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なべちゃんの散歩道
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ジャンル:あやべの文化財
Blog数:535件
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2008/05/11のBlog
君尾山のトチノキ
京都府指定文化財 【天然記念物】(睦寄町)
君王山光明寺より約2キロ分け入ると、幹の周囲約10.4メートル、樹高約23メートルの栃の木の大木がある.樹齢2000年と推定されているから弥生時代中期に発芽している。私市円山古墳の主や、源平の戦太平記の世界などつぶさに知っている大木である。主幹は空洞となっているが葉量はなお豊かである。(故山下潔己氏文)
こどもの日、男の孫4人連れて上林川の河原でバ-ベキュ。食後の運動に「君王山のオオトチ」見学。君王山林道大栃口に駐車。若干の歩きではある。
写真をクリック拡大してご覧ください
右下に小さく子供が立っている。
巨樹の空洞の前でポ-ズ 「シェ-!」
オオトチの幹の空洞に入って
2000年の歳月を感じさせる「生きている樹皮」に触れる
2008/05/10のBlog
平成17年4月「綾部の文化財を守る会」の中で宮本太資副会長、森田弘理事を中心に「丹波古美術研究会」が発足した。そして、平成19年度、京都府1/3,京都市町村振興協会から1/3の補助金をもらい「あやべ蒐集財振興会“彩工房”燦々堂」(代表宮本太資会長)が、平成20年1月19日(土)綾部市長代理・松本哲朗副市長、京都府中丹広域振興局長代理・永井秀明農林商工部長、綾部商工会議所・由良龍文会長、綾部市議会議長・川北敦氏、綾部市文化協会々長・田所卓氏、綾部の文化財を守る会々長・村上高一氏等、25名のご来賓を迎えてテープカット・オープンし、初釜と点心の接待が行なわれた。特に初釜は25名ずつ、5回に渡り計125名をも接待があった。

宮本会長の話では「この度、文化と癒し館“燦々堂(さんさんどう)は、築約80年の金物店(宮本三光堂)の建物を改装し、和室とギャラリーを兼ね備えたスペースとしてオープンしました。丹波地方の文化的なものを残すことと理解を深めることに加えて、お茶や囲碁会、音楽界などの高齢者交流の場として、叉、歴史文化財の展示による憩い場、生涯学習の場として、皆様のご支援で多目的にご利用頂ければと思っておりますので、宜しくお願いします。」とのが挨拶もありました。
春先まででの展示物は「元禄時代の屏風・洛中洛外図」と丹波焼きの壷を中心に150点以上が展示されます。
 入場料は無料、但しギャラリーの展示利用は、1日2千円のみ、和室(茶室):1時間1千円のみです。駐車場は隣の駐車場とアイタウンの駐車場が利用できます。
 基本営業時間は朝9時~午後6時まで (相談により夜10時まで利用できます。) (火曜日は休み)
電話:0773―42―0330 住所:綾部市本町4丁目23 (市外の方のご利用も歓迎します。)
叉、正会員年会費5千円、賛助会員年3千円 (特典:コーヒー券10枚付)を募集しております。
2008/05/09のBlog
綾部市の郷土史講座では、平成19年秋の現地研修会が、地元の綾部、舞鶴で仏像の拝観を中心に、11月17日に開催されました。見学した寺院は、綾部で医王寺、安国寺、仏南寺、舞鶴で円隆寺でした。今回見学した四寺の中で医王寺のことについて書かせていただきます。その理由は誠に恥づかしいことですが、私の不勉強で医王寺のことについては未知で、全く初めての見学であり、仏像阿弥陀如来が端正で美しい姿であるのに感激し、また寺の護持法が特異であることが分かったからです。医王寺は国道27号線で、八田中学校前の点滅信号の南、約百メートルの地点から東北東へ約1キロメートル程行った山中(市内梅迫内谷)にあります。同寺について、綾部市観光協会、綾部の文化財を守る会、内谷自治会の三者で作成した駒札に記されている内容では、本寺は寛正年間(1460~65)」安国寺九世妙澤和尚の創建と伝えられているが、現在は一堂宇を残すのみである。元寺名の如く薬師如来が本尊であったが盗難のため、他から移された阿弥陀如来像が今本尊となっている。この木造阿弥陀如来像は国の重要文化財で像高70.9センチメートルで胎内には元享三年(1323)3月日法印尭円の銘を有し、京三条大仏師尭円の作である。鎌倉後期の華麗な盛上彩色の文様をあらわし、寄木造りで宋風の力強い作品である。
 当日参加され、指導していただいた史談会の川端二三三郎先生の説明を少し付け加えますと、本尊の移動には当時の足利氏の力が動いているのではないか、本尊は玉眼入りで写実性の強い像であるとのことです。また当日の見学のお世話になった内谷自治会長辻井義明様の話では、この堂宇の周辺が医王寺の境内であり、同寺は現在まで長い間自治会の人たちによって年四回、春秋の彼岸、お釈迦様の誕生日、お盆の日にそれぞれの行事が行なわれ崇敬護持されているとのことです。本尊の拝観はお盆を除いて三回できるとのことです。この仏像については当会のインターネットホームページ「綾部の文化財」に掲載されています。 綾部の文化財を守る会会長 村上高一氏
写真:木造阿弥陀如来座像
2008/05/08のBlog
金谷峠(推定標高200m)分岐路の標石(右:おくやま 左:山の口)
1 室尾谷の歴史・言い伝え
 江戸時代の藩制が敷かれた時代の室尾谷南山地区(旧加佐郡河東村)は田辺藩(舞鶴城主)で、巡検師の一行は福知山藩から田辺藩に入る時は鬼ケ城峠を通り(鬼ケ城峠は江戸時代福知山藩から田辺藩へ通じる主要道であった)観音寺で休憩されたと思われる。
 観音寺から金谷峠を通り、小畑~鍛治量~新庄~須波岐~白道路~上八田~七百石~上杉~於与岐まで一直線上(金谷峠入口から弥仙山が真直ぐに見える)で、弥仙山から丹後峠を越せば最短距離で田辺城(舞鶴城)へ入城出来たと思われる。
 巡検師が陸路の場合は、大きな川もなく、峠も少ない道で入城されたと思われる。
 室尾谷観音寺は行基菩薩が奈良時代、元明天皇の和銅7年(西暦714年)に開山されたと伝えられています。歴代の田辺藩主は毎年必ず1回参拝されたと記帳されています。
 歴史街道の境界は福知山藩、田辺藩、綾部藩が交わる唯一の地域で、山野口は鉱山の関係で、天領(幕府の直轄地域)であった様です。今思う時、約3kmの範囲内にこの様な重要な地帯があったのかとロマンを感じます。
2 丹波・丹後歴史街道
(1)金谷峠 金谷峠道は江戸時代から多くの人々の往来があり、峠道を越え下った終点に室尾谷観音寺があり、四国八十八ヵ所の霊場(大師)が祀られ、参拝者が多く大師道とも呼びました。又、由良川を利用して船で由良から有路まで魚、塩、海産物等を運び、有路から陸路で金谷峠越えで運び込まれた。丹波・丹後の境界には金谷、山野口、室尾谷の三ケ所に、鉱山が有り、茶店・女郎屋が有り、その名残で通称名で女郎が谷の地名が残っています。
 峠道は尾根より右に奥山・奈良原、左に山野口、真直ぐに室尾谷の四集落に出る事が出来ました。小学校の遠足時はお寺参りや鬼ケ域登りは山野口経由で、また由良川遊びは奥山越しと別れて行きました。
 明治41年の大水害で草折峠の山崩れで、金谷から室尾谷までの一部区間の山道が無くなっていました。丹波・丹後の境界線にある歴史街道を約100年振りに2007年(平成19年)12月に地域住民の25名の作業で無事開通する事が出来ました。この歴史街道は、両入口付近は登坂道で、大半は尾根伝いの起伏が少ない約3kmの道中で新緑、紅葉の時期には、森林浴を楽しむ絶好の散歩道です。是非散歩して下さい。
(2)薬師如来堂(最終民家の右隣) 立派な薬師如来像が祀られ、金谷の薬師さんと呼ぱれ、鼻、耳、母乳の仏様として、穴の通った小石をお供えすると願いが通じると言われ、親しまれ、多くの人達のお参りが有りました。横にはお地蔵(石像)も祀られています。是非お参り下さい。
(3)不動明王(最終民家の右上の谷)不動明王が大きな岩の上に2対祀られ、奈良県の大嶺山に参拝する前に身を清め、道中の安泰を祈願された。又願い事をすれば必ず通じると多くの人達が参拝されました。
(4)宗谷峠 この峠は河守に出る一番の近道ですが、現在は雑草本の繁茂で通行不能です。
(5)河守地区(現在の大江町)は、真中を由良川が流れ大雨の度に水害に遭い、水稲が壊滅状態となった事で、小畑地区は肥沃な土地柄で見た目より多くの米が収穫され、余剰米を夜、人目を忍んで牛の背中に俵を乗せて売りに行ったと古老の方に間きました。
 [丹波良い所、米所、嫁にやりたや、婿ほしや]のことわざがあります。
2008/04/30のBlog
[ 22:05 ] [ あやべの文化財 ]
綾部の文化財を守る会の会報を届けて、さらに市街地の会員宅を20件ほど回った。連休前の月末のことで大方の会員が在宅の幸運に恵まれ、一千円の年会費集金も順調に終えることが出来た。終了後、明日からガソリン税分以上の値上げ必死の給油所に行き、満タンにしてきた。途中の給油所では給油待ちの車が行列をつくっていた。行楽連休前~最中の時期に、このようなガソリンの大幅値上げは困ったものだ。
長い石段を上がった楼門(山門)横に見事な白藤の藤棚がある。
[ 21:53 ] [ あやべの文化財 ]
綾部の文化財を守る会の会報を届けに郊外の各所を周り、市街地に戻ってきた。正暦寺に会報を届けると、見事な白藤が満開であった。
白藤の藤棚をメインに正暦寺本堂を撮った
[ 21:47 ] [ あやべの文化財 ]
[ 21:29 ] [ あやべの文化財 ]
綾部の文化財を守る会の常任理事会が開かれた。湖南三山の研修旅行の参加者募集など話し合った後、春の会報配布と年会費1千円の集金の依頼があった。
 例により手分けして会報の配布に出かける。明日からガソリンが値上げになるので、いつもと異なり遠方から配布した。終了後ガソリンを満タンにしておこうという魂胆である。於与岐町の会員宅に届けると、田植えの準備作業が進められていた。
弥仙山を水面に映して田に水が張られ、苗が運び込まれていた。
2008/04/03のBlog
新年度を迎えて綾部の文化財を守る会の幹事会(総会)が開催された。
来賓に迎えた田所綾部市文化協会会長、荒堀蚕糸同友会会長から挨拶をいただいた。前年度の事業報告、決算報告のあと、今年度の計画として春の研修旅行は湖南三山(善水寺、常楽寺、長寿寺)の参観、秋の研修旅行は京都妙心寺本堂、退蔵院、桂春院、鹿王院の参観に決定、いずれもバス2台:80名を募集。民俗民具資料館の促進、ホ-ムペ-ジ:綾部の文化財ブログ:綾部の文化財日誌の充実、会員増強、新年度役員などが決定した。
挨拶される村上高一会長
会員総数416名、幹事総数39名、出席者36名(内委任状14名)
熱心な意見交換が行われた。
2008/02/25のBlog
合気道開祖「植芝盛平翁ゆかりの4市町による友好都市提携調印式」とゆかりの地」 HP:綾部の文化財TOPペ-ジ
合気道創始者「植芝盛平翁ゆかりの4市町による友好都市提携調印式」が2月23日(土)生誕の地和歌山県田辺市にて三代道主・植芝守央(うえしばもりてる)氏の立合の元で調印された。植芝盛平(うえしばもりへい)翁は明治16年(1883)に田辺市の富裕な農家に生まれ、幼少の時から武道にに励み、起倒流柔術(きとうりゅうじゅうじゅつ)・後藤派柳生心眼流柔術(やぎょうしんがんりゅうじゅうじゅつ)を修めた後、明治45年には開拓農民として、現在の北海道遠軽町へ移住した。叉、大東流合氣柔術総本部長・武田惣角を招き入門、1922年教授代理を許された。一方、大正8年父危篤の報を受けて帰郷の途中、現在の綾部市で大本教の出口王仁三郎聖師と出会い自ら生きる道を見出したといわれる。大正9年一家で綾部に移住し、植芝塾を開いた。大正11年、自らの武術を「合気道」と名付け国内外への普及をはじめた。エピソードとしては、大正13年世界統一宗教を確立するための聖地を探そうとする出口王仁三郎聖師に従い、蒙古(モンゴル)へ旅立ました。候補地の要衝パインタラを目前ににして、当時の中国中央政府に企てを知られ追われる身となった。このとき植芝翁は相手が撃ってくる弾丸を「ヒラリヒラリ」とかわしたといわれています。命からがら日本へ逃げ帰った植芝翁はこの時の経験を基に「相手の氣を心眼でかわし、戦わずしてかつ合気道の原点を体得したといわれています。叉、その後、大本弾圧により、叉、王仁三郎聖師の勧めで中央でこの「合気道」を普及すべく東京に出て1940年財団法人皇武館(後の財団法人合気会)を設立。晩年には現在の茨城県笠間市に合気神社を建立した。植芝翁設立の財団法人合気会は二代道主・植芝吉祥丸師を経て、現在は三代道主・植芝守央師です。綾部は「合気道の発祥地」とされ、今世界85ヶ国、150万以上の修行者がおられるとの事です。
取材・文:綾部の文化財を守る会事務局長:四方續夫氏
写真:植芝盛平翁ゆかりの4市町による友好都市提携調印式後、握手される4市町の市長・町長、中央が立会人の三代道主・植芝守央師。(写真提供:綾部市)
財団法人・合気会のホームページは、ここをクリックください

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