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なべちゃんの散歩道
Blog
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2005/11/09のBlog
私のブログ80000回のキリ番を踏んでいただき、写真の報告をいただきました。
有り難うございました。
GENTLE HEARTS : Grantas 様
昨日のDoblog の重さには泣かされ、この調子だとお先真っ暗でした。昨日は、Doblog激重注意報をコメントで「みちのく温泉マン」様から、いただきResしたように、写真一枚の投稿もままならず、5枚投稿してから、再表示させるより、ディスクトップ・アイコンからリセットした方が早い状態でした。
今日は非常に軽く調子が良くて、8時頃でしたか79999を自分で気づき、あと一番だと思いましたが、リセットの必要がなくブログ作業を続けられました。
皆様のご愛顧のおかげで、この記録が達成できましたこと心から感謝いたします。このところほぼ毎日、人気ブログ・リスト・トップ100に入っており、ブックマ-ク数も102件となり、人気ブックマ-ク・リスト入り達成(110件)まであと8件に迫っています。今後とも楽しいブログ作りを頑張りたいと思っています。
波多野鶴吉と蚕の出会い
1858年、羽室家の次男として生まれ、8歳の時波多野家の養子となりました。学生時代は、京都や大阪で数学、英語を学びました。そして古本屋や塾を営みましたが、ことごとく失敗しました。そのため波多野家のお金を持ち出し、ついには波多野家の財産を使い果たしてしまいました。
失意のもと綾部に帰って来た波多野鶴吉は、妻「はな」と共に羽室家に身を寄せました。知人の紹介で小学校の先生になりましたが、そこで子供達や、その家庭で行われていた養蚕の様子を見て問題を感じ、養蚕の勉強を始めました。
[関連したBlog]
波多野鶴吉の生い立ちを見てみましょう。
1858年 羽室家に生まれる
1866年 波多野家の養子となる
1875年 旧制京都中学入学 数学を学ぶ(17歳)
1876年 はなと結婚する(18歳、16歳)
1881年 綾部に戻り小学校の先生となる(23歳)羽室家に寄宿
1885年 梅原和助により「蚕糸業組合」設立に参加、翌年何鹿郡組合長に就任(28歳)
1887年 製糸工場「羽室組」を設立(29歳)
☆32歳の時、洗礼を受けてキリスト教信者となる、その教えは鶴吉の考え方の処所となりました。
1893年 高等養蚕伝習所を設立する(35歳)
1896年 郡是製糸株式会社を設立(38歳)社長は実兄
1901年 社長就任(43歳)
1918年 永眠(60歳)
2005/11/08のBlog
[ 22:53 ] [ 花だより・紅葉だより ]
菊の盆栽か?
盆栽に菊が這わせてあるのだと思う
これは盆栽
盆栽
盆栽菊?
[ 19:37 ] [ 花だより・紅葉だより ]
菊のクロ-ズアップ、輪台からはみだしている
赤の大輪咲き
菊の花びらにもいろいろあるようだ。
菊の盆栽?
これは綺麗だ
[ 16:02 ] [ 花だより・紅葉だより ]
三本立ての大菊
三本立て大菊
大菊三本立て
大菊三輪咲き
大菊三本立て
[ 14:30 ] [ 花だより・紅葉だより ]
背丈の短い、大菊の一輪咲き
大菊の三本立て
三本立ての大菊
三本立ての大菊
三本立ての大菊
[ 11:24 ] [ 花だより・紅葉だより ]
グンゼ博物苑で行われている「伝心」を見るついでに、隣り開場の菊花展も見る予定が、こちらは先に終了していた。綾部市制55周年記念行事でもあった。
「伝心」に一緒に行ったTさんの撮られた写真を投稿します。
義経、五条大橋。マツケン、松寿苑の作品です。
弁慶と牛若丸
あやべ菊人形が終戦後、並松の由良川河畔で行われ各地から人が来られ賑わった頃を思い出した。私の少年時代で、歌手や漫才師、相撲取りなどの催しも会場であり混雑した中で見た覚えがある。エンタツ、アチャコなどという漫才師もいた。
菊の展示.。懸崖づくり
菊を丸く作ってある。玉づくりというのかも?
背丈の低い三本立てつくり
2005/11/07のBlog
若い頃の波多野鶴吉氏
波多野鶴吉氏が使っておられた愛用品
波多野鶴吉氏の歩まれた軌跡を図解
郡是綾部本社工場(本社および本工場全景)
養蚕、製糸に使われた道具
[ 11:34 ] [ あやべの文化財 ]
[関連したBlog]
綾部から世界へ、世界連邦平和都市宣言第一号の綾部市制55周年を記念して、様々な行事が展開されている内の一つ。グンゼ博物苑・集蔵(つどいぐら)において、11月3~13日の機関に開催されている。
綾部の誇る「郡是:グンゼ」創始者の「波多野鶴吉」氏と大本教の開祖「直:なお」、2代目教祖「出口すみこ」、聖師「出口王仁三郎」の作品、遺品、愛用品を展示。
綾部から「ものづくり」「世界平和」「精神の輝き」を世界に発信した上記4人を中心とした活動をパネルなどで展示。
パネル展示
パネル展示
2005/11/06のBlog
************** 君王山 光明寺 ***************
 秋葉権現の古びた祠の前を通り過ぎると、段をなし重なる山田が谷川に沿って奥につづく。道がふたてに別れ、光明寺に通じる山道は鬱蒼たる杉や桧の木立の中に入っていく。山肌を熊笹や羊歯が被い、石清水がチョロ、チョロと音をたて山道を濡らしている。蕗の花が咲き、椿の赤い花が深い緑の中に美しい。
 道は急坂に険しく右に左に折れ登る。下の谷からうぐいすの鳴き声が幽かに聞こえ、石仏が木の根を枕に凭れるように立つ、山道を足を滑らせ、息を切らせ千体地蔵堂に辿りつくと、大木の繁みの間から、青空がのぞき、小さな堂に日が射し込む。頭上に啄木鳥が大木を啄く甲高い音がひびき、見上げる目に午後の日射しを浴びて朱色の仁王門が美しく山門の偉容を現し建つのが見える。
 両脇の金剛力士の顔が日射しに赤く照り凄んで見えるこの仁王門は、鎌倉時代に再建され、度重なる戦乱に耐えてきた三間二面の、二重入母屋造りで、赤青の彩色が美しく、往古の姿をそのままに保たれ、今は国宝に指定され訪ね見る人が多いという。
 塔門に入ると歴代僧都の墓石が並び、左側は谷を見下ろす視界がひらけもう尾根である。
 山上はさすがまだ肌寒く、桜の蕾もかたい林を、なだらかな登りの坂道がつづき、やがてこの寺の庫裡から飼犬の吠えるのが聞こえる。不揃いに積み重ねられた石段を一段一段登りつめて、光明寺境内に入る。
 山の中腹にある境内は、山側は大木が被い重なり奥山深く原生林がどこまでも続き、谷側は急斜面に谷を見下ろし、上林谷が一望できる崖上にある。
 静寂とした境内には、千手観音をおさめ、静かに扉を閉ざす本堂が、辺りを支配するかのように大きな屋根を広げて建ち、聖徳太子、聖宝理源大師を祀る開山堂、鐘楼、宝篋印塔が配されて建っている。
 この世をも 浮きも洩らさぬ しるしには
 わがかけすめる みたらしの水
と御詠歌ににうたわれる君王山光明寺は、仏教興隆の詔が出されて七年後、推古天皇七年、(西暦599年)に聖徳太子によって創建されたという古い寺である。
 白鳳元年に大和葛木山で呪術により、鬼神を操ったという役小角がここを訪れ修験道の道場としたとも伝えられ、本堂の裏山にある小さな行者堂には小角の霊が祀られている。
 三国岳の高峰が連なるここ君王山は、延喜年間に入り、密教道場の最適の場所として醍醐寺の開祖聖宝理源大師が荒廃した道場を再興し、大峯、金峯山と並び真言密教の道場とし、全国より多くの修験者を集めたという。山上山下に七十二坊を築き、上林七里ケ谷をその寺領に治めたという。
 冬雪深く背丈ほどに積もり、夏は熊笹や夏草が被い茂り霧が濃くあたりをつつむ。原生林の中を修験者達が峯から峯へと行場を巡ぐり、於与岐の弥仙山へと険しい道を求めた昔の跡を原生林は残している。
 大永年間の細川高国と晴元の足利二将軍を互いに擁しての内訌や、明智光秀の丹波平定の戦火は殆どの殿堂を鳥有に帰したという。
 しかし、大自然は今も上林谷を支配し、深閑とした山道や境内は、修験者を待つかのように大木や熊笹が繁り、色とりどりの花や木の実が四季の変わりをつげ、山鳥が美しい囀りを聞かせている。
 また境内より半里ほど奥に入ると、府下唯一の周囲十五米もある大橡の木があるが、あたりは樹木や雑草が人の行手を遮っている。
 遠く北桑に接する尾根に霞がかかり、したに上林川が西日を受け銀色の帯を細長く山あいに流れるのを見て急ぎ足で下山する。
足利尊氏、彼は太平洋戦争が終わるまで要するに逆賊とされていた。戦後の正しい歴史の中で、その人間性を見直されようとしているが、逆賊としての、また冷酷な人間としてのイメ-ジがなかなか取り去られていない。
 尊氏は、武断一辺の武将ではなかったと思いたい。政治や軍事面で敵対することになった後醍醐天皇に対し罪業意識すらもち、清水寺に納められた願文「この世の中は、まことに、はかない夢のようなものです。わたくしに、仏心のおこるようにみちびいてください 後生をお救いください。なんとか早くうき世のわずらわしさから 抜けだしたいのです。生きているあいだの果報はのぞみません。・・」を見ても、反乱に成功し、得意の絶頂にあるべき彼の願文と誰が想像することができるであろうか。安国寺創立、天龍寺創建に寄せられる尊氏の努力をみても、冷酷な武人の姿はみられない。むしろ人間的な弱さをもった実直な人物であったと思う。
 実直なだけに、長い政権の座に安住し、闘犬や遊興に耽り、治政をかえりみない北条幕府や、婆娑羅大名に反感を抱き、源氏の惣領として、またその幕府の治政に反感を抱く源氏一族の擁立により幕府に叛き、後醍醐天皇に順じたが、天皇の建武の新政に対しても、時代の流れに逆行する反動的な体制に叛かねばならなかった彼である。
 母清子の力が大きく尊氏の心をとらえているようだ。又太郎と呼んだ子供の頃から地蔵菩薩の信仰を説き、質素、倹約、物欲を戒め、そして正しく世の中を見る目を育てたのである。「意志強固にして、死をおそれず、つねに茫洋として笑みをふくんで、矢石の間に立ち、物おしむ気少しもなく、賊宝をみること土芥のごとく」とは当時の武士達の評価である。
 尊氏の生涯は、変革の激しい乱世に生き、天下統一の使命を果たすための戦いは、あまりにも孤独であったし、義満以降の権政は、尊氏の心をあまりにも傷つけたことであろう。
 今日の泰平の世にも、尊氏の生きた時代に似た世相を感じさせられるのは私だけであろうか。
 民をなで、くにを安らふ景徳の 大悲のひかり ここにをさむる
 補陀落山観音寺からはじまる、丹波の国三十三札所の最後の札所として、室町の頃より庶民の信仰を集め、桜や楓の名所として、丹波一円にその名を拡めた当寺は、いまも静かに国土安穏の灯をともしている。
 本堂の北側に紅葉の木美しく、開祖天庵和尚の遺骨を祀った御堂が建ち、その裏側には、歴代住持の墓がしめっぽい青苔の上に霊気を漂わせながら整然と並んでいる。時代の形の相違に興味を覚える。
 一つの塔だけが、小鳥のとまり場になるのか、はげた白粉のように白くなっていた。
 かなかなや尊氏母子の墓どころ
尊氏の墓は、山を背にし母と妻に抱えられる様にして六百年余りの間風雪に耐え、尊氏はここに眠るのである。供えられた一輪の花に、かぶさるように桜の花びらが風にゆられて落ち積もる。
 「ねんねしなされ、おやすみなされ」
どこからか子守歌が風に乗って聞こえてくるような幻覚におちる。ふとうしろをふりかえると、竹やぶの向こうに見える石段を赤子を抱いた夫婦連れが登ってくる。安産の御礼参りであろう。遠くなだらかな尾根が傾きかけた日差しに美しく見える。山の向こうは上林谷であろう。
堂内には平安初期の作で、恵心僧都の作といわれる木彫りの地蔵菩薩の半価像が安置されている。右手に錫杖、左手に宝珠を持ったお姿である。
 「行春や錫杖めして子安像」(奉納歌)嘉元二年、足利貞氏の妻清子が、この地蔵尊に祈り尊氏を産んだという。以来子安延命地蔵尊として、近在の人々に信仰され、遠く若狭や丹後からも安産の祈願に訪れる人も多いとか、いまも線香の香りが濃くただよっていた。ここ安国寺は綾部市安国寺町にあり、その昔、将軍足利尊氏が相模入道高時をはじめ、元弘以来の幾多の戦乱で死んでいった武者の霊を供養し、国土安穏の祈願のため全国に安国寺利生塔を設け、人心の安定を祈願したが、貞和二年、当寺は天庵妙寿和尚が景徳山安国寺として、丹波の国に開山したのである。
 景徳山安国寺は、足利氏の厚い保護を受け多くの寺領を与えられ、盛時には寺領三千石、塔頭十六、支院二十八を数え、全国安国寺の筆頭に置かれ、京都十刹に加えられたという臨済寺である。延文三年、尊氏亡するや遺骨が納められ、その七年後に妻赤橋登子の遺骨も納められる等、代々足利氏の崇敬と保護をうけてきた。足利氏の運命と共に当寺の歴史はたどってきたのである。しかし村人たちの厚い信仰の火は安国寺を往古の姿そのままに佳境に残している。
 この寺は、安国寺になる以前、光福寺と称し、開基、年号明かでないが、上杉氏の氏寺であったという。上杉氏は建長四年後深草天皇の頃、公家勧修寺重房が宗尊親王に従い、鎌倉武士となり鎌倉に仕えたことにより上杉の莊を賜ったという。本領の名をとって上杉氏と名のるが、後に重房の孫清子が足利貞氏の妻となり、当寺光福寺の地蔵尊に安産を祈願し尊氏、直義を産んだという。憲房は尊氏、直義の伯父にあたり、憲顕はいとこになる。その上杉の莊は今も綾部市上杉町として、広々とした豊沃の田畑が秋には黄金の稲穂を稔らせている。安国寺の北側になる。
2005/11/05のBlog
丹の国・綾部---ふるさとへの回帰とその未来
第三話 足利尊氏とその周辺-編:高嶋 善夫君

京都の西、老ノ坂、観音峠をいっきに越すとそこはもう丹波の国である。由良川にそい車で約1時間半、川の流れもゆるやかになり水をまんまんと湛えるころ、由良川が流れ、前方左手に大本みろく殿の大屋根が四ツ尾山を背にして立つのが見える、あやべである。古代よりアヤビトの郷として栄えたところである。
 市街地に通じるあやべ大橋、丹波大橋を、左手にみながら、舞鶴港から北洋材を京、大阪へ運ぶトラックや磯釣り帰りの乗用車が突っ走る。平坦な道をしばらくいくと、小猫の背のような低い山が並び、その中に咲き誇る桜の繁みが目にはいる。桜にうずもれて安国寺本堂の草屋根がある。車の行き交う国道を避け旧道に入ると、川幅の狭い八田川を背に古い家並みが立ち並んでいる。参道は山に向かい、参道の中程に足利尊氏出産に使ったという産湯の井戸が格子囲いの中に古く苔蒸した姿で残っていた。竹やぶと紅葉が茂る中を、木洩れの日差しが落ちる石段を登り総門に立つ。弘化4年再建の木札が目につく、両脇に開かれた扉には、丸に二本線の入った足利氏の家紋二引両が入り、清楚ななかに格式高いものを感じる。弘化四年は天草の一揆や異人船が長崎におしよせた頃ではなかろうか、一歩門に入ると、小鳥のさえずりが冴え、一陣の春風に裏山の木の葉が波頭のように音をたて、天蓋のように庭一面に咲き競う桜がこぼれ落ちる。本堂は草屋根、華やかなものはなく、あたりの風景にふさわしく、質素な佇まいである。この安国寺は江戸享保二十年の大洪水で山津波がおこり、一山の殿堂ことごとく流失したが、寛保三年領主谷氏が、南北朝時代そのままに再現したという。
 草屋根の素朴な建物は、都から離れたふるさとの山村の風情にふさわしいのどかさがある。がらんとした堂は、広い土間に開け放された扉から光がさしこみ、正面仏壇の釈迦如来の顔に反射する。本尊釈迦如来は文殊、普賢菩薩を両脇立にし、快い調和を保って配されている。如来の顔はこちらを見下ろし、訪れる人にやさしく問いかけるように見える。
大峰山の女人禁制について、ジャンル「女人禁制」を設けて色々な意見、情報をお知らせして来ましたが、今回、下記に報道の行動により、このDoblog で当ブログ以外の初めての投稿がありました。それらを含めて紹介いたします。なお、Doblog から移転された方、当報道の前日にコメント交換しました「DV」についてのブログも含んでいます。詳しくはそれぞれの「ブログ」「ホ-ムペ-ジ」をご覧ください。Doblog 以外のブログやHPも調べると、沢山あると思います。
1.大峰山女人禁制の開放を求める会 ホームページ
>私たちは、「大峰山女人禁制」の開放が、ただ山に登るということに終始するのではなく、女性に対するあらゆる差別撤廃への起爆剤となることを信じています。 「大峰山女人禁制」の開放を求める会

注記:ブログの仕様でHPリンクを一番上に置きました。下記の記事との関連は不明(記事関連ではありません)こんな会もあるという紹介です。とともに「女人禁制」についての歴史的経過、四ケ所ある「女人結界」の写真、周辺地図など資料盛りだくさんです。是非ご参照ください。
11月4日 朝日新聞
大峰山、女性ら3人登山強行、対話は続く
 女人禁制が1300年間続く修験道の聖地、奈良県天川村の大峰山への登山を目指すと公表していた性同一性障害を持つ人ら35入のグループが3日、現地を訪れた。女性の立ち入りを禁じる結界門の手前で地元住民約100人と議論した結果、改めて話し合いの場を設けることで合意して解散したが、その後にメンバーの女性ら3人が登山を強行した。
 住民側が結界門前で待ち構える中、午前9時50分ごろにグル-プが到着、地元・洞川地区の桝谷源逸区長(59)は「先人から受け継いだ伝統や生活がある。地元の心情を理解してほしい」と登山中止を求めた。グループ側は今後も話し合いを続けてほしいと要望、約30分後に双方が解散した。
 しかし、午後0時半ごろ、メンバーのうち女性2人と、女性として暮らしている戸籍上男性の弁護士の計3人が結界門をくぐって山に入った。その1人は「宗数的慣習にかこつけた性差別がある。問題提起をしたかった」と説明した。
写真: 結界門をくぐって山に入る女性ら=3日午後0時30分、奈良県天川村で
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2.五分後の世界 (3)kazuki2005様
2005/11/04のBlog
大峰山女人禁制に思う
> 女人禁制とされている大峰山に登山しようとしていた性同一性障害、女人禁制反対のグループが女人結界のところで地元住民の説得に応じて登山を諦めたとの記事があった。・・・後略
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3.『平成鸚鵡籠中記』(土岐正造)様
2005/11/04のBlog
女性差別?
>【女人禁制の山への登山を断念】/日刊スポーツ:女人禁制を守る修験道の根本道場、奈良県天川村の大峰山(山上ケ岳)登山を計画した性同一性障害の男女らを含むグループは3日、禁制維持の立場から登山しないよう求めた地元住民の説得に応じ、登山口の手前で計画を中止した。・・・後略

>政治的な部分や社会生活の中での、性差別は解消されて然るべきでしょうね。それに関しては自分はまったく反対しません。ですが、こういう行動によって女性差別の何が解消されるのか。女人禁制という概念自体が差別を助長するというのなら、その統計的なデータを出してみたらどうでしょうかね。・・・後略
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4.キララ☆ネット ~ひとりひとりが自分らしく輝くために~ キララ様
2005/11/05のBlog
女人禁制 性同一性障害は?
>「女人禁制 性同一性障害は?」という記事が11月3日の朝日新聞朝刊に掲載されました。記事によると、約1300年続く修験道場、奈良の天川村の大峰山系山上ヶ岳へいわゆる性同一性障害と言われている人たちが登山する計画がありますよ~、ということでした。・・・後略
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5.ゴンゾー・レボリューション:ミローチ ゴンゾー様
2005/11/06のBlog
女人禁制 性同一性障害は?
>大峰山は中学の頃、林間学校で行ったので、女人禁制と言うことは知っていましたが、日本で唯一女人禁制を貫いている山であること、それも明治政府が女人禁制廃止令で指定し忘れたから残っているらしいことは知らなかった。指定し忘れたってことは余り重要な山では無かった?・・・後略(詳しくはこのブログを拝見ください)
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6, 夜のパトロール日記:弥生町開発庁長官さま
2005/11/05のBlog
ジェンフリが宗教と伝統を冒涜
>性同一性障害だかジェンフリだか知りませんが、他人の心情を慮ることのできない連中が他人から理解を示されることなどないでしょう。女人禁制というそこだけをクローズアップして「問題提起したかった」などと寝言を言ってますが1300年という歴史に裏打ちされた宗教的・伝統的バックボーンへの配慮がまるで欠けてしまっています。そんなに問題提起したいのならイスラム圏にいって大通りを水着で闊歩してみればよろしい。他人の宗教観を無碍に犯すということがいかに恐ろしく、失礼で、犯された人の心を傷つけるのか身をもって知ることができるでしょう。・・・後略(詳しくはブログ参照))
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7.REI auf der Erde :REIさま
2005/11/08のBlog
女人禁制 - 山上ヶ岳
>一応社会人として日本の社会で生きていると、色々不便な事、理不尽な事が多い。が、男性社会にまともにぶつかっていく程の力も胆力も気力も無いので、ややこしい事は出来るだけ避けて、結果オーライで生きて行く様にしている。現代の社会で男性と互角の社会的地位を得ようとすれば、余程優れた能力があるか何かを犠牲にしなければ、かなり難しい事だろう。とは言いながら、「女人禁制」なんて言葉がまだ堂々とこの世の中に存在している事が愉快な訳は無い。 男女性差はあっても、尊卑は有り得ない。・・・後略、詳しくは上記のリンクからブログをご覧ください。TB記事、有り難うございました。
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8.Tomorrow is Another Day 結城水葉さま
2005/11/03のBlog
この国の、男女共同参画の行方
>県の男女共同参画推進委員3名(私を含む)で、ラジオ出演したのだけれど、その中の1人のオバチャンが、パーソナリティからの「男女共同参画って何ですか?」との質問に、「男女平等とは違うんです。男と女が思いやりを持って、互いに支え合っていく社会のこと」と答えたのだ。・・・後略(詳細はブログ参照ください)

私の下記に追加してのコメント、差別・人権論でなく、男女の思いやりを前面に立てて、運動を進められてはの意見に対し、次のResをいただきました。
>思いやりはもちろん大事だと思うのですけれど、思いやりを前面に出すと「努力目標」に留まってしまうのが難しいところですね。DVは「人権侵害」=「犯罪」と捉えるべきだと私は思っています。「努力目標」じゃなく「罰則規定」がないと、社会は変わっていかないのですよね・・・。
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私がコメントで送った意見の要約です。
男女平等や男女の思いやりは、人間性に基づいた普遍的な反駁のしようのないことですが、人権、差別の概念は、一神教の西洋文明の結果として理解される部分があります。今日、日本的な宗教概念の方が、未来的調和社会づくりに向くのでは、という価値観の多様性が云われるようになりました。
宗教者の信仰の世界と人権論が噛み合わず、この問題に対し平行線をたどるようです。女性の修験者自身、信仰登山を支えてこられた地元の人々自身の問題として、未来社会に女人禁制の(存続/廃止)をどのように価値づけし、社会に理解を求めていくべきかであろうと思います。
追記:「修験道が世界の恒久平和に対しどのように貢献できるか」の吉野山人さまの理念を基にした文章です。社会とは、宗教者自身、地元、日本、世界を含む概念です。
2005/11/04のBlog
[ 22:36 ] [ カメラ・画像処理 ]
ライトアップされた千手院の紅葉。sony cyber shot のフラッシュなし自動で撮ってみた。真っ暗で何も見えない。
写真をクリックすると拡大します。
上記の写真を、いつも使っている、フリ-ソフト「dibas32」で明度補正をしてみる。
「dibas32」のダウンロ-ド・サイトです。
このソフトは、一昔前の雑誌付録CD-ROMの定番ソフトの優れものでした。
慣れの問題なので現在もこのソフト一本で写真処理をしています。
こちらは更に何時も使っている、フリ-ソフト「jtrim」で赤味補正をした。
「jtrim」のダウンロ-ド・サイトです。
このソフトも一昔前の雑誌付録CD-ROMの定番ソフトの優れものでした。
おまけ
おまけ
[ 17:30 ] [ 美術・芸術・展示館 ]
日本画
今日の昼間のDoblog は酷かった。ブログを開くだけで長時間、ログインするのに数回の繰り返しと「じりじり」の読み込みの辛抱。投稿モ-ド切り替えで切れてしまい、再度ここまで持ってくるのに長時間。さらに画像写真の一枚目を入れ、2枚目にかかると、何度やっても今混んでいるのでまた今度の繰り返し、いっそ一枚だけで投稿しようとするが、混んでいる状況のコメント変わらず。何とか強引に2枚目を入れる、3枚目を入れる、だましだまし、4枚目を入れる、強引に5枚目を入れる。さあ投稿にかかる、混んでいますのでまた次回にの繰り返し・・どうしろってんだ!と腹を立てながら強引に押し込む。初めから投稿が完了するまで、何度拒絶されたことか!そして投稿ブログを見ようと更新をかける。
エラ-になってしまった。最初からブログを立ち上げ直す。投稿できていた。やれやれ、もう知らん。後は夜に入れる。・・・でした。重いですっ!重すぎますっ!
日本画
[ 13:49 ] [ 美術・芸術・展示館 ]
綾部市制施行55周年、第53回総合文化祭。作品展は綾部市市民センタ-で2~4日の開催でした。
洋画
洋画
写真
写真
2005/11/03のBlog
[ 20:34 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
秋晴れの舞鶴市丸山運動公園テニスコ-ト
遠くに三国岳(若狭・舞鶴;丹後・綾部:丹波)から続く養老山(舞鶴・綾部市境)の山並みが見える。teihai-ML の法香@@南河内さんが今日は、大江山の鍋塚~鳩ケ峯を縦走中だ。
秋晴れの紅葉の登山、素敵だろうな。舞鶴地元のふじもとさんご夫妻は、今頃どこの山並みを闊歩されているのかな。
時計台と夜間照明塔を前景に秋空が拡がる。
応援席の日除けが頼もしい。手前の山は紅葉。
秋空の下で試合中
テニスコ-トのフェンスの向こうは子供の遊園地。子供たちが秋の日差しを浴びて無心に登っている。
[ 19:58 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
サ-ブ
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[ 19:33 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
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[ 17:31 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
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[ 14:43 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
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[ 09:15 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
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2005/11/02のBlog
[ 21:32 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
サ-ブ
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[ 20:23 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
サ-ブのシ-ンを並べて紹介します。
写真をクリックすると拡大します。
サ-ブ
サ-ブ
サ-ブ
サ-ブ
バックハンド
サ-ブからのバックハンド・レシ-ブは撮りやすいが、試合中のストロ-ク、ボレ-は。動きが速いのでなかなか撮れない。連射モ-ドで撮り、タイミングの合ったものを残すが、選手が重なったりでそう多くは、良い写真が残らない。
高いボ-ルの処理は・・
スマッシュ気味のボレ-
これも高いボ-ルの対処、スライスで決めよう
高いボレ-
先の綾部テニス協会の「テニス祭り」は、こじらせた風邪のため、ドクタ-ストップがかかり参加できなかったが、今回は余り無理をしない程度ならとお許しが出た。
5ゲ-ムのノルマだが、7人編成なので一人多く、無理を言って3ゲ-ムに出させていただいた。4-6、5-6、4-6で3ゲ-ムとも善戦したが負けてしまった。(6ゲ-ム先取、ノ-・アドバンテ-ジ)
やはり練習不足と、スキ-で痛めた背骨の後遺症か、サ-ブが決められず自分のサ-ブ権でポイントを落とし、パ-トナ-の足を引っ張り申し訳ないことであった。
チ-ムとしては、ブロック3位、全体で5位。10チ-ムの真ん中であった。
帰ってからまた咳が出始めたので、医者に行ってこようと思っている。
フォア、全力疾走中
しっかりボ-ルを捉えて、いい感じ
ボ-ルを睨みつけて気合い十分
少し高めのボ-ル。決める好機だが難しいぞ。つないだ方が無難かも
2005/11/01のBlog
[ 20:52 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
舞鶴運動公園テニスコ-トは10面ある。全天候型のオムニコ-ト。夜間照明付き。
応援席と試合進行ル-ム、放送施設などが完備した立派な施設だ。
数年前に麺数を8面から10面に増やすと共に、中央に応援観覧席を設け、コ-トの出入りが他のコ-トを通らずに自由に出来るようになった。試合中にそのコ-トの裏を回って指定コ-トに入るに気を遣うことがないので楽である。
隣のコ-トとは規定の間隔で5面がならぶ。ボ-ルが他のコ-トに入るとゲ-ム中の場合は待っている。ゲ-ムが一段落してから取りにはいるか、そのコ-トの選手が出してくれる。
試合風景
試合風景。
[ 09:55 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
秋晴れの日曜日、紅葉に染まる東舞鶴丸山運動公園テニスコ-ト10面を使い、四都市(舞鶴、福知山、綾部、宮津)熟年テニス大会が開催された。
今年は舞鶴市テニス協会が主管。参加者70名。A/Bの2ゾ-ンに分かれ、7名づつの5チ-ムが総当たり戦の各4ゲ-ム。最後にA/Bゾ-ンの順位決定戦が行われ、ほとんどの選手が5ゲ-ムをこなすとあって、和気藹々のテニス三昧の一日となった。
写真:開会式、舞鶴市テニス協会:東章会長のあいさつ。
対戦チ-ムあいさつ、選手オ-ダ-交換。試合はダブルスW3、W2、W1の順で行われる。各チ-ムオ-ダ-名簿順位の1~2の選手は、W3には出られない。
写真をクリックすると拡大します。
対戦前の練習
勝敗が決まり、選手がネット際にあつまり握手。
優勝チ-ム記念撮影。商品のビ-ル各1ダ-スが前に積んである。チ-ム編成は、主催者で行われる。選手レベルは各市協会の申告評価にもとづく。