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なべちゃんの散歩道
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ジャンル: 文化財を訪ねて
Blog数:331件
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2008/04/18のBlog
近江西国観音霊場第一番 近江湖南二十七名刹霊場十五番
阿星山 常楽寺(天台宗)

(到着13時45分出発14時35分) 此処では各号車毎に記念写真を撮ります。ご住職が在所の場合は一緒に記念写真に入って頂けます。

写真:常楽寺の国宝:本堂と左手裏が国宝:三重塔
阿星山 常楽寺(西寺)の沿革
 常楽寺は、十四世紀の二十八部衆造立勧進状によると、和銅年間(708)郎弁(ろうべん)が開基した阿星山(あせいやま)五千坊の中心寺院の一つであり、鎮護国家、鬼門除けのために元明天皇の勅令により創建された。
 平安時代後期、行胤(ぎょういん)が比叡山の末寺に位置づけたと考えられている。

一.本堂(国宝)
 延文五年(1360)三月二十六日、火災で焼失し、同年に観慶(かんけい)により再建された(南北朝時代)。本堂は桁行七間、梁間六間、屋根は入母屋造の桧皮葺です。
 本尊の、秘仏・千手観音坐像(国重文)は寄木造りで、本手と脇手と合わせて四十手もあり、両側に二十八部衆(国重文)は三尺像で檜材・寄木造・玉眼の入っている彩色像です。叉、風神・雷神(国重文)の三十躯の群像が祀られています。(注、風神、魔喉羅迦(まごらか)王は盗難にあい現在は二十八躯です。)本堂裏側の外陣に安置する釈迦如来坐像(国重文)は寄木造・皆金色で藤原時代の特色を現している。金銅飯食器(おんじきき)・銅飲食器・金銅火舎(かしゃ)(香炉)は藤原時代のもので国重文です。

一.三重の塔(国宝)
 三間本瓦葺,総高77.88尺(約26メートル)。屋根瓦に「応永七年五月(1400)の箆書(へらがき)があることから、建立はこの頃と推測できます。塔の初層内の須弥壇(しゅみだん)(仏壇)には釈迦如来坐像が安置され来迎壁には釈迦説法図、四天柱は諸菩薩、内法壁は真言八僧図、十王図が描かれています。良弁僧正が所持した錫杖(しゃくじょう)(国重文)もあります。

一.山門
 豊臣秀吉が伏見城築城に際し伏見に移し、更に毛利輝元により伏見城から園城寺に移築された。現在の山門は、その後に建てられたもの。

一.三聖神社(さんしょうじんじゃ)
 常楽寺の護法社であったが、明治の神仏分離令により独立している。 三聖とは三王三聖のことで、延暦寺の護法社である日枝大社(山王社)、三社の総称であり、日枝大社の分霊社で見事な舞殿と本殿がある。

一.近江西国観音石仏
 一番から三十三番と番外一つの石仏が本堂、三重の塔の周囲に祀られている。見て廻る時間はとても無いが第一番の石仏は三重の塔の下にあるので見れます。
「綾部市文化協会後援」第四十回春の研修旅行
湖南三山の国宝・文化財を訪ねて」 6月5日(木)
綾部の文化財を守る会事務局:四方續夫氏記
見学箇所等についてのご案内
 今回の春の研修旅行は久し振りに滋賀県を訪れます。滋賀県の国宝の数は56件で京都府、奈良県、東京都に次いで四番目に多い県であります。
 叉、湖南市は平成16年10月1日にかの東海道五十三次の石部宿(いしべしゅく)のあった石部町甲西町が合併したところであります。従って皆様にははじめて湖南市湖南三山」の名を知られた方も多いと思慮しますが、三つの寺とも国宝の本堂を持ち叉、同じ天台宗の古刹でもあります。
 本当は秋に実施をしたいのですが、駐車場も二台の大型バスが駐車できるくらいで秋の紅葉のシーズンには道路が混み拝観できない場合もあり、春の実施となりました。住職様のお話によると、「六月五日頃は「さつき」のシーズンで愉しんで頂けるでしょう」との事であった。
 叉、各バスにはボランテア・ガイド(有料)を手配し十分に説明をして頂きますので楽しみにし、ご友人等お誘いの上、多数のご参加をお待ちしております。

西国薬師霊場第四十七番 岩根山 善水寺(天台宗)
(到着10時15分頃、出発11時5分) 到着時専門のボランテア・ガイドさん二名が駐車場に待っておられます。京都交通のバスガイドさんとペアーで号車毎に案内して頂きます。 この国宝の本堂をバックに写真を撮ります。ご住職様が在所の時にはご一緒に記念写真に入って頂きます。

写真:善水寺の国宝の本堂全景
善水寺の由来
 善水寺は奈良時代和銅年間(708~715)元明天皇の勅命により鎮護国家の道場として草建され、当時は和銅寺と号した。延歴年間(782~806)傳教大師最澄上人、比叡山を開創され、堂舎建立の用材を甲賀の地(即ち今の湖南市、甲賀市)に求められた。材木を切り出し横田川(今の野洲川)川岸に筏を組み、いざ流し下す段になったが日照り続きのため、河水が少なく思うように材を流すことが出来なかった。

 傳教大師、請雨祈祷のため、淨地を探されたところ、岩根山中腹より一筋の光が目に射し込み、その光に誘われるまま当地に登られた。山中に堂、その東に百伝池あり、池中より一寸八分、閻浮壇金(えんぶだごん)(樹林の中の川底にあるという金砂、の意)の薬師仏を勧請され、その薬師仏を本尊として請雨の祈祷を修すること七日間、満願の日に当たって大雨一昼夜降り続き、流れの勢いのまま、材は川を下り琵琶湖の対岸比叡の麓に着岸したと云う。
 後に、京の都で桓武天皇御病の際、傳教大師、霊仏出現の池水を以って薬師仏の宝前にて病気平癒の祈祷を修すること七日、満行なってこの霊水を天皇に献上されたところ、御病気忽ち平癒された。この縁に依って「善水寺」の寺号を賜ったと云う。

一.本堂(国宝)
 南北朝時代、貞治五年(1366)再建、木造平屋建、入母屋造桧皮葺、桁行(正面)七間、梁間(側面)五間。出組(でぐみ)、中備撥形間斗束(なかぞなえはちけいけんとづか)、軒廻(のきまわ)りは蛇腹支輪付(じゃばらしりんつき)、二軒繁垂木(にけんしげたるき)。
 天台密教仏殿(和様に中国からもたらされた大仏様(だいぶつよう)や禅宗様の要素が持ち込まれ新和様と云う形式となっている。)は前二間通りが礼堂(外陣)、中二間通りが正堂(内陣)後一間が後戸、後戸には五間巾の張り出しが付いている。礼堂の周囲は、内開きの蔀(しとみ)戸。正面に向拝(こうはい)(本堂正前の張りだし部分)を持たないため美しい屋根の曲線が覗える。礼堂内部は、中央の二本の柱を省略しているが、通常は虹梁を前後方向に架けるところ、桁行方向に三間巾で大虹梁を架け渡している。更に通常の梁の位置は華麗な彫刻の施された拳鼻が設けられている。この寺本堂内外には「本尊薬師如来」をはじめ三十余躯の仏像を安置している。

一.金銅釈迦誕生仏 一躯 天平時代(以下全て国の重要文化財)

一.本尊薬師如来 一躯 藤原時代 正暦四年(994)の銘あり(秘仏)。

一.梵天・帝釈天 二躯 藤原時代

一.四天王 四躯 藤原時代

一.僧形文殊菩薩 一躯 藤原時代

一.不動明王 一躯 藤原時代

一.兜(と)跋(ばつ)毘沙門天 一躯 藤原時代

一.金剛力士 二躯 藤原時代(2.5メートルもあり、旧二王門に安置されてたが、現在は外陣に安置)

一.持国天・増長天 二躯 藤原時代 (二天王、旧二天門に安置されていたもの。)

一.銅造阿弥陀如来 一躯 鎌倉時代 (善光寺如来・元久三年(1246)(県指定文化財)

一.聖観世音菩薩 一躯 藤原時代 (観音堂に安置されている市指定文化財)

一.十二神将 十二躯 鎌倉時代 (文永九年(1272)市指定文化財
 以上が指定文化財ですが、他に多くの仏像が安置されています。

一.元三大師堂(がんさんだいしどう)
 江戸時代、正徳三年(1713)に再建。本尊元三慈惠大師良源大僧正の等身大の像を安置する。

一.観音堂
 元禄九年(1796)東尾観音堂 を中尾岩蔵院旧跡に移し、丈六観音 像を修理安置している。

一.行者堂
 明治九年(1875)飯道寺岩本院行者堂を移し、行者仏を安置している。

その他
一. 岩根山
 標高405.5メートル通称十二坊ともいい、この岩根山に十二坊があったと云う。

一.善水元水の霊水場
 百伝池に向かって右側に、今でも霊水がこんこんと湧き出ている。

一.百伝池
 善水寺の由来にも出ているが、百伝の池、ももって池に訓ず。岩根の池とも云う。

出発は11時05分時間厳守でお願いします。
昼食:鮎家の郷(野洲町)(11時55分~出発12時55分)電話:077―589―3999
楽市売店(ご試食無料)、近江の民芸品、琵琶湖アートギャラリ等もお愉み下さい。滋賀県のお土産はここに全て揃っています。
2008/04/14のBlog
[ 15:57 ] [ 文化財を訪ねて ]
槇山砲台跡の赤煉瓦建造物横の段を上がると少し傾斜した平地があり、ハングライダ-が飛び立てる板が敷かれている。うっかり傾斜面を下に引き込まれそうな感覚を覚えながら展望写真を撮る。
京都市北部、北山の芦生に水源発する大河:由良川の河口が見える。はるばる美山、和知、綾部、福知山を流れ下り、Uタ-ンして大江、舞鶴に向かう由良川の河口である。河口の向こうが丹後由良海水浴場栗田(くんだ)半島、その向こうに隠れて栗田湾、天の橋立、伊根の船宿で有名な宮津湾があり、遠く丹後半島が見渡せる。
河口のこちら側は、舞鶴市の神崎海水浴場。この槇山に雲がかかって来ると海水浴場に雨が降り出すのを経験したものである。
神崎海水浴場
槇山からの眺望 「舞鶴の守りたい自然」~自然環境データブック~の文章
 槇山(標高483m)の頂上から白砂青松の続<神崎浜海岸を一望することができます。北前船の母港でもあった神崎は、市内はもちろん、京阪神からの海水浴客で賑わっています。東神崎地区は、田辺藩の塩浜であった事から、製塩土器が多数出土しました。その浜のはずれにある穴観音は、洞窟遺跡を思わ廿、大きな岩がもたれあったその洞窟に入ると、不思議な雰囲気をかもし出しています。 西神崎地区にある湊十二神社で2日に渡って行われる大祭は、東西区挙げてのお祭りで、海に生きる男たちの心をつないだ勇壮な太鼓と踊りが奉納されます。ホフマン窯の煙突、北近畿タンゴ鉄道(ktr)の鉄橋を通る列車など心癒される絶好の所です。>
槇山のある半島の先端部
舞鶴湾口とそれを挟み対岸になる大丹生半島が見える
反対の平地からは舞鶴市街舞鶴湾中心部から続く、左に湾口に至る水道がみえる。ここを砲台で押さえると、舞鶴の東港、西港の分岐点なので軍事的要塞と日露戦争に備えた砲台基地だったことが良く分かる。
[ 09:48 ] [ 文化財を訪ねて ]
旧舞鶴要塞 槇山砲台 明治33年
いつも山・山野草などの便りをいただく、舞鶴市の ふじもと様が3月に登られた時は、自衛隊のパラボラ分岐から先は積雪が30cmほどあったとのことである。
車で上れるとのことで行って来た。
引用1>西舞鶴市街から北へ約6km、舞鶴湾の入口部にある標高483mの槇山山頂、旧海軍の槇山砲台跡地の風致公園です。頂上からの眺望は極めて美しく、若狭湾国定公園のダイナミックな景観をぞんぶんに堪能することができます。由良金ヶ岬上福井線から分岐し頂上へは約5kmです。
引用2> 日清戦争以後、日露の対戦は必至と見て海岸防備を急いでいた時代です。明治30年3月、舞鶴軍港の着工と同じくして、陸軍も同年11月に舞鶴要塞砲兵大隊の開設と葦谷砲台の起工を行いました。続いて浦入、金岬、槙山の各砲台、建部山、吉坂両保塁の設置に着手、同36年10月までに全工事を完成しました。
舞鶴湾を挟んで東岸西岸側に、各砲台、保塁、弾丸本庫などを配置しました。海軍が主力であったため、その軍港施設を守るという性格上、こうした施設は湾口の岬、市内への進入路を見下ろす山の頂上に築かれていましたので、戦後無用となってからは、人が訪れることも少なく、長い間放置されたまま当時の姿を今も留めています。
今日では、槇山がTVや各種無線の基地となって山頂まで道路が整備され、またこの槇山砲台跡からハンググライダーを楽しむ人が飛び立つ場所としても利用されています。
赤煉瓦で作られた待避壕が、いくつも車道に沿って頂上付近に並んでいる。建物の側面などに階段があり上に出られる。出ると海に向かって緩いスロ-プの平地がひろがり、崖縁にはハンググライダ-が飛び立てる木製の平面ベ-スが設けられている。三カ所の飛翔基地があった。この平地からは素晴らしい展望が開けている。
砲台跡の先端まで車が入る。行き止まりは通信施設を囲うフェンスが設けられ広くなっている。
崖縁にはハンググライダ-が飛び立てる木製の平面ベ-スが設けられている。三カ所の飛翔基地があった。この平地からは素晴らしい展望が開けている。
8合目あたりに大きな倒木が横たわっていた。下りて調べると横の落ち葉の地面にタイヤ跡が通り、迂回できるのがわかり一安心。
途中で何カ所も落石をはさみ、車のボデイに衝撃を感じる。車高の低い車は要注意だ。
2008/04/13のBlog
[ 09:34 ] [ 文化財を訪ねて ]
瑠璃寺
由緒
瑠璃寺は、山号を金剛山と称する曹洞宗寺院である。創建は、江戸時代中期 村全体を焼きつくしたと伝えられる大火で瑠璃寺も全焼し、同時に過去帳始め寺の由緒となる一切の書類が焼失したので、詳らかではないが、文化元年(1812)に書かれた瑠璃寺過去帳によると、「当寺間山大渓和尚和上慶長十四年(1609)」とある。
かっては、鎌倉時代の元応年間(1319~1320)にさかのぼる寺縁起があったものと考えられる。
本尊
瑠璃寺の本尊は薬師如来である。本来曹洞宗の本尊は、釈迦如来なので、薬師如来が祀られているということは、大渓和尚以前から瑠璃寺が存在していたとの証拠ではないかと考えられる。

しだれ桜の由緒について
吉田瑠璃寺のしだれ桜は、樹齢三百年以上と伝承されており、昭和五十二年(1977)には「古木と若木が織りなす開花期の景観すばらしさ」により、舞鶴市指定文化財となっているが、天正八年(1580)から慶長四年(1599)にかけて、この地に幽閉されていた京都の公卿中院通勝(なかのいんみちかつ)を慰めようと、当時の田辺城主であり、通勝の歌の師でもあった細川幽斎が、京都の吉田山の桜を移し植えて、この地を吉田と名付けたのではないかと言う。また、瑠璃寺開山の大渓和尚は、かの田辺籠城戦に細川幽斎を助けて、袈裟を旗印にかかげて城内に入り、共に戦った人物であることから、瑠璃寺と幽斎にはつよい結び付きがあったのももっともと思われる。
一方、瑠璃寺の南東に当たる吉田の入り江には、年取島とゆう周囲二百米ほどの小島がある。この島の小庵が二人の会う場所であったといわれ、幽斎は舟で城と島を行き来したとみられる。ある年の大晦日に二人は夜が更けるのも忘れて歌に興じ、ついに元旦をむかえてしまい、年取島と名付けたと伝えられている。また、その時幽斎が詠んだ『藻塩草かき集めたる跡絶へて、ただ年取の名のみのこれり』と、以前からあった地名の「トットリ」を読みこんで、「年取」の字をあて、風流を示したのではないかとも考えられる。
 このようなことから、瑠璃寺年取島中院通勝細川幽斎は一連のものと考えるのが自然のようで、その鍵を握るのが「吉田のしだれ桜」かもしれない。
※因みに、平成十五年(2003)、当寺しだれ桜の故郷とおもわれる、京都吉田山の吉田神社と縁あって、友好の関係が結ばれ、平成十六年(2004)二月、古木のしだれ桜からとった、穂木を贈り、吉田山天元宮の地に里帰りした。
2008/04/11のBlog
[ 10:24 ] [ 文化財を訪ねて ]
インタ-ネットで常照皇寺を調べると、京北町は京都市に編入されていた。桜の開花は、京都府北部の綾部市が満開なのに、まだ先とのことであった。
地元の四つ尾稲荷大祭の準備で、小旗を沿道に並べたり、護摩壇の柴積み、料理方の準備など奉仕作業があり、11時に終わってから出かけた。
和知町の大野ダムの桜もチラホラ咲きで桜祭りが始まっていた。帰りに寄ることとして周山街道に出て1.5時間で常照皇寺に着いた。桜は色づき始めたくらいだったがシ-トを広げ花見をする家族も見られた。
売店が出ている。山の散策で食べる草餅とお茶を購入
売店前の観音様
2008/01/09のBlog
[ 11:50 ] [ 文化財を訪ねて ]
源氏物語ミュ-ジアム
入場すると丁度、映像展示室の開演時間であった。「<篠田正浩監督の映画「>浮き船」(20分)を観賞した。大変美しい画像で岩下志麻さんの語りが物語を引き立てていた。
b>浮き船</b>」など「宇治十帖」の名場面や資料が展示されていた。
源氏物語ミュ-ジアム案内板
新春を迎えてサザンカの生け垣がきれいだった。
[ 11:37 ] [ 文化財を訪ねて ]
かつて宇治七名水の一つに数えられていた「桐原水」が湧き出ている。七名水のうち現存するのは、この桐原水のみとなってしまったとのことである。
源氏物語ミュ-ジアムに至る参道
宇治平野を見渡せる仏徳山(大吉山展望台)への登り口がある。
与謝野昌子の歌碑が設けられ、橋姫、椎が本、総角(あげまさ)、さわらび、宿り木の歌詞が添えられていた。
2008/01/08のBlog
[ 12:31 ] [ 文化財を訪ねて ]
重要文化財 春日神社 鎌倉時代
一間社流造 檜皮葺
御祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
住吉社
御祭神 上筒男命 底筒男命
香椎社
御祭神
神功皇后 武内宿禰
[ 10:14 ] [ 文化財を訪ねて ]
厳島社
御祭神 市杵島姫命
武本稲也
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