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なべちゃんの散歩道
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2006/02/08のBlog
スカイバレ-・ト-ハチ・スキ-場ゲレンデ図
昼食をしたロッジ
昼食風景
登録会費1000円の払い戻しをもらい好きなものを注文して食べる。通り抜け式のレストラン、お盆を持って注文するとわたしてくれる。カツカレ-と飲み物(セルフサ-ビス)を乗せレジで代金を払う。
昼食風景
昼食風景
すべり
O夫人のすべり
すべり
すべり
Iさんのすべり
雪山風景
ちょっと一服
開けた展望
Sさんが下りできた
チ-ズ
2006/02/07のBlog
遠景の山々
ゲレンデ風景
またリフトで上がる
山々が見渡せる
滑降の途中で一時休憩中
山頂のリフト回転部
途中で一時停止中
皆揃っている
遠景の山々
遠景の山々
東鉢伏に渡るためにさらにリフトの乗り継ぐ
東鉢伏麓まで滑り登りリフト
雪を被るスキ-場と遠くの山々
スカイバレ-・東鉢伏スキ-場の案内
SKYVALLEY
イ-グル・コ-ス (上級者ル-ト)→
↓サンダ-・コ-ス (上級者ル-ト)
斜↓テイア・コ-ス (上・中級者・ル-ト)
斜↓(中・初級者迂回ル-ト)(6号クワッド・リフト 山麓駅方面)
←東鉢伏スキ-場方面
2006/02/06のBlog
順番にすべる。
顔を見せて
ボ-ダ-が休んでいる
隣のゲレンデに渡る。
こちらも広いゲレンデ
ボ-ダ-が随分沢山滑っている。
休んでいるボ-ダ-
滑る前のメンバ-
リフト降り場付近
さあ滑ろう
1月16日(月)快晴。シルバ-・エイジばかりの銀嶺会のスキ-ツアに初参加。
中筋公民館集合、メンバ-の車(4台)に分乗して、夜久野ドライブインでミ-ティング、会費(交通費1000円、リフト台、昼食費など)を払う。スカイバレ-スキ-場に到着し、シルバ-一日券の支給を受けて登高リフトに分乗。昼食時の集合ロッジにつく。一行13名。
ロッジ前にて
リフト
リフト頂上
更にリフトを乗り継ぐ
2006/02/05のBlog
梅松の里 2
 開教六十年を記念して完成した本宮山麓のみろく殿は、総面積1865平方メ-トル、高さ23メ-トル、789枚の畳がしかれ丹波路にその偉容をほこる・みろく殿はまた、五六七殿、弥勒殿ともかき、すくいと平安な世界をまつ民衆のねがいがこめられていて、毎年、節分大祭、みろく大祭、大本開祖大祭がおこなわれる。
 二月の節分は、太古に天地の親神が世の艮におしこめられた受難の日、また時みちて明治二十五年に大本に出現された日である。大本ではこの日をしのびおいわいして、大祭と大祓の神事が夜をてっしておこなわれ、市長、市議会議長、自治会長、商工会議所会頭などが全国代表とともに感謝の玉串をささげる。
 全国各地や海外からもよせられた人型三百万体が神前に祈念され、和知川の清き早瀬にながされるさまは荘厳かつ詩情ゆたかな情景で、「福は内、鬼も内」の豆まきとともに特有の行事として知られる。殿外では大かがり火が火の粉を天にたかくふきあげ、家族つれだった人々で苑内はにぎわう。お祝いの甘酒に気はいさみ、福ダルマに明日の幸せをたくして立春をむかえるのである。
 みろく殿をまわると、タンタンとはたの音がひびく。さそわれるままにゆけば金龍海のほとりおくまったところに白かべの、つる山織工房がみえる。機織のまち綾部の伝統がうけつがれているのであろう。手びきの糸、草木染、手織りの手法に近代的創意が工夫される。金龍海畔に湧きでる鉱泉にひたした草木染糸の絵模様はひときわさえて美しい。
 工房からさらに歩をすすめると、本宮山のふもとにはつるやま窯がきづかれている。素朴な祈りのなかに暮らしの焼物をつくりだし、その作品には土の香りと人間的なあじわいがにじむ。個性がひかり古い丹波の心がいきづく。訪れる人がときにロクロをまわし創作のひとときをたのしむのもここである。
 神苑の松はときわのみどりをたたえ、白梅は春のかおりをひめてしずかにゆれる。やがて紅梅がさき、桃の花が人々の目をたのしましめる。桃の林をわけいると大本発祥の地・元屋敷が開教の苦難をひめてしずかにかたりかけてくる。つつじがすめばあやめ、花菖蒲とつづき、五大州をかたどった金龍海の水面には水蓮が華麗な姿をみせる。秋は七草に萩、月にさそわれてひときわ詩情をさそう。
 神光は地にみち、「花咲きにほひ鳥うたひ、玉の小琴は時じくに、床しく ひびき・・・」とある賛美歌そのままに、神と人と自然がうつくしく調和した綾部の梅松苑は、とこしえに世の親神のしずまる、民衆のなつかしいふるさとである。
 人々はここに憩い、ここに祈り、ここにあそび、ここに学び、ここに行じて明日への活力をつちかうことであろう。
梅松の里 1
 綾部の大本は本宮山をかなめとして30万平方メ-トルの神苑がひろがる。世界の中心となり、祭祀と機のしぐみの地場として、大本は綾部のまちとともにさかえてゆく。
 砂利をふみしめて本宮山にのぼれば、陽ざしをあびてひろがる松林ごしに二つの大きな碑がのぞまれる。一つは開祖の筆になる神声碑「うぶごえ」であり、一つは聖師揮毫の「大本教旨」碑である。
 かって「この碑がたつと、まもなく大きな事件がおこり世界的に発展する」と予言し、「今後いろいろ世の中におこってくることは、神界の経綸が実現の著についたこと」だとのべた王仁三郎の声があざやかによみがえってくる。いま目の前にみる碑は昭和二十七年に再建したものだが、最初の碑は昭和六年九月八日に建てられた。その十日後には満州事変がおこり、やがて第二次世界大戦から日本の敗戦へと泥沼の歴史がつづられたのだが、大本の教えと神の経綸を象徴し、印象的である。
 碑面をたどれば神声碑には「三千世界一どにひらく梅の花、もとの神世にたてかえたてなおすぞよ。すみせんざんにこしをかけ艮の金神まもるぞよ」とあり、また教旨碑には「神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の大司宰なり、神人合一してここに無限の権力を発揮す」と刻まれているのがよみとれる。
 この簡潔な宣言のなかには、立教の根本精神である民衆救済の理念と人としての使命が明示されている。一語々々、しずかにくちずさめば新たな感動が肚のそこからわきあがる。
 本宮山は鶴山とも、また円山ともよばれ、綾部をとりかこむ連山の中央にあって蓮華台をなす丘である。頂上には「月山不二」が半円形に土をもりあげてきづかれ、延暦二十一年の富士大爆発のさい噴出したといわれる霊石をおき三ツ葉の松がうえられている。旧七月六日の夕から七日間神集祭がおこなわれ、天地の神々がつどい一年間の世界のしぐみを定められる重要な神事とされている。
 山の一角には市の水源地があり浄水はここから綾部の各家へくばられている。お山に水があがるといわれた開祖の言葉の実現をよろこび、綾部と大本が一つにとけあった姿を記念して、「本宮山に和知川(由良川のこと)の水くみあげて生命の真清水ながしゆくなり」とうたわれた二代教主出口すみ子の歌碑がたつ。この碑の前でうつされたすみ子刀自と長岡市長の写真が大本歴史の一コマをかざる。
2006/02/04のBlog
不死鳥のごとく
 昭和二十年十二月八日、綾部の神苑は十年ぶりでよろこびにわきたった。神苑は十一月に町当局から大本の手にかえり、武徳殿一棟が提供された。彰徳殿と命名して大本事件解決奉告祭がおこなわれ、ここが、不死鳥のごとくよみがえった大本再建の舞台となったのである。
 終戦後の混乱と欠乏のさなかで信者の奔走はもとより、地元官公署や町の人々の協力があったことはいうまでもない。この劇的再出発を記念して、神前にささげたお供物が町内各自治会へくばられた。
 弾圧下で不屈の魂はもえ、神の殿堂は信者の心にきづかれていた。厳冬をへた草の芽が春をまって萌えいでる生命のつよさにもにて、あざやかな新生であった。
 日本の敗戦は天皇の神格否定、平和憲法の実現、信教自由の獲得をもたらし、民衆ははじめて歴史の表にたつ。明治二十五年に民衆の神として出現した艮金神のゆめが達成される条件が、ようやくみたされたのである。新発足後の大本運動はここを原点として展開され、今日の大本がきずかれてきたことはいうまでもない。
国家権力とのたたかい
 天王平らが薄暮のなかにうかぶ。そこは由良川にそそぐ田野川のほとり、上野町と田野町のさかいにある丘である。くれなずむうすやみのなかで、突如むせびなく声がもれる。 かみしめても、かみしめても、唇をわってこみあげてくる悲しみといかりの声である。ふきあげる涙をぬぐおうとはせず、人々の手によって開祖の柩は木馬にうつされ、竹レ-ルの上をしずかにすべる。足どりは重く、二百メ-トルにもみたぬ道のりが地の果てにまでつづく思いであったろう。
 開祖の柩は共同墓地の小さな片隅にうつされ、もとの奥都城はあとかたもなくこわされた。昭和十一年五月のことである。
 昭和十年十二月、当局は再度の弾圧を大本にくわえ、「地上から抹殺する」と豪語して破却の第一槌を、こともあろうに開祖の墓にむけてきたのである。「官憲をごまかして人夫にやとわれ、開祖の柩を信者の手でおうつしできたことがわずかな安らぎでした」とかたる回想に、当時の苦心のほどがしのばれ新たないかりがわきあがる。
 死者の霊を手あつく葬るのは日本民族の伝統的美風であり、墳墓をゆえなくあばくことは国の法律がかたく禁じている。官憲だからといってこのような暴挙がゆるされてよいものだろうか。しかもこれがはじめてではない。大正十年の第一次大本弾圧のさいにも当局は再度にわたって改築を強制し、これが三度目である。
 第一次弾圧では本宮山の神殿がこわされ、王仁三郎以下三幹部が検挙されたが、第二次弾圧は徹底していた。総元締めの内務省警保局長が自らのりこみ、全国に指令して「塵一つのこさずやっつけろ」というのだからすさまじい。
 王仁三郎以下幹部61人が根こそぎ検挙され、拷問のため多くの犠牲者がでた。綾部・亀岡の神苑は坪当たりバット(煙草)一つにひってきする捨値で町当局へ強制売却された。書籍、書画、祭具などは手あたりしだい消却、240棟の神殿などはことごとくつぶされ、雄大な五六七殿(みろくでん)は柱をきりロ-プで一気にひきたおされた。
 ダイナマイトの爆発、轟音、土煙り、地ひびきは「世の終わり」として回想され、大本の「冬の時代」はまた綾部の沈滞にもつながっていた。金龍海は埋めて運動場となり、ポッンと榎木がのこされたわびしさは、記憶になおのこされていることだろう。この神木の榎木は由良金一氏の努力によってやっとのこされたのである。
 約1ヶ月のあいだ、延9934人の人夫が破却に動員され延6785人の警官が取締りにあたったというのだから、大本にくわえられた官憲の圧力がいかにきちがいじみたものであったかがわかる。
 本宮山にのぼれば、たたきわられた石の手洗いがのこされている。その右手には爆破された歌碑の片々がつみかさねられ、くずされた東石の宮が当時の無謀なふるまいをものがたってくれる。三十年余の風雪にたえてなお生々しい弾圧の爪あとをみつつ、国家権力はなぜ、このような狂気の弾圧を大本にくわえたのであろうか、と思う。
 当局はいう。「直に憑依せる神の威厳及び右教義の崇高なることを誇示宣伝する意図のもとに、天皇の叡慮を干犯し、天皇の威徳を冒涜し、天皇の統治権を無視した神諭と原稿を作成し、共謀してこれを神霊界に発表した」と。また「大本教義の根幹をなすものは立
替え立直し、即ち五六七(みろく)の世の実現の思想なり、右はもとより単なる精神的なことをいうに非ず、現実の政治、経済革新の思想」と。
 だから天皇に不敬であり国家変革の思想だというのである。これは宗教の存在を否定する暴言といえよう。宗教が神の愛をとき神の理想とする世界を地上に実現しようとするのは当然の使命である。当局が大本を不敬とし邪教とする根拠は、明治憲法が規定した「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」、および旧刑法の「皇室に対する罪」にある。
 明治維新後支配権力は、天皇を「現人神」として宗教的権威をつくりあげ、最高の神、絶対者として民衆にのぞませた。そして「宗教の教理が時の支配権力や国家組織と相容れない場合、又は当局の忌避にふれるが如き内容をもつときは邪教」と断定するというのである。
 正しい神を否定し神のうえに人為の権威をおく者こそ「不敬」ではないのか。信仰者にとって不敬とは、「神への不敬」をいみすることはいうまでもない。大本事件は第一次、第二次ともに免訴となり当局の意図は挫折した。だが上告審の判決で治安維持法違反を無罪としながら不敬を有罪とした事実をかるくみることはできない。
 前後十六年におよぶ法廷闘争は一応の結末をみたが、はたして支配権力とのたたかいはおわったのであろうか。
 今日も青くはれわたった空を白い雲がゆったりとながれていく。あの雲のようにしずかな平和が、このまま世界の空に、綾部の町に大本のうえにおとずれてくるのであろうか。
2006/02/03のBlog
世界にむかって
 大正十年十月、王仁三郎は「霊界物語」の口述をはじめた。第一次大本弾圧のため、白木の香も新しい本宮山の神殿が官憲の手でつぶされる二日前のことである。綾部の並松にある松雲閣(現在の料理旅館・現長)が口述開始の舞台となる。このあたりは由良川にそった古い街道すじで、松の並木がほどよく影をおとして往きかう人々のいこいの場となっていた。夏ともなれば水無月祭りの万灯流しや花火でにぎわう景勝の地として知られる。
 霊界物語は、高熊山修業における神の啓示を中心に王仁三郎の思索と研鑽を集大成した神示の一大創作で、「天祥地瑞」をあわせて全八十一巻におよぶ。大本では筆先とともに教典とされるが、はからずも官憲の弾圧とこの物語の発表が契機となって、大本に新しい方向がひらけてゆく。王仁三郎は言う。「愛国主義があやまって排他におちいり自己愛になってはよくない。今後世界を愛し、人類を愛し、万有を愛することを忘れてはならぬ。善言美詞をもって言向和わすことがもっとも大切である」と。この発言にそって「人類愛善」「万教同根」を軸にした大車輪の活動が展開される。
 中国の北京で世界宗教連合会の結成を推進し、「東亜の天地の精神的統一」をめざして蒙古の地に布教の駒をすすめた王仁三郎の行動は、その具現化の一コマであり、大正十四年六月、「人類、国家、宗教等総ゆる障壁を超越」して「地上永遠の光明世界」の建設をめざす人類愛善会の創立はその結実であった。
 この年には治安維持法が登場して権力側の弾圧体制がスタ-トし人類愛、世界同胞などの提唱は国家意識をあやまるものとして排撃された。こうした時期に大正デモクラシ-の退潮に失望しつつあった民衆の期待をあつめて世界的視野にたった宗教的平和運動がこの綾部からはじまったのである。
 開教三十有余年、「苦難の昭和」年代をまえに、大本の内外宣教の体制はととのえられた。昭和三年三月三日、王仁三郎五十六才七カ月にみちたその日を「みろくの下生」のときとして、大本の布教・社会活動は、芸術運動をもその一翼にくわえはなばなしく開花した。
 大本教団を軸に人類愛善会、昭和青年会、昭和坤生会、昭和神聖会、明光社などが歩調をそろえて、「神にめざめよ」とさけび、荒れくるうファシズムのなかで現状打破をめざして活躍したのである。昭和十年には文教宣教の主軸となった「人類愛善新聞」(旬刊)は百万部をこえ、活動範囲は中国、東南アジア、北・中・南米、欧州大陸にまでおよんだ。 各界の実力者や知名の士をはじめ、参拝者、修業者がぞくぞくと綾部の町をおとずれ「出口王仁三郎聖師」を頂点とした「皇道大本」は革新的風潮の中で一大勢力をなすにいたった。だがふたたび宿命ともいうべき弾圧がまちうけていた。
綾部の「大本町」
 今日の綾部市の人口は約五万人、町村合併で旧何鹿郡がそのまま市に編入され、広さでは全国十指のうちにかぞえられるという。しかし大正七年に出版された「蚕都案内」によると、当時の綾部町の戸数は1200戸で人口は約8千人、区域も中筋・以久田・佐賀・小畑・物部・志賀郷・吉美・西八田・東八田・山家・口上林・中上林・奥上林の13ケ村をのぞいた旧町区にかぎられる。
 いわば田んぼにかこまれたしずかな町で、鉄道もやっと明治四十三年になって園部-綾部間が開通して京都とつながったくらいであるから、お役人の異動や出張・親戚や友人のほか町の外から訪れてくる人も目立って多くはなかったろう。そこへ年二回の大祭や冠島・沓島・弥仙山参拝のたびごとに全国からの信者が駅の出口からドッとはきだされ、毎日の参拝や講座をきくために訪問者があとをたたないのだから、しずかな町に大きな波紋をおこしたことはまちがいない。
 なかでも、出雲大社管長の千家尊福、御嶽教管長の神宮日高寿、鶴殿男爵夫人の大宮守子、久邇宮家官務監督の山田春三、岩下子爵、水野子爵、実業之日本社理事の栗原白嶺、神戸新聞の桑原道喜、今井武夫、高校教員で歌人の湯川貫一、俳人の吉原亨、明治製糖重役の高木鉄男、台湾製糖の上西信助、満鉄理事の谷村真友、三井物産支店長で俳人の岩田久太郎、医者の井上留五郎・岸一太・桜井同仁・西崎算保、合気道で著名な植芝盛平・井上祥照、軍人では山本英輔海軍大佐(のち大将)、日本海海戦の名参謀とうたわれた秋山真之海軍少将(のち中将)、浅野正恭海軍中将、海軍きっての切れものといわれた矢野祐太郎海軍中佐、横須賀海軍機関学校の教官で英文学者の浅埜和三郎、中国大陸横断で名をはせた参謀本部の日野強陸軍中佐、一兵卒からの立志伝中の人・小牧斧助陸軍大佐など佐官・尉官級の人々は枚挙にいとまがなく、大本の鎮魂帰神にひかれた。
 「彗星」社長の岡田射水、「心霊界」の木原鬼仏、豊本景介などの心霊術者や文学士の倉田百三、築地小劇場の創立者で大本紹介の映画を制作した小山内薫、明治の初期に東京商業会議所の会頭をつとめた中野武営の子で宝生流の達人・中野岩田(茗水)など宗教・文化・実業・医者・華族・軍人など、各界のいわゆる実力者クラスがぞくぞくやってきたことは、綾部の町に刺激をあたえ、綾部が「ひらかれた町」として発展してゆくうえに有形無形の役割をはたしたものと思われる。 
 記録にない人、記録のうしなわれた人も多いから、それらをくわえるとかなりな数になると思うが、そのなかで浅野正恭、浅野和三郎、高木、岩田、日野、矢野、栗原、岡田、木原、植芝、井上祥照、小牧、井上留五郎、谷村、中野、桑原、湯川、桜井、今井、上西、西崎、吉原をはじめ梅田常治郎、谷前貞義、後藤康仁、上倉三之助、石井弥四郎陸軍大佐、飯森海軍機関中佐、福中鉄三郎海軍機関中佐、糸満海軍機関大尉、篠原国彦陸軍大尉などの人々が職業と地位をなげうって綾部に移住してきた。
 そのため大本周辺の上野町、新宮町、本宮町などはあたかも「大本町」の観を呈し、朝夕の祝詞の声にみちみちていた。かわったところでは今日の生長の家をきずいた谷口雅春、神道天行居の友清天行(いずれも亀岡在住)などがいるが、これらの人々がのんびりム-ドでやってきたのでなく、求道の熱情にもえていたのだから周辺にあたえる影響も大きかった。
 このとき綾部に移住し、昭和十一年、第二次大本弾圧のため獄死した岩田久太郎(石川県出身)をしのんで俳友の伴新圃が「突然晴天の霹靂の様に鳴球(岩田の俳号)の綾部入りを聞いた。何でも鳴球は”こうしては居られぬ”と云って何か差迫ったあるものを見つけたように綾部に走ったと風に便りに聞いた」とかたっている追憶は、その当時の人々の心情をよくあらわしている。
 岩田は子規の門下のすぐれた俳人であった。蕪村の句「ほととぎす琥珀の玉を鳴らし行く」からとって鳴球、琥珀と号し仕事の余暇をさいて自宅で会をひらいていた。島根県出身の湯川は大正天皇即位の大典祝歌に当選したこともある人で歌道にすぐれ、また中野茗水は能の宝生流林鶴叟門下の達人というように、綾部に定住した人々は自己の特技をいかして地元の人々との交流をふかめていたので大正のロ-マンチシズムの風潮をバックに綾部の文化的雰囲気はたかめられていった。
直霊軍の活躍
 大正三年(1914)に第一次世界大戦がはじまるが、大戦は軍需景気をもたらし日本の資本主義は飛躍的な発展をみせる。しかしその反面、社会の矛盾は激化し労働争議、小作争議がいたるところでおこり、物価は急騰して民衆の社会的不安はつのった。
 大正五年(1916)に皇道大本と改称し、この頃から直霊軍の青竜隊(青年)婦人隊、白虎隊(少年)娘子軍(少女)が編成され、集団による組織的布教が展開される。綾部の町を軍歌まがいの歌を高唱してねりあるき大道布教がくりひろげられた。
 またその服装がふるっている。羽織袴にたすきをかけ、すげ笠にわらじ、脚絆といういでたちのうえ長髪、手には旗や幟をおしたて太鼓をうち、団歌を高唱しながら通りをねりあるく。そして広場や四つ角では街頭演説を一席ぶつ。道ゆく人々はびっくりしたり、物めずらしくもあり、なかば軽蔑の目でみる人もあった。
 ヒラア ヒラアと神軍旗
 ヒラア ヒラアと革正旗
 先頭におしたてて立向かう
 悪魔のぐんぜいと戦いて
 勝どきもろともあぐるまで
 命おしまず進みゆく
 隊列は北西町をとおり、山陰線と舞鶴線のふみきりをこえ、郡是製糸会社の前をすぎ橋のたもとで折りかえすのがならわしで、週に二回ぐらい定期的におこなっていた。これは奇ばつなデモンストレ-ションで、この風がわりな集団を一目みようと人々がむらがりあ
つまったという。
 ところがこれにはつぎのようなエピソ-ドがひめられている。ある日、大本本部にえらいけんまくで電話がかかってきた。「大本の集団がいつもわが本社の前を、悪魔だと大声をはりあげてとおるが、悪魔とは何ごとだ、幹部をよこして謝罪しろ!」ところが大本側ではなぜおこられるのか一向にわからず「いや、そんな失礼なことをいうはずがない」と弁明するが、一向に話がかみあわない。
 あとでわかって双方とも大笑いしたことだが、「悪魔の軍勢」を「悪魔の郡是」とききまちがえたのである。
 それはともかく、こうしたいきおいで「立替え立直し」「大正維新」を全国各地で絶叫してあるくのだから、「長髪族」というニックネ-ムをたてまつられたくらいで、大々的な文書宣教とあわせてその反響は大きかった。
 とくに大正七年(1918)夏富山県滑川にはじまった米騒動は民衆の運動として全国にひろがり大戦後の不況もてつだって社会不安はつのった。こうした民衆のめざめを背景
に大本の予言と警告は全国に浸透し、とるもとりあえず綾部へやってくるもの、学業や家事をすてて綾部へ移住してくるものがあとをたたなかった。とりわけ軍人をふくめて都市農村部の知識階層の参綾。入信が多かっただけに、その影響も大きく、大正九年にいたる大本宣教の第一次黄金時代を形成した。
 しかしやがてそのことが権力のにらむところとなり大正十年の第一次大本弾圧事件をまねくことともなる。
出口王仁三郎と教勢の発展
 北桑山地の水を集めて西流する大堰川は、園部町あたりで反転し亀岡からは保津川となって嵐山にいたる。八木町は園部と亀岡の中間に位して大堰川にのぞみ鮎がりでしられている。町のはずれに農業灌漑用水のための虎天堰がもうけられているが、その近くの街道筋に開祖ナオの三女福島久子が茶店を開いていた。
 開祖にかかった神の「この神を判ける方(審神する人)は東から来られる」という言葉を信じて三年間も気ながく待ちつづけていたのである。明治三十一年(1898)のあつい日、陣羽織にこうもり傘とバスケットをもった風変わりないでたちの青年がふと久子の目にとまった。待っていた因縁の人とわかって、その年の十月にその青年は久子のすすめにしたがい、綾部をおとずれ裏町(現在の若松町)の倉で開祖とはじめてあった。この青年が出口王仁三郎であった。
 王仁三郎は幼名を上田喜三郎とよび、明治四年に京都府亀岡近郊の貧農に生まれた。明治三十一年の旧二月に高隈山の修業で宗教的体験をえた喜三郎は、病気なおしと幽斎修業をとおして布教し、静岡県で稲荷講社をひらいていた霊学者の長沢雄楯から習合的な神道説と鎮魂の行法を学んだ。
 明治三十二年に正式に大本に入った喜三郎は開祖をたすけ、警察からの圧迫をさけて布教活動を合法化するため稲荷講社所属の金明霊学界をつくった。そして翌年にはナオの末娘すみ子と結婚して出口家に入り、のち王仁三郎と改名した。
 その後警察の執拗な圧迫と新しいゆき方にたいする内部の無理解から、一時王仁三郎は綾部をはなれ、京都に出て神職の資格をとり、建勲神社の主典からのち御岳教に転じて同教の幹部となった。王仁三郎の出てしまった教団は火の消えたような寂しさとなったが、王仁三郎は明治四十一年に新たな教団づくりと教勢拡大への意欲にもえて綾部にまいもどってきた。わずかな期間ではあったが関西の宗教界を遍歴して多くの人々とも接し、視野をひろげることができた。
 その後の王仁三郎の教勢拡大への大車輪の活動は刮目すべきものであった。ひつような当局の圧迫のつづくなかで、明治四十一年(1908)金明霊学会は大日本修斎会と発展し、全国的宣教への体制がつくられた。王仁三郎は鎮魂と文書宣教に力をそそぎ、「王の礎」「筆の雫」「道の栞」「道の大本」などの教書を編纂するかたわら、機関誌として「直霊軍」(のち敷島新報、神霊界と改題)を発刊し、積極的に社会によびかけていった。そのため大正二年には印刷所を綾部にもうけ王仁三郎自ら活字をひろい、油にまみれて機械をうごかし先頭にたって督励した。宗教教団のなかでいちはやく印刷機械まで設備して文書活動に力をそそいだ例は、当時としてまれなことであった。
 こうした活動の結果は会員の急激な増加となってあらわれ、当時で約一万人と称し、丹波霧の底ふかく沈潜していた大本教団は、立教二十数年にしてようやく全国的教団としての地歩をきづきつつあったといえよう。蚕都・綾部はまた「金神さんの町」として知られ各地からの修業者や参拝者、見学者も多くなった。それには明治四十三年に国鉄山陰線の京都-綾部間が全通したことがプラスしていることもみのがせない。
 一方教勢の発展とともに綾部の神苑は活気ずき、最初の神殿完成についで金龍海の開掘、金龍殿(道場、のち祖霊社)・統務閣が建ち、桑畑当時の面影を一新した。
 しかし教勢が拡大すればするほど官権の圧迫もはげしくなり、布教活動や祭典を合法化するため大成教や御岳教の教会を併設し、また祖霊をまつるため大社教の分社とするなどの苦心がはらわれている。
2006/02/02のBlog
みろくの世
 大本に出現し、大本に祭祀する最高の神はいうまでもなく艮金神(うしとらのこんじん)である。この艮金神の天地創造・隠退再現の雄渾な独特の教義体系は、ギリシャの人文神話のなかにも中国の天地開闢説等の神話にも見出すことのできないものがあり、日本の記紀神話にも類例をみることができない別個の神話体系と思われる。
 神が約束する理想世界は「神の世」「松の世」「水晶の世」「みろくの世」などいろいろに表現されているが、その内実とするところは「神も仏事も人民も勇んで暮らす世」である。なかでも「みろく様の神道に立帰りなさる世が巡り来て・・・」とか「昔の根本のはじまりのミロク様が・・・」「みろくの世に捻じ直す」など、筆先のいたるところに「みろくの世」「みろくの神」の言葉がみうけられる。
 シンクレチズム的発想は日本の宗教の特色でもあるが、「みろく」は元来仏教のもので、弥勒菩薩は梵語でマイトレ-ヤといわれ、古い伝承神話につつまれてインドの民衆に広く信仰されてきた。釈迦滅後、五十六億七千万年の後にこの世にあらわれて、釈迦の教えにもれた衆生を救済するという仏教的なメシア思想ともいうべきものである。
 この弥勒信仰はインドをはじめ、ことに現世主義的な中国では未来仏の信仰として、地上における救済を成就する弥勒下生の信仰とむすびついていちじるしく現実的政治的なものとなった。その信仰的結社の力はしばしば急激にふくれあがって変革への道を志向し、時に王朝をたおしたほどである。
 日本には奈良期のとき法相宗の伝来とともに弥勒像がはいり、弥勒浄土に救われるという信仰がまず貴族社会に普及した。中世に下ると弥勒はその分身である布袋信仰を生じ、やがて七福神につながって庶民の間にひろがってゆく。
 近代では弥勒信仰はより現実的となり、民衆の政治的経済的社会的な窮乏からの救いの待望を成就するものとされ、幕末期の「熱狂的な世直し」「ええじゃないか」にあらわれる現状打破、変革の運動と相まってはばひろく浸透していった。
 しかし日本における弥勒信仰、メシア待望の思想は意識のうえでは低調で理論化されず、変革的な思想へと結実するにいたらなかったといえよう。だが、幕末から明治にかけて創唱された民衆の宗教にすくなからず影響をおよぼしたことはまちがいない。ことに大本は「弥勒の世」への民衆の願望と伝統をたくましく継承し包含して独自の発展の道をあゆみつづけてきたのである。
[ 15:34 ] [ あやべの文化財 ]
二月に入り綾部の町は、大本節分大祭の飾り付けがすみ、四日の大祭当日を待つばかりとなった。
大本の旗:十陽星がア-ケ-ド下に吊り下げられた西町アイタウン商店街。
町を走るタクシ-も、この旗を立てて走る。
アイタウン中央にある北都信金のショ-ウインドウには、深夜に行われる人型流しの神官と瀬織津姫の人形が人目を引いている。
並んだもう一面のブ-スには、大小の福だるまが飾られている(当日、福だるま引きが行われ参拝者は行列を作って並び、福をいただいて帰る)大本特製の甘酒接待とともに人気のあるイベントである。
天王平 大本の開祖・聖師・二代教主奥津城がある(上野町)
大本・つる山織
大本・つる山窯
大本節分大祭 大祓神舞
大本節分大祭 瀬織津姫の行列
人形流し(大本節分大祭でのクライマックス)
祈り
2006/02/01のBlog
大本・月山不二
世界の中心は丹波綾部であるとする大本の最高聖地の一つで、世界の中心点ともいうべき所である。頂上には延暦二十一年の富士大爆発の際噴出されたといわれる霊石を安置し、ミツ葉の松が植えられている。
大本聖地・本宮山
大本・金龍海
大本の神業意識は「綾部は世界の中心」とし、金竜界に五大州のひな型として島々を作り、世界的経倫の型としている。
大本・みろく殿
おふでさき
開祖出口なお刀自が帰心状態で自動書記的に手紙二十万枚を執筆、おふでさきの根本主張は、世界の立替え立直しであり、世界の進歩と発達についての偉大な預言・警告書である。
三千世界の立替え立直し
 開祖の筆先は、ナオが大正七年(1918)に昇天されるまでの27年間、神の啓示としてかきつづられたものである。綾部の黒谷の和紙20つづりを一帖として約一万帖もかきのこされたという。一,五,九,十などの数字のほかは全文ひらかなでかかれ、のち出口王仁三郎が忠実に目をとおして漢字をあてたり、読みやすくして「神論」として大正六年に社会に発表した。
 筆先は大本の教えの原典であり、王仁三郎著述の「霊界物語」とともに教典とされている。その筆先のはじめに神は力づよく宣言する。
 「三千世界いちどに開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松でおさめる神国の世になりたぞよ。
 この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ。いまは強いものがちの悪魔ばかりの世であるぞよ。世界は獣の世になりておるぞよ。悪神に化かされて、まだ眼がさめん暗がりの世になりておるぞよ。
 これでは世はたちてはゆかんから、神が表にあらわれて三千世界の立替え立直しをいたすぞよ。用意をなされよ。この世はさっぱり新つにいたしてしまうぞよ。三千世界の大せんたく、大そうじをいたして、天下泰平に世をおさめて万却末代つづく神国の世にいたすぞよ」
 ここには大本の全精神が集約されている。大本の神はどんな神か、なぜ立替え立直しをせねばならないのか。神の経綸とは何か、また世界の人類にたいする心がまえなどがかんけつにのべられ、ドキッとするようなそのものズバリの表現のなかに、人類救済へのなみなみならぬ神の愛が感じられる。
 筆先をつらぬく精神は、日本の封建社会の崩壊期から新しい時代へむかって激変する危機のさなかで、救済を叫ぶ民衆宗教としての世直しの要求を反映し、かつ継承していた。
 ナオの筆先に「天理・金光・黒住・妙霊先走り、とどめに艮の金神(うしとらのこんじん)があらわれて世を立替えるぞよ」とあるが、それは神々の序列とか宗教の優劣、教団の大小の差異などについての価値規準をいうのではもちろんない。「大本の神は一人でてがらするような神ではない」「みな仲ようして下され」と示されていることからも明らかなように、幕末から明治前期にかけての変動期に出現した一連の民衆宗教の精神を継承して、明治二十五年というときに出現した大本の立場と使命とを明確にしたものと思われる。
 明治二十五年といえば、政治的統制の下に「信仰の自由」をうたった「大日本帝国憲法」(明治憲法)の公布、「忠君愛国」を信条とする「教育勅語」発布の直後であり、またその二年後には、朝鮮半島への浸出をめぐって日清戦争がおこり、その後日本は急速に排外的国家主義の道をたどっていった。
 民衆への圧迫、生活の窮乏と旧来の生活を激変させてゆく諸矛盾、明治維新への失望、自由民権運動の挫折などつぎつぎに民衆を重苦しい灰色の淵へ吸い込んでゆく。そしてふたたび民衆の間から復古的で農本主義的色彩のこい世直しへの期待がもえあがってきた。 大本はこのような時期を背景として、丹波の小都市・綾部に、「世を変える神」「民衆を救う神」として出現したのである。
よみがえる神々
 さらに、明治三十三年(1900)から35年にかけては、正しき神が鎮まる霊地をたずねてその神々をむかえる宗教的意味をもった行事が、丹波と出雲を舞台に集中的に行われる。
 舞鶴沖の無人島・沓島からは、日本海の荒波を小舟でのりきって、世の元の主宰神である国祖の神霊をむかえ、酒呑童子でなだかい大江山山麓の大江町にある元伊勢内宮からは「昔の元の水晶の変らん水」がもちかえられて、大本の三つの井戸と冠島・沓島の中ほどにそそがれた。
 出雲大社へは徒歩と船をのりついで参拝し、神火(神代からひきつがれているといわれる霊嗣ぎ(ひつぎ)の火)とお土をもらいうけてかえった。神火は神前にともし、お土は綾部神苑の宮屋敷どりとして広い区域にまかれている。
 さらに開祖は、女人禁制の修験者の山・弥仙山(現綾部市)にひとりでこもり、大正五年(1916)には最後の出修として播州高砂沖の孤島・神島をひらいて「坤金神(ひつじさるのこんじん)」をむかえている。
 これら一連の宗教的行事は、「世におちておりた、元をこしらえた、神代の生き神を世に上げる」ための神の経綸(しぐみ)の型を開祖ナオと王仁三郎が身をもって行じた神事で、大本では「出修」とよび大本独自のことがらとされている。
 国祖の出現によって三千世界を立替え立直し世を一つにするための基礎的神業であり、天津神系でありながらさして政府が重要視しなかった丹波の元伊勢の水、ならびに日本神話のうえで独自の位置をもち国津神系の代表的存在である出雲大社の火が、この出修のなかに登場してくるのも、神を表にあらわす大本のしぐみからいって注目すべきことである。
 出雲参拝ののち大本では毎年旧七月六日から一週間、「天地の神々があつまり会議をひらく元の場所」で、たなばたまつり(今日の神集祭)がおこなわれている。この間私的な願いごとは禁止され、国祖の隠退再現を記念する節分のまつりとともにとくに重要ないみをもつ祭典とされている。
 宇宙の主神を中心に正しい神々が綾部の地にむかえられ、節分やたなばたの由緒ある祭りが綾部の地に復興し継承されていることは、綾部の土地や歴史(今日ではなお不明の部分が多いが)と無関係ではなく、注目されるべきことがらであろう。
2006/01/31のBlog
綾部の金神さん 2
 神がかりになってからの開祖は神命のままに行動することがつねとなった。生活をささえ子女を養うために、これまでどおり屑買いや糸ひきの賃仕事をつづけねばならなかったが、でかけるさいは大神に行く先をたずね、その指図をすなおにきいて出かけたという。 ゆく先々では家のお床(とこ)を、きれいにきよめて神様をまつるようにいわれるので、みんながあっけにとられ、気狂いあつかいにされたこともあった。それでも開祖は神さまの話をし、笑う者があると「後で悔やむなよ」とたしなめられたという。しかしたのまれて大神に祈願すると不思議と病気がよくなおった。また開祖のいわれたとおり病人が綾部の方をむいて手をあわせ「綾部の金神さん」ととなえると、すぐ平癒するというようなおかげがたつことが多く、近在で開祖を信じしたう人々もしだいにふえてきた。
 だがそのため商いができぬ日が多く暮しはますますゆきづまってしまった。それでも、ナオの苦情にたいして大神は「今日は大きな仕組(しぐみ)ができたのであるぞよ。世界の仕組のひな型が一つ一つ成就してゆくのであるから、ナオよよろこんでくれ」といい相手にされなかったという。

 大本には「型」の信仰があり、大本にあったことは日本に、そして世界にあらわれるとされ、神はまず自己の意志を「綾部の大本」にヒナ型として実現されると信じられている。 だから開祖の紙屑買いについても、くらしのためとか修行というだけでなく、艮金神(うしとらのこんじん)の仕組みの大切な原型として把握される。
 宇宙の主宰神である艮金神はきびしい善一筋の正しい神であったが、悪神・たたり神とされて押しこめられ、金神の系統の神々も悪神としてちりぢりばらばらに追いはらわれて世に落とされた。
 そしてながい月日がすぎさり、世の親神は、かげから守護していたがその間に地上は乱れきって、にっちもさっちもいかなくなった。このままでは泥海になるよりしょうがなくなったので、艮金神がおもてにあらわれ、悪神の世をきりかえてもとの神世にかえさせることになった。
 そこでまず世に落とされている神々を表にだして、三千年余りての仕組どおりにされることになる。これが他の神話体系にはみられない大本固有の「艮金神の隠退再現説」であるが、その仕組の大切な原型として神命により開祖が紙屑買いをされたので、世におとされていた神々、ちり紙のように世にすてられていた神々をすくいあげ、新しいカミにすきあげて諸国に新しく神々をまくばられる型であり、そして正しいもとの神の世に立替え立直される基礎的経綸(しぐみ)であると説明される。
 開祖は神命による「型」の実行者であり、綾部はそのはじめての舞台であった。その波は日本から、さらに世界へとひろがってゆく全国宣教の口火となった直霊軍の大道布教、「素盞嗚尊(すさのおのみこと)のアジア経綸」の再現といわれる王仁三郎(おにさぶろう)の入豪、教典「霊界物語」の口述、世界平和の使命をになう人類愛善会の創立など、大本歴史の節をなす主なできごとが、つねに綾部を出発点としていることもまたゆえあってのことである。
綾部の金神さん 1
 ナオは少女時代から信仰心がふかく、福知山の一宮神社にはよくお参りし祭礼には能をみるのが好きだった。時々修行にゆくといってはひょっこり留守になったり、隣近所の人々の先々のことなど予言してよくいいあてたといわれる。
 ナオの信仰心は成人してますますつよくなり、貧窮のなかにあってもいつも神床をしつらえ、「天照大神、八幡大菩薩、春日大明神」の軸をかけ、「天照大神様、日天(にってん)様、月天(がってん)様、天道様、うれし権現様、七社大明神様、日本国中の大神様、御眷属様」ととなえて合掌し、神床のとなりに仏の軸と御霊を祀り、お茶を供え、その残りは「餓鬼に進ぜましょう」といって溝にながし、無縁仏にも供えたという。また年の暮れから正月にかけては夜どおしおきていて神々にお水を供え、御恩を感謝していた。
 当時の綾部には封建社会からひきついだ雑多な俗信仰があり、丹波に多い元伊勢信仰や愛宕山の火の神信仰などが行われていた。また天理教・金光教・黒住教などの新宗教やキリスト教も伝道の手をのばしていた。こうした宗教的雰囲気のなかで、やがてナオの神信心に決定的な瞬間がおとずれる。
 明治二十五年(1892)旧正月元旦ナオが数え年57才のとき、突如霊夢をみせられて尊貴な神々の世界にいざなわれ、旧正月五日にははげしい神がかりとなって艮金神(うしとらのこんじん:国常立尊:くにとこたちのみこと)の宣言が発せられた。
 その場所は今日、大本神苑に元屋敷として保存され、昭和十年の第二次弾圧事件のさい建物はこわされ、井戸(銀明水)だけが復元してのこされている。「むかしの神屋敷、ここに大地の金神さまのお宮をたてる。ここが世界の大本となる尊い地場」と筆先(ふでさき)に示され、そのしるしに開祖が万年青をうえた因縁の地である。
ナオと綾部
ナオは嘉永六年(1853)17才のとき綾部に住む叔母の出口ゆりの養女となったが、このときからナオは出口家・綾部の人となる。とくにナオの綾部入りは、ゆりの非業の死ゆえに劇的であり運命的である
出口家の家系についてはさだかでない。丹波郡丹波村真奈井で豊受大神につかえていたとも、雄略天皇の時代に伊勢国に豊受大神を遷座したさい、出口家の子孫の一部が神官としてそれにしたがったともつたえられているが、いずれにしても丹波の固有神・豊受大神につながりが深いことはまちがいない。
 ゆり夫妻には子がなく、ゆりが寡婦となってからは財産めあてに親戚からいじめられ、再婚問題もからんで苦境におとされた。ゆりにとってナオが養女となり出口家のあとをついでくれることが唯一の救いでありなぐさめであったが、もともと気のすすまなかったナオは半年ばかりで福知山へかえった。ナオに去られたゆりはめっきり気がよわくなり、親戚のひどい仕打ちにたえかね四十九才の若さで自殺した。
 しばらくたったある夜、ゆりの霊がナオの枕辺にたち、福知山へかえったことをはげしく責め、屋根瓦をはがしてどんどん投げつけ「今日で三日も四日も茶も水ももらえんのじゃがえ」となじったという。ナオはこわさのあまり「綾部へ行きます」とこたえながら布団を頭からかぶってふるえあがり、以来ゆりのはげしい死霊になやまされ床についた。一時は死んだとうわさされたほどで、ゆりのこの切なるねがいを契機としてナオは綾部の出口家とかたくむすばれることとなり、安政二年(1855)にふたたび綾部へかえった。
 その年の三月19才で中筋村の大工職・四方豊助(出口政五郎と改名)と結婚した。政五郎はお人好しで大工としては腕もたち評判もよく、数人の弟子をかかえて仕事もいそがしいほどだった。しかし政五郎は酒ずきのうえ大の楽天家であった。仕事の取引が下手で、請取仕事をしても欠損を重ねることが多く、そのうえ野芝居が何より大好きで仕事や家庭のことなど忘れて夢中となり、ゆりののこした資産も目にみえてなくなり経済的にもゆきずまってきた。
 ことにナオが51才のとき政五郎と死別してからは一文の収入もなく、当時としては最低の屑買いや糸くり糸ひきの賃仕事に、みずからはげんで生計をたてねばならなくなり、八人の子をかかえて貧窮のどん底にあえいだ。しかし「因縁の身魂」として生まれたナオは、丹波の封建的残滓のつよい片田舎にあって、下づみの生活をとおして人生や社会の色々な矛盾と重圧を肌で感じ、独自のするどい見方をふかめていった。
末娘のすみ子は当時を回想して、
 今日はさびしき秋日和
 古里なつかし幼な時
 母はその日の生計(なりわい)に
 朝まははやく夜はおそく
 姉と二人が家の番
 昼は戯れ(たわむれ)遊べども
 晩げになればさむしなる
 母を迎えに二人づれ
 川糸の細道した川の
 蛍こいぶんぶくしゃう
 岸根にとまる螢虫
 お尻まくって螢とる・・・
とうたにかきとめているが、この回想には、きびしい生活の現実となつかしいふるさとの山河のイメ-ジがたくみにだぶって、よむ人の心をうつものがある。
 今はアスファルトで舗装された綾部の町の通りも、かってはナオが毎日の賃仕事をおえて子供たちの待つ家路をいそいだことであろう。たたずめば山の木々、野の草、小川のせせらぎが、ナオのよろこびとかなしみをこめてしずかに語りかけてくる。この綾部は、大本開祖となった出口ナオをはぐくんだ修練の場であり、なつかしい土地である。
2006/01/30のBlog
大本開祖・出口ナオ
 大本開祖出口ナオは天保七年(1836)旧12月16日、丹波国福知山の貧しい大工職、桐村五郎三郎の長女として生まれた。福知山は綾部の西12キロにあり、朽木氏三万二千石の城下町としてさかえたところで、由良川と土師川が合流する丘陵には明智光秀が築いた福知山城がある。手ぶりのきれいな福知山踊は全国に知られており毎年夏の宵を市民は通りにあふれて踊りあるく。
 ナオの生まれた天保七年は天候不順がつづいたため、全国的に大飢饉がおこり民衆は飢えと貧困のどん底にくるしんだ。しかし支配権力は自己の体制保全と上層階級のことばかりを考えて民衆の救済には全く無策であった。そのためついに民衆は激昂して反抗し全国的に百姓一揆をおこしている。むしろ旗をおしたて鎌・鍬・竹槍などを手にした人海戦術がせいいっぱいであったから、権力側の武力と懐柔策のまえにおしつぶされてしまったが、民衆の世直しへの目ざめと願望・抵抗という事実のつみかさねとひろがりは、幕藩体制下の封建社会を大きくゆさぶる結果となった。
 福知山では万延元年(1860)に63ケ村におよぶ大一揆がおこり、また明治維新後に綾部では新政府の期待をうらぎった施策に反抗して二千人もの民衆が蜂起している。
 出口ナオはこのような社会の変動期のさなかに生まれたのである。ナオが後年述懐して「この世にまずない苦労をいたした」とのべているが、その言葉を地でゆくように幼少のころから苦難の重畳する山なみが、ナオの前によこたわっていた。また「その年(天保七年)には昼夜降り通しにて作物はとれぬ故、翌天保八年には金を枕にして国替え(死亡)いたしたものがたっぴつありたぞよ。因縁の身魂は生まるる年よりそうした不幸の年に生まれたのである」(「経歴の神諭」)とも記されているが、その不幸と苦難は自然の悪条件と個人的環境だけがうみだすものでなく、むしろ支配体制の矛盾に源由するもので、民衆がになわされた宿命的枷でさえあった。一庶民としての開祖の生誕は民衆のくるしみと不幸を自分のものとして生まれ、たたかいつつ生きぬき、やがて積極的にその解決をはかる救済者としてたちあらわれる運命的な出発点としてきわめて印象ぶかい。