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なべちゃんの散歩道
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ジャンル: 文化財を訪ねて
Blog数:331件
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2005/08/04のBlog
[関連したBlog]
清涼山心月院九鬼歴代藩主(上記関連ブログ参照)霊廟の墓石を調べる、綾部史談会古文書部会の先生方、および、いかるが民俗館のメンバー。
9代~12代霊廟にて
13代九鬼隆義霊廟
広々とした霊廟であった。
13代九鬼隆義霊廟にて
九鬼家一族の多くの墓石が整然と数列にわたり並んでいる。熱心に碑文を読み取る先生方。
13代九鬼隆義霊廟にて
九鬼隆一霊廟にて
ここにも関係者の墓石が並んでいる。日本初の私立博物館である「三田博物館」を創った九鬼隆一氏の顕彰碑も建てられている。
心月院総門前
心月院本堂・位牌堂
心月院経堂
心月院の標柱
三田歴史資料収蔵センターにマイクロバスを止め、歩いて心月院に向かった。
このような歴史の散歩道の案内標識が道筋に建てられている。
⑭心月院歴史の散歩道 本尊:釈迦牟尼仏
寛永10年(1633)に鳥羽より移封された初代三田藩主九鬼久隆は、この地にあった梅林寺を増築し、寺号を改め、天翁山心月院と称した。鳥羽の菩提寺常安寺の覚雄是的和尚を迎え開基し、九鬼家代々の宗廟とした。寛文5年(1655)に山号を清涼山とする。境内には、先代守隆から13代隆義まで、歴代三田藩主の墓石がならぶ。三田市教育委員会
心月院境内略地図
心月院山門
バスの車中で綾部史談会会長の山崎先生より配布された資料。ブログの性質上、スペ-スがつまり、表の間隔が決まりません。HPで作表しますのでご容赦。
三田の九鬼氏 歴代藩主
寛永10年 摂津、有馬の内 3万石 氷上郡の内 6千石
 初代 久隆 襲封年 寛永10年(あ633) 3月 5日 在封16年
 2代 隆昌 慶安 2年(1649) 5月14日 20年
 3代 隆律(のり) 寛文 9年(1669) 9月 6日 17年
 4代 副(すへ)隆 貞享 3年(1686)11月14日 11年
5代 隆方(のち隆久) 元禄10年(1697) 7月22日 10年
 6代 隆抵(やす) 宝永 4年(1707) 4月16日 26年
 7代 隆由(より) 綾部隆恢(ひら)2男 享保18年(1733)12月27日 10年
 8代 隆邑 綾部隆恢(ひら)3男 寛保 3年(1743)12月29日 41年
 9代 隆張 天明 5年(1785)11月14日 13年
10代 隆国 寛政10年(1798) 2月 6日 46年
11代 隆徳 天保14年(1844) 6月 9日 11年
12代 精隆 安政 元年(1854) 正月20日 5年
13代 隆義 安政 6年(1859)11月16日 10年 明治 4年(1869) 7月14日
さんだ歴史資料収蔵センタ-に訪問したときに頂いた冊子の紹介です。民俗民具の分類方法について、やはり実際に使われた状態にそって、用途別にするのが良いようです。
さんだのくらし5 いわいの道具
・祝・いわう、はぐくむ、ことほぐ、・宴・うたげ
資料編:福尾家所蔵資料について
さんだのくらし6 たのしむ道具
・聞く・見るたのしみ、・でかけるたのしみ、・あそぶたのしみ、・まなぶたのしみ、・あじわうたのしみ
さんだのくらし7 かざる道具
・桃の節句、・端午の節句、・土人形
さんだのくらし8 四季の道具
・すまいの四季(居間と寝間)、まかないの四季、田の四季、・うつわにみる四季、・とくべつの四季(三田の四季を見つめた人:塚本 稔)
九鬼家ゆかりの おひなさま ふるさと三田集17集
・解説、写真図版、御殿組み立て次第、資料一覧、寄贈者一覧
データベース化して収集された資料から刊行された三田市教育委員会出版の冊子です。いづれも写真入りで70頁程度。その1頁をスキャニングしています。頂いた資料からの紹介については、ご了解済みです。なおこのブログ紹介は、HPづくりの準備作業です。最終回にHPに編集したURLを掲載します。
さんだのくらし1 食と道具
・洗う、・切る、・下ごしらえ、・炊く、・煮る、・蒸す、・食べる
鮮やかな彩りの民具たち、三田ゆかりのやきもの、祭りのなかのうつわ
三田ゆかりのやきもの
食と道具の中のカラー図版ページから
また各冊子には、調査資料分類・一覧表、調査について、ひとことメモ(多数)、資料寄贈者一覧などが記載されています。
さんだのくらし2 すまいの道具
・玄関にある道具、・居間にある道具、・部屋ごとの道具、・繕いごとの道具、・装いの道具、・暖かみのある道具、・庭先にある道具、・お出かけの道具
さんだのくらし3 はかる道具
・なりわい(生業)の中のはかる。(農・工・商)

さんだのくらし4 つくる道具
・なりわいの中のつくる(農業・酒造業)、・衣食住の中のつくる(衣・食)、・健康をつくる、・顔をつくる、・教養をつくる(琴・華道・茶道・香・絵画)、・思い出をつくる
九鬼陣屋の模型
三田城の資料を参観中
文化財ボランティアさんだ企画展示、三田歴史資料収蔵センター10周年展「さんだ学入門」③さんだと城 パンフレットよりOCR収録です。
 九鬼の殿様???集
 むかし三田市内には沢山の城がありました。例えば「三田市史」の「中世城館資料」で紹介されている城や陣屋だけでも37を数えます。今回は一般に「三田城跡」と呼ばれる、三田藩主だった九鬼氏が居館としていた「城」を中心に、九鬼家の足跡を辿ってみることにしました。現在、市立三田小学校と県立有馬高校になっている処にあった「城」は、古来、有馬郡の中心だったところです。
Q1:九鬼家のルーツは?
 織田信長の「石山本願寺攻め」は、世界初の鉄甲船軍団を率いた九鬼嘉隆の活躍によって、勝利に終わりました。嘉隆は、豊臣秀吉の朝鮮出兵にも水軍の大将として参加するなど大きな足跡を残しました。その子守隆も活躍して、九鬼家は伊勢・志摩両国で5万6千石を領有するようになりました。九鬼嘉隆以来の本拠は「鳥羽城」(現在の三重県鳥羽市」でしたが、ぞの先祖は九鬼浦(尾鷲市)からきたといわれています。これが九鬼家のルーツです
Q2:何故、海のない三田へ来たの? 城ではなく陣屋だったのは何故?
 守隆の嫡男良隆は体が弱く、五男の久隆に家督を譲ることに決めました。ところが、この相続問題がこじれて、久隆は海のない三田に転封されます。ただその時、徳川幕府は久隆に「城主格」を認めなかったため、三田藩主の居館は「城」ではなく、「陣屋」と呼ばれるようになりました。その後、第10代隆国の時「城主格」を許されますが、結局、天守は造らず、陣屋形式のまま明治維新を迎えることになったのです。
Q3:最後の殿様はどんな人?
 第13代藩主九鬼隆義の時代に明治維新を迎えました。隆義は、進取の気質に富んだ人で、白州退蔵や小寺泰次郎らを登用して藩政を改革すると共に、県下諸藩に先駆けて西洋砲術による兵制改革を導入するなど、思い切った近代化を図って幕末を迎えました。明治維新後、隆義は、医薬品や食料、雑貨などを扱う輸入商社「志摩三商会」を始めると共に、生田川付け替えできた(だれも買おうとしなかった)土地を買って大きな利益を上げました。
また、隆義が支援した「神戸女学院」は立派な学校に成長しており、北海道・浦河に入植・開拓した株式会社制度の「赤心社」も、多くの開拓事業が姿を消して行ったなか、見事に激動の世を潜り抜け、120数年を経てなお健在です。
古地図に見る九鬼姓
「九鬼姓」は、こんなに沢山あった!
三田で「九鬼さん」と言えば、誰もが「藩主の九鬼家」を思い浮かべます。でも、藩主の九鬼家以外にも「九鬼姓」を名乗る人が何人もいたのです。藩士一族の人は勿論ですが、元は「西」とか「川|面」とかの姓で仕えていた家臣が、素晴らしい功績をあげて、藩生から「九鬼姓」を名乗ることを許されたり、「九鬼姓」の家に養子に入って家督を相続し、「九鬼姓」を名乗ることになった人たちもいました。時代によって異なりますが、それぞれの時代に5~16家の人達が「九鬼姓」を名乗って、摂津・三田藩を支え、盛りたてて活躍したのです。このような殿様の血筋以外の「九鬼姓」の人々の中には、日本初の私立博物館である「三田博物館」を創った九鬼隆一や屋敷町の旧九鬼家住宅を建てた九鬼隆範などがいます。
三田城関係の主な出来事
いかるが民俗館の大嶋代表幹事(文化財を守る会会長)、綾部史談会古文書部会の山崎先生(史談会会長)、綾部市資料館の近澤館長、媒林先生など一行19名が参加して、行政バスで9時に出発。舞鶴高速道路経由で、さんだ歴史資料収蔵センターに直行しました。

民具の展示:もったいないの世界
この展示室には、①さんだのあけぼの、②さんだと古社寺、③さんだと城、④もったいないの世界、⑤さんだの空襲が展示されていました。
「文化財ボランティアさんだ」
平成10年に市教委主催で行った「さんだ文化財ボランティア」修了生有志で結成。現在会員数25名(男女半々、60歳以上が大半)。活動:例会、分科会、会報(文ボラ通信・季刊)、文化財研修バスツアー、市内バスツアーガイド、三田の古道を歩こうガイド、旧九鬼家住宅資料館公開ガイド、小中学生の見学・講師、収蔵センター企画展示、トライやるウィーク講師、ふるさと探検隊企画・講師、史蹟・文化財ガイドなど
展示室で説明のボランティアさんだ
大槻様(綾部のご出身とのことです)、中後 茂様、平田 学様(社会教育文化課)
小中学生の見学・講師は、平成16年度実績:23回、1821名でオリエンテーリングの他、火おこし、灯り、洗濯、石臼、農具などの実習も行われるとのことでした。
2階にある資料室(収蔵庫)、整理されデーターベース化されて写真、説明のファイルが完備している。資料冊子として出版済み→抜粋紹介の予定です。WEBの対応は考慮中とのことでした。
2005/06/09のBlog
如意輪寺 如意輪寺宝物殿 後醍醐天皇陵
竹林院群芳園 桜本坊 勝手神社 義経公静御前舞塚
吉水神社 義経潜居の間 書院 後醍醐天皇玉座 豊太閤豪華花見の本陣
金峯山寺 国宝・金剛蔵王権現像 仁王門
銅の鳥居 七曲り下の千本 黒門
第三七回春の研修旅行のご報告 実施事務局より
世界文化遺産登録記念「吉野の国宝・文化財を訪ねて」と称し、参加募集を開始しました。所が、締め切り日の2日前の5月15日で51名、貸切バス1台では定員オーバーです。補助席で吉野までは、大変です。京都交通に事情を話し、バス代金を値切り、締め切りを5月末とし、各役員の方々に名簿を渡し、追加の募集を続けました所、最終的に参加者79名で予定通り、京都交通バスも値切ったバス代金で実施して頂き、竹林院群芳園もホームページ「綾部の文化財」にも掲載し、このホームページは将来、文化庁ともリンクすると云うことで無料にして頂き、漸く黒字となりました。此の感想文は前記に新事務局・総務担当の森本一郎氏や新理事の泉美千代氏の「就任挨拶・感想文」で発表されています。
多々御世話になった、京都交通バス、竹林院群芳園、ボランテアガイドさん、特に、修験本宗総本山の金峯山寺の淵垣・林南院住職で宗務総長・執行長の田中利典師等のご協力に厚く御申し上げます。又、今回の参加者の特長は新入会員が又は始めて参加の方が約20名近くあったことです。尚、実施に当たり、会長の大嶋文隆氏の並々ならぬ、田中利典宗務総長との連絡・依頼等ご努力頂いたことを報告申し上げます。
写真:金峯山寺 国宝・金剛蔵王権現像
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