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なべちゃんの散歩道
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ジャンル:丹(に)の国・綾部
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2005/12/19のBlog
九代、九鬼隆都公の治世
 九鬼家には歴代明君が出て善政がしかれたが、特に九代隆都公は傑出しており、その治世を通じて近代綾部の基礎が固められたといって過言ではないと思う。
 封建制度の中にあって当時としては、明るい領民の気持ちを大切にした政治が、約二百三十年間続いたことが現在の綾部地方の人々に与えた影響ははかり知れない。
 ”福は内、鬼も内”九鬼の殿様を慕う意味で綾部地方に唱えられた節分のこの独特の呼称は、吉田神道にも説かれるように古代の人々の心を直ぐに現したものであるが、民衆の宗教大本に自然に取り入れられ、更に価値転換、価値附加されて、今も大本の人々を通じて日本国中となえられつつあるのである。
 隆都公の領民を思う心ばえは、天保の飢饉のおりに重役に与えられた覚え書きに面目躍如として現れており、領民の生活安定こそ藩主の責任であり使命であると信じ、領民を見殺しにする位なら自ら食を絶って死ぬまで、と言っている。ここに公の政治の出発があり、佐藤信淵の思想に共鳴した原因がある。

 次席へ納戸より内々可致通達文覚書部分・・
此上又存込も相立不申領内小前之一人に而も見殺し候様に相成候儀に而は、我等、公儀へ対し天智に向い申訳も無之様に候間、一統も我等存込を察し呉不申儀に候えば、幾日に而も食事も不致、此前領内小百姓を見殺し致し罪を存、我も同様餓死致可申し存念に候間左様に致承知候様存候・・・
飢饉と強訴
 日本における飢饉の障害は、多くは風水害、旱魃、虫害、冷害によるが、文献にあるものだけでも欽明天皇二十八年以来、明治初年までに実に二百二十五回に及んでいる。
 しかしながら前述の九鬼家の家風と古来の綾部地方の温和にして率直なる人々の気風があいまって、他藩にあったような苛烈な百姓一揆は起こらなかったのである。
すでに綾部藩初期の延宝元禄に二度強訴があり話し合いで説得している。宝暦の強訴は藩内あげての大がかりなものであったが、打ち壊しをともなわない陳情的なもので、藩よりの申し渡し状も願い出の条々について懇切にしかも今しばらく辛抱するよう情を明かしてたのみこんでいる。
 その後、綾部地方では由良川の氾濫を始め、冷害、旱魃によって度々飢饉に見舞われるのであるが、特に享保、天明、天保を三大飢饉といっている。天明の飢饉などは全国的なもので、奥州一国の餓死人数およそ二百万といわれたが、綾部領内では他領に米を売らず、他国よりも安く小売りさせ、藩の保有米で救いきれず奥羽から船で米を買い集めて一人も餓死者を出さなかった。天保の飢饉は比較的近年で今だに語りつたえられるが、葛の根はもとより、りょうぼ、蕗の芽、榎の葉まで食べ尽くした位で、九代隆都公は高値の他国米を買い入れ救民に専念し、領国よりほとんど餓死者を出さなかった、と伝えられる。
九鬼氏とその家風 編纂:吉田藤治氏(綾部JC、冊子丹の国綾部編集長)
 寛永十年(1933年)九鬼隆季公が綾部藩二万石の藩主として入部し、以前にその近辺を支配した梅原氏の屋敷地の提供をうけ由良川左岸下市場に陣屋を構築した。
 九鬼氏は藤原北家より出て十九代藤原教真が熊野別当職となり、隆真の代に紀州九鬼に住み足利尊氏に仕えた。これが九鬼氏の祖である。熊野別当職は、伝統的に南海の水軍の元締めとして隠然たる力をもっており、九鬼氏も次第に勢力を伸ばし、嘉隆の代に秀吉に仕えて、日本水軍の総大将としての地位を確立した。
 秀吉朝鮮出兵の文禄の役には旗艦に日の丸をかかげて戦い、これが日本で日の丸を使用した最初であると伝えられる。
 しかるに徳川時代に入り、海運の要衝鳥羽にあって、水軍の総元締めとして全国的な勢力を持つ九鬼氏の実力は、鎖国の方針を固めた徳川幕府のきらう所となり、その内訌に乗じられて伊予の来島氏と同様、内陸山間の綾部に封じ込められる形となったのである。
 九鬼氏は代々熊野別当職を襲い、古代神道の姿を伝える京都吉田神道とも深い関係がある。その九鬼氏が熊野信仰に厚い平氏の所領地として特に平重盛公がこよなく愛され、そして足利尊氏ゆかりの土地である綾部で新しい発足をみたことは、けだし深い因縁というべきであろう。
 その当時の何鹿郡は、旧綾部町と二、三の村部が九鬼藩にまとまっているが、あとは大名、旗本の所領地が入りくんで、お互いに一つの力となり得ず、むしろ次第に疲弊していくのである。これは特に日本制覇の興廃を決めるが如き、丹波の地場を恐れるあまり、幕藩体制の一つの仕組みとしてとられた徳川幕府の政策によるものであった。
 幕府中心の幕藩体制は必然的に諸藩の財政の貧窮と農村経済の崩壊をもたらすのであるが、九鬼氏は入部早々、下市場の陣屋及びその周辺の町屋のほとんどを火災で失い、新しく江田氏綾部城の故地に館をかまえ、今日の町並みの原型が出来上がったようである。
 その後の九鬼藩は度重なる城下の出火、江戸藩邸の焼失、出水、旱魃による不作の連続により息つくまもなく、次第に財政窮迫をつげていく。
 元来九鬼家の家風は、藩祖以来何となく穏やかで藩主と家臣あるいは領民とのつながりの中に温かい情が流れていた様である。これは、九鬼家が古来神に仕える家柄であり、また水軍の出身として船乗り気質の現れが、きびしい封建領主としてよりも、支配、被支配の感情をこえて、領民あっての藩主であるという気持ちが伝統として伝えられていたからであるといえる。
そのことは歴代、農民の保護政策に力をそそぎ、また入部以前からの土地の神社、寺院を大切にし、初代隆季公を始め歴代、田地、祭料の寄進、社殿の改築等を行っていることから見てもうかがわれる。
2005/11/22のBlog
以上、蚕糸業の時代的変遷を綴ってきたが、幾多の試練に耐え、アヤヒトに端を発した綾部における蚕糸業を「郡是製糸株式会社」という形で、大飛躍させたのは波多野鶴吉氏の尽力もさることながら綾部人の郷土産業発展への熱意と大同団結の賜ものであろう。この蚕糸業の歴史を通じ、柔和気風の中に力強さと、そして郷土愛に満ち溢れた綾部人の姿を見い出すことが出来るのである
”私しや桑こき、桑さえこけばごえんりょはない、どなたにも”

 ここで、昭和十年頃の綾部の迎えた黄金期を記したい。それは郡是をはじめとする養蚕と製糸の農工一体の隆盛を誇った蚕都綾部と皇道大本の全盛を迎えた宗都綾部の両者が、見事に一致して開花しその満を得た時代であった。
 文献によると当時、人口は年々増加が著しく、その十ケ年間に実に四十六%の躍進的増加をなし、尚発展の途上にあり。”優良町の選に入り名誉の自治旗を授与さる。小都市にはまれな下水道の完備をはじめ、数々の都市設備、病院、教育研究機関が完備す。幾多の新聞、雑誌の刊行が行なわれ、広く各地に蚕糸業の指導啓発に寄与す。工業、商業、住宅に雄大な都市計画あり、綾部の将来やまさに刮目に値すべし”等の記録が見える。
 郡是は今や世界を市場に、大きく発展をとげつつあった。又神栄製糸系の中心工場であった新綾部製糸などをはじめとする繊維工業の発展をうたい、大本は大正の法難事件など幾多の紆余曲折を経過してなお、その度に教勢いよいよ振い、全国に千数百の支別院、支部を擁し、大本運動の海外進出を実行に移していた時代。綾部の花柳界である月見町には五十有余の芸子で賑い、並松の料亭、紫水に浮ぶ川舟に遊ぶお大尽は日夜絶えず、綾部銀座と呼ばれた西町商店街は当時としては希な、アーケードが完備し、百貨店あり、名店あり、札貨で鶴亀の飾り物を作り、それを盗られぬよう日夜商工会の青年団が張番したとか、三丹の購買客を商都綾部に引き寄せていた時代であった。
 まさしく、大古より脈々と流れて釆た綾部ナショナリズムの市民意識の高揚が、豊かな綾部の自然、産業、精神宗教を背景に燃え上った黄金期、昭和十年代であった。
ここに救世主的存在として蚕業界に登場するのが、郷土の生んだ偉大な先覚者波多野鶴吉氏である。
 波多野氏は綾部藩下の大庄家羽室嘉右衛門氏の次男として生まれ幼名を鶴二郎、後鶴吉と改め慶応二年、九才にして上林の名門波多野弥左衛門氏の養子となった。
 氏の幼年時代は利口で負けずぎらいな元気者であったといわれる生まれながらのそれらの性格に加えて、実父嘉右衛門氏の厳格さ郷学校広畔堂における学業、養家の淋しい境遇の中でのかずかずの苦労、あるいは当時の外的環境一黒船騒動、桜田門外の変など一が若き波多野氏の自立心をはぐくむと同時に、明治初期における破壊より建設への青年の士の目覚ましい活躍は、氏を大きくゆさぶり、京都への遊学の意を決しさせたのである。
 京都での七年間は、養家の財を費い果たしたり、多額の借金を背負いこむなど放蕩三昧に日々を送っていたと一般には考えられていた。併しそれらは氏の向学心、探究心がなさしめたのであって 「啓蒙方程式」という著書にみられるように数学の研究、製塩事業など各種産業について、現在、将来性など綿密な調査、研究を貪欲に行っていたのである。氏の各種の試みは結果として、実現の運びとならず、経済的事情は極めて切迫し、意気に燃えて出京都した氏であるが、落魄の言い知れぬ苦悩と寂しさを胸に抱いて帰郷することとなった。
 しかし、この京都時代の試行錯誤は、氏の輝やかしい後半生の礎となったと考えられる。 帰郷後氏は小学校の教師をする傍ら、蚕業に関心をもち、蚕糸業の将来性と農村産業としての適宜性を見越し、その開発について着々と研究を進めていた。
 この過程における田中敬造氏の天蚕飼育に関する所見は事業上のそしてキリスト教への導きは精神上の大きな糧となった。
 ちょうどこの頃、綾部地方の繭や生糸が前述の「粗の魁」という烙印を押されたのである。この対策として、京都府はまず蚕糸業組合を組織し、業者共同の力によって改善をはかることが最も緊要であるとし、政府にその規則の発布方を建議し、これにより蚕糸業組合準則が発布された。
 その結果、綾部にも何鹿郡蚕糸業組合が設立され、初代組長にまだ小学校在職中で、蚕糸業とは未だ表面的には緑もゆかりもない二十九才の青年波多野氏が推され、遂に蚕糸業界の人となったのである。氏を組長にh推薦したのは、当時何鹿郡蚕糸業界の第一人者であり、蚕糸業組合設立の先頭に立っていた梅原和助氏である。この梅原氏の卓見は波多野氏個人はもとより、何鹿郡やがて京都府の、関西の、否、日本の蚕糸業に大きく貢献した。
 氏の組長就任時の綾部地方の蚕糸業は「粗の魁」と酷評されるのも頷ける状態であった。即ち、器械製糸と称するものは四十五工場座繰五十二工場のほか、手挽工場は七十にも及んだが、その規模は小さく、製糸技術も幼稚で品質も悪く、到底輸出し得る製品ではなかった。氏は高倉平兵衛氏などを群馬、福島の先進地へ派遣し、修学させ、その帰郷後、共同揚返所を設立し郡内の製品を集め、品質を検定して束装、荷造りし輸出生糸に必要な標準化、大量化をはかり次々と成果を収めていった。
 また明治二十年一頃より、各地に養蚕伝習所を開き、二十六年には高等養蚕伝習所を綾部に設立し、技術者を養成し新時代の蚕糸業界に活躍すべき人材が続々養成された。 氏の惜しみない熱意と懇切な指導精神が、やがて綾部の指導者精神にまで感化、成長したことは銘記すべきことであり、且つこれを素直に吸収した綾部人の気風は、賞賛に値するのではなかろうか。
 こうして、波多野氏を先達として何鹿郡、そして京都府の蚕糸業は躍進的発達を遂げ、漸く劣勢を挽回し、やがて郡是製糸の生るべき環境が徐々につくられてきたのである。併しこの時期における蚕糸業の実態は、まだ極めて小規模で不完全なものであった。従ってこれによる製品もまだまだ粗雑であり、綾部の蚕業は前途洋々たるではあったが、この状態では改良も増産も行い得ないのが実態であった。
 これを健全に発達させるには、資力が豊かで且つ優れた設備を有する大製糸場を創設しこれを中心として郡内蚕業の各方面の改艮発達を期すべきであると、波多野氏の胸中には大製糸工場の雄図が画かれ、時期の到釆を待っていたのである。
 忍苦精進、まさに十年、日清戦争後の経済界の好況と実業界の巨匠前田正名氏の産業開発上の国是、郡是についての綾部での大演説が郡民を刺激し、蚕糸業振興の気運が一挙に熟したのである。
 波多野氏はこの機を促え、製糸家独自の利益を目的とするのではなく、蚕糸業奨励機関、即ち産業組合製糸を根本精神として、郡民より一株二株の投資を得て郡民皆の会社である「郡是株式会社」を創立したのである。明治二十九年五月であった。
 会社は今日、内外の事情は大いに創立当時とは趣も異にしているとは言え、至純な創立精神は会社精神として、尽きることなくいよいよ浄められ、いよいよ拡充され、日本製糸業界の重鎮として確固たる地位にあり、躍進の一途を辿っている。蚕糸業発展の歴史、特に「郡是製糸株式会社」創立後その会社精神が地元綾部文化に与えた影響は計り知れない。また社員として全国各地から集る優秀な人材は、全国蚕業地のなかで、専門学校学以上の高等教育を終えた有識者の数において最高であったことにおいてもわかるように、会社の業務だけでなく、地域社会の各分野においてもそのレベルアップに計り知れない大きな役割を果していったのである。
丹の国・綾部 第六話 「蚕都をきづいた人々」 編:池田博之君
 並松の景勝をつくりながら、ゆるやかに西流している由良川沿岸の洪積台地には、多くの桑畑が散在してる.、「何鹿郡漢部」-この桑畑に綾部の養蚕の発端がある.
 古代由艮川本支流の流域には河川平野の外、山地帯に洪水地帯があって、自然に桑の立木が繁茂していたので、自然養蚕機織が営なまれるようになったと思われる。
 ここに綾部市の中心をなす市街地は古代漢部郷と称した所で、恐らく由良川をさかのぼってこの附近に土着した大陸糸の民族(即ち出雲族)が開拓したもので、彼等は一般に綾を織る技術に長じていたので、「アヤヒト」と呼ばれ集落を作って生産を始めるにつれて伴部の一種漢部としてその端を発したものであろう。
 また仁徳雄略朝(五世妃頃)の頃には急速に需要を増した絹織物大量生産のため、雄略天皇十六年詔して桑によろしき国県に課して桑を植えしめ、泰氏(応袖朝、大陸より帰化した弓月君の一族)を分ちうつして庸調を献ぜしめ、また漢部をあつめて其の伴造りを定む、とあって漢部の統率者として帰化人阿知使主の子孫が真姓を賜ったことも見えている。
 かように奈良朝から平安朝初期にかけては、伊勢、三河、相模などの国とともに、蚕糸絹業の先進地として隆盛を極め、朝廷へ数多く貢納していた。
 しかし、延喜、天歴の頃、朝威の衰退とともに、漸次、衰えはじめた。時代は保元、平治、承久の乱と続き戦国の世となり、絹の産地は全国僅か二、三ケ国となったが伝統ある綾部地方の蚕糸業は陣羽織、直衣袈裟などに需要を見い出し命脈を保ち続けた。
 更にこの蚕糸業の衰退に拍車をかけたのが江戸幕府の質素倹約の政策による禁絹令の公布であった。
 これらの厳しい環境にも拘わらず、綾部における蚕糸の強い生命力は山畑地帯、あるいは由艮川筋にわずかであるが、伝統の灯をともし続けたのである。
 我国で最も古いといわれる蚕書「蚕飼養法記」(1702年)のなかに”こまるまゆというは世上に丹波種というものなり″とあって当時すでに丹波のこまるまゆという品種が有名であったことがわかる。
ようやく、天下泰平の時代となり、庶民の間に華美の風が生まれはじめ、天和十二年遂に江戸幕府は禁絹令を解除し、蚕業奨励策へと大きく転換し、ここに綾部における養蚕業は、永年の苦難が漸く実を結び本格的発展の基盤の確立期を迎えようとした。
 然るに、この時期において封建制崩壊という大勢と、これを維持せんとする矛盾対立が複雑な様相を呈して農民は疲幣し、ひいては藩の財政をも枯らしてしまう結果となり、それに加えて飢饉、火災の頻発で綾部藩は疲幣を極めていた。
 このような藩経済の打開と窮民救済のため、藩主九鬼隆都は従来の米作を第一とする農業振興策から脱却するために、佐藤信渕を招聘し改善を要請した。それに応え信潮は領内を具さに巡察し、農村の立直しのため進歩的な改善策等を藩主に進言するとともに農村をも指導した。ところが保守的な藩役人の強硬な反対のため、思うに任せず特に蚕糸業は他の大藩に比し、積極的な奨励策をとらなかった。これが伝統ある綾部の蚕糸業の地位を大きく後退させたのである。
 安政の開国の時点において東北、関東地方の蚕糸業は機械化、工場化、そして品質向上の研究が着実に実行され、輸出体制が既に整っていた結果、明治初期には蚕糸業は主要輸出産業としての地位を確立したのに反し、千数百年の歴史を誇る綾部地方であるに拘らず旧態依然たる製法で且つ輸出には関心を示さず、内地向生糸の生産だけに甘んじ、従らに長夜の眠りを貧っていた。
 このため明治十八年、東京で開かれた全国五品共進会において、京都府出品の繭について「本会出品中、恐らくは粗の魁たらん」といわれ生糸については「該地方は人皆旧慣を墨守し、単に内地の需要にのみ充つるをもって、繰糸の方法は極めて拙く束装も区々なり」と、共に酷評をうけた。これによって長夜の夢は一時に覚めて、蚕糸業の発展向上のために奮起せぎるを得ない情勢となったのである。
2005/11/06のBlog
************** 君王山 光明寺 ***************
 秋葉権現の古びた祠の前を通り過ぎると、段をなし重なる山田が谷川に沿って奥につづく。道がふたてに別れ、光明寺に通じる山道は鬱蒼たる杉や桧の木立の中に入っていく。山肌を熊笹や羊歯が被い、石清水がチョロ、チョロと音をたて山道を濡らしている。蕗の花が咲き、椿の赤い花が深い緑の中に美しい。
 道は急坂に険しく右に左に折れ登る。下の谷からうぐいすの鳴き声が幽かに聞こえ、石仏が木の根を枕に凭れるように立つ、山道を足を滑らせ、息を切らせ千体地蔵堂に辿りつくと、大木の繁みの間から、青空がのぞき、小さな堂に日が射し込む。頭上に啄木鳥が大木を啄く甲高い音がひびき、見上げる目に午後の日射しを浴びて朱色の仁王門が美しく山門の偉容を現し建つのが見える。
 両脇の金剛力士の顔が日射しに赤く照り凄んで見えるこの仁王門は、鎌倉時代に再建され、度重なる戦乱に耐えてきた三間二面の、二重入母屋造りで、赤青の彩色が美しく、往古の姿をそのままに保たれ、今は国宝に指定され訪ね見る人が多いという。
 塔門に入ると歴代僧都の墓石が並び、左側は谷を見下ろす視界がひらけもう尾根である。
 山上はさすがまだ肌寒く、桜の蕾もかたい林を、なだらかな登りの坂道がつづき、やがてこの寺の庫裡から飼犬の吠えるのが聞こえる。不揃いに積み重ねられた石段を一段一段登りつめて、光明寺境内に入る。
 山の中腹にある境内は、山側は大木が被い重なり奥山深く原生林がどこまでも続き、谷側は急斜面に谷を見下ろし、上林谷が一望できる崖上にある。
 静寂とした境内には、千手観音をおさめ、静かに扉を閉ざす本堂が、辺りを支配するかのように大きな屋根を広げて建ち、聖徳太子、聖宝理源大師を祀る開山堂、鐘楼、宝篋印塔が配されて建っている。
 この世をも 浮きも洩らさぬ しるしには
 わがかけすめる みたらしの水
と御詠歌ににうたわれる君王山光明寺は、仏教興隆の詔が出されて七年後、推古天皇七年、(西暦599年)に聖徳太子によって創建されたという古い寺である。
 白鳳元年に大和葛木山で呪術により、鬼神を操ったという役小角がここを訪れ修験道の道場としたとも伝えられ、本堂の裏山にある小さな行者堂には小角の霊が祀られている。
 三国岳の高峰が連なるここ君王山は、延喜年間に入り、密教道場の最適の場所として醍醐寺の開祖聖宝理源大師が荒廃した道場を再興し、大峯、金峯山と並び真言密教の道場とし、全国より多くの修験者を集めたという。山上山下に七十二坊を築き、上林七里ケ谷をその寺領に治めたという。
 冬雪深く背丈ほどに積もり、夏は熊笹や夏草が被い茂り霧が濃くあたりをつつむ。原生林の中を修験者達が峯から峯へと行場を巡ぐり、於与岐の弥仙山へと険しい道を求めた昔の跡を原生林は残している。
 大永年間の細川高国と晴元の足利二将軍を互いに擁しての内訌や、明智光秀の丹波平定の戦火は殆どの殿堂を鳥有に帰したという。
 しかし、大自然は今も上林谷を支配し、深閑とした山道や境内は、修験者を待つかのように大木や熊笹が繁り、色とりどりの花や木の実が四季の変わりをつげ、山鳥が美しい囀りを聞かせている。
 また境内より半里ほど奥に入ると、府下唯一の周囲十五米もある大橡の木があるが、あたりは樹木や雑草が人の行手を遮っている。
 遠く北桑に接する尾根に霞がかかり、したに上林川が西日を受け銀色の帯を細長く山あいに流れるのを見て急ぎ足で下山する。
足利尊氏、彼は太平洋戦争が終わるまで要するに逆賊とされていた。戦後の正しい歴史の中で、その人間性を見直されようとしているが、逆賊としての、また冷酷な人間としてのイメ-ジがなかなか取り去られていない。
 尊氏は、武断一辺の武将ではなかったと思いたい。政治や軍事面で敵対することになった後醍醐天皇に対し罪業意識すらもち、清水寺に納められた願文「この世の中は、まことに、はかない夢のようなものです。わたくしに、仏心のおこるようにみちびいてください 後生をお救いください。なんとか早くうき世のわずらわしさから 抜けだしたいのです。生きているあいだの果報はのぞみません。・・」を見ても、反乱に成功し、得意の絶頂にあるべき彼の願文と誰が想像することができるであろうか。安国寺創立、天龍寺創建に寄せられる尊氏の努力をみても、冷酷な武人の姿はみられない。むしろ人間的な弱さをもった実直な人物であったと思う。
 実直なだけに、長い政権の座に安住し、闘犬や遊興に耽り、治政をかえりみない北条幕府や、婆娑羅大名に反感を抱き、源氏の惣領として、またその幕府の治政に反感を抱く源氏一族の擁立により幕府に叛き、後醍醐天皇に順じたが、天皇の建武の新政に対しても、時代の流れに逆行する反動的な体制に叛かねばならなかった彼である。
 母清子の力が大きく尊氏の心をとらえているようだ。又太郎と呼んだ子供の頃から地蔵菩薩の信仰を説き、質素、倹約、物欲を戒め、そして正しく世の中を見る目を育てたのである。「意志強固にして、死をおそれず、つねに茫洋として笑みをふくんで、矢石の間に立ち、物おしむ気少しもなく、賊宝をみること土芥のごとく」とは当時の武士達の評価である。
 尊氏の生涯は、変革の激しい乱世に生き、天下統一の使命を果たすための戦いは、あまりにも孤独であったし、義満以降の権政は、尊氏の心をあまりにも傷つけたことであろう。
 今日の泰平の世にも、尊氏の生きた時代に似た世相を感じさせられるのは私だけであろうか。
 民をなで、くにを安らふ景徳の 大悲のひかり ここにをさむる
 補陀落山観音寺からはじまる、丹波の国三十三札所の最後の札所として、室町の頃より庶民の信仰を集め、桜や楓の名所として、丹波一円にその名を拡めた当寺は、いまも静かに国土安穏の灯をともしている。
 本堂の北側に紅葉の木美しく、開祖天庵和尚の遺骨を祀った御堂が建ち、その裏側には、歴代住持の墓がしめっぽい青苔の上に霊気を漂わせながら整然と並んでいる。時代の形の相違に興味を覚える。
 一つの塔だけが、小鳥のとまり場になるのか、はげた白粉のように白くなっていた。
 かなかなや尊氏母子の墓どころ
尊氏の墓は、山を背にし母と妻に抱えられる様にして六百年余りの間風雪に耐え、尊氏はここに眠るのである。供えられた一輪の花に、かぶさるように桜の花びらが風にゆられて落ち積もる。
 「ねんねしなされ、おやすみなされ」
どこからか子守歌が風に乗って聞こえてくるような幻覚におちる。ふとうしろをふりかえると、竹やぶの向こうに見える石段を赤子を抱いた夫婦連れが登ってくる。安産の御礼参りであろう。遠くなだらかな尾根が傾きかけた日差しに美しく見える。山の向こうは上林谷であろう。
堂内には平安初期の作で、恵心僧都の作といわれる木彫りの地蔵菩薩の半価像が安置されている。右手に錫杖、左手に宝珠を持ったお姿である。
 「行春や錫杖めして子安像」(奉納歌)嘉元二年、足利貞氏の妻清子が、この地蔵尊に祈り尊氏を産んだという。以来子安延命地蔵尊として、近在の人々に信仰され、遠く若狭や丹後からも安産の祈願に訪れる人も多いとか、いまも線香の香りが濃くただよっていた。ここ安国寺は綾部市安国寺町にあり、その昔、将軍足利尊氏が相模入道高時をはじめ、元弘以来の幾多の戦乱で死んでいった武者の霊を供養し、国土安穏の祈願のため全国に安国寺利生塔を設け、人心の安定を祈願したが、貞和二年、当寺は天庵妙寿和尚が景徳山安国寺として、丹波の国に開山したのである。
 景徳山安国寺は、足利氏の厚い保護を受け多くの寺領を与えられ、盛時には寺領三千石、塔頭十六、支院二十八を数え、全国安国寺の筆頭に置かれ、京都十刹に加えられたという臨済寺である。延文三年、尊氏亡するや遺骨が納められ、その七年後に妻赤橋登子の遺骨も納められる等、代々足利氏の崇敬と保護をうけてきた。足利氏の運命と共に当寺の歴史はたどってきたのである。しかし村人たちの厚い信仰の火は安国寺を往古の姿そのままに佳境に残している。
 この寺は、安国寺になる以前、光福寺と称し、開基、年号明かでないが、上杉氏の氏寺であったという。上杉氏は建長四年後深草天皇の頃、公家勧修寺重房が宗尊親王に従い、鎌倉武士となり鎌倉に仕えたことにより上杉の莊を賜ったという。本領の名をとって上杉氏と名のるが、後に重房の孫清子が足利貞氏の妻となり、当寺光福寺の地蔵尊に安産を祈願し尊氏、直義を産んだという。憲房は尊氏、直義の伯父にあたり、憲顕はいとこになる。その上杉の莊は今も綾部市上杉町として、広々とした豊沃の田畑が秋には黄金の稲穂を稔らせている。安国寺の北側になる。
2005/11/05のBlog
丹の国・綾部---ふるさとへの回帰とその未来
第三話 足利尊氏とその周辺-編:高嶋 善夫君

京都の西、老ノ坂、観音峠をいっきに越すとそこはもう丹波の国である。由良川にそい車で約1時間半、川の流れもゆるやかになり水をまんまんと湛えるころ、由良川が流れ、前方左手に大本みろく殿の大屋根が四ツ尾山を背にして立つのが見える、あやべである。古代よりアヤビトの郷として栄えたところである。
 市街地に通じるあやべ大橋、丹波大橋を、左手にみながら、舞鶴港から北洋材を京、大阪へ運ぶトラックや磯釣り帰りの乗用車が突っ走る。平坦な道をしばらくいくと、小猫の背のような低い山が並び、その中に咲き誇る桜の繁みが目にはいる。桜にうずもれて安国寺本堂の草屋根がある。車の行き交う国道を避け旧道に入ると、川幅の狭い八田川を背に古い家並みが立ち並んでいる。参道は山に向かい、参道の中程に足利尊氏出産に使ったという産湯の井戸が格子囲いの中に古く苔蒸した姿で残っていた。竹やぶと紅葉が茂る中を、木洩れの日差しが落ちる石段を登り総門に立つ。弘化4年再建の木札が目につく、両脇に開かれた扉には、丸に二本線の入った足利氏の家紋二引両が入り、清楚ななかに格式高いものを感じる。弘化四年は天草の一揆や異人船が長崎におしよせた頃ではなかろうか、一歩門に入ると、小鳥のさえずりが冴え、一陣の春風に裏山の木の葉が波頭のように音をたて、天蓋のように庭一面に咲き競う桜がこぼれ落ちる。本堂は草屋根、華やかなものはなく、あたりの風景にふさわしく、質素な佇まいである。この安国寺は江戸享保二十年の大洪水で山津波がおこり、一山の殿堂ことごとく流失したが、寛保三年領主谷氏が、南北朝時代そのままに再現したという。
 草屋根の素朴な建物は、都から離れたふるさとの山村の風情にふさわしいのどかさがある。がらんとした堂は、広い土間に開け放された扉から光がさしこみ、正面仏壇の釈迦如来の顔に反射する。本尊釈迦如来は文殊、普賢菩薩を両脇立にし、快い調和を保って配されている。如来の顔はこちらを見下ろし、訪れる人にやさしく問いかけるように見える。
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