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なべちゃんの散歩道
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ジャンル:あやべの文化財
Blog数:535件
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2005/02/10のBlog
[ 09:48 ] [ あやべの文化財 ]
[関連したBlog]
上林街道の旭町交差点手前の左手に建つ、この山門に仁王像は不在である。真ん中に吊られた梵鐘だけが寂しげであった。
文化財を守る会発足の要因となった、この仁王像の海外流出事件の経緯を書かれた坂根義夫氏の文を、会報創刊号からHPに収録しました。
綾部の文化財を守る会の原点にあるこの事柄も、うっかりすると風化して勘違いされてしまう現象が起こっている。
写真も追加されてHPでの再収録が、原点の再確認となっていく事を期待します。
http://www.ayaco.net/bunka/bunkazai/annai/kakuoji/simatu.html
2005/02/09のBlog
昨日「綾部の文化財」HPのサ-バ-をお世話になっている「綾部ITワークス」の長岡 治明氏の紹介で、京都府中丹広域振興局企画振興室の真下清博氏と京都府企画環境部IT政策監付の森本隆浩氏にお出合いしました。
 私の拙いHPづくりの紹介をするために、IT環境での会合をお願いしたところ、森本さまが、モバイルPCを持ってこられていました。
 来週15日に綾部市環境市民会議が志賀郷公民館で、物部・志賀郷地区を対象に人を集め「環境座談会」を開催されるが、その時に節分に「茗荷祭」「竹の子祭」取材でお世話になった各自治会長をはじめ皆様が出席されるようなので、物部・志賀郷地区の社寺、山・峠道のHPコピ-を会場に展示、事後差し上げる予定で用意していました。
 そのHPコピ-を見せながら御両名に「里づくり」の応援も兼ねた「人とのふれ合い」行事参加型の取材、HPづくりを説明しました。
 私の方からも、本来は地方の主催者自身が情報発信されるべきものだし、また作成したHPを紹介したり、里づくり行事の取材についての情報を得ることの出来る「地域のお知らせ掲示板」「ブログ」などの地域からの情報発信の場が皆無なので、ネット構築を進めて欲しいと要望しました。

次の文は、参考にしていただいた取材記で、2項目にそのことを書き、HP、掲示板、綾部MLなどにも掲載したものです。
滋賀の七不思議 「茗荷祭」「竹の子祭」取材記
1.自治会長さまに出会いに行く
 節分に行われる滋賀の七不思議「茗荷さん」「竹の子さん」の取材について、時間と降雪時の道路状況の問い合わせ先について聞くために、今度NPO申請をされた「あやべ塾」の自主防災会議に出席されると聞いて参加した。
 阿須須伎神社(金河内町)、篠田神社(篠田町)、熊野神社(別所町)のHPのカラーコピーを渡して、各自治会長さん宅の電話番号を教えていただいた。
 阪神大震災の記念日前で、昨年の台風23号被害が綾部でもあり、引き続いて越後の震災、スマトラ沖の地震津波で防災意識の高まる中で、大勢の自治会長、市議会議員、消防署長など多数の参加があり、上原幸一自治会連合会長から、真っ赤な防災要員用のヤッケを提示しながら、防災訓練で全地域住民の参加が得られた話などあり、熱心な討議が行われた。その後、篠田神社境内で放水の消防訓練が行われたと市民新聞に報道されていた。

.「掲示板」「ブログ」で地域情報ネット構築のお願い
 災害時の連絡手段には、多様な連絡網の構築が大切で、即時性のあるFM放送やインターネットの活用の効果も改めて見直されている。ADSLの設置網も農村部に広がり、YAHOO BBなどのインターネットが利用でき普及の拡大が
期待されるが、地域情報の発信という点ではまだこれからで、地域内ではオフレコ放送など一定の情報伝達がなされているが、地域の外部までの情報発信を考えると皆無に近い。
 メールを持っている人が誰か一人、地域のたより掲示板、ブログなどを開設されていれば、行事の案内も問い合わせ出来るし、それが地域情報の発信にもなる。非常時には通行止めのお知らせなど、きめの細かい連絡網の構築となる。
 是非、各町区に誰か一人は「地域のお知らせ」や「活動」を載せる「お知らせ掲示板」を開設されるようにお勧めしたい。電話帳のようにリストアップしておけば、これが立派なITのネット構築に他ならない。
 個人的に電話やメールで問い合わせても、一般に情報として発信されたことにならないが、掲示板(ブログ)なら、地域内、グループ内の日常的なコミュニケーションをしながら、知らず知らずの間に外部に対しても「地域のお知らせ」になるので、その蓄積は大変価値のある地域広報の財産となる。

3.茗荷さん取材
3日朝は、前夜の積雪が踏みしめられて氷結した上に、薄く新雪が舞う最悪の路面となり、テカテカ、つるつるの道を中学生が滑りながら登校する有様で、急坂でトラブリ、タイヤチェンを付けて金河内まで走行することとなった。遅刻する旨を梅垣正一志賀郷地区自治会連合会長に電話し、着いたときは10時半前で「茗荷田」の刈り取りは終わっていて、拝殿の前に一同が集まられ、大志万昌次宮司から「茗荷占い」の解説を聞かれているところであった。 降りしきる雪の中でお祓いが行われ、登尾峠の登山などでお世話になった相根良一志賀郷和会長などの皆様、梅垣和夫体協評議員(テニス)など知っている地元の方々とお会いし、甘酒の接待をいただいた。
http://www.ayaco.net/bunka/bunkazai/annai/asusuki/myoga.htm

4.竹の子さん取材
 前日と異なり雪も解けて好天気の中を篠田町まで車を走らせた。着くともう大勢の村人が集まって「籠もり堂」前と「御ミノシベ」前で焚き火をされており、写真を撮りながら仲間に入れていただいた。昨日、阿須須伎神社の「茗荷さん」で出会った方も見えておられ、篠田町の自治会長、菅沼史朗氏と出会い祭礼の様子を伺った。
 相根良一志賀郷和会長に案内していただいて「御ミノシベ」の説明を聞き、山や谷に見立てた高低のある竹林と方角など、注連縄を張り巡らされた「御ミノシベ」を一周しながら「わせ」「なかて」「おくて」の竹の子を指さして教えていただき、その生え具合、「お刈り」が済んだ後の竹の子の色、艶の見方などを教わった。写真を撮っていると頭上の大木から大きな雪の固まりが落ちてきて被り驚いた。
 「茗荷さん」は、宮司さんが吉凶を解説されるが、「竹の子さん」は、各人が見て自分で判断するのだそうです。焚き火に当たっていると「竹の子」を探して札を立てられた方がおられ、背中が雪で濡れた跡が一杯についていた。
 総代の井田氏と出会い、2年程前に「志賀郷の七不思議」について新宮代表名で永井賞の申請が出ていたことをお話しすると、自分もその一人だとのことであった。
NHKの取材した様子を写真で並べた「観天望気撮影風景」を前に、即席で話をしていただき、参拝者も熱心に拝聴した。このビデオは、IT多目的ホールにも置かれ、同窓会の時に全国から集まった同窓生に見せたことがあり楽しんでもらえた。
 綾部市内からも顔見知りの方々の参拝もあり賑やかで、聞くと昔は梅迫(国鉄の駅がある)から歩いて行列が出来るほどの参拝であった。またこの神社にお参りした人からは一人も戦死者が出なかった、など御利益のある神様、良く当たる占いであったと思われる。
 11時に祢宜が太鼓で時を告げられ、白衣の神職の方が二人、残雪の残る「御ミノシベ」に入られ、素手で土を深く掘り、鎌などで根を切り離し、「わせ」「なかて」「おくて」と手を泥んこにしての「お刈り」をされた。
 拝殿の前に置かれた「竹の子の小宮」に並べて飾られ、祭礼後は各人が見て吉凶を判断しようと、人集りの様子が見られ微笑ましかった。
http://www.ayaco.net/bunka/bunkazai/annai/sinoda/takenoko.htm

2005/02/07のBlog
[ 11:36 ] [ あやべの文化財 ]
山家谷藩の菩提寺である。国道127号線の山家交差点から府道1号線を上林に向かうと広域農道の旭町交差点の手前、左上にこの赤い屋根が見える。
歴代藩主・谷氏の奥津城。巨石の墓標が並ぶ、竹が被さっていたのを山仕事中の地元の方が切り開いて、見通しを良くしていただいた。谷子爵家歴代の墓標、顕彰碑も最奥(上)に建っていた。HPアップしました。
http://www.ayaco.net/bunka/bunkazai/annai/kakuoji/kakuouji.html
2005/02/04のBlog
[ 21:18 ] [ あやべの文化財 ]
高低のある「御ミノシベ」と呼ばれる篠田神社の裏に幅一杯の正方形に囲われた竹林から3月4日の11時を期して「わせ」「なかて」「おくて」の竹の子を収穫{お刈り」して、一年間の吉凶を占うという「竹の子さん」。
手をシャベル代わりに使い、泥をかき分けて竹の根を掘りだし、鎌、鑿、小刀で根を切り取る。手が泥んこのすさまじさでした。
生えている所(高低や方角など)で、どの場所(水田などを想定)が良いか、生え具合(例えば曲がっていると何か凶がある)、何時の時期か(おくてなら年の終わり頃)など、色、つやで病虫害など・・見るのだそうです。良く当たると信じられてきた。昔は梅迫(鉄道)から行列でお参りがあったとか。この神社に参った人から一人も戦死者が出なかったとか・・御利益あらたかな神様(占い)のようです。
http://www.ayaco.net/bunka/bunkazai/annai/sinoda/takenoko.htm
2005/02/03のBlog
[ 17:40 ] [ あやべの文化財 ]
テカテカの雪道でハンドルが切れず立ち往生、チェンを巻いているところを上から滑ってこられ追突されました。
事故保険のため警察に来てもらい、志賀郷への出発が遅れ、なお用心して往復ともチェン走行したので、茗荷田の刈り入れは間に合わず、一同が神社前に整列、宮司(大志万昌次氏)の祈祷中に間に合いました。
この通りの吹き降りの中で参拝。
雪をかぶった阿須須伎神社
HPアップしました。
http://www.ayaco.net/bunka/bunkazai/annai/asusuki/myoga.htm
2005/02/01のBlog
[ 21:11 ] [ あやべの文化財 ]
綾部市資料館 館長 近澤豊明氏の3回にわたる後投稿を収録しました。
「わがまちの文化財」
①遺跡・・わがまちの記憶
 「遺跡のないまちは、記憶のないまちである」
 「遺跡のないまち」とは「遺跡を大切にせず安易に消し去ってしまうまち」
②綾部市文化財余録
仏さんが胃カメラをのんで重文になった話し
 神社の御神体が縄文時代の石棒だった話し
③あやべ歴史のみち
空間のみち 時間のみち 歴史のみち
 綾部は文化財の宝庫
 「あやべ歴史のみち」は「川のみち」
 綾部はまち全体が博物館
http://www.ayaco.net/bunka/kaiho/bfor/tikasawa.html
2005/01/31のBlog
[ 18:56 ] [ あやべの文化財 ]
綾部の文化財を守る会の会報より、故木下礼次先生の論文を収録した。由良川の河岸段丘に開けた古墳時代の遺跡「申酉古墳」
「札前古墳」写真撮影に西原の西村会員様に案内いただいた。
瓦を焼いた「窯跡」も案内してもらった。6基の登り窯の跡が5米間隔で崖下に並んでいるが、草が生えているので、ここと示してもらわないと分からない所だ。
出土した「土器・瓦」片を持ってこられたので、窯跡をバックに撮影した。
http://www.ayaco.net/bunka/kaiho/maibun/nisibara.htm
2005/01/30のBlog
[ 12:49 ] [ あやべの文化財 ]
小雪のちらつく中で西原町の熊野神社を取材した。大鳥居の正面の石段を登ると本殿があった。
実は裏から見るとこの本殿も「巨岩」の上に建っているのだ。
「巨巌信仰」と言うことで会員の西村さんに聞いていったが、熊野神社本殿の左上の稲荷神社両側にある、雪の積もった「大岩」を写真に撮った。
ところがHPを編集してコピ-を西村さんに見せると、裏から見なければと案内していただいた。「巨巌」の上に社が建っているので正面から近づいたのでは、岩の上に登ってしまい「大岩」であるが、「巨巌」にはなっていないのであった。
やはり地元の人の案内が必要だと思った。
http://www.ayaco.net/bunka/bunkazai/annai/nisibara/kumano.html
2005/01/28のBlog
[ 11:57 ] [ あやべの文化財 ]
正暦寺不動明王のご加護を願って毎年行われる「交通祈願祭」。
好天の中、多数の参拝者で賑わい、四方八洲男筆頭総代の昨年台風で由良川水位が堤防ぎりぎりで難を逃れたこと、水難事故、交通事故、無事息災を願う挨拶のあと、盛大に行われました。
http://www.ayaco.net/bunka/bunkazai/annai/syorekiji/kotu.htm
2005/01/27のBlog
綾部の文化財会報から、西村洋子会員の「毎国庵」、故木下礼次先生の「西原の遺跡」の記事を収録し、HP編集のために写真の補充の必要と、故林貞美山家資料館長に案内された時の想い出の梅を撮影に写真友達を誘って出かけた。
 西村会員に電話するとご在宅で、早速、西原町一帯の文化財の所在地を説明していただき、山家史誌をお借りした。
 綾部を出た時は、日が差しており積雪の中の初梅が狙いであったが、「申酉古墳」「正光神社」「毎国庵」は降り出した雪の中での撮影になった。巨巌信仰とある大塚の「熊野神社」にまわり取材、「窯あと」は天候が悪い中で山に入るにはと見送った。
 広瀬町「山家城址」にまわり、「山家資料館」「谷霊神社」「梅苑」「伊也神社」を取材。梅の開花は、ようやくと言ったところで少し晴れ間も見える中で残雪を背景に紅白の梅の写真をゲットした。
 友人は本格的に三脚など持ち出して撮影準備を始めたので、先に伊也神社に登り、神社裏にそびえ立つ盤座(いわざ)を撮った。さらに雪の山道を登り「岩ほこら」まで行き、さらに登って「左衛門屋敷跡」「照福寺跡」を探したが、まだ先のようなので友人を待たしているので引き返した。
 一通りHP編集を仕上げたので、そのコピーを持って再度、西村会員を訪ねた。時間があると言うことで案内の好意を受けた。
 「札前古墳」「窯あと」は山の中でなく道際にあったが、此処と言ってもらわないとまず判らないと思う。出土した土器、瓦片を撮らして頂いた。
 大塚の「熊野神社」に裏側から廻り「巨巌」の本当の大きさを知った。巨巌の上に立つ神社正面からは撮れなかったわけで、やはり知っている人の案内だと感謝した。
 覚応寺も案内していただけるとのことで、旭町に車を走らせた。仁王像のいない山門に吊られた鐘と、空き処の片隅に横たわる鬼瓦に寂しさを感じた。谷藩一門の奥津城は、巨石が建ち並び、丁度おられた山仕事の方に被さる竹を切り開いて、見通しを良くしていただく中で取材した。
 夜に持参したHPコピーの誤りを修正する電話を西村会員からいただいた。稲荷神社
→お不動さん、舞堂→籠もり堂など、やはり地元の方でないと資料(山家史誌)からの勝手な推測では不十分であった。
http://www.ayaco.net/bunka/bunkazai/annai/nisibara/syoko.html
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