Blog
2006/02/03のBlog
[ 09:52 ] [ 丹(に)の国・綾部 ]
出口王仁三郎と教勢の発展
北桑山地の水を集めて西流する大堰川は、園部町あたりで反転し亀岡からは保津川となって嵐山にいたる。八木町は園部と亀岡の中間に位して大堰川にのぞみ鮎がりでしられている。町のはずれに農業灌漑用水のための虎天堰がもうけられているが、その近くの街道筋に開祖ナオの三女福島久子が茶店を開いていた。
開祖にかかった神の「この神を判ける方(審神する人)は東から来られる」という言葉を信じて三年間も気ながく待ちつづけていたのである。明治三十一年(1898)のあつい日、陣羽織にこうもり傘とバスケットをもった風変わりないでたちの青年がふと久子の目にとまった。待っていた因縁の人とわかって、その年の十月にその青年は久子のすすめにしたがい、綾部をおとずれ裏町(現在の若松町)の倉で開祖とはじめてあった。この青年が出口王仁三郎であった。
王仁三郎は幼名を上田喜三郎とよび、明治四年に京都府亀岡近郊の貧農に生まれた。明治三十一年の旧二月に高隈山の修業で宗教的体験をえた喜三郎は、病気なおしと幽斎修業をとおして布教し、静岡県で稲荷講社をひらいていた霊学者の長沢雄楯から習合的な神道説と鎮魂の行法を学んだ。
明治三十二年に正式に大本に入った喜三郎は開祖をたすけ、警察からの圧迫をさけて布教活動を合法化するため稲荷講社所属の金明霊学界をつくった。そして翌年にはナオの末娘すみ子と結婚して出口家に入り、のち王仁三郎と改名した。
その後警察の執拗な圧迫と新しいゆき方にたいする内部の無理解から、一時王仁三郎は綾部をはなれ、京都に出て神職の資格をとり、建勲神社の主典からのち御岳教に転じて同教の幹部となった。王仁三郎の出てしまった教団は火の消えたような寂しさとなったが、王仁三郎は明治四十一年に新たな教団づくりと教勢拡大への意欲にもえて綾部にまいもどってきた。わずかな期間ではあったが関西の宗教界を遍歴して多くの人々とも接し、視野をひろげることができた。
その後の王仁三郎の教勢拡大への大車輪の活動は刮目すべきものであった。ひつような当局の圧迫のつづくなかで、明治四十一年(1908)金明霊学会は大日本修斎会と発展し、全国的宣教への体制がつくられた。王仁三郎は鎮魂と文書宣教に力をそそぎ、「王の礎」「筆の雫」「道の栞」「道の大本」などの教書を編纂するかたわら、機関誌として「直霊軍」(のち敷島新報、神霊界と改題)を発刊し、積極的に社会によびかけていった。そのため大正二年には印刷所を綾部にもうけ王仁三郎自ら活字をひろい、油にまみれて機械をうごかし先頭にたって督励した。宗教教団のなかでいちはやく印刷機械まで設備して文書活動に力をそそいだ例は、当時としてまれなことであった。
こうした活動の結果は会員の急激な増加となってあらわれ、当時で約一万人と称し、丹波霧の底ふかく沈潜していた大本教団は、立教二十数年にしてようやく全国的教団としての地歩をきづきつつあったといえよう。蚕都・綾部はまた「金神さんの町」として知られ各地からの修業者や参拝者、見学者も多くなった。それには明治四十三年に国鉄山陰線の京都-綾部間が全通したことがプラスしていることもみのがせない。
一方教勢の発展とともに綾部の神苑は活気ずき、最初の神殿完成についで金龍海の開掘、金龍殿(道場、のち祖霊社)・統務閣が建ち、桑畑当時の面影を一新した。
しかし教勢が拡大すればするほど官権の圧迫もはげしくなり、布教活動や祭典を合法化するため大成教や御岳教の教会を併設し、また祖霊をまつるため大社教の分社とするなどの苦心がはらわれている。
北桑山地の水を集めて西流する大堰川は、園部町あたりで反転し亀岡からは保津川となって嵐山にいたる。八木町は園部と亀岡の中間に位して大堰川にのぞみ鮎がりでしられている。町のはずれに農業灌漑用水のための虎天堰がもうけられているが、その近くの街道筋に開祖ナオの三女福島久子が茶店を開いていた。
開祖にかかった神の「この神を判ける方(審神する人)は東から来られる」という言葉を信じて三年間も気ながく待ちつづけていたのである。明治三十一年(1898)のあつい日、陣羽織にこうもり傘とバスケットをもった風変わりないでたちの青年がふと久子の目にとまった。待っていた因縁の人とわかって、その年の十月にその青年は久子のすすめにしたがい、綾部をおとずれ裏町(現在の若松町)の倉で開祖とはじめてあった。この青年が出口王仁三郎であった。
王仁三郎は幼名を上田喜三郎とよび、明治四年に京都府亀岡近郊の貧農に生まれた。明治三十一年の旧二月に高隈山の修業で宗教的体験をえた喜三郎は、病気なおしと幽斎修業をとおして布教し、静岡県で稲荷講社をひらいていた霊学者の長沢雄楯から習合的な神道説と鎮魂の行法を学んだ。
明治三十二年に正式に大本に入った喜三郎は開祖をたすけ、警察からの圧迫をさけて布教活動を合法化するため稲荷講社所属の金明霊学界をつくった。そして翌年にはナオの末娘すみ子と結婚して出口家に入り、のち王仁三郎と改名した。
その後警察の執拗な圧迫と新しいゆき方にたいする内部の無理解から、一時王仁三郎は綾部をはなれ、京都に出て神職の資格をとり、建勲神社の主典からのち御岳教に転じて同教の幹部となった。王仁三郎の出てしまった教団は火の消えたような寂しさとなったが、王仁三郎は明治四十一年に新たな教団づくりと教勢拡大への意欲にもえて綾部にまいもどってきた。わずかな期間ではあったが関西の宗教界を遍歴して多くの人々とも接し、視野をひろげることができた。
その後の王仁三郎の教勢拡大への大車輪の活動は刮目すべきものであった。ひつような当局の圧迫のつづくなかで、明治四十一年(1908)金明霊学会は大日本修斎会と発展し、全国的宣教への体制がつくられた。王仁三郎は鎮魂と文書宣教に力をそそぎ、「王の礎」「筆の雫」「道の栞」「道の大本」などの教書を編纂するかたわら、機関誌として「直霊軍」(のち敷島新報、神霊界と改題)を発刊し、積極的に社会によびかけていった。そのため大正二年には印刷所を綾部にもうけ王仁三郎自ら活字をひろい、油にまみれて機械をうごかし先頭にたって督励した。宗教教団のなかでいちはやく印刷機械まで設備して文書活動に力をそそいだ例は、当時としてまれなことであった。
こうした活動の結果は会員の急激な増加となってあらわれ、当時で約一万人と称し、丹波霧の底ふかく沈潜していた大本教団は、立教二十数年にしてようやく全国的教団としての地歩をきづきつつあったといえよう。蚕都・綾部はまた「金神さんの町」として知られ各地からの修業者や参拝者、見学者も多くなった。それには明治四十三年に国鉄山陰線の京都-綾部間が全通したことがプラスしていることもみのがせない。
一方教勢の発展とともに綾部の神苑は活気ずき、最初の神殿完成についで金龍海の開掘、金龍殿(道場、のち祖霊社)・統務閣が建ち、桑畑当時の面影を一新した。
しかし教勢が拡大すればするほど官権の圧迫もはげしくなり、布教活動や祭典を合法化するため大成教や御岳教の教会を併設し、また祖霊をまつるため大社教の分社とするなどの苦心がはらわれている。
2006/02/02のBlog
[ 16:44 ] [ 丹(に)の国・綾部 ]
みろくの世
大本に出現し、大本に祭祀する最高の神はいうまでもなく艮金神(うしとらのこんじん)である。この艮金神の天地創造・隠退再現の雄渾な独特の教義体系は、ギリシャの人文神話のなかにも中国の天地開闢説等の神話にも見出すことのできないものがあり、日本の記紀神話にも類例をみることができない別個の神話体系と思われる。
神が約束する理想世界は「神の世」「松の世」「水晶の世」「みろくの世」などいろいろに表現されているが、その内実とするところは「神も仏事も人民も勇んで暮らす世」である。なかでも「みろく様の神道に立帰りなさる世が巡り来て・・・」とか「昔の根本のはじまりのミロク様が・・・」「みろくの世に捻じ直す」など、筆先のいたるところに「みろくの世」「みろくの神」の言葉がみうけられる。
シンクレチズム的発想は日本の宗教の特色でもあるが、「みろく」は元来仏教のもので、弥勒菩薩は梵語でマイトレ-ヤといわれ、古い伝承神話につつまれてインドの民衆に広く信仰されてきた。釈迦滅後、五十六億七千万年の後にこの世にあらわれて、釈迦の教えにもれた衆生を救済するという仏教的なメシア思想ともいうべきものである。
この弥勒信仰はインドをはじめ、ことに現世主義的な中国では未来仏の信仰として、地上における救済を成就する弥勒下生の信仰とむすびついていちじるしく現実的政治的なものとなった。その信仰的結社の力はしばしば急激にふくれあがって変革への道を志向し、時に王朝をたおしたほどである。
日本には奈良期のとき法相宗の伝来とともに弥勒像がはいり、弥勒浄土に救われるという信仰がまず貴族社会に普及した。中世に下ると弥勒はその分身である布袋信仰を生じ、やがて七福神につながって庶民の間にひろがってゆく。
近代では弥勒信仰はより現実的となり、民衆の政治的経済的社会的な窮乏からの救いの待望を成就するものとされ、幕末期の「熱狂的な世直し」「ええじゃないか」にあらわれる現状打破、変革の運動と相まってはばひろく浸透していった。
しかし日本における弥勒信仰、メシア待望の思想は意識のうえでは低調で理論化されず、変革的な思想へと結実するにいたらなかったといえよう。だが、幕末から明治にかけて創唱された民衆の宗教にすくなからず影響をおよぼしたことはまちがいない。ことに大本は「弥勒の世」への民衆の願望と伝統をたくましく継承し包含して独自の発展の道をあゆみつづけてきたのである。
大本に出現し、大本に祭祀する最高の神はいうまでもなく艮金神(うしとらのこんじん)である。この艮金神の天地創造・隠退再現の雄渾な独特の教義体系は、ギリシャの人文神話のなかにも中国の天地開闢説等の神話にも見出すことのできないものがあり、日本の記紀神話にも類例をみることができない別個の神話体系と思われる。
神が約束する理想世界は「神の世」「松の世」「水晶の世」「みろくの世」などいろいろに表現されているが、その内実とするところは「神も仏事も人民も勇んで暮らす世」である。なかでも「みろく様の神道に立帰りなさる世が巡り来て・・・」とか「昔の根本のはじまりのミロク様が・・・」「みろくの世に捻じ直す」など、筆先のいたるところに「みろくの世」「みろくの神」の言葉がみうけられる。
シンクレチズム的発想は日本の宗教の特色でもあるが、「みろく」は元来仏教のもので、弥勒菩薩は梵語でマイトレ-ヤといわれ、古い伝承神話につつまれてインドの民衆に広く信仰されてきた。釈迦滅後、五十六億七千万年の後にこの世にあらわれて、釈迦の教えにもれた衆生を救済するという仏教的なメシア思想ともいうべきものである。
この弥勒信仰はインドをはじめ、ことに現世主義的な中国では未来仏の信仰として、地上における救済を成就する弥勒下生の信仰とむすびついていちじるしく現実的政治的なものとなった。その信仰的結社の力はしばしば急激にふくれあがって変革への道を志向し、時に王朝をたおしたほどである。
日本には奈良期のとき法相宗の伝来とともに弥勒像がはいり、弥勒浄土に救われるという信仰がまず貴族社会に普及した。中世に下ると弥勒はその分身である布袋信仰を生じ、やがて七福神につながって庶民の間にひろがってゆく。
近代では弥勒信仰はより現実的となり、民衆の政治的経済的社会的な窮乏からの救いの待望を成就するものとされ、幕末期の「熱狂的な世直し」「ええじゃないか」にあらわれる現状打破、変革の運動と相まってはばひろく浸透していった。
しかし日本における弥勒信仰、メシア待望の思想は意識のうえでは低調で理論化されず、変革的な思想へと結実するにいたらなかったといえよう。だが、幕末から明治にかけて創唱された民衆の宗教にすくなからず影響をおよぼしたことはまちがいない。ことに大本は「弥勒の世」への民衆の願望と伝統をたくましく継承し包含して独自の発展の道をあゆみつづけてきたのである。
[ 08:45 ] [ 丹(に)の国・綾部 ]
2006/02/01のBlog
[ 16:43 ] [ 丹(に)の国・綾部 ]
大本・月山不二
世界の中心は丹波綾部であるとする大本の最高聖地の一つで、世界の中心点ともいうべき所である。頂上には延暦二十一年の富士大爆発の際噴出されたといわれる霊石を安置し、ミツ葉の松が植えられている。
世界の中心は丹波綾部であるとする大本の最高聖地の一つで、世界の中心点ともいうべき所である。頂上には延暦二十一年の富士大爆発の際噴出されたといわれる霊石を安置し、ミツ葉の松が植えられている。
[ 16:35 ] [ 丹(に)の国・綾部 ]
[ 15:06 ] [ 丹(に)の国・綾部 ]
[ 14:42 ] [ 丹(に)の国・綾部 ]
三千世界の立替え立直し
開祖の筆先は、ナオが大正七年(1918)に昇天されるまでの27年間、神の啓示としてかきつづられたものである。綾部の黒谷の和紙20つづりを一帖として約一万帖もかきのこされたという。一,五,九,十などの数字のほかは全文ひらかなでかかれ、のち出口王仁三郎が忠実に目をとおして漢字をあてたり、読みやすくして「神論」として大正六年に社会に発表した。
筆先は大本の教えの原典であり、王仁三郎著述の「霊界物語」とともに教典とされている。その筆先のはじめに神は力づよく宣言する。
「三千世界いちどに開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松でおさめる神国の世になりたぞよ。
この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ。いまは強いものがちの悪魔ばかりの世であるぞよ。世界は獣の世になりておるぞよ。悪神に化かされて、まだ眼がさめん暗がりの世になりておるぞよ。
これでは世はたちてはゆかんから、神が表にあらわれて三千世界の立替え立直しをいたすぞよ。用意をなされよ。この世はさっぱり新つにいたしてしまうぞよ。三千世界の大せんたく、大そうじをいたして、天下泰平に世をおさめて万却末代つづく神国の世にいたすぞよ」
ここには大本の全精神が集約されている。大本の神はどんな神か、なぜ立替え立直しをせねばならないのか。神の経綸とは何か、また世界の人類にたいする心がまえなどがかんけつにのべられ、ドキッとするようなそのものズバリの表現のなかに、人類救済へのなみなみならぬ神の愛が感じられる。
筆先をつらぬく精神は、日本の封建社会の崩壊期から新しい時代へむかって激変する危機のさなかで、救済を叫ぶ民衆宗教としての世直しの要求を反映し、かつ継承していた。
ナオの筆先に「天理・金光・黒住・妙霊先走り、とどめに艮の金神(うしとらのこんじん)があらわれて世を立替えるぞよ」とあるが、それは神々の序列とか宗教の優劣、教団の大小の差異などについての価値規準をいうのではもちろんない。「大本の神は一人でてがらするような神ではない」「みな仲ようして下され」と示されていることからも明らかなように、幕末から明治前期にかけての変動期に出現した一連の民衆宗教の精神を継承して、明治二十五年というときに出現した大本の立場と使命とを明確にしたものと思われる。
明治二十五年といえば、政治的統制の下に「信仰の自由」をうたった「大日本帝国憲法」(明治憲法)の公布、「忠君愛国」を信条とする「教育勅語」発布の直後であり、またその二年後には、朝鮮半島への浸出をめぐって日清戦争がおこり、その後日本は急速に排外的国家主義の道をたどっていった。
民衆への圧迫、生活の窮乏と旧来の生活を激変させてゆく諸矛盾、明治維新への失望、自由民権運動の挫折などつぎつぎに民衆を重苦しい灰色の淵へ吸い込んでゆく。そしてふたたび民衆の間から復古的で農本主義的色彩のこい世直しへの期待がもえあがってきた。 大本はこのような時期を背景として、丹波の小都市・綾部に、「世を変える神」「民衆を救う神」として出現したのである。
開祖の筆先は、ナオが大正七年(1918)に昇天されるまでの27年間、神の啓示としてかきつづられたものである。綾部の黒谷の和紙20つづりを一帖として約一万帖もかきのこされたという。一,五,九,十などの数字のほかは全文ひらかなでかかれ、のち出口王仁三郎が忠実に目をとおして漢字をあてたり、読みやすくして「神論」として大正六年に社会に発表した。
筆先は大本の教えの原典であり、王仁三郎著述の「霊界物語」とともに教典とされている。その筆先のはじめに神は力づよく宣言する。
「三千世界いちどに開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松でおさめる神国の世になりたぞよ。
この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ。いまは強いものがちの悪魔ばかりの世であるぞよ。世界は獣の世になりておるぞよ。悪神に化かされて、まだ眼がさめん暗がりの世になりておるぞよ。
これでは世はたちてはゆかんから、神が表にあらわれて三千世界の立替え立直しをいたすぞよ。用意をなされよ。この世はさっぱり新つにいたしてしまうぞよ。三千世界の大せんたく、大そうじをいたして、天下泰平に世をおさめて万却末代つづく神国の世にいたすぞよ」
ここには大本の全精神が集約されている。大本の神はどんな神か、なぜ立替え立直しをせねばならないのか。神の経綸とは何か、また世界の人類にたいする心がまえなどがかんけつにのべられ、ドキッとするようなそのものズバリの表現のなかに、人類救済へのなみなみならぬ神の愛が感じられる。
筆先をつらぬく精神は、日本の封建社会の崩壊期から新しい時代へむかって激変する危機のさなかで、救済を叫ぶ民衆宗教としての世直しの要求を反映し、かつ継承していた。
ナオの筆先に「天理・金光・黒住・妙霊先走り、とどめに艮の金神(うしとらのこんじん)があらわれて世を立替えるぞよ」とあるが、それは神々の序列とか宗教の優劣、教団の大小の差異などについての価値規準をいうのではもちろんない。「大本の神は一人でてがらするような神ではない」「みな仲ようして下され」と示されていることからも明らかなように、幕末から明治前期にかけての変動期に出現した一連の民衆宗教の精神を継承して、明治二十五年というときに出現した大本の立場と使命とを明確にしたものと思われる。
明治二十五年といえば、政治的統制の下に「信仰の自由」をうたった「大日本帝国憲法」(明治憲法)の公布、「忠君愛国」を信条とする「教育勅語」発布の直後であり、またその二年後には、朝鮮半島への浸出をめぐって日清戦争がおこり、その後日本は急速に排外的国家主義の道をたどっていった。
民衆への圧迫、生活の窮乏と旧来の生活を激変させてゆく諸矛盾、明治維新への失望、自由民権運動の挫折などつぎつぎに民衆を重苦しい灰色の淵へ吸い込んでゆく。そしてふたたび民衆の間から復古的で農本主義的色彩のこい世直しへの期待がもえあがってきた。 大本はこのような時期を背景として、丹波の小都市・綾部に、「世を変える神」「民衆を救う神」として出現したのである。
[ 08:53 ] [ 丹(に)の国・綾部 ]
よみがえる神々
さらに、明治三十三年(1900)から35年にかけては、正しき神が鎮まる霊地をたずねてその神々をむかえる宗教的意味をもった行事が、丹波と出雲を舞台に集中的に行われる。
舞鶴沖の無人島・沓島からは、日本海の荒波を小舟でのりきって、世の元の主宰神である国祖の神霊をむかえ、酒呑童子でなだかい大江山山麓の大江町にある元伊勢内宮からは「昔の元の水晶の変らん水」がもちかえられて、大本の三つの井戸と冠島・沓島の中ほどにそそがれた。
出雲大社へは徒歩と船をのりついで参拝し、神火(神代からひきつがれているといわれる霊嗣ぎ(ひつぎ)の火)とお土をもらいうけてかえった。神火は神前にともし、お土は綾部神苑の宮屋敷どりとして広い区域にまかれている。
さらに開祖は、女人禁制の修験者の山・弥仙山(現綾部市)にひとりでこもり、大正五年(1916)には最後の出修として播州高砂沖の孤島・神島をひらいて「坤金神(ひつじさるのこんじん)」をむかえている。
これら一連の宗教的行事は、「世におちておりた、元をこしらえた、神代の生き神を世に上げる」ための神の経綸(しぐみ)の型を開祖ナオと王仁三郎が身をもって行じた神事で、大本では「出修」とよび大本独自のことがらとされている。
国祖の出現によって三千世界を立替え立直し世を一つにするための基礎的神業であり、天津神系でありながらさして政府が重要視しなかった丹波の元伊勢の水、ならびに日本神話のうえで独自の位置をもち国津神系の代表的存在である出雲大社の火が、この出修のなかに登場してくるのも、神を表にあらわす大本のしぐみからいって注目すべきことである。
出雲参拝ののち大本では毎年旧七月六日から一週間、「天地の神々があつまり会議をひらく元の場所」で、たなばたまつり(今日の神集祭)がおこなわれている。この間私的な願いごとは禁止され、国祖の隠退再現を記念する節分のまつりとともにとくに重要ないみをもつ祭典とされている。
宇宙の主神を中心に正しい神々が綾部の地にむかえられ、節分やたなばたの由緒ある祭りが綾部の地に復興し継承されていることは、綾部の土地や歴史(今日ではなお不明の部分が多いが)と無関係ではなく、注目されるべきことがらであろう。
さらに、明治三十三年(1900)から35年にかけては、正しき神が鎮まる霊地をたずねてその神々をむかえる宗教的意味をもった行事が、丹波と出雲を舞台に集中的に行われる。
舞鶴沖の無人島・沓島からは、日本海の荒波を小舟でのりきって、世の元の主宰神である国祖の神霊をむかえ、酒呑童子でなだかい大江山山麓の大江町にある元伊勢内宮からは「昔の元の水晶の変らん水」がもちかえられて、大本の三つの井戸と冠島・沓島の中ほどにそそがれた。
出雲大社へは徒歩と船をのりついで参拝し、神火(神代からひきつがれているといわれる霊嗣ぎ(ひつぎ)の火)とお土をもらいうけてかえった。神火は神前にともし、お土は綾部神苑の宮屋敷どりとして広い区域にまかれている。
さらに開祖は、女人禁制の修験者の山・弥仙山(現綾部市)にひとりでこもり、大正五年(1916)には最後の出修として播州高砂沖の孤島・神島をひらいて「坤金神(ひつじさるのこんじん)」をむかえている。
これら一連の宗教的行事は、「世におちておりた、元をこしらえた、神代の生き神を世に上げる」ための神の経綸(しぐみ)の型を開祖ナオと王仁三郎が身をもって行じた神事で、大本では「出修」とよび大本独自のことがらとされている。
国祖の出現によって三千世界を立替え立直し世を一つにするための基礎的神業であり、天津神系でありながらさして政府が重要視しなかった丹波の元伊勢の水、ならびに日本神話のうえで独自の位置をもち国津神系の代表的存在である出雲大社の火が、この出修のなかに登場してくるのも、神を表にあらわす大本のしぐみからいって注目すべきことである。
出雲参拝ののち大本では毎年旧七月六日から一週間、「天地の神々があつまり会議をひらく元の場所」で、たなばたまつり(今日の神集祭)がおこなわれている。この間私的な願いごとは禁止され、国祖の隠退再現を記念する節分のまつりとともにとくに重要ないみをもつ祭典とされている。
宇宙の主神を中心に正しい神々が綾部の地にむかえられ、節分やたなばたの由緒ある祭りが綾部の地に復興し継承されていることは、綾部の土地や歴史(今日ではなお不明の部分が多いが)と無関係ではなく、注目されるべきことがらであろう。
2006/01/31のBlog
[ 15:56 ] [ 丹(に)の国・綾部 ]
綾部の金神さん
2
神がかりになってからの開祖は神命のままに行動することがつねとなった。生活をささえ子女を養うために、これまでどおり屑買いや糸ひきの賃仕事をつづけねばならなかったが、でかけるさいは大神に行く先をたずね、その指図をすなおにきいて出かけたという。 ゆく先々では家のお床(とこ)を、きれいにきよめて神様をまつるようにいわれるので、みんながあっけにとられ、気狂いあつかいにされたこともあった。それでも開祖は神さまの話をし、笑う者があると「後で悔やむなよ」とたしなめられたという。しかしたのまれて大神に祈願すると不思議と病気がよくなおった。また開祖のいわれたとおり病人が綾部の方をむいて手をあわせ「綾部の金神さん」ととなえると、すぐ平癒するというようなおかげがたつことが多く、近在で開祖を信じしたう人々もしだいにふえてきた。
だがそのため商いができぬ日が多く暮しはますますゆきづまってしまった。それでも、ナオの苦情にたいして大神は「今日は大きな仕組(しぐみ)ができたのであるぞよ。世界の仕組のひな型が一つ一つ成就してゆくのであるから、ナオよよろこんでくれ」といい相手にされなかったという。
大本には「型」の信仰があり、大本にあったことは日本に、そして世界にあらわれるとされ、神はまず自己の意志を「綾部の大本」にヒナ型として実現されると信じられている。 だから開祖の紙屑買いについても、くらしのためとか修行というだけでなく、艮金神(うしとらのこんじん)の仕組みの大切な原型として把握される。
宇宙の主宰神である艮金神はきびしい善一筋の正しい神であったが、悪神・たたり神とされて押しこめられ、金神の系統の神々も悪神としてちりぢりばらばらに追いはらわれて世に落とされた。
そしてながい月日がすぎさり、世の親神は、かげから守護していたがその間に地上は乱れきって、にっちもさっちもいかなくなった。このままでは泥海になるよりしょうがなくなったので、艮金神がおもてにあらわれ、悪神の世をきりかえてもとの神世にかえさせることになった。
そこでまず世に落とされている神々を表にだして、三千年余りての仕組どおりにされることになる。これが他の神話体系にはみられない大本固有の「艮金神の隠退再現説」であるが、その仕組の大切な原型として神命により開祖が紙屑買いをされたので、世におとされていた神々、ちり紙のように世にすてられていた神々をすくいあげ、新しいカミにすきあげて諸国に新しく神々をまくばられる型であり、そして正しいもとの神の世に立替え立直される基礎的経綸(しぐみ)であると説明される。
開祖は神命による「型」の実行者であり、綾部はそのはじめての舞台であった。その波は日本から、さらに世界へとひろがってゆく全国宣教の口火となった直霊軍の大道布教、「素盞嗚尊(すさのおのみこと)のアジア経綸」の再現といわれる王仁三郎(おにさぶろう)の入豪、教典「霊界物語」の口述、世界平和の使命をになう人類愛善会の創立など、大本歴史の節をなす主なできごとが、つねに綾部を出発点としていることもまたゆえあってのことである。
神がかりになってからの開祖は神命のままに行動することがつねとなった。生活をささえ子女を養うために、これまでどおり屑買いや糸ひきの賃仕事をつづけねばならなかったが、でかけるさいは大神に行く先をたずね、その指図をすなおにきいて出かけたという。 ゆく先々では家のお床(とこ)を、きれいにきよめて神様をまつるようにいわれるので、みんながあっけにとられ、気狂いあつかいにされたこともあった。それでも開祖は神さまの話をし、笑う者があると「後で悔やむなよ」とたしなめられたという。しかしたのまれて大神に祈願すると不思議と病気がよくなおった。また開祖のいわれたとおり病人が綾部の方をむいて手をあわせ「綾部の金神さん」ととなえると、すぐ平癒するというようなおかげがたつことが多く、近在で開祖を信じしたう人々もしだいにふえてきた。
だがそのため商いができぬ日が多く暮しはますますゆきづまってしまった。それでも、ナオの苦情にたいして大神は「今日は大きな仕組(しぐみ)ができたのであるぞよ。世界の仕組のひな型が一つ一つ成就してゆくのであるから、ナオよよろこんでくれ」といい相手にされなかったという。
大本には「型」の信仰があり、大本にあったことは日本に、そして世界にあらわれるとされ、神はまず自己の意志を「綾部の大本」にヒナ型として実現されると信じられている。 だから開祖の紙屑買いについても、くらしのためとか修行というだけでなく、艮金神(うしとらのこんじん)の仕組みの大切な原型として把握される。
宇宙の主宰神である艮金神はきびしい善一筋の正しい神であったが、悪神・たたり神とされて押しこめられ、金神の系統の神々も悪神としてちりぢりばらばらに追いはらわれて世に落とされた。
そしてながい月日がすぎさり、世の親神は、かげから守護していたがその間に地上は乱れきって、にっちもさっちもいかなくなった。このままでは泥海になるよりしょうがなくなったので、艮金神がおもてにあらわれ、悪神の世をきりかえてもとの神世にかえさせることになった。
そこでまず世に落とされている神々を表にだして、三千年余りての仕組どおりにされることになる。これが他の神話体系にはみられない大本固有の「艮金神の隠退再現説」であるが、その仕組の大切な原型として神命により開祖が紙屑買いをされたので、世におとされていた神々、ちり紙のように世にすてられていた神々をすくいあげ、新しいカミにすきあげて諸国に新しく神々をまくばられる型であり、そして正しいもとの神の世に立替え立直される基礎的経綸(しぐみ)であると説明される。
開祖は神命による「型」の実行者であり、綾部はそのはじめての舞台であった。その波は日本から、さらに世界へとひろがってゆく全国宣教の口火となった直霊軍の大道布教、「素盞嗚尊(すさのおのみこと)のアジア経綸」の再現といわれる王仁三郎(おにさぶろう)の入豪、教典「霊界物語」の口述、世界平和の使命をになう人類愛善会の創立など、大本歴史の節をなす主なできごとが、つねに綾部を出発点としていることもまたゆえあってのことである。