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なべちゃんの散歩道
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ジャンル: 文化財を訪ねて
Blog数:331件
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2005/11/17のBlog
国宝「開山堂」を外から斜め向かいに見て二月堂へ向かいます。中には、鎌倉時代、鷲にさらわれ、杉の木の上に下ろされて、後に名僧となった良(ろう)弁(べん)僧正の秘仏「良弁僧正坐像・国宝」(十二月十六日のみ特別開扉)が祀られています。
法華堂(三月堂)(国宝)
 修学旅行などでは中々入れないところ、拝観料を支払い拝観・見学する。「拝観券の裏の内陣配置図」を見ながら観賞してください。
 法華堂は天平十二年(740)から十九年までの創建と考えられている東大寺最古の建物である。不空(ふくう)羂索(けんさく)観音を本尊とするところから羂索堂と呼ばれていたが、毎年三月に法華会(ほっけえ)が行われたところから、後に法華堂と呼ばれるようになりました。この法華堂は東大寺の前身である金(きん)鐘寺(しょうじ)の主要伽藍(がらん)の一つであり、華厳経が日本で初めて講義された所と云われています。
四月堂と一行
手向山八幡宮
法華堂内で役僧から仏像の説明を聞く一行
堂内の仏像について説明される僧侶に断って一枚だけフラッシュ無しで撮らせていただきました。何もみえないぐらい真っ黒な写真をソフトで明度修正しています。
僧侶の方は、懐中電灯を使って仏像の説明をされました。
念仏堂(国重文)
鐘楼の東にある寄棟造りの念仏堂はもとは地蔵堂といわれ、鎌倉時代の建物である。堂内には嘉禎三年(1237)に仏師・康清が造った地蔵菩薩像(国重文)がある。
三月堂に向かって
三月堂に向かう歩く
三月堂に向かって
三月堂の石段を登る
鐘楼(国宝)
ひときわ天空にそびえる鐘楼は、鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人を継ぎ、大勧進となった栄西(ようさい)禅師が承元年間(1207~10)に再建したもので大仏様や禅宗様的な要素を加味した豪快な建物である。
石段を登り切ると、鐘楼前の広場で、大勢の修学旅行の生徒たちが鹿と遊んでいた。
梵鐘(国宝)
重さ26.3トンもある梵鐘(国宝)は東大寺創建時のもので、鐘声の振幅は非常に長く「奈良太郎」と呼ばれ、日本三名鐘の一つである。
鐘楼(国宝)
我々一行を鹿が迎えてくれた
東大寺南大門から中門を目指して歩く。
中門で記念写真、バス2台分(80名)を一度に撮るつもり。中門の間から大仏殿が見え、写真の背景に納まった。(記念写真は、ここをクリックしてください
記念写真を撮り終えて、一号車はのメンバ-は、大仏殿へ、2号車は鐘楼へのコ-スを行く。大仏殿を右に向かう。
大仏殿の右側を歩く。
鐘楼への石段を登る一行。
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バス2台80名の参加。7時に出発。バスガイドさんの話を聞きながら
東大寺に到着、バス停で現地ポランティア・ガイドさん四人(男女各二人)が待っていてくださった。案内に従い、東大寺南大門に向かって歩く。
周りは修学旅行の小、中、高せいなどで一杯。鹿がついて回っている。お土産の売店が並ぶ。鹿センベイも売っている。
東大寺南大門(国宝)と金剛力士像(国宝)
 天平勝宝四年(752)に創建された東大寺の正面で、十二世紀後半の台風による倒壊や治承の兵火を得て、重源上人が宋の技術を導入してつくらせた、いわゆる「大仏様式」の代表的な建物で重層入母屋造りの五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造である。また、屋根裏まで達する大円柱十八本は21メートル、基壇上25.46メートルに達する我が国最大の山門である。
両側の阿吽の金剛力士像(国宝)にしばし対面。帰りの拝観を期して通り抜ける。
11月17日(木)錦秋の中、「世界文化遺産:奈良の国宝を訪ねて」の第11回秋の文化財・史跡学習会(綾部の文化財を守る会)が、バス2台78名の参加で盛大に実施された。東大寺中門前で、華厳宗総本山・国宝大仏殿をバックに宝珠院々長兼勧学院々長:佐保山堯春師と共に記念写真撮影後、同師のご案内で大仏(廬舎那仏)を間近に拝観、二月堂、三月堂などの伽藍、仏像を拝観。
午後は興福寺に廻り記念写真を国宝五重塔をバックに号車ごとに撮影。
その後国宝間に展示された仏像、南円堂などを見て回った。
2005/09/05のBlog
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幕府京都御大工頭中井家のお墓について 投稿者: 事務局:四方續夫 投稿日: 8月30日(火)20時30分45秒
8月27日(土)朝6時自家用車で出発。烏丸御池の地下駐車場に車をいれ、リュックサックを担ぎ、徒歩で先ず、浄土宗の「仏光寺」を見学するも「記念遠忌」を控えて、大工事中、更に高倉通り、ここは上がりの一方通行で、松原通り、を下がると右手に「長香寺」大都会のど真ん中に、上手く、銀閣寺垣のように、ビルを隠しており、いよいよ中井正清一族の墓を調査・見学しました。たった一人でした。烏丸御池からゆっくりの徒歩で40分、帰りも辻を替えて烏丸御池の地下駐車場へ。中井家の墓は初代の正清の巨大な墓から、現存の子孫の墓までありました。感無量といった所です。次に、なかなか駐車場が満員で、始めて鷹峯の「光悦寺とその庭」を拝観、なかなかの趣で多数の人が訪れていました。京都人で無く言葉使いから関東の人が多いように感じました。次に「しょうざん」
を前から見たかったので行きましたが、広大な地域で、庭を見て回りダウンですが、思わぬ拾い物は豊臣秀吉の作った「お土居」が残っていたことです。明確にお土居とわかります。多数の写真を撮っているのですが、小生のCamedio Masterからは未熟で入力出来ません。お許し下さい。

以上は、綾部の文化財を守る会の事務局長、四方續夫氏からの投稿です。
HP「綾部の文化財」
http://www.ayaco.net/bunka/

2005/08/21のBlog
[ 11:45 ] [ 文化財を訪ねて ]
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京都市歴史資料館テーマ展
城郭と寺社 ・ 大工頭中井家の絵図から・・・・・前ブログにつづいて四方續夫事務局長提供資料からのOCR収録です。解説のかなりの部分を省略しました。
■中井家絵図について
 大工頭中井家は江戸幕府の旗本で、代々京都に居住した。現上京区寺町通丸大町上る・同志社新島会館敷地がその旧地である。
 中井家はもともと法隆寺(奈良県)の宮大工の家であるが、旗本初代大和守正清(1565~1619)が五畿内・近江の大工等支配を命じられた時以来、徳川家の大工として重要な建築工事にたずさわってきた。とくに初代正清は徳川家康の絶大な信頼を受け、二条城、江戸城、駿府城、名古屋城、増上寺、大仏殿方広寺、久能山東照宮、日光東照宮などの大工事を担当した。
 中井家では業務の必要に応じさまざまな図面が作成された。それらの絵図類は、現在宮内庁(書陵部)、京都大学(附属図書館)、京都府立総合資料館に分蔵されている。今回展示した絵図類は中井家に伝えられたもので、京都市歴史資料館に寄託されている581点の一部である。
 京都市歴史資料館寄託絵図頼については、大阪市立大学の谷直樹氏により総合調査が行われ、その成果は、谷直樹編『大工頭中井家建築指図集 中井家所蔵本』(2003年思文閣出版刊)として刊行された。詳細は同書に譲るが、中井家絵図は建築史だけではなく、歴史学の貴重な資料でもある。とくに二条城、知恩院などの城郭や寺社の指図(平面図)や立地割図(断面図)や鳥瞰図は、京都の歴史にとっても重要であることはいうまでもない。
 今回の展示では、中井家絵図の中から、城郭絵図と寺社絵図を選んで展示した。とくに二条城とその周囲の図をまとめて展示した。

■解説
1.水口城御指図
 水口(現滋賀県甲賀郡)は、東海道に而して位置する城下町である。水口城は、寛永十一年(1634)の三代将軍家光の上洛に際し、宿泊用の施設として造営された。寛文十年(1670)の年紀があるこの図面からは、堀で囲まれた本丸と、その西北部に位置する二の丸で構成されており、天守は設けられていなかったことが分かる。
2.豊臣時代大坂城指図
 天正十一年(1583))に豊臣秀吉が築いた大坂城は難攻不落を誇ったが、元和元年(1615)の大坂夏の陣で落城した。徳川氏による再建は、豊臣氏の大坂城にかぶせるように築かれ、城は大きく姿を変えた。この図は豊臣時代の大坂城の姿を伝える貴重な指図である。昭和34(1959)の調査で発見された石垣が本図の記載内容と一致したため、内容の信頼性が高まり注目を巣めた。
3.行幸御殿井古御建物御取解不相成以前二条御城中絵図 解説を省略
4.御城之図(二条城) 解説を省略
5.二条御城惣御指図 解説を省略
6.御本丸之図 解説を省略
7.二条御城御本丸地坪数絵図
8.二条御城二之御丸地坪数絵図
9.二条御城外曲輪地坪数絵図
 三点とも享保十三年(1728)八月に作られた指図で、本丸・二の丸・外曲輪の敷地の形状と規模などを示している。本丸は約五千五坪、周囲の塀四千八百七十七坪などを加えると、総敷地は約一万五十二坪(約三万四千平米)。二の丸は総敷地九千六百三十三坪、外曲輪(御城外御撰)は約四万四千三百七十八坪(約百四万六万四千平米)という広大な規模である。
10.二条御城内御預り所絵図 解説を省略
11.二条御城御天守
寛永三年(1626)の後水尾天皇行幸以前に完成した五層の天守の軸組図で南妻面を示す。この天守は寛延三年(1750)の落雷で焼失した。

12.御城内御本丸二之御丸御殿向絵図 解説を省略
13.二条御城中二之御丸御庭蘇鉄有所之図
14.二条御城中二之御丸御庭蘇鉄之図 以上の解説を省略
15.東大御番頭小屋絵図 解説を省略
16.西大御番頭小屋絵図 解説を省略
17.二条御城内東御番衆小屋絵図拍
18.二条御城内東御番頭小屋井与力同心小屋絵回拍
19.二条御城内西御番頭小屋絵図拍
20.二条御城内西御番衆小屋井同心小屋絵図拍 以上の解説を省略
21.二条御城廻り御役屋鋪絵図
22.二条御城廻り絵図
23.二条御城廻絵図
24.二条御城廻絵図 以上の解説を省略
25.所司代屋敷絵図 解説を省略
26.御所司上屋鋪表座敷之図 解説を省略
27.御評定所図(京都所司代)
 京都市中の裁判は、町奉行の管轄であったが、正徳四年(1714)に水野和泉守が所司代に就任すると、邸内に評定所を新設し、町奉行では手に負えない訴訟をそこで裁断することになった。評定所は、享保二年(1717)に水野から松平伊賀守に所司代が交代すると取り壊された。
28.東御役屋敷絵図(京都町奉行所)
29.西御役屋敷絵図(京都町奉行所)
 東西の町奉行の役宅図。奉行の邸宅と具に敷地の大半を占めているのが奉行所(役所)である。そこには、公事方、勘定方、証文方などの与力・同心が勤務する事務所や、白州、公事入居所(訴訟をする人の待合室)などの裁判施設などが配置されている。他にも馬場や池、稲荷社までも備えた広大な敷地は、東町奉行が約5327坪、西町奉行が約3886坪であった。
30.牢屋敷絵図
 これは六角牢屋敷(正式には三条新地牢屋敷)として知られる牢屋敷でニ条城の南、六角通大宮西入に位置した。天明8年(1788)の年記があり、天明8年の京都大火焼失後の復興に関連して作成されたと考えられる。牢屋敷の管理は町奉行配下の雑色がおこなっていた。
31.守護職上屋鋪絵図 解説を省略
32.伏見古御城絵図 解説を省略
33.山州淀御城御天守木口指図 解説を省略
34.江戸御天守
35.江戸御天守
 江戸城天守の軸組図。最初の天守は慶長十二年(1607)に完成したが、その後も元和・寛氷期に改築された。本図は元和期の改築のものであると考えられる。江戸城天守は、明暦三年(1657)に焼失後、再建されることはなかった。
36.洛東清水寺惣絵図
 門前町を舎む清水寺境内を南側から望んだもので、中井家の絵図には珍しい鳥瞰図。僧坊の有無などにより景観年代は江戸時代の終わり頃と考えられる。本堂(清水の舞台)などの主要な堂舎は、寛永六年(1629)の火災の後、寛永十年に復興整備され、多くが現存している。子安の塔(秦産寺)は明治43年までは本図に描かれた仁王門前にあったが、現在は、谷を挟んで本堂の向かいに移転している。【図は表紙】
37.知恩院絵図
 知恩院境内(背後の華頂山も含む)を描いた図。各堂舎が正面の方向を向いた、中世以来の境内図の伝統を引く描写である。左端の黄色で描かれた部分は門前の町家。東西に並行する二本の通りは、北(上)が古門前通、南(下)が新門前通で、その中を白川が流れている。中央部下方に山門が見える。境内の堂舎は寛氷期(1624)~44)に復興整備されたが、図は門前の町名や堂舎の状況から寛文五年(1665))から宝永七年(1710)までの景観を描いている。
38.知恵院宮様御入室二付寺内御道筋絵図拍 解説を省略
39.泉涌寺御再建絵図 解説を省略
40.泉涌寺伏見街道人ロヨリ御廟所迄仮建物竹矢来絵図 解説を省略
41.般舟院惣絵図 解説を省略 ゛’゛`ど宍’゛
42.上使被為入候絵図(本圀寺)
43.上使御対面座席絵図(本圀寺)
44.三使御饗応座席絵図(本圀寺)
 朝鮮通信使は江戸へ下向する途中に京都で宿泊することが恒例であり、本圀寺が宿舎になることが多かった。この絵図は正徳元年(1711)9月28日、徳川家宣の将軍就任を賀するために来目した通信使の応接図で、到着時(42)、上使松平紀伊守との対面(43)、饗応の席次(44)をそれぞれ記す。「正使」「副使」「従事」とあるのが通信使側、対馬藩主で朝鮮外交を任されていた「宗対馬守」、本圀寺の「長老」二人が日本側である。
45.方広寺大仏殿諸建物井三十三間堂建地割図 解説を省略
46.北野天満天神御社立地割弁社堂間数目録 解説を省略
47.吉田社建地割 解説を省略 

テーマ展「城郭と寺社」展示目録 省略します。
・会期 平成17年6月3日(金)~8月28日(日)
・休館日 月曜 祝日
・編集・発行
 京都市歴史資料館
 602-0867京都市上京区寺町通荒神口下る松蔭町138-1
 Tel.075-241-4312
[ 11:44 ] [ 文化財を訪ねて ]
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綾部の文化財を守る会の四方續夫事務局長から預かりました文書、HP収録の下準備です。
中井家文書 
 江戸幕府の京都御大工頭の中井家に伝わった、内裏・城郭など幕府作事に関する文書、597点926通。中井家は関ケ原合戦の後、徳川家から五畿内および近江の大工・杣・木挽の三職の支配を許され、近世を通じて、ほぼ500石40人扶持でその職を勤めた旗本の家柄である。元禄六(1693)年ごろ、自分の屋敷内に中井役所を設け、以前は中井家の負担で行なわれていた建物の破損見分・仕様帳等、あるいは絵図の作成まで作事に伴う手続事務を幕府経費で行なうようになり、役所は公的側面をもち、文書保管機能は強化されることになる。これにより多量の文書が残ったのである。この文書群の特徴は夥しい量の絵図が含まれていることで、とくに宝氷期(1704~11)以前の絵図は、ヘラ押計線の台紙に、色紙で要件を表記する、いわゆる貼絵図のものが多い。中井家が五畿内・近江の大工等を支配したことから、文書も山城、摂津、河内、近江等にわたり、その作事対象も、内裏御所、公家屋敷、城郭并武家屋敷、寺院、神社、洛中、公家町、河川、お土居など多岐にわたっている。内裏御所関係の文書は、86点224通あり、慶長、承応、寛文、延宝、宝氷、寛政、安政の各造営度のうち、宝氷度のものが一番充実している。公家屋敷に関する文書は、32点39通で、近衛家に仮内裏がおかれた時の指図や九条家、徳大寺家をけじめ20家分かある。武家関係文書は、城郭(伏見城、二条城、永原茶屋、水口城)分109九点175通、京都所司代分22点30通、火消屋数分7点8通、武家屋敷分31点33通、それに幕末京都警固(幕末期に京都の治安維持を目的に上洛した武士の屋敷建築のための手続文書等)分8点22通がある。そのうち、伏見城は元和年間(1615~24)の材木帳が12点。二条城は、創建期の慶長七(1602)年から同一〇年のもの、元和年間の秀忠上洛時の作事に関するもの、寛永年間(1624~44)の後水尾行幸・家光上洛時のもの、貞享・元禄期(1684~1704)の本丸、二之丸の修理時のもの等の作事に関係したものが、全体で60点127七通ある。永原茶屋分は33点。水口城は3点残っている。寺院関係の文書は、大部分が山城のもので、全体で56カ寺、127点179通。神社関係としては、18社分、70点90通ある。そのほか、洛中絵図が4点7通、公家町絵図が13点14通。加茂川をはじめとする河川に関係した文書が26点30通、お土居に関するものが5点残っている。
以上、当館が所蔵する分の中井家文書の概略であるが、ほかに中井家、中井家の菩提寺である長香寺(現在、京都大学へ寄託中)、宮内庁書陵部、京都大学附属図書館にも分れて所蔵されている。当館所蔵分については、昭和56年(1981)年、当館発行の『資料館紀要』第10号「史料紹介・総合資料館蔵の中井家文書について」で、解説を行なうと共に一点宛の目録を付した。
2005/08/20のBlog
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投稿者: 事務局:四方續夫氏
「京都府総合資料館」には、綾部の文化財をを守る会の会報第1号から60号までをそろえて置いてあります。
 8月18日に担当の楠久美さんにお会いし、故・山下潔己副会長兼事務局長の研究途中の中井家・幕府京都御大工頭との関係を一緒に2時間弱をも調査してもらったのですが不明でした。只、中井家いくつもあり、関白豊臣秀次に700石の高禄で仕えた初代中井藤右衛門正清の同腹の弟松野忠助、中井半兵衛(孫太夫)など豊臣家に多くの中井の姓で仕えた者や正清の弟・正純や従兄弟の利次等すぐれた大工が育ち、2・3代目の後見役を務めている。その方の系図は不明であるので、この方の系統と考えられる。次に訪れた「京都市資料館」で中井家の多くの地図が特別展で展示されていた、例えば、伏見城、二条城、知恩院等有名な城郭や寺社の設計図が多数であるが、館員の方の話では本家は幕末の14代まで続くが本家の「銘」は絶対に出ないそうです。両館にお願いし判明すれば「掲示板」で報告頂くことになっています。
 尚、幕府御大工頭は4名で、内、木原・鈴木・片山家の3家は主として江戸及び関東一円の作事をしたが、知行高は享保期以降は80石・役扶持20人の旗本であり、初代京都御大工頭の中井藤右衛門正清は徳川家康から始め200石、そして500石に加増、大阪の陣の時は大阪城へ派遣され見取り図の作成や騎馬30騎及び配下を連れ参戦、旗本禄高1,000石従四位下大和守に登る。三代目正知から500石20人扶持と御役扶持となり、さらに20人扶持をうけた特別の家柄であった。正清が1,000石をもらったのは一代限りの功績と言われている。つまり四代目正豊では主水となっている。中井家の先祖は巨勢氏を称し、代々大和国三輪大明神の神職であり、当初、筒井家に父、孫太夫(正吉)は仕えていて、その後、辞任し、筒井家をはばかり中井の姓を名乗るようになった家柄で上記江戸幕府の他の3家とは格段の上位にあった。
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