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なべちゃんの散歩道
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ジャンル: 文化財を訪ねて
Blog数:331件
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2008/09/03のBlog
行程表
①号車:綾部・白道路公民館=物部バス停たきたて前=新庄バス亭=JR綾部駅北口
 6;50 6:55 7:00 7:30
②号車:綾部・大町バス停=井根口バス停=十倉バス停=JR綾部駅北口合流=
 6:45 6:55 7:05 7:30
=綾部大橋バス停=山家バス停==京都縦貫道=南丹PA(休憩)==妙心寺(駐車場)
 7:35 7:40 8:30~8:45 9:46・・・・・・・
(妙心寺法堂・明智風呂見学)・・・・(桂春院見学)・・・・(退蔵院見学)妙心寺出発== 徒歩 徒歩 徒歩
 12:00==レストラン嵐山・・・・・・・・・・・鹿王院見学・・・・・レストラン嵐山==
 12:30~1:30 徒歩約10分 1:45~2:45徒歩
出発午後3時===京都都縦貫道===やまがたや休憩==山家バス停===綾部大橋バス停==
 4:00~4:20 4:50頃 4:55頃=JR綾部駅北口
①号車=新庄バス停=物部バス亭=白道路公民館
 5:00頃 5:20頃 5:25頃 5:30頃
②号車=十倉バス停=井根口バス停=大町バス停
 5:30頃 5:40頃 5:50頃
「綾部市文化協会後援」
第十四回秋の文化財・史跡学集会
ご参加の案内
 今回の学集会には出来るだけ多くの方にご参加頂きたく京都交通貸切バス担当にお願いし、バス二台の運行を検討し、物部方面、上林、山家方面へもバスを廻しますので申し込みをお待ちしております。
 記
1.期日 平成20年11月20日(木)
2.集合場所・時間は乗車場所により違いますので、出発時間より10分ほど早めにご集合をお願いします。
3.見学箇所
 妙心寺本山(塔頭ニヶ寺)、鹿王院
4.参加費 お一人9000円(貸切バス代、昼食代、拝観料、心付、手造り記念写真代を含みます。)
5.募集人員 90名(京都交通大型貸切バス二台予定)
6.申込方法 10月25日(土)までに参加者全員の〒番号・住所・氏名・電話番号・乗車地を必ず記入し、葉書等で申し込み下さい。但し、満員になり次第締め切ります。叉、電話での申し込みはお断りします。
7.申し込み先:〒623-0004 綾部市多田町後路二十八番地 四方續夫宛
 貸切観光バスと旅行のお申し込みは 京都府知事登録2-530 京都交通株式会社 観光課 〒624-0945 京都府舞鶴市喜多1048-17 TEL:0773-75-6000 FAX:0773-75-5957 担当: 塩見元宏
8.受付と出発案内は葉書でお知らせします。尚、この会報67号を持参し、ご参加をお願いします。
1.山門
 義満の筆による「覚雄山」の扁額と共に、六百余年の星霜を経ている。山門から中門までは、天台烏薬(てんだいうやく)などの銘木が繁り、青苔が続いている。大徳寺の管長にも一時なり、京田辺市に酬恩庵(しゅうおんあん)を開山した後小松天皇の子・一休和尚宗純も少年の頃(応永二年十二歳)この山門をくぐって、ここで維摩経(ゆいまきょう)の提唱を聴いている。

1.舎利殿と本庭
 本庭の中心は舎利殿(駄都殿)で、鎌倉将軍源実朝が宋の国から招来した、仏牙舎利が素晴らしい多宝塔安置され祀られている。
 この仏牙は天下泰平の霊仏で、後光厳天皇普明国師から賜ったもので、後奈良・正親町・後水尾の各天皇も礼拝供養されている。この仏牙舎利が日本の博多に無事到着したのが十月十五日であり、昔からその日を「舎利会(しゃりえ)」と定め御開帳している。
 この舎利殿を中心に、嵐山を借景にして、室町時代の石組や樹齢四百年の木斛(もっこく)の銘木で格調の高い本庭が出来ている。

1.客殿
 客殿正面には、義満直筆の「鹿王院」の額が掲げられている。客殿の裏は後庭で茶庭・茶室がある。

写真:舎利殿と本庭

1.本堂
 客殿から舎利殿に至る瓦敷きの歩廊の中間に、本堂があり、運慶作の釈迦十大弟子が祀られ、後壇の右に開山普明国師、左に開基足利義満の像が祀られている。
2008/09/02のBlog
鹿王院(ろくおういん)・宝憧寺(ほうどうじ臨済宗系単立)
 正しくは、覚雄山大福田宝憧禅寺と云う。
 午後2時45分にはレストラン嵐山へ向かって戻ります。

1.鹿王院の沿革
 足利三代将軍・義満公が康歴二年(1380)二十四歳の時、寿命を延ばす事を祈って建てた禅寺で、覚雄山 宝憧禅寺 鹿王院となづけ、京都十殺第五の名刹である。開山は義満の師,普明国師(春屋妙葩(しゅんおくみょうは)相国寺創建開山でもある))である。
1.塔頭寺院・桂春院(けいしゅんいん)
慶長三年(1598)織田信長の長男・信忠の実弟である次男・津田秀則により、見性院として創建されたが、秀則没後、無住となったので寛永九年(1632)に美濃の豪族・石河貞政が亡父光政の五十年忌を営むため、再興し、光政の法号を取って桂春院とした。
 庭園は国史跡・名勝で四つの部分にわかれており「清浄の庭」、「思惟(しい)の庭」、「真如(しんにょ)の庭」、「侘(わび)の庭
写真:四つの庭の一つ(侘の庭)

12時には妙心寺を出発し昼食場所へ向かいます。
昼食:レストラン嵐山
電話:0751872-5111
京都のお土産は全て揃っていますので、お土産は此処をお薦めします。


尚午後1時3分には徒歩で約10分の「鹿王院」へむかいます。
1.塔頭(たっちゅう)寺院・退蔵院(たいぞういん)
山門の西にあるもとは応永十一年(1404)越前の豪族、波多野重通(はたのしげみち)が千本松原に無因宋因(むいんそういん)を開山として創建した。
 十五世紀中頃までに妙心寺に移り、応仁の乱で焼失後、山内の現地へ移った。
 本堂(方丈、付玄関は国重文)であり慶長七年(1602)頃の建築で、入母屋造柿葺(こけらふき)、玄関は前後唐破風(からはふ)付。表門・庫裏は江戸時代の建築。庭園は国史跡・名勝として室町時代の「枯山水・元信の庭」と、同じく室町時代の狩野元信作の「余香園」がある。
写真:藤棚下から竜王滝を望む余香園

 この退蔵院には、国宝で有名な「紙本墨画淡彩瓢鯰図(ひょうねんず:瓢箪でなまず鯰をおさえようとする。)」があり、保存の関係上、現在は京都国立博物館に寄託されており、その模写が掲げられています。
2008/09/01のBlog
1.南総門と勅使門(国重文)
いずれも江戸時代の慶長十五年(1610)の建造で勅使門のかえる蟇また股には華麗な桃山時代の特徴がみられる。

南門から境内に入ると北に山門・仏殿・法堂・寝堂・大方丈・小方丈・庫裏が並んでいる。

1.山門(国重文)
 慶長四年(1599)建造の2階二重門で禅宗山門の様式を踏襲している。

1.仏殿(国重文)
 入母屋造の唐様式、天正十二年(1584)建立し、江戸時代の文政十年(1827)に改造された。

1.法堂と寝殿(国重文)
 江戸時代の明暦二年(1656)の建造で、法堂の内部の鏡天井に描かれた狩野探幽作の「八方にらみの竜」、叉、この法堂内部には寝堂西にあった国宝の梵鐘が納められて見ることができる。
 この梵鐘は中国の音楽の音色の一つの黄鐘調(おうしきちょう)で、内側の「戊戌年四月十三日云々」の銘から白鳳時代の文武二年(698)の鋳造とされ、わが国在銘梵鐘最古のものである。
 本山で内部が見学できるのはこの「法堂」と明智光秀の供養に作られた蒸し風呂タイプの「明智風呂(国重文)」のみです。

1.その他の国宝と国指定重要文化財
 大燈国師墨蹟二幅(鎌倉時代・国宝)
 玄関と大方丈(江戸時代・国重文)小方丈(江戸時代・国重文)庫裏・経蔵(江戸時代・国重文)、その他の国重文としては、絵画三十数点、書籍十一点、工芸としてはニ点と数多く指定されています。
臨済宗妙心寺派大本山 正法山 妙心寺
写真;大本山妙心寺南総門(国重文)
(到着午前10時頃・出発12時) 到着時専門のスカイガイドさんが2名駐車場で待っておられます。京都交通のバスガイドさんとペアーで号車毎に案内して頂きます。

妙心寺の略歴
 臨済宗大本山大徳寺開山である。宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう大燈国師)に深く帰依していた花園上皇が、この地にあった離宮を禅寺とし、妙超が推した関山慧元(かんざんえげん無相大師)を開山に迎えたのが始まりです。
 この大本山妙心寺は平成21年に開山無相大師六百五十年遠忌を迎えます。
 創建年代は建武二年から四年(1335~7)年の間と考えられ、寺号は妙超の命名である。歴応五年(1342)に花園上皇は綸旨を下し、関山慧元に妙心寺の管領を命じている。
 慧元は清楚闊達の名僧で,形式的な読経や規則にとらわれず、伽藍の整備より人材の育成に努めたため当時の寺の規模は小さかった。
 のち京都の五山(五山の上が南禅寺、五山第一が天龍寺、第二が相国寺、第三が建仁寺、第四が東福寺、第五が今の東福寺前にある万寿寺)の禅寺が多くは誌文に重きをおいた(五山文学、文学禅)のに対し、幕府から冷遇され五山十殺(じつさつ)にも加えてもらえず、三代将軍足利義満の時代には一時、寺地・寺領全て没収され廃寺ともなったが、よき応燈関(おうとうかん大応国師・大燈国師・関山慧元の法系を守り続けてきた。
 しかし願いにより永亨四年(1432)に寺地の一部が返還され、尾張犬山の瑞泉寺から迎えられた日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)細川管領家の援助で伽藍を再建した。
 叉、応仁の乱で荒廃後は、長門・周防の大内氏の援助で仏殿・小方丈等を再建し、文明九年(1477)後土御門(ごつちみかど)天皇は、第九世の雪江宗深(せっこうそうしん)に再建の綸旨を下した。
 雪江宗深は法門の隆盛と門弟の教育に努め、門下に景川宗隆(竜泉派)、悟渓宗頓(東海派)、特芳禅傑(霊雲派)、東陽英朝(聖沢派)の四傑を生んだ。
 その後、細川・今川・織田・武田などの諸大名の帰依を得て、堂宇の再建も進み、大徳寺からも独立し、五山派の衰亡をよそに教線を伸ばして臨済宗の主流となった。
 江戸時代には塔頭寺院も七十三に及び、朱印地は四百九十一石余であった。しかし財政的には相当苦しい時期もあり、文明~天保(1469~1844)の会計を詳細に記した「米銭納下帳」にそのことを示し、「大徳寺の茶づら・建仁寺の学問づら・妙心寺の算盤づら」と言われてきた。
 今日では約十六万平方メートル、七堂伽藍と四十七の塔頭寺院が整然と立ち並び、
境内一円は国史跡指定となっている。
綾部市文化協会後援
第十四回秋の文化財・史跡学習会
臨済宗妙心寺派本山・妙心寺とその有名な塔頭寺院と鹿王院を訪ねて
 綾部の文化財を守る会事務局長 四方續夫氏

 今回訪れる臨済宗妙心寺派本山・妙心寺とその有名な法堂の鏡天井に描かれている狩野永徳の「八方にらみの竜」や有名な禅庭「退蔵院」、「桂春院」、そして午後には足利義満創建の「鹿王院」(臨済宗単立)を見学します。
 禅の判りにくさ。1171に入宋し、栄西に先立って臨済禅を伝えたとされるのは比叡山の僧、覚阿で、帰国後、天皇に召されて「禅とはどんなものか」と問われて、いきなり「ピー」と笛を吹いたという。「隻手の音声(せきしゅのおんじょう)」片手で、両手の音を聴いてこいという意味であり、之は無理なこと・出来ない事ですね。
 綾部の釜輪町の「あやべ西国霊場第四番・妙心寺派の栴林寺(せんりんじ)」ご出身の竹貫元勝(たけぬきげんしょう)花園大学教授(お会したことはないが昭和二十年生まれの方で)、その著作はいろいろあるが目下「雄山閣出版の「京都の禅寺散歩」を大いに参考にさせて頂いて、京都の旅行計画等に活用させて頂いている。
 最近では平成18年9月29日の産経新聞の「仏法残照」では、このように言っておられる「禅とは、釈迦が悟った境地への追体験なのです。経典はなく、不立文字(ふりゅうもんじ)といって伝法は以心伝心。無言の教えで悟らせる。悟りの境地も人によって様々です。確かにわかりにくいですね。」
 支えになるのは、本人のあくなき求道心。茶の湯。枯山水。水墨画。書院造り。南禅寺,相国寺(山外末寺の金閣寺、銀閣寺)天龍寺、建長寺など、京都や鎌倉の五山を中心に禅文化が絢爛と花開き、なかでも五山文学が絶頂期を向かえたのが室町時代。
 竹貫先生曰く「五山文学ちゅうのはね、はまり込むと座禅をしている暇がなくなる。論語、李白から、高僧の語録から、全部頭の中へ突っ込んで、その語句を使って四六べんれいたい駢儷体で漢詩をつくるのです。それが大名の葬式の法語に使われる。耳障りも良く見た目も綺麗。
 しかもその人をほめたたえてありますわね。五山では、それが出来る人が出世できた。」当時から金に細かい妙心寺(妙心寺の算盤ずら)と言われて来ましたが、室町幕府の保護を一切受けず、むしろ五山の隣にあるから「山隣派」などと呼ばれ、今後に見学を計画中の大徳寺などと共に禅の修業を第一としてきました。この寺の法堂、禅庭、鹿王院の庭や仏像を拝観されて何かを得て帰ってもらうことが出来ると確信して計画しました。
2008/08/25のBlog
[ 19:16 ] [ 文化財を訪ねて ]
綾部の文化財 会報67号編集組替
春の研修旅行 1号車常任幹事 鍛治屋町 塩見次郎氏
 綾部の文化財を守る会の第四十回春の研修旅行が青葉若葉の目に染む六月五日、天気も少し心配されましたが、一日を通してまずヽの空模様で開催されました。
 今回は久しぶりに滋賀県(国宝の数は多さでは全国で四番目)=湖南三山国宝文化財を訪ねて=①善水寺、②常楽寺、③長壽寺へ。参加総数七十名の会員が京都交通の二台のバスに分乗し、朝八時綾部駅北口を出発、一路近江路へ。
 車中においては一号車では渡邉敬治先生が、二号車では四方事務局長からそれぞれ各訪問する寺院の由来、更に主な国宝に関する説明を詳しくお聞きしました。
 叉、バスガイドさんの美声による重要地点の案内をうけている間に、早バスは第一番目の研修寺院である善水寺へ到着。
 直ちに国宝の本堂を背景にご住職と共に記念撮影。そのあと本堂に詣でて、住職様よりお寺の由来等についてのお話を聞きし、十一過ぎ昼食場所の「鮎屋の郷」へと向かいました。
 次に二番目の研修寺院の阿星山常楽寺へ。当山においても国宝の本堂にお参りし、住職様より由来等ユーモアたっぷりなお話をお聞きして、国宝の三重塔を本堂裏山に見て、次の研修寺院・阿星山長壽寺へ。
 この寺でも国宝の本堂にて住職様より詳細にわたり説明を頂き、当山を辞す。
 以上で今回の研修旅行もとどこおりなく終了。
 二台のバス共々事故もなく無事予定通りの時間で綾部へ帰着することができましたのも御参加下さった皆様方全員の御協力あってのことと思考いたします。 
有り難うございました。
最後に今回の研修旅行に参加させて頂き、
私なりに感じました事柄につきまして少しばかり申しあげます。
 まず一見、各伽藍の見事な建築物は申すに及ばず、本尊薬師如来像を初めとして十二神将に至る、各々の仏像の精巧な創作技術はどこから発信されたものか、一、000年以前の時代において、その製作にあたられた仏師の方々等の創造力「おそらく当時においてモデル的なような物があったとは考えにくい」そのような現状の中で、仏様・神将等一躯ヽそれぞれ異なる様相が表現されていることに関し、誠に感激を覚えたものでした。 昔の人々の偉大さを改めて感じた一日であったと思いました。
写真:常楽寺の国宝本堂と国宝三重塔をバックに若林師と共に
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