ニックネーム:   パスワード:
| MyDoblogトップ | Doblogポータル | Doblogガイド | 使い方 | よくある質問 | ツールバー | サポート |
なべちゃんの散歩道
Blog
[ 総Blog数:4052件 ] [ このMyDoblogをブックマークする ] [ RSS0.91   RSS1.0   RSS2.0 ] [ ATOM ]
2005/11/22のBlog
ここに救世主的存在として蚕業界に登場するのが、郷土の生んだ偉大な先覚者波多野鶴吉氏である。
 波多野氏は綾部藩下の大庄家羽室嘉右衛門氏の次男として生まれ幼名を鶴二郎、後鶴吉と改め慶応二年、九才にして上林の名門波多野弥左衛門氏の養子となった。
 氏の幼年時代は利口で負けずぎらいな元気者であったといわれる生まれながらのそれらの性格に加えて、実父嘉右衛門氏の厳格さ郷学校広畔堂における学業、養家の淋しい境遇の中でのかずかずの苦労、あるいは当時の外的環境一黒船騒動、桜田門外の変など一が若き波多野氏の自立心をはぐくむと同時に、明治初期における破壊より建設への青年の士の目覚ましい活躍は、氏を大きくゆさぶり、京都への遊学の意を決しさせたのである。
 京都での七年間は、養家の財を費い果たしたり、多額の借金を背負いこむなど放蕩三昧に日々を送っていたと一般には考えられていた。併しそれらは氏の向学心、探究心がなさしめたのであって 「啓蒙方程式」という著書にみられるように数学の研究、製塩事業など各種産業について、現在、将来性など綿密な調査、研究を貪欲に行っていたのである。氏の各種の試みは結果として、実現の運びとならず、経済的事情は極めて切迫し、意気に燃えて出京都した氏であるが、落魄の言い知れぬ苦悩と寂しさを胸に抱いて帰郷することとなった。
 しかし、この京都時代の試行錯誤は、氏の輝やかしい後半生の礎となったと考えられる。 帰郷後氏は小学校の教師をする傍ら、蚕業に関心をもち、蚕糸業の将来性と農村産業としての適宜性を見越し、その開発について着々と研究を進めていた。
 この過程における田中敬造氏の天蚕飼育に関する所見は事業上のそしてキリスト教への導きは精神上の大きな糧となった。
 ちょうどこの頃、綾部地方の繭や生糸が前述の「粗の魁」という烙印を押されたのである。この対策として、京都府はまず蚕糸業組合を組織し、業者共同の力によって改善をはかることが最も緊要であるとし、政府にその規則の発布方を建議し、これにより蚕糸業組合準則が発布された。
 その結果、綾部にも何鹿郡蚕糸業組合が設立され、初代組長にまだ小学校在職中で、蚕糸業とは未だ表面的には緑もゆかりもない二十九才の青年波多野氏が推され、遂に蚕糸業界の人となったのである。氏を組長にh推薦したのは、当時何鹿郡蚕糸業界の第一人者であり、蚕糸業組合設立の先頭に立っていた梅原和助氏である。この梅原氏の卓見は波多野氏個人はもとより、何鹿郡やがて京都府の、関西の、否、日本の蚕糸業に大きく貢献した。
 氏の組長就任時の綾部地方の蚕糸業は「粗の魁」と酷評されるのも頷ける状態であった。即ち、器械製糸と称するものは四十五工場座繰五十二工場のほか、手挽工場は七十にも及んだが、その規模は小さく、製糸技術も幼稚で品質も悪く、到底輸出し得る製品ではなかった。氏は高倉平兵衛氏などを群馬、福島の先進地へ派遣し、修学させ、その帰郷後、共同揚返所を設立し郡内の製品を集め、品質を検定して束装、荷造りし輸出生糸に必要な標準化、大量化をはかり次々と成果を収めていった。
 また明治二十年一頃より、各地に養蚕伝習所を開き、二十六年には高等養蚕伝習所を綾部に設立し、技術者を養成し新時代の蚕糸業界に活躍すべき人材が続々養成された。 氏の惜しみない熱意と懇切な指導精神が、やがて綾部の指導者精神にまで感化、成長したことは銘記すべきことであり、且つこれを素直に吸収した綾部人の気風は、賞賛に値するのではなかろうか。
 こうして、波多野氏を先達として何鹿郡、そして京都府の蚕糸業は躍進的発達を遂げ、漸く劣勢を挽回し、やがて郡是製糸の生るべき環境が徐々につくられてきたのである。併しこの時期における蚕糸業の実態は、まだ極めて小規模で不完全なものであった。従ってこれによる製品もまだまだ粗雑であり、綾部の蚕業は前途洋々たるではあったが、この状態では改良も増産も行い得ないのが実態であった。
 これを健全に発達させるには、資力が豊かで且つ優れた設備を有する大製糸場を創設しこれを中心として郡内蚕業の各方面の改艮発達を期すべきであると、波多野氏の胸中には大製糸工場の雄図が画かれ、時期の到釆を待っていたのである。
 忍苦精進、まさに十年、日清戦争後の経済界の好況と実業界の巨匠前田正名氏の産業開発上の国是、郡是についての綾部での大演説が郡民を刺激し、蚕糸業振興の気運が一挙に熟したのである。
 波多野氏はこの機を促え、製糸家独自の利益を目的とするのではなく、蚕糸業奨励機関、即ち産業組合製糸を根本精神として、郡民より一株二株の投資を得て郡民皆の会社である「郡是株式会社」を創立したのである。明治二十九年五月であった。
 会社は今日、内外の事情は大いに創立当時とは趣も異にしているとは言え、至純な創立精神は会社精神として、尽きることなくいよいよ浄められ、いよいよ拡充され、日本製糸業界の重鎮として確固たる地位にあり、躍進の一途を辿っている。蚕糸業発展の歴史、特に「郡是製糸株式会社」創立後その会社精神が地元綾部文化に与えた影響は計り知れない。また社員として全国各地から集る優秀な人材は、全国蚕業地のなかで、専門学校学以上の高等教育を終えた有識者の数において最高であったことにおいてもわかるように、会社の業務だけでなく、地域社会の各分野においてもそのレベルアップに計り知れない大きな役割を果していったのである。
丹の国・綾部 第六話 「蚕都をきづいた人々」 編:池田博之君
 並松の景勝をつくりながら、ゆるやかに西流している由良川沿岸の洪積台地には、多くの桑畑が散在してる.、「何鹿郡漢部」-この桑畑に綾部の養蚕の発端がある.
 古代由艮川本支流の流域には河川平野の外、山地帯に洪水地帯があって、自然に桑の立木が繁茂していたので、自然養蚕機織が営なまれるようになったと思われる。
 ここに綾部市の中心をなす市街地は古代漢部郷と称した所で、恐らく由良川をさかのぼってこの附近に土着した大陸糸の民族(即ち出雲族)が開拓したもので、彼等は一般に綾を織る技術に長じていたので、「アヤヒト」と呼ばれ集落を作って生産を始めるにつれて伴部の一種漢部としてその端を発したものであろう。
 また仁徳雄略朝(五世妃頃)の頃には急速に需要を増した絹織物大量生産のため、雄略天皇十六年詔して桑によろしき国県に課して桑を植えしめ、泰氏(応袖朝、大陸より帰化した弓月君の一族)を分ちうつして庸調を献ぜしめ、また漢部をあつめて其の伴造りを定む、とあって漢部の統率者として帰化人阿知使主の子孫が真姓を賜ったことも見えている。
 かように奈良朝から平安朝初期にかけては、伊勢、三河、相模などの国とともに、蚕糸絹業の先進地として隆盛を極め、朝廷へ数多く貢納していた。
 しかし、延喜、天歴の頃、朝威の衰退とともに、漸次、衰えはじめた。時代は保元、平治、承久の乱と続き戦国の世となり、絹の産地は全国僅か二、三ケ国となったが伝統ある綾部地方の蚕糸業は陣羽織、直衣袈裟などに需要を見い出し命脈を保ち続けた。
 更にこの蚕糸業の衰退に拍車をかけたのが江戸幕府の質素倹約の政策による禁絹令の公布であった。
 これらの厳しい環境にも拘わらず、綾部における蚕糸の強い生命力は山畑地帯、あるいは由艮川筋にわずかであるが、伝統の灯をともし続けたのである。
 我国で最も古いといわれる蚕書「蚕飼養法記」(1702年)のなかに”こまるまゆというは世上に丹波種というものなり″とあって当時すでに丹波のこまるまゆという品種が有名であったことがわかる。
ようやく、天下泰平の時代となり、庶民の間に華美の風が生まれはじめ、天和十二年遂に江戸幕府は禁絹令を解除し、蚕業奨励策へと大きく転換し、ここに綾部における養蚕業は、永年の苦難が漸く実を結び本格的発展の基盤の確立期を迎えようとした。
 然るに、この時期において封建制崩壊という大勢と、これを維持せんとする矛盾対立が複雑な様相を呈して農民は疲幣し、ひいては藩の財政をも枯らしてしまう結果となり、それに加えて飢饉、火災の頻発で綾部藩は疲幣を極めていた。
 このような藩経済の打開と窮民救済のため、藩主九鬼隆都は従来の米作を第一とする農業振興策から脱却するために、佐藤信渕を招聘し改善を要請した。それに応え信潮は領内を具さに巡察し、農村の立直しのため進歩的な改善策等を藩主に進言するとともに農村をも指導した。ところが保守的な藩役人の強硬な反対のため、思うに任せず特に蚕糸業は他の大藩に比し、積極的な奨励策をとらなかった。これが伝統ある綾部の蚕糸業の地位を大きく後退させたのである。
 安政の開国の時点において東北、関東地方の蚕糸業は機械化、工場化、そして品質向上の研究が着実に実行され、輸出体制が既に整っていた結果、明治初期には蚕糸業は主要輸出産業としての地位を確立したのに反し、千数百年の歴史を誇る綾部地方であるに拘らず旧態依然たる製法で且つ輸出には関心を示さず、内地向生糸の生産だけに甘んじ、従らに長夜の眠りを貧っていた。
 このため明治十八年、東京で開かれた全国五品共進会において、京都府出品の繭について「本会出品中、恐らくは粗の魁たらん」といわれ生糸については「該地方は人皆旧慣を墨守し、単に内地の需要にのみ充つるをもって、繰糸の方法は極めて拙く束装も区々なり」と、共に酷評をうけた。これによって長夜の夢は一時に覚めて、蚕糸業の発展向上のために奮起せぎるを得ない情勢となったのである。
2005/11/21のBlog
♪秋の夕日に照る山もみじ・・♪
ぴあの大好き保母さんの独りゴト [reverie-piano] からいただきましたコメントです。
>はいっ!秋の夕日に~♪♪今月のテーマ曲ですっ♪
歌ってますよぉ♪♪それから、真っ赤な秋も歌ってます♪♪
こういう紅葉近くにはないですね~。
秋の色は七変化、奈良東大寺、興福寺の見学の帰路、バス車内でビデオ放映があり、その中で長谷寺の紅葉守の仕事が紹介されていた。もみじも赤いだけでなく、光に透ける青緑から黄色、紅まで様々な色が解け合い、秋色を演出するのだと話していられた。
こうして見ると本当に濃淡のある紅葉がきれいだ。
八幡公園の椎の木。西日で影になっている。三脚、レリ-ズ使用、AF300mm
椎の実が美味しく、通学中に拾って食べるのが流行っていた。
今時の子は多分食べないだろな。
八幡公園のブナ?の木。これも黒い紅葉だ。フリ-ハンド撮影
[昼行灯日記(ひるあんどん)] 様からコメントをいただき、ResとTBでブログを訪問した、まだ青々とした竹林のタイトル写真が、次に訪れると真っ赤な紅葉風景に変わっていて、鮮やかな演出だった。早速真似ることにした。
2005/11/20のBlog
[ 19:40 ] [ ブログ関係 ]
昨日カメラ片手に散歩道で「菊のいろいろ」をブログしたところ、花菊ごのみ:花菊さま からコメントをいただきました。ブログを訪問して、A型倶楽部の存在を知りました。かねてからO型、B型、AB型の活躍は目にしていましたが、考えてみれば当然、A型もあるのですね。
○ A型倶楽部 会員番号82番
主宰者:女30代はちくろが行く:はちくろ様
このバナ-・ロゴは、A for Aho? (あほ?)で~す。
こちらのバナ-は、A for Ai (愛)で~す。
A型倶楽部入門の関門、テスト問題です。
 問い1:ぷちアンケート:『A型を動物にたとえると?』
 答え:会長のはちくろさんは、やたらと人を刺して回る、うるさ型の「蜂」ではなさそうです。
私の方は、孤独が大好きな「案山子」かと思いますが、その実、人のことを気にしている「マネキン」かも。
 問い2: 第2回アンケート:あなたはどんなA型ですか?
 答え:A=アバウト人間、大抵のことは大まかで気にもしていません。
しかし関心のある事には、とことん熱中して、人にきっちり人間と思われています。(実際は大変な、良い加減人間です)
[ 15:34 ] [ 花だより・紅葉だより ]
いつもの散歩道、八幡公園まで足を延ばした。見事な銀杏が色づいている。今回は、銀杏の秋の宅急便だ。
八幡宮の鳥居がある。もう少し経つと銀杏(ぎんなん)を拾いに人が集まる。
300mm(換算300x1.6=480mm)で撮る。三脚使用。
カメラのファインダ-を覗いていると、魔法の國に吸い込まれそうだ。♪銀杏は手品師、老いたピエロ♪の歌が浮かんだ。
◎綾部市制55周年記念
 「足利尊氏公生誕700年祭」 理事 安国寺町 大槻正則 
実施日 11月27日(日)(雨天決行、行列は中止)
会場 禅徳寺、府道梅迫町各町通り、
 安国寺、安国寺ロードパーパーキングエリア
主催 市政55周年記念「足利尊氏公
 生誕700年祭」実行委員会(綾部市、綾部市観光協会、安国寺町自治会観光事業部) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
∧スローガン∨
足利尊氏公生誕700年祭を成功させて、三大祭りの時代祭につなぎ、時代祭りに室町時代の足利尊氏公行列を実現し!みんなで2006年の京都時代祭に参加しよう。
∧実施内容∨
「足利尊氏公生誕700年祭」「室町時代行列」「布陣太鼓」「菊花展」「俳句大会」等
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
∧尊氏のルーツを辿って∨
1、出陣式・門出総合司会=禅徳寺総代(於:禅徳寺・午前9時~9時30分)
 ①出陣式祈願 =禅徳寺 
 ②足利尊氏公出陣挨拶=足利尊氏公役
 ③上杉清子氏門出挨拶 =上杉清子役
 ④慶祝御和讃 =禅徳寺御詠歌の会
 ⑤けんちゃん汁で乾杯=実行委員会
 ⑥布陣太鼓・於与岐 =軽トラックに太鼓を乗せ、敲きながら先頭を行く。
 ⑦尊氏室町時代行列出発→東八田公民館選出15人衆室町時代行列者・小学生全員
2.、足利尊氏公武者行列(東八田公民館前で旗挙げ)・激励東八田公民館長
②行列コース
 ・鐘鋳場→上町→中町→新町→安国寺へ(午前9時30分~10時20分)
3、足利尊氏公生誕の里(安国寺公民館)
 ①上杉清子別邸常光寺は尊氏公生誕地 
 ②1305五年秋生誕(常光寺産湯の井戸) 
4、足利尊氏公700年祭記念俳句大会
 会場:安国寺町公民館にて午後1時から午後4時まで)
5、足利尊氏公武者行列安国寺到着(10時20分頃)
①上杉清子・足利尊氏公祈願の子安地蔵尊参拝(993年恵心僧都作・重要文化財)
②釈迦三尊に平和祈願(1339年3月円派仏師豪円作・国の重要文化財)
③足利尊氏公・上杉清子・赤橋(旧北条)登子の墓参拝(宝篋印塔・綾部の指定文化財)
6.東山文化の表千家流井上社中と㈱オムロン茶道部の野点で一服(安国寺一円)
7、足利尊氏公生誕700年祭(於安国寺ロードパーキングエリア)11時10分から12時)
①開会(司会) =実行委員会 
②尊氏公銅像の引継ぎ=建立委員長、綾部市長・当時の建立実行委員全員参加
③足利尊氏公銅像顕彰=室町時代行列の登壇・布陣太鼓・=於与岐太鼓の皆様
④実行委員長挨拶=実行委員長
⑤来賓挨拶=綾部市長、京都府会議員、綾部市議会議長、国土交通省近畿地方整備局福知山河川国道事務所々長、・京都府中丹東土木事務所長、京街道・京都縦貫高速道丹波綾部道路会長、綾部俳句協会々長を予定しています。 
8、足利尊氏公生誕700年祭お祝い(足利尊氏公役の音頭で尊氏うどんで祝杯)
9、足利尊氏公生誕700年祭お祝いの舞
 ①司会(邦楽と共に)=実行委員会
 ②詩吟と扇舞=神心流 吉田晟風
 ③祝舞=花柳有喜玉・他
10、足利尊氏公生誕700年お祝いの邦楽
 ①生田流箏曲=村田社中
 ②都山流尺八=竹遊会
11、記念撮影会
 (「参加者」「ご来賓」「時代行列」「布陣太鼓」「出演者」と共に!
12、菊花展(於:安国寺ロードパーキングエリア・11月27日(日)午前10時~4時まで
13、模擬店出店多数(於:安国寺ロードパークエリアにて)午前10時から午後4時まで(多数用意しますが、売り切れたら勘弁ねがいます。) 
 会員の皆様、家族そろって、紅葉狩りも兼ねて、この祭りに参加しましょう。
[ 10:33 ] [ 花だより・紅葉だより ]
今日の日曜日も快晴。家内の怪我がなければ、舞鶴のふじもと様のお誘いで、由良川の源流、北桑の山中のトレッキングに行く予定だった。昨日のグンゼ集い蔵で開催の「創の会水墨画展」で、綾部市長などとの開会式取材のため、写真係を務めておられた、ふじもと様に出会い、家内直々にお詫びを申し上げた。
家内は滅多に行けないところなので、楽しみにしていたのにと残念がっていた。私に行って道を覚えて来たらと云ってくれたが、方向オンチの気味もあり、若葉の頃に仕切り直しで、連れて行っていただけるようである。
菊いろいろ
ピンクの菊も花びらに変化がある
秋の日を浴びて輝いている
花の色も移りにけりないたづらに・・誰の句だったのかしら、また時期はいつ・・
わがみよにふるながめせしまに・・だっだか知ら
2005/11/19のBlog
[ 13:03 ] [ 美術・芸術・展示館 ]
綾部市制55周年協賛の第12回 創の会に行ってきた。
と き 2005年11月19日(土)~11月24日(木)
ところ 綾部市グンゼ博物苑・集蔵
すでに京都市内で今年10月に開催されたものである。
綾部市松本助役、木下市議会議長、久木教育長など、テ-プカットセレモニ-で見えていた。
町 田 泰 宣 バイョンの響
社団法人・日本南画院理事長と門下生
浅 田 恭 子 旅の想い出
石 黒 柏 堂 太山寺
岡 本 和 子 想
加 藤 陽 華 聖 域
金 洋 徹 増位山鬼追い
亀 井 むつみ 愁 影
北 沢 王 子 夢の跡
慶 祐 幸 治 春一番
島 田 昌 葉 惜 春
吹 田 華 浙 夜 想
中 坊 定 子 刻
西 尾 圭 子 悠 久
沼 田 郁 代 華舞台
紅 谷 和 子 街 角
星 野 皓 司 惜 象
堀 江 春 美 微笑み
堀 田 正 道 こほろぎ橋
水 目 美智子 流 響
宮 下 外茂子 寂
向 山 和 子 朧 月
矢 田 作十路 静谷飛泉

主 催 創 の 会
連絡先 京都市上京区寺町広小路上ル 町田楽宣方(TEL 075-231-0355)創の会出品目録
三重県から大型バス一台の参観者も到着、出展者も顔を揃えておられ、盛大な開会式であった。
[ 11:58 ] [ 福祉 あやべ作業所 ]
今朝は母の見舞いに行った。薬が切れたというので、市立病院で貰った薬と着替えを持って行った。家内が風呂場の掃除中に滑って、あばら骨を4本も折る大けがをして、重いものを持つのは厳禁だとのことで、急遽預かって貰うこととなった。緊急の場合、こういう施設があると本当に助かる。怪我の方は全治2ケ月、今のところ順調に回復の様子だが痛みが激しいようだ。
寺山麓の田野町にある松寿苑は第1、第2とあり、さらに建て増し中でクレ-ンが2基見える。菊の鉢植えが入り口などに飾られていた。
2005/11/18のBlog
相互ブックマ-クを基本に、ブックマ-クをいただき総数が増えれば、即ブックマ-クして、リストを一本化してやってきました。(独自のBMも沢山あり、別々のリストではダブるので、全てをじっくり見るには不都合、毎日必ず訪問してコメント、TBを心がける方針です。また情報化社会構築に、相互リンクは重要なNET構築手段と考えてのことです)
先般、総数が110を超していましたが、111となり、BMランキング・リスト百(93位)に入りました。
これも私の拙いブログに寄せていただいた、皆々様の暖かいご厚情、お引き立ての賜と心から深く感謝を申し上げます。時に昨年6月26日の初ブログ以来、1年5ケ月(493日)ブログ数は丁度800件目でした。
今後何時、圏外に脱落するかも分かりませんが、ここに公表して望外の私の喜び、記念としたいと思います。突然のご報告です。有り難うございました。
[ 18:59 ] [ 花だより・紅葉だより ]
続けて自宅周辺の散歩道の菊色々
菊いろいろ
菊いろいろ
菊いろいろ
菊いろいろ
秋も深まり寒くなった。
2005/11/17のBlog
南大門:阿吽の金剛力士像(国宝)・阿形二体の「石造獅子」
中門: 宝珠院々長兼勧学院々長:佐保山堯春師と共に記念写真撮影
鐘楼(国宝): 梵鐘(国宝)・念仏堂(国重文)・国宝「開山堂」
法華堂(三月堂)(国宝):不空羂索観音像・執金剛神像・金剛力士像(吽形)・月光菩薩像
二月堂(国重文):飯道神社
東大寺大仏殿: 盧舎那仏(国宝)・ 蓮華蔵世界・ 如意輪観音菩薩像・ 虚空蔵菩薩・ 多聞天像・広目天像
金銅八角灯籠(国宝)・音声菩薩など
東大寺南大門(国宝)と金剛力士像(国宝)
 天平勝宝四年(752)に創建された東大寺の正面で、十二世紀後半の台風による倒壊や治承の兵火を得て、重源上人が宋の技術を導入してつくらせた、いわゆる「大仏様式」の代表的な建物で重層入母屋造りの五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造である。又、屋根裏まで達する大円柱18本は21メートル、基壇上20.46メートルに達する我が国最大の山門である。
 この門の中には東西相対し、阿吽(あうん)一対の金剛力士像(仁王)が安置されている阿形は8.43メートル、吽形は8.36メートルもある巨大なヒノキ材の寄木造りの工法でつくられた木造である。
 又、この像は鎌倉初期・建仁三年(1203)に運慶や快慶ら仏師たちによってわずか69日で造像されたと云う。

バスの中でこの金剛力士像の解体修理の様子。専門的な知識と技術、果敢な決断によって修復された感動の修理をビデオで研修してきた。
尚、南大門両端の北側の阿形二体の「石造獅子」は共に国重文です。
尚、東大寺には国宝の「戒壇院」、国名勝の「依水園」や「正倉院(国宝)」は外側のみ見学可能であります。正倉院の西方に「転害門(国宝)」もあります。
 午後の自由行動時間で「戒壇院」は入場料500円で中には「四天王像(国宝)」があり、見学に行ってこれます。

園児たちが順番に鹿に「シカセンベイ」を食べさせていた。先生の世話で列を作り、食べさせ終わると、列の後ろに回って並んでいる。
参道横に並ぶお土産やさん
南大門のそばも賑やかに色とりどりのお土産が並んでいる
おしゃべりしながら買いものを楽しんでいる
八角灯籠(国宝)
境内に入ると巨大な大仏殿が目に付く。此処から更に大仏殿の前に行くと、巨大な金銅の八角灯籠がある、高さ4.6メートルもあり、この灯籠は東大寺創建当時のものとされ、その後、多少手を加えているが天平時代の金工技術と工芸意匠の素晴らしさを現代に伝えている。非常に大きな火袋が特徴で東西南北の四面には両開きの扉に雲中を走る唐獅子と他の四面には優美な音声(おんじょう)菩薩(ぼさつ)の浮彫が見られる。
音声菩薩(おんじょうぼさつ)
大仏殿の前に金銅八角燈籠(こんどうはっかくとうろう)があります。音声菩薩(おんじょうぼさつ)という天女像をすかし彫りにしたものが、この燈籠の火ぶくろの扉に表現されています。国宝にふさわしい優れた工芸品といえます。
金銅八角燈籠
高さ4.6メートルもありこの灯籠は東大寺創建当時のものとされ、その後、多少手を加えているが天平時代の金工技術と工芸意匠の素晴らしさを現代に伝えている。非常に大きな火袋が特徴で東西南北の四面には両開きの扉に雲中を走る唐獅子と他の四面には優美な音声(おんじょう)菩薩(ぼさつ)の浮彫が見られる。
中門から回廊を通り出口に向かう。
如意輪観音菩薩像(にょいりんかんのんぼさつ)
江戸時代の木造で、大仏の左脇(正面から見ると右側)にあります。煩悩を打ち砕く法輪を持つものとされ、衆生に利益を与える菩薩であると言われています。
虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)
江戸時代の木造で、大仏右脇(正面から見ると左側)にあります。虚空蔵とは広大無辺の功徳が虚空のように大きく壊れることがないという意味です。この菩薩を念じれば記憶力が増すと考えられ、特に知恵を授ける仏として信仰されるようになりました。
多聞天像
江戸時代の木造で、大仏殿内の東北隅にあります。四天王の一つで、北方を守っています。左手に矛を持ち、右手で仏塔を捧げています。
広目天像
江戸時代の木造で、大仏殿内の西北隅にあります。四天王のうち西方を守る神で、筆と経巻を持っています。
仏像
宝珠院々長兼勧学院々長:佐保山堯春師から、盧舎那仏(るしゃなぶつ)の座っておられる巨大な蓮弁座の説明を受ける。
大仏尊像の台座の周りの蓮弁には「蓮華蔵世界」と呼ばれている毛彫図が刻まれ、「華厳経」の説く「悟りの世界」を絵に表している。
「蓮華蔵世界」と大仏の説明
「蓮華蔵世界」と大仏の説明
「蓮華蔵世界」と大仏の説明
盧舎那仏(るしゃなぶつ)(国宝)
大仏様は正しくは毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)と云いその意味は、知恵と慈悲の光明を遍く(あまねく)照らし出されている仏ということである。
インドのカピラ城(今のネパール)に生まれた釈尊は29歳のときに出家され、以後6年間難行苦行を重ね、ついに尼連(にれん)禅(ぜん)河(げ)のほとりの菩提樹下で大いなる宗教体験を得られた。「大方広仏華厳経」は時間と空間を超えたほとけとなられたその瞬間の釈尊の姿を描いたお経で、偉大で、正しく、広大なほとけの世界を、菩薩のさまざまな実践の華(はな)によって飾ることを説いている。このお経によれば、鳥の声、花の色、水の流れ、雲の姿すべて生きとし生けるものを救おうとするビルシャナ仏の説法であり、大仏尊像の台座の周りの蓮弁には「蓮華蔵世界」と呼ばれている毛彫図が刻まれ、「華厳経」の説く「悟りの世界」を絵に表している。
尊像 像高:14.98m、目長:1.02m、耳長:2.54m、顔長:5.33m、鼻高:0.5m、台座3.05mです。
盧舎那仏(るしゃなぶつ)(国宝)
大仏殿祭壇前の雑踏
赤仏を参拝する人
東大寺大仏殿への廊下を行く。ご先導いただくのは、東大寺宝珠院々長兼勧学院々長:佐保山堯春師
宝珠院々長兼勧学院々長:佐保山堯春師から東大寺の説明を拝聴する。
佐保山堯春師を囲んで
佐保山堯春師を囲んで拝聴
東大寺(華厳宗総本山)の略歴
 奈良、春日山の西麓に建つ東大寺は、盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とする華厳宗(けごんしゅう)の総本山。
 仏教を中心とする国造りを進めた聖武天皇の発願で、総国分寺として創建。
 大仏建立は国力を傾けた一大プロジェクトでした。その背景には、皇太子もとい基親王の病死をはじめとして、当時の世上は、政治の中枢を占めていた藤原(なかとみ中臣)かまたり鎌足の第二子のふひと不比等の子供、南家・北家・武家・京家の四兄弟の病死や、疫病の流行、全国的な飢餓の広がりがありました。
 又、幸いにも奥州で砂金が見つかり、大量の砂金が大仏の塗金のため寄贈されたとも言われています。
 天平勝宝四年(752)、開眼法要が盛大に営まれました。治承四年(1180)、平重盛の南都焼き討ちで大半の堂塔を焼失したが、すぐにじゅうげん重源の勧進で復興。
 しかし、永禄十年(1567)に松永久秀の兵火で再消失。
 江戸中期の元禄五年(1692)になって五代将軍綱吉の母・桂昌院を動ごかし幕府の多大な援助を引き出し、大仏開眼をしたのは大和出身の僧・隆光でした。
この境内には数得れないほどの国宝があります。例として、南大門とその仁王像・大仏殿と大仏・鐘楼・三月堂(法華堂)と内部の十二の像などであります。
大仏殿(国宝)
 東大寺の金堂である。二度兵火に遭い江戸時代に再建されたが、天平・鎌倉時代の大仏殿は十一間であったが、財政困難で今は七間であるが、それでも世界最大の木造建築物である。東西57.012、南北50.48、高さ48.742メートルである。
世界文化遺産登録の「東大寺・興福寺」と言いますと、奈良はシルクロードの終着地とも言われ、私にとっては、すぐにスタートと云われるイタリアの首都ローマやトルコの東西文化の交差点とも言われるイスタンブールのトプカピ宮殿(現・博物館)に展示されている巨大な(高さ1メートル以上)の一対の古伊万里焼の素晴らしい壺を思い出します。
 ラクダの背によって運ばれたものか、それとも海のシルクロードを船で運ばれたかは知りませんけれど奈良はそういう文化財を持つ”国宝の山“です。
 又、昭和63年(1988)平城京跡で、天武天皇の第七子、たけち高市のみこ皇子の第一皇子のながや長屋おう王邸宅跡が発見されました。長屋王は右大臣を経て神亀元年(724)に左大臣に就任し、皇臣を代表し藤原氏の勢力に対抗したが、天平元年(729)に「左道」を学び国家を傾ける危険人物と密告され自殺に追い込まれました。これは藤原の陰謀と云われ、犠牲となった人物の邸宅が初めて確認されたのです。
 十数万点という木簡等が発見され、その内、綾部資料館ではビジュアルで見れる高津里(今の高津町)から鮎の干物が長屋王邸宅へ運ばれたことが判る木簡も発見され「木簡の旅」として常時無料で見学(除く月曜日)できます。
東大寺「南大門横の駐車場」で現地のボランテアガイドさんが待っておられ、ここから見学にスタートです。1300年の昔にタイムスリップして、さあ、見学開始です。
 此処には書ききれませんので、ご参加者には当日「古代皇室系図」「現地地図」「古都奈良の歴史概略」等の資料を差し上げます。
「綾部市文化協会後援」第11回秋の文化財・史跡学習会のご案内:事務局 四方續夫-見学場所の案内より-
私(注:四方事務局長)は、仕事柄インド・ネパール、アフガニスタン、ボルブドール、アンコールワット、ベトナム、ビルマ、タイ、中国等多数の仏跡めぐりに行ってきましたが、ご承知の通り仏教はインド(今のネパール)で生まれました。
 十二月の冬でも日中は40度を越える温度、夜はマイナスになり凍死者が出る。一日にして、朝は春、昼は夏、夕方は秋そして夜は冬。一日にして春夏秋冬を経験できます。なぜか、世界三大宗教の仏教、キリスト教、回教のみならず、他の有名な宗教は生きるのに非常に過酷な地で起こっています。
写真:東大寺中門
二月堂の斜面に築かれた懸造(かけづくり)。斜光が入っているが長い階段から撮影。

お水取り:お水取りは正しくは修二会(しゅうにえ)(修二月会)といい、インドの正月にあたる2月に仏の供養をしたことから、この名が生まれたともいうが,現在は新暦により、毎年3月1日から14日にかけて盛大に行われている。
二月堂の本尊である十一面観音に自らの過ちを懺悔して,天下泰平・万民豊楽を祈る法要である。
このお水取りは,奈良時代の憎実忠によって始められたとされる。あるとき山城国笠置山の洞窟で、弥勒菩薩の浄土に遊び,十一面悔過(げか)の法に感激した実忠和尚が、752 (天平勝宝4)年2月1日,二月堂に十一面観音を迎えて法要を行った。以来1200年余,一度も欠かさずに続けられてきた。
 十一面悔過法要を行う11人の練行衆は,2月20日から戒壇院にしつらえた別火防で前行に入り,本尊に供えるツバキの花ごしらえ,紙衣(かみご)づくりや声明の稽古をして本行の準備をする。本行は3月1日からで,二月堂下の参籠所に入り,正午から夜の零時まで日中・初夜・日没・半夜・後夜・晨朝の6回「六時の行法」という荒行を毎日行う。
その間,夜の行法に上堂する練行衆を導くのが大松明である。お水取りの行法が行われる3月12日の松明は特に大きく,夜7時頃から二月堂の欄干で大の粉をふるうさまはまさに壮観である。無病息災を願う人々が火の粉を求めてひしめきあう。
 この12日の深夜,正確には13日の午前2時頃お水取りが行われ,若狭井(闘伽井屋(あかいや,国重文)から本尊に供える香水がくみあげられる。この水は若狭国(現福井県)小浜の遠敷(おじゅう)神社から水送りされたもので,3月2日夜に遠敷神社の下を流れる遠敷川では「お水送り」の式が行われている。なお12日から14日までの深夜,二月堂の内陣ではホラ貝と錫杖の音が鳴り響くなか、松明の火が激しく乱舞する達陀(だったん)の妙法が繰り広げられる。こうして火と水の祭典ともいうべき修二会は終りを告げ,奈良には穏やかな春がやってくる。(バス内研修資料から抜粋)
街路から二月堂など
二月堂からゆっくりと階段を下って行くと、所謂「裏参道」ですが、此処は大変おもむき趣があります。途中の左側に「大湯屋」(国重文)が見えてきます。創建はさだかでは有りませんが、現在の建物は室町時代の形式で中世の浴室の遺構として貴重であります。
東大寺大仏殿
大仏殿横の参道を歩き正面に回る
大仏殿裏側を通りますが、1300年前、この北側の芝生のあとには「大講堂」や、およそ100メートルもあった七重の東塔や西塔がそびえていたことを想像してみてください。1300年前の当時は素晴らしいものだったことでしょう。
 
時間の都合で私達は、ここから東大寺の正面の「鏡池」の横を通り、再び中門に引き返します。
二月堂(国重文)
 法華堂の北側にある石段をゆっくり上ります。この二月堂の舞台から眺める夕日は素晴らしいものですが、昼間でも東大寺、奈良市外、遠くに信貴・生駒の連山が望めます。又、裏手・東側一帯は「若草山」ご承知の通り、一月十五日山焼きが行われます。又、本尊様は絶対秘仏の「十一面観音」様で、三月の修二会(しゅにえ)(お水取り)で有名で、このお水は平成12年の春の研修旅行で見学した、若狭小浜の神宮寺の「鵜の瀬(うのせ)」からはるばるこの東大寺の二月堂の下の「若狭井」へ運ばれ、この神事に使われます。
 この時、二月堂では「籠松明」等が使われ、まるで火事が起こったような状況がよくテレビで見ます。
二月堂参拝
お水取りで有名な二月堂が国宝に昇格しました。
文化審議会答申、東大寺で8件目
文化審議会は28日お水取り(修二会)で知られる東大寺二月堂を国宝に指定するように中山文部科学相に答申した。二月堂は大仏殿東側の高台にあり、斜面に築かれた懸造(かけづくり)が目を惹く、小規模だった堂が、修二会に合わせて拡張されてきたことを示す特異な建築として評価された。寛文七(1667)年に焼失、同九(1669)年に再建されたのが現在の建物で、本尊の十一面観音は秘仏となっている。これで東大寺の国宝建築は、大仏殿や法華堂、南大門、転外門など8件、8棟となる。
二月同祭壇テラスより、東大寺大仏殿、遠く奈良市街まで展望する。
同じく近くの境内建造物を展望。
二月堂の四面にある「お百度巡り祭壇:裏側」は、ろうそくの明かりの下で読経が行われていた。まっくらでストロボ撮影不可、ASA200。
[関連したBlog]
二月堂山門をくぐって
心洗で心を清める
飯道神社
二月堂に吊られた提灯
脇祭壇に手を合わせる参拝者。お百度参り中?
二月堂の四方に祭壇が設けられ、回りながら参拝。数読みのの棒が置かれている。
東大寺三月堂:法華堂の仏像
1 国宝:不空羂索観音像 362.0 cm 乾漆造 天平時代
2 国宝:梵天像 402.0 cm 乾漆造 天平時代
3 国宝:帝釈天像 403.0 cm 乾漆造 天平時代
4 国宝:金剛力士像(吽形) 306.0 cm 乾漆造 天平時代
5 国宝:金剛力士像(阿形) 326.4 cm 乾漆造 天平時代
6 国宝:持国天像(四天王) 309.0 cm 乾漆造 天平時代
7 国宝:増長天像(四天王) 300.0 cm 乾漆造 天平時代
8 国宝:広目天像(四天王) 304.0 cm 乾漆造 天平時代
9 国宝:多聞天像(四天王) 310.0cm 乾漆造 天平時代
10 国宝:執金剛神像 170.4 cm 塑造 天平時代
11 国宝:(伝)日光菩薩像 207.2 cm 塑造 天平時代
12 国宝:(伝)月光菩薩像 204.8 cm 塑造 天平時代
13 重文:吉祥天像 202.0 cm 塑造 天平時代
14 重文:弁財天像 219.0cm 塑造 天平時代
15 重文:地蔵菩薩像 84.3 cm 木造 鎌倉室町
16 重文:不動明王像 86.5 cm 木造 鎌倉室町
以上法華堂のパンフレットより収録。法華堂内は撮影禁止です。
内部にはかの有名な透徹した美しさで人を魅了して止まない、日光・月光菩薩像(国宝・塑(そ)造)二像を初めとして、国宝の塑像には12月16日のみ特別開扉の秘仏「執(しゅ)金剛(こんごう)神像(しんぞう)」の三体と重文の吉祥天像、弁財天像二体、乾漆造の国宝では、不空羂索観音像、梵天像、帝釈天像、髪を逆立て、忿怒(ふんぬ)の相もすさまじい金剛力士(阿・吽)二体、四天王の持国天像、増長天像、広目天像、多聞天像の九体の国宝像が、更に鎌倉時代の木造の地蔵菩薩像、不動明王像の二体で国宝像十四体、重文像二体で合計16の像が祀られています。

注)乾漆(かんしつ)には塑像(そぞう)の原形に麻を漆(うるし)で貼り、塑土(そど)を取ってから漆に木(こ)粉(ふん)を混ぜたもので仕上げる脱活(だつかつ)乾漆と、木の心木へ漆に木粉を混ぜたもので仕上げる木(もく)心(しん)乾漆がある。天平時代に多く用いられた技法です。
綾部の文化財を守る会の会報61号より収録
執金剛神像(特別開扉12月16日)
哀愁の美をとどめる吉祥天像、髪を逆立て、忿怒の相もすさまじい金剛力士像、それぞれにほとけの世界を守ろうと多様な表情でたたずむ四天王像、それに東大寺創建以来今なお色あざやかに、金剛杵を振り上げ忿怒の相で仏敵より人々を守ろうとする秘仏執金剛神像など、天平彫刻の粋が集まっている。
金剛力士像(吽形)
これらの諸仏のうち、どのお像が法華堂本来の安置仏であったかについては諸説があるが、およそ、当初の不空羂索観音像と執金剛神像に加え、おくれて梵天・帝釈、四天王、金剛力士の8体の仏像が合わせて祠られるようになったと考えられている。
月光菩薩像
日光・月光、弁財天・吉祥天の各像はもとは法華常になく、弁財天・吉祥天は天啓8年(954)に吉祥院が焼失した直後に、日光・月光は近世に移入されたとされている。なお本造の地蔵菩薩像は鎌倉時代に、不動明王像は室町時代に造立されたものである。
法華堂(国宝)は、天平12年(740)から19年までの創建と考えられている東大寺最古の建物である。この辺り一帯に聖武天皇の皇太子基(もとい)(某)親王の菩提をとむらうために建てられた全鐘寺(きんしょうじ・こんしゅじ)と呼ばれる寺院があり、それがやがて太和国国分寺、さらには東大寺へと発展した。不空(ふくう)羂索(けんさく)観音を本尊とするところから古くは羂索堂と呼ばれていたが、毎年3月に法華会が行なわれたことから、のちに法草堂と呼ばれるようになった。後方の正堂部分と前方の礼堂と二つの部分からなっており、当初は双堂(ならびどう)形式の建物であったが、現在の礼堂部分は正治元年(1199)に重源上人によって新造されたものである。全鐘寺の主要個藍のひとつとして、このお堂で華厳経が日本で初めて講議されたともいわれている。
 堂内には本尊の不空羂索観音像を中心に合計16体の仏像がところ狭しと立ち並び、うち12体が国宝、4体が重要文化財に指定され、14体が天平時代の造立である。これらの群像のかもし出す雰囲気は、観る人をしばし厳かな「ほとけたちの世界」にいざなう。
堂々たる体躯で悩める人々をどこまでも救いに赴こうとされている不空羂索観音像、端正な顔立ちで合掌し、透徹した美しさで人を魅了して止まない(伝)日光・月光岡菩薩像、
国宝「開山堂」を外から斜め向かいに見て二月堂へ向かいます。中には、鎌倉時代、鷲にさらわれ、杉の木の上に下ろされて、後に名僧となった良(ろう)弁(べん)僧正の秘仏「良弁僧正坐像・国宝」(十二月十六日のみ特別開扉)が祀られています。
法華堂(三月堂)(国宝)
 修学旅行などでは中々入れないところ、拝観料を支払い拝観・見学する。「拝観券の裏の内陣配置図」を見ながら観賞してください。
 法華堂は天平十二年(740)から十九年までの創建と考えられている東大寺最古の建物である。不空(ふくう)羂索(けんさく)観音を本尊とするところから羂索堂と呼ばれていたが、毎年三月に法華会(ほっけえ)が行われたところから、後に法華堂と呼ばれるようになりました。この法華堂は東大寺の前身である金(きん)鐘寺(しょうじ)の主要伽藍(がらん)の一つであり、華厳経が日本で初めて講義された所と云われています。
四月堂と一行
手向山八幡宮
法華堂内で役僧から仏像の説明を聞く一行
堂内の仏像について説明される僧侶に断って一枚だけフラッシュ無しで撮らせていただきました。何もみえないぐらい真っ黒な写真をソフトで明度修正しています。
僧侶の方は、懐中電灯を使って仏像の説明をされました。
念仏堂(国重文)
鐘楼の東にある寄棟造りの念仏堂はもとは地蔵堂といわれ、鎌倉時代の建物である。堂内には嘉禎三年(1237)に仏師・康清が造った地蔵菩薩像(国重文)がある。
三月堂に向かって
三月堂に向かう歩く
三月堂に向かって
三月堂の石段を登る
鐘楼(国宝)
ひときわ天空にそびえる鐘楼は、鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人を継ぎ、大勧進となった栄西(ようさい)禅師が承元年間(1207~10)に再建したもので大仏様や禅宗様的な要素を加味した豪快な建物である。
石段を登り切ると、鐘楼前の広場で、大勢の修学旅行の生徒たちが鹿と遊んでいた。
梵鐘(国宝)
重さ26.3トンもある梵鐘(国宝)は東大寺創建時のもので、鐘声の振幅は非常に長く「奈良太郎」と呼ばれ、日本三名鐘の一つである。
鐘楼(国宝)
我々一行を鹿が迎えてくれた