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なべちゃんの散歩道
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ジャンル: 文化財を訪ねて
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2005/06/09のBlog
第三七回春の研修旅行に参加して 1号車 理事 西坂町 I・M 様
「綾部の文化財を守る会」に入会させていただき数年が経ちますが、この四月、はからずも理事という大役をいただき未熟ながらお役に立てるよう努力してまいりたいと思いますので宜しくご指導下さいますようお願い申し上げます。
 この春の研修旅行には79名の皆様が参加され、世界文化遺産登録記念「吉野の国宝・文化財を訪ねて」と、吉野へ出発致しました。天候にも恵まれ、さわやかな緑に包まれた日本の代表的な山岳信仰の霊域、吉野山に到着し如意輪寺へ、そこには、如意輪堂を本堂とし宝蔵などがあり、後醍醐天皇の末路を物語る「塔尾陵」、「身はたとえ南山の苔に埋もるとも、魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほっか)の天を望まん」と都に思いを寄せられた最後、又、楠木正行(まさつら)の鏃(やじり)で書かれた辞世の扉などの宝物館を拝観し戦国の世の悲劇に出逢った思いを残し、大和三庭園の一つ・竹林院の名園を見学しました。
 午後は勝手神社へ、静が捕らえられ、法楽の舞を舞わされた所と説明を聞き、吉水神社へ、世界文化遺産登録のこの神社の日本最古の「書院造」は国の重文であり、多くの文化財を見学しました。この書院の一室に「義経潜伏の間」があり、静との短い出逢いの場や義経の鎧、当時の静の着物も展示されており、哀れみを誘います。
 次に金峯山寺へ、ここは世界文化遺産登録の金峯山修験本宗の総本山であり本尊で日本最大秘仏の金剛蔵王権現が祀られており、四年に一度の密教儀式の時以外は拝観することの出来ない、過去・現在・未来をお守りして下さる三尊が世界文化遺産登録記念の慶讃のため特別に御開帳され拝観させて戴き大変有り難く思いました。
 綾部の林南院の住職で田中利典宗務総長様のご説明を受け世界へ向けて発信される「恕(じょ)の心」すべてを認め、一切をゆるす、神仏を隔てなく信仰する事によって救われる、自然を敬い、「共生、和合」による世界平和を修験道から世界へ向けて呼びかけて行きたい。そんなお話を聞かせて戴きました。
 役行者(えんのぎょうじゃ)によって開かれた修験道修行の地、吉野山。吉野山は桜を大切にし、見事な桜の名所ではありますが、南北朝時代の様々な悲話にいろどられている所でもあり、「歌書よりも軍書に悲し吉野山」そんな句もあるそうです。しかし吉野山は、桜と南朝史跡で有名でもあります。 ガイドさんの説明もあり、素晴らしい手引きもあり、文化財を守る会ならではの研修旅行でした。又、皆さんが元気でお帰り頂き本当に良い一日であったと喜んでおります。
 出来るだけ多くの文化財にふれ、関心を高めて行くことが、知識を豊かにし、綾部の文化財を守る会の発展につながっていくのではないかと思います。又、秋の文化財・史跡学習会の旅行には多くの皆様のご参加をお願いいたします。
写真:楠木正行公の遺物のある如意輪寺本堂を前に 1号車
春の研修旅行に参加して 2号車 事務局・総務 延町 M・I 様
 比の度、図らずも本会の事務局総務を担当する事となりました。未熟者でお役に立てるか判りませんが、出来る限りお手伝いをさせて頂きたいと考えています。宜しくお願い致します。
 さて、この春の研修旅行は、最終七九名の皆様の参加で、定刻七時に綾部駅を出発し、如意輪寺には予定より若干早く着くことが出来ました。
 現地ボランティアガイドと合流して早速見学。持参の資料を良く読み、それを頭におきながら、ガイドさんの更に詳しい説明を聞き、知識を深めた気がしました。ポイントの、蔵王堂の蔵王権現像の手本となったと言われる、後醍醐天皇念持仏と同厨子、楠木正行(まさつら)公辞世の扉、後醍醐天皇陵等、あ丶これがと、印象深く拝見しました。
 竹林院群芳園の庭園も、静かな佇まいで山上からの眺めは格別でした。昼食を頂いた後、勝手神社へ、古来より戦勝祈願の社、静御前が捕らわれた所とか、社殿が焼失し説明のみで、や丶寂しい思いがしました。つぎは吉水神社、ここは見るべき物が沢山ありました。鎌倉末期から室町初期の最古と言われる書院造り、太閤秀吉の桃山時代の豪華な書院、この違いは時代の変遷なのか、権力の差なのでしょうか? 断崖絶壁に建つ清水の舞台の様な「吉野(よしの)建(だて)」を窓越しに見学する。宝物も沢山あり、義経の武具の腹巻、静御前が着ていたと言う着物、奥の間には鎌倉・吉野時代の様々な宝物、弁慶の直筆の書からは繊細な人柄が伺えると、ガイドさんの弁。何よりも宮司さんの奇知に富んだ見事なお話に、皆さん大いに聴き入り、時間の関係でお礼を言って足早にそこを後にしました。
 遠くからの眺めも美しい国宝・蔵王堂へ参拝、靴を袋に入れ、今、特別ご開帳の身の竦(すく)む様な三体の金剛蔵王権現像の前に正座する。綾部淵垣の林南院の住職で田中利(り)典(てん)宗務総長・執行長の説明をお聞きする。何度来ても此処のお堂の豪快さには敬服する。この”すごい“としか言えない様な金剛蔵王権現様に我々は守られていると思うと、心が安まる思いがしました。
「日本人は無神論者であるとややもすると思う。それは一神教(キリスト教、ユダヤ教、回教)の米国の戦後政略に因るもので、決して日本人は無神論者ではない。日本人は神も仏も拝む。これこそが本来の日本人の信仰である。もっと自信を持って自覚すべきだ。それを広め伝えて来たのが修験道、その金峯山(きんぷせん)修験本宗の総本山が当山の金峯山寺であり、1300以上の歴史を有している。現在、多神教こそ世界を変える大きな力となりえ、我日本の役割も大きい。」と説かれました。
「又、今我々が行わねばならないのは、子供たちに我々が子供の頃受けた、素朴な信心の心と、村としての共同体の教育力を伝え体験させてやる事だ、子供に日本の精神文化を伝えなければならない。」とも説かれました。
 帰りの由良副会長の挨拶に有りました様に「こうして何百年を経た文化財が、多くの先人と関係者で今も守られている事は、本当にスゴイ事で、それを知り大切さを判る人を増やして行こう。」と申されました。吉水神社の佐藤素心宮司様の文化財を守り知らせていく、当事者のとしての並々ならぬ決意も伺えました。
 我々も及ばずながら、綾部の文化財を守り、理解を深めて行きたいと思った次第です。秋の文化財・史跡学習会にも、より多くの皆様と参加させて頂きたいと、楽しみにしております。
写真:金峯山寺蔵王堂にて 金峯山寺宗務総長:田中利典師とともに
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黒門:黒門は金峯山寺の総門で、いうなれば吉野一山の総門でもあります。こういう様式の門を高麗門といい、城郭によく用いられています。昔は公家大名といえども、この門からは槍を伏せ、馬をおりて通行したという格式を誇っていました。ちなみに金峯山というのは、吉野山から大峯山に至る峰続きを指し、修験道関係の寺院塔頭が軒をつらねていました。それらの僧門がこの黒門だったのです。現在の黒門は、昭和60年秋、金峯山寺本堂蔵王道の大屋根修理にあわせて改築されたものです
手に手に買い物をぶらさげて、黒門をくぐる。
朱塗りの箸がかかっていた。
呼び戻されて、記念写真を頼まれる。
帰路に奈良の「柿の葉鮨本舗」に寄り買い物:平日のこととて、店の準備不足、80名がどっと押し寄せると処置なし。工場からできあがった鮨を少しずつ運んできては、てんてこ舞いで、箱に詰め包装していく。待たされて駐車場のコ-ス変更で得られた一時間の貯金もなくなりさらに時間延長。
私は早々に諦めて結局土産なしで帰った。(カメラ係は、予備のカメラ、交換レンズ、三脚、パンフレットなど抱え、ウエストポ-チがあっても落としてばかり、一行の前後に走り回って取材、時には頼まれてシャッタ-を切る役目も、店屋さんを覗く買い物時間もなく、もし買っても荷物を持つ余裕など全くなし)
最終回までおつきあい有り難うございました。HPに編集しました。
http://www.ayaco.net/bunka/kensyu/yosino2/yosino.html
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蔵王堂境内、ここから仁王門に降っていく。

仁王門(国宝)
 現在の建物は康正二年(1456)の室町期の再建で、蔵王堂山上に向かい南面し、この仁王門は北面している。吉野熊野修験道には本山派(天台宗聖護院)・当山派(真言宗三宝院)の二派があり、その入峰順路が、本山派は熊野から吉野へ北へ進む「順峰」、当山派は吉野川六田の渡しから熊野へと「逆峰」をとるため、蔵王堂を挟んで南北に相対した門を必要とし、南の二天門に対する北門である。
銅の鳥居(かねのとりい)(国重文)
安芸の宮島の「朱塗りの鳥居」、大阪四天王寺の「石の鳥居」とともに日本三大鳥居の一つである。「発心門(ほっしんもん)」の扁額は空海・弘法大師の筆と伝えられる金峯山入峰の第一門である
七曲り下の千本
店屋さんの並ぶ通りをぶらぶらと下っていく。
最初の計画では、銅の鳥居から再び坂道を上がり、昼食をとった竹林院まで戻る大変な苦労コースだったが、現地ガイドさんの説明で、この下の千本までバス道が付き、駐車場も出来たとの事で、大幅な時間短縮(一時間)と楽をすることが出来た。
下り坂、お店屋さんで買い物をしながら歩く。
役行者・修験道と金剛蔵王権現
 役行者は七・八世紀の山岳修行者で、修験道の開祖。伝説では生まれは奈良県御所市芽原の吉祥(きっしょう)草寺(そうじ)(山田哲寛住職)に舒明天皇六年(634~701)にお生まれになったと云われ、檀家がなく、荒れるがままであった本堂を六百年ぶりに平成21年の役行者生誕1375年までに建て直そうと云うものである。
 役行者は葛城山で修行。金峯山上で千日の修行に入り、汚濁に満ちた世の中に衆生救済の道を求めて仏の出現を祈っていたところ、修験道の本尊・金剛蔵王権現を祈り出されて大峯山などに霊場を開かれた。又、その姿を山桜に刻まれた。それ以来、人々は桜を権現様のご神木として大切にし、昔は「一枝を伐るものは一指を切る」という厳しい掟があった諭旨。又多くの人々が桜木を寄贈して今日に至ります。
蔵王堂参拝、祭殿に上がり日本最大秘仏、国宝・金剛蔵王権現像の特別ご開帳を拝観しながら、金峯山寺宗務総長:田中利典師の法話を聞き、さらに蔵王権現本地堂に移って、蔵王権現の本地仏:釈迦・千手観音・弥勒の三尊を前にして田中利典師から法話を聞く。
蔵王権現堂の側面
お堂
吉野稲荷大明神
稲荷神社が境内に三社もあった。
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金峯山寺(きんぷせんじ)(金峯山修験本宗総本山・世界文化遺産登録)と金剛蔵王権現:吉野山から山上ヶ岳(大峯山)に至る金峯山は万葉の昔から聖地として知られ、多くの修行者や貴族が足跡を印している。 
 白鳳年間(七世紀末)修験道の開祖・役行者がこの金峯山を道場として修行され、蔵王権現を感得し、その姿を桜の木で刻み、お堂を建ててお祀りした。これが蔵王堂であり金峯山寺の草建である。
蔵王堂(国宝)は金峯山寺の本堂で現在の建物は天正二十(1592)年に建てられたもので高さ34メートルは東大寺に次ぐ巨大なお堂である。前には「四本桜」があり、元弘三年二月三日(1333)に大塔宮護良親王が北条勢に攻められ吉野落城を覚悟して最後の酒宴をされた所です。又、内陣に入り、四年に一回の密教儀式「伝法潅頂上(でんぽうかんじょうえ)」以外に私達の目に触れることの出来ない三体の秘仏・金剛蔵王権現を特別拝観します。
 金剛蔵王権現の右手にある三鈷杵(さんこしょ)は天魔を砕く相で、左手の刀印は一切の情欲や煩悩を断ち切る剣。左足で地下の悪魔を押さえ、右足で天地間の悪魔を払う姿を現されている。さらに、背後の火炎は偉大な智慧、御身の青黒色は深い慈悲を現している。まさに大自然の霊威そのものの発現とも思われる金剛蔵王権現は、神であり、仏として神仏混淆を旨とする修験道のご本尊として祀られています。三体の総高は釈迦如来(中央)7.3メートル、弥勒菩薩(向かって左)は5.9メートル、千手観音世音菩薩(右)は6.1メートル。国の重要文化財で日本最大の秘仏です。釈迦如来、千手観世音菩薩、弥勒菩薩を本来の姿とする変化身です。三尊はそれぞれ過去、現在、未来を現し、三世にわたって私たちを守って下さる守護仏でもあります。心静かに拝めば、すべてを認め一切を許す「恕の心」を感じとることが出来ましょう。
文:綾部の文化財を守る会会報より、写真:パンフレットより(堂内撮影禁止です)
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後醍醐天皇御製
花にねて よしや吉野の吉永の 枕の下に石走る音
一寸沿道の店屋に寄り道して買い物
紀伊山地の霊場と参詣道
世界遺産金峯山寺 The World Heritage KinpuSenji temple
世界遺産奉賛
秘仏金剛蔵王大権現 特別御開帳 h16.7.1-17.6.30 総本山金峯山寺
後醍醐天皇導稲荷大明神
久富大明神
後醍醐天皇玉座:
後醍醐天皇南朝の皇居
延元元年(1336)京の花山院より免れた後醍醐天皇が吉野に御潜幸になり、吉水院宗信の援護のもとに当社を南朝の行宮と定められたのである。
かくて天皇が当社に第一足を記されてより、かの悲壮な吉野朝四代、五十七年に渡る血涙の歴史の第一頁が開かれ、ここに南北朝の対立が始まったのである。天皇はこうしたへき遠の地に憂悶の数年を過されたが、遂に病を得て悲憤の最後を遂げられたのである。
即ち当社はその南朝の御本家に当たり現在吉野朝、唯一の行宮である。

花にねて よしや吉野の吉永の 枕の下に石走る音
この有名な御製は今も尚、玉座の下に流れ続ける宗々とした瀬古川のせせらぎを聞かれて歌われた御心中、むせぶが如く泣くが如く今に琴線にふれるものがある。現存されている当時の玉座並びに数々の御物を拝観する時、そこに神秘的な南朝の哀史が人々の心に想い起され哀感の言、禁じ得ないであろう。
日本三大秘佛:灰佛弁財天、弘法大師作
役行者:当社は元吉水院と称し、今から凡そ千三百年前、白鳳年間に役行道の創立と伝えるきわめて古い吉野修験宗の僧坊であった。そして明治の初めまで永年の間幾多の歴史を秘めて修験道の勢力と共に発展して来たが、明治維新の神仏分離の際(明治八年)神社と改ったものである。
豊太閤豪華花見の本陣
 文禄二年(1594)豊太閤が当社を本陣として盛大なる花見の宴を催し、数日間滞在されて歌の会、お茶の会、お能の会を間いて豪遊され、満天下にその権勢を示しだのは有名である。
 年月を 心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな
一世の英雄が、おのが春を謳歌したもので秀吉の豪快なる一面が現われている。
当時の状況は、現存する建物並びに数々の寄贈物を見る時、南朝の哀史ときわめて対照的で絢爛たる文化が偲ばれ感慨無量なものがある。
桜の図:桃山時代前期、狩野永徳筆(有名な桃山百双の作者)
吉水神社秘蔵品、特別展示
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義経潜居の間:源の義経、静御前、悲恋の古跡
 文治元年(1185)源義経は兄頼朝の追手を逃れて、静御前、弁慶等と共に吉野に潜入され、当社にしばらく亡命されたのであるが、それも束の聞、追われる者の運命で、ここから悄然として吉野落をされ、奥州へ落延びたのである。

吉野山 峯の白雪踏み分けて 入にし人の跡ぞ恋しき
と歌われたように、当社がいわゆるその天下に名高い義経と静の大ロマンスの舞台である。悲運に生きた一代の英雄と佳人との雪路の別れを今に追想するとき、いかに詩的情景であったであろうか、その余りにも美しい悲恋物語は、永く後世に伝えられ愛惜されている。今尚保存されている「義経潜居の間」「弁慶思案の間」並びに数々の遺物を見聞きするに際し、愛妾一人を残して去った義経の胸の内と、夫を一途に慕った静御前の心情とが察せられ一人哀愁が胸を去来するであろう。
源義経公の鎧
静御前の着衣
書院(重要文化財)
この神社が有名になったのは、その由緒もさることながら、実は現存する書院が日本住宅建築史上、最古の位置をしめているからである。すなわち我が国書院建築史の第一頁に位する本格式の住宅建築で、現在日本住宅の源流をなす最古の実例として、数々の珍しい手法が見られる初期書院造の代表的傑作である。又、内容的に見ても「義経潜居の間」は室町初期の改築で、床棚書院の初期の様式を伝える、きわめて古風な遺構であり「後醍醐天皇玉座」は、後年秀吉が花見に際し修理したもので、豪華な桃山時代の風格を残した書院でこれらの特長が比較出来て真に興味深いものがある。
「写真はいくら撮ってもらっても結構です。但し、兜や静御前様の衣装等は持って帰らないで下さい。一度、もって帰られたがありましtが、古道具屋でも引きとってもらえず手元に帰って来たことがあります。」などと面白くご説明頂いたのは源義経の忠臣・佐藤忠信ではない宮司の佐藤素心(さとうそしん)様でした。四方續夫氏記
弁慶の七つ道具:武装槍
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吉水神社庭園
庭園と北閣門。門の外は遠くまで展望できる。
縁側からの庭の眺め
吉野建(よしのだて)
吉野山は、馬の背のような尾根の上に開けた所のため、道の両側の家屋は、表から見るとどれも平屋か二階建てであるが、家の裏は急な崖のため、家屋は下方へ二階、三階となっています。これが吉野建て(吉野造)と呼ばれています。
神社内から身を乗り出して下を写した。
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