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2006/04/16のBlog
[ 09:58 ] [ あやべの文化財 ]
拝殿正面の欄間、龍(上)、狛獅子(下)
彫り師は八津合八幡宮の彫刻など丹波の彫り師である中井氏
大原神社本殿:寛政8年(1796)伝
天保3年(1832) 正面唐皮風下:中井丈五郎正忠/子:中井権次正貞
天保8年(1837) 拝殿側面頭貫:中井丈五郎正忠 /久須善兵衛政精
彫り師は八津合八幡宮の彫刻など丹波の彫り師である中井氏
大原神社本殿:寛政8年(1796)伝
天保3年(1832) 正面唐皮風下:中井丈五郎正忠/子:中井権次正貞
天保8年(1837) 拝殿側面頭貫:中井丈五郎正忠 /久須善兵衛政精
2006/04/15のBlog
[ 13:45 ] [ あやべの文化財 ]
2006/04/05のBlog
[ 11:44 ] [ あやべの文化財 ]
2006/04/03のBlog
[ 17:02 ] [ あやべの文化財 ]
4月2日(日)高津八幡宮春季大祭
09;40から子供神輿が出発ですが、大槻正明宮司、今修業中のS・Yさん(白い服装、でなんと小生の長男がホテル綾部で結婚したさい、綾部高等学校のカルテットのバンド演奏してくれ彼女達のひとりでした。)そして、神社総代さんで、バックに「子供神輿」一行が高津中を練り歩きます。
09;40から子供神輿が出発ですが、大槻正明宮司、今修業中のS・Yさん(白い服装、でなんと小生の長男がホテル綾部で結婚したさい、綾部高等学校のカルテットのバンド演奏してくれ彼女達のひとりでした。)そして、神社総代さんで、バックに「子供神輿」一行が高津中を練り歩きます。
2006/02/02のBlog
[ 15:34 ] [ あやべの文化財 ]
2006/01/09のBlog
[ 13:44 ] [ あやべの文化財 ]
[ 13:40 ] [ あやべの文化財 ]
山家城址・武家屋敷・覚応寺の金剛力士像について5
(4)覚応寺の金剛力士(仁王像)について
もと願成寺と言ったが、廃寺同然となっていたものを、第二代藩主衛政が谷家の菩提寺として小さいお堂を改修し、塩谷山覚応寺と命名した。第三代藩主広公の帰依厚く、方丈、庫裏、阿弥陀堂、仁王門、鐘楼を造営し寺観を整えた。阿弥陀堂は明治三十年大改修を行ったが、その後、堂の守りが難しく、福知山市興の人・日本茶道会の田中仙氏に買われ、現在も汽車から見える青い屋根の「法輪殿」として大切に保存されている。
仁王門にあった金剛力士像は願成寺の遺物で、運慶の作と伝えられているが、昭和四十四年危うく海外流出となるところ、京都国立博物館に買い上げられ保存されている。事実この仁王像の事件を契機として「綾部の文化財を守る会」が結成されたと聞いている。イギリスには「国立美術品蒐集保存基金」があり美術品の海外流出を防いでいると聞く。綾部にもこのような公的基金が必要なのではなかろうか。
(4)覚応寺の金剛力士(仁王像)について
もと願成寺と言ったが、廃寺同然となっていたものを、第二代藩主衛政が谷家の菩提寺として小さいお堂を改修し、塩谷山覚応寺と命名した。第三代藩主広公の帰依厚く、方丈、庫裏、阿弥陀堂、仁王門、鐘楼を造営し寺観を整えた。阿弥陀堂は明治三十年大改修を行ったが、その後、堂の守りが難しく、福知山市興の人・日本茶道会の田中仙氏に買われ、現在も汽車から見える青い屋根の「法輪殿」として大切に保存されている。
仁王門にあった金剛力士像は願成寺の遺物で、運慶の作と伝えられているが、昭和四十四年危うく海外流出となるところ、京都国立博物館に買い上げられ保存されている。事実この仁王像の事件を契機として「綾部の文化財を守る会」が結成されたと聞いている。イギリスには「国立美術品蒐集保存基金」があり美術品の海外流出を防いでいると聞く。綾部にもこのような公的基金が必要なのではなかろうか。
2006/01/08のBlog
[ 13:50 ] [ あやべの文化財 ]
[ 13:32 ] [ あやべの文化財 ]
山家城址・武家屋敷・覚応寺の金剛力士像について3
慶長五年(1600)関ヶ原の役が始まると谷衛友は西軍の一翼として舞鶴田辺城に細川藤孝(幽斎)を包囲したが、かねてから幽斎と親交があったらしく、弾丸を込めず空砲を撃った。「谷の空鉄砲」と呼ばれている。
古今伝授の継承者である幽斎の戦死を恐れた朝廷からの勅使の勧めにより西軍は囲みを解いた。東軍勝利の後、細川氏のとりなしによって谷氏は所領を満額安堵された。
以後、細川氏と谷氏との間に親交が続き、細川氏が豊前中津へ転封になった時、細川氏自らが資材を持参して山家城下の橋を掛け替えて通り、その後、度々橋が流失した時、肥後の細川氏から資金の援助があった模様で、谷藩ではこれに感謝の意を表すためこの橋を「肥後橋」と呼ぶようになり、今日に至っている。肥後橋から城に通じる坂道も「肥後坂」と呼ばれている。
谷衛友は一万六千石の内、六千石を三人の子供に分け与え、上杉二千五百石、十倉二千石、梅迫一千五百石の旗本として分家させ徳川幕府への忠勤を示した。上杉二千五百石は子供が無く絶えたが、他の二分家は陣屋を持ち明治維新まで続いた。
衛友の肖像画が残っているが、農民か木樵のような服装であり、極めて質素な生活ぶりがうかがえる。歴代藩主は家臣団や領民への気配りも怠らず、家臣に与えた自作自筆の和歌や絵画、領民の高齢者を表彰して与えた軸もの等が残っている。
このような幕府や家臣団、領民への配慮があってか、山家藩は豊臣秀吉以来明治維新まで、減封、転封も無く、ずっと一万石のまま続いた。これは希有のことである。
慶長五年(1600)関ヶ原の役が始まると谷衛友は西軍の一翼として舞鶴田辺城に細川藤孝(幽斎)を包囲したが、かねてから幽斎と親交があったらしく、弾丸を込めず空砲を撃った。「谷の空鉄砲」と呼ばれている。
古今伝授の継承者である幽斎の戦死を恐れた朝廷からの勅使の勧めにより西軍は囲みを解いた。東軍勝利の後、細川氏のとりなしによって谷氏は所領を満額安堵された。
以後、細川氏と谷氏との間に親交が続き、細川氏が豊前中津へ転封になった時、細川氏自らが資材を持参して山家城下の橋を掛け替えて通り、その後、度々橋が流失した時、肥後の細川氏から資金の援助があった模様で、谷藩ではこれに感謝の意を表すためこの橋を「肥後橋」と呼ぶようになり、今日に至っている。肥後橋から城に通じる坂道も「肥後坂」と呼ばれている。
谷衛友は一万六千石の内、六千石を三人の子供に分け与え、上杉二千五百石、十倉二千石、梅迫一千五百石の旗本として分家させ徳川幕府への忠勤を示した。上杉二千五百石は子供が無く絶えたが、他の二分家は陣屋を持ち明治維新まで続いた。
衛友の肖像画が残っているが、農民か木樵のような服装であり、極めて質素な生活ぶりがうかがえる。歴代藩主は家臣団や領民への気配りも怠らず、家臣に与えた自作自筆の和歌や絵画、領民の高齢者を表彰して与えた軸もの等が残っている。
このような幕府や家臣団、領民への配慮があってか、山家藩は豊臣秀吉以来明治維新まで、減封、転封も無く、ずっと一万石のまま続いた。これは希有のことである。