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なべちゃんの散歩道
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ジャンル: 文化財を訪ねて
Blog数:331件
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2005/08/07のBlog
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三代藩主、信勝の治政
織田信勝は、二代藩主信則の長男で、寛永7年(1630)三代目藩主となりました。信勝は領内の佐治川に堤防を築いたり、新田の開発を行い善政を敷きましたが、慶安3年(1650)28才の若さで死去し、世継ぎとなる男児に恵まれなかったため、 栢原藩は改易となりました。
信勝は八幡神社に自筆の社号額や釣灯篭を奉納するなど信仰心も厚く、鳥を題材にした絵画が多く残されており、その繊細な筆跡から優しく細やかな人柄をしのぶことができます。
軍配?
歴史資料、古美術、古文書などの門外漢なので、名称をとりあえず適当につけています。
HPに仕立て直して、専門家の先生に校正していただきます。
陣羽織?
鎧・兜
塗り椀?
栢原藩織田家伝承
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タイトルについてお詫び:地名は現在「柏原」ですが、藩名も柏原藩だったようです。現在問い合わせ確認中です。「栢原藩」は、三代目信勝に子供がなく改易になっています。
織田信包(のぶかね)は、信長の弟にあたり、初期信長政権下では北伊勢方面の経営にあたるとともに、織田一門衆として緒戦に活躍しました。
信長亡き後は、豊臣秀吉に属し、伊勢の安濃津(あのづ)で15万石を領していましたが、やがて秀吉と不仲になり、文禄3年(1594)には領地没収の上剃髪して謹慎を命じられます。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し、戦後も所領は安堵されて豊臣秀頼に近侍していましたが、慶長19年(1614)大阪城内で死去しました。
日誌帳:藩の収納関係?
同行の綾部史談会古文書部会の先生方が熱心に読んでおられました。
門外漢なので私は読めません。説明書きの札を撮り忘れています。
鬼板瓦 左側面刻銘
久下上瀧村 瓦屋治兵衛
文政元年寅11月吉日
飾り紋
さわってみよう。鉄砲の展示
綾部九鬼藩と関係の深い、三田九鬼藩の三田歴史資料集蔵の先進地視察をすませて、午後帰路の途中にある、柏原資料館、柏原藩陣屋跡(国指定史蹟)を訪ねました。
織田信長の弟:織田信包’のぶかね):初代藩主
織田信包(のぶかね)は、信長の弟にあたり、初期信長政権下では北伊勢方面の経営にあたるとともに、織田一門衆として緒戦に活躍しました。
信長亡き後は、豊臣秀吉に属し、伊勢の安濃津(あのづ)で15万石を領していましたが、やがて秀吉と不仲になり、文禄3年(1594)には領地没収の上剃髪して謹慎を命じられます。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し、戦後も所領は安堵されて豊臣秀頼に近侍していましたが、慶長19年(1614)大阪城内で死去しました。
三代藩主、信勝の治政
織田信勝は、二代藩主信則の長男で、寛永7年(1630)三代目藩主となりました。信勝は領内の佐治川に堤防を築いたり、新田の開発を行い善政を敷きましたが、慶安3年(1650)28才の若さで死去し、世継ぎとなる男児に恵まれなかったため、 栢原藩は改易となりました。
信勝は八幡神社に自筆の社号額や釣灯篭を奉納するなど信仰心も厚く、鳥を題材にした絵画が多く残されており、その繊細な筆跡から優しく細やかな人柄をしのぶことができます。
宇陀騒動・大宇陀の町並み
宇陀騒動
織田信休の旧領・大和松山藩は、信長の二男信雄が大阪の陣直後の元和元年(1615)7月に大和国宇陀郡で3万2千石の領主になったことに始まります。
初代藩主信雄のあと高長(たかなが)長頼(ながより)と続きましたが、元禄7年(1694)家臣団の内紛に端を発して、四代目藩主、信武(のぶたけ)が家臣2人を殺害のうえ自殺したため、翌年幕府は宇陀の領地を没収して、藩主となっていた信休に丹波に国替えを命じ、栢原藩は再興される結果となりました。
初代藩主織田信休の治政と系図
初代藩主 織田信休の治政
織田信休は、信長の二男信雄を初代藩主とする大和松山四代目藩主、織田信武の長男で元禄7年(1694)に起こった「宇陀騒動」の後、藩主になりましたが、翌年減封のうえ、丹波に国替えの処分を受けました。
宝永元年(1704)に大和川改修の普請を命じられるなど出費が重なり、柏原に居館が完成したのは、入部後20年を経た正徳4年(1714)のことで、この時城下町の建設にも着手して、現在の柏原の町並みを形作りました。
栢原藩の領地(入部当時)元禄8年、領地目録による。
栢原藩の領地(入部当時)元禄8年領地目録による
氷上郡の内 44ケ村
栢原町、母坪村、稲畑村、柿芝村、下小倉村、長野村、北嶋村、池谷村、大田村、下瀧村、鴨坂上村、鴨坂下村、東芦田村、桟敷村、井中村、田中、犬田村、應地村、岩屋村、井原村、金屋村、田井縄村、口塩久村、奥塩久村、小和田村、山垣村、遠阪村、大名草村、桧倉村、佐治村、西芦田村、栗住野村、沼村、御油村、中村、小野村、坂村、石才村、古川村、野山村、大崎村、阿草村、本郷村、南田井
高:1万4千486石9斗8升4合

何鹿郡の内 8ケ村
高槻村、位田村、坊河内村、西方村、物部村、志賀村、小畑新庄村、報恩寺村
高:2千6百55石 8斗 2升 3合

天田郡の内 5ケ村
田野村、河北村、戸田村、前田村、石原村
高:2千8百55石8斗2升3合

都合高:2万石
2005/08/04のBlog
さんだ歴史資料収蔵センター:民具の展示(もったいないの世界)・さんだの空襲
「文化財ボランティアさんだ」
「さんだ学入門」③さんだと城・三田の九鬼氏・歴代藩主
心月院・歴代九鬼氏霊廟・武家屋敷跡・九鬼藩城館跡
旧九鬼家住宅資料館
さんだのくらし資料冊子抜粋紹介
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三田歴史資料収蔵センターでいただいた資料の追加です。
昭和のくらし:台所と食事、夏の道具、冬の道具、様々な場面での道具(米作りの道具、洗濯、学校と遊び)、電化製品、新着資料集:A4版22ページの冊子です。
http://www.ayaco.net/bunka/minzoku/sanda/sanda.html
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三田市旧九鬼家住宅資料館
 旧九鬼家住宅は、明治初期(明治8年前後)に建てられた全国でも数少ない擬洋風建築の建物で、平成10年4月7日に兵庫県重要有形文化財に指定されました。
擬洋風建築とは、当時の人工さん達が、洋風建築を取り入れて造った洋風と和風が混在した建物のことです。この住宅は、三田藩家老職を代々勤めた九鬼家の住宅として建てられました。明治の初め頃の建物は、設計者等が不明な例も多いのですが、旧九鬼家住宅の設計は、当主であった隆範が自ら行い、その設計図面も残っていました。また、鉄道技師であった隆範が蓄積した鉄道関係図面やその他関連資料等、歴史的にも極めて貴重な資料も見つかりました。
建物の特徴
 主屋は、1階は板張りと漆喰で壁を仕上げ、格子戸、障子戸、板戸を使用した和風の造りになっています。そして、2階の壁は漆喰で、窓はよろい戸となっています。東半分はベランダとなっており、円柱や柱間は漆喰で塗り込められています。また、柱間をアーチ状に仕上げたり、くり形付きの手すりを設ける等、洋風の趣に造られています。2階東半分は洋間となっていますが、床に畳を敷いたり、壁や天井は、壁紙の代わりに日本的な襖紙を張る等、洋風の技法を取り入れつつ、日本建築の技法が生かされています。
2階は洋室になっている。
庭から見ると、下は和風、2階は洋風建築。2階のテラスが見える。
庭園は日本式。白塀で囲われている。
台所は土間。
三田歴史資料集蔵の先進地視察は、この旧九鬼家住宅資料館から、九鬼藩城下町を歩いて収蔵センターまで戻り終了。長時間にわたりご案内、また貴重な資料の多々を頂きました「文化財ボランティアさんだ」の皆様などに心からのお礼を申し上げます。
会社パソコン設定替え、私用パソコンの不調、このレポート自体の記事収集(案内看板の書き写し、パンフレットからの文字入力)のため時間を取られ、このレポートが遅延しました。最上部の「関連したブログ」をたどっていただくと、連続して見られます。またHP編集も遅れていて申し訳ありません。
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歴史資料収蔵センター→心月院(九鬼藩歴代藩主霊廟)→九鬼藩城下町→九鬼藩城館跡→旧九鬼家住宅跡に歩いてきた。
旧九鬼家住宅資料館(平成10年県指定)
 旧九鬼家住宅は、三田藩家老職を代々勤めた九鬼家の住宅で、明治初期(明治8年前後)に建てられた全国でも数少ない疑洋風建築の建物である。疑洋風とは、当時の大工が洋風建築を取り入れて造った洋風と和風が混在したもの。住宅の設計は当主であった隆範氏が行い、その図面も現存している。
旧九鬼家住宅の戸口をくぐる。仕掛けがあり、2階に引き上げられる入り口で、バランス錘がついた滑車式。入り口を引き下ろすと小さな潜り戸が付いているが、かけやで叩き潰さない限り難攻不落の用心戸になる。
座敷で「文化財ボランティさんださん」の説明を受ける。
旧九鬼家住宅の設計者、九鬼隆範
九鬼隆範は、天保6年(1835)に三田屋敷町に生まれました。明治3年(1870)に三田藩の 家老、九鬼伊織隆継の長女と結婚し養子となります。砲術、築城術、測量術等を学び、明治維新後は技術者として鉄道設計等に携わり、日本の鉄道開発に貢献しました。
二間続きの座敷に座って説明を熱心に聞く。
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三田遊inマップから、古地図:この古地図を見ながら九鬼藩武家屋敷跡を偲びながら歩いた。
武家屋敷跡
 寛永10年(1633)志州鳥羽より移封された九鬼氏に従い、また新規に召抱えられた藩土たちが往んだ屋敷町。縄張りの上新しくつくられたところだけに整然とした区画割になっている。どこの侍町も同じように道路は突き当りが多く、戦さの配慮がなされていた。長屋門や石段、土塀などに当時の面影が残る、

.御下屋敷跡
 九鬼藩主の御下屋敷のあったところ。地続き川べりに川遊びの御舟小屋があった。明治11年の郡区町村編成法によって翌年有馬郡2町11カ村の郡役所がここにおかれた。つい最近まで表門(黒門)かあったが、金心寺へ移された。邸内の築山、家臣寄贈の石燈龍はそのままに置かれている。
三田城跡 ふるさと街道
市立三田小学校地は、江戸時代鳥羽より移封された藩主九鬼氏の城館跡である。県立有馬高等学校と三田小学校との間にある道沿いの濠は、本丸館と二の丸との境の掘であった。九鬼氏以前の領主は、荒木、山崎、有馬、松平と続いたが、その居城は明らかでない。旧市民病院裏の舌状高台あたりを「古城」と呼んでいるので、名のとおりそこであるかも知れない。三田が門前町として開けてきたところだと云われるのは、奈良時代に金心寺という大寺があったからである。城跡から屋敷町一帯にかけて、古瓦や礎石、中世の石造物などが出土する。
本丸と二の丸の境の掘
⑲三田城跡 歴史の散歩道
県立有馬高等学校付近は、天正年中(1573~)伊丹有岡城主、荒木摂津守の武将、荒木平太夫の居城
のち山崎堅家、有馬則頼、松平重直、そして寛永10年(1633)九鬼久隆と城主が代わる。三田小学校付近は、九鬼藩主の居館、現校舎地下に御台所跡が保存されている。七曜橋下が大手門筋 三田市教育委員会
三田九鬼藩城跡の石標と地図、歴史の散歩道案内
三田小学校の端にあり、学校への車道(ゲート閉門中)がある。
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九鬼藩城下町:三田歴史資料収蔵センターに綾部市の行政バスをおいて、九鬼藩霊廟のある心月院に行き、さらに九鬼藩城下町跡(開発され区画整備中の空き地になっていた)を通り、三田小学校と県立有馬高校の間の下り坂を下りているところ。
県立有馬高等学校:九鬼藩城館跡
この道沿いの濠は、本丸館と二の丸との境の掘。
九鬼藩城館跡の説明を「ボランティアさんだ」の方に聞く参加者。
有馬高校の歴史と周辺の古地図
約1300年前定慧上人により金心寺が、この地に創建されたが、豊臣秀吉の三田城攻略の時焼失した。寺はその後屋敷町に再建され、明治2年現在の西山丸岡に移転した。
なお寛永10年、九鬼久隆公が鳥羽より三田に移封され、この地に居館を構えた。三田小学校及び県立有馬高校は、その跡地に建てられている。寄贈 清陵会(有馬高校卒業生同窓会)
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