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なべちゃんの散歩道
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2005/12/21のBlog
[関連したBlog]
年内~誕生日27日と予定のキリ番{99999:ファイブ・ナイン}が、Doblog 快調に助けられ今朝早暁に達成しました。
筆の向くまま 気の向くまま 勝手気ままに 徒然雑記◆:[千秋]さまからのチェック
[12/21 00:47]
昨日のアクセス数:669件
今日のアクセス数:608件
総アクセス数:99928件
通りすがりにご報告まで。(^^)v

☆今朝21日7時半のチェック
昨日のアクセス数:587件
今日のアクセス数:173件
総アクセス数:100079件
なお[ 相互・総ブックマーク数:144件 ]、[ 総Blog数:881件 ] 、人気ブログランキング35位、通算ブックマ-ク50位でした。
ご協力有り難うございました。早めの誕生祝いをいただき心から厚く感謝申し上げます。
追伸:いくら師走でも(私の名前○○師)こんなに速く走らされたのでは、息切れしています。ハァハァ 休み休み正月まで過ごしたい!ですっ。
2005/12/20のBlog
Myblog のアクセス数異常が止まりません。早すぎる「キリ番(99999)達成」の予定です。
年内には、多分誕生日の27日には、の予定でしたが、今日?明日には届きそうです。
Doblogさんの調子が良くなったこと。30日間ブックマ-ク・ランキングのトップにずっと張り付いていること。人気ブログ・ランキングにも毎日上がっていること。総ブックマ-ク・ランキングも伸びて50位(143+1件)になってしまいました。
私の拙い、我流のブログを訪問いただいています皆々様のおかげです。心からの感謝として、「キリ番報告」をいただきました方に、Myblog からのブックマ-クをさしあげます。(もしすでに相互BM済みの方だった場合は、お許しください)
[ 11:59 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
[関連したBlog]
まちかど事故・事件簿:空き家の民家全焼
17日午後6時半ごろ、神宮寺町で民家火災があり、木造2贈建ての母屋約180平方メ-トルと木造平屋建ての物置約30平方メ-トルが全焼した。
建物は乙訓郡大山崎町のHさん所有で、空き家だった。
翌日も民家火災発生
18日午後5時ごろ、位田町のKさん宅から火が出て、木造2階建の住宅延べ293.2平方メ-トルが全焼した。負傷者はなく、原因などについては調査中。
(あやべ市民新聞12月19日号より)
2005/12/19のBlog
綾部藩と由良川
 九鬼氏の治世をしのぶとき必ず思い出されるのは、丹波にとって母なる大河由良川である。山間の地に 塞せしめられた日本水軍の総帥九鬼氏の郷愁をなぐさめた由良川は、古来郷土の文化、産業、経済、交通その他あらゆる社会事象の母胎をなして来た。明治までの日本海表日本への物質の運搬はほとんど、大島福知山由良湊を経て通船で行われた。川筋の村々には船舶があり、庄屋は船問屋役をかねて大いに繁盛した。
 ”位田、栗村、大島、高津、人の情けのない所”と、いまだに人々の口にされるのは、川筋の村々にとって度重なる洪水との戦いと、通船による商いの活発化によって、綾部人としてはどちらかといえば、きびしい合理性を身につけていたためと推察される。
 丹波からの下り船は、茶、木綿、うるし実、木材、竹、桐油美、木炭、楮三つ又、こんにゃく、柿、大豆等であり、上り船は酒、油かす、干いわし、塩等であった。
由良川水路が商業交通路として重要であったことは、京都、長柄屋治兵衛が宝暦九年(1759)に由良川と保津川とを運河で結んで京阪神と北国の物産とを直結しようと計ったことでもわかる。

 由良川の水を治めて五穀豊穣を願う心は、古来から綾部領主の願う処で、並松の景勝を作る綾部井堰、 義人吉次郎の物語も悲しい位田井堰は、両丹最大の灌漑施設で、その建設年代も定かでない。九鬼隆季公が寛永十年(1633)入部された時の陣屋古図にはすでに井堰用水路が描かれており、それ以前の記録はないが、井倉八幡宮の社伝には、平氏の施工と伝えられており、福原新都の大工事をなしとげた平氏の実力からして、正歴寺熊野新宮社ゆかりの重盛公がなされたとしても、少しも不思議ではない。
 領民の幸せを願う九鬼氏の心は、この井堰の改修にはたえず力をそそぎ、井堰中興の祖と仰がれる近藤代官(勝由)の名と共に綾部人にとって忘れてはならないものである。
 ”綾部川の水のひびきの中にきく
 人の心の高きしらべを” 吉井 勇
 古代より悠々と流れ、大地を潤し、時には氾濫して人々を恐れせしめ、また舟を通わせて他国の物産と情報を伝え、丹波ラインに並松に私達の心を和ませてくれる由良川は、綾部のことを次の様に語ってくれる。
 「出雲文化の土壌の上に大陸の文明が融和して高度な民力を養い、強力に流れ入る平安文化は更に伝統に磨きをかけ、足利尊氏を生んだ誇り高き里は、平和な二百三十年の九鬼氏の治世を経て、初めて郡是と大本による綾部ナショナリズムの第一の開花を見るのである」と。
藩校および郷学校
 綾部藩では四代隆寛の頃、藩校を進徳館と改め、藩士の教育に力を注いでいたが、慶応元年、十代隆備は藩の碩学近藤勝直を総督に任じ、大いに藩校を充実すると共に、領内栗村、高津、小畑等六ケ所に郷学校を建てて庶民教育に努力した。中でも栗村の広畔堂は、郷学校中随一のもので、近藤勝直の高弟沢井広重が専任教師として指導にあたった。門人には羽室嘉左衛門、芦田鹿之助、波多野鶴吉他地方のために活躍した人を多数輩出し、明治における綾部発展の基礎となったことは郷土の教育史上特筆すべきである。
 封建制度下百姓町民も自由に入りうる学校が藩の力で作られたことは日本の歴史のうちでも稀なことで、綾部はおろか遠く亀岡あたりからも入学を希望して多くの人が集まった。
 こうしてこれらの郷学校は明治五年学制発布によってその伝統を受け継いでいく各地小学校として発展して行った。
綾部藩の文教政策
 九鬼氏は歴代学問を重んじ、特に九代隆都公は山鹿素水を招いて兵学をおさめ。幕臣大野広城を預かり、奥山弘平、佐藤信淵をまねいて治世と経済立て直しの大方針を確立し、蘭学者であり名医であった新宮涼庭を接見して、治国平天下の道を説かしめた。更に十代隆備は、山崎闇斎派の学者三上是庵を、また藩医として増山守正を招いた。これらの人々と藩士の近藤勝直等の教化が相まって幕末から明治にかけて綾部の教育文化の担い手となった近藤勝由、沢井広重、宮崎清風等を生んだ。
丹波巡察記
 佐藤信淵は隆都公の請を入れて領内各村を巡り、つぶさに気候、地形、土質、作物の適否、人口動態、人情風俗等あらゆるめんから観察し、農村刷新の方策を思考し、秘記として献じたものが巡察記である。
 巡察記を貫く精神は、藩主隆都公に対する為政者としての教訓即ち領主は領民の為の存在であり、政治の根本は富の偏在をさけ、領民に恒産あらしめる安民対策にあるとする政治観であり、最早米麦作一本の自然経済では到底商業経済へ移行して行く時代には成立たないから、水田に綿を植え茶、煙草、桑等の特産物を栽培して農作物の商品化を計り、現金収入を増大せねばならないとする革新的な経済政策である。
 しかし、当時としてはあまりに革新的であったため、藩内上下の混乱を恐れられた隆都公によって手文庫の奥深く秘蔵され、ただ藩主の心を大きくゆさぶるにとどまった。
佐藤信淵と社倉講
 信淵は沼田安平、安楽嶋孫六、名張儔次郎、中西紋蔵等のまたとない協力者を得て、領内七郷をつぶさに巡察し、栽培、施肥の方法を指導し、独特の泉源法即ち社倉構の実施を施行した。これは社倉(共同貯蔵庫)を設けて、凶作対策として種籾の貯蔵と、それを利用する利殖および日掛貯金を実行する方法である。
 隆都公は財政の苦しい中から種金となる軒別銀三分づつを領民に与え、領民はこれに感激して万歳を唱えたということである。
 この社倉構は上からの命令で出来上がったものでなく、信淵の指導によって下から盛り上がったものであったから、後世永く続けられ明治中葉まで村々に残った。
 また信淵の農村指導は、直接農民を相手とし、農民の心に喰い入り、農民の味方として労をいとわず指導したので、他藩に不可能であった社倉構の設立が綾部藩において始めて可能となった。
 信淵の改革は漸次領内に綿、茶、煙草、桑等の増産となり、これらを商品化する仲買人の出現、殊に綿を原料とする木綿の製造は、家内工業化して行き広く各地に売り捌かれた。
 藩自身も国産木綿会所を設立して京都大阪方面に売り出し、その利潤によって藩財政の回復を計るなど、幕末に相当活発な産業活動が展開されることとなったのである。
隆都公と佐藤信淵
”大雷”と称せられる藩内の粛正を敢行した隆都公は、領民の疲弊は稲作改良や窮民救済等の姑息な手段では到底解決しないと考え、ブレ-ンであった新宮涼庭や奥山弘平との接触を経て、天保九年当時としては非常に進歩的な国家社会主義思想に立脚した社会運動家であり能楽の大家、佐藤信淵を招聘することに決意した。これは徳川封建制度の立脚する米麦作本位の経済政策をゆるめて商品的作物の栽培へ転換し、本格的な資本主義経済移行を目指したものだけに当時としては思い切った決断であり、綿糸、木綿、茶、煙草、蚕糸等の物産を豊かにし、農村の共栄意識を高め、明治における綾部経済興隆の基を築いたものと言わねばならない。
九代、九鬼隆都公の治世
 九鬼家には歴代明君が出て善政がしかれたが、特に九代隆都公は傑出しており、その治世を通じて近代綾部の基礎が固められたといって過言ではないと思う。
 封建制度の中にあって当時としては、明るい領民の気持ちを大切にした政治が、約二百三十年間続いたことが現在の綾部地方の人々に与えた影響ははかり知れない。
 ”福は内、鬼も内”九鬼の殿様を慕う意味で綾部地方に唱えられた節分のこの独特の呼称は、吉田神道にも説かれるように古代の人々の心を直ぐに現したものであるが、民衆の宗教大本に自然に取り入れられ、更に価値転換、価値附加されて、今も大本の人々を通じて日本国中となえられつつあるのである。
 隆都公の領民を思う心ばえは、天保の飢饉のおりに重役に与えられた覚え書きに面目躍如として現れており、領民の生活安定こそ藩主の責任であり使命であると信じ、領民を見殺しにする位なら自ら食を絶って死ぬまで、と言っている。ここに公の政治の出発があり、佐藤信淵の思想に共鳴した原因がある。

 次席へ納戸より内々可致通達文覚書部分・・
此上又存込も相立不申領内小前之一人に而も見殺し候様に相成候儀に而は、我等、公儀へ対し天智に向い申訳も無之様に候間、一統も我等存込を察し呉不申儀に候えば、幾日に而も食事も不致、此前領内小百姓を見殺し致し罪を存、我も同様餓死致可申し存念に候間左様に致承知候様存候・・・
飢饉と強訴
 日本における飢饉の障害は、多くは風水害、旱魃、虫害、冷害によるが、文献にあるものだけでも欽明天皇二十八年以来、明治初年までに実に二百二十五回に及んでいる。
 しかしながら前述の九鬼家の家風と古来の綾部地方の温和にして率直なる人々の気風があいまって、他藩にあったような苛烈な百姓一揆は起こらなかったのである。
すでに綾部藩初期の延宝元禄に二度強訴があり話し合いで説得している。宝暦の強訴は藩内あげての大がかりなものであったが、打ち壊しをともなわない陳情的なもので、藩よりの申し渡し状も願い出の条々について懇切にしかも今しばらく辛抱するよう情を明かしてたのみこんでいる。
 その後、綾部地方では由良川の氾濫を始め、冷害、旱魃によって度々飢饉に見舞われるのであるが、特に享保、天明、天保を三大飢饉といっている。天明の飢饉などは全国的なもので、奥州一国の餓死人数およそ二百万といわれたが、綾部領内では他領に米を売らず、他国よりも安く小売りさせ、藩の保有米で救いきれず奥羽から船で米を買い集めて一人も餓死者を出さなかった。天保の飢饉は比較的近年で今だに語りつたえられるが、葛の根はもとより、りょうぼ、蕗の芽、榎の葉まで食べ尽くした位で、九代隆都公は高値の他国米を買い入れ救民に専念し、領国よりほとんど餓死者を出さなかった、と伝えられる。
九鬼氏とその家風 編纂:吉田藤治氏(綾部JC、冊子丹の国綾部編集長)
 寛永十年(1933年)九鬼隆季公が綾部藩二万石の藩主として入部し、以前にその近辺を支配した梅原氏の屋敷地の提供をうけ由良川左岸下市場に陣屋を構築した。
 九鬼氏は藤原北家より出て十九代藤原教真が熊野別当職となり、隆真の代に紀州九鬼に住み足利尊氏に仕えた。これが九鬼氏の祖である。熊野別当職は、伝統的に南海の水軍の元締めとして隠然たる力をもっており、九鬼氏も次第に勢力を伸ばし、嘉隆の代に秀吉に仕えて、日本水軍の総大将としての地位を確立した。
 秀吉朝鮮出兵の文禄の役には旗艦に日の丸をかかげて戦い、これが日本で日の丸を使用した最初であると伝えられる。
 しかるに徳川時代に入り、海運の要衝鳥羽にあって、水軍の総元締めとして全国的な勢力を持つ九鬼氏の実力は、鎖国の方針を固めた徳川幕府のきらう所となり、その内訌に乗じられて伊予の来島氏と同様、内陸山間の綾部に封じ込められる形となったのである。
 九鬼氏は代々熊野別当職を襲い、古代神道の姿を伝える京都吉田神道とも深い関係がある。その九鬼氏が熊野信仰に厚い平氏の所領地として特に平重盛公がこよなく愛され、そして足利尊氏ゆかりの土地である綾部で新しい発足をみたことは、けだし深い因縁というべきであろう。
 その当時の何鹿郡は、旧綾部町と二、三の村部が九鬼藩にまとまっているが、あとは大名、旗本の所領地が入りくんで、お互いに一つの力となり得ず、むしろ次第に疲弊していくのである。これは特に日本制覇の興廃を決めるが如き、丹波の地場を恐れるあまり、幕藩体制の一つの仕組みとしてとられた徳川幕府の政策によるものであった。
 幕府中心の幕藩体制は必然的に諸藩の財政の貧窮と農村経済の崩壊をもたらすのであるが、九鬼氏は入部早々、下市場の陣屋及びその周辺の町屋のほとんどを火災で失い、新しく江田氏綾部城の故地に館をかまえ、今日の町並みの原型が出来上がったようである。
 その後の九鬼藩は度重なる城下の出火、江戸藩邸の焼失、出水、旱魃による不作の連続により息つくまもなく、次第に財政窮迫をつげていく。
 元来九鬼家の家風は、藩祖以来何となく穏やかで藩主と家臣あるいは領民とのつながりの中に温かい情が流れていた様である。これは、九鬼家が古来神に仕える家柄であり、また水軍の出身として船乗り気質の現れが、きびしい封建領主としてよりも、支配、被支配の感情をこえて、領民あっての藩主であるという気持ちが伝統として伝えられていたからであるといえる。
そのことは歴代、農民の保護政策に力をそそぎ、また入部以前からの土地の神社、寺院を大切にし、初代隆季公を始め歴代、田地、祭料の寄進、社殿の改築等を行っていることから見てもうかがわれる。
[ 10:41 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
山陰線・JR綾部駅
橋上駅である。キヨスクも開き人が出入りしていた。
京都方面に向かう列車「特急:たんば」
「アンネ・フランクの銅像」、JR綾部駅北口、アンネ・フランクの薔薇園広場に立つ
JR綾部駅北口と駅北広場(ロ-タリ-)
[ 10:25 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
大雪だ。雪かきに出たが玄関先からしっかり積もっている。路地を空けながら道路に出る。変則的な四叉路で広くなっている。公共下水路の工事中で、路面がガタガタなので雪かきスコップが引っかかり除雪不能。ガレ-ジの前だけ除雪して諦める。
車を出しても除雪しないと、坂がきつく帰れなくなるので、今日は徒歩通勤にした。
千玄坂を下る。一昨日の火事現場を通る。きつい酸っぱい臭い、焼けた木の臭いか火事現場の臭いが漂っている。
傘をさして駅前通を歩き、駅前交差点に到着。
JR綾部駅と駅前ロ-タリ-
綾部市観光センタ-の前を通り、橋上駅の階段を上る。
2005/12/18のBlog
[ 09:49 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
昨夜の火事騒ぎの一夜が明けて、静まりかえった焼けこげの家に雪が積もっていた。
2階建ちの右に平屋建ち、奥にも平屋建ちの計3棟が、すっかり炎上した。
真っ黒焦げの無惨な姿に、真っ白な雪が積もっている。
空き家だったらしく出火原因は何故だったのだろう。
駅前に真っ直ぐ下りる千玄坂(軽自動車も通行不可)沿いに、昨夜使われた地元消火栓のホ-スが4本干してあった。雪が積もっている。奥に見えるのが焼けた家の屋根。光ケ-ブルは、ホ-スの真上沿いから焼けた家の角に立つ支柱まで、斜めに坂道を横切っていた。低いので火に焙られたのかも?
2005/12/17のBlog
[ 19:43 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
ブログ(こなつ日記さんの京都土産・八つ橋にコメント)をしていると火事だっ!と家内が駆け込んできた。とりもなおさず外に出ると、坂道下の50mぐらい北に建つ家から、真っ赤な火の手が上がっている。
自分の住む七組の隣の組の家だ。走っていきバケツに水を水道(3ヶ所)で入れては、隣の一段高い家の敷地から、燃えさかる家の屋根に懸けるが効果はない。大勢でバケツを次々に運んで懸けたが焼け石に水どころか何の効果もない。隣の家の水道からも花水用のホ-スで水を掛けるが同じ状態である。三棟以上が炎上している。
やっと消防が来て本式のホ-スで撒水を始めたが一本では効果がない。その内に消防車が増えて、ホ-スが増えると火の手が落ち始めた。ポケット・カメラを取りに家に帰る。家の前も人だかりがしている。
かなり下火になったが尚、炎上中の家(三棟)と消火作業を撮った。
もし風がきつかったら(幸いにも吹いていた寒い北風が止んでいた)千玄坂と言われる軽自動車も通り抜けられない小道に並ぶ家は、両側とも飛び火を防ぐ術がなく、北風に煽られて、大火になっていたかもと思うとぞっとする。
おまけに光通信ケ-ブルが駅前からこの千玄坂を真っ直ぐ上がっている、これも切れていたらインタ-ネット出来ない。ブログ書き込み中に間違い電話が掛かった。娘からもかかってきた。事件があると通信量が増える実例のようだ。
消火栓も一カ所有るだけだ。下からも消防車であげていたので、ホ-スが数十本集中して足下に交差していた。
消防士だけでなく、地元の消防隊員も駆けつけてホ-スの介助をしている。
帰る頃には消防車多数と、消防幹部が顔を揃え、火災本部が設営されていた。
消防自動車の赤い警告灯が回り、モクモクと白煙を上げる火事現場を、煌々と満月の光が照らしていた。
2005/12/15のBlog
[ 16:28 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
年末の障子張り替え中。実際は9月末に張り替え終わった。
新聞紙を敷いた上に障子を置き、刷毛で水に溶いたのりを桟に塗り、障子紙を貼り付ける。霧吹きで水を吹き付けて乾くと、きちんと貼った障子になる。
[ 09:43 ] [ スキ- 銀嶺会 ]
寒波襲来で北風が吹く中を、今年度のスキ-協会事業を決める会合に歩いていった。
当協会には4チ-ム62名の会員が所属している。以前は20クラブほどあったが、スキ-の普遍化、ボ-ドなどの多様化、家族で簡単に行けるとあって、クラブ加入の必要性が薄らいだようである。企業関係クラブも不況の影響で、企業内クラブ活動の低迷、新入社員数の減少などあいまって殆どがなくなり、熱心なスキ-ヤ-は残された市民クラブに移転した。「四峰スキ-クラブ」「田子作スキ-クラブ」「綾部市役所スキ-同好会」「綾部信用金庫スキ-クラブ」である。総会は17名が出席、写真:挨拶する木下実スキ-協会会長。ジュニア部練習会・合宿:育成(5回)、志賀高原スキ-教室、四都市冬季大会、京都府の選手権大会・研修会、テクニカル・プライズテスト、研修会などの事業活動が決定された。
2005/12/14のBlog
[ 14:45 ] [ 由良川 上林川 ]
淡雪が降った日の由良川、たくさんの水鳥がいたが、カメラの視野から遠く、藪で近寄れないところにたむろしていた。並松井関で見つけ撮影。
おまえなんか知らん。
滔々と井関を流れる由良川
新綾部大橋を車両が行き交う。遠くの山は積雪で白い。
白雪で薄化粧をした弥仙山
2005/12/13のBlog
[ 17:20 ] [ 由良川 上林川 ]
由良川河畔から見る平和塔
シティ・ホテル綾部
由良川の清流と彩りの山
綾部大橋の上部にR173号に架かる丹波大橋のブリッジ
相互にブックマ-クをお世話になっている、ぴあの大好き保母さんの独りゴト。。(reverie-piano)さま
TDLの町はクリスマスモード♪より拝借しました、Xmasチックな背景画像のために:日替わり背景写真です。

Xmasチックな背景画像のために:日替わり背景写真です。
相互にブックマ-クをお世話になっている、
ぴあの大好き保母さんの独りゴト。。(reverie-piano)さま
TDLの町はクリスマスモード♪より拝借しました。
2005/12/12のBlog
興福寺東金堂
五重の塔
国宝館
南円堂
北円堂
三重の塔
猿沢の池
記念写真(五重の塔にて)
奈良和み館(昼食))
国宝の五重塔を目指していくと、横断道路があります。そこを渡ると目の下に、懐かしの「猿沢池」があります。そこから、更に南へと歩いていきますと今、有名な奈良町センター街へでます。買い物やお茶を一服飲んで休む等の楽しみもあります。
 春日大社の見学も可能で、五重塔へ向かい、そこから東へ向かうと、「春日大社一の鳥居」がありその奥が「春日大社」です。
 又少し、歩いて頑張れば先ほどの東大寺の「国宝・戒壇院・内部の四天王像(国宝)が有名」拝観料500・と「正倉院」外部のみ見学可能へ行けます
写真:興福寺周辺の紅葉を楽しむ。南円堂の石段を下りて。
猿沢の池ほとり
見事な紅葉
黄色もきれい
紅葉ごしに南円堂の屋根をみる
猿沢の池:ポランティア・ガイドさんを囲んで
猿沢の池、かなり広い
亀が沈木に群がっていた。一万年生きる亀は、平城京の昔を知っているのかな。
広々とした猿沢の池。木立が影を落としている
猿沢の池を巡る遊歩道を散策
鹿と遊ぶ
紅葉と鹿
中金堂跡を横切る鹿、五重塔を背景に
南円堂のそばの石段を下りると、祭壇があり参拝されていた。右手に三重塔(国宝)が建つ
猿沢の池に下りていく。バス仲間が集まっている。
北円堂(国宝)
 興福寺の創健者、藤原不比等の一周忌にあたる養老五年(721)に慰霊のため元明太上天皇と元正天皇のほつがん発願により建てられた。興福寺の北西隅に建ち、仏堂としては珍しい八角堂。現在の建物は承元四年(1210)に再建されたもので、創建当時の姿を良く残し、構造の細部は、貫の使用など、鎌倉時代の大仏様の技法を取り入れ強化が図られている。
 総高15.2メートルの規模をもつ八角堂は鎌倉初期の名建築である。
三重塔(国宝)
 南円堂から猿沢池への石段へ降りる途中にあり、平安時代に建立されたものですが、現存のものは、建立年代が定かでないが、鎌倉初期に藤原様式で体験されたもので高さ18メートル。
興福寺北参道
世界文化遺産
記念の石標
南円堂(県文化財)
 西国三十三箇所九番札所。北円堂と対になる八角円堂。現在の堂は江戸時代・寛政元年(1789)に再建されたもので、国宝の像は「興福寺国宝館」で拝見してきた。
南円堂(県文化財)へ向かう
大きなカメラを持って写真を撮っていると、修学旅行の生徒グル-プから写真撮影を頼まれる。気持ちよく引き受けて、各自好きなポ-ズをするように話しかけて撮る。大抵はフィルム・カメラと云うのか、使い捨てが多い。また小型カメラのグル-プもあり、一つのカメラを仲間で使い、互いに写しっこしているが、時には全員で撮って欲しくて、写真に強そうな人を見込んで頼んでくる。大体同じあたりをぶらついているので、帰りに何処から来たのなど声をかける。愛知県など、結構遠くから来ているようだ。
南円堂
南円堂
興福寺国宝館の見学を終え、集合の一行。これから自由行動タイム。
「興福寺・東金堂(国宝)」は興福寺の三つの金堂の一つであり、亀神三年(726)創建ですが、六度も焼失に遭い、応永二十二年(1415)再建されたものです。
内部には、薬師如来(室町時代・国重文)、日光・月光菩薩立像(白鳳時代の七世紀・銅造・国重文)は文治三年(1187)に飛鳥山田寺から移されたと云われています。文殊菩薩坐像((桧材・寄木造・鎌倉初期・国宝)、ゆいま維摩こじ居士座像(桧・寄木造。鎌倉初期・国宝)、十二神将立像(寄木造・鎌倉初期・国宝)四天王立像(桧・一本造・平安初期・国宝)等がある。
五重搭(国宝)
 高さ51メートル。古塔としては、京都の東寺の五重塔55メートルに次ぐ高さで、天平二年(730)藤原不比等の娘・光明皇后の発願で建立。現存の建物は、室町時代の応永十三年(1426)に建てられた六度目の室町時代の建物ながら、全体に創建当時を伝える純和様の名建築である
五重塔(国宝)と東金堂(国宝)
中金殿とその跡地
 伽藍の中心である中金堂は、江戸時代の享保(1717)の大火の後、100年後、町人の京屋市左衛門の努力により仮堂として建てられたものである。
国宝館
 昭和34年(1959)、旧食堂・細殿跡に興福寺宝物収蔵庫を建設して一般に公開。通称名「興福寺国宝館」として、広く海外にも知られています。当館は仏像彫刻・絵画・工芸品・典籍文書・考古資料・歴史資料などの寺宝(文化財)を多数収蔵し、この中の優品を展示公開しています。
国宝 薬師如来仏頭[銅造:白鳳時代・天武14年(685)]写真①
国宝 阿修羅像(八部衆像)(表紙写真)・十大弟子像[乾漆造:奈良時代・天平6年(734)]写真②
重文 仏手[銀造:奈良時代]
国宝 板彫十二神将像[木造:平安時代]写真③
重文 薬師如来坐像[木造:平安時代]
重文 釈迦如来坐像[木造:平安時代]
重文 地蔵菩薩像[木造:平安時代]
国宝 法相六祖坐像[木造:鎌倉時代:康慶作・文治5年(1189)]写真④
重文 梵天像[木造:鎌倉時代:定慶作・建仁2年(1202)]
国宝 金剛力士像[木造:鎌倉時代]写真⑤
重文 釈迦如来仏頭[木造:鎌倉時代]
国宝 天灯鬼・竜灯鬼像[木造:鎌倉時代:康弁作・建保3年(1215)]写真⑥
国宝 千手観音像[木造:鎌倉時代]写真⑦
重文 梵天・帝釈天像[木造:鎌倉時代]
重文 阿弥陀如来坐像[木造:鎌倉時代]
重文 弥勒仏半跏像[木造:鎌倉時代]
重文 吉祥天倚像[木造:南北朝時代:寛慶作・暦応3年(1340)]写真⑧
国宝 梵鐘[銅造:奈良時代:神亀4年(727)]
国宝 華原磬[銅造:中国唐時代]写真⑨
国宝 中金堂鎮壇具[銀鋺:銀製鍍金鋺・水晶玉:奈良時代]
国宝 南円堂灯篭・火袋扉[銅造:平安時代:弘仁7年(816)]写真⑩
県指定 舎利厨子[木造:南北朝~室町時代]
 *これらの収蔵安置のものは、随時移動がありますのでご了承下さい

①仏頭、②須菩提像、③迷企羅像、④伝玄昉像、⑤阿形像、⑥竜灯鬼像、⑦千手観音像、⑧吉祥天倚像、⑨華原磬、⑩火袋扉銘文
1998年12月 興福寺は世界文化遺産に登録されました。
以上、興福寺国宝館拝観券に記載の説明から収録。
冊子「興福寺」表紙
国宝館は撮影禁止で、館内入り口で販売されていたカラ-グラビア刷りの仏像や説明、年表など詳細に掲載された100ペ-ジほどの冊子(英語版もあり)を買いました。
写真を見るだけでも楽しく、詳しい資料集です。
2005/12/11のBlog
興福寺略史(興福寺国宝館拝観券より)
 興福寺は天智天皇8年(669)、中臣(藤原)鎌足の私邸(山城国宇治郡山階)に建てられた山階寺(やましなでら)を起源とし、天武朝には大和国高市郡に移って厩坂寺(うまやさかでら)と称されました。元明朝の和銅3年(7 1 0)に都が平城に遷されると、鎌足の子息藤原不比等(ふひと)は、厩坂寺を新都に移すべく、平城京左京三条七坊の地に寺地を確保して寺名を興福寺と改めました。和銅7年(714)に金堂が創建され、不比等の一一周忌の養老5年(721)に北円堂が建立されました、ぞの後、聖武天皇や不比等の娘である光明皇后の発願によって東金堂や五重塔が建てられ、やがて、七堂伽藍の大寺院になりました。
奈良・平安時代に寺観・内容ともに充実した興福寺は藤原氏の氏寺として栄え、平安中期以降は春日社をも支配して勢力を拡充し、法相(ほっそう)教学を研鎌する法相宗の大寺として南都仏教界の重鎮となりました。しかし、長い歴史のなかで、戦火や天災などによって度々堂塔が焼失しました。とくに治承4年(1180)の兵火は興福寺を焼亡させましたが、仏師院尊や成朝・明円・康慶・運慶などの有名々巧匠たちが参画した、いわゆる鎌倉復興造営がおこなわれました。
鎌倉時代は武士勢力が強くなりますが、幕府は大和に守護職を置かず、興福寺をしてその任に当たらせたということは、往時の興福寺が各方面に与える影響がいかに大きかったかがわかります。
 戦国時代になると武士勢力が強大となり、織豊時代は、検地によって寺領削減がおこなわれ、寺院勢力の弱体化が進行しました。
江戸時代になると、亨保2年(1717)の大火で中心髄藍のほとんどが焼失レました。この火災では、かろうじて東金堂・五重塔・食堂・北円堂・三重塔・大湯屋が罹災からまぬがれ、その後、ようやく南円堂と中金堂のみが再建されました。
 明治初頭、神仏分離による廃仏殿釈(はいぶつきしやく)が断行され、興福寺は瓦解同様の姿となりましたが、その後の努力で法灯護持がなされ、現在もなお復興途上にあります。