ニックネーム:   パスワード:
| MyDoblogトップ | Doblogポータル | Doblogガイド | 使い方 | よくある質問 | ツールバー | サポート |
なべちゃんの散歩道
Blog
[ 総Blog数:4052件 ] [ このMyDoblogをブックマークする ] [ RSS0.91   RSS1.0   RSS2.0 ] [ ATOM ]
ジャンル:丹(に)の国・綾部
Blog数:97件
1~10件を表示   1  2  3  4  5  6  7  8  9  10   >   >>
2006/03/12のBlog
[ 12:55 ] [ 丹(に)の国・綾部 ]
丹の国・綾部 目次
連番でご覧になるには、このまま、もしくはカテゴリ-丹の国・綾部:ここをクリックが便利です。
下記のリンクは1ペ-ジ目につながりますが、「全体ブログ」ペ-ジなので、間に種々の記事が挟まります。
冊子「丹の国・綾部」
 フォトグラフィ イン あやべ1~16
 ふるさとへの回帰とその未来
 プロロ-グ 燃えよ丹の国
 第 一 話 国津神のふるさと1  
 第 二 話 民話 杵の宮 伝説
 第 三 話 足利尊氏とその周辺1~4
 第 四 話 九鬼氏と綾部の人々1~9 
 第 五 話 民衆の宗教・大本1~16
 第 六 話 蚕都をきづいた人々1~3
 別 話 未来都市の論理「ふるさと」0~9
 エピロ-グ 終わりなき終わりに
 別冊 未来への対話
 新しい生活圏の創造をめざして
 対話のはじめに
 対話1 農業について
 対話2 工業について
 対話3 商業について
 対話4 観光について 
 対話5 住宅について
 対話6 福祉について
 対話7 交通について
 別 話 宗教都市として1~24
 終わりの対話
芸術の郷(さと)7 -和歌・冠句・能・茶道など伝統と創造の文化-
 工房とならんで丹波文化研究所を建設(を予定し)研究と同時に現地調査を重視し、指導と美術館が併置される予定である。これまで意図的に歴史の上から閑却され、地下に埋蔵されている丹波の文化を発掘して、日本文化の源流を探り、日本の歴史(的面に貢献しよ(を正そ))うとする試みである。この中で(古代)大和と出雲の問題が(当然)解明されるだろう。
 また大本では、素戔嗚尊の「八雲立つ出雲八重垣妻こめに八重垣作るその八重垣を」にはじまる和歌や、大衆文芸としての冠句、伝統芸能としての茶道などが民族文化として尊重され、芸道として磨かれ広められてゆく。
 そこには小さくても伝統と創造の文化が民衆の生活に定着した芸術の郷がひらかれる。神の都は、平和と芸術の郷、民衆の生活するまちとして、綾部の繁栄を築く推進力となることだろう。
 綾部の前には、日本海を挟んでアジア、ヨ-ロッパ、アフリカ大陸が扇状にひろがる。ふりかえれば太平洋を越えてアメリカがある。地球一家族の時代といわれる今日、日本海は、綾部にとって内庭にしかすぎない。
 綾部に植え込まれた神のしぐみのタネと、人々の努力はやがて開花して世界に実をむすぶことであろう。最近の過疎現象をいたずらに嘆くことをやめ、綾部に残された豊かな自然と、汚れなき人の心に誇りを持って、雄大な未来の夢を描き、着実に実現に移していくべきではないか
芸術の郷(さと)6 -美の源泉を探る
 そして「美の理想を実現するにはまず美の源泉(神)を探らねばならぬ。その源泉に到着し、之と共に活き、之と共に働くのでなければ実現するものではない。しかしてその実現たるや、現代人のいわゆる芸術のごとく、形態の上に現わるる一時的の悦楽に非ず、内面的にその人格の上に、その生活の上に活現せなくてはならないのである。真の芸術なるものは生命あり、活用あり、永遠無窮の悦楽あるものでなければならぬ」とし、
 「活ける温かき己の霊性を材料として、神の御姿を吾が霊魂中に認めんとする真の芸術家とならねばならぬ」と主張して、これまでの芸術を批判し、価値の転換を求めている。
 この理想に基づいて、綾部には「鶴山窯」が築かれ、「つる山おり工房」が開かれている。かって出口すみ子は「ゆくゆくは世界一の大きな工場にしたい。強いあせない、ためのいいものをつくって皆様によろこんでいただきたいのが私の願い」とその抱負を語っていたが、この夢を綾部に実現するのが「私の願」にむくゆる道である。
芸術の郷(さと)5 -八雲琴-
 大本の祭典に清明幽玄な趣を添えているものに八雲琴がある。八雲琴は、愛媛県宇摩郡天満村の兵法家であり医師であった中山琴主が文政3年10月に出雲の天日隅宮にこもり「夜もすがら天の沼琴の古を偲びつつ秘琴をかなで神に祈っていたが、夜半八雲山の神風が木々にふれ、竹にそよいで妙なる調べがおこり、聴き入るほどに、その音律の絶妙なるにうたれ、神の御託とおぼえて、宇迦の神山の大竹を伐り琴を作り、天地陰陽に比して二弦をすげ、八雲立つ出雲八重垣の歌に撥合せた」のが、その始まりとされる。
 大本では明治42年(1909)に綾部にはじめて神殿が完成したときから、祭典の奏楽として用いられた。それ以来祭典の奏楽には欠くことのできないものとして、奏楽の普及、人材の育成が続けられており、日本の文化財の一つとして今後の発展が期待される。
 今日世上では、高度の価値を持つ文化財や特定の芸術家がもてはやされる傾向にある。だが日本の文化は古くから外来文化の成果を取り入れつつ、日本の民衆が生活の場で、(文化的に生活感情を交え)つくりだし、受け継いできたものである。
 その民衆性と生活性、芸術的に磨かれた美と生活に役立つ用を合わせたところに価値がある。土と火と人とが一体となって造り出される美と用にこそ生きた芸術と文化がある。大本の芸術がそこに根をおき、とくに綾部で陶芸機織がさかんなのはそのためである。
 王仁三郎は「芸術と宗教とは、兄弟姉妹の如く親子の如く、夫婦の如きもので、二つながら人心の至情に根底を固め、共に霊最深の要求を充しつつ、人をして神の温懐に立ち遷らしむる人生の大導師である」とその大衆性を強調して、真の芸術と真の宗教の一致を説く。
芸術の郷(さと)4 -丹波の土壌に育まれた機織りの伝統-
 新発足後いちはやく二代教主によって機織は綾部に再建され、その手法は三代教主・出口直日、(出口直美)へと受け継がれ、手びきの糸、草木染、手織の伝統のうえに近代的創意を加え、新たな作品が生み出されている。
 綾部はもと漢部(あやべ)といい、機織りのさととして歴史が古く、大本に機織が盛んなのは偶然ではない。一時綾羽取、呉羽取が本宮山にきて機を織ったという言い伝えもあるくらいで、丹波の土壌に育まれた機織りの伝統が脈々と生きている。
 とりわけ大本では「機のしぐみ」として意義づけされる。筆先に「機織の初り綾部が元ぞよ。神戸村(今の本宮神宮村)が錦の元ぞよ。この大本は錦の機の経綸であるぞよ」とおしえ、「出口(なお)上田(王仁三郎)は経緯(たてよこ)じゃ。機にたとえて仕組みてある」「破れカミシモを解いてすつくり緯糸に織りてツクネ直のかたをしてみせたぞよ。」「上下揃うて元の昔にかえす」などと示されている。
 また出口すみ子が「天地和合の世界平和のハタ織り」とも説いているように、(「お仕組」としての)神業と、尚又工芸の両面から独創的な(宗教的意味をもつ)機が日々織りなされている。
芸術の郷(さと)3 -つるやま織草木染-
 大本の機織(はた)は開祖、出口なおに始まる。開祖は織物まではされなかったが、糸ひきはたいへん上手で、開祖のひかれた糸は光沢があり、普通の人のひいた糸とは違っていたと今に語り継がれている。
 その機織の元を受け継いで立派な織物とし、今日の「つるやま織草木染」を完成したのは、二代教主・出口すみ子であった。すみ子は「私は寝てもさめてもハタのことばかりや。クダにかけてる指先から私の魂が皆糸に吸いこまれてゆくような気がする」と語り、「夜も昼もわが魂は鶴山の織りゆく錦のなかにすむなり」と詠じているが、その一生はまさに「機織姫」であった。
 糸くずを丹念にほどき、水に濡らして梳きにかけ、乾かしてつなぎ工夫して緯(よこ)糸に織り込まれ、つづれ織りとされていたのが特徴で、昭和10年には、苦心の末発明された鉱泉染は「つるやま織」の声価を今日に高めたといえる。
 草木で染めた糸を神苑内の金竜海畔に山から湧き出る鉱泉に浸すと、自然の色は落ち着いた微妙な美しさに変化し、色あせない特徴を持つ。梅、松、杉、桃、紅梅、榎、せんぶり、椋、桑、笹、南天などの皮、葉、実などをはじめ、野菜や花などを採集し、乾燥させ、臼でついて染料とし、糸染めして鉱泉につける。
 蘇枋(すおう)で下染めした赤色は紫色に、くちなしの黄色はうす緑色に、番茶の茶色はねずみ色といった風に変化し、色あせしない。思わぬ色に変化(へんげ)で染め上がるのを待つ心は、茶?の窯出しのときと同様に生みの苦しみと楽しみが交錯して複雑である。
 昭和10年には、屑糸紬織りの経糸と緯糸の力の平均した美事な織物が苦心の末完成され、本宮山の上では50台ちかくの手機織(てばた)が、山麓の神光館では動力織機がフルに回転し、この地方で130軒にもおよぶ一般家庭で内職に携わっていた。だが惜しくも弾圧のため壊滅し、織機や製品まで一切売却された。
芸術の郷(さと)2 -つるやま窯-
 その後やきものは、時代の影響を受け様々の変遷、推移を経て今日を迎え、世界的水準を誇るに至ったが、その根底には先人たちの優れた技法の開発、工夫とその継承があったことは先述のとおりだが、さらに、作陶に最も必要な土や釉薬の主な原料となる植物などの種類が豊富で、窯をたく火の原料となる樹木が手近なところに繁茂して事欠かなかった自然の恩恵、また紋様や図柄に大きな影響を及ぼした風物や天然の美などに恵まれたことも忘れることは出来ない。
 こうした伝統と風土の中にあって、もともと丹波の陶歴は古く、(立杭焼きは)六古窯の一つに数えられる。山深くに住んだ陶人たちは、素朴な祈りの中に暮らしの焼き物をつくりだし、その作品には、伝統の深さとふるさとの土の香り、人間的な味わいが滲んでいる。
 昭和36年(1961)、本宮山麓に、つるやま窯がもうけられたが、その窯は、庶民が生んだ素朴で(古)古く豊かな造型の伝統、より直接的には丹波のそれを受け継いで生まれたのである。
 子供の土いじりから話しを始め、縄文の昔にさかのぼったのは、そのことに触れたかったからである。ところで大本の陶歴は、大正の末年頃からで、出口王仁三郎にはじまる。
 当初は亀岡に窯を築き、昭和10年までに約5000個の楽焼、大本事件後の2年間で約3000個の楽焼が王仁三郎の手で製作された。
 今日「耀碗」「明日の茶碗」として世に評価されるに至ったが、事件前の作品の多くは惜しくも弾圧でこわされた。この受難の歳月を踏み越えて「ぐれん」の炎は再び綾部の地に燃え立ったのである。
2006/03/11のBlog
芸術の郷(さと)1 -土の造形芸術-
 幼い頃、土いじりして、顔から着物まで泥だらけになって遊びほうけ、お母さんに叱られた懐かしい思い出を誰もが持っている。人間には肌でじかに土に触れたいという強い本能的な欲求があるからだろう。
 「主なる神は土のちりで人を造り命の息をその鼻に吹き入れられた」と創世記に述べてあるが、神様でさえ土いじりして人間をこしらえたのだから、子供が泥んこで土いじりに夢中になるのはやむを得ない。
 ところで、神の土いじりからできた秀作品が人間だが、人間が土をいじって物する傑作は何だろう。それは火の精、土の芸術である陶芸だと思う。それは土と水という根源的な原材料に火と人の力が加わって造り出されるものである
 この土の造形芸術は、わが国では数千年前の縄文時代にさかのぼることが出来るが、どの国よりも早くから盛んに数多くの優れた壺などがつくられた。そしてそれらの土器は、縄文文化の担い手ともいえる美意識において敏感ですぐれた女性たちの生活経験をとおして発明され、いろいろな技法が工夫されたものに違いない。これらの土器によって原始の生活が豊かに彩られたことであろう。
 日本のこの時代における縄文土器は芸術的評価の点で、また技術的な面から見ても優れたものである。まったく自由奔放で、見ていて楽しく作った人たちの歓びの声が聞こえてくるかとさえ思われる。
 今日、日本の陶芸は世界的に注目されるに至ったが、それは造形美と共に独自の豊かな芸術性が民族性の違いを越えて、強く世界の人々の心をうつからであり、その源泉が実に数千年昔の縄文文化を担った人々の手にあったことを見逃すことは出来ない。
 縄文文化についで稲作栽培が大陸半島を経て入ってきたが、このことは社会に大きな変化をもたらし、土器の面でも著しい進歩を与えた。
 古墳時代には、丸底の壺や甕などの実用品である「はじ」のうつわが焼かれたが、一方大陸の製陶技術が入り陶質の「すえ」のうつわが丘陵の傾斜を利用して縦穴を堀り、簡単な天井をつくって焼かれた。
 それまでのより硬質で耐久力があり、食膳用、保存用、携行用など用途も広く、形も大小さまざまで種類も増え、人々の生活を一段と豊かにした。のびのびとした思い思いの作品は、今見ても面白い。
平和のとりで2 -大戦の犠牲者を偲び世界恒久平和を祈念して(なべちゃん)-
 開教以来の一貫したこの反戦平和の主張は、弾圧、敗戦という大峠をこえた直後の昭和20年12月、鳥取市吉岡における王仁三郎の談話にうけつがれ、より具体的に示されている。
 「いま日本は軍備はすっかりなくなったが、これは世界平和の先駆者として尊い使命がふくまれている。本当の世界平和は、全世界の軍備が撤廃したときはじめて実現され、いまその時代が近づきつつある」と。
 そしてこの中で「民主主義でも神に変わりがあるわけはない。ただ本当の存在を忘れ、自分の都合のよい神社を偶像化し、これを国民に無理に崇拝させたことが日本を誤らせた。ことに日本の官国幣社の祭神が神様でなく、唯の人間を祀つていることが間違いの根本だった」と指摘した発言が注目される。
 昭和27年(1952)に人類愛善会は再発足した。そして、昭和29年4月ビキニの水爆実験に抗議し、全国に先駆けて立ち上がり、2百万余の署名を獲得して内外の首脳や国連に原水爆の禁止を訴えた。
 原水爆禁止大会や平和行進には率先して参加し、世界連邦アジア会議宗教世界会議をみろく殿で開催した。
 平和のための宗教協力や世界連邦運動を積極的に推進し、市民一体となって綾部に日本で初めての世界連邦平和都市宣言を実現したことは記憶に新しい。
 昭和35年(1960)新安保条約の批准によって平和運動は新しい事態に当面した。平和と民主主義の大黒柱である平和憲法を守る戦いが始まったのである。
 人類愛善会は平和を願う多くの大衆と協力し、「平和憲法の精神を生かし世界軍備の全廃を求める」運動を全国で展開した。
 真剣に祈り果敢に実践する宗教者としての行動は、宗教界に共鳴を呼び、やがて宗教者平和会議が組織されてゆく。
 この輝かしい実績はまた明日への実践につながる。平和への祈り平和へのたたかい、それは2回にわたる権力の弾圧に耐えて平和を勝ち取ってきた大本、その大本を支えてきた綾部が歩み行くべき道でもある。
 目を上げれば白雲が流れゆくかなた、美しい松と桜とつつじの緑に包まれてたつ、紫水ケ丘の平和の塔は、平和への決意を静かに語りかけている。民衆の都あやべは、平和のメッカとならねばならぬ
2006/03/10のBlog
平和のとりで1 -東京大空襲の犠牲者を悼んで(なべちゃん)-
 平和は全人類の願いである。綾部の未来像も平和あってこそはじめて実現される。だが現実は厳しい。今世紀(20世紀)になって二度も大戦を経験し、戦争の悲惨をなめさせられた人類は、今日なおその恐怖から逃れることができない。こんなばかげたことが許されてよいものだろうか。
 今こそ「国同志の人の殺し合いといふやうなこんなつまらん事はないぞよ。一人の人民でも神からは大事であるのに・・・こんな大きな天地の罪犯して、まだ人の国までとろうといたしておるのは向先(むこさき)の見えぬ悪魔の所作」として戦争を否定し、「世界の戦いは運不運(うんぶ)をきらいたもう天帝の大御心にかなわぬ」と厳しく戒められた神の言葉に耳を貸すべきである。
 そして戦争と軍備は「世界数多の地主や資本家のため」にあるもので、「軍備や戦争のために徴兵の義務を負わざるべからず、一つよりなき肉体を捨てて血の河、骨の山をつくらねばならざるなり、多くの税金を政府へ払わざるべからず」。
 つねに犠牲をしいられる民衆にとっては、何一つ益のない事実をよくよく噛みしめるべきである。
 政府や「死の商人」たちは、自己の野望を隠して、戦争と軍備を合理化するため「国を守る」ためという。果たして戦争と軍備が平和の番人となりうるだろうか。
 王仁三郎は、天が下のおだやかに治まる道は、国民が神を厚く信じて誠の道をまもり、その品行のうるわしきによると主張し、「風俗うるわしからず、国民の心一致せぬ時は、幾千万の兵ありとてすぐに破れほろぶものである。ゆえに兵士や戦道具では国は治まらぬ」と断言している。
1~10件を表示   1  2  3  4  5  6  7  8  9  10   >   >>