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なべちゃんの散歩道
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ジャンル:あやべの文化財
Blog数:535件
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2005/10/05のBlog
[ 13:41 ] [ あやべの文化財 ]
庫裡の「長井いっか一禾」の四季の鴉(襖絵) と「一禾筆塚」
長井一禾は明治2年新潟県水原町に生まれる。東京に出、中野其明、平福穂庵に師事し、円山派の画法を学ぶ。明治37年(1904)に、当時、東京美術学校に招かれていたフエノロサ博士に見出され、博士の帰国と共に渡米。五年間滞在し、日本画の紹介を兼ね、洋画を研究。ポーランド大博覧会では名誉賞を受賞。帰国後、特にカラス絵の技法が妙を得、大隈重信公から「鴉博士」の称号を贈られる。当山には昭和12年(1937)から翌年かけて滞在。庫裡の四座敷に春夏秋冬のカラスの絵を描く。昭和15年(1940)に没。
春「いく育すう雛の間」両親のカラスが巣にえさを運び、三羽のひなをいつくしみ育てている。カラスのオス、メスはくちばしに特徴があるといわれる。
[ 10:04 ] [ あやべの文化財 ]
本堂(本尊 薬師瑠璃光如来、日光・月光菩薩、十二神将)
旧本堂は元禄時代(1688~1703)の建立であったが、柱等の主要部分が松材であった為、総体的に老朽化が甚だしく、遂に全面改築となり平成14年春着工、15年秋、新本堂が完成した。 
 本堂内部は折り上げ格天井で枠数96面の秋田杉の板に岩絵具で彩色された様々の花の絵が描かれている。画家は円山応挙から直系八代目・円山慶祥氏とその弟子・真祥氏である。「瑠璃光華曼荼羅」が現出されている。
梵鐘
 綾部藩・九鬼領内に時を知らせる鐘として寛政四年(1792)に鋳造。「同國天田群福知山住 統領 惣官鋳物師 足立 大和藤原重延」の銘がある。廃藩後、綾部町が保管していたものを、昭和24年(1949)に当山に招致。表面には文化二年(1805)の綾部大火の際、斧で乱打した傷跡が残る。
2005/10/04のBlog
[ 16:48 ] [ あやべの文化財 ]
綾部の文化財シリーズ (第五回)
(丹波のカラス寺)
塩岳山 吉祥院りょうごんじ楞嚴寺(高野山真言宗)
本尊薬師瑠璃光如来 
関西花の寺霊場第2番(綾部唯一)
綾部西国観音霊場第十四番
「縁起」
 楞厳寺は奈良朝、聖武天皇の天平四年(732)林聖上人の開基である。以後、幾多の時代の変遷と再三の兵火により寺坊は悉く焼失し古記・古文書の多くが散逸し、歴代住職の事歴も不明のまま多くの年を経ている。しかし南北朝時代の楞厳寺敷地紛失状(綾部市指定文化財)によれば、寺領は可成り広大であったことがわかる。
 元禄十六年から宝永五年(1708)にかけて旧本堂が完成され、その本堂建立の時の住職、盛長法印を中興開山としている。尚、これより五十年後の宝暦八年(1758)に現在の庫裡が建築され漸く伽藍が整えられている。
会報「綾部の文化財」61号(35周年記念号)よりのHP収録下書き
「綾部の文化財」「綾部の古木、名木」 会長: 大嶋文隆
6月8日、吉野山へご苦労さんでした。 
世界文化遺産にふさわしい深さと内容に満ちた印象深い研修旅行でした。
 次回は別掲でご紹介していますように、古都・奈良の中心へ参ります。
 今回は、特に東大寺のおはからいにより、特別に、普通一般では参拝、参観できない深奧の奈良の国宝を見学します。
 くわしくは別掲の説明をご覧ください。
 さて、私たちが常々関心を注いでいますのは、綾部の文化財であります。
 それぞれ地域に、町に昔から伝えている文化財は数限りなくあります。
 その一つ一つが大切に守られています。
その中で特に主要なものが、綾部市教育委員会発行の「綾部の文化財(図録)」の
中に、国宝1、重要文化財9、史跡名勝1、重要有形文化財1、府指定登録文化財19、綾部市指定文化財35、計66が紹介されています。
 これらは 神社13ヶ所、寺院17ヶ所、宗教法人1ヶ所、綾部市1ヶ所、公私有地4ヶ所、個人3ヶ所、計40ヶ所に保有・保管されています。
 又、「綾部自然の会」発行の「綾部の古木・名木百選」によりますと、市内にある樹木多数の中から選別された古木・名木百本が紹介されています。
 これは 貴重な「生きた文化財」であります。
 これらは神社境内25ヶ所、寺院境内15ヶ所、山・森林・川岸10ヶ所、公有地9ヶ所、個人17ヶ所、計76ヶ所で数百年から一千年の時間を刻んでいます。
 その内容は植物科目31、植物種類58に上ります。
 その中、「文化財」と「古木・名木」が重なって共存している場所が11ヶ所あります。
 内訳は神社4ヶ所、寺院6ヶ所、宗教法人1ヶ所であり、そこに文化財22点、古木・名木26点が共存しています。
 これらの文化財、古木・名木は、その地に生きた先人達や、自然が作り出した貴重な財産であり、大切に後世に伝えなければなりません。
 何よりも先ず、お互いの周辺、近くの文化財、古木・名木に関心を注いで、親しく見聞して、認識を深め、その歴史の深さ、先人のご努力、自然の偉大さを知って、みんなの力で ふる里の貴重な財産を守り、支え伝えていきたいと念じます。
2005/09/29のBlog
(6)明治・大正時代の綾部人の活躍
 明治・大正になりまして綾部人は生き生きと活躍を始めます。その証拠に政治・経済・宗教・学問の面において「人名辞典」には綾部に関係する人を含めて十名載っています。その綾部人十名は誰かと言うことになります。

 先ず当然ですが、波多野鶴吉翁と大本の出口なおさんと出口王仁三郎(おにさぶろう)聖師の三名、それから九鬼隆一男爵、彼は三田藩士星崎家より綾部の家老九鬼家の養子になった人です。明治政府で「薩長土肥」出身でない綾部藩出身の者が男爵になることはよほどのことです。
 それからその子の九鬼周造はここに取り上げるのは不適当かもしれませんが、昭和初期の京大の哲学といいましたら、東大を圧倒していたわけです。田辺元(はじめ)、西田幾多郎という哲学の教授がいます。その田辺元などの日本有数の哲学教授らと共に、京大哲学を引き継いだのがこの九鬼周造です。あの実存哲学の「実存」という哲学用語を使い出したのも、この九鬼周造です。この周造は九鬼隆一と祇園の芸妓さんのお初さんとの間に生まれた子供で、のち、お初と岡倉天心との恋愛関係は戦後も映画・テレビで有名になった話です。
 原脩次郎、この人は、拓務大臣・鉄道大臣などを務めた人で、綾部藩の下級藩士出身で、戦前、原脩次郎の生誕地という記念碑が上野のお宅にありましたけれど、現在は小学校々庭の倉庫裏にあります。
 高倉平兵衛氏の長男・高倉徳太郎はキリスト教の神学理論を確立した人で「高倉徳太郎全集」もでておりますし、あの大正・昭和期キリスト教が新興労働者階級と結びついた理論を確立した人で、昭和九年信仰と理論に苦しんだ彼を自殺に追いやっております。
 植芝盛平(もりへい)、和歌山田邊出身ですが出口王仁三郎と出会い「人間の生きる道」を悟りこの綾部で合気道の塾を開き開祖となります。
 次はあまり知られていませんが村岡典嗣(のりつぐ)は山家藩士の出身の人で「日本思想史」を学問として確立した歴史学者で東北帝国大学教授などしています。

 それから最後に、皆さんご存知の戦後総理大臣になった芦田均さんですが、この方の出身は福知山市宮村といい、かって綾部藩であったところです。この均さんの父親・芦田鹿之助さんは、綾部の栗村にあった藩校の広畔堂(こうはんどう)で学んでいます。
 今でも栗町に広畔堂跡という記念碑があり、ここで勉強し国会議員になったりします。その芦田均さんの娘のルリ子さんが、鶴吉さんの没後にグンゼ三代目の社長になった志賀郷の遠藤三郎兵衛家の養女になっています。均さんの父・芦田鹿之助の弟が遠藤三郎兵衛で遠藤家へ養子に来たわけですから実の叔父・甥の関係です。

 以上十名、説明不十分ですが、蚕糸業界、実業界、宗教、それから学問の世界に今まで抑圧されていた綾部人が明治・大正になって、それぞれの分野で活躍しています。
 だから綾部から郡是製糸福知山工場、三ツ丸百貨店などが福知山のど真ん中に進出した時、福知山商人から反対運動も起こっています。今では「さとう」等福知山資本が入ったり、「まつもと」等亀岡資本が入ったりして、綾部の実業界が衰退しています。少なくとも明治から大正にかけて綾部実業人は非常に発展したということが言えるのではないでしょうか。

 どうか現在の若い綾部の実業人の方々にはあらゆる方面で明治・大正の先人達に負けない活力をもってほしいと思います。とにかくあまり十分な時間も無しに舌足らずのような話でありましたが、許された時間ご静聴頂きまして大変ありがとうございました。失礼致しました。
2005/09/28のBlog
(5)綾部九鬼藩家臣団について
 それから最後に綾部藩士のことを少し触れておきます。幕末の安政3年(1856)の資料ですが、この時の綾部藩の武士階級というものが大体、知行取(ちぎょうとり)47名、切米取8きりまいとり)151名と足軽の扶持米取(ふちまいとり)11名と三つに別れ合計209名です。

 知行取というのは本来は、100石なら100石の収穫のある土地を貰った武士ということになるのですが、この時分には、蔵米知行となり、殿様の蔵へ一括して農民から年貢を取りあげて、蔵から知行相当の米、時代によって異なりますが、一番良い時で四割(四公六民)位で段々減っていったりしますが、それが知行取で、鳥羽から来た上級の武士が多くおります。

 切米取は、蔵前取とも言いますが、これは石高そのままを殿様から年三回に分けて蔵から貰います。次に扶持米取と言うのは、足軽一人扶持が大体一日玄米五合の計算で、閏月などあって一定しませんが、大体、年一石八斗位が一人扶持の給与と言うことになります。これらは現地採用の地元の苗字の人が多く、一代限りの採用もあります。

 又、綾部には7人の大庄屋が居り、その下に庄屋が所属しています。大庄屋は士分として苗字・帯刀が許され大体二人扶持位貰えます。前に述べましたように大体この209名が武士階級です。

 それで山家は一万石ですが同じ年代の名簿を調べてみると藩士数が96名だから、知行一万石で大体100名が平時の武士人員で戦時はまた別になります。

 今の綾部市を当時の知行高で計算すると大体四万三千石です。一万石100名としたら徳川時代なら武士が430名になります。現在の綾部市の職員は約430名。なぜか数字が合います。
 しかし今は430名の市役所職員は、商工業からの税収入や固定資産税・交付金などいろいろありますが、ところが徳川時代では農業生産のみで430名の武士階級を養わねばならないということで、この点からでも農民の負担が重かった筈です。

 徳川時代に綾部に来た九鬼藩にとって塩や魚貝類等の海の幸もなく、土地条件も悪く、あまり恵まれたものではなかった上、綾部はこのような分割支配を受け、まともな農業政策、農民救済の施策が講ぜられずに抑えられてきました。それが次に述べますように明治・大正になると綾部人が非常な活躍をするようになります。
又、藩主在任の最も長いのは四代目の隆寛(たかのぶ)が53年間で、最も短いのが六代目の田沼意次の息子・隆祺の6年間です。長いのや短いのやら養子やら色々あり、その中で財政難になるとまず借財にはじまり、藩主の費用や藩費の節約、年貢徴収の強化、家臣の減封、藩札発行などが行われていきます。先ほど取り上げました佐藤五郎左衛門家は百五十石で鳥羽から綾部に来ていますが、それがもう明治の寸前になりますといろいろ事情もありましたが、僅か六十石になっているほど減知されています。又、その財政難をカバーする為に藩札を発行し、綾部藩一番の豪商で大庄屋の羽室家に請け負わせることになります。その額もはじめは銀三百貫分でしたが、それが幕末になると十倍ぐらいにだんだんその額が増えていきます。
(4)綾部九鬼藩歴代藩主について
 先ほど申しました通り、綾部九鬼藩は、隆季(たかすえ)が第一代で、そして明治維新の十代隆備(たかとも)まで続きます。その十人の内で五人の殿様は養子で、その五人の養子の内三人が他家からです。そして二人、七代の隆郷(たかさと)と九代の隆都(たかひろ)は、藩主の異母弟で兄の養子となり相続しています。
 他家から来るのは三代隆直(たかなお)で徳川家の一族・松平伊勢守四男、四代隆寛(たかのぶ)は建部丹波守の次男、そして六代目の隆祺(たかよし)なんですが、歴史に出てきます老中・田沼意次の四男で五代隆貞の長女・猶(ゆう)の女婿となりますが、なぜこの時の老中・田沼の息子が綾部へ来たのかは、三田の殿様が斡旋したとか、いろいろありますけれども、隆祺が天明元年(1781)に九鬼を相続した時は、老中として絶頂期にあった田沼意次の時代でありましたが、息子で若年寄であった田沼意知が天明四年に江戸城中で旗本、佐野政言(まさこと)に刺殺されます。
 そして次の年には田沼意次も老中罷免という形で田沼家の没落が始まるのですが、意次が老中を罷免になった次の年に隆祺は亡くなるわけです。

 そしてわずか六年程度の絶頂期の時に、綾部の九鬼藩には思わぬ恩恵があるんです。天明三年(1782)石高は同じですが領地替・上地(あげち)として、日尾・千束・細見等悪い土地の替地として、戸田・物部・新町・中台・質志・三ノ宮の良い土地を拝領しています。
 田沼が失脚しますと、一番政治的ライバルの松平定信の「寛政の改革」が始まり寛政十二年(1800)には今度は良い土地、観音寺・興・堀越・坂室の土地を召し上げられ、悪い替地のもとの日尾・千束・細見と交換になります。九鬼藩はせめて以前に戻すだけにして欲しいと頼むのですが、綾部九鬼藩の一等田地の観音寺・興村を召し上げられます。
2005/09/27のBlog
(3)複雑な何鹿郡の分裂所領の実態 
 お渡ししている地図を見て頂きますと非常にややこしく見にくいのですけれども、今日の話のメインです。
 あの四方事務局長さんが居られる村でも江戸時代の殿様が誰であったか尋ねてみても、知らない方のほうが多かったそうです。 

 お手元の地図は、何年か前に私が作った覚書のメモを整理し直してみたものですが、やはり非常に見にくいです。見にくいということは、徳川時代にこの綾部(何鹿郡)の支配が非常に複雑であったということなんです。だから地図の上になかなか書けない。書いてもゴチャゴチャしてしまうということになります。それをなるべく簡単に整理してみました。

 九鬼藩はいわゆる綾部由良川の左岸、今の町区で言うと青野、井倉、野田と大島、中筋、それと観音寺を含みます。観音寺は江戸時代の中頃までは下高津といいました。今は、観音寺は福知山市になっております。
 それに由良川右岸の栗村そして小畑、つまり現在の綾部市の西部、これだけが綾部藩なのです。それともう一つ右下地図にありますように河合(河合組1772石)、と山裏郷(山裏組3518石・福知山市六人部の宮・大内を含む。)といいまして、現在の三和町です。

 今、福知山市と合併云々と言っていますが、これは本来は綾部藩なので綾部と合併することが普通なのですが、やはり合併というものは峠一つが障害になり、川の流れに沿っていわゆる結婚から経済の交流からいっても、この地域の人々の感情的な結びつきは水によって親近感が増すようですし、綾部でも舞鶴より福知山の方がより親近感があるようなもので、それから推量すると三和は結局、福知山についていくことになっていくのではないかと思います。

 綾部藩は二万石というのですが、実際は隆季が綾部に来てから同母弟の隆重(たかしげ)(母・隆生院)に福知山市の飛地・一之宮・日尾(現在の三岳)の五百石を与え、旗本として分家させてやります。そこで綾部二万石といっても一万九千五百石が綾部九鬼藩の知行高となるわけです。綾部藩というのは大体3分の2が綾部、中筋、栗、小畑と、3分の1が山裏組、河合組というような配分になると思います。

 それからややっこしいのが、綾部の上林で、明智光秀までは織田信長方の高田豊後守が上林氏を宇治に追放し上林を領し、関ヶ原以後、藤掛氏が入るわけですが、この藤掛氏は織田信長が浅井長政を討った時、その妻となっていた妹のお市と淀君などの三人の娘達を救い出したのが藤掛氏です。
 この藤掛永勝は、氷上郡小雲一万三千石でしたが、関ヶ原の時には福知山藩主の小野木氏の主導権で、この辺の大名は、ほとんど西軍につき、東軍方の細川忠興の父・細川幽斎の守る舞鶴の田辺城を攻めるのですが、細川忠興は、徳川家康について関東の小山まで上杉征伐に行き、その後引き返して関ヶ原で東西軍がぶつかり西軍は負けるわけです。
 西軍方で舞鶴を攻めた総大将の小野木氏は、戦後切腹、家は断絶、藤掛氏は一万三千石から六千石に減封され上林へ入ります。そこで名を藤懸と改め旗本となり、その後、藤懸氏は三つ分家し、本家は四千石、分家は一千石、五百石、五百石になります。一千石の方は家が絶えますが領地(引地・小田・真野・遊里・清水・山内・長野)等は、後日、但馬の出石の小出氏が園部藩へ移ったときその飛地となっています。
 そこで本家の城下藤懸四千石(奥・中上林と白道路)、小山藤懸五百石(口・中・奧上林)、赤目坂藤懸五百石の旗本三家になります。明治9年に赤目坂と西保の一字ずつを取って今は西坂町となっています。

 一方、山家藩谷家は、同じ様に西軍に参加し舞鶴の田辺城を攻めたのですが、まあ、あの有名な「谷の空鉄砲(からでっぽう)」と云いまして攻める格好だけして、実際は裏でなにかあったのではないかといわれています。
 関ヶ原の戦いでも多くの裏切りが西軍で起こっているわけですから。そこで谷家だけは禄高を減らされず、同じ山家一万六千石のまま残ります。谷氏は近江の佐々木氏の後裔で近江の甲賀郡谷の郷に住み「谷」を名乗った陸戦の大名で、関ヶ原以前の天正10年(1583)に山家に入部しています。

 この谷家も同じ様に三つ分家して旗本となります。長男の子が上杉谷家で二千五百石ですが、これはその孫のとき子がなくて絶えます。後の二つのうち二千石の十倉谷家は、十倉で五百八十六石、吉美の星原で二百七十石・小呂で七十六石・高倉百五十一石・里二百石(山家領と相給地)や金河内三百石・内久井二百三十石・位田で百五十石等です。
 もう一つの梅迫谷家は一千五百石で大部分の領地が梅迫の安国寺一千六十石・於与岐二百石・黒谷二十五石や和木七十石等がありまして、この二家とも陣屋を持ち代官をおき幕末まで続きます。
 絶えた上杉谷家の後は柏原織田藩(織田信長の子信雄の子孫)の飛地となります。高槻二百石、物部七百十二石、位田で百三十石、志賀千六十二石、坊河内、新庄、西方、報恩寺等で合計二千六百五十七石です。このような事情の外に私市、物部、上杉には十数人の旗本が入ったり天領となったりして、同じ村でも隣同士で所属が違い、それぞれの年貢も違う主人に納めていくというような複雑な関係が出てくることになります。

 さて山家谷氏の本家は三家で六千石分家させたので、残り一万石となり、山家地区で一千百五十九石、志賀村で二千八百五十六石、吉美地区の小呂三百石、多田・有岡・枝村で一千百四十八石、下八田・淵垣・岡安とその枝村で一千三百四十一石、位田で五百六十石等あちこちに別れて複雑な領有となります。
(2)九鬼藩の分裂と綾部轉封(てんぷう)
 九鬼氏は熊野水軍として信長、秀吉政権と結んで水軍の大名として活躍し、伊勢、志摩五万六千石を領する大名として確立したのは嘉隆ですが、関ヶ原で西軍についたため嘉隆は責任をとって自刃することになった。その子・守隆は東軍についたため九鬼家は安泰でしたが、その晩年はその子・隆季(たかすえ)(綾部藩・兄)と久隆(三田藩・異母弟)とが父・守隆の遺言をめぐって相続争いとなり、久隆は摂津三田九鬼藩と隆季は丹波綾部藩とに移封され、九鬼家のお家騒動が幕府の大名政策にうまく利用されたことになりました。
 海の大名として造船技術、操船術、海戦等営々と永年鍛えられた伝統のある家臣団を連れて、九鬼水軍が綾部と三田の山国大名となったことは、九鬼家にとっては決して喜ばしいことではなかったと思われます。しかしその不満が幕府に聞こえたら大変ですので、仮初めにも口に出せなかった。
 然しながら隆季は綾部へ来て九鬼氏の菩提寺として隆興寺を建てるのですが、自分が建てた隆興寺に隆季自身は葬られていないで、鳥羽の常安寺に埋葬されているのは如何にも不自然なことですが、隆季が幼い頃に育った鳥羽への郷愁と、綾部転封への無念さが心の中にあったからだと推測出来ます。

 次に九鬼氏の分裂について少し触れますが、どういうお家騒動で綾部と兵庫県三田に分かれたかということは、村上先生の町史や綾部市史にも父の守隆(もりたか)と三男の隆季(たかすえ)の親子が非常に仲が悪かったと書かれています。現地の資料なんかを見ますと仲の悪い親子というのみならず、この時、九鬼藩の武士団は二つに分かれ、そして肉親や兄弟・姉妹も守隆派と隆季派の二つに分かれるという大騒動であったことが伺えます。
 九鬼藩を確立した守隆の父・嘉隆(隆季の祖父)は実際は弟で、九鬼家の主流ではなかった。兄の浄隆(きよたか)その子・澄隆(すえたか)(これが九鬼藩の主流)を攻め滅ぼして嘉隆が九鬼氏を継いだという血生臭い話もあるわけです。だからその怨霊をおそれてか、澄隆を自刃させた田城跡に行ってみますと九鬼神社があり怨霊を鎮めたのだと思います。

 しかし、この嘉隆も関ケ原の戦いの時には西軍の石田三成方につき、その責任をとって割腹自殺をせざるを得ない状況となりました。一方息子の守隆は東軍の家康方について手柄をたてて、禄高二万石加増されるのですが、その禄高の代わりに父・嘉隆の助命を願い出て、家康の許可が下りるのですが、連絡や仲介に手間取り、その間に助命の許しが出たとは知らず、父・嘉隆は割腹していくという悲劇がありました。

 守隆には天翁院(てんおういん)(鳥羽城主・原監物の娘)という正室との間に、二男六女があり長男の良隆は障害をもっており、とてもあとを継げず31歳で寛永11年に亡くなります。次男の貞隆は父・守隆に非常な期待をかけられていたのですが、寛永8年(1631)には正室・天翁院や貞隆が若くして死にます。
 これは守隆にとって衝撃だったと思うのですが、自分の余命もいくばくもない(十ヶ月後、守隆没)ので、御家騒動の原因が出来ていくわけです。その後、守隆は久(ひさたか)を後継者にしようとするわけですが、久隆の母親は側室の隆生院(りゅうしょういん)(西山民部の娘)の下女(朝倉可慶の娘)なので身分が非常に低かったのです。下女が産んだ子ですから、生まれた時からとても相続の可能性はなく、守隆の甥の左近の養子にして、8歳から朝熊山金剛証寺に預けられていたわけですが、守隆はこの寿良を還俗させ、久隆として後継者とすることを遺言に残して、寛永9年(1632)に亡くなります。

 綾部へ来た隆季(側室・隆生院の子)は当然兄として家督相続者であり、隆季が相続からはずされたことで隆季派の武士達と共に江戸へ行き、幕府へ訴えたわけですが、幕府の裁決では、やはり遺言を尊重し久隆(弟)に寛永十年に相続させたが、御家騒動が起きたのは九鬼家の懈怠(けだい)ということで、五万六千石の内の二万石を差し引き三万六千石で三田へ移封になりました。
 そこで隆季派の方は、一時浪人となるわけですが、それから4ヶ月ほど経って幕府から呼び出しがあり、二万石で綾部へ転封という決裁が下るわけです。この二万石は減封した九鬼家の家禄でなく、あくまで新規に家光公から賜ったものであるという立前であった。これで九鬼氏の領地が三田と綾部ということになるわけですが、その背景には幕府の大名政策の一環として、水軍の大名の力を削ぐために山国へ追いやっています。
 同じ頃、瀬戸内の村上水軍の来島(くるしま)藩も豊後(大分県)の山奥へ国替えさせられています。又、関ヶ原合戦から九年目の慶長14年(1609)には、西国大名の人質を江戸に集め、五百石積以上の全ての船を幕府が没収し、水軍を押さえつけることはその時分からはじまっています。
 朱印船貿易で財力のある西国の大名達、長州・薩摩或いは加藤清正の肥後藩などの西国の雄藩の台頭を徳川家康は死ぬまで心配しており、『将来徳川家を滅ぼすのは西国の大名なので、わしが死んだら屍を西に向けて葬れ。永く徳川家の守りにならん。』と言って死んでいったくらいですから、当時朱印船貿易が盛んでベトナム、マレーシア、タイ、フイリッピン等に日本人町ができていて、その貿易によって西国の大名は非常な財力と多くの大船を持っていた。それが死ぬまで家康を心配させたというわけです。
 家康の死後次々と鎖国政策が強化されていき、これがペリー来航まで政策として続きます。
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