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なべちゃんの散歩道
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ジャンル: 文化財を訪ねて
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2005/06/09のBlog
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吉水(よしみず)神社
(今回世界遺産登録の奈良県の六社寺の一つで国重文の書院等多くの文化財がある。御祭神 第九十六代後醍醐天皇・楠正成公・吉水院宗信公)又、別格本山で大峰山寺五護持院の一つである東南院(修験本宗)の前に吉水神社の鳥居がある。 
 これをくぐって坂道を下ると「従(これ)是(より)吉水院」の標石があり、石段上に山門がある。標石の通り明治の神仏分離の際(明治八年)までは吉水院と云う寺であり、白鳳年間(凡そ千三百年前)役行者が大峰山で修行したとき、庵室の跡に建立したのが始まりと伝える古い吉野修験宗の僧坊であった。
 延元元年(1336)京より免れた後醍醐天皇は吉水院宗信の援護のもとに当社を南朝の行宮と定められた。かくて天皇が当社に第一歩を記されてよりかの悲壮な吉野朝四代五十七年に渡る血涙の歴史の第一頁が開かれここに南北朝の対立が始まったのである。天皇はこうしたへき遠の地に憂悶数年を過ごされ、悲憤の最後を遂げられたのである。即ち当社はその南朝の御本家に当たり現在吉野朝、唯一の行宮である。
 この神社が有名になったのは、その由緒もさることながら現存する書院(国重文)が日本住宅建築史上最古の位置をしめているからである。即ち我が国書院建築史の第一頁に位する本格式の住宅建築で現在日本住宅の源流をなす最古の実例として数々の珍しい手法が見られる初期書院造の代表的傑作である。「義経潜居の間」は室町初期の改築で床棚書院の初期の様式を伝えるきわめて古風な遺構であり「後醍醐天皇玉座」は後年秀吉が花見に際し修理したもので豪華な桃山時代の風格を残した書院でこれら両期時代の特長が比較でき真に興味深いものがある。
 花にねて よしや吉野の吉水の 枕の下に 石走る音
 この書院の下を今も流れ続ける瀬古川を歌われた後醍醐天皇。
 文禄三年(一五九四)豊太閤が当社を本陣として盛大なる花見の宴を催し数日滞在されて歌の会、お茶の会、お能の会を開いて豪遊された時の歌。
 年月を 心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな
 所蔵の文化財は頗る多く、百二十数点にもなる南朝の資料は日本一である。
 境内には中千本・上千本一帯が展望できる「見わたしの いとよき所」、「桃山時代の小庭園」、「義経駒つなぎ松跡」、「義経馬蹄跡」、「弁慶力釘」などもある。
吉水神社拝殿前
当社は元吉水院と称し、今から凡そ千三百年前、白鳳年間に役行道の創立と伝えるきわめて古い吉野修験宗の僧坊であった。そして明治の初めまで永年の間幾多の歴史を秘めて修験道の勢力と共に発展して来たが、明治維新の神仏分離の際(明治八年)神社と改ったものである。

拝殿で参拝する会員。
祭壇
非理法権天、楠正成公、吉本院宗信法印の表札がかかっている。
元より当社は南朝の元宮であり、ここに後醍醐天皇を祭神とし、当時天皇の忠臣であった楠正成、吉本院宗信法印を合祀している。
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吉水神社に向かう道中に薬問屋があった。
これぞ、山中間の皆さんがよく効くと絶賛の「陀羅尼助丸(たらにすけ)」、胃腸薬ですごく苦いよし。年配の方ならよく知っておられるようである。その母に育てられし子供もまた。家庭の常備薬だった。
早速、大蝦蟇(ガマ蛙)を前に買い物をする会員に応対中の店の人。
吉水神社の山門に到着。
南朝本拠、四帝御座所、吉水神社と門標にある。
上・中 一目千本よりの展望
見わたしの いとよき所(一目千本)
境内には、中千本・上千本一帯が展望できる、「見わたしの いとよき所」があり、ここに立って、谷から吹き上げる風を頬に感じる時、ふと義経・静御前の悲しき別れや南朝の哀史が聞こえてきそうな気のする詩情豊かな広場があります。又「桃山時代の小庭園」もあり、遺跡として、「義経駒つなぎ松跡」「義経馬蹄跡」や「弁慶力釘」かある。
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綾部の文化財を守る会の研修旅行レポート、いろいろあり整理が遅れ、このブログもあっち飛んだりで申し訳ありません。上記の「関連したブログ」で脈絡をたどってください。

桜本坊(さくらもとぼう)
 竹林院のすぐ前に「桜本坊」がある。大海皇子が、天智10年(671)京都からのがれ、吉野の「桜本坊」の前身・日雄(ひのお)離宮にとどまっていた時、夢で咲き誇る桜を見、役小角の高弟日雄角乗に占わせると「桜の花は花の王といわれる。これは皇子が必ず皇位につく知らせである」と答えた。皇位についた天武天皇は角乗に命じて一寺を建立した。これが「桜本坊」である。境内には「天武天皇夢見の桜」と名づけた桜木や、樹齢三百五十年を経たギンモクセイの巨木がある。この桜本坊には白鳳期の銅造釈迦如来像(国重文)など多くの重要文化財を保存されている。
下り坂を歩く会員
勝手神社(かってじんじゃ)平成13年9月27日に不審火で焼失。
 吉野山口神社ともいわれ、金峰山の山の神、水源を養う雨の神、又は軍神として名高い。現社殿は慶長九(1604)年豊臣秀頼が改築したが、二度ほど火災にあっているが、静御前が捕らえられ心ならずも法楽の舞を舞わされ、そして鎌倉へ送られた事で有名。鎌倉では頼朝の前で「吉野山峰の白雪ふみわけて入りにし人のあとぞこひしき」と舞って、義経をしたい、一座の関東荒武者を感動させたという。(綾部の文化財会報より)
義経公静御前舞塚
勝手神社(かってじんじゃ)
吉野八社明神のひとつで、金峯山の入口にあるので、山口神社ともいいます。
文治元年(1185)暮れ、源義経と雪の吉野山で涙ながらに別れた静御前は、従者の雑色男に金銀を奪われ、山中をさ迷っているところを追手に捕らわれて、この社殿の前で雅た姿で法楽の舞をまい、居並ぶ荒法師たちを感嘆させたという話が伝えられています。
この神社の祭神は、大山祇神、木花咲耶姫命ほか三神で、社殿は豊富秀頼が慶長9年(1604)に改修したのが、正保元年(1644)12月に焼失したので、翌2年に再建され、さらに明和4年(1767)にまたもや焼失しました。現在の建物は、この後の再建になるものです。
社殿の後ろの山を袖振り山といって、天智天皇の10年(672)大友皇子に対抗して、吉野(今の宮滝か)に兵を挙げた大海皇子(天武天皇)が、この神前で琴をかなでていると、天女が後ろの山から袖をひるがえして舞ながら現れ、吉兆を示しました。この故事が五節の舞の起こりだといわれ、芸ごとに深いかかわりを持つ神様とされ、かっては猿楽や能が盛んに奏納されました。吉野町観光課
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吉野竹林院の本玄関ロビ-に展示の、豊臣秀吉、吉野観桜時の茶弁当(伝/千利休)
ここで一行80名が昼食をいただく。
大広間を借り切っての昼食風景
なかなか美味しいご馳走を昼食にいただき満腹。
屋根上に煙出しの乗った竹林院
群芳園、池泉回遊コース
池の左手を山に登っていく
丘の上に建つお堂、ここからの展望が素晴らしい。
谷向こうの展望、塔がいくつも見える。200mm(35mm換算320mm)望遠で撮影。
全ての写真は、クリックすると拡大します。
降り道から見た竹林院護摩堂の屋根
大和三庭園の一 群芳園
当麻寺中の坊大和小泉慈光院とともに、竹林院の庭を群芳園といいます。室町時代の末ごろ、竹林院第21代の住職、祐尊という人が大峯山にも竹林院を建て、また大峯山の様子を下院に移して庭園を築造しました。(竹林院雑記)その後豊太閤の吉野山観桜、文禄3年(1595)に際して、千利休がそれまであったものに手を加え、いま見られるような桃山風の庭園に改築したものですが、一説には細川幽斎が改築したものとも云われています。
庭は320坪(約1000平方米)ほどあって、池泉回遊式の形をとり、入った手前にも出島があり、左の角に滝がつくられています。奥庭のうち、蓬莱石組みが中心になっているのは、桃山時代の作風を示し、二重集団、二重護岸の石組みなどは、室町時代の遺構をそのまま残しています。形式上は、池泉回遊式となっていますが、吉野山の自然の景観も取り入れられて、借景式庭園としても見る人を楽しませてくれます。
群芳園から竹林院を見る。
群芳園から竹林院を見る。
天人の桜
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竹林院群芳園までバスが入り下車。竹林院は、もと椿山寺と称し、聖徳太子建立の一寺と伝えられており、古来より山伏修験者の宿坊として利用され、太閤秀吉の遺品も多く、西行法師、細川幽齋等の多くの文人、墨客、一般旅行者の宿として今日に至っています。昭和56年には昭和天皇皇后両陛下も宿泊された宿であり、現在は修験宗の単立寺院である。
竹林院群芳園
 この竹林院には大和三庭園の一つにて群芳園と呼ばれ、室町末期第21代尊祐が大峰山上に竹林院を建立したとき、大峰山の景観を山下の竹林院に移して庭園を築造したのに始まり、豊臣秀吉の吉野観桜の折り、千利休が桃山風に修築、細川幽齋が改修したといわれる、桃山風の地泉回遊式借景の名園がある。会報「綾部の文化財」より
竹林院
竹林院入り口の庭園
竹林院護摩堂
楠公父子の石像
太平記で有名な楠木公父子(正成、正行)の櫻井の別れの石像
正成涙をうち払い わが子正行呼び寄せて 父は兵庫におもむかん 彼方の浦にて討死せん 汝はここ迄来つれども とくとく帰れ故郷へ
楠木父子の石像を前にガイドさんから説明を聞く。
辯内侍の至情塚を前にガイドさんの説明を聞く、綾部の文化財を守る会会員
後醍醐天皇陵の石段を降りる。
道路に出てバスの到着を待つ会員
如意輪寺宝物殿の中をバスの号車毎に分かれて拝観する80名の会員。
展示された宝物を現地ガイドさんの説明を聞きながら拝観。
高いところにも楠木正行公の絵画が掲げられている。
天井画(ねおがみの観音)の下には、寝椅子がおかれ寝て拝観できる。
如意輪寺宝物殿
中千本から長い石段を上がった方の本堂正面の山門。車道から下れるようになって楽になった。
如意輪寺庫裏
小楠公髷塚の碑
正行公および143名が出陣に先立ち如意輪堂に奉納した髷を埋めた処。
弁内侍の至情塚
後村上天皇より正行公の奥方にとお言葉があった弁内侍だが、「とても世に 永らうべくもあらう身の 仮のちぎりを いかで結ばん」と断った正行公は果たして討ち死にを遂げた。内侍は悲しみの余り髪を切り尼となって正行公の菩提を弔う。
その時の歌に「大君に 仕えまつるも 今日よりは 心にそむる 墨染めの袖」とあり、その黒髪の一部を埋めたのが、この至情塚だと云われている。
幽香楼
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