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なべちゃんの散歩道
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ジャンル:丹(に)の国・綾部
Blog数:97件
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2006/03/09のBlog
[ 17:25 ] [ 丹(に)の国・綾部 ]
まつりの宴(うたげ) 2
 旧七月6日から7日間は、神集祭がおこなわれる。「末代の規則を制定(きめる)場所は綾部の大本と末代きまりたのであるぞよ。天のミロクの大神様と地の国常立尊が天地の王で末代の規則を制定(きめる)ぞよ」と筆先にも示されているように、八百万(やほよろず)の神々が主神を中心に天で集会され、1年間の世界の経綸を決められるときとされ、この間本宮山の月山不二で毎夕祭典が行われる。これは世界の将来にかかわることである。
 これからはせめて各方面の代表参拝でも行われるよう、意義の周知徹底など適当な方策がたてられてゆく。
 春の大みまつりは「みろく大祭」、秋は大本開祖大祭として行われ、豊年祈願祭、新穀感謝祭があわせて厳修されている。
 また大本と綾部の産土神との関係を見落とすことはできない。旧綾部町には熊野神社、若宮八幡、八幡宮、二の宮、三の宮、笠原、斎の七社が(尊崇されている)あるが、明治36年旧5月24日(4月28日)に開祖みずから、弥仙山の岩戸開きの御礼参拝をされ、今日も信徒は、(秋祭りの宵宮には)多数揃って参拝がなされている。
 とくに熊野神社は、開教以来総産土神として崇敬され、王仁三郎は「太古に素戔嗚尊が出雲から出て来られた時に、本宮山の上に母神である伊邪那美尊さまをおまつりになりこれを熊野神社と名づけられた」と神話的に述べられている。
 夏祭りは、7月28日水無月祭りとして人々に親しまれているが、この夜由良川の闇を彩る万燈流しは、明治40年(1907)旧9月に竜宮様へ献燈するため大本で28燈を点じ、王仁三郎の手によって川に流されたのが始まりとされる。
 こうして産土神のお祭りを通して大本と綾部の一体化がふかまり、氏子である市民の生活や、綾部の繁栄が促されていく。
 まつりはもともと民衆のものであり、神迎え・神と人の交歓・神送りの素朴な神事に芸能が結びついて、民族文化の素型として受け継がれ、培われてきたものである。しかしいつの間にか、まつりは儀式化、職能化して民衆性を失い、一方では土着的な神々への信仰と生産への喜びが失われてただ伝習として無気力な形骸と堕して行く。分極化しつつあるまつりを再び民衆の手にかえし、民衆のエネルギ-を結集し、新しい時代への文化創造の担い手となさなければならぬ。 綾部の発展の糸口は、またそこから開けてゆくにちがいない。
[ 17:24 ] [ 丹(に)の国・綾部 ]
まつりの宴(うたげ) 1
 まことの神の住まいどころである綾部は、大本の発祥の地であり、祭祀の中心的地場である。毎年節分大祭(2月)、みろく大祭(4月)、神集祭(旧7月)、大本開祖大祭(11月)の大みまつりが行われ、月々には大神様、竜宮乙姫、塩釜様、祖霊などの月並祭が執行されている。
 人々は、まつりをとおして神の心にかえり、あわせて世界の平和と人類の幸福を祈る。また、まつりによって神と人と自然の調和がもたらされ、神とともに生き、働き、楽しむ地上の天国が実現される。大本の祭神は、宇宙の主宰神であり、一教団の神ではない。
 「万教同根」「万教帰一」を主張する大本は、ひらかれた宗教としてひろく民衆に呼びかけ、民衆が参加できうるよう、より一層の工夫がはらわれていく。
 大みまつりは、まず節分の夜からはじまる。祭典の状況は第一部で述べてあるが、大本の節分の意義づけは、今までの解釈とは全く違う。一般の人々には耳新しいことでもあるが、節分は太古に艮金神が隠退させられた受難の日であり、明治25年に再び綾部の大本に出現された記念の日なのである。
 この夜世間では「鬼正らい」(鬼償い(おにやらい))として年男が煎豆をまくが、しかしその「鬼」が艮の金神と知る人はすくない。この神を再び世の表に出させまいとして、太古から邪神のしくんだ艮金神調伏の儀式が、(長く社会的習慣として)神事や仏事の習わしとして民間に広められてきたのである。
 「鬼は外」といって煎豆をまくのは、艮金神を鬼にたとえて「煎豆に花が咲いたら世に出しましょう」ということで、煎豆に花が咲くはずはないから、この神を万却末代おしこめるというナゾなのである。(そこには、宗教上の大切な価値の転換が鮮やかに見受けられる。
 正月にシメなわをはるのも金神をおしこめて世に出さないためで、五節句の祝い行事の起源はすべて艮金神の調伏につながっている。だから大本では白豆をお供えし「福は内鬼も内」といってお下げするのである。ついでだが大本では節分に神々へ甘酒を供えて祝い、一同にこの甘酒の接待がある。
 この夜は節分大祭に引き続き潔済の神事、人型大祓などが、みろく殿内と由良川で夜通し行われ、苑内は大篝火にかがやき、甘酒や福引きでにぎわう。
 せめて1年365日のうち節分の一夜だけは、殿内で祝詞をあげるのもよし、大篝火や甘酒でおかげをいただくのもよし、また家にありて静かにゆく年を追憶し、来る春の幸を祈るもやし、信徒も市民も共々に節分を祝い、節分に祈りたいものである。(節分の夜に追放(やらわれ)し、艮の金神の再び現れます時は来にけり、-
[ 17:23 ] [ 丹(に)の国・綾部 ]
神の都・あやべ 2
 「錦の宮」とは、仏教で七堂伽藍というように、神殿、拝殿を中心とした諸施設の総合体をさし、その青写真が次第に具体化されてゆく。今のみろく殿にかわる中心的拝殿は、今後の教勢の発展にてらして少なくとも約2万人が(一時)に収容できるくらいの規模は必要とされる。
 海外からの参拝者も考慮して畳と椅子を併用した神殿形式で、現代建築の粋を集めて丹波路にその偉容を見せることだろう。その時は、今のみろく殿が祖霊社となる。
 神殿としては、国常立尊、稚姫君命のお宮のほか、庶民になじみのふかい神々として、物質を守護する竜宮の乙女、安産の神・塩釜さま等のお宮、出口家の氏神であり大本とゆかりの深い熊野神社をはじめ、また悪魔ばらいとして知られる杵の宮などがつくられる。葬祭ならびに新霊を祭祀する新祭殿の建築もいそがれている。
 付帯の施設として参拝者、修行者を受け入れるため、休憩、食事、宿泊などを総合したホテル形式の宿舎をつくるが、これは機能主義に偏ることを避け、人と人が十分対話できるような構造、設備が配慮される。
 全国から集まった人々が膝つきあわせて語り合い、一夜にして10年の知己となりうるのも神都ならではの恩恵である。
 また駅前には、案内所を設けて参拝者の便宜をはかる。その他事務所をかねた社務所も必要なことであり、総合結婚式場も別棟に建設され、若き人々の新しい人世を飾ることだろう。
 本宮山の南にある天王平には、開祖をはじめ歴代教主の奥津城を中心に、花弁を植え込んだ公園墓地がひろがり、信徒の納骨堂と世界の戦死者、遭難者の霊を慰むる世界万霊供養塔など、自然とマッチした造形の美がおりこまれる。
 ところでこれらの神殿や施設は、どの範囲に点在するのであろうか。筆先には「福知山、舞鶴外囲ひ、十里四方は宮の内」と示され、史実によると明治34年(1901)7月に、出雲の土を開祖の言いつけで、一班は熊野神社下から和知川にそって下り、位田渡場まで撒き、他の一班は和知川に沿って上がり、本宮山南側の田野川をのぼり、安場から四尾山麓をまわって、ともに中筋を経てかえっている。
 これは「宮屋敷取り」といわれている神事であるがまた、熊野神社から上町--本町を経て、てらこ履物店から田町をあがったあたりが、内苑となるという興味深い開祖の言葉が残されている。
 明治27年の筆先には「綾部本宮坪の内の出口直の屋敷は、神に因縁のある屋敷であるから、此屋敷に大地の金神様の御宮を建てるぞよ。気の毒乍ら村中家持って退いて下されよ。此村は因縁のある村であるから、人民の住居(すまひ)の出来ん村であるぞよ」と示されているように、だいたい旧綾部村の範囲が内苑となる。
 内外苑には、檜杉松榎などの常葉木や梅などが植え込まれ、植物園や神饌田がいろどりをそえる。本宮山を中心とした美しい自然の起伏と色合いの中に、神の都は生々として訪れる人々を迎えることだろう。
 この神殿づくりは、信徒をはじめ市民が世界の人々の協力により完成される。ここに注目されることは「今迄の世はぐわいこくの身魂が覇張(はば)る世で、金で面を張る世でありたなれど、二度目の世の立替えをいたす綾部の大本は、金では面は張らさんぞよ。今はわざとに此大本の中は淋しくいたしてみせてあれど、先に成りたら金銀は雨の降るごとくことわりにこまる様になりてくる世界の大本であるぞよ。
 此神表になりかけたら、我も私もと申して金銀持ちて世話さしてくれと申してつめかけてくるなれど、今後は身魂に因縁のなき人民の金は用いられんぞよ(明36)」と筆先で厳しく戒められ、庶民の宗教である大本神は、人々のまことの心を受けたまう。
[ 17:22 ] [ 丹(に)の国・綾部 ]
神の都・あやべ 1
 四尾山の尾根をふみしめて綾部をみわたせば眼下には由良川が、平野をおしわけて「く」の字に流れ、まちなみが人々のなりわいに息づいて横たわる。
 本宮山を中にした四囲の山々は丹波高原につながり、山なみがおだやかで緑が美しい。「山紫水明」がぴったりする平和な郷である。
 大本の神が、明治25年に「綾部は結構なところ、昔から神が隠しておいた世の立替えの真誠の仕組の地場であるぞよ」「三千世界の神々様守護神殿に気をつけますぞよ、谷々の小川の水も大川へ末で一つに成る仕組、綾部世の本誠の神の住いどころ」といわれたことばが、なるほどとうなずかれ、ズッシリと心にひびく。
 真誠の神とは、艮金神・国常立尊であることはいうまでもない。綾部を経綸の拠点としたこの神は、まず三千世界の立替え立直しを断行して「みろくの世」の実現を約束された。 では「みろくの世」とは、どんな世の中なのであろうか。筆先には「今度天地の岩戸が開けたら、草木も、人民も、山も海も光り輝いて誠にそこら中がキラキラいたして、楽もしい世の穏やかな世になるぞよ。是が誠の神世であるぞよ。
 雨も欲しい時分に降り、風も欲しいときに吹いて、人民の身魂も清らかになりて、天下泰平、天地の身魂が勇む世になるぞよ。月も日もモット光り強くなりて、水晶のやうに物が透き通りて見え出すから、悪の身魂の隠れる場所が無きようになるぞよ(明36・旧6・4)」と示されている。
 そしてこの大理想を地上に具現するために、人民の改心と御用をよびかけている。言葉をかえれば、「みろくの世」とは、神と人の共働のもとに実現される「神と人と自然の調和した世界」ということであろう。
 そのために世界中をますかけひきならし一つに丸めてしまおうとされる神の構想は、実に雄大であり、かつ悠久である。
 だがここで注目すべき神のことばがある。明治25年に神は「氏神様の庭の白藤、梅と桜は出口直の御礼の庭木に植えさしたのであるぞよ。福知山、舞鶴は外囲ひ。十里四方は宮の内、綾部まん中になりて金輪王で世を治めるぞよ」とのべ、またその翌年には「神、仏事、人民なぞの世界中の洗濯いたして此世を飜(かへ)すぞよ---
 あとは宜(よ)くなりて綾部を都といたすぞよ。綾部に天地の神々のお宮を建て三千世界を守るぞよ」ともあるように、綾部を「都」といたすと宣言されていることである。
 そこには綾部にたいする神のビジョンがズバリ明示される。神の住いどころであり、仕組みの地場に神の都をきづくことは当然のことであるがそれだけではない。
「世界の型をしてみせるところ」ともいわれているように、みろくの世の型、神と人と自然の調和した世界のヒナ型をまず綾部を舞台にして具体化されようとするところに、神の都としてのふかい意義が見出される。
 綾部の大本神苑がこの神のビジョンに基づいて着実に造営されつつあることは言うまでもない。綾部の神苑は、本宮山を中心として広がっていく。
 本宮山は「天の御三体の大神が天地へ降り昇りをなされて、この世の守護を遊ばす」最高の至聖所であり、山自体が御神体とされる。晩年の出口王仁三郎が直接に指揮監督してつくられた「月山不二」を、今は礼拝の対象としているが、ゆくゆくは山へ登ることが許されなくなる。
 その南麓の高台約8000坪には、100年の歴史をほこり、多くの人材を世に送り出した綾部小学校があるが、この敷地が市民の理解を得て大本の神苑に編入され、これを機会に壮大な「錦の宮」の建設が予定されている。(建設すみ
[ 17:21 ] [ 丹(に)の国・綾部 ]
丹の国・綾部 別冊:未来への対話
新しい生活圏の創造を目指して 別話:宗教都市として
綾部青年会議所編(なべちゃん注:昭和46年、38年前の綾部JC10周年記念事業)/なお、(斜字体)の部分は、出口栄二先生から再録に際し、いただきました加筆です。

別話:宗教都市として
<大本の未来論>
 この項は、編集者(注:綾部JC10周年記念事業:丹の国・綾部実行委員会)が、直接大本本部に執筆を依頼、許可を得て掲載した。
「ふるさと綾部」に、発祥すべくして発祥した「大本」は、現在にいたるまで、その町の盛衰に大きな影響を与えて来た。今後も又、それはますます密接な関係で強まるにちがいない。この「大本」教団の、はじめて公表される未来観は、わたしたち綾部市民にとって興味以上の強烈なものを感じさせてくれる。
 特に教育・文化への洞察と具体的な提示は、切実をもってせまるものがあろう。
「斜陽都市」の中で、現実日本列島の裏側に存在する都市をすべてこの範疇にはめこみ乍らも、「綾部」の項では、この「大本」を特記し、他都市の一般的斜陽化と区別しているのは面白い。
神の都・あやべ
まつりの宴(うたげ
教育の杜(もり)
生活の革新
平和のとりで
芸術の郷(さと)
2006/03/02のBlog
[関連したBlog]
38年前に発刊された冊子「丹の国・綾部」の再録をブログで紹介しましたが、薄穂たなびく(口上林)85p に誤りがありました。口上林でなく於与岐から撮られた写真でした。
HP:「ようこそ! 弥仙山の里へ」のよっちゃん様に確認していただきました。
よっちゃん様へメ-ル
ご無沙汰しています。
この度の「森林浴」の素晴らしい作品に観光協会長賞ご受賞の記事を市民新聞で拝見いたしました。こころからお祝いを申し上げます。・・・
私のブログに記載した「丹の国・綾部」の「薄穂たなびく(口上林)85p」とあるのは、弥仙山・於与岐町ではないでしょうか?
間違っていれば修正したいと思います。弥仙山が上林からではこの角度で見えないのでは?あるいは弥仙山でない??
よっちゃん様からのご返事
確かに於与岐から写した弥仙山のようです。
たぶん、大又のNさん宅付近から撮ったようです。
同じような場所から、広角で弥仙山を写した写真を送ります=添付写真です。
比較してみて下さい。
余談ですが
あやべ 地域情報発信ブログ(実験)
東八田地区を担当しています。
ついでのときにでも、ご覧ください。
2006/02/28のBlog
薄穂たなびく(口上林) 85p
撮影場所は於与岐町に訂正いたします
写真は全てクリックすると拡大します。
由良川暮色 86・87p
虫取りの子供たち 88・89p
綾部市鳥瞰図 差し込み図
冊子「丹の国・綾部」の写真について記録します。(なべちゃん記)
 10周年の3年位前から、綾部綾部青年会議所で次々と写真コンテストに取り組みました。これは綾部市のアマチュア写真グル-プと親しかった大槻高仁君をJCメンバ-に迎えたことも要因の一つです。冊子:丹の国・綾部の写真班長を務めてくれました。
 「綾部の魅力と恥部を探る写真コンテスト」:高度成長期、大都会指向で、ふるさと、自然は綾部の恥部でした。→「綾部再発見・綾部の良さを見つける写真コンテスト」→引き伸ばして何十枚もの写真パネルを作り→「丹の国写真展」:市民センタ-1F回廊/総合文化祭などで展示→「丹の国・綾部の発刊(プロロ-グ、写真編、歴史編、未来対話編)
 冊子の写真の一部は、あとで綾部の写真家グル-プで再撮影して貰ったのもあります。(ここにコンク-ル参加入選者名簿・写真特別班などでお世話になった方々の名簿を記載しています。現在も第一線で活躍の方々のお名前も見えます。)

 青年会議所の写真との取り組みは更に続き、→「由良川下り写真コンテスト」→「丹の国綾部・絵はがき」作成・・・
 写真活動は、担当の大槻高仁君を中心に取り組みました。選考基準は、良いものは良い、悪いものは悪いでした。多くの応募作品の中から、市長賞など特別賞の選考も、並べれば大体決まってきました。佳作もここまでだな-の感じで選べました。
2006/02/27のBlog
山家立岩付近の景観 79p
以久田野農場 80・81p
野立て 紫水ケ丘にて 82p
平和塔(世界連邦平和都市宣言第一号記念) 83p
丹波ライン「立岩」 (由良川) 84p
あゆは瀬にすむ
鳥は木にとまる
人は情けのなかにすむ

綾部民謡杭打ち歌より
大本・つる山織り 73p
農林省蚕糸試験場 74p
蚕 繭づくり 74・75p
綾部茶 豊里にて 76・77p
旦寺の竹細工 78p
大本節分大祭 瀬織津姫の行列 68p下
人形流し(大本節分大祭でのクライマックス) 69p
天王平 大本の開祖・聖師・二代教主奥津城がある(上野町) 70p
おふでさき 71p
開祖出口なお刀自が帰心状態で自動書記的に手紙二十万枚を執筆、おふでさきの根本主張は、世界の立替え立直しであり、世界の進歩と発達についての偉大な預言・警告書である。
大本・つる山窯 72p
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