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なべちゃんの散歩道
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ジャンル: 文化財を訪ねて
Blog数:331件
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2006/07/22のBlog
[ 18:39 ] [ 文化財を訪ねて ]
祇園祭の歴史
 毎年7月に京都の八坂神社(祇園さん)と氏子の町々で行われる祇園祭は、絢爛豪華な山・鉾の巡行で知られる日本を代表する夏祭りである。
 鴨川の東にある八坂神社は、素戔嗚尊を祀る神社で、平安時代の貞観18年(876)の創祀と伝える。歴史的には、10世紀末から延暦寺に属する官寺となり、祇園感神院(ぎおんかんじんいん)と呼ばれ、平安京内の三条から五条の辺りを氏子地域としていた。祇園祭は、疫病除けを祈願する御霊祭として始まり、祇園御霊会と呼ばれた。
祭礼は、神社から出た神輿(みこし)が御旅所(おたびしょ)に渡御(とぎょ)し、そこで7日間祀られた後に神社に還御(かんぎょ)する形を取っている。その間、氏子や一般の人々が御旅所に参拝し、疫病除けを祈願した。
 平安から鎌倉時代にかけては、神輿の渡御や還御に際して馬長(うまおさ)や剣鉾、獅子舞、田楽などの行列が出て、見物客で大いに賑わった。
山・鉾の巡行は、町々の成立した室町時代の14世紀から始まった。初めは、将軍の見物に合わせて町が用意する出し物であったが、15世紀には恒例化し、明や高麗などの外国使節も見物した。守護大名も国元に祇園社を勧請し、祇園祭は全国に広がった。
 鉾は、車付きの移動舞台で、笛や太鼓の囃子に合わせて稚児が舞を披露した。
 山には中国の故事や日本の伝説、町内の信仰に因んだ出し物の人形が飾られた。
 応仁・文明の乱や天文法華の乱で一時途絶えた時期もあるが、幕府や町々の努力により、その都度復興した。
16世紀末に御旅所が、烏丸高辻から四条寺町に移転したことにより、祭りの形は大きく変わった。江戸時代になると下京の祭りとして賑わい、神幸祭の日を前の祭、還幸祭の日を後の祭と呼ぶようになり、家々で屏風などを飾る趣向も始まった。鉾が大型化し、外国製の染織の懸装品が鉾や山の四周を囲み、欄縁(らんぶち)や錺金具(かざりかなぐ)などの工芸品も整い、囃子(はやし)に鉦(かね)も加わった。 近世の京都の町を焼き尽くした数度の大火をも乗り越えて、祭りは続けられた。
19世紀後半には、神仏分離などの諸改革により、神社名、祭神、祭日など祇園祭を取り巻く環境は大きく変化した。例えば、これまで6月7日・14日に営なまれていた祭りは、神幸祭が7月17日に、還幸祭が24日に改められた。
 20世紀になっても戦争や社会の変化、交通事情などにより、祭りが中絶し、存続が難しくなり、山鉾の巡行日や巡行路が変更されるなどの変化を被りながらも、祇園祭は、京都の町衆の祭りとして力強く続けられてきて、21世紀の今日に至っている。(駒札より筆記)
2006/07/18のBlog
[ 19:53 ] [ 文化財を訪ねて ]
謡曲『志賀』にちなみ、大伴黒主(おおとものくろぬし)が桜の花を仰ぎ眺めている姿をあらわす。御神躰(人形)は、寛政元年(1789)作の銘を持つ。山に飾る桜の造花は、粽(ちまき)と同様に戸口にさすと悪事が入ってこないといわれている。
 水引は,雲龍文様の繻珍(しゅちん)。前掛は伝萬歴帝御服(でんばんれきていぎょふく)(1989)復元。胴掛は百華文の綴錦。見送は宝暦十四年(1764)記銘の牡丹鳳凰文様綴錦(ぼたんほうおうもんつづれにしき)と紅地唐子遊図(べにじからこゆうず)の二種類が隔年交替で用いられる。
 人形着用の古衣装には、延宝三年(1675)在銘の紺地菊唐草文金襴小袖(こんじきくからくさもんきんらんこそで)及び正徳元年(1711)在銘の萌葱絽地牡丹文(もえぎらじぼたんもん)色入金襴大口袴(きんらんおおぐちはかま)がある。また右前掛の波濤飛龍図(はとうひりゅうず)は中国綴織。これは明朝最後の君主尚寧王(しょうねいおう)が師にあたる京の袋中上人に献上した十六世紀の織物で、現在京都国立博物館に保管されている明時代の貴重なものである。
また人形をかざる町屋の一階は、特に折上格天井(おりあげこうてんじょう)につくられ、この人形が御身躰として大切にされている様子がうかがえる。京都市
大伴黒主(おおとものくろぬし)が桜の花を仰ぎ眺めている姿をあらわす
大伴黒主、掛け物など
掛け物
黒主山の後ろ姿
2006/07/17のBlog
[ 20:29 ] [ 文化財を訪ねて ]
役行者山(えんのぎょうじゃやま)
山の御神体(人形)として、役行者と一言主神と葛城神の三体を安置し、この組合せは、役行者が一言主神を使って葛城と大峯の間に橋をかけたという伝承を想起させる。
正面の洞に役行者が角帽子、袈裟、錫杖を持って座し、葛城神は女体で、手に宝輪と末広を持ち、一言主神は鬼形で赤熊をかぶり、手に斧を持っている。
水引は、つづら織りの名手とうたわれた西山勘七作の唐子遊図、前掛は、牡丹・胡蝶図と雲龍文との三枚継ぎ、胴掛は、雲龍波涛文の綴織。見送は二種あり、袋中上人請来と伝える朝鮮軍旗、竜文のものを三枚合わせ、淵を赤地古金欄(安楽庵製)で縁どったものと、中国の明朝の官工場で織られた紅地唐美人図の綴織とがあり、二つを一年交替に用いている。京都市
正面の洞に役行者が角帽子、袈裟、錫杖を持って座し、葛城神は女体で、手に宝輪と末広を持ち、一言主神は鬼形で赤熊をかぶり、手に斧を持っている
見送は二種あり、袋中上人請来と伝える朝鮮軍旗、竜文のものを三枚合わせ、淵を赤地古金欄(安楽庵製)で縁どったものと、中国の明朝の官工場で織られた紅地唐美人図の綴織とがあり、二つを一年交替に用いている
綴れ織り
「役行者山」 後ろから
[ 12:40 ] [ 文化財を訪ねて ]
登龍門「鯉山」の由来
中国黄河の上流に龍門という激流の難所があり、鯉がここを登り切って龍となって祀られたという「登龍門」の古事から、人々の成功と繁栄を願って「鯉山」がつくられました。最近特に激しい入学試験や就職試験に際し、また良縁・事業成功を念願される方々は、宵山の参詣にあわせて、ぜひ登龍門守護の「お守り」・厄除けの「ちまき」などをお授かりください。
鯉山のデ-タ
高さ:6.0m、長さ:5.5m、巾:2.3m、重さ:1.5ton、担ぎ手:22人
鯉山の古い名前
「れうもんの鯉山」「竜門の滝」「鯉の滝のぼり」「こいの山」
写真:祭壇と鯉とタペストリ-
ベルギーで織られたタペストリー(壁掛)が、なぜ祇園祭「鯉山」に飾られているのでしょうか? 歴史とロマン・・世界の文化財・・

タペストリ-渡来の謎
鯉山を飾るタペストリーは、ホメロス作ギリシャ神話「イーリアス」をもとに、16世紀にフランドル地方ブラバン州(現在のベルギー)で製作された5枚シリーズのうちの1枚です。17世紀、伊達政宗の家臣である支倉常長が、遣欧使節としてローマ法王に謁見したおり、法王から政宗への贈物として日本に持ち帰られました。その後5枚のタペストリーは会津藩の手に渡り、うち3枚が会津天寧寺を通じて京都の天寧寺に運び込まれたといわれています。そしてその1枚を鯉山町が購入し、大小9枚に分断して、右図のように、鯉山飾りとしました。
●このタペストリーは、16世紀中期現在のベルギー・ブリュッセルで製作され、図柄は、紀元前1200年頃のトロイ戦争(ギリシャとトロイの戦い)を題材としたギリシャ詩人ホメロスの叙事詩「イーリアス」中の重要な場面での、トロイ王の英姿です。もとは写真のように一枚の織物としてつくられました。
鯉山鉾
祇園祭-貞観11年(869)平安京に御霊会(ごりょうえ)として始まる。●宵 山 7月14日頃~16日 各山鉾町において町席飾り
●巡 行 7月17日長刀鉾、午前9時四条烏丸集合・出発(さきのまつり)、(山鉾32基) 鯉山午前10時頃、町内出発・正午すぎ帰着(あとのまつり)

◆鉾の辻(室町通と四条通の交叉点)…四方に鉾が建つ宵山の中心地点
巡行の当日、菊水鉾と鶏鉾は一回目と六回目の辻まわしをここでおこなう
他の鉾は計四回の辻まわしで元の場所(町内)に戻ることができる
[ 12:22 ] [ 文化財を訪ねて ]
昨日曜日は所用で京都に行き、午後の小時間を祇園祭の宵山で飾られた矛を見て回った。
祇園祭-貞観11年(869)平安京に御霊会(ごりょうえ)として始まる。
宵山 7月14日頃~16日 各山鉾町において町席飾り
巡行 7月17日 長刀鉾、午前9時四条烏丸集合・出発(さきのまつり)、(山鉾32基)、鯉山午前10時頃、町内出発・正午すぎ帰着(あとのまつり) 写真:鯉山鉾のタペストリ-
鯉山鉾
鯉山鉾
鯉山鉾タペストリ-
灯火を供える
2006/07/16のBlog
上賀茂神社の楼門をバックにて2号車
第三十八回春の研修旅行 「世界文化遺産登録京都の国宝三社寺巡り」 2号車 味方町 新宮美恵子様
 おだやかな日差しのもと、東寺の広い境内は楠が繁り、若葉を吹き抜ける風が清々しい梅雨に入る前の六月六日、春の文化財研修旅行に参加させて頂き、先ず東寺に到着。何年か前、しまい弘法に来て境内にひしめく露店を巡り、ただ広いことに驚いた記憶があるが、この日は新めて寺域の広大さ、古い伽藍の数々に目を見張った。前以って「守る会」の会報により、役員の方々が事前に下見をし、くわしい資料を作って綿密なる計画が立てられていた由であるが、当日、予定通り順調に進行され、感謝、感服した。
 そこからガイドさんが付いて下さり、東寺の伽藍は南大門から一直線上に金堂・講堂・食堂(じきどう)が配されている事や、この五重塔は京都の象徴で、平安遷都以来千二百余年の間に幾度かの災害に遭っても同じ場所に再建された事など、知らなかったことを次々と教わる。 
 この塔をはじめ寺域の建物・仏像は殆どが国宝・重文で貴重な文化財ばかり。見る程聞く程に、先人達が全て手作業で造り上げた想像もつかぬ智慧と技術、努力に只々感心するばかり。特に金堂・講堂に並ぶ尊像群の見事さに心惹かれた。
 十箇所に近い堂塔・山門を見巡り、頭の中の整理がつかぬ程の知識と疲れでぐったりとなったが、あとの昼食、休憩で気をとり戻し、次の上賀茂神社へ向かう。
 ここは下鴨神社と両社で「賀茂社」と総称され、以前ご神体は後方の神山(こうやま)であったが、天武天皇の御代に現在の地に社殿が造営された。正式には
賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)と言う。下鴨神社の御祭神「建角命(たけつぬのみこと)」の娘「玉依日咩(たまよりひめ)」が川遊びをしていると丹塗りの矢が流れつき、床においた所懐妊して「別雷命」が生まれ、上賀茂神社の御祭神になられたと説明を聞く。歴代皇室の信仰が篤く、伊勢神宮に次ぎ神社の筆頭として武家、庶民の参詣も絶えなかった由。
 たまたま六月六日は「梅の日」とて、和歌山県から献上梅の珍しい一行に遭遇したが、平素非公開の国宝・本殿、権殿を神職に説明されていた時と重なり大混雑でした。森影を清らかに流れる「ならの小川」に心を癒し、明神川沿いの社家の佇まいに見入っていた時、俄に空が暗み僅かに夕立が来て雷が鳴り出した。 
 バスガイドさんは咄嗟に「さすが北山しぐれですね。別雷の神にふさわしく雷も鳴って」とのジョークに私達は疲れもほぐれ、バスに駆け込む。
 続いて訪れたにのは下鴨神社の摂社「河合神社」、二つの川の合流点でその名が付き「方丈記」の鴨長明に関わる宮で、社の前にその庵が復元されていた。更に珍しかったのは、左の小さな祠にサッカーのシンボルマークの八咫鴉(やたがらす)が祀られ、フアンのお参りが多いと言う。
 下鴨神社は正式名は「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)でここも世界文化遺産登録である。広大な「礼の森(だだすのもり)」は昼でも暗く巨木が繁り、長い参道を爽やかな風が吹き通る。本殿から大炊殿(おおいどの)、みたらしの池など見学し、両社共に数えきれぬ程の境内社があり、年中参詣者が絶えぬことに実感が湧く。遷都以来千二百年のちも尊い神事が脈々と受け継がれている事に敬畏の念を一層深め、わが国で最も多い文化財が遺り守られている京都の一部をくわしく見学させて頂けた幸せを心から感謝しながら、胸ふくらむ思いで帰路についた。
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東寺の日本一高い国宝・五重塔をバックに1号車
―京都の国宝と文化財を訪ねるー 研修旅行に参加して 1号車常任幹事・多田町 小村一郎様
 昨秋の「古都奈良」への研修旅行には、病のため参加できず大変残念な思いをした。今回も体調に問題があり心配したが、何とか参加することが出来た。朝六時四十五分集合は厳しかったが、顔なじみの皆さんの顔をみて参加できる喜びをしみじみと感じた。
 定刻、無事出発し、用意していただいたビデオで予備知識をしこみながら、又はずむ話でお互いの親睦を深めあう中に、東寺へ着いた。早速、五重塔をバックに記念撮影の後、京都スカイ観光ガイドさんの懇切な説明に導かれて広い寺域内を見学してまわった。
 東寺の塔は日本一高い五重塔であるとか、最上層から最下層まで各層の大きさが殆んど変わらないという珍しい特徴を持っているとか、話を聞きながら見上げる塔はいかにも美しく、力強く感じられた。金堂は桃山時代を代表する豪壮で、もこし(裳層)の正面が一部高く切り上げられ破風(はふう)がつけられているのは、大仏殿(天竺様と云う)によく似ておりいかめしささえ感じた。正面扉の上に開き窓があるのは、庶民が遠くから仏を拝するためのものであるとのこと、仏教が貴族のものであった当時の社会の姿を考えさせられた。全国至る所にあるお大師さんの姿や、庶民を救おうとされたという伝説との間に大きなへだたりが感じられるが、これはどういうことなのだろうと、ふと思った。講堂においては、堂内に配置された二十一体の仏像群の素晴らしさに目を見張った。密教宇宙界を表現する立体曼荼羅といわれるが、その仏像がすべて国宝・重文である。宇宙の真理の体現とされる大日如来を中心に、如来、菩薩、明王諸天が整然と並ぶ姿に、荘厳さと共に理知的なものを感じた。優れた理論家であったと言われる、弘法大師の構成されたものであるせいであろうか。更に進んで大師堂を参観した。
 大師の住房であったと言うここは、一転して優雅さを感じさせる場であった。ガイドさんの説明によれば寝殿造りの貴重な国宝であるとのこと、今迄見学して来た堂々たる仏殿、仏像の世界と異なるくつろぎを覚える世界であった。弘法大師の芸術家空海としての一面をあらわすものと言えようか。
 アミタ本店での、楽しい昼食やショッピングのひとときの後、上賀茂神社へ向かった。鳥居から神殿まで広々とした芝生の中の道を、何か和らぎを感じながら歩いた。国宝の本殿・権殿の特別参拝が出来るということであったが、丁度、「紀州梅献上行列」及び「献上儀式」にぶつかり、大きく予定が狂ってあわただしい参観になってしまった。しかし珍しい古式豊かな行列を見学し、普段は絶対に入れない内庭に入り、献上儀式の様子を垣間みることが出来たのは収穫であった。 参拝が終わる頃、急に雷鳴が聞こえ好天気と思われた空から少し雨も降って来た。別雷大神の感応があったかと話しながらバスに急いだ。
 下鴨神社では、二十年毎に式年遷宮があったことに驚いた。遷宮のあるのは伊勢神宮だけと思っていたのである。もっとも現代では大修理をもって遷宮としているとのことであった。大都会の中とは思えぬ「糺の森(ただすのもり)」の静けさを賞でながら歩き、やぶさめ神事の行われる広い広場を見て、その勇壮な姿を偲んだりした。その中でならの小川の話を聞いた。
 風そよぐならの小川の夕ぐれは みそぎぞ夏のしるしなりける 
百人一首のなかのなじみ深いうたであるが、上賀茂神社の夏越祓を詠ったものと聞いて、「ならの小川」を「奈良の小川」と思いこんで奈良の夏の情景と思っていた不明を恥ずかしく思った。鴨長明の寓居「方丈(復原のもの)」を見学して方丈記を、更に受験の頃を思い出すなど、実りの多い見学であった。勉強することの多い一日であったが、中でも特に印象に残ったことをまとまりなく列記し、感想文に替えさせていただくことにしたい。
昼食は岡崎平安神宮北の「アミタ本店」で京料理を食べた。大型バスが2台、市道から本店横のトンネルのような路地をバックで通り抜け駐車できた。
お土産を買い求める会員も大勢いた。
一階フロントロビ-では「京象嵌」の実演をされていた。
細かな「京象嵌」作成作業を見守る会員たち
一階奧の京都美術品展示店でも「京象嵌」作成の実演をされていた。囲んで見学する会員たち
2006/07/13のBlog
国指定史跡 糺の杜(ただすのもり)
三万六千坪の境内は「糺の杜」とよばれ、全体が国の史跡に指定されています。また、数々の社殿群とともに世界文化遺産にも登録されています。
 糺の杜は、古代の山城国の名残をとどめる自然遺産で、文化財と白然環境保護のために財団法人「糺の杜顕彰会」が結成され、毎年四月二十九日(みどりの日)の市民植樹祭をはじめいろいろの保全活動がおこなわれています。
 お問い合わせは、当神社社務所内事務局までお申し出ください。
下鴨神社境内図
霊璽(れいじ)社(印社(いんのやしろ)、印璽社(重要文化財)
印鑑・契約守護の神さまとして篤い信仰があります。
境内に、この霊璽社の分霊「印納(いんのう)社」がおまつりされており、古い印章を納めています。(古印章納のご祈祷は随時受付けています。)

出雲井於(いずもいのへの)神社(通称・比良本(ひらき)社 重要文化財)
地主神である須佐之男命(すさのおのみこと)をまつっています。この神社の周囲にどのような本を植えても、柊葉(ひいらぎば)のようにギザギザになることから比良本社(柊社)ともよばれています。運開き、厄除けの神さま、また茶道の神さまとして信仰されています。 末社には短歌や芸ごとの上達を祈願する神さまがまつられています。

相生(あいおい)社と連理(れんり)の賢木(さかき)
縁結びの神さまとして有名で、神皇産霊神(かむむすびのかみ)さまをおまつりしています。結納の守護神としてもあがめられ、古い結納を納めるご祈梼も随時お受けいたしております。
 また、お社の脇の授与所は、『源氏物語』にちなんで調製された「縁結びおみくじ」が人気になっています。
 また、相生社の縁結びの霊験のあらわれによって二本の木が途中から一本に結ばれている「連理の賢木(れんりのさかき)」という不思議なご神木があります。あまりの珍しさに「京の七不思議』にあげられています。この木が枯れると、糺の杜のどこかに跡継ぎが出末るとの言伝えがあり、現在のご神本も四代目にあたります。

御蔭(みかげ)神社
比飯山の西方、東山三十六峰二番目の御蔭山(みかげやま)に鎮座し、古代からの祭祀、御生神事(みあれしんじ)、現在は御蔭祭(みかげまつり)とよばれているお祭りがおこなわれます。

赤の宮(あかのみや)賀茂波爾(かもはに)神社
高野川の上流にあり、古くから開拓の神として篤い信仰があります。御蔭祭には「路次祭」がおこなわれ、雅楽「還城楽(げんじょうらく)」が奉納されます。
2006/07/12のBlog
井上社 別名 御手洗(みたらし)社
祭神 瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)
例祭 土用の丑の日
この社の前身は、「三代実録」元慶三年(879)九月二十五日の条をはじめ、諸書に見える唐崎社である。賀茂斎院の御禊や解斎、関白賀茂祭の解除に参拝になった社である。
元の社地は、高野川と鴨川の合流地東岸に鎮座のところ、文明の乱により、文明二年(1470)六月十四日焼亡したため、文禄年間(1592~96)にこの所に再興になり、寛永度(1629)式年遷宮より官営神社となった。また井戸の井筒の上に祀られたところから井上社と呼ばれるようになった。
賀茂祭(葵祭)に先立つ斎王代の御禊の儀は、この社前の御手洗池で行われ、夏の風物詩。土用の丑の日の足つけ神事立秋の前夜の矢取りの神事はともに有名である。
土用になれば御手洗池より清水が湧き出ることで七不思議の一つにも挙げられ、池底から自然に吹き上がる水泡をかたどったのが、みたらし団子の発祥と伝えられている。

御手洗(みたらし)社(井上杜)
 瀬織津比賣命(せおりつひめのみこと)をおまつりしています。病気やけが、さまざまな災難除けの神さまです。お社は井戸の上に建立されており、社の前がみたらしの池と呼ばれ、下流を御手洗川(みたらしがわ)とよんでいます。みたらしの池の南庭は、おまつりの時のお祓いの場所です。葵祭に先だって斎王代がみそぎをされるところです。
 夏の土用の丑の日の「足つけ神事」、立秋前夜の「矢取り神事」は有名でたくさんの人で賑わいます。また、みたらしの池の湧く水のあぶくを人の形にかたちどったのが「みたらし団子」で、発祥の地と伝えられています。

御手洗川(みたらしがわ)
君がため 御手洗川を若水に むすぶや千代の 初めなるらむ (後撰和歌集)
土用の丑の日に、この御手洗川に足を浸し、疾病や病を封じて祈願して賑わう「足つけ神事」や立秋の前夜の「矢取り神事」葵祭の「斎王代(さいおうだい)の禊の儀(みそぎのぎ)}をはじめ、祓いの神事が執り行われるところである。
また常は水が流れていないが、土用が近づくと、こんこんと湧き出るところから、京の七不思議の一つとされ、その様をかたちどったと云われる「みたらし団子」の発祥のところでもある。
お社の前に立てられている「駒札」などの写真を撮っている間に、バス2台の一行から遅れてしまった!
HP作成は、写真も記録資料(文)も必要なのがつらい。うっかり写真だけ撮っていても、さて何のお社だったのかなと言うことも屡々生じる。本来、文化財に親しんでいる会員の姿を撮るのが目的で、社殿など文化財そのものは入場パンフレットなどから拝借すれば済むのではあるが、多少はりっぱな国宝・重文も撮りたいし、そうなると駒札を撮って帰り、書き出してパソコン入力をすることになる。
話しがそれたが、バス2台の皆から遅れ、その最後尾が「糺の杜」方面に消えるのを片目で見ながら、反対方向の「御手洗社(井上社)」に向かい駒札と神社の写真を撮る。
引き返して慌てて橋殿の横から「糺の杜」に入り、「奈良の小川」沿いの小道を森の中を急ぐ。ところが僅かに散策する人がいるだけで、行けども行けども誰もいず追いつけない。
「はぐれた」と思うとあせった。そうなるともう折角の「糺の杜」の風景・樹木など、写真を撮る余裕もない。そして飛び出したのがこの下鴨神社に入る手前の大鳥居。
いたいた皆んないた。何のことはない糺の杜の小道を散策せずに、ただ参道を戻ってきたのだ。
と言うわけで以前に「糺の杜」をゆっくり散策した思い出の再現(これを期待)ができませんでした。団体旅行のつらいところです。
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