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なべちゃんの散歩道
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2005/08/10のBlog
昨年8月1日に「HP:綾部の文化財」をテスト公開して、おおよそ一ケ年経ちました。その間みなさまにご愛顧いただき、アクセス数が一万回を超えました。
心から厚く御礼を申し上げます。これからも良いHPづくりに努力して参りますので、倍旧のご指導、ご愛顧を賜りますよう、よろしくお願い蒸し上げます。

なお、あなたの身近な文化財記事のご投稿(写真・コメント)をお寄せください。
HPは皆んなでつくるものです。巻頭写真投稿写真ペ-ジ掲示板文化財だよりなど
の交流広場を設けています。手書きでお寄せくださればHP作成の作業は、こちらでさせていただきます。取材にも伺います。
綾部の文化財を守る会、ホ-ムペ-ジ委員会・リポ-タ- 一同。
2005/08/09のBlog
belage 様のブログ企画に協賛して
富山で社会人一年生になった頃の思い出です。
・1959(昭和34年4月10日)皇太子のご成婚。騎馬隊に先導された馬車に乗られ、沿道の人々にに手を振られる皇太子と美智子妃殿下の様子が映されました。
写真はweb 検索で引用しています。

・60年安保:樺美智子さんの死去に伴う日本を揺るがした大闘争でした。

・1961(昭和36年)6月トヨタ・パブリカが発売されました。
会社の上司が買いマイカー時代がやってきました。昭和41年マイカー元年と云われる、ニッサン・サニー発売、6ケ月遅れのトヨタ・カローラ発売に続きました。
2005/08/08のBlog
[ 10:09 ] [ 花だより・紅葉だより ]
「クマゼミ」が休んでいる。
クリックすると拡大します。
羽の先が少し切れているようだ。
「マイマイ」が、ずいぶんたくさんいる。桜に葉にくっついて揺れている。
平和な空、夏雲を写して「大欅」がそびえる。
遠く市境の「弥仙山」の秀峰が見える。頂上に金峯山神社が建ち明治初年までは、ここも「女人禁制」の地だった。
右手の「蓮ケ峯」から続く行者道があり、七堂伽藍が建っていた。
現在は宗教「大本」の聖地、信仰の山。
[ 09:57 ] [ 花だより・紅葉だより ]
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真夏の「アブラゼミ」の声がせわしい。
昼どきは「アブラゼミ」の天下だ
枯れた感じの「カマキリ」が休んでいた。
桜の葉先を若々しい「小カマキリ」が渉っていったが、撮るタイミングを外した。
空に青いシルエットで浮かび、画になったのに残念。
「コガネムシ」が、樹皮から密を吸っている。
「さるすべり」が夏空に鮮やか
2005/08/07のBlog
柏原資料館・栢原藩陣屋跡(国指定史跡)・田ステ女記念館
織田信包・織田信勝・宇陀騒動・織田信休・栢原藩の領地
田ステ女記念館・元禄の四俳女・尼僧 貞閑
柏原藩陣屋跡・表御殿・書院・上の間・長屋門
柏原藩陣屋跡
陣屋は、織田信休が移封後約20年を経た正徳4年(1714)に造営したものです。当時の陣屋は、約20、000平米の敷地に表御殿、中御殿、奥御殿のある主屋や台所、幕末には藩校の崇広館等が存在しました。現存するのは、文政3年(1820)に再建された表御殿の一部で昭和46年国の史跡に指定されました。
玄関を上がって・・
陣屋跡、文政3年(1820)に再建された表御殿の一部を見る
見学して回る
書院
書院・上の間
栢原藩陣屋跡(国指定史跡)
指定年月日:昭和46年1月6日 所有者、管理者:柏原町
柏原藩陣屋跡は、正徳4年(1714)に初代藩主織田信休によって造営された柏原藩主織田氏の居館跡である。道営当初の建物は、文政元年(1818)の火災で焼失し、文政3年(1820)頃に再建されたものが建存する御殿である。現在は表御門の部分と長屋門が残るだけであるが、門から御殿玄関へと続く構えは、全国的に類例が少なく、近世大名の居館を考えるうえでも貴重な遺構として、国の史跡に指定されている。
平成6年3月 柏原町
柏原藩陣屋跡に向かう
陣屋跡玄関に腰掛けて、一行18名+1(撮影者)
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柏原藩主織田家長屋門 (県指定文化財)
指定年月日:昭和37年7月16日 所有者管理者:柏原町
柏原藩初代藩主織田信休が、公邸の表御門として正徳4年(1714)に築いたもので、内部は向かって左側が、畳敷きの番所、門扉を挟んで右側が、板張りの馬見所と砲庫の3室に仕切られている。桁行き13間半、梁間2間を測り、桟瓦葺きの入母屋造りと、総体的に簡素な構造ではあるが、数少ない大名邸宅遺構の一つとして貴重である。
平成4年11月 兵庫県教育委員会
下校時間、子供たちが長屋門の前を通って帰って行った。通りをはさんで栢原歴史資料館が建つ。
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柏原町歴史民俗資料館
栢原藩伝来資料の保管と柏原町の歴史・民俗・考古に関する資料を収集保存し、調査研究・展示する施設として柏原藩陣屋跡に隣接して設置しました。このため当館の常設展示は、柏原藩陣屋跡と柏原藩の歴史についてテーマ展示を行っています。
(田ステ女記念館も入って右手にある)
栢原藩主・織田家の人々
栢原藩は慶長3年(1598)織田信包が3万6平石の領主として柏原に定着し始まりましたが、3代藩主信勝に継嗣がなく慶安3年(1650)信勝の死去とともに廃絶となりました。再び栢原藩主となったのは元禄8年(1695)、大和松山藩(現在の奈良県大宇陀町)から丹波国氷上郡へ国替となった織田信休で、信休は2万石を領し、信包以来の織田家縁故の地柏原に本拠を置きました。その後10代にわたってこの地を洽め、明治4年(1871)の廃藩置県をむかえました。
織田信長の息子、信雄
大名行列のミニチュア
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田ステ女記念館(柏原藩歴史民俗資料館に併設)
「雪の朝 二のじ二のじの 下駄のあと」の俳句で有名な柏原の俳人・田ステ女の資料が系統だって展示されております。
田(でん)ステ女(すてじょ)記念館
柏原が生んだ俳人、田ステ女(1633-1698)300回忌を記念して開館しました。田家伝来の資料を中心に展示し、俳人、尼僧のステ女、彼女にまつわる人々を紹介します。
元禄の四俳女:の一人: 田ステ女
寛永10年(1633)柏原に生まれたステ女は、6才の時「雪の朝二の字二の字の下駄のあと」の句を詠んだと伝えられるなど、幼い頃からその才能を発揮しています。自ら書き綴った「自筆句集」:には、200以上の句が収められており、当時から名の知れた女流俳人でした。19才で、!継母の連子の季成(すえなり)と結婚し、五男一女をもうけますが、その後も夫とともに俳諧を続けています。
「おもふ事なき顔しても 秋の暮」 ステ
ステ女公園(千日寺跡)
柏原町高谷。ステ女が夫を弔うために千日間念仏を行ったため、千日寺と呼ばれた。寛政10年(1798)には、地元の俳人有志によって「栗の穂や身は数ならぬ女郎花ステ」の句碑が建てられた。

尼僧 貞閑(ていかん)
42才のとき夫に先立たれたステ女は、出家し第二の人生を送ることを決意しました。剃髪したステ女は、京で盤珪永琢(ばんけいようたく)と出会い弟子になると師の寺・龍門寺がある姫路の網干(あぼし)へと移り住みました。網干では名を貞閑と改め、龍門寺に程近い不徹庵(ふてつあん)の庵主を勤めるなど、尼僧達の中心的存在となり、元禄11年(1698)66才でその生涯を閉じました。
松尾芭蕉とほば同時代を生き、俳諧で名を知られたステ女は、後半生を尼僧として暮らし、次第に俳諧から離れ和歌を多く残しています。
田ステ女記念館内の見学
見学風景
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栢原藩の領地(入部当時)元禄8年領地目録による
氷上郡の内 44ケ村
栢原町、母坪村、稲畑村、柿芝村、下小倉村、長野村、北嶋村、池谷村、大田村、下瀧村、鴨坂上村、鴨坂下村、東芦田村、桟敷村、井中村、田中、犬田村、應地村、岩屋村、井原村、金屋村、田井縄村、口塩久村、奥塩久村、小和田村、山垣村、遠阪村、大名草村、桧倉村、佐治村、西芦田村、栗住野村、沼村、御油村、中村、小野村、坂村、石才村、古川村、野山村、大崎村、阿草村、本郷村、南田井
高:1万4千486石9斗8升4合

何鹿郡の内 8ケ村
高槻村、位田村、坊河内村、西方村、物部村、志賀村、小畑新庄村、報恩寺村
高:2千6百55石 8斗 2升 3合

天田郡の内 5ケ村
田野村、河北村、戸田村、前田村、石原村
高:2千8百55石8斗2升3合

都合高:2万石
栢原藩の領地
栢原藩の領地は、「元禄8年領地目録」によると、氷上郡44ケ村、何鹿郡8ケ村、天田郡5ケ村の合計、57ケ村で「高2万石」と記載されていますが、山深い奥丹波の地にあって、実際の収穫高は1万石にも満たなかったといわれています。
その領地も他藩の大名領や旗本諸侯の知行地が複雑に入り組んでいるうえ、飛び地も多くて、支配不便な領地の分布状態を示しており、お家騒動を起こした外様の悲哀を物語っています。
熱心に見学中
柏原藩陣屋跡の模型
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初代藩主 織田信休の治政
織田信休は、信長の二男信雄を初代藩主とする大和松山四代目藩主、織田信武の長男で元禄7年(1694)に起こった「宇陀騒動」の後、藩主になりましたが、翌年減封のうえ、丹波に国替えの処分を受けました。
宝永元年(1704)に大和川改修の普請を命じられるなど出費が重なり、柏原に居館が完成したのは、入部後20年を経た正徳4年(1714)のことで、この時城下町の建設にも着手して、現在の柏原の町並みを形作りました
柏原資料館の展示を見る綾部史談会古文書部会、文化財を守る会いかるが民俗民具資料館準備委員、綾部市資料館の近澤館長など一行
資料館展示見学
熱心に見学
宇陀騒動
織田信休の旧領・大和松山藩は、信長の二男信雄が大阪の陣直後の元和元年(1615)7月に大和国宇陀郡で3万2千石の領主になったことに始まります。
初代藩主信雄のあと高長(たかなが)長頼(ながより)と続きましたが、元禄7年(1694)家臣団の内紛に端を発して、四代目藩主、信武(のぶたけ)が家臣2人を殺害のうえ自殺したため、翌年幕府は宇陀の領地を没収して、藩主となっていた信休に丹波に国替えを命じ、栢原藩は再興される結果となりました。
注:地名は現在「柏原」ですが、藩名は「栢原藩」とも書くようです。このブログでは、展示物の解説に書かれた通りの字体を使っています。
ところで「栢」「栢原」って何と読むのでしょうか?。どんな樹木でしょうか?。綾部にも「栢分」という姓の先生がおられますが、「かやわけ」と呼んでいると思います。
栢原陣屋(文化文政期)
柏原資料館の見学風景、綾部の文化財を守る会(いかるが民族民具資料館)と綾部史談会(古文書部会)、綾部市資料館の一行。
展示物の見学
展示物の見学
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三代藩主、信勝の治政
織田信勝は、二代藩主信則の長男で、寛永7年(1630)三代目藩主となりました。信勝は領内の佐治川に堤防を築いたり、新田の開発を行い善政を敷きましたが、慶安3年(1650)28才の若さで死去し、世継ぎとなる男児に恵まれなかったため、 栢原藩は改易となりました。
信勝は八幡神社に自筆の社号額や釣灯篭を奉納するなど信仰心も厚く、鳥を題材にした絵画が多く残されており、その繊細な筆跡から優しく細やかな人柄をしのぶことができます。
軍配?
歴史資料、古美術、古文書などの門外漢なので、名称をとりあえず適当につけています。
HPに仕立て直して、専門家の先生に校正していただきます。
陣羽織?
鎧・兜
塗り椀?
栢原藩織田家伝承
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タイトルについてお詫び:地名は現在「柏原」ですが、藩名も柏原藩だったようです。現在問い合わせ確認中です。「栢原藩」は、三代目信勝に子供がなく改易になっています。
織田信包(のぶかね)は、信長の弟にあたり、初期信長政権下では北伊勢方面の経営にあたるとともに、織田一門衆として緒戦に活躍しました。
信長亡き後は、豊臣秀吉に属し、伊勢の安濃津(あのづ)で15万石を領していましたが、やがて秀吉と不仲になり、文禄3年(1594)には領地没収の上剃髪して謹慎を命じられます。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し、戦後も所領は安堵されて豊臣秀頼に近侍していましたが、慶長19年(1614)大阪城内で死去しました。
日誌帳:藩の収納関係?
同行の綾部史談会古文書部会の先生方が熱心に読んでおられました。
門外漢なので私は読めません。説明書きの札を撮り忘れています。
鬼板瓦 左側面刻銘
久下上瀧村 瓦屋治兵衛
文政元年寅11月吉日
飾り紋
さわってみよう。鉄砲の展示
綾部九鬼藩と関係の深い、三田九鬼藩の三田歴史資料集蔵の先進地視察をすませて、午後帰路の途中にある、柏原資料館、柏原藩陣屋跡(国指定史蹟)を訪ねました。
織田信長の弟:織田信包’のぶかね):初代藩主
織田信包(のぶかね)は、信長の弟にあたり、初期信長政権下では北伊勢方面の経営にあたるとともに、織田一門衆として緒戦に活躍しました。
信長亡き後は、豊臣秀吉に属し、伊勢の安濃津(あのづ)で15万石を領していましたが、やがて秀吉と不仲になり、文禄3年(1594)には領地没収の上剃髪して謹慎を命じられます。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し、戦後も所領は安堵されて豊臣秀頼に近侍していましたが、慶長19年(1614)大阪城内で死去しました。
三代藩主、信勝の治政
織田信勝は、二代藩主信則の長男で、寛永7年(1630)三代目藩主となりました。信勝は領内の佐治川に堤防を築いたり、新田の開発を行い善政を敷きましたが、慶安3年(1650)28才の若さで死去し、世継ぎとなる男児に恵まれなかったため、 栢原藩は改易となりました。
信勝は八幡神社に自筆の社号額や釣灯篭を奉納するなど信仰心も厚く、鳥を題材にした絵画が多く残されており、その繊細な筆跡から優しく細やかな人柄をしのぶことができます。
宇陀騒動・大宇陀の町並み
宇陀騒動
織田信休の旧領・大和松山藩は、信長の二男信雄が大阪の陣直後の元和元年(1615)7月に大和国宇陀郡で3万2千石の領主になったことに始まります。
初代藩主信雄のあと高長(たかなが)長頼(ながより)と続きましたが、元禄7年(1694)家臣団の内紛に端を発して、四代目藩主、信武(のぶたけ)が家臣2人を殺害のうえ自殺したため、翌年幕府は宇陀の領地を没収して、藩主となっていた信休に丹波に国替えを命じ、栢原藩は再興される結果となりました。
初代藩主織田信休の治政と系図
初代藩主 織田信休の治政
織田信休は、信長の二男信雄を初代藩主とする大和松山四代目藩主、織田信武の長男で元禄7年(1694)に起こった「宇陀騒動」の後、藩主になりましたが、翌年減封のうえ、丹波に国替えの処分を受けました。
宝永元年(1704)に大和川改修の普請を命じられるなど出費が重なり、柏原に居館が完成したのは、入部後20年を経た正徳4年(1714)のことで、この時城下町の建設にも着手して、現在の柏原の町並みを形作りました。
栢原藩の領地(入部当時)元禄8年、領地目録による。
栢原藩の領地(入部当時)元禄8年領地目録による
氷上郡の内 44ケ村
栢原町、母坪村、稲畑村、柿芝村、下小倉村、長野村、北嶋村、池谷村、大田村、下瀧村、鴨坂上村、鴨坂下村、東芦田村、桟敷村、井中村、田中、犬田村、應地村、岩屋村、井原村、金屋村、田井縄村、口塩久村、奥塩久村、小和田村、山垣村、遠阪村、大名草村、桧倉村、佐治村、西芦田村、栗住野村、沼村、御油村、中村、小野村、坂村、石才村、古川村、野山村、大崎村、阿草村、本郷村、南田井
高:1万4千486石9斗8升4合

何鹿郡の内 8ケ村
高槻村、位田村、坊河内村、西方村、物部村、志賀村、小畑新庄村、報恩寺村
高:2千6百55石 8斗 2升 3合

天田郡の内 5ケ村
田野村、河北村、戸田村、前田村、石原村
高:2千8百55石8斗2升3合

都合高:2万石
2005/08/06のBlog
[ 19:51 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
「中神☆納涼祭☆会場」の看板が立つ児童公園。神宮寺公会堂前、波田野記念碑参道下にある児童公園が会場。神宮寺町には、東、中、西神宮寺自治会の3自治会がある。中神宮寺自治会は、215世帯、480人。
テントが張られ、手作りの食べ物が用意される。予約制で自治会に回覧板が回り、あらかじめ注文しておく。すこしぐらいは飛び入りでも追加できる。自治会の役員と有志が総出で世話をしている。毎年の組長(組内で回り持ち)は大変だ。会場準備から当日の料理、接待、後片付けまで世話をする。
焼きそばの世話と行列。おでん5品、焼き鳥、焼きイカ、フランクフルト、ビ-ル、飲み物などの屋台が並ぶ。
広場にはシ-トが広げられ、子供からお年寄りまで思い思いに、詰めて座っている。
ステ-ジでは、ビンゴゲ-ムが行われ、当たった人から賞品を貰っていく。子供の遊び場や、花火の用意もあり、盛りだくさんの余興が用意されている。
[ 14:09 ] [ 花だより・紅葉だより ]
大掃除で畳の日干し、ソファの虫干しをしていると、ガレ-ジ上の花壇(プランタ-)に
蜂雀(ほうじゃく)が飛んできた。あわててカメラをとりに走り構えた途端に飛び去った。
去年から追いかけているのだが、まるで高速機動隊。「Kenさんの自己満足散撮」ブログの野鳥のように、じっくり待機撮影の必要がありそうだ。
「むぎわらトンボ」「シオカラトンボ」は、決まった所に止まる。また「ギンヤンマ」「オニヤンマ」などは、同じコ-スを巡回しているが、蜂雀はそうでもないようだ。広いテリトリ-があるようなので、飛来する時刻を記録して待機すれば撮れるのだが・・
「シオカラトンボ」:「ひなたぼっこ」様のブログのシオカラトンボは立派だ。頭からしっぽまで塩辛。写真のは、しっぽだけが白い。
300mmレンズで「蜂雀」を探しながら、トンボ撮りをした。もう一種類、しっぽに白い斑点のあるトンボがいたが撮り損なった。フリ-ハンド撮影では、マニュアル・フォ-カスでこれが限界。
「国道のある風景」のlone_chuck様から夕立に注意の予報があり気になっていた。
今年は冬瓜(かもうり)の当たり年。10ケ程収穫したのに、まだ畑に☆「ごろごろ成っている」☆。昼食をすませた途端、★「ごろごろ鳴り出した」★。雷だ!。あわててソファを運び込むの。畳を叩いて(14,5枚)入れるの。おおわらわになった。雨が降る直前に間に合った!。
[ 10:28 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
太陽が照りだした。何とか晴れそうだ。先週できなかった大掃除を開始。
たたみをあげて、日干しだっ!。
ソファ-も虫干しだっ!
2005/08/05のBlog
[ 11:04 ] [ 花だより・紅葉だより ]
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八月盛夏、紅白の「さるすべり」が咲き誇り、夏ゼミが気ぜわしい。
明日は天気か。先週雨でできなかった、大掃除が待っている。
2005/08/04のBlog
さんだ歴史資料収蔵センター:民具の展示(もったいないの世界)・さんだの空襲
「文化財ボランティアさんだ」
「さんだ学入門」③さんだと城・三田の九鬼氏・歴代藩主
心月院・歴代九鬼氏霊廟・武家屋敷跡・九鬼藩城館跡
旧九鬼家住宅資料館
さんだのくらし資料冊子抜粋紹介
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三田歴史資料収蔵センターでいただいた資料の追加です。
昭和のくらし:台所と食事、夏の道具、冬の道具、様々な場面での道具(米作りの道具、洗濯、学校と遊び)、電化製品、新着資料集:A4版22ページの冊子です。
http://www.ayaco.net/bunka/minzoku/sanda/sanda.html
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盆休みで千葉から里帰りした長女が、かねてから綾部藩主九鬼氏について関心を持っており、九鬼水軍にまつわる創作フィクションを載せたブログ:「梅郷通信」をしています。
今日、思い立って三田九鬼藩の見学に家族で出かけましたので、ついでに前に不足だった下記の「三田空襲」の資料を貰ってきてくれました。

文化財ポランティアさんだ企画展示
三田歴史資料収蔵センタ-10周年展「さんだ学入門」⑤さんだの空襲
60年前、三田も戦場となった。 ~三田市域の空襲とその被害~

 終戦の約1ケ月前にあたる昭和20年7月19日の午前、アメリカ軍の戦闘機( P 5 .1 )60機が、阪神・三田地区を空襲してきました。
 空襲の知らせを受け、伊丹と八尾におかれた防空戦闘機が迎撃のために発進して、高平ら付近の上空で空戦となりました。
 激しい戦闘の結果、日本側戦闘機2機が末帰還となり、うち1機は、高平ら・上槻瀬の竹林に墜落して搭乗員が戦死されました。
 警報を受けた三田・三輪の学校では、急きょ待避のため児童を下校させましたが、アメリカ軍戦闘機の機銃掃射を受けで、三輪校の校内や帰宅途中の路上で、児童4名が亡くなりました。
 桑原では、田んぼで働いでいた女性1名が亡くなりました。
高次では、民家4軒が銃撃を受けて燃え上がり、全焼しました。
そのほか、重傷者がでたり、民家・学校・役場・鉄道の貨物倉などが被弾して損傷しました。
 高平では、戦闘機の墜落炎上や機銃弾の落下などかありましたが、大きな被害には至らなかったようです。
 本庄や末などでも、アメリカ軍戦闘機の通過が目撃されています。

 戦後直に書かれたアメリカ側の報告文言をみますと、プロペラ製造などの疎開工場が、三田市域のあちこちにあったこと、戦闘機の空襲は飛行機・飛行場・鉄道施設・工場や住宅をねらったものであったことなどがわかってきます。
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三田市旧九鬼家住宅資料館
 旧九鬼家住宅は、明治初期(明治8年前後)に建てられた全国でも数少ない擬洋風建築の建物で、平成10年4月7日に兵庫県重要有形文化財に指定されました。
擬洋風建築とは、当時の人工さん達が、洋風建築を取り入れて造った洋風と和風が混在した建物のことです。この住宅は、三田藩家老職を代々勤めた九鬼家の住宅として建てられました。明治の初め頃の建物は、設計者等が不明な例も多いのですが、旧九鬼家住宅の設計は、当主であった隆範が自ら行い、その設計図面も残っていました。また、鉄道技師であった隆範が蓄積した鉄道関係図面やその他関連資料等、歴史的にも極めて貴重な資料も見つかりました。
建物の特徴
 主屋は、1階は板張りと漆喰で壁を仕上げ、格子戸、障子戸、板戸を使用した和風の造りになっています。そして、2階の壁は漆喰で、窓はよろい戸となっています。東半分はベランダとなっており、円柱や柱間は漆喰で塗り込められています。また、柱間をアーチ状に仕上げたり、くり形付きの手すりを設ける等、洋風の趣に造られています。2階東半分は洋間となっていますが、床に畳を敷いたり、壁や天井は、壁紙の代わりに日本的な襖紙を張る等、洋風の技法を取り入れつつ、日本建築の技法が生かされています。
2階は洋室になっている。
庭から見ると、下は和風、2階は洋風建築。2階のテラスが見える。
庭園は日本式。白塀で囲われている。
台所は土間。
三田歴史資料集蔵の先進地視察は、この旧九鬼家住宅資料館から、九鬼藩城下町を歩いて収蔵センターまで戻り終了。長時間にわたりご案内、また貴重な資料の多々を頂きました「文化財ボランティアさんだ」の皆様などに心からのお礼を申し上げます。
会社パソコン設定替え、私用パソコンの不調、このレポート自体の記事収集(案内看板の書き写し、パンフレットからの文字入力)のため時間を取られ、このレポートが遅延しました。最上部の「関連したブログ」をたどっていただくと、連続して見られます。またHP編集も遅れていて申し訳ありません。
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歴史資料収蔵センター→心月院(九鬼藩歴代藩主霊廟)→九鬼藩城下町→九鬼藩城館跡→旧九鬼家住宅跡に歩いてきた。
旧九鬼家住宅資料館(平成10年県指定)
 旧九鬼家住宅は、三田藩家老職を代々勤めた九鬼家の住宅で、明治初期(明治8年前後)に建てられた全国でも数少ない疑洋風建築の建物である。疑洋風とは、当時の大工が洋風建築を取り入れて造った洋風と和風が混在したもの。住宅の設計は当主であった隆範氏が行い、その図面も現存している。
旧九鬼家住宅の戸口をくぐる。仕掛けがあり、2階に引き上げられる入り口で、バランス錘がついた滑車式。入り口を引き下ろすと小さな潜り戸が付いているが、かけやで叩き潰さない限り難攻不落の用心戸になる。
座敷で「文化財ボランティさんださん」の説明を受ける。
旧九鬼家住宅の設計者、九鬼隆範
九鬼隆範は、天保6年(1835)に三田屋敷町に生まれました。明治3年(1870)に三田藩の 家老、九鬼伊織隆継の長女と結婚し養子となります。砲術、築城術、測量術等を学び、明治維新後は技術者として鉄道設計等に携わり、日本の鉄道開発に貢献しました。
二間続きの座敷に座って説明を熱心に聞く。
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三田遊inマップから、古地図:この古地図を見ながら九鬼藩武家屋敷跡を偲びながら歩いた。
武家屋敷跡
 寛永10年(1633)志州鳥羽より移封された九鬼氏に従い、また新規に召抱えられた藩土たちが往んだ屋敷町。縄張りの上新しくつくられたところだけに整然とした区画割になっている。どこの侍町も同じように道路は突き当りが多く、戦さの配慮がなされていた。長屋門や石段、土塀などに当時の面影が残る、

.御下屋敷跡
 九鬼藩主の御下屋敷のあったところ。地続き川べりに川遊びの御舟小屋があった。明治11年の郡区町村編成法によって翌年有馬郡2町11カ村の郡役所がここにおかれた。つい最近まで表門(黒門)かあったが、金心寺へ移された。邸内の築山、家臣寄贈の石燈龍はそのままに置かれている。
三田城跡 ふるさと街道
市立三田小学校地は、江戸時代鳥羽より移封された藩主九鬼氏の城館跡である。県立有馬高等学校と三田小学校との間にある道沿いの濠は、本丸館と二の丸との境の掘であった。九鬼氏以前の領主は、荒木、山崎、有馬、松平と続いたが、その居城は明らかでない。旧市民病院裏の舌状高台あたりを「古城」と呼んでいるので、名のとおりそこであるかも知れない。三田が門前町として開けてきたところだと云われるのは、奈良時代に金心寺という大寺があったからである。城跡から屋敷町一帯にかけて、古瓦や礎石、中世の石造物などが出土する。
本丸と二の丸の境の掘
⑲三田城跡 歴史の散歩道
県立有馬高等学校付近は、天正年中(1573~)伊丹有岡城主、荒木摂津守の武将、荒木平太夫の居城
のち山崎堅家、有馬則頼、松平重直、そして寛永10年(1633)九鬼久隆と城主が代わる。三田小学校付近は、九鬼藩主の居館、現校舎地下に御台所跡が保存されている。七曜橋下が大手門筋 三田市教育委員会
三田九鬼藩城跡の石標と地図、歴史の散歩道案内
三田小学校の端にあり、学校への車道(ゲート閉門中)がある。
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九鬼藩城下町:三田歴史資料収蔵センターに綾部市の行政バスをおいて、九鬼藩霊廟のある心月院に行き、さらに九鬼藩城下町跡(開発され区画整備中の空き地になっていた)を通り、三田小学校と県立有馬高校の間の下り坂を下りているところ。
県立有馬高等学校:九鬼藩城館跡
この道沿いの濠は、本丸館と二の丸との境の掘。
九鬼藩城館跡の説明を「ボランティアさんだ」の方に聞く参加者。
有馬高校の歴史と周辺の古地図
約1300年前定慧上人により金心寺が、この地に創建されたが、豊臣秀吉の三田城攻略の時焼失した。寺はその後屋敷町に再建され、明治2年現在の西山丸岡に移転した。
なお寛永10年、九鬼久隆公が鳥羽より三田に移封され、この地に居館を構えた。三田小学校及び県立有馬高校は、その跡地に建てられている。寄贈 清陵会(有馬高校卒業生同窓会)
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清涼山心月院九鬼歴代藩主(上記関連ブログ参照)霊廟の墓石を調べる、綾部史談会古文書部会の先生方、および、いかるが民俗館のメンバー。
9代~12代霊廟にて
13代九鬼隆義霊廟
広々とした霊廟であった。
13代九鬼隆義霊廟にて
九鬼家一族の多くの墓石が整然と数列にわたり並んでいる。熱心に碑文を読み取る先生方。
13代九鬼隆義霊廟にて
九鬼隆一霊廟にて
ここにも関係者の墓石が並んでいる。日本初の私立博物館である「三田博物館」を創った九鬼隆一氏の顕彰碑も建てられている。
心月院総門前
心月院本堂・位牌堂
心月院経堂