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2005/12/12のBlog
[ 20:52 ] [ 文化財を訪ねて ]
内部には、薬師如来(室町時代・国重文)、日光・月光菩薩立像(白鳳時代の七世紀・銅造・国重文)は文治三年(1187)に飛鳥山田寺から移されたと云われています。文殊菩薩坐像((桧材・寄木造・鎌倉初期・国宝)、ゆいま維摩こじ居士座像(桧・寄木造。鎌倉初期・国宝)、十二神将立像(寄木造・鎌倉初期・国宝)四天王立像(桧・一本造・平安初期・国宝)等がある。
五重搭(国宝)
高さ51メートル。古塔としては、京都の東寺の五重塔55メートルに次ぐ高さで、天平二年(730)藤原不比等の娘・光明皇后の発願で建立。現存の建物は、室町時代の応永十三年(1426)に建てられた六度目の室町時代の建物ながら、全体に創建当時を伝える純和様の名建築である
高さ51メートル。古塔としては、京都の東寺の五重塔55メートルに次ぐ高さで、天平二年(730)藤原不比等の娘・光明皇后の発願で建立。現存の建物は、室町時代の応永十三年(1426)に建てられた六度目の室町時代の建物ながら、全体に創建当時を伝える純和様の名建築である
[ 17:53 ] [ 文化財を訪ねて ]
国宝館
昭和34年(1959)、旧食堂・細殿跡に興福寺宝物収蔵庫を建設して一般に公開。通称名「興福寺国宝館」として、広く海外にも知られています。当館は仏像彫刻・絵画・工芸品・典籍文書・考古資料・歴史資料などの寺宝(文化財)を多数収蔵し、この中の優品を展示公開しています。
国宝 薬師如来仏頭[銅造:白鳳時代・天武14年(685)]写真①
国宝 阿修羅像(八部衆像)(表紙写真)・十大弟子像[乾漆造:奈良時代・天平6年(734)]写真②
重文 仏手[銀造:奈良時代]
国宝 板彫十二神将像[木造:平安時代]写真③
重文 薬師如来坐像[木造:平安時代]
重文 釈迦如来坐像[木造:平安時代]
重文 地蔵菩薩像[木造:平安時代]
国宝 法相六祖坐像[木造:鎌倉時代:康慶作・文治5年(1189)]写真④
重文 梵天像[木造:鎌倉時代:定慶作・建仁2年(1202)]
国宝 金剛力士像[木造:鎌倉時代]写真⑤
重文 釈迦如来仏頭[木造:鎌倉時代]
国宝 天灯鬼・竜灯鬼像[木造:鎌倉時代:康弁作・建保3年(1215)]写真⑥
国宝 千手観音像[木造:鎌倉時代]写真⑦
重文 梵天・帝釈天像[木造:鎌倉時代]
重文 阿弥陀如来坐像[木造:鎌倉時代]
重文 弥勒仏半跏像[木造:鎌倉時代]
重文 吉祥天倚像[木造:南北朝時代:寛慶作・暦応3年(1340)]写真⑧
国宝 梵鐘[銅造:奈良時代:神亀4年(727)]
国宝 華原磬[銅造:中国唐時代]写真⑨
国宝 中金堂鎮壇具[銀鋺:銀製鍍金鋺・水晶玉:奈良時代]
国宝 南円堂灯篭・火袋扉[銅造:平安時代:弘仁7年(816)]写真⑩
県指定 舎利厨子[木造:南北朝~室町時代]
*これらの収蔵安置のものは、随時移動がありますのでご了承下さい
①仏頭、②須菩提像、③迷企羅像、④伝玄昉像、⑤阿形像、⑥竜灯鬼像、⑦千手観音像、⑧吉祥天倚像、⑨華原磬、⑩火袋扉銘文
昭和34年(1959)、旧食堂・細殿跡に興福寺宝物収蔵庫を建設して一般に公開。通称名「興福寺国宝館」として、広く海外にも知られています。当館は仏像彫刻・絵画・工芸品・典籍文書・考古資料・歴史資料などの寺宝(文化財)を多数収蔵し、この中の優品を展示公開しています。
国宝 薬師如来仏頭[銅造:白鳳時代・天武14年(685)]写真①
国宝 阿修羅像(八部衆像)(表紙写真)・十大弟子像[乾漆造:奈良時代・天平6年(734)]写真②
重文 仏手[銀造:奈良時代]
国宝 板彫十二神将像[木造:平安時代]写真③
重文 薬師如来坐像[木造:平安時代]
重文 釈迦如来坐像[木造:平安時代]
重文 地蔵菩薩像[木造:平安時代]
国宝 法相六祖坐像[木造:鎌倉時代:康慶作・文治5年(1189)]写真④
重文 梵天像[木造:鎌倉時代:定慶作・建仁2年(1202)]
国宝 金剛力士像[木造:鎌倉時代]写真⑤
重文 釈迦如来仏頭[木造:鎌倉時代]
国宝 天灯鬼・竜灯鬼像[木造:鎌倉時代:康弁作・建保3年(1215)]写真⑥
国宝 千手観音像[木造:鎌倉時代]写真⑦
重文 梵天・帝釈天像[木造:鎌倉時代]
重文 阿弥陀如来坐像[木造:鎌倉時代]
重文 弥勒仏半跏像[木造:鎌倉時代]
重文 吉祥天倚像[木造:南北朝時代:寛慶作・暦応3年(1340)]写真⑧
国宝 梵鐘[銅造:奈良時代:神亀4年(727)]
国宝 華原磬[銅造:中国唐時代]写真⑨
国宝 中金堂鎮壇具[銀鋺:銀製鍍金鋺・水晶玉:奈良時代]
国宝 南円堂灯篭・火袋扉[銅造:平安時代:弘仁7年(816)]写真⑩
県指定 舎利厨子[木造:南北朝~室町時代]
*これらの収蔵安置のものは、随時移動がありますのでご了承下さい
①仏頭、②須菩提像、③迷企羅像、④伝玄昉像、⑤阿形像、⑥竜灯鬼像、⑦千手観音像、⑧吉祥天倚像、⑨華原磬、⑩火袋扉銘文
2005/12/11のBlog
[ 20:53 ] [ 文化財を訪ねて ]
興福寺略史(興福寺国宝館拝観券より)
興福寺は天智天皇8年(669)、中臣(藤原)鎌足の私邸(山城国宇治郡山階)に建てられた山階寺(やましなでら)を起源とし、天武朝には大和国高市郡に移って厩坂寺(うまやさかでら)と称されました。元明朝の和銅3年(7 1 0)に都が平城に遷されると、鎌足の子息藤原不比等(ふひと)は、厩坂寺を新都に移すべく、平城京左京三条七坊の地に寺地を確保して寺名を興福寺と改めました。和銅7年(714)に金堂が創建され、不比等の一一周忌の養老5年(721)に北円堂が建立されました、ぞの後、聖武天皇や不比等の娘である光明皇后の発願によって東金堂や五重塔が建てられ、やがて、七堂伽藍の大寺院になりました。
奈良・平安時代に寺観・内容ともに充実した興福寺は藤原氏の氏寺として栄え、平安中期以降は春日社をも支配して勢力を拡充し、法相(ほっそう)教学を研鎌する法相宗の大寺として南都仏教界の重鎮となりました。しかし、長い歴史のなかで、戦火や天災などによって度々堂塔が焼失しました。とくに治承4年(1180)の兵火は興福寺を焼亡させましたが、仏師院尊や成朝・明円・康慶・運慶などの有名々巧匠たちが参画した、いわゆる鎌倉復興造営がおこなわれました。
興福寺は天智天皇8年(669)、中臣(藤原)鎌足の私邸(山城国宇治郡山階)に建てられた山階寺(やましなでら)を起源とし、天武朝には大和国高市郡に移って厩坂寺(うまやさかでら)と称されました。元明朝の和銅3年(7 1 0)に都が平城に遷されると、鎌足の子息藤原不比等(ふひと)は、厩坂寺を新都に移すべく、平城京左京三条七坊の地に寺地を確保して寺名を興福寺と改めました。和銅7年(714)に金堂が創建され、不比等の一一周忌の養老5年(721)に北円堂が建立されました、ぞの後、聖武天皇や不比等の娘である光明皇后の発願によって東金堂や五重塔が建てられ、やがて、七堂伽藍の大寺院になりました。
奈良・平安時代に寺観・内容ともに充実した興福寺は藤原氏の氏寺として栄え、平安中期以降は春日社をも支配して勢力を拡充し、法相(ほっそう)教学を研鎌する法相宗の大寺として南都仏教界の重鎮となりました。しかし、長い歴史のなかで、戦火や天災などによって度々堂塔が焼失しました。とくに治承4年(1180)の兵火は興福寺を焼亡させましたが、仏師院尊や成朝・明円・康慶・運慶などの有名々巧匠たちが参画した、いわゆる鎌倉復興造営がおこなわれました。
鎌倉時代は武士勢力が強くなりますが、幕府は大和に守護職を置かず、興福寺をしてその任に当たらせたということは、往時の興福寺が各方面に与える影響がいかに大きかったかがわかります。
戦国時代になると武士勢力が強大となり、織豊時代は、検地によって寺領削減がおこなわれ、寺院勢力の弱体化が進行しました。
戦国時代になると武士勢力が強大となり、織豊時代は、検地によって寺領削減がおこなわれ、寺院勢力の弱体化が進行しました。
[ 19:51 ] [ 文化財を訪ねて ]
午後の研修は興福寺。バス2台で興福寺国宝館(写真)に到着、直ちに五重塔をバックに号車毎に記念写真を撮る。(ここをクリック)
興福寺(法相宗大本山)の略歴
南都(奈良)七大寺に数えられる興福寺は、京都山科ふじわらの藤原かまたり鎌足私邸に建立されたやま山しな階寺に始まり、飛鳥を経て平城せんと遷都に伴い現在地に移り興福寺と号した。
藤原氏の氏寺として隆盛し、平安時代には大和国(奈良県)を支配し、僧兵を擁し、比叡山延暦寺とともに、なんと南都ほくれい北嶺と呼ばれおそ畏れられた。東大寺と同様、治承四年(1180)に平重盛の南都焼き討ちで大半の堂塔を焼失したが鎌倉時代に復興。その後も、堂塔は焼失と再建を繰り返したが、寺勢は徐々に衰え、明治のはいぶつ廃仏きしゃく毀釈で崩壊寸前に追い込まれたが、それでも東金堂(国宝)、五重塔(国宝)
北円堂(国宝)、三重塔(国宝)、南円堂(国宝)などが残り、昭和33年(1958)に「国宝館」が出来て各国宝の建物より、数多くの国宝・重文が移され此処で展示されています。
興福寺(法相宗大本山)の略歴
南都(奈良)七大寺に数えられる興福寺は、京都山科ふじわらの藤原かまたり鎌足私邸に建立されたやま山しな階寺に始まり、飛鳥を経て平城せんと遷都に伴い現在地に移り興福寺と号した。
藤原氏の氏寺として隆盛し、平安時代には大和国(奈良県)を支配し、僧兵を擁し、比叡山延暦寺とともに、なんと南都ほくれい北嶺と呼ばれおそ畏れられた。東大寺と同様、治承四年(1180)に平重盛の南都焼き討ちで大半の堂塔を焼失したが鎌倉時代に復興。その後も、堂塔は焼失と再建を繰り返したが、寺勢は徐々に衰え、明治のはいぶつ廃仏きしゃく毀釈で崩壊寸前に追い込まれたが、それでも東金堂(国宝)、五重塔(国宝)
北円堂(国宝)、三重塔(国宝)、南円堂(国宝)などが残り、昭和33年(1958)に「国宝館」が出来て各国宝の建物より、数多くの国宝・重文が移され此処で展示されています。
興福寺国宝館
昭和34年(1959)に,旧食堂・細殿跡に興福寺宝物収蔵庫として建設され仏像彫刻・絵画・工芸品・典籍文書・考古資料等の寺宝を各所から集めて最優秀品を展示しています。
陳列品は、一部変更になる場合がありますが、お世話役がお渡しする「拝観券」を開き順次鑑賞下さい。
特に、入り口から左の中の、阿修羅像(国宝で天平六年(734)は「拝観券」の表紙にもあり・八部衆立像(八部衆とは沙羯羅(さから)、鳩槃茶(くばんだ)、乾闥婆(けんだだつば)、阿修羅)あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、畢婆迦羅(ひばから)、五部浄(ごぶじょう)をさす。そのなかの阿修羅は、通常、三面六臂(さんめんろっぴ:三つの顔と六本の腕)の荒々しい戦闘神として表されるが、この像は少年のような清純さと神秘性を併せ持っている脱活乾漆造りであり有名である。
板彫十二神像(国宝・木造り・平安時代)、金剛力士像(国宝・鎌倉時代)、天灯鬼・竜灯鬼像(国宝・木造・鎌倉時代)等は見逃せない。
国宝の南円堂、北円堂、中金堂より持ってきて展示しているものも多い。国宝合計は、ざっと28、重文は、ざっと10像以上です。(綾部の文化財を守る会会報より)
昭和34年(1959)に,旧食堂・細殿跡に興福寺宝物収蔵庫として建設され仏像彫刻・絵画・工芸品・典籍文書・考古資料等の寺宝を各所から集めて最優秀品を展示しています。
陳列品は、一部変更になる場合がありますが、お世話役がお渡しする「拝観券」を開き順次鑑賞下さい。
特に、入り口から左の中の、阿修羅像(国宝で天平六年(734)は「拝観券」の表紙にもあり・八部衆立像(八部衆とは沙羯羅(さから)、鳩槃茶(くばんだ)、乾闥婆(けんだだつば)、阿修羅)あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、畢婆迦羅(ひばから)、五部浄(ごぶじょう)をさす。そのなかの阿修羅は、通常、三面六臂(さんめんろっぴ:三つの顔と六本の腕)の荒々しい戦闘神として表されるが、この像は少年のような清純さと神秘性を併せ持っている脱活乾漆造りであり有名である。
板彫十二神像(国宝・木造り・平安時代)、金剛力士像(国宝・鎌倉時代)、天灯鬼・竜灯鬼像(国宝・木造・鎌倉時代)等は見逃せない。
国宝の南円堂、北円堂、中金堂より持ってきて展示しているものも多い。国宝合計は、ざっと28、重文は、ざっと10像以上です。(綾部の文化財を守る会会報より)
2005/12/10のBlog
[ 10:23 ] [ 文化財を訪ねて ]
昼食は、東大寺と午後の研修先である興福寺の近くの「なら和み館」であった。
200名の団体収容可能の大広間:食事中にお土産の宣伝説明があり、お土産サ-ビス券をいただいた。
写真:高校生修学旅行の一行が食事中風景
なら和み館 お膳紙より(大きな白紙の四分の一左端に印刷)
むかしむかしのお話‥・
いつも独りぼっちな鬼がいました。
近くの村へ遊びに行っても、追い返されて恐れられ、誰も近寄ってきません。
「あの鬼はいつも怖い顔をして近寄ってくる、いつか食べられちまうそ!」
鬼はいつも、寂しくて寂しくて、泣いてばかりいました。
「暗い山道を歩いていたら、いきなり鬼が出てきて道せんぼをして、びっくりして急いで逃げ帰ったんだ。」
「鬼が今年の収穫全部を、いきなり掴んで逃げてったんだ。一緒に俺も喰われるところだった。」
本当は遊んで欲しくて、村人の前に立って道せんぼをしたり、村人の重そうな荷物を鬼は持ってやろうとしただけなのに‥・
このお話の続きは和み館でのお楽しみ!
200名の団体収容可能の大広間:食事中にお土産の宣伝説明があり、お土産サ-ビス券をいただいた。
写真:高校生修学旅行の一行が食事中風景
なら和み館 お膳紙より(大きな白紙の四分の一左端に印刷)
むかしむかしのお話‥・
いつも独りぼっちな鬼がいました。
近くの村へ遊びに行っても、追い返されて恐れられ、誰も近寄ってきません。
「あの鬼はいつも怖い顔をして近寄ってくる、いつか食べられちまうそ!」
鬼はいつも、寂しくて寂しくて、泣いてばかりいました。
「暗い山道を歩いていたら、いきなり鬼が出てきて道せんぼをして、びっくりして急いで逃げ帰ったんだ。」
「鬼が今年の収穫全部を、いきなり掴んで逃げてったんだ。一緒に俺も喰われるところだった。」
本当は遊んで欲しくて、村人の前に立って道せんぼをしたり、村人の重そうな荷物を鬼は持ってやろうとしただけなのに‥・
このお話の続きは和み館でのお楽しみ!
早速地図とパンフレットと、お話のつづきを聞きに売店へ一番乗り。
まだ買い物客は誰も居られなかったので、中央レジの責任者と思われる方にお尋ねする。つづきはその場では聞けなかったので、後日FAXでお尋ねし、丁寧にメ-ルの添付文書を頂きました。
>「和み鬼」の話は民話でも昔話でもなく、「なら和み館」のコンセプトとして作られたお話のため、本・お菓子・キャラクターグッズ等今のところ御座いません。
と云うことでした。
>前略・・・村の優しいおじいさんの大きな心が愛情を生み、愛情が微笑みを生み、素直な心が相手を見させ、微笑が映る。微笑みの映りあいが和み、囲炉裏の火のようにお互いを温めました。・・・後略
詳しく知りたい方は「なら和み館」にお問い合わせください。
まだ買い物客は誰も居られなかったので、中央レジの責任者と思われる方にお尋ねする。つづきはその場では聞けなかったので、後日FAXでお尋ねし、丁寧にメ-ルの添付文書を頂きました。
>「和み鬼」の話は民話でも昔話でもなく、「なら和み館」のコンセプトとして作られたお話のため、本・お菓子・キャラクターグッズ等今のところ御座いません。
と云うことでした。
>前略・・・村の優しいおじいさんの大きな心が愛情を生み、愛情が微笑みを生み、素直な心が相手を見させ、微笑が映る。微笑みの映りあいが和み、囲炉裏の火のようにお互いを温めました。・・・後略
詳しく知りたい方は「なら和み館」にお問い合わせください。
2005/11/17のBlog
[ 20:58 ] [ 文化財を訪ねて ]
東大寺南大門(国宝)と金剛力士像(国宝)
天平勝宝四年(752)に創建された東大寺の正面で、十二世紀後半の台風による倒壊や治承の兵火を得て、重源上人が宋の技術を導入してつくらせた、いわゆる「大仏様式」の代表的な建物で重層入母屋造りの五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造である。又、屋根裏まで達する大円柱18本は21メートル、基壇上20.46メートルに達する我が国最大の山門である。
この門の中には東西相対し、阿吽(あうん)一対の金剛力士像(仁王)が安置されている阿形は8.43メートル、吽形は8.36メートルもある巨大なヒノキ材の寄木造りの工法でつくられた木造である。
又、この像は鎌倉初期・建仁三年(1203)に運慶や快慶ら仏師たちによってわずか69日で造像されたと云う。
天平勝宝四年(752)に創建された東大寺の正面で、十二世紀後半の台風による倒壊や治承の兵火を得て、重源上人が宋の技術を導入してつくらせた、いわゆる「大仏様式」の代表的な建物で重層入母屋造りの五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造である。又、屋根裏まで達する大円柱18本は21メートル、基壇上20.46メートルに達する我が国最大の山門である。
この門の中には東西相対し、阿吽(あうん)一対の金剛力士像(仁王)が安置されている阿形は8.43メートル、吽形は8.36メートルもある巨大なヒノキ材の寄木造りの工法でつくられた木造である。
又、この像は鎌倉初期・建仁三年(1203)に運慶や快慶ら仏師たちによってわずか69日で造像されたと云う。
[ 20:57 ] [ 文化財を訪ねて ]
[ 20:56 ] [ 文化財を訪ねて ]
八角灯籠(国宝)
境内に入ると巨大な大仏殿が目に付く。此処から更に大仏殿の前に行くと、巨大な金銅の八角灯籠がある、高さ4.6メートルもあり、この灯籠は東大寺創建当時のものとされ、その後、多少手を加えているが天平時代の金工技術と工芸意匠の素晴らしさを現代に伝えている。非常に大きな火袋が特徴で東西南北の四面には両開きの扉に雲中を走る唐獅子と他の四面には優美な音声(おんじょう)菩薩(ぼさつ)の浮彫が見られる。
境内に入ると巨大な大仏殿が目に付く。此処から更に大仏殿の前に行くと、巨大な金銅の八角灯籠がある、高さ4.6メートルもあり、この灯籠は東大寺創建当時のものとされ、その後、多少手を加えているが天平時代の金工技術と工芸意匠の素晴らしさを現代に伝えている。非常に大きな火袋が特徴で東西南北の四面には両開きの扉に雲中を走る唐獅子と他の四面には優美な音声(おんじょう)菩薩(ぼさつ)の浮彫が見られる。
音声菩薩(おんじょうぼさつ)
大仏殿の前に金銅八角燈籠(こんどうはっかくとうろう)があります。音声菩薩(おんじょうぼさつ)という天女像をすかし彫りにしたものが、この燈籠の火ぶくろの扉に表現されています。国宝にふさわしい優れた工芸品といえます。
大仏殿の前に金銅八角燈籠(こんどうはっかくとうろう)があります。音声菩薩(おんじょうぼさつ)という天女像をすかし彫りにしたものが、この燈籠の火ぶくろの扉に表現されています。国宝にふさわしい優れた工芸品といえます。
金銅八角燈籠
高さ4.6メートルもありこの灯籠は東大寺創建当時のものとされ、その後、多少手を加えているが天平時代の金工技術と工芸意匠の素晴らしさを現代に伝えている。非常に大きな火袋が特徴で東西南北の四面には両開きの扉に雲中を走る唐獅子と他の四面には優美な音声(おんじょう)菩薩(ぼさつ)の浮彫が見られる。
高さ4.6メートルもありこの灯籠は東大寺創建当時のものとされ、その後、多少手を加えているが天平時代の金工技術と工芸意匠の素晴らしさを現代に伝えている。非常に大きな火袋が特徴で東西南北の四面には両開きの扉に雲中を走る唐獅子と他の四面には優美な音声(おんじょう)菩薩(ぼさつ)の浮彫が見られる。
[ 20:55 ] [ 文化財を訪ねて ]
虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)
江戸時代の木造で、大仏右脇(正面から見ると左側)にあります。虚空蔵とは広大無辺の功徳が虚空のように大きく壊れることがないという意味です。この菩薩を念じれば記憶力が増すと考えられ、特に知恵を授ける仏として信仰されるようになりました。
江戸時代の木造で、大仏右脇(正面から見ると左側)にあります。虚空蔵とは広大無辺の功徳が虚空のように大きく壊れることがないという意味です。この菩薩を念じれば記憶力が増すと考えられ、特に知恵を授ける仏として信仰されるようになりました。
[ 20:54 ] [ 文化財を訪ねて ]
宝珠院々長兼勧学院々長:佐保山堯春師から、盧舎那仏(るしゃなぶつ)の座っておられる巨大な蓮弁座の説明を受ける。
大仏尊像の台座の周りの蓮弁には「蓮華蔵世界」と呼ばれている毛彫図が刻まれ、「華厳経」の説く「悟りの世界」を絵に表している。
大仏尊像の台座の周りの蓮弁には「蓮華蔵世界」と呼ばれている毛彫図が刻まれ、「華厳経」の説く「悟りの世界」を絵に表している。