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2006/07/01のBlog
[ 16:02 ] [ 文化財を訪ねて ]
岩上(がんじょう)
賀茂祭(葵祭)には、宮司この岩の上に蹲踞(そんきょ)勅使と対面し、御祭文(ごさいもん)に対して神の御意志を伝える「返祝詞(かえしのりと)」を申す神聖な場所である。 太古、御祭神が天降りされた秀峰神山(こうやま)は、本殿の後方約2kmの処に在り、頂きには降臨石(こうりんせき)を拝し、山麓には御阿礼所(みあれしょ)を設け、厳粛な祭祀が斉行されてきた。
この岩上は神山と共に賀茂信仰の原点であり、古代祭祀の形を今に伝える場所である。神と人との心の通路(かよいじ)でもあり、「気」の集中する場所である。(駒札から集録)
賀茂祭(葵祭)には、宮司この岩の上に蹲踞(そんきょ)勅使と対面し、御祭文(ごさいもん)に対して神の御意志を伝える「返祝詞(かえしのりと)」を申す神聖な場所である。 太古、御祭神が天降りされた秀峰神山(こうやま)は、本殿の後方約2kmの処に在り、頂きには降臨石(こうりんせき)を拝し、山麓には御阿礼所(みあれしょ)を設け、厳粛な祭祀が斉行されてきた。
この岩上は神山と共に賀茂信仰の原点であり、古代祭祀の形を今に伝える場所である。神と人との心の通路(かよいじ)でもあり、「気」の集中する場所である。(駒札から集録)
2006/06/30のBlog
[ 13:49 ] [ 文化財を訪ねて ]
世界文化遺産登録 山城国一ノ宮 賀茂別雷神社(上賀茂神社)
御祭神 厄除明神賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)
御神徳 厄除・方除・電気の守り神
御由緒
神代の昔、本殿の北北西にある秀峰神山(こうやま)に御降臨になり、天武天皇の御代(678)現在の本殿に御鎮座になった。御鎮座以来広く人々の信仰を集め、特に皇室の御崇敬は歴代にわたり、行奉啓は枚挙にいとまあらず、国家の重大事には必ず奉幣御祈願があった。
『延喜式』では名神大社に列し、のち山城国一ノ宮として尊崇せられ、明治以後終戦まで宮幣大社として伊勢の神宮に次ぐ、全国神社の筆順に位した。
社 殿
本殿・権殿(ごんでん)東西に並び建ち、共に流れ造の典型として国宝に指定されている。文久三年(1863)の造替で、他の祝詞舎(のりとのや)、透廊(すいろう)等四十二棟の建物は、おおむね寛永五年(1628)の再建で重要文化財に指定されている。又、境内全域は平成六年(1994)十二月十七日「古都京都の文化財」の1つとしてユネスコが制定する人類共有の世界文化遺厘に登録された。(入場パンフレットより集録)
御祭神 厄除明神賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)
御神徳 厄除・方除・電気の守り神
御由緒
神代の昔、本殿の北北西にある秀峰神山(こうやま)に御降臨になり、天武天皇の御代(678)現在の本殿に御鎮座になった。御鎮座以来広く人々の信仰を集め、特に皇室の御崇敬は歴代にわたり、行奉啓は枚挙にいとまあらず、国家の重大事には必ず奉幣御祈願があった。
『延喜式』では名神大社に列し、のち山城国一ノ宮として尊崇せられ、明治以後終戦まで宮幣大社として伊勢の神宮に次ぐ、全国神社の筆順に位した。
社 殿
本殿・権殿(ごんでん)東西に並び建ち、共に流れ造の典型として国宝に指定されている。文久三年(1863)の造替で、他の祝詞舎(のりとのや)、透廊(すいろう)等四十二棟の建物は、おおむね寛永五年(1628)の再建で重要文化財に指定されている。又、境内全域は平成六年(1994)十二月十七日「古都京都の文化財」の1つとしてユネスコが制定する人類共有の世界文化遺厘に登録された。(入場パンフレットより集録)
記念写真の撮影に楼門(重文)まで出迎えていただいた祢宜様を真ん中に2号車の一行を撮影。楼門の前に流れる「ならの小川」にかかる玉橋(重文)があり、人が立ち入らないように制綱が前後に張られている。それでもう一つ上手の片岡橋(重文)をわたり、楼門前に整列した一行を玉橋越しに写真に納める。記念写真を撮り終えると2号車の一行は祢宜さまのご案内で楼門をくぐり本殿参拝に拝殿に上がっていった。
ならの小川沿いの美しい植栽
ならの小川:6月30日夏越大祓は、「百人一首」にも詠まれ、初夏にはホタルが舞い秋の紅葉が美しい川
いつもなら続いて1号車の記念撮影となるのだが、待っていても楼門前にやってこない。しびれを切らして迎えに行く。上賀茂神社の本殿・権殿参観は少人数づつしか参拝できないとはあらかじめ聞いてはいる。
ならの小川:6月30日夏越大祓は、「百人一首」にも詠まれ、初夏にはホタルが舞い秋の紅葉が美しい川
いつもなら続いて1号車の記念撮影となるのだが、待っていても楼門前にやってこない。しびれを切らして迎えに行く。上賀茂神社の本殿・権殿参観は少人数づつしか参拝できないとはあらかじめ聞いてはいる。
[ 09:22 ] [ 文化財を訪ねて ]
立砂(たてずな)
二ノ鳥居を入ると、細殿の前に一対の立砂がある。円錐形の麗しい御神体山である神山をかたちどったもので、一種の神籬(ひもろぎ)(神様が降りられる憑代(よりしろ))である。鬼門、裏鬼門にお砂「清めのお砂」をまくのはこの立砂の信仰が起源である。
二ノ鳥居を入ると、細殿の前に一対の立砂がある。円錐形の麗しい御神体山である神山をかたちどったもので、一種の神籬(ひもろぎ)(神様が降りられる憑代(よりしろ))である。鬼門、裏鬼門にお砂「清めのお砂」をまくのはこの立砂の信仰が起源である。
橋殿(はしどの)重文
有名な葵祭、夏越(なごし)の大祓の舞台
夏越祓 六月三十日
夕闇が迫る頃、茅ノ輪をくぐる人で境内は賑わう。所々に篝火が焚かれ雅楽が奏でられるなか、橋殿より大祓詞の奏上とともに、人形(ひとがた)がならの小川に投ぜられ、祈願者の一切の罪穢が祓い清められる。当神社の夏越祓は古くより有名で、次の百人一首のなかのうたは鎌倉時代の当神社の夏越祓の情景を詠ったものである。
風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは みそぎぞ 夏のしるしなりける。 藤原家隆
有名な葵祭、夏越(なごし)の大祓の舞台
夏越祓 六月三十日
夕闇が迫る頃、茅ノ輪をくぐる人で境内は賑わう。所々に篝火が焚かれ雅楽が奏でられるなか、橋殿より大祓詞の奏上とともに、人形(ひとがた)がならの小川に投ぜられ、祈願者の一切の罪穢が祓い清められる。当神社の夏越祓は古くより有名で、次の百人一首のなかのうたは鎌倉時代の当神社の夏越祓の情景を詠ったものである。
風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは みそぎぞ 夏のしるしなりける。 藤原家隆
2006/06/29のBlog
[ 10:57 ] [ 文化財を訪ねて ]
2006/06/28のBlog
[ 09:31 ] [ 文化財を訪ねて ]
HP「綾部の文化財」編集の下書きとして、このブログで仕事の合間を見て作業を続けていますが、今回「東寺」が終わりましたので、綾部の文化財日誌(ブログ)に投稿しました。
先に投稿した「献上・紀州梅道中に遭遇」の第二弾です。
まだ上賀茂神社、川合神社、下鴨神社などと続きます。全て終わってからHPに再編集いたします。
先に投稿した「献上・紀州梅道中に遭遇」の第二弾です。
まだ上賀茂神社、川合神社、下鴨神社などと続きます。全て終わってからHPに再編集いたします。
[ 09:29 ] [ 文化財を訪ねて ]
[ 09:12 ] [ 文化財を訪ねて ]
八島神社(八島殿)
祭神は東寺の地主神とも、大己貴神(おおなむちのみこと)とも言われる。八島社というのは、わが国を大八洲瑞穂国(おおやしまみずほのくに)と言うところから起た社号である。それゆえこの社は東寺以前より鎮座されており、弘法大師は、この神の夢想を被ってここに伽藍建立に先立ち、この神へ寺門造立成就、方位安全、法道繁盛の祈願をされ、地主神とあがめられたと伝えられる。(駒札より)
祭神は東寺の地主神とも、大己貴神(おおなむちのみこと)とも言われる。八島社というのは、わが国を大八洲瑞穂国(おおやしまみずほのくに)と言うところから起た社号である。それゆえこの社は東寺以前より鎮座されており、弘法大師は、この神の夢想を被ってここに伽藍建立に先立ち、この神へ寺門造立成就、方位安全、法道繁盛の祈願をされ、地主神とあがめられたと伝えられる。(駒札より)
[ 06:56 ] [ 文化財を訪ねて ]
八幡社殿
796年創建、平安京と東寺を守護する為まつられたが、明治元年(1868)焼失、平成3年に123年ぶりに再建。本尊は檜材の一木造りで一本の巨木から弘法大師作と伝えられる。僧形八幡神坐像と女神坐像二躯の三躯が安置されている。
足利尊氏が東寺を本陣としていた時、鎮守八幡宮の神殿から流鏑(かぶらや)が新田勢に向かって飛び、勝利を収めた故事は余りにも有名である。
796年創建、平安京と東寺を守護する為まつられたが、明治元年(1868)焼失、平成3年に123年ぶりに再建。本尊は檜材の一木造りで一本の巨木から弘法大師作と伝えられる。僧形八幡神坐像と女神坐像二躯の三躯が安置されている。
足利尊氏が東寺を本陣としていた時、鎮守八幡宮の神殿から流鏑(かぶらや)が新田勢に向かって飛び、勝利を収めた故事は余りにも有名である。
2006/06/27のBlog
[ 21:16 ] [ 文化財を訪ねて ]
[ 17:02 ] [ 文化財を訪ねて ]
毘沙門堂 江戸時代
天慶二年(939)平将門の乱の際、都の守護神として羅城門に安置されていた兜跋毘沙門天立像(現宝物館・国宝)を天元元年(978)7月大風にて羅城門が倒壊の後、東寺に移し食堂に安置したりしたが、文政五年(1822)現在の堂を建立してお祀りした。創建千二百年記念事業で平成六年(1994)に修復された。
天慶二年(939)平将門の乱の際、都の守護神として羅城門に安置されていた兜跋毘沙門天立像(現宝物館・国宝)を天元元年(978)7月大風にて羅城門が倒壊の後、東寺に移し食堂に安置したりしたが、文政五年(1822)現在の堂を建立してお祀りした。創建千二百年記念事業で平成六年(1994)に修復された。