばがある。明治25年に神は「氏神様の庭の白藤、梅と桜は出口直の御礼の庭木に植えさしたのであるぞよ。福知山、舞鶴は外囲ひ。十里四方は宮の内、綾部まん中になりて金輪王で世を治めるぞよ」とのべ、またその翌年には「神、仏事、人民なぞの世界中の洗濯いたして此世を飜(かへ)すぞよ---
 あとは宜(よ)くなりて綾部を都といたすぞよ。綾部に天地の神々のお宮を建て三千世界を守るぞよ」ともあるように、綾部を「都」といたすと宣言されていることである。
 そこには綾部にたいする神のビジョンがズバリ明示される。神の住いどころであり、仕組みの地場に神の都をきづくことは当然のことであるがそれだけではない。
「世界の型をしてみせるところ」ともいわれているように、みろくの世の型、神と人と自然の調和した世界のヒナ型をまず綾部を舞台にして具体化されようとするところに、神の都としてのふかい意義が見出される。
 綾部の大本神苑がこの神のビジョンに基づいて着実に造営されつつあることは言うまでもない。綾部の神苑は、本宮山を中心として広がっていく。
 本宮山は「天の御三体の大神が天地へ降り昇りをなされて、この世の守護を遊ばす」最高の至聖所であり、山自体が御神体とされる。晩年の出口王仁三郎が直接に指揮監督してつくられた「月山不二」を、今は礼拝の対象としているが、ゆくゆくは山へ登ることが許されなくなる。
 その南麓の高台約8000坪には、100年の歴史をほこり、多くの人材を世に送り出した綾部小学校があるが、この敷地が市民の理解を得て大本の神苑に編入され、これを機会に壮大な「錦の宮」の建設が予定されている。(建設すみ
[ 17:21 ] [ 丹(に)の国・綾部 ]
丹の国・綾部 別冊:未来への対話
新しい生活圏の創造を目指して 別話:宗教都市として
綾部青年会議所編(なべちゃん注:昭和46年、38年前の綾部JC10周年記念事業)/なお、(斜字体)の部分は、出口栄二先生から再録に際し、いただきました加筆です。

別話:宗教都市として
<大本の未来論>
 この項は、編集者(注:綾部JC10周年記念事業:丹の国・綾部実行委員会)が、直接大本本部に執筆を依頼、許可を得て掲載した。
「ふるさと綾部」に、発祥すべくして発祥した「大本」は、現在にいたるまで、その町の盛衰に大きな影響を与えて来た。今後も又、それはますます密接な関係で強まるにちがいない。この「大本」教団の、はじめて公表される未来観は、わたしたち綾部市民にとって興味以上の強烈なものを感じさせてくれる。
 特に教育・文化への洞察と具体的な提示は、切実をもってせまるものがあろう。
「斜陽都市」の中で、現実日本列島の裏側に存在する都市をすべてこの範疇にはめこみ乍らも、「綾部」の項では、この「大本」を特記し、他都市の一般的斜陽化と区別しているのは面白い。
神の都・あやべ
まつりの宴(うたげ
教育の杜(もり)
生活の革新
平和のとりで
芸術の郷(さと)
[ 11:15 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
今回の島津室内テニス選手権大会の観戦は、昨年大風邪をひき京都府のスポ-ツ指導員講習会に出席できなかった代わりのポイント稼ぎである。4時間以上の観戦で1ポイント貰える。会場に9時前に着くと受付で指導者研修カ-ドをわたし申請をしておく(写真)。帰りに別棟にある大会本部までもらいに行けばカ-ドに大会印が押され返して貰える。C級スポ-ツ指導員は4年毎の更新で4ポイント必要。この種の大会観戦ポイントは2ポイントまで認められる由。
京都市体育館の室内テニスコ-トは、板フロアにテニスコ-ト用の植毛ゴム底マットを敷いたものである。砂を入れたオムニ・コ-トに外観は似ているが実際は固く、秋田史帆選手(愛知啓成高校)のように足をくじく場合もあるのかも。Bコ-トでシ-トの補修を試合を止めて行っていた。(写真)
主審の怪我をした選手に対するさりげない配慮に感心した。秋田史帆選手(愛知啓成高校)が靴を脱ぎ三度ほど包帯を巻く間待っている様子、また対戦相手の手塚玲美選手(プロ:フリ-)にも配慮し、肩が冷えないようにサ-ブ練習を許すなど見ていて好感の持てる名審判であった。ボ-ル・スタッフ、スコア・スタッフ(ライン・審判)なども良く統括されていた。
三名の専属カメラマンが大口径のレンズを短い一本足の三脚に付け、座りこんで選手を撮影していた(写真)。観覧席からの試合の撮影はフラッシュを使わない限り良いと云うことであったが、練習中に撮り試合中は遠慮するのが良いと思う。カ-ド型の記録用カメラで撮って見たが選手の動きが速く、流れた写真しか撮れなかった。望遠レンズのつくカメラで撮れば良い写真がゲット出来ると思う。
2006/03/08のBlog
[ 20:20 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
第3試合Aコ-トは、秋田史帆選手(愛知啓成高校)と手塚玲美選手(プロ:フリ-)の対戦。主審が先攻決定のコイン・トスをしているところ。
手塚玲美選手Teduka,Reimi(プロ:フリ-)
1980年6月9日生まれ、JTP:25
戦績:イサワ・クリスマス・オ-プン2005ベスト16
大会パンフレットよりコピ-
秋田史帆選手(愛知啓成高校)
高校生ながら第一セットは最初のゲ-ムを先取されたあと、強力なサ-ビス・エ-スと強烈なパワ-ショットを決め、見事はね返して6-2で先攻した。ところが足を捻挫?肉離れ?で救急スタッフの世話を受けるが頑張って試合続行。
左足に包帯を巻く秋田史帆選手(愛知啓成高校)
痛みに耐えながらゲ-ム毎に靴を脱いで包帯をまくなど第2セットを頑張ったが1-6で落とした。第3セットに入り見事なドロップ・ショットを決め、2-2で並び、やったと思ったが、あとが続かず3-6で終わり手塚玲美選手(プロ:フリ-)が勝った。
主審と握手する両選手。
秋田史帆選手(愛知啓成高校)は、強力なサ-ブ、決定的な返球コ-スなど優れた技術が見られ成長が楽しみな選手と思った。
手塚玲美選手(プロ:フリ-)もサ-ブも良く、沈着なゲ-ム展開で素晴らしかった。プロ選手として12日までの残り試合で活躍され、優勝されることを期待する。
この島津室内選手権大会(JTTツア-)は、来春の東レPRO本戦(WTAツア-)予選ワイルド・カ-ドで出場、さらにウインブルドンなど(グランドスラム大会)へと繋がっている。
[ 19:49 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
風邪をこじらせ咳が抜けないままJR二条駅からタクシ-で京都市体育館に行く。
3月8日の第1試合Aコ-トは青山香織選手(プロ:田辺工業)と尾崎真衣加選手(プロ:フリ-)のどちらも予選出場選手同士の対戦であった。Bコ-トも女子シングルス対戦、Cコ-トは女子ダブルスの対戦であったが、もっぱらAコ-トのみを観戦した。
対戦結果は、6-2、6-3で尾崎真衣加選手の勝ち。
第2試合Aコ-トは、ミハル・メルティナク選手(スロバキア)とヤコブ・アダクソン選手(スエ-デン)の対戦だった。
ヤコブ・アダクソン選手(スエ-デン)
対戦結果は、6-3、6-3でミハル・メルティナク選手の勝ち。強烈なサ-ブが決まり勝因となっていた。
第4試合Aコ-トは、リ-・チャイルズ選手(イギリス)と廬彦勲選手(ソニ-)の対戦。
主審がコインをトスしてサ-ブ権を決めているところ。
2時を廻ったので試合結果は見ずに帰った。
廬彦勲選手Lu,Yen-Hsun(ソニ-)
1983年8月14日生まれ、国籍:TPE、ATP:131
大会パンフレットよりコピ-
2006/03/05のBlog
[ 19:17 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
1.京都府テニス協会から下記の島津全日本室内テニス選手権大会の案内が来ております。
入場券はスポ-ツショップ・OZ(角野副会長)にあります。
スポ-ツ指導員の皆様には観戦(4時間以上)されると、1ポイントになります。
(記)男子国際大会:SHIMADZU CHALLENGER
第42回 島津全日本室内テニス選手権大会
2006年3月6日~12日:9時頃から試合開始
場所:京都市体育館
主催:財団法人日本テニス協会
主管:京都府テニス協会
2.播磨町テニス協会メンバ-と交流試合
3月12日(日)丹波自然公園テニスコ-ト(須知)
兵庫県播磨町のテニス協会一行が11~12日合宿で見え、当協会有志と交流試合を行います。都合のつく方は参加ください。連絡先:塩尻理事長まで。
2006/03/02のBlog
ようこそいらっしゃいました。
なべちゃんの散歩道には、3ケの歴史関連ブログがあります。
文化財を訪ねて: 研修旅行記(京都・奈良・滋賀など)
あやべの文化財: 綾部・周辺の社寺、文化財、祭りなど取材記
丹(に)の国・綾部: 冊子「丹の国・綾部」の紹介
上記をクリックしてご覧ください。順次それぞれの目次を作成しようと進めています。ただしブログ全体の時間順になりますので、他のジャンルが間に入ります。連続して見られるには、上のジャンル別ブログの方が便利です。
[関連したBlog]
38年前に発刊された冊子「丹の国・綾部」の再録をブログで紹介しましたが、薄穂たなびく(口上林)85p に誤りがありました。口上林でなく於与岐から撮られた写真でした。
HP:「ようこそ! 弥仙山の里へ」のよっちゃん様に確認していただきました。
よっちゃん様へメ-ル
ご無沙汰しています。
この度の「森林浴」の素晴らしい作品に観光協会長賞ご受賞の記事を市民新聞で拝見いたしました。こころからお祝いを申し上げます。・・・
私のブログに記載した「丹の国・綾部」の「薄穂たなびく(口上林)85p」とあるのは、弥仙山・於与岐町ではないでしょうか?
間違っていれば修正したいと思います。弥仙山が上林からではこの角度で見えないのでは?あるいは弥仙山でない??
よっちゃん様からのご返事
確かに於与岐から写した弥仙山のようです。
たぶん、大又のNさん宅付近から撮ったようです。
同じような場所から、広角で弥仙山を写した写真を送ります=添付写真です。
比較してみて下さい。
余談ですが
あやべ 地域情報発信ブログ(実験)
東八田地区を担当しています。
ついでのときにでも、ご覧ください。
2006/03/01のBlog
2006/02/28のBlog
薄穂たなびく(口上林) 85p
撮影場所は於与岐町に訂正いたします
写真は全てクリックすると拡大します。
由良川暮色 86・87p
虫取りの子供たち 88・89p
綾部市鳥瞰図 差し込み図
冊子「丹の国・綾部」の写真について記録します。(なべちゃん記)
 10周年の3年位前から、綾部綾部青年会議所で次々と写真コンテストに取り組みました。これは綾部市のアマチュア写真グル-プと親しかった大槻高仁君をJCメンバ-に迎えたことも要因の一つです。冊子:丹の国・綾部の写真班長を務めてくれました。
 「綾部の魅力と恥部を探る写真コンテスト」:高度成長期、大都会指向で、ふるさと、自然は綾部の恥部でした。→「綾部再発見・綾部の良さを見つける写真コンテスト」→引き伸ばして何十枚もの写真パネルを作り→「丹の国写真展」:市民センタ-1F回廊/総合文化祭などで展示→「丹の国・綾部の発刊(プロロ-グ、写真編、歴史編、未来対話編)
 冊子の写真の一部は、あとで綾部の写真家グル-プで再撮影して貰ったのもあります。(ここにコンク-ル参加入選者名簿・写真特別班などでお世話になった方々の名簿を記載しています。現在も第一線で活躍の方々のお名前も見えます。)

 青年会議所の写真との取り組みは更に続き、→「由良川下り写真コンテスト」→「丹の国綾部・絵はがき」作成・・・
 写真活動は、担当の大槻高仁君を中心に取り組みました。選考基準は、良いものは良い、悪いものは悪いでした。多くの応募作品の中から、市長賞など特別賞の選考も、並べれば大体決まってきました。佳作もここまでだな-の感じで選べました。
2006/02/27のBlog
山家立岩付近の景観 79p
以久田野農場 80・81p
野立て 紫水ケ丘にて 82p
平和塔(世界連邦平和都市宣言第一号記念) 83p
丹波ライン「立岩」 (由良川) 84p
あゆは瀬にすむ
鳥は木にとまる
人は情けのなかにすむ

綾部民謡杭打ち歌より
大本・つる山織り 73p
農林省蚕糸試験場 74p
蚕 繭づくり 74・75p
綾部茶 豊里にて 76・77p
旦寺の竹細工 78p
大本節分大祭 瀬織津姫の行列 68p下
人形流し(大本節分大祭でのクライマックス) 69p
天王平 大本の開祖・聖師・二代教主奥津城がある(上野町) 70p
おふでさき 71p
開祖出口なお刀自が帰心状態で自動書記的に手紙二十万枚を執筆、おふでさきの根本主張は、世界の立替え立直しであり、世界の進歩と発達についての偉大な預言・警告書である。
大本・つる山窯 72p
2006/02/26のBlog
大本・月山不二 65p
世界の中心は丹波綾部であるとする大本の最高聖地の一つで、世界の中心点ともいうべき所である。
頂上には延暦二十一年の富士大爆発の際噴出されたといわれる霊石を安置し、ミツ葉の松が植えられている。
和紙の村 黒谷全景 66・67p
紙漉き 67p
”丹波路・・紙すき村” 大佛次郎 石の言葉より67p
古くからの日本紙、純粋な和紙をすいている村があるからと聞いて、丹波路の秋をさぐりながら行ってみた。

峠を越えて丹波にはいると四方を山にかこまれて、美しく豊かな盆地がひらける。色づいた柿の梢が花火のように、どこにも眺められた。冬菜やねぎの色が畑に目にあざやかに青い。

わら屋根の家が多くなった。雪が多いせいで急な傾斜で直立した形なのが美しい。台地の上に見る部落全体が、このわら屋根を点在させて秋の日に浴している。道に野菊がさいているのも久しぶりで、日本の自然の中にはいった心持ちであった。

綾部から日本海岸の舞鶴へ出る街道にはいった。分水嶺を越えたので川が北に向かって流れている。紙を抄く里は街道からはいって山陰に小さい流れにそってあった。
きれいにすんだ水流の中に、紙の原料になる楮の樹皮がたばねて水にさらしてある。
民家の庭の日だまりには、莚の上で老婆が丹念に楮の皮をはいでいた。部落の全体が協同で紙をすく仕事をしているのである。作業場の土間の奧まで秋の日がさしこんでいた。
大本節分大祭 大祓神舞 68p上
高津八幡宮(高津町) 59p
小貝町にて 60p
大本・金龍海 61p
大本の神業意識は「綾部は世界の中心」とし、金竜界に五大州のひな型として島々を作り、世界的経倫の型としている。
大 本・みろく殿 62・63p
祈り 64p
筍占い 志賀の七不思議 (志賀郷町) 55p右
最も古く、かつ素朴な農耕神事の姿を今に伝える、篠田神社の 「たけのこ祭」は、二月四日、寒中にとりおこなわれる。
筍占い 志賀の七不思議 55p左
「子さづけ信仰」水分神社(於与岐町) 56・57p
「子さづけ信仰」水分神社(於与岐町) 57p
式内社 河牟奈備神社(口上林) 58p
2006/02/25のBlog
お旅の行列 島万神社 祭礼 (西八田) 51p
やあ、おれをしのばば、茶えんの中に おまちやれ へへ
もしかも さそうと 人とはば しん茶をつむと こたえさしょ
ほほとろ ほほとろ とほ
オ- あさつゆ 一度はおちょうて
よるものに よるものに

島万てんてこ舞 六番音頭 しのびおどりより
島万神社 てんてこ舞 52p
室町時代より祭神 須佐之男命にささげたのがはじまりで、天の岩戸神楽を表現している。
小畑のやっこ振り 53p
古来当地方で有名な祭りである。そのにぎやかさは、近郊の祭礼中、最も人出の多いのは、吉美高倉神社の祭、最も盛んなのは小畑の馬場といわれた。
筍占い 志賀の七不思議 (志賀郷町) 54p
筍占い 志賀の七不思議 篠田神社(志賀郷町) 55p上
たったの金比羅さん (中上林) 48・49p
約260年前から続いているこのお祭りには、特定の神社がなく、交替に農家を持ち回って行われる。
その昔、死を賭して部落を救った三義人をたたえ、大願成就の祈りにこたえてくれた金比羅さんを部落の守り神として、お祭りをするのである。
たったの金比羅さん(中上林) 49p
たったの金比羅さん(中上林) 49p
狂言と太刀振り阿須々岐神社(志賀郷町) 50p
狂言と太刀振り阿須々岐神社(志賀郷町) 50p
2006/02/24のBlog
月見町寸景 43p
べにがら格子に花街の面影を偲ぶ(月見町) 42p
明治初期のハイカラ邸(田町) 44p
昔の繁華を物語る三殿妻飾り(本町) 45p
たったの金比羅さん(中上林) 47p
九鬼氏ゆかりの井堰(並松町・味方町) 38p
夏雲白し 山巾広し 市をなす
井泉水
常夜灯 39p
愛宕山信仰は今なお民衆の中に生きている。
武家屋敷長屋門(中上林) 40p
武家屋敷(中上林) 41p
武家屋敷(上野町) 46p
聖塚 秦氏ゆかりの方形古墳(多田町) 34p
栗城 址(栗町) 34p
新熊野神社(並松) 35p
岩王寺(七百石) 35p
古刹那智山正歴寺(並松町) 36・37p
2006/02/23のBlog
以仁王伝説ゆかりの大塚(青野町) 28p
君尾山光明寺・国宝仁王門を望む(奥上林) 29p
幻の大橡 樹齢約2000年(奥上林) 30・31p
光明寺より丈なす熊笹をおしわけ、稜線を進むこと約一時間。西北の谷間にその巨観をみる。
なべちゃん注:右にある虚(うろ)から、この世を覗かれているのは、綾部青年会議所認証十周年実行委員長、「丹の国」と「人間調和都市」の生みの親:故塩見清毅さんです。清毅さんのなされた偉大な御業績と先見性を偲び、ここに、ご冥福をお祈り申し上げます。
大本聖地・本宮山 32p
安国寺春色(東八田) 33p
足利尊氏生誕の地。 桜・紅葉の名所としても有名である。
弁天の滝2(奥上林) 23p
丹波筍の名産地・報恩寺(ほうじ)にて(報恩寺町) 24p
養蚕のメッカ・京都府立農事研修所(豊里) 25p
東八田施福寺 26p
お前みたよな、芍薬の花が 咲いております くる道に
綾部民謡「糸つむぎ歌」より
弥仙山全景 27p
丹波道主命ゆかりの於与岐町は綾部で最も早く開けた処の一つである。中世山岳仏教の一大道場ともなり、近年は大本の霊場として市民の尊崇を集めている綾部のシンボルともいえる霊山である。
春の岩王寺(しゃこうじ)(七百石町) 18p
古屋の初夏(奥上林) 19p
古屋二軒家(奥上林) 20p
水車(位田町) 21p
弁天の滝1(奥上林) 22p
2006/02/22のBlog
四ツ尾山全景 13・12p
長宮峠:いにしえの主要道 14p
綾部の霊山 弥仙山々頂よりの展望 15p
弥仙山登山道(於与岐町) 16p
弥仙山々頂より 17p
[ 11:18 ] [ 丹(に)の国・綾部 ]
丹の国・綾部 エピロ-グ 著:綾部JC十周年実行委員長:塩見 清毅(故)

終わりなき終わりに

綾部青年会議所の
十年の歩みは
その「綾部」なるが故に
その「青年」なるが故に
わが愛する郷土---
綾部という町の
理念の追求と
輝しい未来像への
挑戦の歴史であった。

幾多の屈折と
試行錯誤をくりかえし乍ら
その長い苦しい
模索の中で
文字どおり 血を吐く思いで
この一冊が出来上がった。

作業のくるしみは
創造をこえていたが
とりわけ
我々を
なやましつづけたのは
長い間
陽の目をみなかった
歴史の
怨嗟の声であった。

「知識」の場からでなく
「生活」の場からの
問題提起や
思想の展開は、
「矛盾」と「撞着」を
現実
その「からだ」に感じているだけに
「知識」の場からの
それ等のように
明晰ではないであらう。
しかしそれだけに
切実な訴求を
こめたつもりである。

この我々の
思想の提起が
綾部のあらゆる人々の
熱っぽい
わきたつような
「ふるさと」への
情熱と指向に
火をつける事を願いつつ。

さらに
日本列島の中で
「過密」にあえぐ人々のためにも
「過疎」でなやむ人々のためにも
その心の中に
「ふるさと」を よみがえらせ
真に
日本としての日本の
未来への凝視を うながしつつ。

終りなき終りの結びとする。
2006/02/21のBlog
[ 14:15 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
享年90才5ケ月余の天寿を全うして、母が眠るが如く安らかに永久の眠りにつきました。生前に皆様から寄せられました暖かいお見舞いやご友情に対しまして、心から厚く御礼と感謝の意を申し上げます。
 昨年家内が風呂場で滑って肋骨4本の骨折をして3ケ月間の治療期間中、母のベッドと車椅子の移動など介護が困難となり、幸いにも近くの老人施設に母を預けることが出来ました。その間、痴呆症の進行の為かうつらうつらしている状態が多くなっていました。
 2月14日(火)に退寮する前日、お腹を下し吐いた、食事がとれず微熱があるという連絡があり心配しましたが、翌日は食事も食べ微熱も治まりました。
 老人施設に母を迎えに行った帰りに、念のため何時も世話になっている家庭医の内科医院に寄り、丁寧に診察していただき、インフルエンザの症状はない(予防接種済み)とのことで4日分の薬をいただいて帰りました。
 家では微熱もなく、食事もきちんと食べ(自分で口元まで食事を運ぶのですが、口に入らなくなっていました、施設では自分で食べられたとのことです)、便も普通でした。2人がかりで立たせオムツを替えるのですが、ベッドの手すりに力一杯しがみつく様子でした。17日(金)夜8時にベッドに寝かしつけ、10時に熟睡の様子を確認して私も寝ました。18日(土)明け方6時半に寝たままの状態で呼吸が止まっているのを見つけ、内科医の往診を頼みましたが、既に手の施しようもなく心不全の死亡診断でした。
 シティホ-ルで行いました、お通夜も告別式にもたくさんの方々に参列していただき、お見送りいただきました。また丁重なお供えや供花、弔電などを頂戴し、隣組の方などには、受付などのお世話を賜りましたこと、重ねて心からの厚くお礼を申し上げます。
2006/02/20のBlog
補 論
 現在、「後進」と「過疎」故に、綾部の思想と生活がある種の諦観と沈滞に追いやられている現状は否定出来ないが、要は逆にこの「ふるさと」という未来都市論理の確認と、先取りする心がまえさえあれば、あとはテクニックというか、行政なら行政による調和のとれた集落と土地の再編成--線引きであり、合意に立った社会資本の導入と参加等であり、容易に逆転するチャンスがあるのである。

 従って先ず、綾部のふるさと的価値が、未来都市たり得るという確認と、そしてその方向にむけての市民の意欲的な意思統一が大切である。

 このふるさと意識という前駆的精神面の開発が、眠っている綾部の赤々としたナショナリズムを覚醒し、そのプライドとエネルギ-が現実「ふるさと」未来都市を夢に終わらせる事なく、実現具体の原動力となるであろう。
即ち先ず、本書全体から感じられる、古く美しい豊かな自然と風土、更に掘下げて大和以前の出雲精神文化圏の一大拠点。住民の土着信仰の中になお生きる、天津神以前の国津神々の真の日本の原像としてのパタ-ン。

 その二つが長い風雪に耐え乍ら、地下水の様に脈々と継承され、人間を育て、文化を作り、遂には大本教の「世界の中心」発想。更には近年世界連邦都市の第一号宣言に見られる、その精神的な日本の中心的位置づけを想えば、日本のふるさととして、真の人間調和都市としての大前提は他に類例を見ないのである。

 この根源的基盤に立って、産業や教育や住宅等々の「仕事」「暮し」のバランスを考察して見ると、夫々にその未来的萌芽の可能性が多面的にある。

 その未来的展開論は別冊にゆずるとしても、例えば当然「ふるさと」は農業や観光を真の本源的意味で未来づけるであろうし、工業に就いても、日本の工業が従来の労働集約的、加工生産的なものを超えて、知識産業、装置産業に志向するとなれば、又教育や住宅の未来的環境を思えば「ふるさと綾部」はその基盤的条件を具備しているし、地域地場としても、日本海時代の到来を背景にすれば、丁度日本海ベルト地帯の中心であり、それが更に日本列島の中心近畿圏と重なる極めて枢要な位置にあるのである。

 それ故にこそ、大都市に、又他の都市には見られない、真の意味の調和都市たり得ると考えられる。従って、今はやりの広域経済あるいは行政圏の構想が具体化したとしても、その中で割拠する個性偏向都市群(例えば臨海工業都市、商業都市、農林業都市、内陸工業都市、観光都市等々)を、綾部はその調和性の故に求心的につなぐ中核都市として動きをなすに違いないと考察出来る。

 本論は、本書の「ふるさとへの回帰」と別冊の「ふるさとの具体的未来展望」の継手の役目を果たすものであるため、ある時は抽象に又ある時はメンタルに傾斜したけれども、所詮「物」から「心」への確証的な未来予測理論ドライブに沿って論じて来たのであるから、当然の論理に帰結したといえると想う。
2006/02/19のBlog
日本の未来、未来都市の理想型、後進都市の開発戦略視点、日本海時代、といろいろな角度から論旨をかなり重複させ乍ら進めてきたが最後に、現実ふるさと綾部にせまらねばならない。

 綾部市は京都府のほぼ中央、東経135度16分、北緯35度18分に位置し、京都市から76粁、大阪から80粁の圏内にある。
 市域は北に舞鶴市、西に福知山市と周囲二市四町と福井県に接する丹波の心臓部である。国鉄山陰本線は綾部駅で分岐し、宮津線、北陸線に接続、又国道27号線が市東部を、国道9号線が市外南部を走り、京都、大阪、舞鶴若狭、福知山、山陰を夫々連絡路としての役割を果たしている。

 市域は又中国山系の山々から流れる由良川及びその支流沿岸に形成された盆地にあり、面積の三分の二は山岳地で占め、特に東北部は五百米級の山が点在し、北桑田三国連山に連なり、中央部より南西に平坦な沃野が福知山盆地まで広がりを見せ、東西36粁、南北16粁、総面積348平方粁、近畿78市中、三番目の広さを有している。

 人口は約4萬4千人を数える・沿革と歴史は、本書の第一話から第六話にわたる歴史を横割りにした物語と、フォトグラフィに見られる如く、古代、出雲文化圏の一つの大きな拠点としてひらけ、大和時代には「いかるが」(綾部市の旧郡名)富緒川(現在の安場川)等と奈良にゆかりの地名に象徴される様に栄え、大陸からの帰化人で綾織りに長じた漢人の集落漢部郷として登場以来、中世には中央貴族や社寺の荘園として富み、

 近世には小藩とは言え、九鬼水軍で有名な九鬼氏の善政の下に推移、明治以後アヤヒトの伝統が蚕都として復活発展、一方長く受けつがれて来た住民の心が、民衆の宗教大本となって結晶具現、昭和十年綾部の黄金時代をむかえるに至る。

 その後、大本教の弾圧、戦争、戦後の混乱と社会構造の激変、加えて日本列島を表と裏にひきさいた跋行的な経済成長により、止め様もない人口流出に見舞われ、明治末期の人口に逆行する程に落込みを余儀なくされ、尚この状態は傾向化されるかに見える。
 事実低生産の産業構造と伸び悩む市民総所得の中で、市財政は極度に窮乏化し、市も市民も綾部の将来を見失なおうとしている。

 しかし、此処で重要な事は、既に論じてきた様に、この「後進」の現状こそが逆に未来的可能性に置換出来る事を確認せねばならない。前述の日本の将来、都市の未来、後進都市の開発視点、日本海時代の到来等々の結論を想起すれば、その気になりさえすれば一転して、今こそ「ふるさと綾部」の出番である。と考えられるのである。