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なべちゃんの散歩道
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ジャンル: 文化財を訪ねて
Blog数:331件
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2007/09/29のBlog
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写真:加古川市の鶴林寺の国宝・本堂をバックに、ご住職・幹栄盛師と共に
一号車 事務局会計 綾中町 渡邊敬治
 バスから降りてお寺を見上げると、お堂らしき建物が見える。小さな坂道を登って行くと目の前に金堂が聳える。奈良の大仏殿程ではないが、かなり大きな建物である。その前でバスガイドを含めて八十四名一度に写真撮影をする。
 八百十五年も風雪に耐えて、今も堂々とした姿を見せる浄土堂、中に入ると中央円形の須弥壇の上に立つ阿弥陀三尊像は見上げるばかり、五米三十糎もあるという。小さく見える両脇侍の観音・勢至の両菩薩も三米七十一糎とか。
 本尊の胎内銘から「建久六年四月十五日」とあることから八百十二年も以前に造られたことになる。この阿弥陀三尊は東大寺南大門の金剛力士像を造った名仏師快慶の作とか。その力強さは共通する技法を窺わせる。天井を見上げると八百年以上も経た建物とは思えないしっかりした木組みで偉大である。大仏様(天竺様とも云う)という特異な建物で、東大寺南大門と我が国に二つしかないという重要な建物である。
 仏像の背面(西)の透蔀を通して差し込む夕日が浄土堂の化粧天井に反射するのを背景に黄金色に輝くこの像を拝む時、雲に乗って来迎する仏の姿を目のあたりにして、拝観者は感動するという。残念ながら私達は午前中の拝観なのでその姿を拝することは出来なかった。
 境内には薬師堂があり、東大寺に手向山八幡宮があるように、同寺にも八幡神社が祀られていた。見るものは沢山あったが時間の都合で見学もそこそこに浄土寺を後にした。
 法華山一乗寺は山の中にある。細いくねくねと回りくねった道をバスは一杯になって登っていく。
 一乗寺は印度僧法道仙人の開基である。
大化五年、時の帝孝徳天皇不予の病に患り、仙人が召されて一七日間加持し奉るとたちまち平癒し給う。此の年に本堂建立の勅を受けて建立したという。実に一三五七年も続くお寺である。
 バスを降りると本堂に向かって石段が続く、迂回路を通って本堂下の三重の塔までたどり着く、本堂は今まだ修理中なので拝観できない。国宝の三重の塔だけを拝して石段を降りる。本堂裏から二百米ばかり奥に開山堂がありそこには、賽の河原があるという。賽の河原まで登れない人は麓の石の観音堂の屋根に小石を積んで賽の河原の供養代りにするという。
 「一乗寺には沢山の宝物もあり、仏像もある」とガイドさんの説明だったが、本堂が改築中でもあり、十分に拝することは出来なかった。
 昼食をはさんで午後は鶴林寺の拝観である。住職様が本堂でお待ちいただき一緒に記念撮影に納まっていただく。
 本堂に入って住職様のお話を聞く。
昔、加古川から舞鶴まで歩かれた時、調度綾部で夜になり、昔の綾部駅で一夜を明かしたことなどを交えながら、本堂は天竺様(大仏様ともいう)、和様、禅宗様が見事に調和して折衷様式の代表的な建物である。本尊の薬師如来・月光・日光菩薩・毘沙門・持国天の五体仏は厨子深くに鎮まる秘仏であり六十年に一度のご開帳という。本堂の住職であっても拝むことは許されない。
「あいたた」どうして、昔、鶴林寺に盗賊が入り、この聖観音像を持ち去り、壊そうとして、槌を腰の辺りに打ち付けた 
所「あいたた」と声がした。驚いた賊は改心して観音様を元の所に戻したという。
 それ以来この観音様を「あいたた観音」と呼ぶようになったとか。いまにもこぼれ落ちそうな微笑みを浮かべ、のびやかな肢体は腰をかすかにひねっているかに見える。しなやかな腰の線は女性のようにさえ見れる。まさに鶴林寺の至宝である。
ほかに太子堂は宝珠をいただいた桧皮葺きの優美な姿を見せる。太子堂に入り壁画の「九品来迎図」「還り来迎図」などのビデオを見ながら解説を聞く。
 鐘楼も立派で袴腰造りの優美な建築であり、釣るされた梵鐘は小振りながら朝鮮高麗時代の鐘で、鐘の上部に煙突様の筒がつけられている。これは鐘の響鳴に関係するのか、妙なる音色は天下一品という。
 宝物館の内には野外の舞楽演奏に用いられた楽太鼓の縁と太鼓の断片が残されていた。この楽太鼓の縁だけでもニ米からもある大きな物だった。昔はこんなに大きな楽器を使って舞楽を奉納したのだなと感心する。
 ここでも時間に追われて十分な見学はできないままに次ぎの見学場所に向かう。
 明石文化博物館の見学は十分な時間がとれないままに慌しく見学をして博物館を後にした。
[ 18:41 ] [ 文化財を訪ねて ]
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2号車 事務局総務 延町 森本一郎
 前回一号車の始発を白道路にしたことが大変好評だったので、今回はニ号車も上林を始発として、山家経由で綾部駅北口に集結し、出発する事と成った。
 その効果が出たのか、参加申し込み人数は過去最高の九十五名もあったが、インフルエンザの感染や近所のご不幸などで取り消しが相次ぎ、結局八十一名の参加者で実施する事となった。
 駅北口では一名出発前になっても顔が見えないので、電話しても出られないし、どうしたものかと気を揉んでいたら、事務局長が味方から乗られると聞いていたとの事で一安心する。
 私は播磨の有名寺院では、書写山圓教寺くらいしか行ったこともなく、今回は建物が国宝となっている物を多く見せて貰えると言う事で楽しみに出発する。
 兵庫県の南部は、それほど用事もないので来たことが無かったが、丘陵地帯で綾部とは少々様子が違う。播磨と讃岐は、同じ瀬戸内海気候で河川も少なく、奈良と共に溜池の多いところと、ガイドさんの説明であった。麦と米の二毛作の為、遅い田植えの水田地帯からやや小高い丘の裾に着いた。浄土寺である。着いて直ぐ西尾公認ガイドと共に全員で記念写真を撮る。国宝の浄土堂に入る。金箔がしっかり残った阿弥陀如来さんと、脇侍の観音菩薩さん、勢至菩薩さんの三体が、圧倒的な迫力で我々を迎えて下さった。これまで色々な仏さんにお出会いしたが、今回ほど感動した事はない。”オォー“と言った感じである。天井もない屋根裏丸見えの空間一杯にお立ちになったそのお姿は、実に我々を魅了するものだった。快慶作とのこと。桧四本の寄木造りで、その基台は床下の地面に有るとの事である。八百年間動く事無く変わらぬお姿とのこと。あまりの感動で拝む事も忘れて見とれていたら、西尾ガイドさんに「お堂に入ったら先ず仏様に挨拶する(手を合わせる)ものだ」と、お叱りを受けた。以後気をつけよう。それにしても此のお堂の木組みは立派なものである。虹梁を支える挿肘木、豪快に丸柱に文字通り挿し通されている。その組方も良く考えられていてバランスが良い。屋根を支える垂木受けのもやを、桁から天秤状の腕木で上下に支えてあった。この様な処理をされた建物は初めてである。天竺様と言うそうだが、建築学会で注目されていることも良くわかる。
 堂内の木材は朱で塗られていて、仏像の金色と良く合い夕日の光が入ったら素晴らしい浄土が見られる事だろう。外に出て軒端を観ると確かに垂木の端は化粧板で隠されている。又、軒丸瓦も軒平瓦も蓮華模様や唐草模様でなく、「南無阿弥陀仏」といずれも文字が入っていた。これは国内にニ、三例しかない貴重な物との事であった。いずれにせよ平安時代の終わりから鎌倉初期の建物であり、それがそのまま遺っているという事は素晴らしい事である。もう一つ感激したのは、明治の初めの神仏分離令で、従来全国的に神仏混合であったものが破壊され、今ではその形態を見る事は出来ないものと思っていたが、ここにはそのまま、しかも鎌倉時代から室町時代に建てられた八幡神社と共に、存在していた事が嬉しく、又それが見られたことで、この旅に参加した甲斐が有ったと満足に思った。
 今回は、此の浄土寺の印象があまりにも強かったので、感想もここで止めたいと思う。此の地方に一乗寺や鶴林寺など、いずれの建物も、物としてだけではなく、その教えと共に八百年の昔から延々と守られて来たことに、深い感銘を受けた。
 地味な旅ではあったが、適度な歩行距離で天気も良く、定刻に無事帰着できたことは、世話役としても幸いだった。
2007/06/08のBlog
バス2台(81名)の参加で6月7日実施の綾部の文化財を守る会の春の研修旅行が終了しました。研修コ-スは、浄土寺(小野市)、一乗寺(加西市)、鶴林寺(加古川市)、明石文化博物館の4ケ所。記念写真係を務めました。
極楽山・浄土寺(小野市)国宝:浄土堂(阿弥陀堂) 公認ガイド:西尾泰彦氏と共に
小野市:浄土寺にて、人物拡大です。
国宝の建造物を入れないと価値がありませんが、大きな建物をバックに90名を一度に撮るには、人物を手前に並べ、マニュアルモ-ドでピントをしっかり人物に合わせてから、三脚のカメラを動かして全体が入るように構図をつくります
刀田山・鶴林寺(加古川市)国宝:本堂前 幹栄盛師と共に
下見に行った時の予定では、参道両脇の灯篭の前に90名が並んで撮影するつもりであった。しかし中心に居られる幹栄盛師が本堂(国宝)の登り段でと、一方ならぬご好意を賜ったので予定変更をして、この写真となった
人物拡大写真
鶴林寺本堂(国宝)の建造物が巨大なので、人物のみ拡大する。記念撮影の人物は写真の構図の下部になり、中央焦点ではピントが合わないので、マニュアルで合わせ大型フラッシュも使用した
人物に近づいた写真も撮影。こちらを焼き付けて浄土寺の写真と2枚を参加者に配布することにする
2007/05/05のBlog
秋の史跡学習会」に参加して 2号車 事務局総務 延町 森本一郎
写真:高台寺執事兼圓徳院住職・後藤典生師と共に 2号車
 全体として、ゆったりとした時間の中で講話やお茶席もあり、見るべき物も沢山有って、京の秋を楽しめた一日であった。豊国神社の唐門は、伏見城の特色をとどめる遺構で、重厚な中に金色の装飾がなされ、桃山時代の豪華さが良く出ていると思った。方広寺の例の大梵鐘も、歴史的には野ざらしに成っていた時期もあり、今の鐘楼に百トン近いものをどの様にして吊り下げたのか興味が湧いた。
 でかい事好きの秀吉が、大岩に乗って陣頭指揮をしたと言われる「泣き石」そんな絵をいつか見た気がする。
 昼食は、これぞ京料理と言う様な湯葉料理を美味しく頂く。
 直ぐそこに見える「八坂の塔」がチョット気になって行ってみる。589年に聖徳太子が建てられた、日本で初めて建った五重塔との事。今の物は1440年に建て替えられた「国重文・室町期」で有った。三層まで上れ、境内には木曽義仲公の首塚も有った。
 高台寺では、圓徳院の後藤典生住職の法話をお聞きする。何事にも一生懸命になりなさい。誰とも大らかに真摯(しんし)に付き合いなさい。幸せは自分の心の内にこそ有るのですよ。他人に迷惑をかけないことと、人としての行儀を確立しておく事が、生きる上での基礎だと言われ、今をありのまま受けとめ、精一杯生きる事が仏の教えである、とお話に成りました。
 霊屋の高台寺蒔絵は、奥の方で見えづらかったが、バスの中で辻本顧問提供のビデオを見せて頂いていたお陰で、良く判り有難く思った。開山堂は、北の政所の御所車の天井が使われたそうだが、それから想像される牛車の大きさに少し驚いた。傘亭や時雨亭も趣のある建物で、中で一度静かに座ってみたい気がした。
 ねね終焉の圓徳院は、伏見城の「化粧御殿」と同庭園を移築した物と言われているが、流石に女性の住まわれた所と言う感じで、座敷から眺める国名勝の「北庭」のたたずまいは、実に見事なものだった。もう少し紅葉が進んでいれば最高だったが、好天に恵まれ全員のご協力を得て、予定通り終了出来たことは幸いな事であった
綾部の文化財を守る会第12回秋の文化財・史跡学習会
―高台寺(北の政所(まんどころ)・ねねの寺)四百年祭と太閤秀吉ゆかりの地を訪ねてー 一号車 副会長・位田町 村上高一 写真:国宝・豊国神社唐門 1号車
 晩秋の好天に恵まれた11月16日、標記の研修旅行に参加した。わが一号車は、始発を物部町にしてもらったことから、物部の方が多く、総勢38名で定刻に綾部駅を出発しほぼ2時間で、京都東山七条の豊国神社に到着した。すでに本日の京都スカイ観光ガイド協会所属ガイドの蓮(れん)花(げ)さんが来ておられてご挨拶をうけた。非常に珍しいよいお名前で、これで度々得をしたとのご本人の説明であった。蓮花さんは、マイクを使われずしっかりした力強いお声で、分かり易く説明されて、好感がもてた。
 豊国神社は、秀吉の墓所のある阿弥陀ヶ峯(東山連峰の一つ)の山腹、太閤担(だいら)に建てられた雄大な社殿であったが、豊臣氏の滅亡後、徳川氏の手で、完全に破壊された。ずっと後になって明治十三(1880)年に、旧方広寺大仏殿跡地に再興されたものである。ここでは宝物館と唐門(からもん)を説明を受けながら見学した。宝物館の圧巻は「豊国祭礼図屏風」であり、当時の神社の規模、祭礼の盛大さがうかがわれた。唐門は伏見城の遺構で威容を誇っている。次に方向寺を見学する。方広寺は秀吉によって天正十四(1586)年に建てられ、当時の本尊の木造大仏は、奈良の大仏より高かったといわれるが、度々の災禍で破壊された。現在は豊臣、徳川決戦の引金と伝えられる「国家安康、君臣豊楽」の銘が入った巨大な梵鐘と本堂のほんの一部の大黒天堂を残すのみである。
 11時頃から再びバスにて高台寺へ向う。大型バスの進行方向の関係で迂回して、約20分を要し、高台寺に到着した。そこで同寺駐車場内の「洗心寮」にて昼食となる。昼食は湯葉(ユバ)を使った京料理をいただいた。その後しばらく買物や付近の散策を楽しんだ。
 午後1時少し前に高台寺庫裏前で記念撮影をした。その後方丈にて圓徳院住職の後藤典生師の法話「秀吉とねね、そして仏心」を聞く。後藤師は約40分間、熱意を込め、具体例を挙げて分かり易く話された。私には、秀吉が低い身分から遂に天下を取ったのは、彼が人の心、立場を理解してその心を掴んだからだ、また仏教の心として、太鼓の音のように、当たり前のこと(普通のこと)が幸せにつながると話されたことが、強く印象に残った。
 ここで高台寺と圓徳院について、ごく簡単にその起源を記す。豊臣秀吉の没後、夫人の北政所(ねね)は慶長八(1603)年「高台院」の号を勅賜されたのを機縁に秀吉の菩提を弔うため寺院の建立を発願し、慶長十(1606)年、開創した寺が高台寺である。寛永元(1624)年、建仁寺の三江和尚を開山として迎え、高台寺と号した。北政所はこの年に没し、19年の余生を圓徳院でおくられたことになる。
 法話の後、境内の開山堂、庭園(臥(が)龍(りゅう)池(ち)・偃(えん)月(げつ)池(ち)を含む)、観月台、霊屋(おたまや)(秀吉、北政所の木像安置)、傘亭、時雨亭という茶室を見学。その途中で、当会の参加者にお抹茶の接待をうける。大変おいしいお茶であった。その後、階段を下りて圓徳院を見学。諸説明の後、方丈の内外を見学して回る。内には戦国武将の書翰(しょかん)や絢爛(けんらん)豪華(ごうか)な襖絵が置かれていた。外は庭園が注目された。中でも北庭は伏見城化粧御殿の前庭を移したもので、桃山期の代表的庭園といわれる。
 次いで、圓徳院の隣の二階にある掌(しょう)(てのひらのような)美術館を見る。ここには北政所の生活を彩った様々な蒔絵の調度品や絵画その他の美術工芸品が残されていた。特に蒔絵は、高台寺蒔絵として知られ、漆、金粉を平滑(へいかつ)に蒔く平蒔絵として作られているとのことである。以上のようにして、高台寺では実に食事も含めて、約四時間の滞在で、多くの見学や経験或いは散策となった。かくして午後3時半過ぎに、ガイドさんをはじめ、同寺に別れを告げて帰途についた。多くの人々に囲まれ、多くの文化財に接して、かなり疲労を感じたが、大変中味の濃い、よい研修であった。午後6時頃、全員無事に帰りついた。
2007/04/22のBlog
[ 08:33 ] [ 文化財を訪ねて ]
お昼前に地下鉄東西線で醍醐駅につき、駅から建物を2階に上がると大きな店舗があったが食事場所は向かいのビルにあるとのこと、2階を繋ぐ歩道橋を渡るとレストラン街があった
かつ屋と云う店で食べた。すり胡麻がついたタレがあり、ボリュ-ムたっぷりで美味しかった。ご飯やサラダのお替わりが出来るのも若者向き
醍醐駅からはコミュニティ・バスが出ている。片道200円だが一日券は300円。往復で乗るには一日券が得。便利なシステムだ
地下鉄の東西線は、列車が到着するとプラットフォ-ムの扉が開いてから乗車する。地下鉄の線路に転落防止のガ-ドがついた駅なので安心。

東西線に「椥辻駅:なぎつじえき」と云うのがあった。先日の新聞記事に「地方漢字」というのがあり、丹波アルプス(多紀町)の「たわ」(峠の頂上で左右両側の山が重なり「U字型」になるが、それがやや広い平地になった馬の鞍の様な地形)。
椥(なぎ)
駅名の由来:椥辻という地名は、かつてナギ(梛)の大木があったことに由来するという。名古屋市営地下鉄鶴舞線いりなか駅(地名は杁中)と同様に「椥」の字が常用漢字表にないことや読めない人が多いことから平仮名駅名も候補にあったようだが、漢字表記になった。大阪市営地下鉄谷町線喜連瓜破駅などと同様に難読駅の部類にあたる地下鉄駅である。
ナギ (梛,凪):マキ科 マキ属 学名:Podocarpus nagi 雌雄別株,常緑高木,針葉樹。・・・という面白い文字を見つけた。

乗りかえてJR京都駅に行かず、JR二条駅に行く、料金は同じ。JR二条駅前のパン屋さんを見ながら喫茶店にはいる。先に出て駅下(中央)で切符を買い、パンを買ってくるのを駅前で待つ。ところが駅の西側と東側が同じように見えるので、間違えて長時間待ちぼうけをしてしまう
[ 08:31 ] [ 文化財を訪ねて ]
京都醍醐寺霊宝館前の桜並木参道の向かいに茶店があり、休む人や買い物客で賑わっていた。
被毛線の床几も設けられている
護摩道場の札が掛かった建物
桜が見事
京都の銘菓など店屋さんも出ている
[ 07:11 ] [ 文化財を訪ねて ]
お茶席が設けられ賑わう
上醍醐参道
扉で閉鎖され回転ドアが付いているが、一度醍醐寺の境内から出ると戻れない。外に出ずにここで引き返す。醍醐山頂上まで数多くの伽藍が建っているが、また改めて登ることとする。
祖師堂の大屋根
参道を行き交う人々
桜の参道
2007/04/21のBlog
[ 14:44 ] [ 文化財を訪ねて ]
山門前
山門
鐘楼?
祖師堂
着物姿の女性が桜の下で撮影中
弁天堂
2007/04/20のBlog
[ 15:08 ] [ 文化財を訪ねて ]
京都醍醐寺・真如三昧耶堂?
不動堂?
お堂
お堂
醍醐寺旧伝法学院
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