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なべちゃんの散歩道
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ジャンル:丹(に)の国・綾部
Blog数:97件
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2006/02/16のBlog
では一体、今の日本のコ-スには、どの様な変化が起ころうとしているのか。それは今までのあわただしい性急な日本から、より静かな、より内向的内省的な日本となり、国民的努力の目標は例えば、公害の排除といった事がその主座を占める事になるのである。そして公害を排除しようとする気持ちは、自ら国土美化に通じるから、これからの日本人はその総力を傾けて、傷つけられた祖国の自然を復元し、進んでその美化を図ろうとするであろう。そしてこの様な志向は、実は日本人の本来の気質にピッタリなのである。

 戦後の日本人の願望は、ともかく物量を増大する事であった。当時文字通り飢餓の日本国民であったのだから、物への憧憬は当然のことであったし、極く最近まで豊かな物をさえ獲得すれば、大概の事は成就すると信じて来た。ところが(近年の先進アメリカの状況、最近の日本の状態を見るにつけて)物への執着のむなしさが次第に分かりかけ、「生きがい」の再検討をせまられて来たのである。

 物量が豊かな事は必ずしも真の幸福とは、つながらない。それどころかしばしば邪魔でさえある。例えば飯は三杯食べればそれでいいのであって五杯なら却って病気になるのと似ている。この様に「物」を幸福への手段の一ツと考えて、それ自体を目的と考えない事は、本来東洋では当然の思想なのであるが、明治以来の特に終戦以後の日本は西洋化する事、アメリカナイズされる事が、いわば至上命令、それ以外に生きる方法なしと信じられたのであった。勿論、西洋化、アメリカ化にも非常な長所があり、それ故にこそ今日の素晴らしい日本となったのでもあるが、一面それ以外に道を与えられなかったという意味で、一種の強制であったのである。この強制化の日本、それは本来の日本らしい日本ではなかった。

 今の日本では、この様な点に関する精神的自覚が次第に呼び起こされて来た。
 それと同時に、物質的経済的局面においても「限度に来る」という事が起こってきた・・・・・・。
未来都市の論理「ふるさと」1 丹の国・綾部 実行委員長 故塩見清毅 著(昭和46年(1971)発刊)
 此処では、本書全体がかもし出す「ふるさと」を概念的にとらえ、それが果たして未来的たり得るかの論議をすすめねばならない。一見それは、近代産業基盤をもたない衰微した過疎そのものとしてうつるかも知れない。

 事実、60年代における経済成長の恩恵は少なかった。しかし70年代に入りその極端な高度成長がその恩恵を独占した都市あるいは国土に、生態的な循環にまで影響を及ぼす「公害」を現象として、環境破壊を惹起し始めた。そのメカニックにして非人間的な動きは、確かに生活の物質的豊かさはもたらしたけれども、人間疎外と精神喪失という大きな犠牲代価を支払わねばならなかった。

 さて、このテ-マを追求していく前提として、日本の将来に就いての洞察がなさられねばならないが、この予測に就いては、ユニ-クにして正鵠を射ている木内信胤氏(世界経済調査会会長)の「日本減速論」を全面的に引用展開していきたいと重う。

 「日本の将来を語るにあたっては、特にそれがハ-マン・カ-ンであろうと誰であろうと先ず日本の過去十年なり、二十年なりの驚異的な生長実績を考え、次にそうあらしめた要因を数え、その要因にこれから大きな変化はないと見定めた上は、今後十年二十年同じ様な日本の高度成長が続き、21世紀には超経済大国として世界に君臨するであろうことは容易に推測出来る。そういう考え方に対して、特にそれがハ-マン・カ-ンである場合、その論旨は精緻であるから、敢えて異論はない。

 しかし日本を論ずる場合、外国人である彼の様な人が見落としている別個な要因が働く場合があると考えられる。それは、日本人の国民性の中に「何時でも大きく変わり得る」という特性があるからで、もしもその性質が発揮される事になれば、日本は一朝にして今までとは異なる道を歩き出そう。

 この日本人の可能性が顕著にあらわれた一例は明治維新である。その直前まで尊皇攘夷で固まっていた日本は、それが一度開国と決まるや一夜にして熱心な欧米文化の学徒となり文明開化に酔いしれた。今一つの大きな例は、あの終戦時の日本であった。一億総玉砕は決して嘘ではなかったのであるが、終戦と決まるやこれ又全国民はアメリカ一辺倒の姿勢となりエコノミック・アニマルにまで変貌したのである。この様な豹変の可能な国民は、全世界に日本人以外は絶無であろう」

 「ところで日本人は終戦後二十数年を経た今日、前記二例に較べば、多少小さくはあるが聊かそれに似た豹変を示そうとしている。
 もしそうだとすれば、今までがこうであったからというハ-マン・カ-ン流の経済大国論は全く通用しなくなるのである。
2006/02/15のBlog
丹の国・綾部:別話 未来都市の論理「ふるさと」 はじめに
 次回から連載のブログは、昭和46年(1971=35年前)に綾部青年会議所が10周年記念事業で発刊した冊子「丹の国・綾部」の、故塩見清毅さんが書かれた「未来都市の論理:ふるさと」の再録です。
 未来都市とは、自然と人間が真に調和する「人間調和都市」でなければならないこと。
破壊されずに残った豊かな自然「ふるさと」を持つ「綾部」こそ、「未来都市:人間調和都市」建設の資格があること、人間調和都市と広域圏との関係・・・
故塩見清毅さんの驚くべき先見性と、鋭い指摘のある論説です。

*綾部市市民憲章の全文は下記の通りです。
 この前文にある「自然と人間が真に調和する新しい田園都市の実現をめざして」の「新しい田園都市」とは、「人間調和都市」のことです。故岡博先生の元で起草されましたが、当時として全く新しい概念である「人間調和都市」は、塩見さんの造語で、青年会議所内で使っていました。

 起草委員に加わった、JC・OBの塩見清毅、吉田藤治さんに伺うと、市民の憲章なので、苦心の結果「新しい田園都市」の表現で妥協(昇華)したと云われました。私は、ベ-ト-ベンの「田園」のメロディのイメ-ジですねと答えた記憶があります。

綾部市市民憲章
私たち綾部市民は、丹波の美しい山河と豊かな伝統を持つふるさとを誇りとし、郷土愛に燃え、自然と人間が真に調和する新しい田園都市の実現をめざして、ここに市民憲章を定め、これを守り実行することを誓います。
1 平和をねがい、祈りのあるまちにしよう。
1 自治を高め、心のつながりのあるまちにしよう。
1 教育をたいせつにし、文化のかおるまちにしよう。
1 環境をととのえ、健康のあふれるまちにしよう。
1 産業をおこし、豊かな暮らしのあるまちにしよう。
1 計画を定め、輝かしいあしたをひらくまちにしよう。
 (昭和49年[1974年]11月3日・市制定)

*綾部市民の皆様に;
 広域市町村合併について論ずる皆様方は、一人残らず読んでください。
*T君に;
 昭和46年(32年前)のあなたの生まれた年に、発刊された「丹の国・綾部」に、広域圏と綾部のまちづくりについて書かれた、故塩見清毅さんの先見性のある論説をご紹介します。
 日本の未来予想について、ソ連邦の崩壊、パブルの時代とそれにつづく世界同時不況、21世紀は日本の時代といわれた予測は、夢・幻のごとくであったことなど・・、この論説以後の世界の経済社会の変化は、予測を上まわる現実があります。
 しかし、この「人間調和都市」の論理の基本をなす、都市と自然と人間の問題は、永遠の真理を説くものであると信じます。
 行財政上の問題として突然飛び込んできた、広域市町村合併について、いま私達は、どんな「まちづくり」を目指さねばならないかの示唆を与えてくれると思います。過日の若者の意見交流会で話された「アヤヒトの漢部郷」にもふれていますよ。

*O先生に;
 先生には、すでに偉大な先覚者故塩見清毅さんの書かれた、この未来都市への論説を読んでおられると思います。
「日本海ベルト地帯の中心、日本列島の中心の近畿圏と重なる極めて枢要な位置、それ故にこそ真の意味の中心的な調和都市たり得る・・広域行政圏の構想が具体化したとしても、その中で割拠する個性偏向都市群(臨海工業都市、商業都市、農林業都市、内陸工業都市、観光都市等々)を、綾部はその調和性の故に求心的につなぐ中核都市として動きをなすに違いない・・」この時点で遅いかも知れませんが、市民の皆様にも、お知らせするべきだと思い、このHP版を作成しました。

*Doblog 公開に当たって
 当初、舞鶴市・福知山市(三町合併含む)・綾部市の3市合併構想、および福知山市(同)・綾部市の2市合併構想が議論されてきました。
 今年1月に再選された四方八洲男綾部市長の決定により、綾部市は何処とも合併せずに、既にもつ宏大な市域を基に「小さくとも、きらりと光る、まちづくり」を合い言葉として、今日の行政が行われています。(現在、福知山市は周辺の三和町、大江町、夜久野町との1市3町合併が終了しました)
 昨年の11月市議会において決算報告があり、17年度歳入合計14,467,125千円に対し、歳出合計は15,454,837千円、差し引き△987,712千円の欠損であった。この1億円の欠損を財政調整基金、減債基金を全額取り崩して埋め収支を合わせている。
 今後、地方特例交付金、地方交付税、国庫支出金、府支出金、諸収入、地方債などの歳入の減少が見込まれ、基金残高も4年後の平成21年度には皆無となる財政シュミレ-ションもある。一方、京セラ綾部工場の操業開始、好調の綾部市住宅団地による人口増などの振興策もある。

*ここに、再度このブログ再録版を、本論の編集者である故塩見清毅氏の、偉大なる御業績と先見性を再確認しつつ、先輩を偲び塩見清毅氏の霊に捧げます。(文責:なべちゃん)
2006/02/05のBlog
梅松の里 2
 開教六十年を記念して完成した本宮山麓のみろく殿は、総面積1865平方メ-トル、高さ23メ-トル、789枚の畳がしかれ丹波路にその偉容をほこる・みろく殿はまた、五六七殿、弥勒殿ともかき、すくいと平安な世界をまつ民衆のねがいがこめられていて、毎年、節分大祭、みろく大祭、大本開祖大祭がおこなわれる。
 二月の節分は、太古に天地の親神が世の艮におしこめられた受難の日、また時みちて明治二十五年に大本に出現された日である。大本ではこの日をしのびおいわいして、大祭と大祓の神事が夜をてっしておこなわれ、市長、市議会議長、自治会長、商工会議所会頭などが全国代表とともに感謝の玉串をささげる。
 全国各地や海外からもよせられた人型三百万体が神前に祈念され、和知川の清き早瀬にながされるさまは荘厳かつ詩情ゆたかな情景で、「福は内、鬼も内」の豆まきとともに特有の行事として知られる。殿外では大かがり火が火の粉を天にたかくふきあげ、家族つれだった人々で苑内はにぎわう。お祝いの甘酒に気はいさみ、福ダルマに明日の幸せをたくして立春をむかえるのである。
 みろく殿をまわると、タンタンとはたの音がひびく。さそわれるままにゆけば金龍海のほとりおくまったところに白かべの、つる山織工房がみえる。機織のまち綾部の伝統がうけつがれているのであろう。手びきの糸、草木染、手織りの手法に近代的創意が工夫される。金龍海畔に湧きでる鉱泉にひたした草木染糸の絵模様はひときわさえて美しい。
 工房からさらに歩をすすめると、本宮山のふもとにはつるやま窯がきづかれている。素朴な祈りのなかに暮らしの焼物をつくりだし、その作品には土の香りと人間的なあじわいがにじむ。個性がひかり古い丹波の心がいきづく。訪れる人がときにロクロをまわし創作のひとときをたのしむのもここである。
 神苑の松はときわのみどりをたたえ、白梅は春のかおりをひめてしずかにゆれる。やがて紅梅がさき、桃の花が人々の目をたのしましめる。桃の林をわけいると大本発祥の地・元屋敷が開教の苦難をひめてしずかにかたりかけてくる。つつじがすめばあやめ、花菖蒲とつづき、五大州をかたどった金龍海の水面には水蓮が華麗な姿をみせる。秋は七草に萩、月にさそわれてひときわ詩情をさそう。
 神光は地にみち、「花咲きにほひ鳥うたひ、玉の小琴は時じくに、床しく ひびき・・・」とある賛美歌そのままに、神と人と自然がうつくしく調和した綾部の梅松苑は、とこしえに世の親神のしずまる、民衆のなつかしいふるさとである。
 人々はここに憩い、ここに祈り、ここにあそび、ここに学び、ここに行じて明日への活力をつちかうことであろう。
梅松の里 1
 綾部の大本は本宮山をかなめとして30万平方メ-トルの神苑がひろがる。世界の中心となり、祭祀と機のしぐみの地場として、大本は綾部のまちとともにさかえてゆく。
 砂利をふみしめて本宮山にのぼれば、陽ざしをあびてひろがる松林ごしに二つの大きな碑がのぞまれる。一つは開祖の筆になる神声碑「うぶごえ」であり、一つは聖師揮毫の「大本教旨」碑である。
 かって「この碑がたつと、まもなく大きな事件がおこり世界的に発展する」と予言し、「今後いろいろ世の中におこってくることは、神界の経綸が実現の著についたこと」だとのべた王仁三郎の声があざやかによみがえってくる。いま目の前にみる碑は昭和二十七年に再建したものだが、最初の碑は昭和六年九月八日に建てられた。その十日後には満州事変がおこり、やがて第二次世界大戦から日本の敗戦へと泥沼の歴史がつづられたのだが、大本の教えと神の経綸を象徴し、印象的である。
 碑面をたどれば神声碑には「三千世界一どにひらく梅の花、もとの神世にたてかえたてなおすぞよ。すみせんざんにこしをかけ艮の金神まもるぞよ」とあり、また教旨碑には「神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の大司宰なり、神人合一してここに無限の権力を発揮す」と刻まれているのがよみとれる。
 この簡潔な宣言のなかには、立教の根本精神である民衆救済の理念と人としての使命が明示されている。一語々々、しずかにくちずさめば新たな感動が肚のそこからわきあがる。
 本宮山は鶴山とも、また円山ともよばれ、綾部をとりかこむ連山の中央にあって蓮華台をなす丘である。頂上には「月山不二」が半円形に土をもりあげてきづかれ、延暦二十一年の富士大爆発のさい噴出したといわれる霊石をおき三ツ葉の松がうえられている。旧七月六日の夕から七日間神集祭がおこなわれ、天地の神々がつどい一年間の世界のしぐみを定められる重要な神事とされている。
 山の一角には市の水源地があり浄水はここから綾部の各家へくばられている。お山に水があがるといわれた開祖の言葉の実現をよろこび、綾部と大本が一つにとけあった姿を記念して、「本宮山に和知川(由良川のこと)の水くみあげて生命の真清水ながしゆくなり」とうたわれた二代教主出口すみ子の歌碑がたつ。この碑の前でうつされたすみ子刀自と長岡市長の写真が大本歴史の一コマをかざる。
2006/02/04のBlog
不死鳥のごとく
 昭和二十年十二月八日、綾部の神苑は十年ぶりでよろこびにわきたった。神苑は十一月に町当局から大本の手にかえり、武徳殿一棟が提供された。彰徳殿と命名して大本事件解決奉告祭がおこなわれ、ここが、不死鳥のごとくよみがえった大本再建の舞台となったのである。
 終戦後の混乱と欠乏のさなかで信者の奔走はもとより、地元官公署や町の人々の協力があったことはいうまでもない。この劇的再出発を記念して、神前にささげたお供物が町内各自治会へくばられた。
 弾圧下で不屈の魂はもえ、神の殿堂は信者の心にきづかれていた。厳冬をへた草の芽が春をまって萌えいでる生命のつよさにもにて、あざやかな新生であった。
 日本の敗戦は天皇の神格否定、平和憲法の実現、信教自由の獲得をもたらし、民衆ははじめて歴史の表にたつ。明治二十五年に民衆の神として出現した艮金神のゆめが達成される条件が、ようやくみたされたのである。新発足後の大本運動はここを原点として展開され、今日の大本がきずかれてきたことはいうまでもない。
国家権力とのたたかい
 天王平らが薄暮のなかにうかぶ。そこは由良川にそそぐ田野川のほとり、上野町と田野町のさかいにある丘である。くれなずむうすやみのなかで、突如むせびなく声がもれる。 かみしめても、かみしめても、唇をわってこみあげてくる悲しみといかりの声である。ふきあげる涙をぬぐおうとはせず、人々の手によって開祖の柩は木馬にうつされ、竹レ-ルの上をしずかにすべる。足どりは重く、二百メ-トルにもみたぬ道のりが地の果てにまでつづく思いであったろう。
 開祖の柩は共同墓地の小さな片隅にうつされ、もとの奥都城はあとかたもなくこわされた。昭和十一年五月のことである。
 昭和十年十二月、当局は再度の弾圧を大本にくわえ、「地上から抹殺する」と豪語して破却の第一槌を、こともあろうに開祖の墓にむけてきたのである。「官憲をごまかして人夫にやとわれ、開祖の柩を信者の手でおうつしできたことがわずかな安らぎでした」とかたる回想に、当時の苦心のほどがしのばれ新たないかりがわきあがる。
 死者の霊を手あつく葬るのは日本民族の伝統的美風であり、墳墓をゆえなくあばくことは国の法律がかたく禁じている。官憲だからといってこのような暴挙がゆるされてよいものだろうか。しかもこれがはじめてではない。大正十年の第一次大本弾圧のさいにも当局は再度にわたって改築を強制し、これが三度目である。
 第一次弾圧では本宮山の神殿がこわされ、王仁三郎以下三幹部が検挙されたが、第二次弾圧は徹底していた。総元締めの内務省警保局長が自らのりこみ、全国に指令して「塵一つのこさずやっつけろ」というのだからすさまじい。
 王仁三郎以下幹部61人が根こそぎ検挙され、拷問のため多くの犠牲者がでた。綾部・亀岡の神苑は坪当たりバット(煙草)一つにひってきする捨値で町当局へ強制売却された。書籍、書画、祭具などは手あたりしだい消却、240棟の神殿などはことごとくつぶされ、雄大な五六七殿(みろくでん)は柱をきりロ-プで一気にひきたおされた。
 ダイナマイトの爆発、轟音、土煙り、地ひびきは「世の終わり」として回想され、大本の「冬の時代」はまた綾部の沈滞にもつながっていた。金龍海は埋めて運動場となり、ポッンと榎木がのこされたわびしさは、記憶になおのこされていることだろう。この神木の榎木は由良金一氏の努力によってやっとのこされたのである。
 約1ヶ月のあいだ、延9934人の人夫が破却に動員され延6785人の警官が取締りにあたったというのだから、大本にくわえられた官憲の圧力がいかにきちがいじみたものであったかがわかる。
 本宮山にのぼれば、たたきわられた石の手洗いがのこされている。その右手には爆破された歌碑の片々がつみかさねられ、くずされた東石の宮が当時の無謀なふるまいをものがたってくれる。三十年余の風雪にたえてなお生々しい弾圧の爪あとをみつつ、国家権力はなぜ、このような狂気の弾圧を大本にくわえたのであろうか、と思う。
 当局はいう。「直に憑依せる神の威厳及び右教義の崇高なることを誇示宣伝する意図のもとに、天皇の叡慮を干犯し、天皇の威徳を冒涜し、天皇の統治権を無視した神諭と原稿を作成し、共謀してこれを神霊界に発表した」と。また「大本教義の根幹をなすものは立
替え立直し、即ち五六七(みろく)の世の実現の思想なり、右はもとより単なる精神的なことをいうに非ず、現実の政治、経済革新の思想」と。
 だから天皇に不敬であり国家変革の思想だというのである。これは宗教の存在を否定する暴言といえよう。宗教が神の愛をとき神の理想とする世界を地上に実現しようとするのは当然の使命である。当局が大本を不敬とし邪教とする根拠は、明治憲法が規定した「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」、および旧刑法の「皇室に対する罪」にある。
 明治維新後支配権力は、天皇を「現人神」として宗教的権威をつくりあげ、最高の神、絶対者として民衆にのぞませた。そして「宗教の教理が時の支配権力や国家組織と相容れない場合、又は当局の忌避にふれるが如き内容をもつときは邪教」と断定するというのである。
 正しい神を否定し神のうえに人為の権威をおく者こそ「不敬」ではないのか。信仰者にとって不敬とは、「神への不敬」をいみすることはいうまでもない。大本事件は第一次、第二次ともに免訴となり当局の意図は挫折した。だが上告審の判決で治安維持法違反を無罪としながら不敬を有罪とした事実をかるくみることはできない。
 前後十六年におよぶ法廷闘争は一応の結末をみたが、はたして支配権力とのたたかいはおわったのであろうか。
 今日も青くはれわたった空を白い雲がゆったりとながれていく。あの雲のようにしずかな平和が、このまま世界の空に、綾部の町に大本のうえにおとずれてくるのであろうか。
2006/02/03のBlog
世界にむかって
 大正十年十月、王仁三郎は「霊界物語」の口述をはじめた。第一次大本弾圧のため、白木の香も新しい本宮山の神殿が官憲の手でつぶされる二日前のことである。綾部の並松にある松雲閣(現在の料理旅館・現長)が口述開始の舞台となる。このあたりは由良川にそった古い街道すじで、松の並木がほどよく影をおとして往きかう人々のいこいの場となっていた。夏ともなれば水無月祭りの万灯流しや花火でにぎわう景勝の地として知られる。
 霊界物語は、高熊山修業における神の啓示を中心に王仁三郎の思索と研鑽を集大成した神示の一大創作で、「天祥地瑞」をあわせて全八十一巻におよぶ。大本では筆先とともに教典とされるが、はからずも官憲の弾圧とこの物語の発表が契機となって、大本に新しい方向がひらけてゆく。王仁三郎は言う。「愛国主義があやまって排他におちいり自己愛になってはよくない。今後世界を愛し、人類を愛し、万有を愛することを忘れてはならぬ。善言美詞をもって言向和わすことがもっとも大切である」と。この発言にそって「人類愛善」「万教同根」を軸にした大車輪の活動が展開される。
 中国の北京で世界宗教連合会の結成を推進し、「東亜の天地の精神的統一」をめざして蒙古の地に布教の駒をすすめた王仁三郎の行動は、その具現化の一コマであり、大正十四年六月、「人類、国家、宗教等総ゆる障壁を超越」して「地上永遠の光明世界」の建設をめざす人類愛善会の創立はその結実であった。
 この年には治安維持法が登場して権力側の弾圧体制がスタ-トし人類愛、世界同胞などの提唱は国家意識をあやまるものとして排撃された。こうした時期に大正デモクラシ-の退潮に失望しつつあった民衆の期待をあつめて世界的視野にたった宗教的平和運動がこの綾部からはじまったのである。
 開教三十有余年、「苦難の昭和」年代をまえに、大本の内外宣教の体制はととのえられた。昭和三年三月三日、王仁三郎五十六才七カ月にみちたその日を「みろくの下生」のときとして、大本の布教・社会活動は、芸術運動をもその一翼にくわえはなばなしく開花した。
 大本教団を軸に人類愛善会、昭和青年会、昭和坤生会、昭和神聖会、明光社などが歩調をそろえて、「神にめざめよ」とさけび、荒れくるうファシズムのなかで現状打破をめざして活躍したのである。昭和十年には文教宣教の主軸となった「人類愛善新聞」(旬刊)は百万部をこえ、活動範囲は中国、東南アジア、北・中・南米、欧州大陸にまでおよんだ。 各界の実力者や知名の士をはじめ、参拝者、修業者がぞくぞくと綾部の町をおとずれ「出口王仁三郎聖師」を頂点とした「皇道大本」は革新的風潮の中で一大勢力をなすにいたった。だがふたたび宿命ともいうべき弾圧がまちうけていた。
綾部の「大本町」
 今日の綾部市の人口は約五万人、町村合併で旧何鹿郡がそのまま市に編入され、広さでは全国十指のうちにかぞえられるという。しかし大正七年に出版された「蚕都案内」によると、当時の綾部町の戸数は1200戸で人口は約8千人、区域も中筋・以久田・佐賀・小畑・物部・志賀郷・吉美・西八田・東八田・山家・口上林・中上林・奥上林の13ケ村をのぞいた旧町区にかぎられる。
 いわば田んぼにかこまれたしずかな町で、鉄道もやっと明治四十三年になって園部-綾部間が開通して京都とつながったくらいであるから、お役人の異動や出張・親戚や友人のほか町の外から訪れてくる人も目立って多くはなかったろう。そこへ年二回の大祭や冠島・沓島・弥仙山参拝のたびごとに全国からの信者が駅の出口からドッとはきだされ、毎日の参拝や講座をきくために訪問者があとをたたないのだから、しずかな町に大きな波紋をおこしたことはまちがいない。
 なかでも、出雲大社管長の千家尊福、御嶽教管長の神宮日高寿、鶴殿男爵夫人の大宮守子、久邇宮家官務監督の山田春三、岩下子爵、水野子爵、実業之日本社理事の栗原白嶺、神戸新聞の桑原道喜、今井武夫、高校教員で歌人の湯川貫一、俳人の吉原亨、明治製糖重役の高木鉄男、台湾製糖の上西信助、満鉄理事の谷村真友、三井物産支店長で俳人の岩田久太郎、医者の井上留五郎・岸一太・桜井同仁・西崎算保、合気道で著名な植芝盛平・井上祥照、軍人では山本英輔海軍大佐(のち大将)、日本海海戦の名参謀とうたわれた秋山真之海軍少将(のち中将)、浅野正恭海軍中将、海軍きっての切れものといわれた矢野祐太郎海軍中佐、横須賀海軍機関学校の教官で英文学者の浅埜和三郎、中国大陸横断で名をはせた参謀本部の日野強陸軍中佐、一兵卒からの立志伝中の人・小牧斧助陸軍大佐など佐官・尉官級の人々は枚挙にいとまがなく、大本の鎮魂帰神にひかれた。
 「彗星」社長の岡田射水、「心霊界」の木原鬼仏、豊本景介などの心霊術者や文学士の倉田百三、築地小劇場の創立者で大本紹介の映画を制作した小山内薫、明治の初期に東京商業会議所の会頭をつとめた中野武営の子で宝生流の達人・中野岩田(茗水)など宗教・文化・実業・医者・華族・軍人など、各界のいわゆる実力者クラスがぞくぞくやってきたことは、綾部の町に刺激をあたえ、綾部が「ひらかれた町」として発展してゆくうえに有形無形の役割をはたしたものと思われる。 
 記録にない人、記録のうしなわれた人も多いから、それらをくわえるとかなりな数になると思うが、そのなかで浅野正恭、浅野和三郎、高木、岩田、日野、矢野、栗原、岡田、木原、植芝、井上祥照、小牧、井上留五郎、谷村、中野、桑原、湯川、桜井、今井、上西、西崎、吉原をはじめ梅田常治郎、谷前貞義、後藤康仁、上倉三之助、石井弥四郎陸軍大佐、飯森海軍機関中佐、福中鉄三郎海軍機関中佐、糸満海軍機関大尉、篠原国彦陸軍大尉などの人々が職業と地位をなげうって綾部に移住してきた。
 そのため大本周辺の上野町、新宮町、本宮町などはあたかも「大本町」の観を呈し、朝夕の祝詞の声にみちみちていた。かわったところでは今日の生長の家をきずいた谷口雅春、神道天行居の友清天行(いずれも亀岡在住)などがいるが、これらの人々がのんびりム-ドでやってきたのでなく、求道の熱情にもえていたのだから周辺にあたえる影響も大きかった。
 このとき綾部に移住し、昭和十一年、第二次大本弾圧のため獄死した岩田久太郎(石川県出身)をしのんで俳友の伴新圃が「突然晴天の霹靂の様に鳴球(岩田の俳号)の綾部入りを聞いた。何でも鳴球は”こうしては居られぬ”と云って何か差迫ったあるものを見つけたように綾部に走ったと風に便りに聞いた」とかたっている追憶は、その当時の人々の心情をよくあらわしている。
 岩田は子規の門下のすぐれた俳人であった。蕪村の句「ほととぎす琥珀の玉を鳴らし行く」からとって鳴球、琥珀と号し仕事の余暇をさいて自宅で会をひらいていた。島根県出身の湯川は大正天皇即位の大典祝歌に当選したこともある人で歌道にすぐれ、また中野茗水は能の宝生流林鶴叟門下の達人というように、綾部に定住した人々は自己の特技をいかして地元の人々との交流をふかめていたので大正のロ-マンチシズムの風潮をバックに綾部の文化的雰囲気はたかめられていった。
直霊軍の活躍
 大正三年(1914)に第一次世界大戦がはじまるが、大戦は軍需景気をもたらし日本の資本主義は飛躍的な発展をみせる。しかしその反面、社会の矛盾は激化し労働争議、小作争議がいたるところでおこり、物価は急騰して民衆の社会的不安はつのった。
 大正五年(1916)に皇道大本と改称し、この頃から直霊軍の青竜隊(青年)婦人隊、白虎隊(少年)娘子軍(少女)が編成され、集団による組織的布教が展開される。綾部の町を軍歌まがいの歌を高唱してねりあるき大道布教がくりひろげられた。
 またその服装がふるっている。羽織袴にたすきをかけ、すげ笠にわらじ、脚絆といういでたちのうえ長髪、手には旗や幟をおしたて太鼓をうち、団歌を高唱しながら通りをねりあるく。そして広場や四つ角では街頭演説を一席ぶつ。道ゆく人々はびっくりしたり、物めずらしくもあり、なかば軽蔑の目でみる人もあった。
 ヒラア ヒラアと神軍旗
 ヒラア ヒラアと革正旗
 先頭におしたてて立向かう
 悪魔のぐんぜいと戦いて
 勝どきもろともあぐるまで
 命おしまず進みゆく
 隊列は北西町をとおり、山陰線と舞鶴線のふみきりをこえ、郡是製糸会社の前をすぎ橋のたもとで折りかえすのがならわしで、週に二回ぐらい定期的におこなっていた。これは奇ばつなデモンストレ-ションで、この風がわりな集団を一目みようと人々がむらがりあ
つまったという。
 ところがこれにはつぎのようなエピソ-ドがひめられている。ある日、大本本部にえらいけんまくで電話がかかってきた。「大本の集団がいつもわが本社の前を、悪魔だと大声をはりあげてとおるが、悪魔とは何ごとだ、幹部をよこして謝罪しろ!」ところが大本側ではなぜおこられるのか一向にわからず「いや、そんな失礼なことをいうはずがない」と弁明するが、一向に話がかみあわない。
 あとでわかって双方とも大笑いしたことだが、「悪魔の軍勢」を「悪魔の郡是」とききまちがえたのである。
 それはともかく、こうしたいきおいで「立替え立直し」「大正維新」を全国各地で絶叫してあるくのだから、「長髪族」というニックネ-ムをたてまつられたくらいで、大々的な文書宣教とあわせてその反響は大きかった。
 とくに大正七年(1918)夏富山県滑川にはじまった米騒動は民衆の運動として全国にひろがり大戦後の不況もてつだって社会不安はつのった。こうした民衆のめざめを背景
に大本の予言と警告は全国に浸透し、とるもとりあえず綾部へやってくるもの、学業や家事をすてて綾部へ移住してくるものがあとをたたなかった。とりわけ軍人をふくめて都市農村部の知識階層の参綾。入信が多かっただけに、その影響も大きく、大正九年にいたる大本宣教の第一次黄金時代を形成した。
 しかしやがてそのことが権力のにらむところとなり大正十年の第一次大本弾圧事件をまねくことともなる。
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