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2007/12/31のBlog
[ 20:48 ] [ あやべの文化財 ]
年末来、一年間の総まとめとして、開設以来の「HP:綾部の文化財」と三年間の「綾部の文化財日誌」の目次づくりに取りかかった。
その一つとして「綾部の祭り・行事の文化財歳時記」と「かな順文化財総目録」の作成に取り組んだ。この両者ともまだ完成にほど遠いが、新年を迎えての巻頭写真(全画像にリンクつき)として途中成果を利用した。
その一つとして「綾部の祭り・行事の文化財歳時記」と「かな順文化財総目録」の作成に取り組んだ。この両者ともまだ完成にほど遠いが、新年を迎えての巻頭写真(全画像にリンクつき)として途中成果を利用した。
2007/12/27のBlog
[ 09:58 ] [ あやべの文化財 ]
[関連したBlog]
皆様にご愛読いただいているこの「綾部の文化財日誌」ですが、この年末についに制限容量満杯になってしまいました。 総投稿数:274 総画像数:1586枚 残り容量:3.78MB 容量使用率:96.22%
この度、容量無制限の「プレミアム版」にグレ-ドアップ致しました。年会費1千円の「綾部の文化財を守る会」としては、6千円/2ケ年の有料化は延べ6人分の会費に相当します。 一方プレミアム版となり、一切の有害広告等が削除できろようになりました。地元の小中学校の教室現場で歴史・社会・文化教育の推薦サイトと評価をいただいており、子供たちに安心して学んでいただける教材としての責任を果たせると思います。
・「HP:綾部の文化財」のURLが、これまで3回にわたり変わりましたので、切れていた参照リンクを修正し復活させました。
・事故のため無くなっていたブログを1件、復活させました。
・いくつかの写真が同じく事故のため消えていますが、極力復活の努力を行っています。1586枚から探し出し、なおリストにない場合は撮影当時の写真から復元するので容易ではありません。 いずれの写真も四方事務局長が社寺に出向き、撮影、掲載の許可を得て撮影した秘仏や貴重な襖絵などの文化財、また各地に出かけ撮影した写真で、一点でも多く復活させたいと努力しています。
プレミアム版という新しい環境で、さらに充実した文化財紹介を続けていく事を念願し、皆様からのお引き立てをお願い申し上げます。
皆様にご愛読いただいているこの「綾部の文化財日誌」ですが、この年末についに制限容量満杯になってしまいました。 総投稿数:274 総画像数:1586枚 残り容量:3.78MB 容量使用率:96.22%
この度、容量無制限の「プレミアム版」にグレ-ドアップ致しました。年会費1千円の「綾部の文化財を守る会」としては、6千円/2ケ年の有料化は延べ6人分の会費に相当します。 一方プレミアム版となり、一切の有害広告等が削除できろようになりました。地元の小中学校の教室現場で歴史・社会・文化教育の推薦サイトと評価をいただいており、子供たちに安心して学んでいただける教材としての責任を果たせると思います。
・「HP:綾部の文化財」のURLが、これまで3回にわたり変わりましたので、切れていた参照リンクを修正し復活させました。
・事故のため無くなっていたブログを1件、復活させました。
・いくつかの写真が同じく事故のため消えていますが、極力復活の努力を行っています。1586枚から探し出し、なおリストにない場合は撮影当時の写真から復元するので容易ではありません。 いずれの写真も四方事務局長が社寺に出向き、撮影、掲載の許可を得て撮影した秘仏や貴重な襖絵などの文化財、また各地に出かけ撮影した写真で、一点でも多く復活させたいと努力しています。
プレミアム版という新しい環境で、さらに充実した文化財紹介を続けていく事を念願し、皆様からのお引き立てをお願い申し上げます。
2007/10/02のBlog
[ 11:55 ] [ あやべの文化財 ]
記事紹介をHP:綾部の文化財に転載しました。
★第13回 秋の文化財・史跡学習会 参加者募集のお知らせ
世界文化遺産:醍醐寺と国宝を訪ねて(醍醐寺・醍醐三宝院・霊宝館秋期特別展・御香宮神社・伏見稲荷大社)綾部市文化協会後援 11月20日(木)バス2台:90名
綾部の文化財を守る会の会員以外の研修旅行参加者も歓迎します。参加希望者または会報購読(年2回発行)希望者は、年会費1,000円を添えて下記にお申し込みください。
申込先 〒番号:623-0004 綾部市多田町後路28 四方續夫 宛
★会報としては久しぶりの論考です。「 西福院内に眠る 山鹿素水=憂国の兵学者=」綾部市談会会員:塩尻千賀良氏ご執筆の力強い論考です。/b>
★綾部の文化財シリ-ズ第9回 阿日山 佛南寺(臨済宗妙心寺派)ご住職:渡邊秀山氏のご執筆
★播磨の国の国宝と文化財を訪ねて感想記 渡辺敬治氏
★浄土寺を訪ねて 森本一郎氏
★第13回 秋の文化財・史跡学習会 参加者募集のお知らせ
世界文化遺産:醍醐寺と国宝を訪ねて(醍醐寺・醍醐三宝院・霊宝館秋期特別展・御香宮神社・伏見稲荷大社)綾部市文化協会後援 11月20日(木)バス2台:90名
綾部の文化財を守る会の会員以外の研修旅行参加者も歓迎します。参加希望者または会報購読(年2回発行)希望者は、年会費1,000円を添えて下記にお申し込みください。
申込先 〒番号:623-0004 綾部市多田町後路28 四方續夫 宛
★会報としては久しぶりの論考です。「 西福院内に眠る 山鹿素水=憂国の兵学者=」綾部市談会会員:塩尻千賀良氏ご執筆の力強い論考です。/b>
★綾部の文化財シリ-ズ第9回 阿日山 佛南寺(臨済宗妙心寺派)ご住職:渡邊秀山氏のご執筆
★播磨の国の国宝と文化財を訪ねて感想記 渡辺敬治氏
★浄土寺を訪ねて 森本一郎氏
2007/09/29のBlog
[ 19:32 ] [ あやべの文化財 ]
執筆:綾部史談会々員 塩尻千賀良氏
山鹿疎水の眠る西福院は、詳しくは臨済宗妙心寺派徳応山西福禅院である。 綾部陣屋のあった台地上の西側にあり、藤山々麓に位置する。元々は、現在地よりも更に西方の藤兵衛谷の裾野(南ヶ丘鶴吉翁碑の辺りの裏山)にあったが、現市庁舎辺りに移り、三度目が今の地である。創建は、今を遡ること四百年前の慶長八年(1603)である。この寺院境内の本堂裏に「山鹿素水」の墓がある。
素水は天保十四年(1843)~安政四年(1857)の15年間綾部藩に招かれ、兵学を講じている。そしてこの綾部を終焉の地とし、歴代藩主の菩提寺である隆興寺の隣寺であり、法類でもある西福禅院に葬られている。
(一)素水とその兵学思想
素水は山鹿流軍学の祖である山鹿素行(元和八年・1622)が活躍した時代より下ること二百余年、幕末の兵学者である。武田信玄・勝頼を源流とする甲州流兵学が、幕府の正式の兵学として採用されて以来の宗家に生まれた。「余不肖を兵家にうまれ禀、家傅を講究する数十年、既に(五十歳の称)知命に至といえども雖、短材愚昧、更に得所なく固陋偏狭にして、徒らに父書を読むのみ。・・・・弱冠より発憤する所有て操練の事に心思をつく盡し、家傳を祖述し諸家を参考し、・・・・」(練兵説略抄録)と
家傅兵学を世に問い続け、堕落し続ける武士層に対する武士道の精神再興とその高揚を典籍をもって訴えた。又、別の箇所では「治に乱を忘れざるは、人君最も心を可盡の要たり。承平既に久しく、干才府庫に納り、将士目にせいき旌旗を見ず、耳にきん金こ鼓を聞ず、暖衣飽食、般楽怠傲に武備解弛、士気衰弱するは自然の勢ひ也」
平和な時代に戦乱の世を忘れてはならない。君主はとりわけ、この事に心を砕く必要がある。曽て武具は倉庫で埃を被り、実戦で使う幟も鉦も太鼓も見聞せず贅沢三昧暮らしからは、体力も気力も精神力も失い、遂には、戦意喪失にも等しい状態が、今日の武士層の実態であると泰平の世を慨嘆し、警鐘乱打している。
更に論を進め「戦国に操練なく、治世に必ず操練を要す。戦国に操練なきは、士卒常に水火の中に入、自刃をふみ蹈、矢玉を冒し萬死に入て、一生を得れば将の指揮に従ふと、左右の手の如くなれば、実地に練熟すれば也。」命を水火に曝す緊張感そのものが操練である。この極限の世界では、戦術を指揮する大将の一挙手一投足を見逃さずにその手足となって働く。まさに命を預けた将への信そのものが一糸乱れぬ統制のとれた組織戦を生む。
併し今は平時の世である。故に「是治世必ず操練を要する所以也」「太平三百年に近く、軍陣戦闘の事は夢に見ることだになく、其備処も知らぬ烏合同様の兵を卒し、大節の場に出て何をかなさん喧嘩迷乱の外なし」としている。これでは、正に兵士は、戦場を右往左往するのみである。
素水がこの幕末のこの時期に最も恐れていたのは、世界列強の鎖国日本への門戸開放の波である。即ち「然るに近年操練盛んに行れ、列国急務として専らきょう教えつ閲あり。」操練盛なれば「萬一、蠻夷の来寇あるも、何ぞおそれ懼るに足ん。」とその気運の高まりを喜んでいる。
更に「専用火砲之説」(練兵実備)の項で大小砲を駆使することにより、器量の有無、技倆の高低、力量の大小に拘わらず、敵陣へのダメージが甚大になる。
大きな損害を新鋭砲で与え、次に接近戦になった時こそ、弓矢・槍・長柄等の武器が戦法として有効で大きな効果を発揮する。このことを「鉄砲ハ火薬ノ力ヲ以テ猛烈ノ利ヲナス物ナレバ必シモ是ヲ発スル者ノ強弱ト術ノ巧拙ニ由ラズ」又「弓ハ練習ノ功ヲ積ザレハ中々貫透ニ至ラズ、然レドモ敵間既ニ詰リテハ玉込ナシガタクガ故ニ烈シク打立ガタク弓ニ手早ニ数矢ヲ発スルコトヲ得」とする。更に「七八間ヨリ詰マル時ハ足軽ノ弓ニテモ敵ヲたお斃スニ足ル」とそれぞれの長所特徴を活かす戦法を説く。
この様に、素水の兵学には、天下国家の立場からの広い視野と、又実践的戦場のない平時に、如何に操練を通して、即戦的力量と精神力を定着させるかを一体的に把える必要を、あらゆる機会を通して説いている。この持説の裏には、「書を述るの後、あまね普く天下を廻歴し、度々実際に試るに、・・・是より又朝思暮練すること数年、いささ聊か自得する所有て、小備指掌・教戦練兵の大要・・・同志示す。」と言っている。
(ニ)吉田松陰の師素水
素水も松蔭も共に、山鹿兵学の宗家の継承者であったから、出会うべきして出会ったと言える。松蔭が、師素水に出会った、嘉永四年(1851)兵学研究のため、藩主に従って東行、江戸で学んだ時である。松蔭が師より学んだ期間は僅かであったが、同じ頃、佐久間象山からは洋式砲術を学んだ。江戸での素水と松蔭の師弟関係を知る資料は今の処見当たらない。唯、素水の著書「練兵実備」の跋文を松蔭が添えているのが、唯一その関係を伺わせるものである。
松蔭が、長州藩や倒幕に及ぼした強烈な影響力、その原点にある松下村塾・塾生に説いた内容、これは松蔭の人格そのものであり、そのバックグラウンドに素水から学んだ兵学思想が位置付けられる。
綾部九鬼藩九代藩主:隆都は藩財政の逼迫の中で幕府要職を退くが、素水のその後の処遇にも関連していたかは詳ではないが、素水の身辺に何らかの異変があったことを示唆する件が見られる。
平和家文書(562・京都府立総合資料館所蔵)にある素水関連事項を以下抜萃する。
①「元来山鹿翁ヲも召抱候儀・・・当時武門第一之職柄之以被召置候
②右之通、山鹿素水儀ハ不届者二而既ニ
、御家二も拘り候仁故是迄軍法御指南申上其功莫大ニハ候へ共御上二者難替
③公辺御大事吾郷之安危存亡ニ相拘候間
④御家之安危存亡之堺目此斯を以万端御復政被遊御家中御領内一統安心仕候
⑤如何様御咎被御付候共御家御安之程を
奉願如何計難有仕合奉存候
⑥万一当願一件御藩中之向より御領内之乱を引出し内外一致之大乱を出し候様之義有之候而ハ御家甚以御大切之事与奉存候
兵学の師範として藩に仕官した素水の命運を左右する何かが起こったことは間違いない。
山鹿疎水の眠る西福院は、詳しくは臨済宗妙心寺派徳応山西福禅院である。 綾部陣屋のあった台地上の西側にあり、藤山々麓に位置する。元々は、現在地よりも更に西方の藤兵衛谷の裾野(南ヶ丘鶴吉翁碑の辺りの裏山)にあったが、現市庁舎辺りに移り、三度目が今の地である。創建は、今を遡ること四百年前の慶長八年(1603)である。この寺院境内の本堂裏に「山鹿素水」の墓がある。
素水は天保十四年(1843)~安政四年(1857)の15年間綾部藩に招かれ、兵学を講じている。そしてこの綾部を終焉の地とし、歴代藩主の菩提寺である隆興寺の隣寺であり、法類でもある西福禅院に葬られている。
(一)素水とその兵学思想
素水は山鹿流軍学の祖である山鹿素行(元和八年・1622)が活躍した時代より下ること二百余年、幕末の兵学者である。武田信玄・勝頼を源流とする甲州流兵学が、幕府の正式の兵学として採用されて以来の宗家に生まれた。「余不肖を兵家にうまれ禀、家傅を講究する数十年、既に(五十歳の称)知命に至といえども雖、短材愚昧、更に得所なく固陋偏狭にして、徒らに父書を読むのみ。・・・・弱冠より発憤する所有て操練の事に心思をつく盡し、家傳を祖述し諸家を参考し、・・・・」(練兵説略抄録)と
家傅兵学を世に問い続け、堕落し続ける武士層に対する武士道の精神再興とその高揚を典籍をもって訴えた。又、別の箇所では「治に乱を忘れざるは、人君最も心を可盡の要たり。承平既に久しく、干才府庫に納り、将士目にせいき旌旗を見ず、耳にきん金こ鼓を聞ず、暖衣飽食、般楽怠傲に武備解弛、士気衰弱するは自然の勢ひ也」
平和な時代に戦乱の世を忘れてはならない。君主はとりわけ、この事に心を砕く必要がある。曽て武具は倉庫で埃を被り、実戦で使う幟も鉦も太鼓も見聞せず贅沢三昧暮らしからは、体力も気力も精神力も失い、遂には、戦意喪失にも等しい状態が、今日の武士層の実態であると泰平の世を慨嘆し、警鐘乱打している。
更に論を進め「戦国に操練なく、治世に必ず操練を要す。戦国に操練なきは、士卒常に水火の中に入、自刃をふみ蹈、矢玉を冒し萬死に入て、一生を得れば将の指揮に従ふと、左右の手の如くなれば、実地に練熟すれば也。」命を水火に曝す緊張感そのものが操練である。この極限の世界では、戦術を指揮する大将の一挙手一投足を見逃さずにその手足となって働く。まさに命を預けた将への信そのものが一糸乱れぬ統制のとれた組織戦を生む。
併し今は平時の世である。故に「是治世必ず操練を要する所以也」「太平三百年に近く、軍陣戦闘の事は夢に見ることだになく、其備処も知らぬ烏合同様の兵を卒し、大節の場に出て何をかなさん喧嘩迷乱の外なし」としている。これでは、正に兵士は、戦場を右往左往するのみである。
素水がこの幕末のこの時期に最も恐れていたのは、世界列強の鎖国日本への門戸開放の波である。即ち「然るに近年操練盛んに行れ、列国急務として専らきょう教えつ閲あり。」操練盛なれば「萬一、蠻夷の来寇あるも、何ぞおそれ懼るに足ん。」とその気運の高まりを喜んでいる。
更に「専用火砲之説」(練兵実備)の項で大小砲を駆使することにより、器量の有無、技倆の高低、力量の大小に拘わらず、敵陣へのダメージが甚大になる。
大きな損害を新鋭砲で与え、次に接近戦になった時こそ、弓矢・槍・長柄等の武器が戦法として有効で大きな効果を発揮する。このことを「鉄砲ハ火薬ノ力ヲ以テ猛烈ノ利ヲナス物ナレバ必シモ是ヲ発スル者ノ強弱ト術ノ巧拙ニ由ラズ」又「弓ハ練習ノ功ヲ積ザレハ中々貫透ニ至ラズ、然レドモ敵間既ニ詰リテハ玉込ナシガタクガ故ニ烈シク打立ガタク弓ニ手早ニ数矢ヲ発スルコトヲ得」とする。更に「七八間ヨリ詰マル時ハ足軽ノ弓ニテモ敵ヲたお斃スニ足ル」とそれぞれの長所特徴を活かす戦法を説く。
この様に、素水の兵学には、天下国家の立場からの広い視野と、又実践的戦場のない平時に、如何に操練を通して、即戦的力量と精神力を定着させるかを一体的に把える必要を、あらゆる機会を通して説いている。この持説の裏には、「書を述るの後、あまね普く天下を廻歴し、度々実際に試るに、・・・是より又朝思暮練すること数年、いささ聊か自得する所有て、小備指掌・教戦練兵の大要・・・同志示す。」と言っている。
(ニ)吉田松陰の師素水
素水も松蔭も共に、山鹿兵学の宗家の継承者であったから、出会うべきして出会ったと言える。松蔭が、師素水に出会った、嘉永四年(1851)兵学研究のため、藩主に従って東行、江戸で学んだ時である。松蔭が師より学んだ期間は僅かであったが、同じ頃、佐久間象山からは洋式砲術を学んだ。江戸での素水と松蔭の師弟関係を知る資料は今の処見当たらない。唯、素水の著書「練兵実備」の跋文を松蔭が添えているのが、唯一その関係を伺わせるものである。
松蔭が、長州藩や倒幕に及ぼした強烈な影響力、その原点にある松下村塾・塾生に説いた内容、これは松蔭の人格そのものであり、そのバックグラウンドに素水から学んだ兵学思想が位置付けられる。
綾部九鬼藩九代藩主:隆都は藩財政の逼迫の中で幕府要職を退くが、素水のその後の処遇にも関連していたかは詳ではないが、素水の身辺に何らかの異変があったことを示唆する件が見られる。
平和家文書(562・京都府立総合資料館所蔵)にある素水関連事項を以下抜萃する。
①「元来山鹿翁ヲも召抱候儀・・・当時武門第一之職柄之以被召置候
②右之通、山鹿素水儀ハ不届者二而既ニ
、御家二も拘り候仁故是迄軍法御指南申上其功莫大ニハ候へ共御上二者難替
③公辺御大事吾郷之安危存亡ニ相拘候間
④御家之安危存亡之堺目此斯を以万端御復政被遊御家中御領内一統安心仕候
⑤如何様御咎被御付候共御家御安之程を
奉願如何計難有仕合奉存候
⑥万一当願一件御藩中之向より御領内之乱を引出し内外一致之大乱を出し候様之義有之候而ハ御家甚以御大切之事与奉存候
兵学の師範として藩に仕官した素水の命運を左右する何かが起こったことは間違いない。
(三)綾部に残る「素水自作」の掛軸
掛軸一幅が残っているのは、芦田新左衛門家(現、広小路のゆらり)である。
芦田家は「武田信玄公之家臣浪人して当所に」(系図覚書)とあり、甲州出身で丹波国に移住した。後、町年寄として活躍、五代・六代には家運隆昌し、豪商(醤油・酢製造販売)として財を為した。
十代現当主の話では、幕末には、三十間X三十間、約九百坪の敷地であったと、幼少の頃祖父から聞いたと話していただいた。六代秀堅は、山鹿流兵学の源流が甲州軍学にあり、甲州に特別の郷愁を持っていた。偶々、九鬼藩に仕官していた素水に「芦田家の今昔」を掛軸に託して依頼したものと思われる。病床に苦しんでいた素水は、秀堅の達ての頼みを断り切れず、製作に取掛かった。掛軸の讃には、「積善の家ニハ必ず余慶がある・・・其身のなすへき業のみ唯一筋に勤めはけまん・・・綾部の里なる芦田鎮作秀堅は・・・父のころ比よりなりはひも衰えしに・・・いつしか其産業も盛んに再び家を興しぬ・・・左巴の紋付たる麻の御上下を下し賜しハ永く其家の面目成へし・・・秀堅功成て・・・其子秀茂に家を譲り、其身は風月にうそぶ嘯き甲斐の国なる身延の御山に詣・・・大江戸の栄えヲ見んとし御前に召し出され御盃を下し賜りぬ。秀堅故郷にかさる錦にまさる家土産となし永く家の宝に秘置かぬ・・・秀茂其姿を紙に写し子孫のすえまでも伝えんとする・・・後略」(村岡敬公先生釈文)。
掛軸上部に讃辞を、下部には、秀堅を中心に、先妻貞女、後妻八重女の肖像画を配して描かれている。
(四)晩年の素水
幕藩体制の弛みと、内部矛盾を内包しながら、ひたすら、そのレジームを堅持しようとした幕府。幕府は、開明的思想やその文明が、鎖国政策を続行する我国の封建社会に上陸することを、極端に警戒した。この動きの浸潤を阻止すべく、幕府は、洋学蘭学研究や科学的合理性の思想的系譜を一にする思想家・研究者グループを、蛮社の獄を初めとして厳罰に処分した。偶々、反幕勢力の急先鋒となって活躍していた松蔭と師弟関係にあったというその一点が、晩年の素水のその後に影響したとでもいうのだろうか。
晩年の兵学者素水は、蟄居幽閉に近い暮らしを強いられ、その上最愛の妻にも先立たれ、妻の死後、失意の中にあって二ヵ月余りで、素水も、又静かに綾部の地で息を引きとった。
兵学という保守的思想に拠って立つ素水でさえ、動乱の幕末の荒波に飲み込まれていった一人なのかもしれない。
*参考図書及び聞取り・資料・写真提供
練兵説略抄録・練兵実備 山鹿素水著、増訂丹波史年表 松井拳堂著、綾部町史 村上祐二著、
吉田松陰 日本の名著(31)山鹿素行 日本の名著(12)中央公論社、聞取り・写真提供 臨済宗妙心寺派徳応山西福禅院住職 渡辺尚志様、聞取り・資料提供 十代現当主 芦田美知子様、釈文引用 古文書インストラクター 村岡敬公様。
掛軸一幅が残っているのは、芦田新左衛門家(現、広小路のゆらり)である。
芦田家は「武田信玄公之家臣浪人して当所に」(系図覚書)とあり、甲州出身で丹波国に移住した。後、町年寄として活躍、五代・六代には家運隆昌し、豪商(醤油・酢製造販売)として財を為した。
十代現当主の話では、幕末には、三十間X三十間、約九百坪の敷地であったと、幼少の頃祖父から聞いたと話していただいた。六代秀堅は、山鹿流兵学の源流が甲州軍学にあり、甲州に特別の郷愁を持っていた。偶々、九鬼藩に仕官していた素水に「芦田家の今昔」を掛軸に託して依頼したものと思われる。病床に苦しんでいた素水は、秀堅の達ての頼みを断り切れず、製作に取掛かった。掛軸の讃には、「積善の家ニハ必ず余慶がある・・・其身のなすへき業のみ唯一筋に勤めはけまん・・・綾部の里なる芦田鎮作秀堅は・・・父のころ比よりなりはひも衰えしに・・・いつしか其産業も盛んに再び家を興しぬ・・・左巴の紋付たる麻の御上下を下し賜しハ永く其家の面目成へし・・・秀堅功成て・・・其子秀茂に家を譲り、其身は風月にうそぶ嘯き甲斐の国なる身延の御山に詣・・・大江戸の栄えヲ見んとし御前に召し出され御盃を下し賜りぬ。秀堅故郷にかさる錦にまさる家土産となし永く家の宝に秘置かぬ・・・秀茂其姿を紙に写し子孫のすえまでも伝えんとする・・・後略」(村岡敬公先生釈文)。
掛軸上部に讃辞を、下部には、秀堅を中心に、先妻貞女、後妻八重女の肖像画を配して描かれている。
(四)晩年の素水
幕藩体制の弛みと、内部矛盾を内包しながら、ひたすら、そのレジームを堅持しようとした幕府。幕府は、開明的思想やその文明が、鎖国政策を続行する我国の封建社会に上陸することを、極端に警戒した。この動きの浸潤を阻止すべく、幕府は、洋学蘭学研究や科学的合理性の思想的系譜を一にする思想家・研究者グループを、蛮社の獄を初めとして厳罰に処分した。偶々、反幕勢力の急先鋒となって活躍していた松蔭と師弟関係にあったというその一点が、晩年の素水のその後に影響したとでもいうのだろうか。
晩年の兵学者素水は、蟄居幽閉に近い暮らしを強いられ、その上最愛の妻にも先立たれ、妻の死後、失意の中にあって二ヵ月余りで、素水も、又静かに綾部の地で息を引きとった。
兵学という保守的思想に拠って立つ素水でさえ、動乱の幕末の荒波に飲み込まれていった一人なのかもしれない。
*参考図書及び聞取り・資料・写真提供
練兵説略抄録・練兵実備 山鹿素水著、増訂丹波史年表 松井拳堂著、綾部町史 村上祐二著、
吉田松陰 日本の名著(31)山鹿素行 日本の名著(12)中央公論社、聞取り・写真提供 臨済宗妙心寺派徳応山西福禅院住職 渡辺尚志様、聞取り・資料提供 十代現当主 芦田美知子様、釈文引用 古文書インストラクター 村岡敬公様。
[ 19:21 ] [ あやべの文化財 ]
[ 19:12 ] [ あやべの文化財 ]
綾部の文化財シリーズ(第九回) 阿日山 佛南寺(臨済宗妙心寺派) 原稿執筆:住職:渡邊秀山師
一.所在地
京都府綾部市里町向屋敷103番地
「元、何鹿郡大字吉美小字里」
一.佛南寺の略歴
あやべ西国観音霊場第七番札所でもあります佛南寺は綾部市でも極めて古い歴史を誇る寺院です。平安時代初期の国家の歴史書である三代実録(858~887)には有名な社寺・貞婦・名族を記載されておりますが、その貞観五年(863)6月3日の条に「以ニ 丹波国何鹿郡佛南寺- 為ニ真言院- 即付ニ 国司検校-」とあり、佛南寺は国によって真言院とされ、国司の監督を受ける官寺として財政援助を受ける代わりに、護国法会等を行なう義務がありました。当時は官寺として七堂伽藍をもつ、地方屈指の巨刹であったと云います。
足利時代末期には荒廃していましたが、万治年間(1658~1660)に宗讃禅師が臨済宗として堂宇を建設しました。下がって、江戸時代の元禄の初め火災にて焼失しましたが、元禄八年(1695)に再建され現在に至ります。
この寺の霊場ご詠歌は「法のみち ひろく栄ゆる 吉美が代を よろずよかけて 願ふさとひと」
一.佛南寺の文化財(仏像等)
佛南寺のご本尊としてお祀りされているのは左の写真の像高一尺二寸(約40センチメートル)の「木造釈迦如来坐像」です。両脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩で知恵と実行の佛と云われています。
一.所在地
京都府綾部市里町向屋敷103番地
「元、何鹿郡大字吉美小字里」
一.佛南寺の略歴
あやべ西国観音霊場第七番札所でもあります佛南寺は綾部市でも極めて古い歴史を誇る寺院です。平安時代初期の国家の歴史書である三代実録(858~887)には有名な社寺・貞婦・名族を記載されておりますが、その貞観五年(863)6月3日の条に「以ニ 丹波国何鹿郡佛南寺- 為ニ真言院- 即付ニ 国司検校-」とあり、佛南寺は国によって真言院とされ、国司の監督を受ける官寺として財政援助を受ける代わりに、護国法会等を行なう義務がありました。当時は官寺として七堂伽藍をもつ、地方屈指の巨刹であったと云います。
足利時代末期には荒廃していましたが、万治年間(1658~1660)に宗讃禅師が臨済宗として堂宇を建設しました。下がって、江戸時代の元禄の初め火災にて焼失しましたが、元禄八年(1695)に再建され現在に至ります。
この寺の霊場ご詠歌は「法のみち ひろく栄ゆる 吉美が代を よろずよかけて 願ふさとひと」
一.佛南寺の文化財(仏像等)
佛南寺のご本尊としてお祀りされているのは左の写真の像高一尺二寸(約40センチメートル)の「木造釈迦如来坐像」です。両脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩で知恵と実行の佛と云われています。
左下の「木造大日如来坐像」は運慶作とも伝えられる三尺七寸(像高1177.2センチメートル)は綾部市の指定文化財で、髻を結い条帛をかけ、智挙印を結び裳をつけて、右足を外に結跏趺座する金剛界大日如来様です。肩の張り、腰部から膝にかけての重厚な造型は力強く、着衣のおおまかで明快な表し方、面相の優雅な彫技によく時代の特色がうかがえ、髻は高く太く、面相部も長さに比べて幅があり、面奥も十分にあります。この幅のある顔に目鼻立ちを中央に寄せて小さく刻み、眉を著しく切れ長に、唇は厚めに表現し、平安時代初期の密教像の作風を忠実に表現しているといわれています。
現在表面の彩色はほとんど剥落し、まだらになっていますが、十二世紀初頭を下らないと云われています。
現在表面の彩色はほとんど剥落し、まだらになっていますが、十二世紀初頭を下らないと云われています。
左下の「木造虚空菩薩立像」は同じく綾部市の指定文化財で、五尺五寸三分(像高は165.8センチメートル)もある等身大の像で髻を結い、条帛・天衣をかけて左手まげて宝珠をのせる蓮華を執り、右手は躰側に垂れ下げ、右足をわずかにゆるめて立つ姿です。頭部は量感豊かで、目鼻の彫りは浅く、耳上の頭髪一条幅広く巡らして、じだ耳朶を貫通させずに表現しています。肩幅は広く躰躯も太造りで、腰をわずかに左に引く体勢もおだやかで、全体に彫りは浅いといえます。
構造はうちぐり内刳(像の内部を空洞にして重さを減らす。)の大きな一木造りです。全身に傷があり時代の判定が難しいと云われていますが、平安時代の特色が強く出ているといわれ、十一世紀頃の作と云われております。
構造はうちぐり内刳(像の内部を空洞にして重さを減らす。)の大きな一木造りです。全身に傷があり時代の判定が難しいと云われていますが、平安時代の特色が強く出ているといわれ、十一世紀頃の作と云われております。
本堂前左下にある聖観世音菩薩を祀る瀟洒な「観音堂」もこの頃(元禄年間)建設されたと云われる由緒あるもので、境内地と離れていたため、一時期独立した尼寺(善住寺)となっておりましたが、平成九年春に旧に復して今の境内地に移転整備されたもので、この古刹にかけられた大悲を願う思いが今結実しつつあります。又この観音堂はあやべ西国観音霊場第七番札所の「聖観世音菩薩」で、伝によれば「聖徳太子の念持仏として鳥佛子(師)一刀三礼の彫刻せん鐫する所にして開帳佛なり」とあり、祈願によって母乳湧出の願いが叶えられると名高く、遠くからお参りに見える方もあります。
2007/08/12のBlog
[ 11:30 ] [ あやべの文化財 ]
暑中お見舞い申し上げます。世界平和に想いをよせる、このお盆休みには皆様ご家族の帰省を受けて一家団欒の至福の時をお過ごしのことと思います。
初の海外取材記「モンゴルの大自然と歴史を訪ねて」by四方續夫事務局長を連載中です。
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/
○帰省中の綾部人、留守家族の「ふるさと散策」の資料に・・
・式内社「高倉神社と十二士講神社」天一さんの土用の丑祭り
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/328.html
・第309回熊野新宮神社の「水無月大祭」と綾部良さ来い祭り
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/327.html
・綾部の古刹・真言宗高野山派:願成寺とその文化財
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/326.html
・あやべ西国観音霊場第7番札所阿日山・佛南寺とその仏像文化財
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/325.html
・あやべ西国観音霊場33ヶ寺の番外2番札所・長福寺
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/321.html
・島万神社の太鼓踊と太刀振 DVD完成
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/320.html
・大槻重助伝 村上利男著
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/319.html
・別所熊野神社とその舞堂と別当寺・願成寺
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/317.html
・八坂神社「綾部の祇園祭
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/316.html
・あやべ西国観音霊場第11番札所瑞亀山・隠龍寺とその由緒
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/312.html
・夏越(なごし)大祓い「若宮神社と高倉神社
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/311.html
・あやべ西国観音霊場番外1番妙徳寺とその禅庭
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/310.html
・木の神・久久能智神を祀る木祖殿神社
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/309.html
○関西近隣の文化財研修記
・近江国・湖南三山その三・長壽寺
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/324.html
・ 近江国・湖南三山その二・常楽寺
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/323.html
・近江国・湖南三山その一・善水寺
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/322.html
・兵庫県豊岡市但東町の国重文「日出神社」と縣「環境保全区指定の大生部兵主神社
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/318.html
・春日局生誕地の興禅寺と国史跡・黒井城跡
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/315.html
・京丹波町の府指定重要文化財「阿上三所神社と名門片山家
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/314.html
・日本の滝百選・名水百選の養老の滝
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/313.html
・ 倉敷、後楽園、吉備津神社(最終回)
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/300.html
○綾部の12延喜式内社
http://ayabun.net/gaiyo/sikinai.html
○あやべ西国観音霊場(33ケ寺・番外6ケ寺)
http://ayabun.net/gaiyo/saigoku.html
○その他の神社、仏閣の記事もたくさんあります。
HP:綾部の文化財 http://ayabun.net/
ブログ:綾部の文化財日誌 http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/
掲示板:綾部の文化財 http://8711.teacup.com/tsuguo/bbs
○ついでに「ハワイ・オアフ島旅行記」もどうぞ
http://www.doblog.com/weblog/myblog/15478?TYPE=1&genreid=135498
http://www.doblog.com/weblog/myblog/15478?TYPE=1&genreid=135497
http://www.doblog.com/weblog/myblog/15478?TYPE=1&genreid=135493
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2007/07/17のBlog
[ 14:57 ] [ あやべの文化財 ]
[ 14:48 ] [ あやべの文化財 ]
維新の影の功労者
勤王僧月照に信頼され、幕末の志士、平野国臣と悲嘆に暮れ、西郷隆盛に感謝された、誠実一筋の人、大槻重助の本格的評伝
動乱の京都から薩摩への逃避行!その行く手に待ち受ける過酷な運命を描く!
変動の渦の中に置かれた一人の丹波の青年が、勤王僧月照と行動をともにするうち、いつの間にか世の変革に貢献し、歴史のひとコマを作る手助けをしたのである。それは丹波人特有の実直さから来るものであるが、月照からの信頼感、また平野国臣や西郷隆盛といった幕末の志士との交流によって培われたひたむきな行動力の賜でもあった。
著者プロフィ-ル
村上利男(むらかみとしお)氏
1925年、京都府綾部市高津町出身。「大槻重助を顕彰する会」主催。平成9年、勲五等双光旭日章の勲章授章。
勤王僧月照に信頼され、幕末の志士、平野国臣と悲嘆に暮れ、西郷隆盛に感謝された、誠実一筋の人、大槻重助の本格的評伝
動乱の京都から薩摩への逃避行!その行く手に待ち受ける過酷な運命を描く!
変動の渦の中に置かれた一人の丹波の青年が、勤王僧月照と行動をともにするうち、いつの間にか世の変革に貢献し、歴史のひとコマを作る手助けをしたのである。それは丹波人特有の実直さから来るものであるが、月照からの信頼感、また平野国臣や西郷隆盛といった幕末の志士との交流によって培われたひたむきな行動力の賜でもあった。
著者プロフィ-ル
村上利男(むらかみとしお)氏
1925年、京都府綾部市高津町出身。「大槻重助を顕彰する会」主催。平成9年、勲五等双光旭日章の勲章授章。
2007/05/08のBlog
[ 10:30 ] [ あやべの文化財 ]
鼻高の舞(王の舞)
木鉾先に小鈴を付けて持つ。木鉾は、素手で掴んではならない。
第一動作 参拝: 神輿の前に進み、足を広げて立ち、各神輿に参拝。これを三回・計九回行なう。
第二動作 捜す: 鉾で四方の地上を打つように。最後は雫を落とすように突き出す。
第三動作 地固め: 鉾を持って北方から地上を掻き回し、掃き均した後、此処彼処と足で踏み固める。北、南から二回
第四動作 舞: 鉾を神輿に面して立てる。大いに悦ぶ客姿で首を傾け。 透かすように鉾を見つつ五六歩後に退き。足摺りで鉾の下に進む。北、南から二回
第五動作 参拝: 神輿に向かい一礼する。 以上
現在は最後に子供太鼓をほうのうしている。又、祭礼終了後、「舞楽殿」にて行列参列者は「宮座」の決まった場所で昼食「講」をする。
(参考資料)綾部歴史のみち(綾部資料館発行)、郷土誌・東八田、神社昇格願い(昭和二年発行・相根久左衛門)、於与岐区史(第二章・沿革の部)綾部史談会報第七八号(村上祐二氏)同上一二五号(植木行宣氏)丹波誌何鹿郡之部、会報「綾部の文化財第五五号」等(写真)綾部の文化財を守る会事務局
於与岐八幡宮 宮司 稲葉達夫
於与岐八幡宮祭礼芸能保存会 代表 吉田 晟
木鉾先に小鈴を付けて持つ。木鉾は、素手で掴んではならない。
第一動作 参拝: 神輿の前に進み、足を広げて立ち、各神輿に参拝。これを三回・計九回行なう。
第二動作 捜す: 鉾で四方の地上を打つように。最後は雫を落とすように突き出す。
第三動作 地固め: 鉾を持って北方から地上を掻き回し、掃き均した後、此処彼処と足で踏み固める。北、南から二回
第四動作 舞: 鉾を神輿に面して立てる。大いに悦ぶ客姿で首を傾け。 透かすように鉾を見つつ五六歩後に退き。足摺りで鉾の下に進む。北、南から二回
第五動作 参拝: 神輿に向かい一礼する。 以上
現在は最後に子供太鼓をほうのうしている。又、祭礼終了後、「舞楽殿」にて行列参列者は「宮座」の決まった場所で昼食「講」をする。
(参考資料)綾部歴史のみち(綾部資料館発行)、郷土誌・東八田、神社昇格願い(昭和二年発行・相根久左衛門)、於与岐区史(第二章・沿革の部)綾部史談会報第七八号(村上祐二氏)同上一二五号(植木行宣氏)丹波誌何鹿郡之部、会報「綾部の文化財第五五号」等(写真)綾部の文化財を守る会事務局
於与岐八幡宮 宮司 稲葉達夫
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