ニックネーム:   パスワード:
| MyDoblogトップ | Doblogポータル | Doblogガイド | 使い方 | よくある質問 | ツールバー | サポート |
なべちゃんの散歩道
Blog
[ 総Blog数:4052件 ] [ このMyDoblogをブックマークする ] [ RSS0.91   RSS1.0   RSS2.0 ] [ ATOM ]
ジャンル: 文化財を訪ねて
Blog数:331件
181~190件を表示   <<   <   19  20  21  22  23  24  25  26  27  28   >   >>
2006/07/08のBlog
葵の庭(カリンの庭)
忘れめや あふいを草に ひき結び かりねののべの つゆの曙(あけぼの)
第三十一代斎王式子内親王 新古今和歌集
賀茂斎院御所のアオイの自生する「葵の庭」をお詠みになった。
文明の乱の兵火により殿舎が退転したが、庭はここに再顕された。
大炊で調整される御薬酒用薬草も植栽されており、特にカリンの古木が有名で「カリンの庭」ともよばれている。(駒札より)
カリン バラ科
カリンは、鎮咳に有効で、のど飴の成分にも使われています。またカリン酒も疲労回復に効き目があります。
カリンの古木
日に照らされて輝くカリンの葉
主な薬用栽培植物の写真入り説明板
2006/07/07のBlog
三井社境内に入る一行
三井神社(重要文化財)
 本宮の若宮(わかみや:若々しいご神霊)としての信仰があり、賀茂建角身命、玉依媛命、伊賀古夜媛命(いがこやひめのみこと)の三神がまつられています。
 末社には葵祭の斎王さまで知られる初代有智子内親王(うちこないしんのう:平安時代の嵯峨(さが)天皇の皇女)から第三十五代礼子(いやこ)内親王(鎌倉時代の後鳥羽(ごとば)天皇の皇女)まで、歴代斎王のご神霊をまつるお社。けまりの神さまをまつるお社などが有名です。
三井(みつい)神社 江戸時代 寛永五年建替 重要文化財
中社 建角身命(たけつぬみのみこと)
東社 伊賀古夜日賣命(いかこやひめのみこと)
西社 玉依媛賣命(たまよりひめのみこと)
「風土記」山城国逸文(やましろのくにいつぶん)に蓼倉里(たてくらのさと)三身社、延喜式(えんきしき)三井ノ神社(みいのかみのやしろ)とある神社です。
奈良時代から平安時代にかけて、このあたり一帯を蓼倉郷(たてくらごう)と呼ばれていました。三身社とは、本宮の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)とその妻、伊賀古夜日賣命(いかこやひめのみこと)、その子、玉依媛賣命(たまよりひめのみこと)のことであり、三神がまつられています。
西側の末社
諏訪社(すわのやしろ) (重要文化財)
建御方神(たけみなかたのかみ)
・神代の昔、力比べを挑まれた勇猛果敢な神様は、勇気と力を与えてくださります。

小杜社(こもりのやしろ) (重要文化財)
水分神(みくまりのかみ)
・生活に欠かすことのできない水をつかさどる神様です。

白髯社(しらひげのやしろ) (重要文化財)
大伊乃伎命(おおいのきのみこと)別名、猿田彦命(さるたひこのみこと)
・導きの神様は、人生の指針をお教えくださいます。

斎王神霊社(さいおうしんれいしゃ)歴代斎王神霊>
白髯社に合祀されています。
・賀茂社に仕えた歴代斎王をおまつりしたお社は、女性守護の神様です。
平安時代の当神社社頭絵図(しゃとうえず)「鴨社古図」に描かれている各社の位置と現在なおかわりなく、糺の森の禁足地を背景とする古代の神社の構えを伝える貴重な神社です。また舞殿(まいどの)をはじめ棟門(とうもん)などすべてが重要文化財です。
三井社境内で説明中の京都SKY観光ガイド協会ガイドさま
白鬚社合祀(前方の末社)賀茂斎院歴代斎王神霊社
葵祭でしられている斎王は、弘仁元年(810)嵯峨天皇の皇女、有智子親王(うちこしんのう)を初代として斎院(さいいん)の制が定められました。以降後鳥羽天皇の皇女、禮子内親王(いやこないしんのう)の建暦二年(1212)御退位になるまで、約四百年間、三十五代にわたって葵祭などの祭祀を御奉仕になられました。
「源氏物語」や「枕草子」などの華やかで優雅な姿を現在に葵祭の斎王として伝えています。神霊社はもと当所より西方一帯に所在した賀茂斎院御所にまつられていたところ、文明の乱(1407)により社殿が焼亡したため、糺の森の鴨社神宮寺境内へ御動座になっていましたが、大正十年この社に合祭されました。
ガイドさんの説明を腰掛けて聞く一行
2006/07/06のBlog
東本殿・西本殿(国宝)を参拝する一行
下鴨神社の歴史
 当神社の創祀は紀元前に遡り、崇神天皇七年(BC90)には、早くも朝廷によって瑞垣が造替され、欽明天皇五年(AD544)に賀茂祭(葵まつり)が始められるなど、古くから大社としてまつられ、「山城国一の宮」と仰がれてきました。
弘仁元年(810)「葵まつりの斎王代」で知られる「賀茂斎院の制」がさだめられ、皇女が当神社の年内祭事を奉仕されていました。嵯峨天皇の皇女・有智子内親王以来三十五代、約四百年問続きました。今回はじめて公開する大炊殿は、賀茂斎院御所の宮城の社殿です。
 延暦十三年(794)、十二月二十一日、平安京の遷都にあたって、桓武天皇が御親斎されたのを始めとして、歴代の天皇・皇族方の御参拝は数知れず、平成六年十一月八日には、天皇・皇后両陛下がお揃いで御親拝になりました。その他日本の歴史の中で、数々の事項を知ることができます(入場パンフレットより)
一言社(ひとことしゃ)巳・未歳生まれの守護神を祀る
言社(ことしゃ)(えとの守り神)(重要文化財)
一言社(ひとことしゃ)(東社)大国魂神(おおくにたまのかみ)巳、未歳生まれの人の守護神
一言社(ひとことしゃ)(西社)顕国魂神(うつしくにたまのかみ)午歳生まれの人の守護神
二言社(ふたことしゃ)(北社)大国主神(おおくにぬしなかみ)子歳生まれの人の守護神
二言社(ふたことしゃ)(南社)大物主神(おおものぬしのかみ)丑、亥歳生まれの人の守護神
三言社(みことしゃ)(北社)志固男神(しこおのかみ)卯、酉歳生まれの人の守護神
三言社(みことしゃ)(中社)大己貴神(おおなむちのかみ)寅、戌歳生まれの人の守護神
三言社(みことしゃ)(南社)八千矛神(やちほこのかみ)辰、申歳生まれの人の守護神
 大国主命はお働きによりお名前を七つおもちで、お名前ごとに神社がまつられています。それぞれが十二支の生まれ年の守り神さまとして、また商売繁盛、事業繁栄の神さまとしても信仰されています。
 一月成人の日には、初大国えとまつり、十月九日には秋祭がおこなわれ、たくさんのお詣りがあります。(大国会会員を募集しています。社務所までお問い合せ下さい。)
三言社(みことしゃ)卯・酉歳、寅・戌歳、辰・申歳生まれの守護神を祀る
二言社(ふたことしゃ)子歳、丑・亥歳生まれの守護神を祀る
言社に参拝
世界文化遺産 賀茂御祖神社(下鴨神社)
賀茂御祖神社社務所発行の入場パンフレットより集録:表紙写真・四季の行事写真:横山健蔵氏
歴史・創祀
 当神社がまつられたのは、崇神天皇の二年(BC2)に神社の瑞垣の修造がおこなわれかという記録があり、それ以前の古い時代からまつられていたとおもわれます。先年糺の杜(ただすのもり)周辺の発掘調査で弥生時代の住居跡や土器がたくさん発掘され、それを裏付けています。また社伝や歴史書に、お祭、、社殿、ご神宝の奉納などが記録されています。「続日本記」の文武天皇二年(698)には、葵祭に見物人がたくさん巣まるので警備するように命令が出された、という記事があります。このことから奈良時代より前から当神が大きなお社で、盛大なお祭がおこなわれていたことがわかります。
 平安時代には、国と首都京都の守り神として、また皇室の氏神さまとして、特別の信仰を受け、別頂に記します式年遷宮(しきねんせんぐう)や斎王(さいおう・いつきのみや)の制度などがさだめられていた特別な神社であったことがしられます。そして 「源氏物語」や「枕草子」など王朝文学にしばしば登場いたしまずように、この時代の文化、宗教の中心地の一つとして栄えました。
 平安侍代末期になりますと全国に六十余箇所もの荘園、御厨(みくりや)が寄進され神社をささえました。
 鎌倉時代、室町時代、そして戦乱の世になっていくにつれ、各地の荘園も連絡が次第に絶えて行きすが、代わって国民の信仰が神社をささえていくようになりました。神殿守(殿司・どす)とよぱれる人々が全国をまわって、ご神徳を説いていくのもこのころです。当神社を舞台とする、数多くの能(謡曲)などに、そのころの様子がうかがわれます。また国の重要な出来事には、かならずご祈願がおこなわれました。
 江戸時代にも国と国民の幸福を祈願する神社として、神社の運営のため幕府より領地が寄せられました。
 明治初年、全国の神社の代表として、官弊大社(かんぺいたいしゃ)の首位におかれ、今日まで国と国民のための祈願を日々おこなっています。(詳しくは、神社発行の「賀茂御祖神社略史」をごらん下さい)
御祭神とご神徳
 正式には「賀茂御祖(かものみおや)神社」とよぼます。京都は鴨川を中心に町づくりがなされており、鴨川の下流にまつられているお杜というところから「下鴨(しもがも)さん」とか、「下鴨神社」と親しくよげれています。
 東西の二殿の本殿はともに国宝です。
 玉依媛命(たまよりひめのみこと)東殿
 資茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)西殿

 資茂建角身命は、古代の京都をひらかれた神さまです 山城の国一宮として京邱の守護神としてまつられています。平安京が造営されるにあたって、まず当神社に成功の祈願が行われました。以来、国民の平安をご祈願する神社と定められました.
 出雲国「風土記」などに、玉依媛命が鴨川で禊(みそぎ)(身を清める儀式)をされているときに上流より流れ来た丹塗り(にぬり)の矢を拾われて床におかれたところ、矢は美しい男神になられ、結婚された。そしてお子をお生みになったとの神話が伝えられていますので、古くから縁結、子育ての神さまとして信仰されています。
 当神社は、国家国民の安穏と世界平和をご祈願する守護神であるとともに、厄除、縁結、安産、子育、交通安全など人々の暮らしを守る神さまです。
舞殿 重要文化財
賀茂祭(葵祭)のとき勅使が御祭文を奏上され、東遊(あずまあそび)が奉納される。御所が災害にあわれたとき、臨時の内侍所と定められている。
式年遷宮寛永五年度(1628)造替後は二十一年目ごとに解体修理が行われる。入母屋造、檜皮葺、桁行四間、梁間三間、殿上は宣命座の設置など、柱間ごとに細かく規定されている(駒札より)
神服殿(しんぷくでん)重要文化財
夏、冬の御神服を奉製する御殿であったため、その名がある。古代祭祀の神殿様式を伝える貴重な社殿である。近世は、勅使殿または到着殿となり、古来殿内の一室が行幸の時は玉座となった。「明けずの間」として伝えられている。
古くから御所が災害にあわれたとき、臨時の御座所と定められている。
式年遷宮寛永五年度(1628)造替後は二十一年目ごとに解体修理が行われる。入母屋造、檜皮葺、桁行五間、梁間四間(駒札より)
本殿・言社などの並ぶ構内に入門
2006/07/05のBlog
上賀茂神社の研修を終えたときは、時ならぬ北山時雨に見舞われ、河合神社に向かうバス中では可成りの降りであったが、到着前には止みほっとした。
三カ所目の記念撮影については、東寺、上賀茂神社のがあり、雨で省略しようと四方事務局長と相談していたが、やはり万一の失敗を考えて撮影した。参加者には2枚の約束での研修旅行である。
記念写真がピントが背景に合い(塔や楼門など高い背景を撮るので、人列が写真下部となる、三脚撮影でも人列にピントを合わせて撮る器用さが本当は必要。まだまだ私の経験不足である)東寺と上賀茂神社の撮影は、すこしピントが甘かった。反省!それにしても写真は難しい!
同じく1号車
下鴨神社大鳥居
下鴨神社楼門
御手洗川、橋殿周辺
下鴨神社の摂社、末社、方丈記の作者:鴨長命が住んでいた方丈などを拝観して回る会員の一行
三井社(みついしゃ)
御祭神
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
伊賀古夜日賣命(いかこやひめのみこと)
玉依媛賣命’たまよりひめのみこと)
姫神様とそんp御両親をお祀りしたお社は、家族の平安を守ってくださる神様です。
この鳥居をくぐり「瀬見(せみ)の小川」沿いにつづく「糺の杜」の参道に入る
枯れた御神木が祀られている
舟がおかれたお社
2006/07/04のBlog
鴨 長明
久寿二年(1155)下鴨神社禰宜長継の次男として泉の館(現在の京都大学北方一帯)において生まれた。応保元年(1161)七歳のとき下鴨神社の第六回遷宮が行われ、長明も神職の道につき、従五位下に叙せられた。幼少から学問に秀で特に歌道に優れていた。安元元年(1175)二十一歳、高松女院歌合わせに和歌を献じて注目を集めた。治承四年(1180)六月、二十六歳のときには、福原へ都が遷され、宮中に奉仕する長明も新都に赴いたが、八月源の頼朝の反乱により平家は滅亡し、再び平安京に遷都され帰洛した。
正治二年(1200)四十六歳のとき、後鳥羽院から召されて院の歌会や催しに和歌を献じることになった。翌建仁元年(1201)和歌所の寄人に任ぜられた。また琵琶や笛、琴にもたけた演奏の記録が随所にみえる。しかし、元久元年(1204)五十歳の春、宮中の席を辞して出家し、洛北大原に隠とんする。元久二年三月「新古今和歌集」
石川や 瀬見の小川の清ければ 月も流れを たずねてやすむ
をはじめ十首が採録された。「瀬見の小川」とは、この河合神社の東を今も流れる川のことである。建暦二年(1212)三月「方丈記」についで「無名抄」を著した。建保四年(1216)閏六月八日、六十二歳で没した。

長明の方丈
鴨長明は、五十歳のとき、すべての公職から身をひき大原に隠とんした。その後、世の無常と人生のはかなさを随筆として著したのが「方丈記」である。大原からほうぼう転々として、承元二年(1208)五十八歳のころ(現在京都市伏見区日野町)に落ち着いた。各地を移動しているあいだに「栖(すみか)」として仕上げたのが、この方丈である。移動に便利なようにすべて組立式となっている。
広さは一丈(約三メ-トル)四方、約2.73坪、畳、約五畳半程度、間口、奥行きとも一丈四方というところから「方丈」の名がある。さらにもう一つの特徴は、土台上のものが置かれ、その上に柱が立てられていることである。下鴨神社の本殿もまた、土居桁の構造である。この構造は建物の移動ということを念頭に柱が構築されるからである。下鴨神社は式年遷宮により二十一年ごとに社殿が造替される自在な建築様式にヒントを得たものといわれている。(駒札から集録)
参拝する会員
重要文化財申請社殿
貴布禰神社(きふねじんじゃ)
御祭神 高龗神(たかおかのかみ)
天地に恵みを与える雨をつかさどり、祈雨・止雨に霊験あらたかな神様です
応保元年(1161)収録の「神殿屋舎等之事」に、河合神社の御垣内にまつられていたことが収載されている神社で、水の神として有名。

重要文化財申請社殿
任部社(とうべのやしろ)古名:専女社(とうめのやしろ)
御祭神 八咫烏命(やたがらすのみこと)
神武天皇を勝利に導いた神様は、サッカ-教会のシンボルマ-クに描かれている事で有名です。
河合神社創祀のときよりまつられている社である。古名の専女とは、稲女とも書き食物を司る神々がまつられていたことを示している。のちに「百練抄」安元元年(1157)十月二十六日の条にある「小烏社」と合祀された。
昭和六年(1931)御祭神の八咫烏命が、日本の国土を開拓した神の象徴として日本サッカ-ボ-ル協会のシンボルマ-クとなって以来、サッカ-必勝の守護神として有名である。
鴨河合坐小宅神社(かものかわあいにますおこそやけのじんじゃ)
御祭神 玉依媛賣命’たまよりひめのみこと)
日本国を建てられた神武天皇の母神様は、子供の成長をお守りくださいます。

重要文化財申請社殿
三井社(みついしゃ)別名:三塚社
中社 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
西社 伊賀古夜日賣命(いかこやひめのみこと)
東社 玉依媛賣命’たまよりひめのみこと)
古い時代の下賀茂神社は、古代山城国、愛宕(おたぎ)、葛野郷(かづぬごう)を領有していた。その里には下鴨神社の分霊社がまつられていた。この社は、鴨社蓼倉郷(たてくらごう)の総(祖)社としてまつられていた神社である。摂社三井神社「風土記」山城国逸文(やましろのくにいつぶん)「鴨社」の条の「蓼倉里(たてくらのさと)三身社」とは別の社である。
展示館
河合神社 下鴨神社の摂社
祭神 玉依姫命 祭神は神武天皇の御母神
例祭日 十一月十五日
神徳 神武天皇とともに御母神として日本の建国に貢献された内助の御神徳は、日本婦人の鑑とも仰がれており、安産、育児、縁結び、学業、延命長寿の守護神として広く知られている。
由緒 鎮座の年代は不詳であるが、神武天皇の御代から余り遠くない時代と伝えられている。「延喜式」に鴨河合・・(駒札より集録)
参観の綾部の文化財を守る会一行
河合神社の参観
参観の一行
糺の杜(ただすのもり)の名所(摂末社(せつまつしゃ)など
河合(かわい)神社と鴨長明(かものちょうめい)
 玉依媛命(たまよりひめのみこと)(初代の天皇・神式天皇の御母神、本宮のご祭神とは同名異神)をまつっています。古くから本宮に次ぐ大社として歴史に登場し、女性の守護神として信仰されています。
 『方丈記』の著者、鴨長明はこの河合神社の神官の家に生まれましたが、いろいろの事情によって、この重職を継ぐことができませんでした。
 このこと方ら強い厭世観を抱くようになり、やがて『方丈記』を書くにいたったといわれています。復元された方丈が現在展示されています。
 末社には任部社(とべしゃ)とよび八咫烏(やたのからす)をまつるお社があり、昭和六年(1931)日本サッカー協会設立時より現在のJリーグにいたるまで、ご祭神の姿をシンボルマークとしています。(入場パンフレットより集録)
2006/07/02のBlog
楼門(重文)前で権禰宜・村松晃男さまを囲んで記念撮影、1号車の皆様
記念写真は事務局から参加者全員、お世話になった宮司さま、京都SKY観光ガイド協会の皆様にお送りしました。
高倉殿(重文)、神宝展が行われているようで、本殿参拝を終えた一行が次々と入って行かれる
白い祭幕の張られた本殿・権殿参拝の入り口。参拝者はその手前の廊下に上がり下足を預け、白い襷を首に掛け左手の控え室に入っていく。2号車一行は入ってかなり時間が経つがまだ出てこない。心配そうに幕の前で待つ四方事務局長。案内をしていただいた祢宜さまが出てこられたが、交代で入る肝心の1号車の会員の姿がない。
ここで「献上・紀州梅道中」の一行が登場。予期せぬハプニング1号車の会員の姿も行列見物の向こう側に垣間見えるが、私は続いて楼門内の撮影に回ったので連絡のとりようなし。
立砂のみえる細殿(重文)
このあとにわかに北山時雨が降り出し、参道を一ノ鳥居、のバスまで急ぐ。
2006/07/01のBlog
祭 祀
賀茂祭(葵祭)勅祭 五月十五日
 欽明天皇の御代(六世紀)天下風雨順ならず、庶民大いに嘆いたので勅してうらなわしめ給うたところ、賀茂大神の崇りであると判った。そこで馬に鈴をかけ走らせ祭祀を行った結果、五穀成熟して天下奉平となった。
このことにより毎年国家的な行事として祭が行われるようになった。これが賀茂祭の起源である。
 神前に葵を献じ、全部の社殿には葵を飾り、奉仕員全て葵を着けるので葵祭ともいう。平安時代は殊に盛んであって、「まつり」と言えば葵祭を指すほどであった。現今は五月十五日、皇室より勅使を御差遣になり旧儀によリ行われる。その行列は近衛使代を中心に牛車、花傘、斉王代(さいおうだい)列など総勢五百名、列の長さは八百メートルに及ぶ。
 先づ、午前京都御所を出発、下鴨神社にて祭儀を行った後、再び行粧を整えて、賀茂川の堤を北上し、午後当神社に到着。勅使の御祭文奏上、牽馬(ひきうま)、東游(あづまあそび)、走馬等の儀が約二時問にわたり、古儀のまま行われる。清らかな流れと、新緑の境内で行われるこの祭儀の有様は、さながら王朝絵巻を見るが如くである。(入場パンフレットより)
競馬会神事 五月五日
 稲沢天皇の寛力士年二〇九三年)に始まる。早朝より頓言遷御、菖蒲の根合せ等が行われる。見尻(騎手)は左右口分れ、左方は打毬、右方は柏餅の舞楽装束を善げ、馬口見って社頭口参進する。
 勧盃、日形見、月形見、修祓、奉幣の儀を行い、次いで馬場にて順次競脂する。号の様子は『徒然草』などにもよく書かれている。蓋し天下の壮観である。京都市登録無形民俗文化財。これ口先仁志、五月コ已には、五日の競馬に出場する馬足の、優劣を定める足汰式がある。

烏相撲 九月九日
 菊花を献じ無病息災を祈願する重陽神事を了えて後、細殿の前庭にて童子二十人をして相撲(すま)わしめ神覧に供する。その問、刀禰が烏鳴き、烏の横飛びなどをして、頗る興趣のある行事である。烏の行事は八咫烏(やたがらす)伝説に由来し、細殿にて葵祭に奉仕された斎王代が御覧になる。
権禰宜・村松晃男さまの説明
川尾社に向かって拝礼する一同
癒しの神様、精神安定、傷ついた心を癒していただける神様
やっと楼門前に1号車一行が到着、集合写真を撮るが、楼門の中には入らずに他に向かわれた。ならの小川にからる玉橋(重文)越しに撮っていて、制止縄が両側に張られ渡れないので、またカメラ道具の後始末で何処に行かれるのか聞く余裕がなかった。
181~190件を表示   <<   <   19  20  21  22  23  24  25  26  27  28   >   >>