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なべちゃんの散歩道
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ジャンル:丹(に)の国・綾部
Blog数:97件
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2006/01/31のBlog
綾部の金神さん 1
 ナオは少女時代から信仰心がふかく、福知山の一宮神社にはよくお参りし祭礼には能をみるのが好きだった。時々修行にゆくといってはひょっこり留守になったり、隣近所の人々の先々のことなど予言してよくいいあてたといわれる。
 ナオの信仰心は成人してますますつよくなり、貧窮のなかにあってもいつも神床をしつらえ、「天照大神、八幡大菩薩、春日大明神」の軸をかけ、「天照大神様、日天(にってん)様、月天(がってん)様、天道様、うれし権現様、七社大明神様、日本国中の大神様、御眷属様」ととなえて合掌し、神床のとなりに仏の軸と御霊を祀り、お茶を供え、その残りは「餓鬼に進ぜましょう」といって溝にながし、無縁仏にも供えたという。また年の暮れから正月にかけては夜どおしおきていて神々にお水を供え、御恩を感謝していた。
 当時の綾部には封建社会からひきついだ雑多な俗信仰があり、丹波に多い元伊勢信仰や愛宕山の火の神信仰などが行われていた。また天理教・金光教・黒住教などの新宗教やキリスト教も伝道の手をのばしていた。こうした宗教的雰囲気のなかで、やがてナオの神信心に決定的な瞬間がおとずれる。
 明治二十五年(1892)旧正月元旦ナオが数え年57才のとき、突如霊夢をみせられて尊貴な神々の世界にいざなわれ、旧正月五日にははげしい神がかりとなって艮金神(うしとらのこんじん:国常立尊:くにとこたちのみこと)の宣言が発せられた。
 その場所は今日、大本神苑に元屋敷として保存され、昭和十年の第二次弾圧事件のさい建物はこわされ、井戸(銀明水)だけが復元してのこされている。「むかしの神屋敷、ここに大地の金神さまのお宮をたてる。ここが世界の大本となる尊い地場」と筆先(ふでさき)に示され、そのしるしに開祖が万年青をうえた因縁の地である。
ナオと綾部
ナオは嘉永六年(1853)17才のとき綾部に住む叔母の出口ゆりの養女となったが、このときからナオは出口家・綾部の人となる。とくにナオの綾部入りは、ゆりの非業の死ゆえに劇的であり運命的である
出口家の家系についてはさだかでない。丹波郡丹波村真奈井で豊受大神につかえていたとも、雄略天皇の時代に伊勢国に豊受大神を遷座したさい、出口家の子孫の一部が神官としてそれにしたがったともつたえられているが、いずれにしても丹波の固有神・豊受大神につながりが深いことはまちがいない。
 ゆり夫妻には子がなく、ゆりが寡婦となってからは財産めあてに親戚からいじめられ、再婚問題もからんで苦境におとされた。ゆりにとってナオが養女となり出口家のあとをついでくれることが唯一の救いでありなぐさめであったが、もともと気のすすまなかったナオは半年ばかりで福知山へかえった。ナオに去られたゆりはめっきり気がよわくなり、親戚のひどい仕打ちにたえかね四十九才の若さで自殺した。
 しばらくたったある夜、ゆりの霊がナオの枕辺にたち、福知山へかえったことをはげしく責め、屋根瓦をはがしてどんどん投げつけ「今日で三日も四日も茶も水ももらえんのじゃがえ」となじったという。ナオはこわさのあまり「綾部へ行きます」とこたえながら布団を頭からかぶってふるえあがり、以来ゆりのはげしい死霊になやまされ床についた。一時は死んだとうわさされたほどで、ゆりのこの切なるねがいを契機としてナオは綾部の出口家とかたくむすばれることとなり、安政二年(1855)にふたたび綾部へかえった。
 その年の三月19才で中筋村の大工職・四方豊助(出口政五郎と改名)と結婚した。政五郎はお人好しで大工としては腕もたち評判もよく、数人の弟子をかかえて仕事もいそがしいほどだった。しかし政五郎は酒ずきのうえ大の楽天家であった。仕事の取引が下手で、請取仕事をしても欠損を重ねることが多く、そのうえ野芝居が何より大好きで仕事や家庭のことなど忘れて夢中となり、ゆりののこした資産も目にみえてなくなり経済的にもゆきずまってきた。
 ことにナオが51才のとき政五郎と死別してからは一文の収入もなく、当時としては最低の屑買いや糸くり糸ひきの賃仕事に、みずからはげんで生計をたてねばならなくなり、八人の子をかかえて貧窮のどん底にあえいだ。しかし「因縁の身魂」として生まれたナオは、丹波の封建的残滓のつよい片田舎にあって、下づみの生活をとおして人生や社会の色々な矛盾と重圧を肌で感じ、独自のするどい見方をふかめていった。
末娘のすみ子は当時を回想して、
 今日はさびしき秋日和
 古里なつかし幼な時
 母はその日の生計(なりわい)に
 朝まははやく夜はおそく
 姉と二人が家の番
 昼は戯れ(たわむれ)遊べども
 晩げになればさむしなる
 母を迎えに二人づれ
 川糸の細道した川の
 蛍こいぶんぶくしゃう
 岸根にとまる螢虫
 お尻まくって螢とる・・・
とうたにかきとめているが、この回想には、きびしい生活の現実となつかしいふるさとの山河のイメ-ジがたくみにだぶって、よむ人の心をうつものがある。
 今はアスファルトで舗装された綾部の町の通りも、かってはナオが毎日の賃仕事をおえて子供たちの待つ家路をいそいだことであろう。たたずめば山の木々、野の草、小川のせせらぎが、ナオのよろこびとかなしみをこめてしずかに語りかけてくる。この綾部は、大本開祖となった出口ナオをはぐくんだ修練の場であり、なつかしい土地である。
2006/01/30のBlog
大本開祖・出口ナオ
 大本開祖出口ナオは天保七年(1836)旧12月16日、丹波国福知山の貧しい大工職、桐村五郎三郎の長女として生まれた。福知山は綾部の西12キロにあり、朽木氏三万二千石の城下町としてさかえたところで、由良川と土師川が合流する丘陵には明智光秀が築いた福知山城がある。手ぶりのきれいな福知山踊は全国に知られており毎年夏の宵を市民は通りにあふれて踊りあるく。
 ナオの生まれた天保七年は天候不順がつづいたため、全国的に大飢饉がおこり民衆は飢えと貧困のどん底にくるしんだ。しかし支配権力は自己の体制保全と上層階級のことばかりを考えて民衆の救済には全く無策であった。そのためついに民衆は激昂して反抗し全国的に百姓一揆をおこしている。むしろ旗をおしたて鎌・鍬・竹槍などを手にした人海戦術がせいいっぱいであったから、権力側の武力と懐柔策のまえにおしつぶされてしまったが、民衆の世直しへの目ざめと願望・抵抗という事実のつみかさねとひろがりは、幕藩体制下の封建社会を大きくゆさぶる結果となった。
 福知山では万延元年(1860)に63ケ村におよぶ大一揆がおこり、また明治維新後に綾部では新政府の期待をうらぎった施策に反抗して二千人もの民衆が蜂起している。
 出口ナオはこのような社会の変動期のさなかに生まれたのである。ナオが後年述懐して「この世にまずない苦労をいたした」とのべているが、その言葉を地でゆくように幼少のころから苦難の重畳する山なみが、ナオの前によこたわっていた。また「その年(天保七年)には昼夜降り通しにて作物はとれぬ故、翌天保八年には金を枕にして国替え(死亡)いたしたものがたっぴつありたぞよ。因縁の身魂は生まるる年よりそうした不幸の年に生まれたのである」(「経歴の神諭」)とも記されているが、その不幸と苦難は自然の悪条件と個人的環境だけがうみだすものでなく、むしろ支配体制の矛盾に源由するもので、民衆がになわされた宿命的枷でさえあった。一庶民としての開祖の生誕は民衆のくるしみと不幸を自分のものとして生まれ、たたかいつつ生きぬき、やがて積極的にその解決をはかる救済者としてたちあらわれる運命的な出発点としてきわめて印象ぶかい。
第五話 民衆の宗教・大本 (1971年出版:綾部青年会議所、編集担当:丹の国綾部編集委員:中村潤君)
綾部よいとこ
綾部の空をあかねにそめて陽がしずかにしずむ。
町なみをすっぽりとつつんで、夜のしじまがたちこめ、由良川のせせらぎが耳をうつ。
やがて、本宮山麓にひろがる大本の神苑から、やぐら太鼓の音がひときわさえてひろがる。
人々のざわめきのなかで音頭が宵やみをひきさいてひびき、踊りの輪はしだいに大きくなる。
こうして名物の一つ愛善踊が夜のふけるのも忘れてつづくのである。

音頭はうたう。
 ヨ-イヤナ ソレ
 綾部よいとこヨイヨイ高天原と
 神のナ-定めし宮屋敷
 ソレ いや永遠によい世じゃナ
 あなたも愛 善 わたしも愛 善 よい世じゃナ
 みんな愛善 ソ-レサ愛の国
 ヨ-イナ ソレ
 綾部よいとこヨイヨイ節分まつり
 よろづナ-世の根の神祭り

 綾部並松ヨイヨイ熊野さまのお庭
 出口ナ-開祖の手植藤

 繁り栄えるヨイヨイあの白藤が
 やがてナ-世界の人を呼ぶ

 はたのはじまりヨイヨイ丹波の綾部
 あやのナ-錦のおりはじめ

この音頭は、綾部と大本が一つにとけあっている心情を血のかよったうたことばをとおして、いいあらわしているが、その作詞者は、綾部で生まれて綾部で育ったきっすいの綾部っ子、しかも「人類の母」「大地の母」ともたたえられる大本二代教主・出口すみ子刀自である。人々はこの音頭をうたい、かつおどり、しらずしらずにふるさと・綾部に身をしずめているのである。
またすみ子刀自は、綾部の市制実施を祝って”綾の里 すえは都に なるという母の言葉をまのあたり見る”ともうたわれている。母とは大本開祖 出口ナオ刀自のことであるが、その開祖の筆先にはつぎのように示されている。「氏神様の庭の白藤、梅と桜は出口直のおんれいのしるしに植えさしたのであるぞよ。白藤が栄えば綾部よくなりて末で都といたすぞよ。福知山、舞鶴は外囲い、十里四方は宮の内、綾部まん中になりて、金輪王で世を治めるぞよ」。
 綾部は将来宗教の都、文化の都、また精神的なメッカとして発展してゆくことを神は約束しているのである。あとでのべるように、綾部は宇宙の親神、民衆をすくう神が出現された地場であり、大本は「世界の元となる尊い所」として神がつくられた聖団である。だからこそ綾部は大本信徒や五万市民のふるさとというだけでなく、世界全体の心のふるさとである。しかもそれは懐古趣味的なふるさとではなく、将来に希望をたくした経綸の地でもある。一木一草にも神の光がかがやき、一挙手一投足にも民衆のねがいがこめられている。
2005/12/19のBlog
綾部藩と由良川
 九鬼氏の治世をしのぶとき必ず思い出されるのは、丹波にとって母なる大河由良川である。山間の地に 塞せしめられた日本水軍の総帥九鬼氏の郷愁をなぐさめた由良川は、古来郷土の文化、産業、経済、交通その他あらゆる社会事象の母胎をなして来た。明治までの日本海表日本への物質の運搬はほとんど、大島福知山由良湊を経て通船で行われた。川筋の村々には船舶があり、庄屋は船問屋役をかねて大いに繁盛した。
 ”位田、栗村、大島、高津、人の情けのない所”と、いまだに人々の口にされるのは、川筋の村々にとって度重なる洪水との戦いと、通船による商いの活発化によって、綾部人としてはどちらかといえば、きびしい合理性を身につけていたためと推察される。
 丹波からの下り船は、茶、木綿、うるし実、木材、竹、桐油美、木炭、楮三つ又、こんにゃく、柿、大豆等であり、上り船は酒、油かす、干いわし、塩等であった。
由良川水路が商業交通路として重要であったことは、京都、長柄屋治兵衛が宝暦九年(1759)に由良川と保津川とを運河で結んで京阪神と北国の物産とを直結しようと計ったことでもわかる。

 由良川の水を治めて五穀豊穣を願う心は、古来から綾部領主の願う処で、並松の景勝を作る綾部井堰、 義人吉次郎の物語も悲しい位田井堰は、両丹最大の灌漑施設で、その建設年代も定かでない。九鬼隆季公が寛永十年(1633)入部された時の陣屋古図にはすでに井堰用水路が描かれており、それ以前の記録はないが、井倉八幡宮の社伝には、平氏の施工と伝えられており、福原新都の大工事をなしとげた平氏の実力からして、正歴寺熊野新宮社ゆかりの重盛公がなされたとしても、少しも不思議ではない。
 領民の幸せを願う九鬼氏の心は、この井堰の改修にはたえず力をそそぎ、井堰中興の祖と仰がれる近藤代官(勝由)の名と共に綾部人にとって忘れてはならないものである。
 ”綾部川の水のひびきの中にきく
 人の心の高きしらべを” 吉井 勇
 古代より悠々と流れ、大地を潤し、時には氾濫して人々を恐れせしめ、また舟を通わせて他国の物産と情報を伝え、丹波ラインに並松に私達の心を和ませてくれる由良川は、綾部のことを次の様に語ってくれる。
 「出雲文化の土壌の上に大陸の文明が融和して高度な民力を養い、強力に流れ入る平安文化は更に伝統に磨きをかけ、足利尊氏を生んだ誇り高き里は、平和な二百三十年の九鬼氏の治世を経て、初めて郡是と大本による綾部ナショナリズムの第一の開花を見るのである」と。
藩校および郷学校
 綾部藩では四代隆寛の頃、藩校を進徳館と改め、藩士の教育に力を注いでいたが、慶応元年、十代隆備は藩の碩学近藤勝直を総督に任じ、大いに藩校を充実すると共に、領内栗村、高津、小畑等六ケ所に郷学校を建てて庶民教育に努力した。中でも栗村の広畔堂は、郷学校中随一のもので、近藤勝直の高弟沢井広重が専任教師として指導にあたった。門人には羽室嘉左衛門、芦田鹿之助、波多野鶴吉他地方のために活躍した人を多数輩出し、明治における綾部発展の基礎となったことは郷土の教育史上特筆すべきである。
 封建制度下百姓町民も自由に入りうる学校が藩の力で作られたことは日本の歴史のうちでも稀なことで、綾部はおろか遠く亀岡あたりからも入学を希望して多くの人が集まった。
 こうしてこれらの郷学校は明治五年学制発布によってその伝統を受け継いでいく各地小学校として発展して行った。
綾部藩の文教政策
 九鬼氏は歴代学問を重んじ、特に九代隆都公は山鹿素水を招いて兵学をおさめ。幕臣大野広城を預かり、奥山弘平、佐藤信淵をまねいて治世と経済立て直しの大方針を確立し、蘭学者であり名医であった新宮涼庭を接見して、治国平天下の道を説かしめた。更に十代隆備は、山崎闇斎派の学者三上是庵を、また藩医として増山守正を招いた。これらの人々と藩士の近藤勝直等の教化が相まって幕末から明治にかけて綾部の教育文化の担い手となった近藤勝由、沢井広重、宮崎清風等を生んだ。
丹波巡察記
 佐藤信淵は隆都公の請を入れて領内各村を巡り、つぶさに気候、地形、土質、作物の適否、人口動態、人情風俗等あらゆるめんから観察し、農村刷新の方策を思考し、秘記として献じたものが巡察記である。
 巡察記を貫く精神は、藩主隆都公に対する為政者としての教訓即ち領主は領民の為の存在であり、政治の根本は富の偏在をさけ、領民に恒産あらしめる安民対策にあるとする政治観であり、最早米麦作一本の自然経済では到底商業経済へ移行して行く時代には成立たないから、水田に綿を植え茶、煙草、桑等の特産物を栽培して農作物の商品化を計り、現金収入を増大せねばならないとする革新的な経済政策である。
 しかし、当時としてはあまりに革新的であったため、藩内上下の混乱を恐れられた隆都公によって手文庫の奥深く秘蔵され、ただ藩主の心を大きくゆさぶるにとどまった。
佐藤信淵と社倉講
 信淵は沼田安平、安楽嶋孫六、名張儔次郎、中西紋蔵等のまたとない協力者を得て、領内七郷をつぶさに巡察し、栽培、施肥の方法を指導し、独特の泉源法即ち社倉構の実施を施行した。これは社倉(共同貯蔵庫)を設けて、凶作対策として種籾の貯蔵と、それを利用する利殖および日掛貯金を実行する方法である。
 隆都公は財政の苦しい中から種金となる軒別銀三分づつを領民に与え、領民はこれに感激して万歳を唱えたということである。
 この社倉構は上からの命令で出来上がったものでなく、信淵の指導によって下から盛り上がったものであったから、後世永く続けられ明治中葉まで村々に残った。
 また信淵の農村指導は、直接農民を相手とし、農民の心に喰い入り、農民の味方として労をいとわず指導したので、他藩に不可能であった社倉構の設立が綾部藩において始めて可能となった。
 信淵の改革は漸次領内に綿、茶、煙草、桑等の増産となり、これらを商品化する仲買人の出現、殊に綿を原料とする木綿の製造は、家内工業化して行き広く各地に売り捌かれた。
 藩自身も国産木綿会所を設立して京都大阪方面に売り出し、その利潤によって藩財政の回復を計るなど、幕末に相当活発な産業活動が展開されることとなったのである。
隆都公と佐藤信淵
”大雷”と称せられる藩内の粛正を敢行した隆都公は、領民の疲弊は稲作改良や窮民救済等の姑息な手段では到底解決しないと考え、ブレ-ンであった新宮涼庭や奥山弘平との接触を経て、天保九年当時としては非常に進歩的な国家社会主義思想に立脚した社会運動家であり能楽の大家、佐藤信淵を招聘することに決意した。これは徳川封建制度の立脚する米麦作本位の経済政策をゆるめて商品的作物の栽培へ転換し、本格的な資本主義経済移行を目指したものだけに当時としては思い切った決断であり、綿糸、木綿、茶、煙草、蚕糸等の物産を豊かにし、農村の共栄意識を高め、明治における綾部経済興隆の基を築いたものと言わねばならない。
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