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なべちゃんの散歩道
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ジャンル: 文化財を訪ねて
Blog数:331件
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2007/11/30のBlog
[ 11:03 ] [ 文化財を訪ねて ]
醍醐寺
 真言宗醍醐派の総本山。醍醐寺は弘法大師の孫弟子、理源大師・聖宝が、貞観16(874)年に創建した。山岳信仰の霊山であった笠取山(醍醐山)に登った聖宝は、白髪の老翁の姿で現れた地主神・横尾明神より、こんこんと水(醍醐水)が湧き出るこの山を譲り受け、准胆・如意輪の両観音を刻み、山上に祀った。それが醍醐寺の始まりである。
 開創後、醍醐・朱雀・村上の三代にわたる天皇の深い帰依によって山上に薬師堂、五大堂、山下に釈迦堂、法華三昧堂、五重塔などが次々に建立され、山上山下にまたがる大伽藍が完成した。通称、山上を上醍醐、山下を下醍醐と呼んでいる。
 以後も、皇室をはじめ貴族や武士の支援を得て、三宝院をはじめとする諸院や種々のお堂が建立され、真言密教の中心的寺院として多くの信仰を集めている。
 しかし、長い歴史のなかで何度も火災にあい、文明・応仁の乱では五重塔を残して下醍醐は焼失、上醍醐も荒廃。 ながらく復興に至らずにいたが慶長3 (1598)年の春、豊臣秀吉が開いた「醍醐の花見」を契機に秀吉並びに秀頼によって金堂や三宝院、また、山上では開山堂や如意輪堂などが再建された。
 江戸時代に入ると、醍醐寺歴代座主が居住する三宝院が、幕府より当山派修験の本山であると明確に位置づけられた。そのことにより、山への信仰が高まり、再び活気を取り戻していった。
 明治維新後の「神仏分離令」や「修験道廃止令」などの数々の法難で大打撃を受けたが、歴代座主の尽力により、開山以来、醍醐の教えは燈し続けられ現在に至っている。
 一千百有余年の歴史をもつ醍醐寺は、日本仏教史上枢要な位置を占め、長年護り続けられてきた寺宝類の多<は国宝、国の重要文化財の指定を受けている。平成6(1994)年にはユネスコの「世界文化遺産」に登録された。
清流宮殿拝殿前にて、スカイ・ガイドさんより説明を聞く
清流宮本殿(重文)
 醍醐寺の鎮守社。永長2 (1097)年に、最初に建立された上醍醐より分身を移し祀った。その後、この社殿の前で清瀧会(桜会)が行われるようになった。なお、現在の社殿は永正14 (1517)年に再建されたもので、毎年4月1日から21日まで、清瀧権現桜会の様々な行事の中心となっている。
清流宮本殿(重文)に向かい合掌
五重の塔に向かって、スカイ・ガイドさんより説明を聞く
2007/11/29のBlog
[ 10:14 ] [ 文化財を訪ねて ]
綾部の文化財を守る会秋の研修旅行は、暖かい好天に恵まれ、バス2台84名の参加を得て、紅葉の醍醐寺御香宮神社伏見稲荷大社を訪れた。私はいつものように写真係を務めた。

醍醐寺国宝:唐門前にて
2号車43名 SKYガイド:木村彰男氏 バスガイドと共に
Sony cybershot フリ-ハンド
醍醐寺国宝:唐門前にて Sony cybershot フリ-ハンド
1号車41名 SKYガイド:馬場 茂氏 バスガイドと共に
号車別に写真を撮る。一度に90名近くの人数を撮るのと異なり、40名余りだと非情に楽に撮れた。背景の建造物もいつもより低いが、被写体の人物列が中心より下部に並ぶので、ピントを人物にしっかり合わせる。
三脚使用の写真(Canon 30D)は、こちらです
広い参道を醍醐寺仁王門に向かって歩く、春に来た時は、満開の桜並木が綺麗だった
醍醐寺
 真言宗の宗祖・弘法大師の孫弟子にあたる理源大師・聖宝は貞観16 (874)年、醍醐山上に草庵を結び、准胝・如意輪の両観音像を彫刻し、堂宇に安置した。これが醍醐寺の始まりである。
 開創後、醍醐、朱雀、村上の三帝の深い帰依によって、次々に堂塔が建立され、天暦5(951)年には五重塔が完成。山上山下にまたがる大伽藍が整った。
 開山以来、醍醐寺は日本仏教史上枢要な位置を占め、伝えられたものの多くは国宝や国の重要文化財に指定されており、平成6 (1994)年には世界文化遺産に登録された。
2007/11/20のBlog
[関連したBlog]
暖かい好天に恵まれ、バス2台84名の参加を得て、紅葉の醍醐寺御香宮神社伏見稲荷大社の国宝・文化財研修の日帰り旅行が無事終了した。綾部の文化財を守る会の活動で写真係を務めた。
醍醐寺国宝:唐門前にて 2号車43名 SKYガイド:木村彰男氏 バスガイド
醍醐寺国宝:唐門前にて 1号車41名 SKYガイド:馬場茂氏 バスガイド
伏見稲荷大社 本殿前にて バス1・2号車:84名 SKYガイド:木村彰男、馬場茂氏、バスガイド2名
2007/10/31のBlog
花皆憧(はなかいどう)(旧加悦町役場) 加悦町指定文化財
機織り 組み紐
昔の生活道具
昔の生活
機織りの枷など
秋の味覚 郷土産品
尾藤家の歴史資料展示
尾藤家の歴史資料展示
尾藤家の歴史資料展示
尾藤家の歴史資料展示
尾藤家の歴史資料展示
2007/10/30のBlog
尾藤家の歴史資料展示
尾藤家の歴史資料展示
尾藤家の歴史資料展示
昭和3年旧尾藤家の洋館設計図
旧尾藤家住宅の変遷
尾藤家の歴史資料展示
10代尾藤庄蔵
尾藤家の歴史資料展示
2007/10/29のBlog
旧尾藤家住宅洋館
旧尾藤家住宅洋館
旧尾藤家住宅洋館
旧尾藤家住宅蔵
旧尾藤家住宅 京都府指定文化財
丹波屋善右衛門として代々大庄屋などを務めたのが尾藤氏で、江戸時代後期には生糸縮緬商として活躍。明治初期には北国と大阪を結ぶ北前船を所有し、10代庄蔵は生糸縮緬業のかたわら丹後銀行頭取を務め、11代庄蔵は加悦鉄道株式会社の常務・社長を務め、昭和初期には加悦町長を2期務めるなどの名門。旧尾藤家住宅は江戸末期の1863年に着工し、2年後に完成。明治・大正期には蔵や座敷などを増築し、11代庄蔵は洋館を建築。最終的に今日の姿となるのは1941年。(以上、加悦町施設の説明は京都府資料から引用)
旧尾藤家住宅
旧尾藤家住宅
旧尾藤家住宅
尾藤家映像ライブラリ-
1.加悦はかって城下町だった
2.旧尾藤家住宅の建築
3.旧尾藤家住宅の洋館
4.尾藤家の歴史
5.尾藤家の生業
6.11代尾藤庄蔵
7.近代のちりめん街道
8.現在のちりめん街道
ちりめん街道
旧街道に面し、江戸から明治・大正・昭和初期にかけてちりめん産業で町を近代化した建物が集まっている地域です。江戸時代には丹後精好などの絹織物の生産地として機能し、1722年には木綿屋六右衛門が手米屋小右衛門を京都西陣に紹介して秘伝の「ちりめん」の製織技術を学ばせ、まちは大いに発展しました。明治から昭和初期にかけての加悦は、丹後ちりめんの一大生産地としてのみならず、与謝峠を抜けて京都と結ぶ物流の拠点としても発展し、その賑わいぶりは、近隣地域から遠足に来た子どもたちが、「ここは日本か」と言ったという逸話が残っているほどです。中でも、ちりめん街道の中心地区の街道筋にはランプ屋、化粧品屋、牛肉屋、呉服屋、料理旅館、人力車屋、駄菓子屋、床屋、うどん製造店、帽子屋などが軒を連ね、丹後方面から京都に向けて出発するちりめん問屋の主人が人力車を乗り継ぐなど活気に満ちていました。
天神橋 ちりめん街道
加悦工芸の里を見学の後、加悦道の駅で昼食をとり、近くの「ちりめん街道」に向かった。
ちりめん街道の お地蔵さん
ちりめん街道案内図
2007/09/29のBlog
第13回 秋の文化財・史跡学習会-綾部市文化協会後援- 事務局 四方續夫氏
見学箇所等についてのご案内
 今回の学習会は、「綾部が民俗・民具・文化財の宝庫」なら、「奈良・京都は国宝の山」の京都の伏見区を中心に、「世界文化遺産登録の醍醐寺と国宝を訪ねて」と称し、伏見区の醍醐寺醍醐三宝院霊宝館の秋季特別展御香宮神社、四万社とも五万社とも云われるお稲荷様の本山・伏見稲荷大社を見学します。
又、昼食は伏見の黄桜酒造経営の「カッパカントリー」で、又、酒作りの行程や近くにある、「寺田屋騒動」の寺田屋を見に行ってくることも出来ます。見所一杯でどうしても綾部への帰着が遅く成りますが、必ずや御満足して頂けるものと確信しております。
又、皆様に出来るだけご参加しやすいように上林・山家地区と物部にもバス2台を廻しますのでご家族・ご友人を誘って是非とも多数の方の申し込みを頂くようお願い申しあげます。

醍醐寺(世界文化遺産登録・真言宗醍醐派総本山)
(到着10時頃、醍醐寺、醍醐三宝院、霊宝館の秋季特別見学後、出発12時10分)
 到着時、専門のスカイガイドさん2名が待っておられます。京都交通のバスガイドさんとペアーで号車毎に案内して頂きます。
 醍醐寺弘法大師の孫弟子、理源大師・聖宝が、貞観十六(874)年に創建した。山岳信仰の霊山であった笠取山(醍醐山)に登った聖宝は、白髪の老翁の姿で現れた地主神・横尾明神より、こんこんと水(醍醐水)が湧き出るこの山を譲り受け、准胝如意輪の両観音を刻み山上に祀った。それが醍醐寺の始まりである。
開創後、醍醐朱雀村上の三代にわたる天皇の深い帰依によって山上に薬師堂五大堂、山下に釈迦堂法華三味堂五重塔などが次々に建立され、山上山下にまたがる大伽藍が完成した。通称、山上を上醍醐、山下を下醍醐と呼んでいる。
以後も、皇室をはじめ貴族や武士の支援を得て、三宝院をはじめとする諸院や種々のお堂が建立され、真言密教の中心的寺院として多くの信仰を集めている。
 しかし、長い歴史のなかで何度も火災にあい、文明・応仁の乱では五重塔を残して下醍醐は焼失、上醍醐も荒廃した。
 ながらく復興に至らずにいたが、慶長三(1598)年の春、豊臣秀吉が開いた「醍醐の花見」を契機に秀吉並びに秀頼によって、金堂三宝院、又、山上では開山堂如意輪堂などが再建された。
 江戸時代に入ると、醍醐寺歴代座主が居住する三宝院が幕府より当山派修験の本山であると明確に位置づけられた。そのことにより、山への信仰が高まり、再び活気を取り戻していった。
 明治維新の「神仏分離令」や「修験道廃止令」などの数々の法難で大打撃を受けたが、歴代座主の尽力により開山以来、醍醐の教えは燈し続けられ現在に至っている。一千百有余年の歴史をもつ醍醐寺は、日本仏教史上枢要な位置を占め、長年護り続けられてきた寺宝類の多くは国宝・国の需要文化財の指定を受けている。
 平成六年(1994)年にユネスコの「世界文化遺産」に登録されました。

醍醐寺の駐車場から徒歩で、霊宝館・醍醐三宝院へと向かいます。醍醐三宝院前の国宝・唐門をバックに号車ごとに記念写真を撮りますのでご協力願います。
醍醐寺では最初に入山料を支払い、
一.仁王門(西大門・桃山時代)を潜り抜け醍醐寺境内に入ります。
一.金堂(国宝・平安時代)
 秀吉の花見に新築が間に合わず、紀州湯浅村満願寺の本堂を移転したものである。平安末期から鎌倉時代初期の建物であるが、移築時に改修され桃山風になっている。
一.本殿(国重文・室町時代)
 三間社流造檜皮葺である。4月1日~20日の桜祭や花見の行列は、この神社の祭礼である。
写真:醍醐寺の国宝・金堂
一.五重塔(国宝・平安時代)
 高さや約47メートルで、天暦六(952)年の竣工。兵火を逃れた唯一の創建時代の建物で、京都市内最古の建築物である。内部に金剛大日如来像を安置し、壁画(国宝・平安時代)は両界曼荼羅図で祭礼の時のみ公開される。
その北に不動堂御影堂大師堂、祖師堂)があり、御影堂には理源大師聖宝を祀っている。更に奥に、大講堂、鮮やかに紅葉の池に浮かぶ「弁天堂」や女人堂等がある。女人堂が上醍醐の入口となっている。上醍醐は標高450メートルの頂上にあるので我々はここで、引き返します。
拝観受付所で拝観料を支払入場します。
醍醐三宝院(国特別史跡・特別名勝庭園)
 三宝院は永久三(1115)年、醍醐寺第十四世座主・勝覚僧正の創建である。
 醍醐寺の本坊的な存在であり、歴代座主が居住する坊である。現在の三宝院は、その建物の大半が国の重要文化財に指定されている。中でも庭園全体を見渡せる表書院は、寝殿造りの様式を伝える桃山時代を代表する建築物で国宝に指定されています。見ていく順序で記載していきます。
一.大玄関(国重文)
一.葵の間(国重文)
 京都三大祭りである葵祭、祇園祭、時代祭りのひとつ葵祭の風景が描かれている。下鴨神社から上賀茂神社へ向かっている様子である。
一.秋草の間(国重文)
 秋の七草が点在する広々とした風景が描かれている。
一.勅使の間(国重文)
ここの襖絵は竹林花鳥図である。桃山時代の作品で長谷川等伯に連なる一派の作といわれている。
一.表書院(国宝) 下段・中段・上段の間がある。下段は別名「揚舞台の間」とも呼ばれ、畳をあげると能舞台になる。中段の間、上段の間は下段の間より一段高く、能楽や狂言を高い位置から見下ろせるようになっている。
一.表書院・襖絵(国重文)
 上段の間の襖絵は四季の柳を主題としている。中段の間の襖絵は山野の風景を描いており、長谷川等伯一派の作といわれている。下段の間の襖絵は石田幽汀の作で孔雀と蘇鉄が描かれている。
一.国の特別名勝庭園の「亀島」は太い立派な五葉松が、島全体を覆っていて、亀の甲羅のように見える島がある。この松は雌松で樹齢六百年以上といわれている、天下の名木である。亀の「静寂」を表している。
鶴島」は亀島の西隣りにある島で、この松は黒松の雄松で、向かって左側の石橋が鶴の首にあたる。今にも鶴が飛び立とうとしている「躍動感」を表している。「賀茂の三石」池の手前に三つの珍しい形の石がある。向かって左の石は賀茂川の「流れの速いさま」を、中の石は「川の淀んだ状態」を、」右の石は「川の水が割れている様子」を表している。
藤戸石」は庭の中心に位置し、阿弥陀三尊を表している。歴代の武将に引き継がれたことから「天下の名石」といわれている。池の一番奥に「豊国大明神」が見える。是は太閤秀吉を祀る社。三宝院殿舎や庭園を整えただけでなく、五重塔の修復や金堂の再建など醍醐寺全体の修復に尽力した豊臣秀吉。その恩に報いるために建立された。
一.純浄観(国重文) 太閤秀吉が檜山で花見をしたときの建物を移築したものといわれ、内部の襖絵は、平成に入り浜田泰介画伯が桜・紅葉を描いた。
 その庭園の東南の奥に見える建物が「沈流亭」で、茶室である。茶室の出入口は「にじり口」が一般だが、沈流亭は「貴人口」なのでかがまずに出入できる。 
内部は三部屋に分かれ南側から上段・中段・水屋の間となっている。柱には棕櫚や栗などの珍しい木が使われている。
一.本堂(国重文)
 本尊は快慶作の弥勒菩薩である。よって別名「弥勒堂」ともいわれ、脇仏として向かって右に宗祖弘法大師、左に開祖理源大師が安置されている。本堂の裏に護摩壇があり「護摩堂」とも呼ばれる。
一.奥寝殿(国重文)
 江戸時代初期の建築である。違い棚は「醍醐棚」と呼ばれ、修学院離宮の「霞棚」、桂離宮の「桂棚」とともに「天下の三大名棚」と称されている。

霊宝館(宝聚院)秋季特別展
 昭和五(1930)年に一千年御忌記念として建造されたもので、七百余箱に及ぶ古文書と重源が宋より持ち帰った約六千巻もの宋版一切経などを収蔵し、春と秋の年二回の特別展で公開されます。
 今回この特別展を見学します。
駐車場の出発は12時10分(時間厳守)です。駐車場側にトイレが有りますので
ご利用ください。

昼食:黄桜カッパカントリー(伏見)(12時30分~1時30分)
電話:075161119919
昼食とお土産はここだけです。又、黄桜酒造経営のお店ですので、お酒の造りの様子が順序良く展示された博物館が見れます。
 尚、店の表から約5分で薩摩藩脱藩の勤皇の武士達7名が島津久光の命で刺殺され、2名は重傷で切腹した「寺田屋騒動跡」があり、坂本竜馬は女将お登勢の機転で逃れた。お登勢の娘・は竜馬の愛人である。のち、昭憲皇太后が竜馬の夢を見、寺田屋に金一封を与え、それを記念して「正四位坂本竜馬忠義碑」がたてられた。寺田屋の中に入ると柱や欄間の刀傷が見れるが入場料がいる。外部の竜馬像や記念碑は無料で見れますで、希望者は各自で見に行ってきてください。
(出発時間は午後1時30分時間厳守)
御香宮神社(午後2時~2時30)
京都府指定文化財の拝殿
日本第一安産守護之男大神として広く崇められている。神功皇后を主祭神として仲哀天皇他六柱の神をまつる。
初めは「御諸神社」と称したが、平安時代貞観四年(862)9月9日に、この境内から「香」の良い水が湧き出たので清和天皇から「御香宮」の名を賜った。
豊臣秀吉は天正十八年(1590)願文と太刀(重要文化財)を献じてその成功を祈り、やがて伏見城築城に際し、城中に鬼門除けの神として勧請し、社領三百石を献じた。その後、徳川家康は慶長十年(1605)に元の地に本殿を造営し社領三百石を献じた。
慶応四年(明治元年・1868)正月、伏見鳥羽の戦いには当社が薩摩藩(官軍)の屯所となったが幸いにして戦火は免れた。ここには官軍駐屯の石碑がある。
10月1日から10日までの神幸祭は、伏見九卿の総鎮守の祭礼とされ、古来「伏見祭」と称され今も洛南随一の大祭とされている。

一.本殿(国指定重要文化財) 慶長十年(1605)、徳川家康の命により京都所司代板倉勝重を普請奉行として着手建立された。大型の五間社流造でひわだぶき桧皮葺、正面のとう頭かん貫き木ばな鼻やかえる蠆また股、向拝の手挟みに彫刻を施し、全て極彩色で飾っている。又、背面の板壁には五間全体にわたって柳と梅の絵を描いている。全体の造り、細部の装飾とも豪壮華麗でよく時代の特色をあらわし桃山時代の大型社殿として価値が高い。

一.拝殿(京都府指定重要文化財)
 寛永二年(1625)徳川頼宣(紀州家初代藩主)の寄進によるもので、桁行七間、梁行三間、入母屋造、本瓦葺の割拝殿。正面軒唐破風は、手のいり込んだ彫刻によって埋められている。特に五三桐のかえる蠆また股や、だいへいつか大瓶束によって左右に区切られている彫刻は、向かって右は「鯉の滝登り」即ち竜神伝説の光景を彫刻し、左はこれに応ずる如く「琴仙人が鯉に跨って滝の中ほどまで昇っている」光景を写している。

一.表門(国指定重要文化財)
 元和八年(1622)に徳川頼房(水戸黄門の父)が伏見城の大手門を拝領してここへ寄進した。特に注目すべきは、正面を飾る中国二十四孝を彫った蠆股で向かって右から、楊香郭巨唐夫人孟子の物語順に並んでいる。
他に、当社の名の由来の清泉「石井の御香水」がこんこんと今も湧き出ている伏見の七名水の一つ。紀州藩祖・徳川頼宣、弟の水戸藩祖・頼房(水戸黄門の父)と尾張藩祖・直の各公はこの水を産湯に使われた。又、小堀遠州作庭の「石庭」もあるが、狭いので入場できないが、是非とも見たい方は、各人で入場券を購入し、団体の案内から外れて見に行ってください。
伏見稲荷大社
国重要文化財の本殿を持つ伏見稲荷大社 (午後3時~3時50分)
 バスから徒歩で大社へ行き、先ず全員で記念写真を撮りますのでご協力をお願いします。
 稲荷大神は元々五穀をはじめとする全ての食物・蚕桑のことをつかさどる神として信仰されていた。平安期に至って、東寺の鎮守とされてより朝野の尊崇をあつめ、宇迦之御魂大神(下社・中央座)、佐田彦大神(中社・北座)、大官能売大神(上社・南座)を主神として祀り、田中大神(田中社・最北座)、四大神(四大神・最南座)を合祀する。
全国四万社余の稲荷神社の総社で、和銅四年(711)秦伊呂具が三社を祀ったのを起源とすると云う。平安時代には「延喜式」明神天社に列し、天慶五年(942)には正一位が与えられている。本殿(国重文)は明応三年(1494)の建立で、五間社流造桧皮葺、前方に内拝殿(神饌所)を持つ稲荷造りである。本殿右手の御茶屋(国重文)などもある。大社後方の稲荷山の「お山めぐり」は4キロメートルもあり、とても我々には行く時間がないが、手前の壮観な「千本鳥居」は見て頂きます。
 出発時間は、バスへ歩いて戻り、午後3時後10分です。トイレを済ませ、時間厳守でお願いします。

綾部市文化協会後援」 第13回 秋の文化財・史跡学習会 参加のご案内 事務局 四方續夫氏
「隠れた紅葉の名所」とも云われる醍醐寺の紅葉は京都では大変遅く、醍醐三宝院近くでは11月下旬でもまだ、青々としています。しかしながら「弁天堂の紅葉」が池に映えるのは見ものです。醍醐寺の「秋の霊宝館特別展示」の内容は毎年変わります。一度参観された方も、再度の見学をお勧めたします。内容は担当役員・事務局一同自信を持っておりますので会員以外の方にも参加を勧めて下ださい。皆様の便宜を図るためバス二台を巡回させますので乗車場所を必ず申し込み葉書に明示願います。

 記
一、期日 平成19年11月20日(火)
二、集合場所・時間は乗車場所により違いますので、出発予定より十分ほど早くご集合願います。
三、見学箇所:醍醐寺醍醐三宝院霊宝館の秋の特別展示御香宮神社伏見稲荷大社
四、参加費 お1人 9,000円(貸切バス代、昼食代、拝観料及び入館料、心付、手作り記念写真二枚の代金を含みます。)
五、募集人員 90名(京都交通貸切バス2台予定)
六、申し込み方法 10月30日(火)までに参加者全員の〒番号・お名前・ご住所・電話番号・バスの乗車場所を明記し、葉書にて申し込み下さい。特別緊急以外の電話申し込みはお断りします。
七、申込先
 〒番号:623―0004 綾部市多田町後路28 四方續夫 宛
八、受付と出発案内は申し込み締め切り後、葉書にてお知らせします。
貸切観光バスと旅行のお申し込みは京都府知事登録第2-530京都交通株式会社観光課京都府舞鶴市喜多1048-27TEL:0773-75-6000FAX:0773-75-5957担当:塩見 元宏
九、尚、旅行には「この会報65号」を持参して参加願います。靴はスポーツシューズ等をおすすめします。

 日程表①号車:白道路公民館==物部バス停(たき 06:45 06:55たて)==新庄バス停==JR綾部駅北口= 07:00 07:30②号車:上林の大町バス停==井根口バス停 06:35 06:50=十倉バス停==JR綾部駅北口==綾部大 07:00 07:30 07:35橋バス停==山家バス停==京都縦貫道== 07:40=南丹PA(休憩)====醍醐寺・三宝院・08:30~08:45 10:00~霊宝館(秋の特別参観)==黄桜カッパカン~12:10出発(時間厳守) 12:30~トリー(昼食、買物、酒博物館、寺田屋見学等 )======= 御香宮神社====13:30(時間厳守) 14:00~14:30===伏見稲荷大社=========15:00~15:50(出発時間厳守)京都縦貫道==丹波町のやまがたや(休憩) 17:20~17:40===山家バス停===綾部大橋バス停=18:15頃 18:20頃==JR綾部駅北口===18:30①号車:新庄バス停==物部バス停== 18:50頃 18:55頃==白道路公民館 19:00頃②号車:十倉バス停==井根口バス停== 19:00頃 19:10頃==大町バス停 19:20頃
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