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なべちゃんの散歩道
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ジャンル:あやべの文化財
Blog数:535件
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2006/12/07のBlog
[ 07:59 ] [ あやべの文化財 ]
絶え間ないお参りの人々。素朴な田舎のお祭りに300年間つづく人々の信仰、情熱を感じる
祭殿が設けられた母屋のすぐ外の離れ家が「こんぴら大祭福引き会場
ここも賑わっている
こんぴら大祭福引き会場
こんぴらうどん」を食べる
肩車をするお父さん。子供の頃が懐かしい
2006/12/06のBlog
[ 08:58 ] [ あやべの文化財 ]
建田のこんぴらさん 井上 益一氏 綾部の文化財を守る会会報第12号、昭和52年1月
 すでに「綾部市史」「丹の国綾部」等に紹介されているのでくどいように思うけれど、かわった伝統行事のことで今一度記してみたいと思う。
 建田とは口上林地区内、武吉・佃・忠の頭字タッタをとって建田の字をあて明治初年にできた村名である。
そこに伝わるこんぴら信仰は全員が講員で、正しくは宝永講という。宝永六年(1709)武吉村源兵衛宅よりはじまるといい次のようないわれがある
関ケ原の合戦に西軍に組した藤懸永勝は他の部将と共に田辺城(細川氏)を攻めたかどにより、所領一万三千石を六千石に減ぜられ慶長六年上林谷に入部、石橋城山の麓に陣屋を構えた。其の後子孫を次々に分家させ、禄高は四千石になり財政は逼迫、その上度々の大水害にもかかわらず年貢米はきびしく取立てた。そのため領民は苦しみあえぎ、減免を訴えて出た代表の武吉村、佃村の庄屋年寄などはきびしく処分された。
 たまりかねた農民は暴政を幕府に直接訴えようと計画し、その使を屈強な若者三人が志願した。旅費を日頃修験道などで弥仙詣をして知る、他領於与岐村の庄屋吉崎五左ヱ門にもとめた。三村あげてのこの企を知った吉崎はすべてを覚悟してこれに協力した。
 三人は死を決して出発、和知大簾で宿を借りたり、近路を教えられたり大井川の渡も川止め直前に都合よく渡り領主のさしむけた追手をうまくのがれ江戸についた。そうして幕府に訴え願はかなえられ、代官は罰せられて領民はすくわれた。
 純朴な農民はこの越訴が成功したのは、一に日頃信仰するこんぴら大権現の御加護によるものとし願がけの通り千年の講を行うこととし、其の後毎年盛大な講を営むことになったという

 この講は三町区を輪番にまわり、町区内の組も順をきめているが、神を祀る家つまり講元はその町区の公選により定める。その家の一室を社殿とし一年間、床の間に金刀比羅大権現をまつるのである。毎月十日は例祭、十一月十日は大祭で午後三時頃、講員の遙拝式、午後四時頃、講元交代の戸渡し式を行う。これには昔から引ついできた御正体のおさめられた木箱を宮司から当年の講元へ、それから次年度の請元へ手渡すのである。
 次に膳にゆずの実大根赤とうがらし等のきったものをのせ、それを肴に、ひらわんのふたに神酒をつぎいただいて、当年自治会長講元、次年自治会長講元の順で、それぞれ挨拶があり終る。次に次年度講元の家へ宮司を先頭に行列をととのえ徒歩で行き遷座式を行う

昔は遠方からの参拝者が宿泊したり上講したりで、その世話など大変なことだったが、今はだんだん簡単になった。それでも参拝者は随分多く、進学就職、交通安全、安産祈願等をする人々が多く時代を反映しているようだ。みやげ物や日用品、農具等を売る店も多かったが今は少くなった。こんぴらさんといえば、子ども心に氏神祭よりもはるかに楽しいものであった。
 明治二十年本社讃岐金刀比羅宮の崇敬講社に入り毎年はるばる代参をおくり、地元では式ごとに宝永の頃の気持にかえりうやまって遙拝を行う

時うつり事去り、考え方にも色々な人があるだろう。然し一揆に発したとはいえ伝統的な信仰行事の根強さは、現代人の生活と感情から幾分のゆれはあっても簡単にくずれ去るものではなかろう。筆者は関係町区の自治会長や係として前後七回にわたる戸渡しの式に連なり、そうした感を強く強くいだいたものである。
 あとになったが、大祭当日、於与岐町吉崎五左ヱ門家の当主及び和知町大簾自治会代表をお招きし心からのおもてなしをするのは、かつて江戸行きに際し、一方ならぬ協力を願ったことに対する感謝の意味である。戸渡し儀式に、なまのゆずの実大根とうがらし等を肴に用いるのは、江戸行きを無事に終え帰郷したのを喜び迎えた時のささやかなさかもりをあらわすものという。
 武吉、佃等の庄屋年寄等が処分されていることの詳細は、残念ながら今のところ研究も不十分であり、又他の都合もあって公表はさしひかえねばならない
賑わう「建田(たった)の金比羅宮宝永講秋季大祭
家の軒に鈴・綱が下げられている。参拝者が列を作っている
すぐ隣でお神籤やお守りが売られている
家のお守りを求める年配者。300年前の昔から、このような祭事に詣ってお守りやお札を求め、持ち帰って家に飾り、家内安全などを願ったのだと思う
洗心は水桶を並べ、手ぬぐいを上からぶら下げたもの。毎年順繰りで、武吉・佃・忠の3町の普通の民家の一室が祭殿になるために工夫された形であろう
[ 08:06 ] [ あやべの文化財 ]
府道の曲がり角を回ると路肩に車が並んで駐車してあり、私もその最後列に駐車する。先を歩いている年配の人々に「たったのこんぴらさん」に行かれるのかと尋ねるとそうだと云われる
前方を人が歩いて行かれる
人が多くなってきた。道ばたの電柱につけられた拡声器から、威勢の良い「こんぴらふねふね・・」が聞こえてきた。エンドレスの終わりのないメロデイだ。 金毘羅舟々 追い手に帆掛けて しゅらしゅしゅしゅ 回れば四国 讃州那珂の郷 象頭山金毘羅 大権現 一度廻れば・・
まっすぐ行くと屋台店が並んでいるところに来た
右手に田んぼがあり、その向こう側の民家に白い幕がひかれ、人が大勢集まっていた
2006/12/05のBlog
[ 19:23 ] [ あやべの文化財 ]
綾部の文化財を守る会の四方續夫事務局長からたったのこんぴらさん」の取材に時間があれば来てみればのお誘いをもらった。10時すぎに行ったが擦れ違いで帰られたあとで、今さっきまでここに川端先生と一緒に居られたとのことであった。石原理事の姿も見えた
綾部の南を東西に走る国道27号線を山家で北に折れると、府道1号線で小浜に向かう上林街道がある。中上林の信号のある十倉交差点を東に入ると、由良川の支流である上林川もまた蛇行してこの「たった」に回り込み流れている。武吉、佃、忠の3村の頭文字から「タ・ツ・タ」と明治初年に付けられた村名だとのこと
家が建ち並ぶ辺りに幟が見えた。この先は佃町で府道は行き止まり、和知町へは山峠があり抜けられない
田畑の畦道を三々五々人々が歩いてくる
農道を歩いて
2006/11/24のBlog
開山堂(正賓庵)・開山堂山門(山家城主谷家の門)
康永元年(1345)尊氏は、南禅寺に住した天庵妙受禅師を招請して、安国寺の始祖とし、多くの寺領を寄進した
開山堂と宝篋印塔 3基
綾部市指定文化財:宝篋印塔 3基・建造物・南北朝時代
宝篋印塔 上杉清子(生母)・足利尊氏・赤橋登子(妻)
境内の開山堂右側に建つ。三基とも無銘。中央の塔は完形だが左・右は一部に欠損あり。南北朝期の特色ある仏塔。
この三基は古くから足利尊氏母子の墓碑とされている。向かって左側に母堂清子(1342年没)、中央が初代尊氏(1358年没)、右側に妻登子(1365年没)。二代将軍義詮が父母等の没後に遺骨の一部を当地に迎え建立したと云う
お堂
2006/11/23のBlog
京都府登録文化財:安国寺山門・鐘楼(各1棟・建造物・江戸時代)
安国寺山門は四脚門(よつあしもん、・又は、しきゃくもんともいい、正背面の柱間が一間の門で、本柱の前後に二本づつ、計四本の控柱のある門の形式)で、切妻造、本瓦葺、左右袖塀附属。棟札があって、上梁天保十四寵舎発卯三月十一日の記がある
鐘楼は、桁行梁行とも一間の建物で一重、切妻造、桟瓦葺で、棟札によると山門と同じく、天保十四発の記がある
仏殿に向かう参道脇には接待のテントが並ぶ
鐘楼の脇には屋台店が賑わう
紅葉
京都府指定文化財:安国寺仏殿・方丈・庫裏(各1棟・建造物・江戸時代)
現在の仏殿は寛保三年(1743)に完成したことが、仏穀内部の虹梁に貼付された梁札銘によって知られる。床は四半敷とし、側廻り一間を化粧屋根裏として海老虹梁でつなぎ、中央前寄りの柱を虹梁と大瓶束で抜くなど、禅宗独得の手法をうまく応用した貴重な建物である。
方丈は正規の六間取りで、桁行15.8米、梁行11米、一重、入母屋造、横瓦茸で、寛政六年に上棟、庫裏は桁行14米、梁行8米、一重、一部二階、入母屋造、妻入の建物である
お茶席が設けられている
お茶をいただく
表千家の人々による野点
野点
2006/11/22のBlog
景徳山安国寺
当寺は今から千年程昔、平安時代の名僧恵心僧都作とされる地蔵菩薩を、この地に祀った光福寺に創まると伝え聞く。
その後鎌倉時代に、六代将軍宗尊親王の側近勧修寺重房丹波上杉荘を拝領して上杉と改姓、当寺を氏寺とした。
上杉重房孫清子は、足利貞氏に嫁して尊氏を出生。その尊氏が室町将軍となって幕府を開いた。彼は国土安穏戦没者供養を発願、国毎に一寺一塔を建立した。その折尊氏は、自分の出生地である丹波の当寺を、その筆頭「安国寺」とした。
安国寺は、足利尊氏が元弘元年(1331)に後醍醐天皇が企てた鎌倉幕府討伐のための、いわゆる元弘の乱から後の戦死者について、その霊を弔うために夢窓疎石の提案で発願し、全国六十六ヶ国二島に一寺一塔の設置をすすめた。光厳上皇の院宣をあおぎ寺は安国寺、塔は利生塔と称した。丹波綾部はその筆頭であり、山城の安国(北禅)寺では一休宗純(一休さん)がいたことで有名です
見事な紅葉を写真に撮る人々
紅葉
安国寺仏殿
京都府指定文化財:安国寺仏殿(1棟・ 建造物・ 江戸時代)
参拝の中学生たち
諸国・安国寺の筆頭の文化財」 綾部の文化財事務局長:四方續夫氏
京都府綾部市(もと何鹿郡いかるがぐん)安国寺町寺の段1番地にある「景徳山 安国寺 臨済宗東福寺派」は文化財の宝庫です。国重文4点、京都府指定文化財2点、京都府登録文化財2棟、綾部市指定文化財1点があります。又、綾部随一の紅葉の名所で知られ、例年11月の第3土曜日に「安国寺もみじ祭り」が催行されます。今年は11月18日(土)がこの祭り日です。近畿自動車道舞鶴・若狭道の「安国寺IC」を降りると、足利尊氏公の銅像があり、無料の駐車場もあります。大型バスの駐車場からは歩いて3分です。尚、当日は午前11時からセレモニー開始で、紅葉に加えて、有名な位田高城(いでんたかしろ)太鼓午前11時20分~、琴と尺八は村田社中で午前10時~午後3時まで演奏、野点・もちつき、模擬店も「うどん、弁当、ジュース、ビール、酒、あんもち、あべかわ、やきいも、地元産品等」が販売されます。滅多に見られない国の重要文化財「木造釈迦両脇侍坐像」が無料で公開され、藤本住職が案内されます。尚、この安国寺は、正歴4年(993)ころに地蔵菩薩を本尊として、開創されたと伝えられ、もとは光福寺と称した。建長4年(1152)勧修寺重房が上杉荘を賜り、これより「上杉」を姓とするようになった。その「上杉の姓」は関東管領から、かの越後国の上杉謙信公に引き継がれたことは、ご承知と思う。その後、嘉元3年(1305)足利尊氏公の生誕によって当寺は上杉氏・足利氏の尊崇を受けるようになった。歴応元年(1338)足利尊氏公は夢窓疎石の勧めによって、元弘の戦乱以降に亡くなった多くの戦没者の霊を慰めるため、国ごとに安国寺・利生塔(りしょうとう)を建立するにあたり、光福寺を丹波の安国寺とし、諸国安国寺の筆頭においた。康永元年(1342)尊氏公は、南禅寺に住した天庵妙受禅師を招請して安国寺の始祖とし、多くの寺領を寄進した。それ以降、塔頭(たっちゅう)16、支院28を有する大寺院であったが、江戸中期に至るまでの間に、大半の寺領は押領されて、塔頭・支院は減少したが、いまなお多くの重要文化財、府・市指定文化財,重宝等を蔵する名刹である
テレビでも紅葉の名所として放映される安国寺仏殿をバックに
彩りなす紅葉、仏殿を背景に
彩りなす紅葉が緑の水面に映える
紅葉を背景に記念写真を撮る人々
国指定重要文化財:「木造釈迦如来及両脇侍坐像(3躯・ 彫刻・南北朝時代)
釈迦像を中尊に左右に文殊・普賢を配す。文殊は獅子、普賢は象に坐乗する。
三尊とも玉眼で品位あり。中尊の端正な表情は鎌倉時代の特性を伝えている。
この三尊像は歴応四(1341)年、円派の仏師豪円により、安国寺筆頭となる当寺の本尊として刻まれた傑作である
国指定重要文化財:「木造地蔵菩薩半跏像(1躯・彫刻・鎌倉時代)
寄木造・彩色(今は剥落)で温和な藤原式の勝れた仏像。左手に宝珠、右手に錫杖を持つ。右足を垂れた半跏が特徴。 肩の張りと胸元の安定した姿態に平安中期彫刻の優美さが感じられる。
上杉清子はこの像に祈願して足利尊氏を生んだとか。それ故に、現在でも子安地蔵として尊崇されている
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