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なべちゃんの散歩道
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ジャンル: 文化財を訪ねて
Blog数:331件
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2007/01/09のBlog
奈良興福寺、五重塔と東金堂
五重塔(国宝)
天平2年(730)に光明皇后によっで創建された。現在の塔は応永33年(1426)に再建された日本第2位の高塔(50.1m)だが、猿沢池畔から見上げる雄姿は古都奈良が誇る絶妙の風景。初層内陣には薬師三尊像(東)、釈迦三尊像(南)、阿弥陀三尊像(西)、弥勒三尊像(北)を安置。
鹿せんべいに群がる
東金堂(国宝)
興福寺には金堂が3つあり、この建物は束に位置するので東金堂と呼ばれる。神亀3年(726)に聖武天皇が元正天皇の病気平癒を願って造立された。現在の建物は応永22年(1415)の再建。堂内には本尊薬師如来像(重要文化財)、日光・月光菩薩像(重要文化財)、文殊菩薩・維摩居士像(国宝)、十二神将像(国宝)、四天王像(国宝)を安置。※常時開扉午前9時~午後5時
興福寺国宝館
奈良時代から伝わる彫刻・絵画・書跡・工芸・考古資料など興福寺の寺宝を収蔵し、また広く一般に 公開し、仏教への理解を深めていただくために、昭和34年に開館された。有名な阿修羅像などの乾漆八部衆像(奈良時代 国宝)、須菩提像などの乾漆十大弟子像(奈良時代 国宝)、銅造仏頭(白凰時代 国宝)、板彫十二神将像(平安時代 国宝)、木造薬師如来像(平安時代 重要文化財)、木造千手観音像(鎌倉時代 国宝)、木造金剛力士像(鎌倉時代 国宝)、木造天燈鬼・竜燈鬼像(鎌倉時代 国宝)、また銅造梵鐘(奈良時代 国宝)、華原磐(奈良時代 国宝)、銅造燈龍(平安時代 国宝)など常設陳列の他、特別陳列も行われる。※常時開館午前9時~午後5時
2007/01/08のBlog
北円堂(国宝)
養老5年(721)に元明・元正天皇によって藤原不比等の1周忌に創建された。現在の建物は承元4年(1210)頃の再建。堂内にぱ本尊弥勒如来像(国宝)、法苑林・六妙相菩薩像、無著・世親菩薩像(国宝)、四天王像(国宝)が安置されている。春と秋の特別の期間だけ公開される。(会期は毎年変るのでお問い合せ下さい。)
背景の若草山に雨上がりのガスがかかり、興福寺五重塔を撮る
三重塔(国宝)
崇徳天皇の中宮皇嘉門院藤原聖子が康治2年(1143)に創建。現在の建物は鎌倉時代初期の再建。初層内陣には薬師如来(東)釈迦如来(南)、阿弥陀如来(西)、弥勒如来(北)を各千体づつ極彩色で描く板絵がある。また東面には弘法大師が勧請したと伝える窪弁才天と十五童子像を安置。毎年7月7日に特別開扉。
お地蔵さんが雨に打たれている。次々にお詣りのひとが訪れる
南円堂(重要文化財)
西国三十三所観音霊場第九番札所。弘仁4年(813)に藤原冬嗣が父内麻呂のために創建した。現在の建物は寛保元年(1741)に立柱され、宝暦12年(1762)に瓦が作られた。堂内には本尊不空羂索観音像(国宝)、四天王像(国宝)を安置。毎年10月17日に特別開扉。
2007/01/05のBlog
新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申しあげます。
(綾部の文化財を守る会事務局長の四方續夫氏が取材された、京都逍遙2日間の素晴らしい建造物、仏像、書画などの写真、文化財紹介です。只今掲載中まだまだ続きます。お楽しみに!)
写真:天龍寺の裏側にある野宮神社:伊勢神宮の斎王が、3年間身を清めるための野宮であったと云う。「源氏物語」の舞台「賢木の巻」に見られる「黒木の鳥居、小柴垣」等が歴史の名残りを残している。現在は、亀の形の石をなでると、願いが叶う縁結びの神、進学の神として有名で多くの女学生が詣でていた。お姫さまとお殿様を刺繍したお守りを良く買っていたようだった(四方續夫氏記)
京都逍遥2日間 1:天龍寺と近辺 
京都逍遥2日間 2:天龍寺と近辺
京都逍遥2日間 3:天龍寺と近辺 
京都逍遥2日間 4:鹿王院1 
京都逍遥2日間 5:鹿王院2 
京都逍遥2日間 6:仁和寺1 
京都逍遥2日間 7:仁和寺2 
京都逍遥2日間 8:龍安寺 
京都逍遥2日間 9:臨済宗大本山妙心寺1 
京都逍遥2日間10:臨済宗大本山妙心寺2
京都逍遥2日間11:頂法寺(六角堂)
京都逍遥2日間12:臨済宗大本山大徳寺1
京都逍遥2日間13:臨済宗大本山大徳寺2
京都逍遥2日間14:一乗寺下り松近辺
京都逍遥2日間15:石川丈山の詩仙堂
元旦から掲載中(綾部の文化財日誌
こちらのHP一覧表からもどうぞhttp://www.ayabun.net/syoyo.html
2006/12/24のBlog
[ 09:03 ] [ 文化財を訪ねて ]
源氏物語「宇治十帖」の1つ早蕨(さわらび)」中宮から匂宮への歌「この春はたれにか見せむ亡き人のかたみに摘む峰の早蕨」など、風情の粋を凝らした四方續夫氏の取材になる、綾部にも所縁の深い土地、宇治逍遙のブログを紹介します。
宇治逍遥1:国宝・宇治平等院鳳凰堂
宇治逍遥2:宇治平等院と浮島 
宇治逍遥3:宇治平等院付近(興聖寺) 
宇治逍遥4:宇治平等院付近(恵心院) 
宇治逍遥5:宇治平等院付近(宇治神社・宇治上神社)
宇治逍遥6:宇治平等院付近(源氏物語ミュージアム・橋寺) 
宇治逍遥7:宇治平等院付近(宇治茶・上林記念館)

私:「ブログ」づくりは、ワ-ドより簡単ですよ!、四方さん:本当??
まさに魚が水を得たような四方事務局長の「ブログ」づくりの奔流です。会報編集と異なり結果がすぐ出せるのが面白そう。社寺を訪れ写真を撮られる。それをすぐ「ブログ」にして世話になった人に見せる。また次の取材につながる・・。

某ドライブインの材料の質を落とすと客離れになった例をあげて、名人料理のように写真処理も手を抜かず下地作り(トリミング、明度補正・・)をしっかりやらないと、視聴者の目は肥えている、長い目で見てその差が顕れてくるものだと叱咤激励もし・・長足の進歩を遂げられました。

現在、FC2ブログ★ランキング(歴史)の3位を走っています。

ちなみに1位を争うのは「浅葱色の風・幕末を駆け抜けた武士達へ」です。
Author::「 日向羅雪さん:自他と共に認める、歴史ヲタです」とありますが、新撰組史の大家、現在、会津戦争の悲劇を素晴らしい文章で執筆中。何と綾部出身の女性の方です。どうか応援してあげてください(ブログ内の投票リンクを1日1回「ポチット」踏むだけ)

1つのブログを点とすれば、それをつないで線となし、HP「綾部の文化財」表紙写真とリンクしているように、ML、掲示板、HPなど多様なメディアの特質をつないで面にする(この綾部メ-リングリストも地場性、識者層、自由度・・で大いに魅力ありです)
さらに「ランキングNET」にも参加して・・・地球を取り巻くWEBにする。が理想です。「綾部の文化財日誌 」、来年も頑張ります。どうかご愛読ください!
2006/11/17のBlog
紅葉の始まった秋の晴天に恵まれ第12回秋の文化財・史跡学習会「高台寺(北政所ねねの寺)400年祭と太閤秀吉ゆかりの地を訪ねて」が無事終了しました。
参加者は御蔭様で1号車38名、なんと女性のドライバー、2号車39名の合計77名、きしくも第38回春の研修旅行と同じ人員となった。ただ当日綾部市談会の会員でかの綾部では有名な「片山家文書」を所持される、京都府、今,京丹波市となった和知町の本家へ養子にいかれた方が出現、綾部市談会で四方事務局長に口頭で申し込んだ諭旨。早速、事務局長に申し入れ2号車に乗っていただいた。今や貸切バスもETCをつけており予定より30分早く豊国神社へ到着、京都の歴史専門のスカイガイド協会の三本の指に入る奥田不美夫氏なども定刻前に来られた。
写真:有名な国宝三大唐門(西本願寺、大徳寺の国宝唐門)を持つ豊国神社の唐門前にてバス1号車38名・ガイドさん
同じくバス2号車39名・ガイドさんたち
高台寺庫裏前にて:圓徳院ご住職・後藤典生師とともに:1号車会員38名、ガイドさんたち
大勢の参拝者がある中で通行の邪魔にならない唯一の場所がここ。立ち入り禁止の苔庭を斜めに横切る通路に並んでもらい、苔庭を挟んで主要通路の端から撮る。カメラから対象物が斜め・下部なのでピントを中心の圓徳院ご住職・後藤典生師に合わせ、焦点深度を深め左右のピンぼけを防ぐ。
家に帰り愕然とした!遠近差を忘れていた!左の近い人物が大きく、右の遠い人物が小さい!当たり前のことを忘れていた。
他に撮影場所がなかったとは云え、カメラマン失格だ!誰か専門家に変わって貰って欲しい!頭の悪い私のカメラ下手では手に余る!
同じくバス2号車39名、ご住職、スカイガイド、バスガイドさん
2006/11/16のBlog
今春実施した綾部の文化財を守る会</b>の研修旅行「京都の国宝を訪ねて」のHP{東寺」「上賀茂神社」「下鴨神社」の3編を完成させアップしました。
またプリントして明日の秋の研修バス2台の中で回覧します。HPとブログの2種をつくりました。昼食時に回収して今回も前回と同じガイドさんとのことで見せ、帰路のバスで2種を入れ替え回覧する予定です。
東寺(金光明四天王教王護国寺):「瓢箪池」に咲く菖蒲を背景画像にあしらいました
http://ayabun.net/kensyu/toji/tojihp.html
賀茂別雷神社(上賀茂神社):「献上梅道中」の平安京姿の女官たちが背景画像です
http://ayabun.net/kensyu/toji/kamojinjya.html
川合神社・賀茂御祖神社(下鴨神社):「糺すの森」をHPの背景画にあしらいました
http://ayabun.net/kensyu/toji/simokamojinjya.html
2006/10/03のBlog
文化財を訪ねて(綾部以外の文化財研修旅行記)目次
投稿日を変更しましたので連番でご覧になれます。「次のペ-ジ」「前のペ-ジ」で移動ください。
・世界文化遺産「京都の国宝を訪ねて」東寺(金光明四天王教王護国寺)115 上賀茂神社(賀茂別雷神社)1 献上・紀州梅道中に遭遇1 下鴨神社(賀茂御祖神社)119 アミタ本店 感想記1 感想記2

世界文化遺産「奈良の国宝を訪ねて」興福寺 1 なら和み館 感想記2
東金堂・五重塔・国宝館・南円堂・北円堂・三重の塔・猿沢の池・記念写真

世界文化遺産「奈良の国宝を訪ねて」東大寺 記念写真20 感想記1
南大門:阿吽の金剛力士像・石造獅子・中門: 宝珠院々長兼勧学院々長:佐保山堯春師と共に記念写真撮影・鐘楼: 梵鐘・念仏堂・開山堂・法華堂(三月堂):不空羂索観音像・執金剛神像・金剛力士像・月光菩薩像・二月堂・東大寺大仏殿: 盧舎那仏・ 蓮華蔵世界・ 如意輪観音菩薩像・ 虚空蔵菩薩・ 多聞天像・広目天像・金銅八角灯籠

幕府京都御大工頭中井氏系図 中井家について お墓について 絵図から 中井家文書

柏原歴史民俗資料館・栢原藩陣屋跡・田ステ女記念館 111
柏原歴史民俗資料館・ 織田信包・織田信勝・宇陀騒動・織田信休・栢原藩の領地・田ステ女記念館・元禄の四俳女・尼僧 貞閑・ 柏原藩陣屋跡・表御殿・長屋門

さんだ歴史資料集蔵の先進地視察 11514さんだ空襲
さんだ歴史資料収蔵センター:民具の展示・さんだの空襲・さんだ学入門・三田の九鬼氏歴代藩主・心月院・歴代九鬼氏霊廟・武家屋敷跡・九鬼藩城館跡・旧九鬼家住宅資料館・さんだのくらし資料冊子抜粋紹介

世界文化遺産「吉野の国宝と文化財を訪ねて」 122 感想記1 感想記2 
如意輪寺 後醍醐天皇陵・竹林院群芳園・勝手神社・吉水神社 義経潜居の間 書院 後醍醐天皇玉座・金峯山寺 金剛蔵王権現像 仁王門・銅の鳥居 ・黒門

丹後半島一周研修旅行 1  感想記1 感想記2
 豪商稲葉本家・如意寺・浦嶋神社・籠神社・丹後郷土資料館・旧永島家住宅
「綾部市文化協会後援」第十二回 秋の文化財・史跡学習会 参加のご案内 事務局 四方續夫
今回皆様のご要望に答え、又、今回の見学先は副会長のご縁で実現するもので「高台寺(北政所・ねねの寺)四百年祭と太閤秀吉ゆかりの地を訪ねて」と称し次の要項にて募集をします。ご家族、ご友人をお誘いの上、ご参加下さい。
 記
一、期日 平成十八年十一月十六日(木)
二、集合場所・時間 JR綾部駅北口 午前七時二十分(出発七時三十分)山家バス停七時三十五分
三、見学箇所
 豊国神社とその宝物館、方広寺の大釣鐘、午後、高台寺とその塔頭「圓徳院等
四、参加費 おひとり九千円(バス代 拝観料、昼食代、手作り記念写真二枚を含みます。)なお会員外の方は、年会費1千円必要です。
五、募集人員 九十名(京都交通貸切バス2台予定)(但し、満員になり次第締め切ります。)
六、申込方法 十月三十日(月)までに参加者全員の〒番号・住所・氏名・電話番号を記入し葉書にて申し込み下さい。特別緊急以外の電話申し込みはお断りします。
七、申込先
〒番号:六二三―000四 綾部市多田町後路二八 四方續夫 宛
八、受付と出発案内は申し込み締め切り
綾部駅北口====山家バス停===京都縦貫道====南丹PA==7時30分出発 7時35分(時間厳守)====東山区・方広寺の大梵鐘、豊国神社及び宝物館見学===== 10時頃 11時出発==東山区・高台寺駐車場内「洗心亭にて羽柴の昼食」徒歩にて高台寺へ。 11時30分 12時30分迄昼食及び自由行動高台寺(表門)集合 ・高台寺及び圓徳院の国指定名勝庭園等見学12時35分(記念写真)高台寺駐車場出発==丹波町・やまがたや==山家バス停==綾部駅北口午後3時30分 5時~5時15分 5時50分 6時頃到着予定
後、葉書にてお知らせします。尚、 この会報を持参の上ご参加ください。
写真上:豊国神社の唐門
「綾部市文化協会後援」 第十二回秋の文化財・史跡学習会 事務局 四方續夫
見学箇所の概略とコースの紹介
 今回の学習旅行は、「綾部が民俗・民具・文化財の宝庫」なら、「京都・奈良は国宝の山」です。
 京都府の国宝の数は254件で正に日本一です。延歴十三年(七九四)に桓武天皇は長岡京から、この地、京都に平安京を遷都されました。京都の最盛期はこの平安時代ですが、源平・鎌倉・南北朝・室町・安土桃山、そして江戸時代へと政権が武士の幕府に移りましたが、なお隠然たる勢力をもち、経済、特に文化上は日本の中心であり続けました。特に安土桃山時代、即ち、豊臣秀吉の時代は京都を「おどい土居」で囲み、又、伏見城、聚楽第など数々の桃山文化の華を咲かせています。
私達は今回「高台寺「(北政所・ねねの寺)四百年祭と太閤秀吉ゆかりの地を訪ねて」と称し、豊臣家滅亡の原因となった「方広寺」の「国家安康君臣豊楽」の銘のはいった大釣鐘や豊国神社の国宝・唐門や宝物館、国史跡・名勝指定の高台寺とその有力たっちゅう塔頭であり又、国名勝指定の「北庭」のある「ねね終焉の地」圓徳院を特別参拝・見学いたします。これら両寺は隠れた紅葉の名所とも言われています。

午前十時前、豊国神社へ到着です。 京都スカイ観光ガイドさんが待って居られます。トイレは神社前の道を五十メートルほど国立博物館の方へ歩いていきますと角にあります。ここで号車毎に国宝・唐門をバックに記念写真を撮り、号車別に見学です。

豊国神社(ほうこくじんじゃとも云う) 当社は京都市東山区大和大路正面茶屋町、旧方広寺大仏殿遺跡地にある。
 京都の人々から「ほうこくさん」と親しまれているが、正式な名称は「とよくにじんじゃ」であり」ご祭神は「太閤記」で今でも有名な前(さき)の関白太政大臣贈正一位豊臣秀吉公である。 
由緒
 天下の英傑豊臣秀吉公は慶長三年(一五九八)八月十八日、京都、伏見城で六十二年の生涯を終え、遺命により京都東山連峰の秀峰「あみだがみね阿弥陀ヶ峰」に埋葬された。翌慶長四年には山腹の「太閤坦」に日本最初の権現造りで壮麗にして雄大な社殿の造営が成され、後陽成天皇により「豊国大明神」の神号を与えられ神として祀られた。その境内は約三十万坪にものぼり、現在神社の「宝物館」の重文・「豊国祭礼図屏風」(狩野内膳筆)でその当時の規模が想像できるが、しかし、豊臣家滅亡後、この華麗な豊国社は徳川氏によって破壊された。
 ただ、現在は豊国神社の飛地境内として、この阿弥陀ヶ峰に「豊国廟」があるが、皆様ではとても登っていけない。

唐門(国宝)
 神社正面石鳥居をくぐり参道を進むと、前面に厳然と威容を誇る大唐門は伏見城の遺構で国宝である。西本願寺・大徳寺と併せ国宝の三唐門と呼ばれている。
 総欅造りで創建当時は彫刻等には金箔が施され、その形式や彫刻などいずれも従来の規格にとらわれず自由奔放な手法を示し、豪華な気風を表現した桃山建築の中でも代表的なものに数えられている。
 又、唐門正面に高くかかげてある「豊国大明神」の御神号額は後陽成天皇の御宸筆によるもので、旧豊国社伝来の勅額である。

宝物館
桃山風造りの宝物館(大正十四年開館)では、豊太閤ゆかり深い宝物が公開されている。主なものとしては「豊国祭礼図屏風」(狩野内膳筆)、与二郎鉄燈籠(国重文)、桐鳳凰蒔絵唐櫃(国重文)等約八十点が展示されている。

方広寺の大梵鐘 写真上
 天正十四年(一五八六)太閤秀吉は奈良の大仏以上の巨大な木像大仏を建立したが、幾度もの消失で、現在は豊臣家を滅亡の一つの理由とされた「国家安康君臣豊楽」の銘が入った高さ、四・二メートル、重さ八十二・七トンもある巨大な梵鐘と本堂と大黒天堂を残すのみである。
 
出発は十一時です。豊国神社前の道筋でまとまってバスをお待ち下さい。バスは高台寺前の駐車場にはいります。この反対側には、「霊山観音」や又、南には「八坂の塔」など京都の美しい眺望が楽しめます。
昼食は駐車場内の「洗心寮」にてユバを使った京料理をお楽しみ頂きます。 
ここには電話はありません。
(緊急の連絡は京料理の「羽柴」電話:0七五―五三一―0六六六又は高台寺0七五―五六一―九九六六へ伝言を頼んで下さい。)
昼食は、十二時十五分頃終了、買い物、付近の散策を楽しみ下さい。霊山観音は拝観料二百円で各自払いです。)
(注)十二時四十分には必ず「表門」へご」集合下さい。ここで、京都市観光大使・高台寺執事兼圓徳院のご住職・後藤典生師(ごとうてんしょう)と号車毎に記念写真を撮ります。(注)高台寺入り口の庫裏ではありません。
鷲峰山高台寺(臨済宗建仁寺派)
高台寺由来
東山霊山の山麓、八坂法観寺の東北にある。正しくは高台寺寿聖禅寺といい、豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が慶長一一年(一六0六)開創した寺である。今年が創建四00年にあたり種々の催が実施された。
当初、秀吉の正室北政所が、生母あさひのつぼね朝日局追福のため寺町に建てた康徳寺(曹洞宗)を寛永元年(一六二四)建仁寺のさん三こう江和尚を中興開山としむかえ、高台寺と号し臨済宗建仁寺派に改宗した。 造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助(寺領五百石)を行った、寺観は壮麗をきわめたという。
しかし、寛政元年(一七八九)以後、たびたびの火災にあって多くの堂宇を失ったが、次のような国重文や国史跡・名勝の庭を現在も保っている。
尚、北政所ねねは天正一六年(一五八八)に後陽成天皇より高台院の号を賜り寛永元年(一六二四)国名勝指定の有力たっちゅう塔頭「圓徳院」で九月六日七七歳でなくなられた。

表門(国重文・桃山時代)
 薬医門の形式で伏見城から移したという。

開山堂(国重文)
 高台寺第一世の」住持、三江紹益禅師(一五七二~一六五0)」を祀る塔所である。左右壇上には木下家定(ねねの兄)、雲照院(家定の妻)等の像も安置されている。礼堂部中央の彩色天井には北政所の御所車の天井、前方の各子天井には秀吉の使った御船の天井が用いられている。

観月台(国重文) 写真上:観月台と庭園の一部分
 庫裏から廊下を廻って行きますと、廊下が続く、檜皮葺きの四本柱の建物が池の上に見えます。三方に唐破風をつけた屋根の下から観月するための建物である。
 
庭園(国史跡・名勝指定)
 庭園は開山堂のが臥りゅう龍ち池、西のえん偃げつ月ち池を中心として展開されており、小堀遠州の作によるもので、偃月池には、秀吉遺愛の観月台を配し、北に亀島、南の岬に鶴島を造り、その石組みの見事さは桃山時代を代表する庭園として知られている。
 この庭園を楽しみながら圓徳院のご住職後藤典生師の特別「法話」や「お茶」のご接待を私達「綾部の文化財を守る会」の参加者のみにして頂きます。

霊屋(国重文)
秀吉と北政所をお祀りしている所であり、厨子内左右に秀吉と北政所の木像を安置している。しゅ須みだん弥壇(仏壇)や厨子には、華麗なまきえ蒔絵が施され世に「高台寺蒔絵」と称され桃山時代の漆工芸美術の粋を集めている。開山堂とこの霊屋を結んでいる階段を龍の背に似ていることから「が臥りゅう龍ろう廊」と名付けられた。
 又、霊屋から更に登って行くと、灰屋紹益と吉野太夫との好みの茶席であり、鬼瓦席と共に高台寺を代表する茶席「い遺ほう芳あん庵」もある。
かさてい傘亭・しぐれてい時雨亭(共に国重文)
利休の意匠による茶席であり伏見から移建したものである。傘亭は内部が竹で放射状に組まれ、カラカサを開けたように見えるところからその名があり、正式には安閑窟と呼ばれる。時雨亭とは土間廊下でつながっている。
 高台寺から階段を下るとすぐ圓徳院に到着です。

高台寺「掌美術館」
 この美術館は圓徳院の隣の二階にある掌(てのひら)のような小さな美術館ですが、ねね様と秀吉の思いであふれています。
高台院像・江戸時代(国重文)
、まきえ蒔絵の調度品は楓桐菊蒔絵薬味壷・桃山時代(国重文)、竹秋草蒔絵文庫・
桃山時代(国重文)、神号「豊国大明神」桃山時代・後陽成天皇しん宸ぴつ筆など素晴らしいものが展示されている。
圓徳院(秀吉の妻、北政所ねね終焉の地、 臨済宗建仁寺派)
圓徳院由来
 豊臣秀吉没後、その妻北政所ねねは「高台院」の号を勅賜されたのを機縁に、高台寺建立を発願し、慶長一0年(一六0五)、秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を山内に移築して移り住んだ。爾来北政所を慕い大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等多くの文化人が訪れたと伝えられている。ねね、五八歳のことである。これが今日の圓徳院の起こりであり、ねねは七七歳で没するまでの一九年間をこの地で余生を送り、この地は北政所の終焉の地となった。
 そのねねを支えていたのが兄の木下家定とその次男・利房である。圓徳院は利房の手により高台寺の三江和尚を開基に、木下家の菩提寺として開かれ、高台寺の塔頭とされた。寛永九年、ねねの没後九年目のことである。

正門 当院は木下家初代以降歴代藩主の墓が置かれ、木下家の屋敷となっていた。そのため正門は長屋門の形態がとられている。

三面大黒天尊天
 福徳信仰の象徴として、豊臣秀吉が念持仏としたといわれる珍しい尊像である。
 いわば秀吉の出世守本尊である。御堂は京都御苑から移築したものである。

桧垣の手水鉢
 宝塔の笠を利用し、笠石を横にして、その面を凹字形に切り取り手水鉢としたものである。笠石は室町時代の作と考えられている。

歌仙堂 木下家定の嫡男で若狭藩主だった勝俊は歌の才に恵まれ、後にちょうしょうし長嘯子と号し、歌聖とまで呼ばれた。歌仙堂は長嘯子を
祀っている。

北庭(国名勝指定) 写真上
 もともと伏見城北政所化粧御殿の前庭を移したもので、当時の原型をほぼそのままに留める桃山時代の代表的庭園の一つである。賢庭作で後に小堀遠州が手を加えた。池泉回遊式だが枯山水となっている。原点となるのは東北部で、枯滝石組を二等辺三角形にまとめて数群展開させ、あるいは蓬莱石組を作る。(池泉にかかる数個の橋は見事な巨石をあてているが、その厚さからくる迫力はこの庭の特筆すべき点でもあろう)このように多数の巨岩大石がふんだんに置かれている庭は珍しく、これが桃山時代の豪華さ、豪胆さである。

障壁画(長谷川等伯「冬の絵」部分 国重文) 
 桐紋などを散らした唐紙には絵は描かないのが通例だが、この襖絵はすべて桐紋襖の上に描かれた非常に珍しいものである。三玄院住職春屋宗園に襖絵制作を
常々懇願しながら許されなかった等伯が、ある日住職が留守であることを知って、客殿に駆け上がり、腕を振るって水墨を乱点し、一気に描き上げてしまったものだと伝えられている。
他にも南庭・しょかん書翰・ふすまえ襖絵など素晴らしいものがある。

最終出発は「高台寺バス駐車場」を午後三時三十分です。トイレを済ませ時間厳守でお願いします。
2006/08/05のBlog
[ 23:14 ] [ 文化財を訪ねて ]
絵馬掛所の右手にも社殿が並ぶ
天神さんの梅の木立に囲まれて
歌人の詠み額が掛けられている
絵馬額
絵馬所
算額等の絵馬が多数奉納されている。
[ 23:13 ] [ 文化財を訪ねて ]
梅の木立に並ぶ鳥居をくぐり抜ける
奥に進むと、赤い鳥居が立ち並ぶ
大きな牛が祀られている
絵馬掛所に願を掛けて参拝
絵馬掛所
毎年10万もの願い事が書かれた絵馬が奉納される。
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