ニックネーム:   パスワード:
| MyDoblogトップ | Doblogポータル | Doblogガイド | 使い方 | よくある質問 | ツールバー | サポート |
なべちゃんの散歩道
Blog
[ 総Blog数:4052件 ] [ このMyDoblogをブックマークする ] [ RSS0.91   RSS1.0   RSS2.0 ] [ ATOM ]
2005/04/15のBlog
[ 06:53 ] [ あやべの文化財 ]
熊野神社と隣接する別当寺の願成寺には、藤原(平安)時代の作といわれる熊野十二所権現の本地仏が分置されている。藤原時代に流行した浄土教の影響で、紀州の熊野神社に十二所の本地仏が定まり、永暦年間(1160~61)京都に新熊野神社として勧請され、王城鎮護の神として祀られた。吾雀荘(あすずきしょう)志賀郷は、その荘園として寄進され、守護神として別所熊野神社に十二所権現像が祀られたのである。
願成寺本堂に隣接するお宅に案内を乞うと、ご主人が出てこられ、すでに願成寺の名前でなくなり、志賀郷の興隆寺の飛び寺だと云われた。興隆寺にも御住職不在の様子だと尋ねると、西方町の宝満寺の住職が兼務されていると云うことであった。
上記のように吾雀荘(あすずきしょう)志賀郷の別当寺として、隆盛を誇り近在の篠田神社なども統括したように聞いたが、檀家数が少ない(人口過疎)中では寺の維持も大変だと思った。宮津への高速縦貫道が寺の上に走るのが見える。
http://www.ayaco.net/bunka/bunkazai/annai/ganjyoji/ganjyoji.html
2005/04/14のBlog
[ 17:47 ] [ あやべの文化財 ]
志賀郷のJA支所前にある興隆寺の取材をした。花の季節、桜の名木があったがまだ蕾であった。HPアップしました。
http://www.ayaco.net/bunka/bunkazai/annai/koryuji/koryuji.html
志賀郷JA支所の前に白い酒造会社の倉庫が並ぶが、昨年、登尾峠・城屋揚松明展に行ったときに廃業されて梅の加工工場になると聞いた。先日の報道で「花伝院・志賀郷工房」が完成し、梅干し製品加工販売の工場となった由。
その近くの府道に興隆寺と案内看板が立っているので入ると、府道と平行に寺参道の前に町並みが通っていた。旧道か?
寺の横に庫裏があり、訪れたが無人のようで、石段下にある作業所に居られた方に聞くと、寺のことは分からないとの返事であった。
花の季節をと思い取材に来たが、名木の桜(樹周:2.7m樹高:9m)はまだ蕾であった。続けて回った別所の願成寺で付近の人から、西方町の宝満寺の御住職が兼務と伺った。
国土地理院の四等三角点 点名:興隆寺(103.56m)は、この裏山にある。
尾田山 興隆寺:弘法大師 観世音菩薩
本尊:薬師瑠璃光如来 不動明王
指定文化財 綾部市指定 大般若経 書跡 596巻 鎌倉~室町時代
2005/04/13のBlog
[ 14:58 ] [ 山野草・滝(ふじもと様投稿) ]
[関連したBlog]
「ザゼンソウ」
ハチ北の場所を教わりながら、立ち寄れませんでした。
これは今津で撮られた「ザゼンソウ」です。
「葉つきザゼンソウ」の群生
沢山咲いていますね。
「野間の滝」
雪解け水か勢いの良い瀑布ですね。
沢山の素晴らしい季節の写真有り難うございました。
投稿写真ギャラリ-に収録させていただきます。
[ 14:51 ] [ 山野草・滝(ふじもと様投稿) ]
[関連したBlog]
ふじもと様から春の山野草の写真を頂きました。
写真は全てクリックすると拡大します。大きくすると迫力があります。
「フクジュソウ」 綺麗ですね。
「フクジュソウ」の群生
「ミツマタ」
和紙に使うミツマタ。こんな花なのだ。
2005/04/12のBlog
[関連したBlog]
こんばんは。午後になって山家へ行って来ました。
台風の後遺症なのでしょうか? 遊歩道の左右上下がひどいことになっていましたね。歩道の川側は以前の土と草が茂った場所がすっかり少なくなって、所々ギリギリまで土砂が流されていますね。それに、復旧工事でも伐採された木々が残った草の
中にそのまま捨てられたり、草の中の土も掘られたりと、散々の状態で、ウラシマソウは無理ではないかと思いながら歩いて見ました。確かに殆ど以前あったはずの場所は草も無く、ありませんでしたが、なんとか草が残る下流の場所で数株ありました。
遊歩道の右(上側)にも数本見つけましたが、例の細く長い黒い紐のようなものがあるのは2本だけでした。 でも、添付のものはやや開いて、このあと丁度幅が倍の広さに
コブラのように広がれば完成です。
この土・日ならこれがちょうど開いているでしょうが、その他は未だ少し先になりそうですが・・・どうしましょうか? なんとか来週の20日でも咲いているものがあると思いますが、私も花期がどれくらいかは知りませんので自信はありません。2度行くのもいいですよ。 とりあえずご報告まで。

ホッカホカの撮りたての写真、ありがとうございました。照福寺成る(照福寺跡)と山家城趾探索を兼ねて近日中に行ってみようと考えています。
野鳥、山岳遠望写真など撮るために、望遠撮影の技術を習得しようと、カメラにトライしました。
性能表によると、焦点距離7.2-50.8mm(35mmフィルム換算28-200mm相当)となっています。それにデジタルズ-ムx2.0 があるので、400mm 相当の望遠になります?
撮影サイズを最大・最高品質(2560x1920)にセットして撮り、あと画像処理でどうなるかの実験テストにトライしました。
 ところがカメラが壊れていました。ズ-ム鏡胴についているゴム製のズ-ムリングの手触りがおかしく、目盛り位置もずれているので少しずらしててみると、ゴムリングの下に薄いプラスチック状の板が嵌めてあり、二つに割れており?何とセロテ-プで繋いでありました。
 私と家内以外は使いませんので、多分初めからこの仕様だと思いますが、その部分が浮き上がり、ズ-ム鏡胴の伸び縮が不調になっていました。早速カメラ屋に持参しメ-カ-送りで修理を頼みました。3週間程度必要とのことでした。
 現在はレンズ交換式のデジカメが、本機の価格で発売されていますが、400mm程度の望遠レンズ(非常に高価)を買わないと本機と変わらないといえます?。本機すらまともに使えていないので望遠撮影の技術習得が先決のようです。
2005/04/11のBlog
[ 20:10 ] [ あやべの文化財 ]
上林禅寺と同じ八津合町の八幡宮の境内も桜が見事だった。
境内は京都府の文化財保全地区決定である。
[関連したBlog]
舞鶴のふじもと様から「見ましたよ」のコメントをいただいた。
奥山・登尾峠に桜を育てる会の代表:広沢直子さまから、志賀郷地区の山・峠のHPコピーを頼まれ届けていたのが張り出されていた。
昨年、志賀郷、城屋の皆様と同行した、観桜山歩き、登尾峠探索行が、様々な資料に加えて展示されていた。
展示最終日だったが、熱心に写真をみる方も見えていた。
2005/04/10のBlog
上林禅寺の黒川泰信禅師より、桜の見頃と「るんびに苑」の児童たちの観桜会のご連絡をいただき、好天の中を禅寺に到着、引率の先生に断りを入れてから取材しました。子供達は本堂で黒川禅師の点てられる「お薄」を1人1人いただき、羊羹を食べ、日本文化に親しんでいました。禅師のお話のあと、名木:シダレザクラの咲き誇る庭に出て、本堂の縁側に腰かけ、お昼を楽しんでいました。
上林禅寺の黒川泰信禅師より、桜の見頃と「るんびに苑」の児童たちの観桜会のご連絡をいただき、好天の中を禅寺に到着、引率の先生に断りを入れてから取材しました。子供達は本堂で黒川禅師の点てられる「お薄」を1人1人いただき、羊羹を食べ、日本文化に親しんでいました。禅師のお話のあと、名木:シダレザクラの咲き誇る庭に出て、本堂の縁側に腰かけ、お昼を楽しんでいました。
襖絵も拝見し、花の寺の写真を撮ってきました。HP編集中です。
http://www.ayaco.net/bunka/bunkazai/annai/kanbayasizen/jyourin.html
この本堂には、上間一之間を除く五室に34面の障壁画が描かれており、画題は、唐獅子図12面、山水図8面、竹林七賢図4面、芦雁図6面、豊干寒山拾得図4面の計34面である。
 本障壁画には「寛政辛亥夷則/法眼元陳□□」の款記があり、寛政三年(1791)吉田元陳の作であることがわかる。 ’
 吉田元陳は京都の人で、法眼の位にまで上った当時屈指の画家で、清水寺近くに住していた。
 この障壁画はもと八津合町馬場の永勝寺にあったものを遷したと伝えているが、元陳の晩年の大作として貴重なものである。(綾部の文化財より)
[関連したBlog]
家庭菜園の豌豆、支柱を立ててからもう1月近いが、やっと50cm位です。
こちらは莢豌豆、霜に痛みつけられて、かなり枯れまばらになりました。20cm位、生育が遅いです。
タマネギ、20cm位。これからです。馬鈴薯はまだ土の上に発芽しません。
[ 07:22 ] [ 花だより・紅葉だより ]
近くに住む娘が孫3人をつれて花見に来た。波多野記念碑の桜が満開だった。大勢の人が次々訪れて広場にシ-トを敷きお弁当を食べていられる。娘が持参のホカ弁で昼食をした。末娘夫婦も歩いて散歩に訪れた。
公園一帯が桜で埋まっている。
日に照らされて花びらがまぶしい。
孫は男ばかり3人。長男は先日、料理をしていて人参を切るときに、自分の指を包丁で切り、2針ぬう怪我をした。夜まで家で遊び風呂も入って帰っていった。
2005/04/09のBlog
[関連したBlog]
いつもブログにコメントをいただいています Belage 様のTBに協賛、4月10日締め切り
前の駆け込み投稿です。私のHP「恐いから、判からないから、難しいから、面白い」
からのコピ-で申し訳ありません。

社会人1年生:不二越の思い出(1)
 福井大学を卒業して、富山にある不二越鋼材工業に入社しました。学卒者33名採用の中の一人でした。 不二越は、NACHI印の切削工具、特にハクソ-という金切りのこ歯の発売元で有名です。工具、ベアリング、工作機械とそれらに使用する特殊鋼材の製造部門があります。富山では、綾部におけるグンゼと同様の存在感で、戦時中は、ハ-ド部門の軍需工場として、戦時採用された従業員数は、すごかったようです。
 資本金が大きすぎたのか、株価も10円台を数度も低迷したこともあり、大きな工場の経営を建て直す苦労も大変だったようです。私の入社した時の初任給は、高卒で8千円、大卒で1万余りの時代でした。
 入社後は、体験実習があり、工具、軸受けなどの全製造部門を廻りました。工具や軸受けの焼き入れ工程はすごい印象を受けました。特に東富山の製鋼所では、深夜勤を体験しました。仮眠室で休んだあと、高周波電気溶解炉での炉前作業でした。真っ赤に解けた鉄のインゴットを運び出すため、クレ-ンのフックでクランプするという、ものすごく熱い仕事を一週間体験しました。
 私は、不二越研究所の工具研究室の配属でした。材料研究室と軸受け研究室がありました。仕事は、工具材料の改良や、難切削材の加工などでの工具寿命を測定することでした。研削加工につかう研削材や、当時普及し始めた超硬工具材、セラミック材、放電加工、電解研削などの技術研究もやりました。
 仕事として、アメリカン・マシニスト、ウェルクスタット・テクニック、ルスキ-・エンジニアリングなどの技術雑誌を毎月、山のように押しつけられ、全部目を通して、抜粋を書き出す業務をやりました。英訳もやっとの実力なのに、ドイツ語は習っていましたが、ロシア語、フランス語の技術雑誌もありました。
 ともかくやるしかないので、辞書を片手に掲載された写真や、グラフを手がかりにして、記事や論文を暗号解読もどきに翻訳し、所長室に送りました。おかげで外国語の翻訳には自信がつきました。
 ロシアの雑誌に摩擦熔接という、鋼材を互いに高速回転で自己発熱させ熔着させる。破壊試験でも熔着部以外で破断するという研究が報告されていました。少し考えつかない方法で、早速ドリルの柄と、高速度鋼材製の歯部を別個につくり、摩擦熔着でつなぐ工法が確立され、大きなコスト・ダウンが得られました。

社会人1年生:不二越の思い出(2)
不二越は切削技術とともに、品質管理の方面でも有名です。著書を出されている方や、コンサルタントをやっている方もあり、綾部のグンゼ、日東、堀内機械などにも私の研究所時代の同僚などが講師として、来ておられると伺っています。
 私達研究所の成果は、不二越技報という会社の技術機関誌に原稿を書かされ、掲載されるのですが、精密機械学会の北陸地方での開催があり、当時はOHPもなく、模造紙に皆で資料を書いて、発表したこともありました。
 自動車などに使うボ-ル・ベアリングは、外輪、内輪、球の3者の勘合公差で、性能が決まり、JIS規格の1~3級のクラスが分かれますが、この製造工程を常時、QC手法のX-R管理図で管理するので、全国でもQCの分野で有名になったようです。
 先年私の入社時の不二越34会の同窓会があり、35年ぶりに工場見学をさせていただきました。自動車用のベアリングも進化して、もはや単体のベアリングでなく、現在は第3世代とかで、以前のように製品の汎用性はなく、車種ごとにハブ・ケ-スなどと一体化した専属製品ということで、全てが自動車メ-カ-の設計に基づき生産され、本当に下請化した感じだと、当時の同期生が生産技術部長をされ嘆いていました。
 それでも社内壁面は、TQCの張り紙で埋め尽くされた感じでした。私のいた研究所も昔の面影はなく、研究員の姿が見えず、無人で自動化された工具の寿命試験器が動いていました。
 不二越高校という会社の付属高校がありますが、先年甲子園に出場していました。そこに先輩達が教師に出ていましたが、私も大学で教職の単位を取っておけば良かったと思いました。
 仕事ばかりしていたようですが、実は大いに遊んでいました。入社一回目だけは、先輩達が歓迎会をしてくれたのですが、あとは我々同期入社の2名で万事の設営をまかされ、会費を取って、コンパ、マ-ジャン、釣り、海、山、川、スキ-、行楽・・の行事を毎週のようにやりました。会場の設営、交通の確保、料理の交渉、賞品の用意、進行まで大変でした。
 立山登山、黒部渓谷軌道行楽、岩瀬浜の海水浴、新湊のはぜ釣り、糸魚川のほたるいか狩りなどの遠征も計画しました。独身貴族といわれる時代でした。
私は大会マ-ジャンですが、職場の仲間の手の内が分かり、国士無双などの手ができて優勝したこともあります。テニスは職場内にコ-トがあり、昼休みのレクレ-ションでした。クラブをつくり、市内の大会に参加して、どんぐりト-ナメントで優勝したこともありました。私の遊びの殆どは、不二越で覚えました。
[ 09:12 ] [ 由良川 上林川 ]
あやべ市民グランド、由良川土手に咲く桜、昼休みに近くのオフイスから花見に続々、手に手に食料を持って男女が繰り出してきた。先発隊は青いビニ-ルシ-トを土手に広げている。
JR鉄橋に向かって、桜のトンネルの土手を歩く。
市民グランドとJR鉄橋
市民グランドから新綾部大橋
新綾部大橋
[ 08:21 ] [ 由良川 上林川 ]
陽気で桜が一気に開花した。風光明媚な並松の由良川河畔を散歩する人も多く、
川岸でお弁当を広げる人も見える。
近くに綾高があるので、桜と水面に囲まれて昼食のひとときを過ごす生徒。
今度文化財に登録された綾部大橋。
上流には、仲の良い伊根山と大師山が並び、その下に吊り橋のワイア-が綺麗に見えるR173心胆場大橋が架かる。
2005/04/08のBlog
[ 17:46 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
公共下水道工事が自宅周辺で継続している。事業年度が終わったが仕残し分か?
毎日の行き帰りに何処か2ケ所が、通行止めになっているので、神宮寺への上がり口3ケ所のどれかを選ぶこととなる。今通れた道でも1時間後には別の道に変わっている。例えば西神宮寺の八幡宮まで上がって引き返し、本町を走って駅前通り上り口(中神宮寺)も通り越し、東の月見町の登り口(東神宮寺)から帰宅出来たりで常時変化が激しい。


自宅のガレージ前を人の背丈より深く掘り縦管を埋めている。繋ぎのパイプは底の深さで道路の中央を掘り抜いて埋まっている。今回はガレージ前で終了なので、自分の家の水洗化は次期の延長工事までお預けである。(ガレージの中を抜いて接続するわけにも行かないので)自宅前から波多野記念碑(市道)と千手院参道に分岐する。
2005/04/07のBlog
[ 20:05 ] [ 花だより・紅葉だより ]
一気に桜が開花した。
出勤にいつも通る山沿いの道。ブランコ、滑り台があるミニ公園。小学校通学の集合場所でもある。
送電線、電柱、ゴミの集積場所でもあるので、大きな桜だけの撮影は難しい。
クロ-ズアップの桜を撮った。
[ 12:05 ] [ 由良川 上林川 ]
吊り橋状のブリッジがかかるR173の新丹波大橋の下にカヌ-の艇庫がある。
味方側で神社もあ(ましり?)と呼ばれる。綾部高校に「カニュ-部」があり活動している。
文化財に登録された綾部大橋の下を遊泳するカヌ-。
京都国体では、上流の和知で「カヌ-競技」が行われた。
「丹波ライン」の渓流なので、和知からの遊泳も出来るのかも?
この日は、赤、白、黄色の三艘が綾部大橋の下をくぐり何回も回遊していた。
いかにも楽しそうだ。
手作り筏で川を下る「由良川下り」の行事があるが、この静水面に入ると殆ど動かないので、ゴ-ルするまで一苦労する所である。
2005/04/06のBlog
[ 13:29 ] [ 由良川 上林川 ]
ふじもと様
こちらは何時ものカード型SONY・CYBER・SHOTカメラ、フリーハンド最大ズームの写真です。5Mの解像度がありますが、1M(1280x960)で撮っています。
原図トリミングのみの画像です。5Mで撮ればもっと良い画像が得られるのかも?
フクヤカメラの梅原店主は、自然はミクロの分子で出来ているので、デジタルの解像度(ドット数)のあるデジカメよりも、ミクロ粒子で再現される銀塩写真の方が勝れている。拡大に有利とのことです。
 ところが昨日のように普通の焼き付け写真でも、スキャナーでデジタル化(600ドット:3200x2400など)すると、拡大には限界があります。
写真下手なのでバカチョン(フルオート)の撮り方しか出来ず、焦点深度もなにもない写真ですが、どうしたら上手に撮れるのかご指導ください。
この写真だけ少し撮影サイズより拡大しています。残りは撮影サイズ・トリミング
昔LPレコード全盛時代に、ダイアモンドの針だとか、コンデンサーアンプとか、音キチがあれこれ云い、デジタル音が出現すると、本当の楽器の生の音は、デジタルで再現できない、アナログのレコード盤の方が勝れている。デジタル音は、音キチには欠陥品だの意見がありました。CD全盛時代の今日、この意見は全く聞かなくなりました?。
銀塩写真の場合は、デジカメと比べてどうなのでしょうか。引き延ばしプリント作成の場合は、銀塩写真が絶対有利ですが、モニターで見る場合は、デジタル化は必至の要件ですし。20inchモニター解像度以上に繊細であっても、大型モニターを別にして意味がありませんし、またインターネット画像は、軽くないと駄目なので、bmp でなくjpg 画像に軽量化処理しています。
 また焼付写真自体の場合でも、カメラ店のソフトで、一度デジタル化してからトリミング、明るさ修正などして印画していると聞きます。
 今使っているカメラについても、分からないことだらけです。
2005/04/05のBlog
[ 17:41 ] [ 由良川 上林川 ]
天気が良かったので友人をさそって、由良川に遊ぶ水鳥の写真を撮りに行った。友人は右手指先からブドウ状球菌が入ったということで、手が腫れ手術をされていた。まだ包帯がとれず右手の手指が使えない状況で不自由そうだ。
300ミリの望遠レンズカメラを持っておられ、カメラ店に寄りフイルムを買い、由良川並松井堰にまわった。やはり望遠レンズは大きく撮れる。
カヌ-もこぎ出していて、文化財となった綾部大橋の真下をくぐってUタ-ンしていく。水鳥は井堰近くで浮かんでいた。
撮影したフィルムをカメラ店に預け、30分後にとのことで、コ-ヒ-ブレイクのあと戻ると現像、ベタ焼きが上がっていた。6枚ほど指定するとすぐに焼いていただいた。画面の1/4をトリミング拡大写真。自宅でそれをスキャナ-にかけて、さらにトリミングしたのが、これらの写真である。デジカメでなくても、時間的にも早いが費用は必要。大きな望遠つきのレンズ交換・デジカメが欲しくなった。
綾部の文化財を守る会の総会(幹事会)が行われた(25名出席)春の研修旅行「吉野の国宝・文化財を訪ねて」(事務局)、いかるが民俗民具資料館への取り組み(綾部市資料館:近澤館長)など新年度の計画、新役員が決定した。HP「綾部の文化財」もますます充実させていくこととなった。終わってから女性の幹事さん方と「女人禁制」のことについて意見を聞いてみた。
本も読んでおられ、宗教者として真摯にこの問題を自分たちで解決したいとの著者の言葉に理解を示されながら、一方ふじもと様の人間としての尊厳の問題だから、スポ-ツ登山などと分けて考えるのは、やはり一種の逃げではないかのご指摘も、なるほどと頷いておられた。男性よりも女性の方にもっと厳しい意見が有ると思ったが、年輩者と若い方との違いもあるのかも。世界文化遺産のあり方と宗教的な風土との関連を、現地に行ったときに確認してみたいと思う。
2005/04/04のBlog
[ 21:19 ] [ 由良川 上林川 ]
綾部井堰の取り入れ口
綾部の市街化区域と農業調整区域の境を流れる綾部用水。
感慨用水取り入れ口から上流を見る。この3月18日に国の登録有形文化財(建造物)に指定された綾部(大)橋が見える。
2重になった堤防の間を用水が流れる。
用水路は新丹波大橋をくぐって市民グランドの方へ流れていく。
2005/04/03のBlog
午前中は好天気、桜の咲き加減をみに里町の古刹・佛南寺の取材に行った。
指定文化財の仏像二躯が祀られている。
綾部西国観音霊場第七番 聖観音
ご住職にお出会いし、HPの校正などお願いしてきた。
午後は雨になり結構よく降っている。
http://www.ayaco.net/bunka/bunkazai/annai/butunanji/butunanji.htm
2005/04/02のBlog
[ 18:58 ] [ スキ- 銀嶺会 ]
ハチ北スキ-場(兵庫県)に行った。雪の量は少なくなっていたが、すべるゲレンデコ-スには十分残っていた。アルペンコ-スのリフトは止まり、リフト上のロッジも休みだったが、中央クアッド、頂上リフトなど他は各コ-ス1本は動いていた。
同行の3人はSAJの上級指導員、綾部市スキ-協会の会長、副会長、理事長の皆様。
木下会長の滑り。
久木理事長の滑り。花粉症でマスクをしておられる。パノラマゲレンデ・リフト沿いの杉林も赤くなって「杉の実を」たわわに付けていた。子供の頃は「杉の実」鉄砲で遊んだなどとリフトでの会話。
午後から雨の予想が外れ、天候がもったが、リフトもゲレンデもガラガラ、ボ-ダ-が飛ばしていた。各人の滑りを「ビデオ撮り」されるのにつき合った。SAJの指導員の後で滑るので、格落ちの好見本となること間違いなし。
2005/04/01のBlog
[ 16:57 ] [ あやべの文化財 ]
大島町の福田神社の写真を撮りに行った。中筋小学校前に流れる用水沿いの道で。墓参途中と思われる比較的若い5人連れの家族に尋ねたが、寺は分かるが神社は知らないとのこと。少し東寄りで甲ケ岳に伸びる道があり、鳥居が見えたので行ってみると福田神社であった。
大島自治会の古名木が林立する境内で、福田神社の他に、稲荷神社、梅の森神社、岡の森神社、大将軍神社、八幡神社、大川神社、疫神社などを集めたお宮さんであった。好天気の彼岸の中日だったが、参拝者の姿は取材中、皆無だった。社寺の場所は年輩者に聞かなければ分からないのかも。
神社に貼られていた「手水の使い方」図解。近くに中筋小学校、幼稚園、保育園(現在統合)があり。文化財とのふれ合いがあるのかも。
こちらは「ご参拝の作法」図解。少し大きい子供用の解説文。
HPアップしました。
綾部の文化財 会報再録記事紹介
○福田神社発見の棟札と鬼面 福田神社(大島町)故山下潔己氏
http://www.ayaco.net/bunka/bunkazai/annai/fukuda/fukuda.htm
2005/03/31のBlog
[ 10:50 ] [ 山と峠と三角点 ]
[関連したBlog]
ふじもと様 近況報告です。
 陽春の開花で山歩きの山野草探訪に、ご多忙のことと思います。
秋田・乳頭山の43人の遭難:「ここはどこですか」一人で最初に下山した加藤節二さん(61)は30日午後2時前、入山から約29時間ぶりに山間の工事現場にたどり着き、作業中の同町の米沢馨さん(68)に話しかけた。疲れと寒さで舌が回らない。秋田県側の乳頭温泉郷に着いたと思っていた加藤さんは、米沢さんに「雫石町」だと聞かされ、しばらくぼうぜんとしていた。

40回も登り自分の庭と考えていた人でも、悪天候吹雪には勝てなかったようです。貴殿なら先ず悪天候の山歩きはしない、コース未確認で歩かないとのご指摘があると思います。
 昨日は2件会合がありました。文化財役員会:春の史蹟学習会で6/8世界文化遺産登録記念「吉野の国宝・文化財を訪ねて:金峯山寺、国宝蔵王堂、如意輪寺・後醍醐天皇陵、竹林院群芳園、吉水神社、吉野朝宮跡」です。
 貴殿の「奈良県には足を踏み入れない」のお気持ちに添えず申し訳ありません。TBの回覧本のこと、「女人禁制」のコメントにもっと反応が続くと思いましたが、私のレスが早すぎたのか申し訳ありませんでした。
 2件目の会合は福知山であり、山下信幸氏に同乗させてもらいました。4/2(土)6:20私宅、30木下会長宅、久木廉弘氏と同乗で鉢伏山スキーです。もう一度スキーを引っ張り出すこととなりました。
2005/03/30のBlog
[ 16:12 ] [ 由良川 上林川 ]
川糸樋管 樋門放水路 排水
川糸樋管 樋門放水路 排水
上記の樋門の百メ-トル程下流にあり、こちらは用水路の中に設けられている。
[ 15:37 ] [ あやべの文化財 ]
綾部の文化財を守る会の役員会が市民ホ-ルで開催。総会(幹事会)に向けて、事業、決算報告、次年度事業計画、会計予算などが審議された。
2005/03/29のBlog
[ 16:09 ] [ あやべの文化財 ]
四方續夫事務局長より廣胖堂蹟の場所を聞いていたが、分かり難いとのことで、長楽寺の取材報告で出来上がったHPコピーを西田好三先生に持参した帰りに寄ってみた。
栗町交差点の北で適当に入り、若い人に尋ねたが知らないとのこと、さらに車を南に走らし年配の方に聞くと判明した。写真の「長福寺」前の道を少し行った所にあった。物部街道からも見える所であった。本尊:十一面観音(綾部西国観音霊場札所 番外2番)
史蹟 廣胖堂蹟
石碑裏面に書かれた文章:
慶応2年(1866)8月、十代綾部藩主九鬼隆備が郷学校として、この地に廣胖堂を設立する。明治6年、廣胖尋常小学校となり、後に彛典校と統合し、明治26年、以久田尋常小学校となる。

2005/03/28のBlog
[ 13:08 ] [ 由良川 上林川 ]
[関連したBlog]
前回「近藤翁顕彰碑」について、綾部史談会の山崎 巌会長に問い合わせると記述したが、電話したがお留守であった。
丹の国綾部 第4話 九鬼氏と綾部の人々より
http://www5.nkansai.ne.jp/users/nbcayabe/kaiki/kuki.htm
に九鬼藩士で由良川改修に功績のあった近藤代官(近藤勝由)のことが書かれているので紹介する。
綾部藩と由良川
 九鬼氏の治世をしのぶとき必ず思い出されるのは、丹波にとって母なる大河由良川である。山間の地に 塞せしめられた日本水軍の総帥九鬼氏の郷愁をなぐさめた由良川は、古来郷土の文化、産業、経済、交通その他あらゆる社会事象の母胎をなして来た。明治までの日本海表日本への物質の運搬はほとんど、大島福知山由良湊を経て通船で行われた。川筋の村々には船舶があり、庄屋は船問屋役をかねて大いに繁盛した。
 ”位田、栗村、大島、高津、人の情けのない所”と、いまだに人々の口にされるのは、川筋の村々にとって度重なる洪水との戦いと、通船による商いの活発化によって、綾部人としてはどちらかといえば、きびしい合理性を身につけていたためと推察される。
丹波からの下り船は、茶、木綿、うるし実、木材、竹、桐油美、木炭、楮三つ又、こんにゃく、柿、大豆等であり、上り船は酒、油かす、干いわし、塩等であった。
由良川水路が商業交通路として重要であったことは、京都、長柄屋治兵衛が宝暦九年(1759)に由良川と保津川とを運河で結んで京阪神と北国の物産とを直結しようと計ったことでもわかる。
 由良川の水を治めて五穀豊穣を願う心は、古来から綾部領主の願う処で、並松の景勝を作る綾部井堰、義人吉次郎の物語も悲しい位田井堰は、両丹最大の灌漑施設で、その建設年代も定かでない。九鬼隆季公が寛永十年(1633)入部された時の陣屋古図にはすでに井堰用水路が描かれており、それ以前の記録はないが、井倉八幡宮の社伝には、平氏の施工と伝えられており、福原新都の大工事をなしとげた平氏の実力からして、正歴寺熊野新宮社ゆかりの重盛公がなされたとしても、少しも不思議ではない。
領民の幸せを願う九鬼氏の心は、この井堰の改修にはたえず力をそそぎ、井堰中興の祖と仰がれる近藤代官(勝由)の名と共に綾部人にとって忘れてはならないものである。
 ”綾部川の水のひびきの中にきく
 人の心の高きしらべを” 吉井 勇
 古代より悠々と流れ、大地を潤し、時には氾濫して人々を恐れせしめ、また舟を通わせて他国の物産と情報を伝え、丹波ラインに並松に私達の心を和ませてくれる由良川は、綾部のことを次の様に語ってくれる。
 「出雲文化の土壌の上に大陸の文明が融和して高度な民力を養い、強力に流れ入る平安文化は更に伝統に磨きをかけ、足利尊氏を生んだ誇り高き里は、平和な二百三十年の九鬼氏の治世を経て、初めて郡是と大本による綾部ナショナリズムの第一の開花を見るのである」と。