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2006/11/01のBlog
[ 08:29 ] [ あやべの文化財 ]
小畑の馬場まで一之宮神社、三之宮神社の御輿を中心に祭列巡行
その行列を「シグルマ」と称し、神木・金弊・木鉾・御旗を持ち、20~40名の壮者が袴の股立をとり、鉢巻を締め、白張に身を固めて神輿を担ぎ、獅子・鉾などが前後して続く
その行列を「シグルマ」と称し、神木・金弊・木鉾・御旗を持ち、20~40名の壮者が袴の股立をとり、鉢巻を締め、白張に身を固めて神輿を担ぎ、獅子・鉾などが前後して続く
2006/10/31のBlog
[ 20:07 ] [ あやべの文化財 ]
[ 17:25 ] [ あやべの文化財 ]
空山の麓に小畑祭りの幟が翻る「六左衛門村」むかし「小畑六左衛門」という面白いユニ-クな人がいたという。
花と民話のふるさと 六左衛門村 花しょうぶ園
村名を拝借した小畑六左衛門さんとは。
天正十五年に生まれた小畑六左衛門は、今の豊里地区の鍛冶屋、中、小西、それに物部地区の新庄併せて、3,329石の豪族であった。巧みなる狂歌で、土地争いを和解させたり、分限者から貧者にものを分けさしたりした。例えば、こうじゃ。あるとき六左衛門爺が野道を通りかかると、二人の農夫が今にも鍬でも振り上げかねない喧嘩をしている。爺が中に入り理由をきくと、土地争いなのだ。爺は二人にこう言った。「大声(大肥え)したる芋なればこせこせ(小畝小畝)言うな。作は上々。」と言って和解させたそうな。
延宝五年六月二十二日
独爺 善宿信士 位九十歳
俗名 小畑六左衛門
花と民話のふるさと 六左衛門村 花しょうぶ園
村名を拝借した小畑六左衛門さんとは。
天正十五年に生まれた小畑六左衛門は、今の豊里地区の鍛冶屋、中、小西、それに物部地区の新庄併せて、3,329石の豪族であった。巧みなる狂歌で、土地争いを和解させたり、分限者から貧者にものを分けさしたりした。例えば、こうじゃ。あるとき六左衛門爺が野道を通りかかると、二人の農夫が今にも鍬でも振り上げかねない喧嘩をしている。爺が中に入り理由をきくと、土地争いなのだ。爺は二人にこう言った。「大声(大肥え)したる芋なればこせこせ(小畝小畝)言うな。作は上々。」と言って和解させたそうな。
延宝五年六月二十二日
独爺 善宿信士 位九十歳
俗名 小畑六左衛門
小畑六左衛門翁之碑「ポイの餅」
ある日報恩寺(ほうじ)の嫁の里へ行った時「ぼたもち」をごちそうになった。六左衛門はあまりにおいしかったので家でも作ってもらおうと思って「この食べものは何か」と尋ねると「ぼたもちや」と教えてもろうた。
忘れんように帰ろうと思って「ぼたもちぼたもち」ととなえながら帰ったそうな。途中で川があったので「ぽい」ととんでわたった。そのひょうしに忘れてしもうた六左衛門「はてな?」ああそうそう「ポイのもちだったわい」と思い出し「ポイのもち~~」と家に帰りついた。
嫁さんに「ポイのもち作れ」と大声でいった。嫁さんは何のことかさっぱりわかりません。仕方なく「ポイのもちは作れんが、ぼたもちならできる」と「ぼたもち」をさし出すと、六左衛門は「そうだこのもちだ」といって大きな口をあけてパクパク食ったそうな
ある日報恩寺(ほうじ)の嫁の里へ行った時「ぼたもち」をごちそうになった。六左衛門はあまりにおいしかったので家でも作ってもらおうと思って「この食べものは何か」と尋ねると「ぼたもちや」と教えてもろうた。
忘れんように帰ろうと思って「ぼたもちぼたもち」ととなえながら帰ったそうな。途中で川があったので「ぽい」ととんでわたった。そのひょうしに忘れてしもうた六左衛門「はてな?」ああそうそう「ポイのもちだったわい」と思い出し「ポイのもち~~」と家に帰りついた。
嫁さんに「ポイのもち作れ」と大声でいった。嫁さんは何のことかさっぱりわかりません。仕方なく「ポイのもちは作れんが、ぼたもちならできる」と「ぼたもち」をさし出すと、六左衛門は「そうだこのもちだ」といって大きな口をあけてパクパク食ったそうな
「あやべ里山ねっと」
「小畑のヤッコ振り」は元小畑小学校の付近で12時半頃にと聞き、下調査に元豊里西小学校であるここ「あやべ里山ねっと」事務局に尋ねに入った。元小畑村小学校とは当所のことであった。このHPにあるように里山交流研修センタ-として、さまざまな活動を展開する拠点になっている。
現在ホ-ムセンタ-「ケ-ヨ-」の創設者である永井幸喜氏(地元出身者・綾部名誉市民)の寄贈された永井基金(永井賞)を引き継ぎ、農村と都市の交流事業を担う拠点施設「永井山荘」が間もなく完成とのことである
「小畑のヤッコ振り」は元小畑小学校の付近で12時半頃にと聞き、下調査に元豊里西小学校であるここ「あやべ里山ねっと」事務局に尋ねに入った。元小畑村小学校とは当所のことであった。このHPにあるように里山交流研修センタ-として、さまざまな活動を展開する拠点になっている。
現在ホ-ムセンタ-「ケ-ヨ-」の創設者である永井幸喜氏(地元出身者・綾部名誉市民)の寄贈された永井基金(永井賞)を引き継ぎ、農村と都市の交流事業を担う拠点施設「永井山荘」が間もなく完成とのことである
とよさとにし つばさがはえるちず
京都府綾部市豊里西地区-小畑町・鍛冶屋町・小西町-
(八塚ケ谷の景色)
里山ねっとでいただいた散策マップです「ようこそ、そらいろの大地へ」
このマップ栞にも次の小畑六左衛門民話が集録されていました
京都府綾部市豊里西地区-小畑町・鍛冶屋町・小西町-
(八塚ケ谷の景色)
里山ねっとでいただいた散策マップです「ようこそ、そらいろの大地へ」
このマップ栞にも次の小畑六左衛門民話が集録されていました
くすくすくす
小畑の六左衛門さんが買い物やお土産をいっぱい持って、町から帰る途中、日が暮れてきたので宿屋に泊まることにしました。欲張りの宿屋の女将さんは、あの荷物を置いていってくれないかなぁと思いました。「それには食べるとぼけて物忘れをするという、みょうがを食わせるに限る!」もっと欲張りの宿屋の主が言いました。
女将さんは早速裏の畑から取ってきた、みょうがを、お汁やおかず、そしてご飯の中にまでもたくさん入れ、六左衛門さんに食べさせました。すっかりのぼせて、さっさと床についた六左衛門さん。次の日「早く買い物やお土産を届けなければ」と慌てて宿を飛び出してゆきました。それを見た女将さんは荷物を忘れていったに違いないと部屋を探しに探しましたが何一つ残っていません。
そんなはずはないがなぁと考えていた主がやがて思い出したように言いました。「忘れた忘れた大変なものを忘れた。夕べの宿賃もらうの忘れた。」宿屋の夫婦もみょうがをたくさん食べていたのです!六左衛門さんのほうは荷物こそは忘れなかったけれど、宿賃を払うのを忘れてしまっていたのでした。
1587年(天正15年)おっちょこちょいで争いごとでもユーモアに変える力を持った小畑六左衛門さんは、この豊里地区に生まれました。笑うことによって幸せな空気が創られることを知っていた六左衛門さん。その数々のお話、生き生きした景色は、時代を超えて私たちまでも幸せにしてくれるのです。
小畑の六左衛門さんが買い物やお土産をいっぱい持って、町から帰る途中、日が暮れてきたので宿屋に泊まることにしました。欲張りの宿屋の女将さんは、あの荷物を置いていってくれないかなぁと思いました。「それには食べるとぼけて物忘れをするという、みょうがを食わせるに限る!」もっと欲張りの宿屋の主が言いました。
女将さんは早速裏の畑から取ってきた、みょうがを、お汁やおかず、そしてご飯の中にまでもたくさん入れ、六左衛門さんに食べさせました。すっかりのぼせて、さっさと床についた六左衛門さん。次の日「早く買い物やお土産を届けなければ」と慌てて宿を飛び出してゆきました。それを見た女将さんは荷物を忘れていったに違いないと部屋を探しに探しましたが何一つ残っていません。
そんなはずはないがなぁと考えていた主がやがて思い出したように言いました。「忘れた忘れた大変なものを忘れた。夕べの宿賃もらうの忘れた。」宿屋の夫婦もみょうがをたくさん食べていたのです!六左衛門さんのほうは荷物こそは忘れなかったけれど、宿賃を払うのを忘れてしまっていたのでした。
1587年(天正15年)おっちょこちょいで争いごとでもユーモアに変える力を持った小畑六左衛門さんは、この豊里地区に生まれました。笑うことによって幸せな空気が創られることを知っていた六左衛門さん。その数々のお話、生き生きした景色は、時代を超えて私たちまでも幸せにしてくれるのです。
[ 07:58 ] [ あやべの文化財 ]
○小畑祭 小畑村史は作られていないようで「豊里村史」から集録した
小畑祭は、古来郡内でも有名な祭であって、その賑かさは、近郊の祭礼中、最も人出の多いのは吉美高倉神社の祭 最も盛大なのは小畑の馬場といわれている。
毎年旧9月16日が祭日である。馬場は鍛冶屋、幅三間・長さ一町半許り。15日の夜は、宵宮といって、各々氏神前で祭礼を行い、翌16日は、中、鍛治屋、小西の三部落より、神輿四社・屋台三社、その他鉾2つ以上、獅子各々1宛の渡御がある。
当日は正午を期して、各部落共氏神境内に参集し、勢揃いして馬場に向う。その行列を「シグルマ」と称し、神木・金弊・木鉾・御旗を持ち、20~40名の壮者が袴の股立をとり、鉢巻を締め、白張に身を固めて神輿を担ぎ、獅子・鉾などが前後して続く。次に祭礼組(屋台の練り込みを行う仲間)は、先箱・神弓・ミケシ立傘・台傘・槍を両側に配し、その中に大・中鳥毛を打振って供し、次に屋台が後に太鼓・鉦・笛等十数名の若者を従えて続く。これは徳川時代の大名の参観交替を擬した行列であり、神輿が全部揃うと見物の所謂練り込みが始まる。全員宮の定紋付き平袖の襦袢を着用し。脚絆・草鞋がけの姿も凛々しく、夫々の所礼を奉納する。即ち、先箱・弓・ミケシ・台傘・槍の順序に左右に分れ、その中央で中・大鳥毛各三名宛交替で、或いは高く或いは低く掛声勇ましく振り回す。俗に云うヤツコ振り)様式は三社共異なる。これに続いて屋台を引出す。屋台の後に太鼓を据え、鉦を吊し、笛を吹く者之に続く。この笛・鉦・大鼓による古色豊かな合奏が奉納せられ、一曲終る毎に十二名の青年(四本柱と言う)が笛や太鼓に合せて祇園噺を歌い、屋台は前進する。
この練り込みが終ると、以前は三頭の神馬が競馬を行うこと三回を以て全祭礼が終了するのであった。(現在競馬は中止)そして神輿の還御・屋台は合奏しながら夫々の宮に帰る。
小畑祭は、古来郡内でも有名な祭であって、その賑かさは、近郊の祭礼中、最も人出の多いのは吉美高倉神社の祭 最も盛大なのは小畑の馬場といわれている。
毎年旧9月16日が祭日である。馬場は鍛冶屋、幅三間・長さ一町半許り。15日の夜は、宵宮といって、各々氏神前で祭礼を行い、翌16日は、中、鍛治屋、小西の三部落より、神輿四社・屋台三社、その他鉾2つ以上、獅子各々1宛の渡御がある。
当日は正午を期して、各部落共氏神境内に参集し、勢揃いして馬場に向う。その行列を「シグルマ」と称し、神木・金弊・木鉾・御旗を持ち、20~40名の壮者が袴の股立をとり、鉢巻を締め、白張に身を固めて神輿を担ぎ、獅子・鉾などが前後して続く。次に祭礼組(屋台の練り込みを行う仲間)は、先箱・神弓・ミケシ立傘・台傘・槍を両側に配し、その中に大・中鳥毛を打振って供し、次に屋台が後に太鼓・鉦・笛等十数名の若者を従えて続く。これは徳川時代の大名の参観交替を擬した行列であり、神輿が全部揃うと見物の所謂練り込みが始まる。全員宮の定紋付き平袖の襦袢を着用し。脚絆・草鞋がけの姿も凛々しく、夫々の所礼を奉納する。即ち、先箱・弓・ミケシ・台傘・槍の順序に左右に分れ、その中央で中・大鳥毛各三名宛交替で、或いは高く或いは低く掛声勇ましく振り回す。俗に云うヤツコ振り)様式は三社共異なる。これに続いて屋台を引出す。屋台の後に太鼓を据え、鉦を吊し、笛を吹く者之に続く。この笛・鉦・大鼓による古色豊かな合奏が奉納せられ、一曲終る毎に十二名の青年(四本柱と言う)が笛や太鼓に合せて祇園噺を歌い、屋台は前進する。
この練り込みが終ると、以前は三頭の神馬が競馬を行うこと三回を以て全祭礼が終了するのであった。(現在競馬は中止)そして神輿の還御・屋台は合奏しながら夫々の宮に帰る。
なお、子供の祭太鼓も有名である。これも亦練り込み太鼓とも云われ、三社各様式を異にするが、祭礼の華である。
祭礼の起原については詳でない。
赤国神社・沢神社・大川神社・大嶋神社合同の三宅天神馬場での祭礼も賑かである。小畑祭と大同小異。毎年十月九日が例祭日。
○白髭神社
所在 豊里村字中小字別所
祭神 仲哀天皇、神功皇后、武内宿弥
縁起 ロ碑によると。本社はもと本村北隅の宮ケ嶽頂上に鎮座、船並に火防の守護神として崇敬せられた。後年、参詣不便の為現在の山麓に遷座した。祭神の武内宿弥とは、明治十六年四月社寺取調の際からか、古くは猿田彦之命と伝えている。(明治十七半社寺明細帳) 宮ケ嶽の地名、天狗の止り松の老木はこれ等に関係があろう。
現在の社殿は、文政二乙卯年四月の改造、境内に梵字を記した塔身あり。
境内小社
・八坂神社 祭神 素戔嗚尊 由緒不詳 文政二年本社再建の時創祭と記録あり。
・愛宕神社 祭神 火産霊神 由緒等仝豹
・山の神 もと原貝より現地に勧請
祭礼
古くは10月15日。作田の高稲場で、後松原の白ひげ馬場で行う。現在は10月16日。
○武大神社
所在 豊里村字中小字五反
祭神 素戔嗚尊
由緒 不詳 寛政11年再建と伝う。境内に大杉あり、周囲5米30
〇二の宮神社
所在 豊里村字中小字正名
祭神 速玉男之神、伊邪諾神、事解男之神
由緒 一名熊野神社、創立年月不詳、口碑に貞観二年創立、寛文十三丑年紀伊国本宮より熊野神社を勧請し祭祀すと。御神体は、聖観音。
祭礼 例祭は10月16日、武大神と共に行う、武大神には神輿なく御鉾あり、二宮には御鉾なく神輿あり。祭礼音頭は、京都三十三間堂の棟上音頭という。
鳥居 本社は両部鳥居という。真言宗・天台宗に関係ある神社に用いると。
末社
・蛭子神社 祭神 蛭子犬神 創立天明五巳年
・大社神社 祭神 大国主命 創立 仝
・八幡宮社 祭神 譽田別天皇 仝
・若宮神社 祭神 稚郎子皇子 仝 ・大川御社 祭御 由緒不詳
境外社
・八幡神社 所在 字中小字作田、祭御 忘紳天皇
・稲荷紳社 所在 字中小字原貝、祭紳 倉稲魂神 創立 文久二半正月三十日
(資料として、稲荷本宮羽倉伯耆守内神役人の証二通あり。)
○一の宮御社
所庇 豊里村字鍛冶屋小宇佐陀 、。
祭紳 伊那那岐神、速玉男之紳、事解男之神
由緒 創立年月不詳、口碑によれば、貞観二庚辰年造営、又寛文十三癸丑年(延宝元年の棟札ありと。なお当社は元延喜式内佐陀神社たりしも、中古紀伊国熊野紳社を勧請合祀し、社号を一の宮神社と改称すと。
資料 元禄十三年社堂改帳に「一の宮天明紳、右者熊野三社之内本宮権現のながれと申し伝候、然共何にてもゑんぎは無御座候」とあり、叉、元文五庚年申四月仏誕生会の丹波何鹿郡小畑庄鍛冶屋村神記に、当社並に二の宮・三の宮祭祀の記事あり。
延喜武内佐田神社に決定請願の文書あり。
宝物 経筒瓶及び経筒あり。大正七年拝殿改築の際発掘
神像二休 不鮮明で虫食なるも古雅な衣冠姿の像
境外社
・空山神社 所在 字鍛冶屋小字空山八番地 祭神 弥都波能売神 縁起 不詳
・秋葉神社 所在 字鍛治屋小字空山七番地 祭神 迦具土神 縁起 不詳
・三宝荒神(元禄十三年文書)村中に有り、奥津比古神社とも称す。
・大田神社 祭神は倉稲魂神 もと一の宮境内にあつたが大正15年4月移転して現在荒神の上
祭礼の起原については詳でない。
赤国神社・沢神社・大川神社・大嶋神社合同の三宅天神馬場での祭礼も賑かである。小畑祭と大同小異。毎年十月九日が例祭日。
○白髭神社
所在 豊里村字中小字別所
祭神 仲哀天皇、神功皇后、武内宿弥
縁起 ロ碑によると。本社はもと本村北隅の宮ケ嶽頂上に鎮座、船並に火防の守護神として崇敬せられた。後年、参詣不便の為現在の山麓に遷座した。祭神の武内宿弥とは、明治十六年四月社寺取調の際からか、古くは猿田彦之命と伝えている。(明治十七半社寺明細帳) 宮ケ嶽の地名、天狗の止り松の老木はこれ等に関係があろう。
現在の社殿は、文政二乙卯年四月の改造、境内に梵字を記した塔身あり。
境内小社
・八坂神社 祭神 素戔嗚尊 由緒不詳 文政二年本社再建の時創祭と記録あり。
・愛宕神社 祭神 火産霊神 由緒等仝豹
・山の神 もと原貝より現地に勧請
祭礼
古くは10月15日。作田の高稲場で、後松原の白ひげ馬場で行う。現在は10月16日。
○武大神社
所在 豊里村字中小字五反
祭神 素戔嗚尊
由緒 不詳 寛政11年再建と伝う。境内に大杉あり、周囲5米30
〇二の宮神社
所在 豊里村字中小字正名
祭神 速玉男之神、伊邪諾神、事解男之神
由緒 一名熊野神社、創立年月不詳、口碑に貞観二年創立、寛文十三丑年紀伊国本宮より熊野神社を勧請し祭祀すと。御神体は、聖観音。
祭礼 例祭は10月16日、武大神と共に行う、武大神には神輿なく御鉾あり、二宮には御鉾なく神輿あり。祭礼音頭は、京都三十三間堂の棟上音頭という。
鳥居 本社は両部鳥居という。真言宗・天台宗に関係ある神社に用いると。
末社
・蛭子神社 祭神 蛭子犬神 創立天明五巳年
・大社神社 祭神 大国主命 創立 仝
・八幡宮社 祭神 譽田別天皇 仝
・若宮神社 祭神 稚郎子皇子 仝 ・大川御社 祭御 由緒不詳
境外社
・八幡神社 所在 字中小字作田、祭御 忘紳天皇
・稲荷紳社 所在 字中小字原貝、祭紳 倉稲魂神 創立 文久二半正月三十日
(資料として、稲荷本宮羽倉伯耆守内神役人の証二通あり。)
○一の宮御社
所庇 豊里村字鍛冶屋小宇佐陀 、。
祭紳 伊那那岐神、速玉男之紳、事解男之神
由緒 創立年月不詳、口碑によれば、貞観二庚辰年造営、又寛文十三癸丑年(延宝元年の棟札ありと。なお当社は元延喜式内佐陀神社たりしも、中古紀伊国熊野紳社を勧請合祀し、社号を一の宮神社と改称すと。
資料 元禄十三年社堂改帳に「一の宮天明紳、右者熊野三社之内本宮権現のながれと申し伝候、然共何にてもゑんぎは無御座候」とあり、叉、元文五庚年申四月仏誕生会の丹波何鹿郡小畑庄鍛冶屋村神記に、当社並に二の宮・三の宮祭祀の記事あり。
延喜武内佐田神社に決定請願の文書あり。
宝物 経筒瓶及び経筒あり。大正七年拝殿改築の際発掘
神像二休 不鮮明で虫食なるも古雅な衣冠姿の像
境外社
・空山神社 所在 字鍛冶屋小字空山八番地 祭神 弥都波能売神 縁起 不詳
・秋葉神社 所在 字鍛治屋小字空山七番地 祭神 迦具土神 縁起 不詳
・三宝荒神(元禄十三年文書)村中に有り、奥津比古神社とも称す。
・大田神社 祭神は倉稲魂神 もと一の宮境内にあつたが大正15年4月移転して現在荒神の上
○三の宮神社
所在 豊里村字小西小字中山
祭神 事解男之神、伊弉諾神、速玉男之神
由緒 口碑に云う「往古は同村小西小字古宮に鎮座ありしが、何れの時代にか現在の地に移遷せり」と。叉、元禄十三年社堂改帳によれば、「此神社者昔小畑庄に熊野表三山奉遷三社其一座と申伝候」とあり。再建貞享三年、改修昭和三年。
末社
・稲荷神社 所在 字小西小字宮ノ前 祭神 倉稲魂神 由緒 創立不詳、享和三年再建
・八坂神社 所在 字小西小字荒神下、祭神 健速須佐之男命 由緒 不詳 俗称小西神社又祇園神社
・秋葉神社 所在 字小西小字宮の前、祭神 迦具土紳
・大川神社 所在 三の宮境内、祭神 風火金氷土神 由緒 不詳、口碑には往古山頂に祀る後、森ケ下に奉遷、天明二年社殿再建、明治六年現地に移遷とあり。
○八幡宮社
所在 豊里村字今田小字長源名
祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、仁徳天皇、武内宿弥
由緒 不詳。本社は惣持院の鎮守、小西、今田立合の宮、往古は結構の宮なりしも、今は大破して昔日の面影を止めずと。
資料 元禄十三年社堂改帳に曰く、「八幡宮、普明山如意輪観音鎮守也。(中略)右神社は小西村今田村立合の宮にて、則境内も面村入組に候」と
伝説口碑 昔、本社に左甚五郎の作と伝える蝉錠あり。時ならぬ季節に蝉の鳴声を発す。人々不思議がり稀代の奇宝として珍重せしが、慶長三年九月。福知山城主小野木縫殿介、丹後国田辺城主(現舞鶴)細川幽斎を攻めんとして出陣の
所在 豊里村字小西小字中山
祭神 事解男之神、伊弉諾神、速玉男之神
由緒 口碑に云う「往古は同村小西小字古宮に鎮座ありしが、何れの時代にか現在の地に移遷せり」と。叉、元禄十三年社堂改帳によれば、「此神社者昔小畑庄に熊野表三山奉遷三社其一座と申伝候」とあり。再建貞享三年、改修昭和三年。
末社
・稲荷神社 所在 字小西小字宮ノ前 祭神 倉稲魂神 由緒 創立不詳、享和三年再建
・八坂神社 所在 字小西小字荒神下、祭神 健速須佐之男命 由緒 不詳 俗称小西神社又祇園神社
・秋葉神社 所在 字小西小字宮の前、祭神 迦具土紳
・大川神社 所在 三の宮境内、祭神 風火金氷土神 由緒 不詳、口碑には往古山頂に祀る後、森ケ下に奉遷、天明二年社殿再建、明治六年現地に移遷とあり。
○八幡宮社
所在 豊里村字今田小字長源名
祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、仁徳天皇、武内宿弥
由緒 不詳。本社は惣持院の鎮守、小西、今田立合の宮、往古は結構の宮なりしも、今は大破して昔日の面影を止めずと。
資料 元禄十三年社堂改帳に曰く、「八幡宮、普明山如意輪観音鎮守也。(中略)右神社は小西村今田村立合の宮にて、則境内も面村入組に候」と
伝説口碑 昔、本社に左甚五郎の作と伝える蝉錠あり。時ならぬ季節に蝉の鳴声を発す。人々不思議がり稀代の奇宝として珍重せしが、慶長三年九月。福知山城主小野木縫殿介、丹後国田辺城主(現舞鶴)細川幽斎を攻めんとして出陣の
2006/10/30のBlog
[ 15:27 ] [ あやべの文化財 ]
旧村部で一番賑やかな祭りと聞く「小畑のヤッコ振り」の資料を求めて綾部市図書館へ行った2冊の小冊子があった。
昭和52年3月発刊「ふるさち綾部の祭り」観光協会
一の宮神社(鍛冶屋町):祭りは10月10日、以前には有名な小畑祭の中心のお宮として盛大なお祭り行事が行われていたが、現在は神前に神輿をまつるだけになっている。
小畑祭は神輿、屋台の行列に大名行列、ヤッコ振り等その盛大さはまことに立派なものであったが、今全くそれが中止されていることは残念である。しかし道具や衣装などは大切に保存されているので、いつの日にかそれが復活されればうれしいことである。2冊とも同じように「ヤッコ振り」断絶を記録している内容であった
昭和52年3月発刊「ふるさち綾部の祭り」観光協会
一の宮神社(鍛冶屋町):祭りは10月10日、以前には有名な小畑祭の中心のお宮として盛大なお祭り行事が行われていたが、現在は神前に神輿をまつるだけになっている。
小畑祭は神輿、屋台の行列に大名行列、ヤッコ振り等その盛大さはまことに立派なものであったが、今全くそれが中止されていることは残念である。しかし道具や衣装などは大切に保存されているので、いつの日にかそれが復活されればうれしいことである。2冊とも同じように「ヤッコ振り」断絶を記録している内容であった
実際は昭和46年9月発刊の「丹の国・綾部:綾部青年会議所編」に写真家の撮られた「小畑のヤッコ振り」が掲載されているので、随分早くから復活していたことを地元の人から確認できた。
写真説明:小畑のやっこ振り:
古来当地方で有名な祭りである。そのにぎやかさは、近郊の祭礼中、最も人出の多いのは、吉美高倉神社の祭、最も盛んなのは小畑の馬場といわれた
写真説明:小畑のやっこ振り:
古来当地方で有名な祭りである。そのにぎやかさは、近郊の祭礼中、最も人出の多いのは、吉美高倉神社の祭、最も盛んなのは小畑の馬場といわれた
[ 13:45 ] [ あやべの文化財 ]
四方續夫事務局長より、投稿の某八幡宮の祭神について、応仁天皇とあるのは誤字で八幡大菩薩=応神天皇、母:神功皇后であるとの指摘があった。
歴代天皇について文庫本「歴代天皇事典:高森明勅著:PHP文庫が出版されたので紹介する。なお綾部(漢部)に関係の深い漢氏(あやし)、秦氏(はたし)の来歴についても記述があり、応神天皇の項を引用する。
第十五代 応神天皇
御名・異名:譽田別尊(ほむたわけのみこと)生没年:?(?~394?)(?歳)、在位:41年?、父:仲哀天皇、母:気長足姫尊(神功皇后)、皇后:仲姫命(五百城入彦皇子の孫)
仲哀天皇の死後、皇太后(神功皇后)が朝鮮に出兵し、新羅を服属させた。そして、筑紫に帰り、皇子を産んだ。こうして誕生したのが譽田別尊だが、出産のとき、この皇子の腕には肉が盛り上がっていた。それが、皇太后が雄々しく男装して鞆(ほむた:弓の弦が左臂に当たるのを防ぐためにつける革製の道具)をつけたのに似ていた。そこで、それをたたえて譽田天皇といった。
譽田別尊は幼いときから聡明で、ものごとを深く遠くまで見通した。立ち居振舞いにも不思議と聖帝のきざしがあったという。三歳で皇太子となり、摂政として政事を行っていた皇太后が崩御すると、即位した(応神天皇)。
応神天皇は四世紀後半から五世紀前半にかけて活躍したと考えられる天皇で、皇太后のあとを受けて、積極的な外交を行った。高句麗、百済、新羅から入貢があり、それに伴いたくさんの文化や技術も伝えられた。たとえば、応神十六年に百済から王仁が来朝し、皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらっこ)に諸々の典籍を教えた。この王仁の来朝により、日本に儒学が伝来されたといわれている。
かっては、文字が日本に伝わったのも王仁の来朝によるものといわれてきたが、文字の伝来はずっと古く、一世紀には入っていたと考えられる。
技術についても、応神20年に漢人の阿知使主(あちのおみ)が大勢の人々を率いて日本に渡来し、漢氏(あやし)となって大陸の新技術を伝えた。
また、秦の始皇帝の子孫という秦氏が日本に渡来したのも天皇の時代といわれ、秦氏は各地に分散して養蚕、機織の技術を広めた。こうして日本は、政治、外交だけでなく、文化や学問においても国家としてより一層発展していった。
応神二十二年、天皇が難波の大隅宮で高台に登って遠くを眺めていると、妃の兄緩(えひめ)が大いに歎いた。そこで天皇が理由を問くと、「父母が恋しく悲しくなったのです」と答え、「しばらく親元へ帰して欲しい」と願った。すると天皇は、兄緩か何年も両親と会っていないのを思い、ただちに願いを聞いたという。
天皇は『古事記』によると百三十歳(『日本書紀』では百十歳)で崩御した。応神天皇陵といわれる誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(大阪府羽曳野市)は、国内第二位の大規模な古墳として知られている。
歴代天皇について文庫本「歴代天皇事典:高森明勅著:PHP文庫が出版されたので紹介する。なお綾部(漢部)に関係の深い漢氏(あやし)、秦氏(はたし)の来歴についても記述があり、応神天皇の項を引用する。
第十五代 応神天皇
御名・異名:譽田別尊(ほむたわけのみこと)生没年:?(?~394?)(?歳)、在位:41年?、父:仲哀天皇、母:気長足姫尊(神功皇后)、皇后:仲姫命(五百城入彦皇子の孫)
仲哀天皇の死後、皇太后(神功皇后)が朝鮮に出兵し、新羅を服属させた。そして、筑紫に帰り、皇子を産んだ。こうして誕生したのが譽田別尊だが、出産のとき、この皇子の腕には肉が盛り上がっていた。それが、皇太后が雄々しく男装して鞆(ほむた:弓の弦が左臂に当たるのを防ぐためにつける革製の道具)をつけたのに似ていた。そこで、それをたたえて譽田天皇といった。
譽田別尊は幼いときから聡明で、ものごとを深く遠くまで見通した。立ち居振舞いにも不思議と聖帝のきざしがあったという。三歳で皇太子となり、摂政として政事を行っていた皇太后が崩御すると、即位した(応神天皇)。
応神天皇は四世紀後半から五世紀前半にかけて活躍したと考えられる天皇で、皇太后のあとを受けて、積極的な外交を行った。高句麗、百済、新羅から入貢があり、それに伴いたくさんの文化や技術も伝えられた。たとえば、応神十六年に百済から王仁が来朝し、皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらっこ)に諸々の典籍を教えた。この王仁の来朝により、日本に儒学が伝来されたといわれている。
かっては、文字が日本に伝わったのも王仁の来朝によるものといわれてきたが、文字の伝来はずっと古く、一世紀には入っていたと考えられる。
技術についても、応神20年に漢人の阿知使主(あちのおみ)が大勢の人々を率いて日本に渡来し、漢氏(あやし)となって大陸の新技術を伝えた。
また、秦の始皇帝の子孫という秦氏が日本に渡来したのも天皇の時代といわれ、秦氏は各地に分散して養蚕、機織の技術を広めた。こうして日本は、政治、外交だけでなく、文化や学問においても国家としてより一層発展していった。
応神二十二年、天皇が難波の大隅宮で高台に登って遠くを眺めていると、妃の兄緩(えひめ)が大いに歎いた。そこで天皇が理由を問くと、「父母が恋しく悲しくなったのです」と答え、「しばらく親元へ帰して欲しい」と願った。すると天皇は、兄緩か何年も両親と会っていないのを思い、ただちに願いを聞いたという。
天皇は『古事記』によると百三十歳(『日本書紀』では百十歳)で崩御した。応神天皇陵といわれる誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(大阪府羽曳野市)は、国内第二位の大規模な古墳として知られている。
2006/10/22のBlog
[ 07:51 ] [ あやべの文化財 ]
綾部市資料館第14回特別展示
会期:平成18年10月28日(土)~11月26日(日) 展観料200円(中学生以下は無料)
羽室家収蔵品と綾部の文化
綾部藩綾部組大庄屋であった羽室家は、綾部一の豪商として藩財政を支え、近代においても綾部の経済界の一翼を担ってきた名家です。その羽室本家を今に引き継ぐ広小路羽室家の蔵に収蔵されてきた資料は、各種道具類・軸物・屏風・古文書など数千点にもなり、これらはまさに綾部の近世~近代の町の歩みを物語るものです。今回、羽室家のご協力を得て、初めて蔵の封印が解かれ、綾部市資料館で展示公開されることとなりました。
会期:平成18年10月28日(土)~11月26日(日) 展観料200円(中学生以下は無料)
羽室家収蔵品と綾部の文化
綾部藩綾部組大庄屋であった羽室家は、綾部一の豪商として藩財政を支え、近代においても綾部の経済界の一翼を担ってきた名家です。その羽室本家を今に引き継ぐ広小路羽室家の蔵に収蔵されてきた資料は、各種道具類・軸物・屏風・古文書など数千点にもなり、これらはまさに綾部の近世~近代の町の歩みを物語るものです。今回、羽室家のご協力を得て、初めて蔵の封印が解かれ、綾部市資料館で展示公開されることとなりました。
「羽室家展」について
綾部資料館に広小路・羽室家の収蔵品一括寄贈
広小路・羽室家は、元禄5年(1692)広小路の現在地に屋敷を構えて以来、三百有余年の歴史を経て今日に至っています。
今度び「広小路・羽室家展」の展示品は、昨年(平成↓7年の春から夏にかけ)、綾部資料館に広小路・羽室家の「蔵の収蔵品を一括寄贈」いたしました。
収蔵品は、各道具類・掛軸・屏風・古文書などであり、郷土・綾部の研究に、役たてばという願いから、私(羽室功一)の一存で決定し寄贈いたしました。
江戸時代から明治時代に至る「古文書」類は、今後の郷土・綾部の歴史が郷土史家により、いっそう深く解明されます事と思われます。
亦「各道具類・掛軸・屏風」などは、「丹波之国・綾部藩」「広小路・羽室家」の解説文を、ご覧いただければ幸いです。
<期間中「展示品」は、数回に亘り入替えがあります。>
「広小路・羽室家展」の展示期間は、下記の通りです。
平成18年10月28日(土)~11月26日(日)
この機会をお見逃しなく、是非ご覧ください。
綾部・広小路・羽室家 第十一代当主 羽室功一
綾部資料館に広小路・羽室家の収蔵品一括寄贈
広小路・羽室家は、元禄5年(1692)広小路の現在地に屋敷を構えて以来、三百有余年の歴史を経て今日に至っています。
今度び「広小路・羽室家展」の展示品は、昨年(平成↓7年の春から夏にかけ)、綾部資料館に広小路・羽室家の「蔵の収蔵品を一括寄贈」いたしました。
収蔵品は、各道具類・掛軸・屏風・古文書などであり、郷土・綾部の研究に、役たてばという願いから、私(羽室功一)の一存で決定し寄贈いたしました。
江戸時代から明治時代に至る「古文書」類は、今後の郷土・綾部の歴史が郷土史家により、いっそう深く解明されます事と思われます。
亦「各道具類・掛軸・屏風」などは、「丹波之国・綾部藩」「広小路・羽室家」の解説文を、ご覧いただければ幸いです。
<期間中「展示品」は、数回に亘り入替えがあります。>
「広小路・羽室家展」の展示期間は、下記の通りです。
平成18年10月28日(土)~11月26日(日)
この機会をお見逃しなく、是非ご覧ください。
綾部・広小路・羽室家 第十一代当主 羽室功一
丹波の国・綾部藩(解説)
江戸時代、丹波の国・綾部藩(藩主・九鬼氏)は、外様二萬石の極小藩であった。藩士の数は約200人で、その4~5割前後は江戸藩邸詰、他に京都藩邸詰も若干いた。
綾部藩は江戸藩邸を経済的に支えるための費用を、大坂で捻出するために、生産物の米を船便で輸送していた。
米を大坂に輸送するためには、由良川筋の綾部・福知山・田辺(現在の舞鶴市)各藩の領川を下り、日本海に運び出す必要があった。川を船で運送するためには、通行料のほか・船代・船頭・人足を他領から借用しなければならなかった。
綾部藩米は大嶋の津、今の中筋地区大島町から20石船で出港し、福知山で50石船に積替え、丹後の国・有路にいったん寄港、由良みなとから500石船、10 0 0石船に積替えて西廻り航路で大坂に運んだ。(大坂~江戸間の輸送は、三井等の豪商が為替で精算・送金する)
綾部藩は輸送航路のほとんどを他領・他藩に依存するため、通船料・運賃・船頭・人足料などの負担で、大坂に着いたときには米が何割も目減りしたという。
領内の奥地から外洋に至る土地を領有する大藩は、運送路を他領・他藩に依存することがないためその差は大きかった。大藩は物資の運送を懸屋(かけや)に任せ、取扱いの特権を受けた廻船問屋の大商人たちは、他の湊に寄港する度に産物の売買で莫大な富を蓄積していった。たとえば、庄内平野(今の山形県酒田市)の本間家は北前航路で産を成し、「本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に」と唄われたぐらいであった。
同じ石高の小藩であっても海添の藩とは財政的に大きな差を生む宿命を背負っていた。しかも、綾部藩は後の繭・生糸のような米に代わる産物を持たなかったため、山林から上る収益の小物成(米以外の諸税・雑税)も、山林の差配が山家藩の権益であったため、藩はいっそう困窮していたと言われている。
江戸時代、丹波の国・綾部藩(藩主・九鬼氏)は、外様二萬石の極小藩であった。藩士の数は約200人で、その4~5割前後は江戸藩邸詰、他に京都藩邸詰も若干いた。
綾部藩は江戸藩邸を経済的に支えるための費用を、大坂で捻出するために、生産物の米を船便で輸送していた。
米を大坂に輸送するためには、由良川筋の綾部・福知山・田辺(現在の舞鶴市)各藩の領川を下り、日本海に運び出す必要があった。川を船で運送するためには、通行料のほか・船代・船頭・人足を他領から借用しなければならなかった。
綾部藩米は大嶋の津、今の中筋地区大島町から20石船で出港し、福知山で50石船に積替え、丹後の国・有路にいったん寄港、由良みなとから500石船、10 0 0石船に積替えて西廻り航路で大坂に運んだ。(大坂~江戸間の輸送は、三井等の豪商が為替で精算・送金する)
綾部藩は輸送航路のほとんどを他領・他藩に依存するため、通船料・運賃・船頭・人足料などの負担で、大坂に着いたときには米が何割も目減りしたという。
領内の奥地から外洋に至る土地を領有する大藩は、運送路を他領・他藩に依存することがないためその差は大きかった。大藩は物資の運送を懸屋(かけや)に任せ、取扱いの特権を受けた廻船問屋の大商人たちは、他の湊に寄港する度に産物の売買で莫大な富を蓄積していった。たとえば、庄内平野(今の山形県酒田市)の本間家は北前航路で産を成し、「本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に」と唄われたぐらいであった。
同じ石高の小藩であっても海添の藩とは財政的に大きな差を生む宿命を背負っていた。しかも、綾部藩は後の繭・生糸のような米に代わる産物を持たなかったため、山林から上る収益の小物成(米以外の諸税・雑税)も、山林の差配が山家藩の権益であったため、藩はいっそう困窮していたと言われている。
広小路・羽室家(解説)
羽室家は寛永11年(1634)に綾部に入ったといわれ、商才を発揮、次第に産を成し、宝暦(1751)頃には幾家にも枝別れする経済力をもった。いずれも屋号を「京屋」と号し、領内中枢の綾部組・中筋組の大庄屋を世襲するようになった。
広小路・羽室家は元禄5年(1692)に広小路の現在地に分家し、屋敷を構えることになった。(延村、現在の中筋地区延町の羽室嘉右衛門家は、元禄15年、町の羽室家から分家した。)
その後、広小路・羽室家は領内の経済の中心地である綾部組(今の綾部小学区)12ケ村を束ねる大庄屋を代々勤めるようになった。
江戸中期後、羽室家は懸崖(掛屋)として藩の出納を取り仕切るようになり、藩札の発行、両替等で藩の財政に深くかかわっていくと共に、酒造業・油搾業も営んでいった。
しかしながら、同じ石高の他藩に比べ、米の換金での大きな差や、米以外の主産物・特産物をほとんどもたなかったため、流通や売買での利益の蓄積ができなかった綾部藩での御用商人、「羽室家の展示物」であることをおふくみいただきたい。
明治に入ると、広小路・羽室家(九代当主・羽室榮吉)は、「郡是製絲創立」にかかわり、延村の羽室家(羽室嘉右衛門)、町の羽室家(羽室九左衛門・羽室荘治)と共に中心的な役割を担った。明治36年(1903)金融恐慌の影響(取立て騒動)で綾部の蚕糸業を中心とした三銀行(明瞭銀行・綾部銀行・綾部貯蓄銀行)は、解散の止むなきに追詰められた。
その後、綾部三銀行の経営に参加した羽室一族(羽室榮吉・羽室九左衛門・羽室荘治・羽室嘉右衛門)と、大槻藤左衛門(山崎屋)、大槻重兵衛(扇屋)等は没落の一途をたどることになった。
広小路・羽室家(羽室榮吉)は、こうした経済的背景の下で、辛うじて生延び現在に至っている。
上述の歴史的背景を勘案の上で、「羽室家展」をご覧いただければ幸甚である。
http://ayabun.net/rekisi/hamuro.html
羽室家は寛永11年(1634)に綾部に入ったといわれ、商才を発揮、次第に産を成し、宝暦(1751)頃には幾家にも枝別れする経済力をもった。いずれも屋号を「京屋」と号し、領内中枢の綾部組・中筋組の大庄屋を世襲するようになった。
広小路・羽室家は元禄5年(1692)に広小路の現在地に分家し、屋敷を構えることになった。(延村、現在の中筋地区延町の羽室嘉右衛門家は、元禄15年、町の羽室家から分家した。)
その後、広小路・羽室家は領内の経済の中心地である綾部組(今の綾部小学区)12ケ村を束ねる大庄屋を代々勤めるようになった。
江戸中期後、羽室家は懸崖(掛屋)として藩の出納を取り仕切るようになり、藩札の発行、両替等で藩の財政に深くかかわっていくと共に、酒造業・油搾業も営んでいった。
しかしながら、同じ石高の他藩に比べ、米の換金での大きな差や、米以外の主産物・特産物をほとんどもたなかったため、流通や売買での利益の蓄積ができなかった綾部藩での御用商人、「羽室家の展示物」であることをおふくみいただきたい。
明治に入ると、広小路・羽室家(九代当主・羽室榮吉)は、「郡是製絲創立」にかかわり、延村の羽室家(羽室嘉右衛門)、町の羽室家(羽室九左衛門・羽室荘治)と共に中心的な役割を担った。明治36年(1903)金融恐慌の影響(取立て騒動)で綾部の蚕糸業を中心とした三銀行(明瞭銀行・綾部銀行・綾部貯蓄銀行)は、解散の止むなきに追詰められた。
その後、綾部三銀行の経営に参加した羽室一族(羽室榮吉・羽室九左衛門・羽室荘治・羽室嘉右衛門)と、大槻藤左衛門(山崎屋)、大槻重兵衛(扇屋)等は没落の一途をたどることになった。
広小路・羽室家(羽室榮吉)は、こうした経済的背景の下で、辛うじて生延び現在に至っている。
上述の歴史的背景を勘案の上で、「羽室家展」をご覧いただければ幸甚である。
http://ayabun.net/rekisi/hamuro.html
2006/10/21のBlog
[ 20:42 ] [ あやべの文化財 ]
2006/10/20のBlog
[ 16:45 ] [ あやべの文化財 ]
提灯、見送りに飾られた屋台の後は囃子方で締め太鼓、鉦4人笛8~10人が続く。曲は京都祇園祭の囃子を模したもので、幽雅な曲が屋台の止まる要所毎に奏される.。鉦は屋台の上部から細い紐でつるされており、それを左手に引きよせて槌で叩いている
[ 09:17 ] [ あやべの文化財 ]