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なべちゃんの散歩道
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2005/11/17のBlog
東大寺南大門から中門を目指して歩く。
中門で記念写真、バス2台分(80名)を一度に撮るつもり。中門の間から大仏殿が見え、写真の背景に納まった。(記念写真は、ここをクリックしてください
記念写真を撮り終えて、一号車はのメンバ-は、大仏殿へ、2号車は鐘楼へのコ-スを行く。大仏殿を右に向かう。
大仏殿の右側を歩く。
鐘楼への石段を登る一行。
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バス2台80名の参加。7時に出発。バスガイドさんの話を聞きながら
東大寺に到着、バス停で現地ポランティア・ガイドさん四人(男女各二人)が待っていてくださった。案内に従い、東大寺南大門に向かって歩く。
周りは修学旅行の小、中、高せいなどで一杯。鹿がついて回っている。お土産の売店が並ぶ。鹿センベイも売っている。
東大寺南大門(国宝)と金剛力士像(国宝)
 天平勝宝四年(752)に創建された東大寺の正面で、十二世紀後半の台風による倒壊や治承の兵火を得て、重源上人が宋の技術を導入してつくらせた、いわゆる「大仏様式」の代表的な建物で重層入母屋造りの五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造である。また、屋根裏まで達する大円柱十八本は21メートル、基壇上25.46メートルに達する我が国最大の山門である。
両側の阿吽の金剛力士像(国宝)にしばし対面。帰りの拝観を期して通り抜ける。
11月17日(木)錦秋の中、「世界文化遺産:奈良の国宝を訪ねて」の第11回秋の文化財・史跡学習会(綾部の文化財を守る会)が、バス2台78名の参加で盛大に実施された。東大寺中門前で、華厳宗総本山・国宝大仏殿をバックに宝珠院々長兼勧学院々長:佐保山堯春師と共に記念写真撮影後、同師のご案内で大仏(廬舎那仏)を間近に拝観、二月堂、三月堂などの伽藍、仏像を拝観。
午後は興福寺に廻り記念写真を国宝五重塔をバックに号車ごとに撮影。
その後国宝間に展示された仏像、南円堂などを見て回った。
[ 11:01 ] [ 花だより・紅葉だより ]
自宅数編を散歩しながら菊を撮った
色とりどりの菊が咲いていた。
白と紫
黄色
ピンク
[ 10:34 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
歩いてⅠブロック先にある池
昔はこの池の奥の山の中に道があり、空襲警報が鳴るとそこを走って帰った。
池と寺山
寺山山頂が見える
2005/11/16のBlog
「波多野鶴吉語録」
我が娘とも思う女子に対して
 当会社に働く工女は、多少貯金をなし、かつ、わずかながら、読書、算術、習字、裁縫等をも教うるが故に、嫁入り支度も相当に出来、嫁したる後も、相当に役立つものの如し。
しかれども、ここに深く思いをひそめて、我が娘とも思う幾百の女子に対し、はたして、十分のことをなしおるやと考えうるに、全ての点において、いまだ足らざることを感ず。
 教育部長を招聘せしゆえんは、単に、工女の精神教育をなし、教育部の統一を図るというのみならず、実に、余自ら率先して教えを受け、ともに精神の修養をなさんとするにあり。かくの如くして、各自内部に養うところ、発して、協同の上、労働の上、製品の上にも、及ぶに至らんことを望むものなり。
ただ会社においてのみならず、ひいて町に及び、郡に及び、さらに広く社会に及ぶに至らんことを望むものなり。(明治42年)

会社の精神は愛なり
 金さえあれば工場はいくらでもふやすことが出来るが、しかし人物がなくては何の役にも立たぬ。
 技術の熟達した者は求める事が出来ようが、愛の籠もった者は容易に得られない。
会社の精神は愛であるが、先日もある学校の教師が来て、入社したいと言った。そして愛の欠けていることを自白した。これでは傭うわけにはいかぬ。裁縫でも師範学校あたりを出た人は、教授法はまことにうまいが、肝心の受か欠けている。会社は学校と異なりて、休日に教えるのであるから、なかなか骨が折れる、
 愛がなくては仕事に興味がない。教授法や口先が下手でも、愛でかたまったような人は、仕事に熱心である。工女も非常に喜んで習うというようになる。
(大正5年「製糸業経営の根本的要素」)

片荷の苦しさ
 自分ははじめ片何(かたに)を負って、随分苦しんだものであったが、その後、一荷(いっか)の荷を負うようになってから、大層楽になった。諸君も知らるる通り、片荷というものは、極めて負い難きものである。一方ばかり重くって、遠路を歩くことなど出来ぬものである。それが一荷となると、重いけれども平均がとれて、かえって負い易くなり、遠路を歩いても何ともないようになる。それに神からの力をもらって、力が増してきたのであるから、大層楽である。
 片荷とは何であるかというに、「会社のため」ということである。会社のためという片荷を負うておって、随分苦しかったが、これに「世の中のため」という荷を加えて、一荷になったから、平均がとれて、大層よくなった。諸君の中、もし、片荷を負って、重きを感じておらるる人があるならば、どうか、自分のように「世の中のため」という荷を加え一荷にしてもらいたい。それに神の力をもらって、もっと力のある人になってほしい。
 (明治43年)
(1)片荷 天秤棒でかついだ荷の片方
(2)一荷 天秤棒の両端にかけて一人の肩でかつげる分量
売って喜び、買って喜ぶ
1 9 1 0年6月6日、購繭員打合せ会を開いて出席者全員に「購繭員心得」を配り、波多野鶴吉が訓示しました。
購繭員心得
― 購繭員は社長の代人と心得、品行を慎み忠実に働くべし(ただし、いばるなかれ謙遜せよ)
ニ 養蚕家は社長の愛子也と心得、親切に取扱うべし
三 養蚕家を愛せよ、またあまえかすな
四 養蚕家をあざむくな、また養蚕家にあざむかれるな
五 養蚕家を怒らすな。また怒るな
六 まず約束のしてある繭を買え、足らざれば社長の命令したる場所の繭を買え、
 この場合においては決して競争するな
七 繭の鑑定を正確にせよ
ハ 繭の選別に注意せよ
九 繭の価格は社長の命令を守れ
十 一般の相場に注意し売って喜び、買って喜ぶようにせよ
十― 看貫を正確にせよ
十二 諸帳簿、並に日誌は、明細に記せよ
十三 電報料を惜しむな、必ず照校扱にして打電せよ
十四 通信を怠るな
十五 失敗を隠すな
十六 火の元を要慎せよ
十七 各買人の動静に注意せよ
十八 乾燥室は常に見回り、火の元はもちろん乾燥程度に注意せよ
十九 繭籠袋並に金銭は、予算を定め、入用前に請求すべし
二十 その日の仕事の終らざる間は酒を飲むな
ニ一 衛生に注意し、身体を大切にせよ
ニニ 賭事は仮令類似の事でもするな
二三 購繭員は主任の命に従い、決して自儘の行動を取るな
二四 購繭員は互に親密にせよ
二五 金銭その他携帯品は大切に取纏め、紛失盗難等に罹らざるよう注意せよ
嗣子、波多野林一と
鶴吉、はなの夫婦には子供がなかった。はなといとこに当たる林一を養子にして可愛がっていた。写真は1918年2月23日朝のもので、当日鶴吉は演壇に倒れ、60年の生涯を閉じた。
2005/11/15のBlog
[ 16:40 ] [ スキ- 銀嶺会 ]
スキ-シ-ズンを間近に迎え、ジャンル「スキ-」にも活力を注ごうと思いたち、今回
*Doblog Snow Team*
主宰者: Connie Site Annex(Connie) 様
に加入を申請し、メンバ-に入れていただきました。
なおロゴ・バナ-は、応急的に勝手に私が作成したものです。いずれ正式のバナ-ができあがれば入れ替えますのでよろしく。

画像は昨シーズン考案のステッカーデザインです。
上2つ:cho暇つぶし万歳さま作
画像は昨シーズン考案のステッカーデザインです。
上2つ:cho暇つぶし万歳さま作
画像は昨シーズン考案のステッカーデザインです。
下2つ:toshiya_snowさま作
画像は昨シーズン考案のステッカーデザインです。
下2つ:toshiya_snowさま作
地域との関わり
郡是が設立したり強く関わってきた施設は、その後、形を変えながら今も綾部に息づいています。
郡是病院 → 綾部市立病院
城丹蚕業講習所 → 京都府立綾部高等学校
電話架設 → 綾部の約3割の費用を負担 など
福利厚生
郡是は福利厚生にも力を入れました。明治・大正時代には世間一般に結核などの疾病が多く、当時全国の工場では病人が出ると寄宿舎の一室に入れ、ときに医者を呼ぶだけという対応が多かったのですが、郡是では、1901年、病室3室と看護婦室のある隔離医療舎を建設、医者は綾部町内の開業医に委託しました。1911年からは各工場にも養生院を設置していきました。

従業員の食事にも配慮し、栄養面では1916年ごろからは、医学博士の大根ジアスタ-ゼ説に基づき、千切り大根を食事に多用しました。波多野鶴吉が亡くなってからも、この遺志は引き継がれ、1919年にカルシウムに関する講演がきっかけで、わかめを多用、1927年には栄養価の高い玄米食を採用しました。その他にも体力づくりとして1921年、強健術を採用しました。
2005/11/14のBlog
[関連したBlog]
表から見れば工場、裏から見れば学校
郡是は「表から見れば工場、裏から見れば学校」と云われるほど、従業員の教育に力を入れました。いわゆる「読み・書き・そろばん」の他、裁縫や生け花、音楽、さらに宗教講話(道徳教育)を行い、従業員の教養・品格を高めていきました。また波多野鶴吉自身も率先して勉強しました。

朝礼風景
教育総理として招いた川合信水の指導により、1927年より朝礼を開始した。合同して祈祷・合掌し、聖書の講義があり、当初は宗教的色彩の強い朝礼であった。
現在のグンゼの朝礼においても、朝の歌を歌い、社是を唱和し、黙祷をしている。
2005/11/13のBlog
[ 21:23 ] [ 花だより・紅葉だより ]
前ブログを投稿した直後に、祥Room : 艶乃祥一さまの訪問があり、ブログを拝見すると「味がある?」の題名で、暮れなずむ夕景の見事なグラディレ-ションの空と、家の窓から漏れる光をあしらった写真があった。
そこで私も思い立ってナイタ-の紅葉を撮ってきた。
感度ISO1000,Canon didital eos kiss N, 三脚、レリ-ズを使用。内蔵ストロボ使用、レンズ18-55ズ-ム、撮影モ-ド:Av
レンズ:55-200mm
レンズ:55-200mm
中天の月を入れて撮る
レンズ:55-200mm(35mm換算 x1.6 = 320mm相当)
満月に近い丸い月です。
[ 20:31 ] [ 花だより・紅葉だより ]
千手院四つ尾稲荷神社は紅葉の下
石段を上がると、そこも紅葉で燃えていた
隣の薬師堂の赤く塗られている屋根がのぞく
燃えるもみじ
忠魂碑と紅葉と
[ 17:08 ] [ 花だより・紅葉だより ]
隣の千手院境内の紅葉、夜間照明で浮き上がってるのも綺麗だが、昼間の方が発色はしっかり撮れる。
昼のお月さん。紅葉もシルエットになると赤くない。
赤いのが好き
赤さにも変化がある
頭上に拡がって
[ 15:00 ] [ 花だより・紅葉だより ]
秋雲をバックにすすきかな
山腹にテレビ中継塔
綿雲がのんびりと渡っていく
[ 14:25 ] [ 花だより・紅葉だより ]
このタイトルは下記のブログを訪問して、この土日、カメラ片手に散歩しますとコメントして拝借しました。散歩の途中に町のカメラ店により、sony の5Gb CF互換マイクロドライブの情報を尋ねましたが未だのようでした。タムロンの28-300mm交換レンズを物色してきました。
カメラ片手に外に行こう!kazu-ab様
またまた新メディア
写真:鈴なりの柿
茂る葉から柿が光っている
誰も取って食べないのか?
深く碧い秋空に
柿・柿・柿
企画者: どぶさぽちゃんvのお誕生日リンク集 (どぶさぽ)様

○【12月生まれ】
主宰者: 博士の石ころ: :boyotan 様

いろいろお世話になります。宜しくお願いいたします。
○ ≪ビバッ★神奈川っ娘 & ビバッ★神奈川っ子≫
主宰者: ちひろのスキきらい(佳之 ちひろ) 様
サポ-ト会員になりました。
いろいろお世話になります。宜しくお願いいたします。
2005/11/12のBlog
蚕やしなひ草 芳齋?画
蚕やしなひ草 芳齋?画
蚕やしなひ草 芳齋?画
東海道五十三國會? 袋井? かひこまゆの糸 広重?画
婦人手業禄鏡? 歌麿?筆
女織蚕手葉草? 十一 歌麿?筆
女織蚕手葉草? 十二 歌麿?筆
女織蚕手葉草? 歌麿?筆
また一寸、一服の休憩タイムです。
養蚕、製糸、織物の浮世絵を3回に分けて紹介します。
「伝心」会場に展示のパネルを写しています。前にグンゼ博物苑の展示を紹介しています。グンゼ記念館にもあります。
作者は歌麿?のほか2名、展示説明は「女一人台に上がって桑を積む図、女一人繭をゆで糸を牽く図・・」などの情景でした。未記録です。下のキャプションは、古文書も変体仮名も読めない私が、写した写真から判読したものです。全部?つき、もし合っていれば奇跡だと申し上げておきます。 写真:女織蚕手葉草? 壱? 歌麿?筆
郡是博物苑のレポHPはこちらです。
女織蚕手葉草? 歌麿?筆
全ての写真をクリックすると少し大きくなります。
女織蚕手葉草? 歌麿?筆
女織蚕手葉草? 歌麿?筆
世界で認められた品質
優良品の品質を目指し努力した結果、品質は良くなり、郡是で作られた生糸は、国内外の博覧会で賞を獲得しました。
また1902年、アメリカのウイリアム・スキャンナ-商会から、郡是の生糸を一手に引き受けたいとの申し込みを受けます。輸出先からのメ-カ-指定は、生糸輸出の歴史の中でも初めてのことであり、郡是の名を一層高めることになりました。
世界品質を目指して
当時は国内外で生糸の需要が盛んだったため、多くの製糸会社は質より量を重視していました。しかし波多野鶴吉は、世界に通用する優良な糸を作ることに重点を置き、生産や研究開発に力を入れました。
また「よい人が、よいものを作る」という考えのもと、技術的教育とともに教養教育を重視しました。
従業員は養蚕家から預かった大事な娘さんとして、自分の子どものように大切にしました。
2005/11/11のBlog
創業の精神
創業に必要な資金は、何鹿郡の養蚕農家の人たちから、一株20円で集めることにしました。しかし20円は、当時の農家の年収に相当するほどの大金であったため、集金が完了するまで2年を要しました。
 資本家から大株主を募らず養蚕農家にこだわった理由は、養蚕農家の人たちが株主になることにより、会社から配当が入るからです。またその子供たちが会社で働くことにより、
給料が入る、会社に繭を売ることにより繭代が入る。さらに良い繭を作れば、高価な値段で取引されます。このように何鹿郡の人々の暮らしが豊かになると共に、会社も発展し、ひいては何鹿郡全体も発展すると考えたのです。
 このことから郡是の創業の理念は「人間尊重と優良品の生産を基礎として会社をめぐる、すべての関係者との共存共栄を図る」としています。そして会社も農家の人たちも良いものを作ろうと努力しました。
検尺器
繭の絹糸の長さを測る道具
展示されていた品物の紹介、グンゼで使われていた道具です。
蚕種秤量器
1グラムの蚕種を秤量する器具
糸巻き器
糸くり器
繭を煮銭後、ほぐした生糸を巻き取る道具
創業の精神
この写真から文章を筆記して、順次ご紹介する予定です。
世界品質を目指して
世界で認められた品質
表から見れば工場、裏から見れば学校
朝礼風景
福利厚生
地域との関わり
貞明皇后の行幸
2005/11/10のBlog
郡是の設立
蚕糸業組合の活動により何鹿郡の養蚕は発展してきましたが、さらなる発展のためには近代的で大規模な 製糸会社が不可欠と波多野鶴吉は考え、地元の人たちに説きました。そして1896年にいよいよ機が熟し郡是製糸株式会社が誕生します。この「郡是」という社名の由来は、元農務省の次官であった前田正名の「一国に一国の方針(国是)を定め、その下に府県是、郡に郡是、町村には町村是を定め・・」という演説に、波多野鶴吉は共感し「何鹿郡の蚕糸業を復活させることが、まさしく何鹿郡の方針(郡是)と考え、社名を(郡是)としました。」
組合長としての活動
波多野鶴吉は何鹿郡蚕糸業の第一人者であった梅原和助と出会いました。梅原和助は波多野鶴吉の将来性を見抜き、何鹿郡蚕糸業組合の組合長に推薦しました。
組合長に就任した波多野鶴吉は、品質向上のため人材育成と技術の向上が不可欠と考えました。そこで養蚕の先進地域に高倉平兵衛や新庄倉之助を派遣して技術を学ばせたり、高等養蚕伝習所を設立、新しい技術を実践するため、製糸工場の「羽室組」も創り品質向上を目指しました。
粗の魁
1885年東京で開かれた全国五品共進会に京都府は、繭と生糸を出品しましたが、「粗の魁(そのさきがけ:一番悪いもの)と最低の評価を受けました。京都府は、この汚名を返上すべく蚕糸業組合をつくり、よい繭、生糸づくりに力を注いでいくことになりました。翌年何鹿郡蚕糸業組合が誕生し、波多野鶴吉が組合長となりました。