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なべちゃんの散歩道
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ジャンル:丹(に)の国・綾部
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2005/10/31のBlog
丹の国・綾部---ふるさとへの回帰とその未来

第二話 民話・杵の宮伝説 --編:故波多野 穣君

丹波に一丈二尺の乾鮭(からざけ)の宮あり・・・。(江戸時代、諸国の伝説珍奇なるものを集め書いた、井原西鶴の”諸国咄(ばなし)大下馬”に丹波を代表して出てくるお話の書き出しです。)

 その昔、天王平の谷裾から本宮山の麓にかけて野田川の流れる一帯は、丁度ひょうたんの形に似たドエライ大きな池でございました。

 このあたりは丈なす雑草や老樹生い茂り、昼なお暗く、それはまことに鬱蒼としたところでございました。

 須知山峠を越え、京の都へ通じる要路にあったこのあたりに、ぼやあきあかねが戯れはじめんも、薄穂が白くたなびき、あかあかとした晩秋のある日のことでございます。

 丹波から、みるからに漁夫を想わせるほど真っ黒に陽焼けした一人の乾鮭売りの男が、京への往路、寺村の山道を登りつめた、この池のほとりで一息いれようと背の荷物をおろし、キセルのひざらへ火をつけようとした時でございました。

 うしろの茂みでバタバタッと異様な物音に驚いて振り返ってみますと、村人が仕掛けておいたのでございましょう、罠に一羽の雉子(きじ)がかかって、もがいているのでございます。

 この男、生まれついての海育ち、海で獲れるもののほかは、すべてが珍しいのでございましょう。
 ”ほほ。こいつは珍しいものにお目にかかれたもんや、ひとつ京都への土産に貰うていっちやろ・・・”とばかりにこの雉子を失敬したのでございます。がこのままでは罠の主に申し訳が立たぬと想ってか、商売道具の小売り三分五厘也の乾鮭をとり出して置き、やがてスタコラサッサと急ぎ足で峠の方へと出掛けていったのでございます。

 やがてのどかだった一日もすぎ、夕焼けの陽も落ちはじめた頃、罠を仕掛けた村人が今日の獲物は・・・と、はやる気をおさえおさえやってまいりました。と、どうでしょう罠には思いもよらぬ魚がかかっており、その魚が何と鮭だったものですから、びっくり驚天、只々唖然とするばかりでございました。と申しますのもこのあたりは、大原天一位大明神(丹波国天田郡川合村)の氏子でございまして、鮭と鱒は手だに触れ申せぬ物の一ツだったのでございます。

 ”これは何ぞ神さんの思召(おぼしめ)しかも知れんぞ”と、しばらくは考えこんでおりましたものの、別段ほかによい思案も浮かばぬ事ゆえ、村人は”まあ成仏して、この池の主にでもなっとくなはれ・・・”と軽い気持ちでこの乾鮭を池の中へほうり投げたのでございます。

 くだんの鮭公、しばらく腹をみせては浮きつ沈みつしておりましたものの、やがて村人をば睨む様な目つきをしたかと思うとやがて沈んでいったのでございました。
 その光景たるや、まことに気味悪くゾッと悪寒を覚えたものですから村人はソソクサと、逃げ帰っていった様な事でございました。
 
 それから一年余り経ったでございましょうか・・・・・この池のあたりでは時々妙な事が起るようになったのでございます。
 小雨のしょぼふるある日の夕暮れどきでございました。一人の村人がこの池の端を歩いておりましたところ、何やら凄まじい姿をした異様なものを見たとかで、這々の体で家へ逃げかえったのでございます。

 そうしてその夜から突然得体の知れぬ高い熱にうなされだしたものですから、となり近所の人々が大勢あつまり、”何ぞの祟りかも知れんぞ・・・””こりゃ一体どないしたちゅうんや・・・”等と不安げに話し合っていたのでございます。とその時かの男、俄にムックリと起きあがり、おもむろにしゃべりはじめたのでございます。

 ”我大池の主なり、こののち我が言う如く、我を祀るにおいては別儀あらじ。言う如くにせざれば、彼の池のほとりの道筋を通るほどの者一人たりとも率直には通さじ、その上、近郷近在へも祟りをなすべし---。即ち、年々秋の末に至り、少女を一人づつ人身御供にそなえ申すべし。万一、この儀怠るに於いては、さまざまの祟りをなすべき事堅く申し渡すぞ---。”というやそのまま、又々夢路にさまよい、翌日は何ごともなかったかの風にて、すっかり元気な様子でございました。

 さて、寄り集まっておりました近所の人々、”こりゃどえらい事になったわい””いやそんなこと、気にする事はないて”等々、口々に話しておりましたものの、”やっぱり祟りは恐ろしいで・・・”という事になり結局、くじ引きでその年の不運とあきらめようという事になったのでございます。

 それから又、矢の如くに時が経ちました。丹後の乾鮭売りが、ふたたびこの綾の郷へやって来たのでございます。由良川で獲れる鮎の塩焼や地酒が大層楽しみなものの一つであったこの男、やがていつも馴じみの青野の宿に泊まりを乞うたのでございます。

 やがて夕膳も終り明朝の出立も早いことゆえ、寝所(ねどこ)へ入っておりましたところ、まもなく襖ごしにさめざめと、すすり泣く声が聞こえてくるのでございます。
 何事かと亭主をよんで仔細を尋ねましたところ、亭主曰く”大池の祟りのこと、人身御供のこと。又その不運が今年は我が家の順に。”等々、涙ながらに話したのでございました。

 黙って聞いておりました丹後の鮭売り、”さては”と思い当たる事があったものですから”ご亭主!!いかさま事情はよう分かりました。実は今の話し、少々思い当たるふしもあるんで、すべてはこの私めに任せて頂きたい。即ちその日は私も池の端までいって、必ずやご息女はお守りいたしますゆえ、どうか心配めされるな!ところで何か力草となる様なもんはないやろか”という事で、宿の亭主自ら、家中、村中を探しまわりまして、何処からか米かち杵をもってきたのでございます。
 ”こりゃ誠に結構々々・・・”とその男、腕をたたいて、その日のくるのを待っておったのでございます。

 愈 々その日がやってまいりました。朝から池の淵には高壇を築き、香華もそなえてのでございます。ももなく、恐ろしさにうち震える娘を一人高壇に残し、父母は勿論、近所の者皆がもの陰にかくれ垣間みておってのでございます。
 かの鮭売りの男、一人で「米かち杵」をかついで高壇の下に忍びこみ、息をひそめておりましたところ、やがて池の真中あたりが次第に波立ちはじめたのでございます。と、

 何やら得体の知れぬ怪異なものが姿をあらわし、ゆっくりと高壇の方へ近づいてくるのでございます。
 ようやく池の端までたどりついた怪物が水面をはね、あわや、娘をひき込まんとした時、くだんの鮭売りがおどり出て、、”この池の主は一体何物かと思うとったら、やっぱりあの時の三分五厘の乾鮭やないか!身の程知らずにも程があるわい。”と大声で怒鳴りながら、「米かち杵」で怪物の頭をメッタメタに、力の限り打ちのめしたのでございます。

 やがて波も静まり、物陰から急いで駈け出した父母は勿論、村の衆たちもしばらくは声もなく、ただただ肩をたたき合い、涙ながらに喜び合ったのでございました。

 ひとときが過ぎ、さて怪物の正体は?と近づいてみますと、何と五六尺はあるでしょうか、頭は鬼瓦の如しで魚の怪物でありながら翼の様なものが胸のあたりから生え、それはそれは、誠に恐ろしげな文字通り化物(おばけ)でしたから、漸くは身震いが止まらなかったと申します。

 さて、宿の亭主をはじめ村人達も、乾鮭売りがこうも易々と災いの根を断ってくれたのは、偏に氏神さんの変身であろうと、神仏の如くに敬ったのでございますが、鮭売り曰く”めっそうもない、この池の主を退治できたのは決して私の力と違いますのや、これは偏にこの「杵の威徳」やと思いますんで、どうぞこの「杵」を神さんとあがめて下され!”と、
 のちになって池田を見下ろす本宮山の中腹に祠を築き、神と仰ぐ様になったのでございます。 あなかしこ。
現在でもそうですが、本宮山と正歴寺のある那智山との間は、俗に、くら谷と呼ばれた位、陽の影さえ届かぬ誠に鬱蒼とした所でしたが、その間を切り開き、池の水を由良川へ流したところ、その跡は誠に広々とした田畑となったものですから、これを池田と名づけ現在に至っております。
 又それより少々高い所の諸木を伐り、明るい野原としたのが今の上野町一帯であります。

 その後、遙かに時移り、慶安年間に九鬼隆季(たかすえ)公の館が大火災により、坪の内下市場(現在の綾高校舎付近)より上野へ移された頃、
 杵の宮神社は、現在の若宮神社の境内に、鎮守の神様として崇められ、そののち三代藩主九鬼隆直(たかなお)公も、伊勢内外両宮の神明をも合祀され、九鬼一門の繁栄と武運長久を祈願されたと・・・記録にのこっております。
あとがき;
 杵の宮神社の由縁:「杵で鮭の化け物を退治した」というだけの伝説をもとに、綾部青年会議所十周年実行委員会の「丹の国・綾部」編集部会で話し合い、私の同級生の故波多野 穣君(西町:波多野書店)が書き上げてくれた創作民話です。
 このブログ再録を、謹んで故波多野 穣君の御霊前に捧げます。
2005/10/30のBlog
丹波はまた古代より蚕桑の適地であった。五世紀以後大陸との交渉が激しくなると、その地から帰化する人々の数も増え、その中でも養蚕機織りをおもな仕事とする漢氏(あやし)、秦氏(はたし)などが、この地に住みついていった。

 大和朝廷に属する品部の一種として、漢部(あやべ)が織物をもって朝廷に奉仕する部曲として成立する。雄略天皇の十五年には、秦氏一八〇部、一八,六七〇人あり、翌十六年七月勅して、桑に適せる国縣に命じて桑を植えしめ、秦氏を分かちて、これに住居せしめ庸調を献ぜしめ給いき、冬十月勅して漢部を集め、その伴造(とものみやっこ)を定め給うと記録に見える。

 この漢部=綾部の地には、当時すでに蚕桑織物を職とする大集落が成立していたのであろう。そして、この勅によって当地の綾人をはじめとする丹波と、京都の太秦(うずまさ)などの山城地方に住む綾人たちが、大和朝廷下の養蚕の適地に移住していったのであろう。

 丹波はまた王領たる県(あがた)があり、王室とも関係が深く、市辺忍歯皇子が雄略天皇に殺されるとき、皇子であった仁賢、顕宗天皇が難をさけて身をひそめたとあり、当時を示す物部、私部、草賀部、三宅などの地名が残っている。

 五世紀に入り氏姓制度の乱れとともに、有力氏族の争い、中央権力に反発する地方首長の動きが活発になり、武烈天皇の後継者争いが起こった。
 日本書紀には、その時の大臣、大伴金村によって、丹波に住む倭彦王(やまとひこおう)(仲哀天皇の孫)の擁立が画策されたが、王は身に危険を感じこれを受けなかったとある。

 六世紀には、仏教の大和朝廷の礼拝をめぐって、進歩的な尊仏派である大臣(おおおみ)の蘇我(そが)氏と、皇祖神派の大連(おおむらじ)の物部(もののべ)氏の大和朝廷をまきこんで血を洗う争いが起きるが、仏教崇拝派が勝ち、全国に仏教寺院の建立と仏教の礼拝の普及をみることとなる。

丹波綾部には、帰化人文化の集積と、蚕糸業の隆盛による経済力を背景として、当時地方には稀な寺院建築が行われ、美しい仏教芸術を伴う七堂伽藍の大寺であったと伝えられる、綾中廃寺趾などがそれと思える。

 更に六世紀末、政治の革新に当たり聖徳太子は、仏教政策をもって日本統一の絆となしたが、丹波綾部には、太子の開設と伝えられる君王山光明寺がある。
 また当地を何鹿(いかるが)と呼ぶのも仏典によると伝える。

 綾部には、奈良時代に設立された寺院は数多い。僧行基の開設によるものとして高源寺、普門院、日円寺、西照寺、東照寺があり、林聖上人の開基によるという楞厳(りょうごん)寺など、今日に残る由緒有ある寺院が多い。

 また仏教寺院の建設に刺激され、それまで自然物崇拝、あるいは神木、神柱の崇拝だった神々についても神社建築が行われるようになった。
 丹波綾部には、阿須々岐(あすすぎ)神社(和銅六年改祭)、島万神社(天平九年建立)などあり、以後平安時代にかけて無数の天つ神、国つ神々を祭る神社などが建立せられた。

 そして綾部は、この民衆の信仰、国津神々への祈りを基調として、日本神道、仏教、儒教思想などを総合調和し、その思想をもって今日の人間に、世界に問いかけ話しかける、平和宗教、大本を生み出した聖地として、未来に生きつづける心のふるさとである。

 綾部を散策するとき、幾多の古びた神社仏閣が、素朴な石仏達が、のどかな美しい山陰の自然の中にあり、昔の日本人の思考に私達を誘いかけるように静かな姿を見せてくれている。

 美しく目に映える青い田畑の中、新緑の山麓の中、乱れ咲く野の花々、薄紫の山つつじの花、桜、紅葉、白雪の自然に囲まれ、さえずる野鳥の声に包まれて建つ、その姿は、ふるさとの風情そのものである。
この古代日本人の習俗は、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)によく伺える。
 男子は大小となく皆いれずみす。--今、倭の水人好んで沈没して魚蛤を捕え--男子は皆みずらし(けさ衣)木綿を以って頭にかけ、その衣は横幅、但々結束して相連ね、略々縫うこともなし、婦人は被髪屈?し、衣を作ること単衣の如く、その中央を穿ち、頭を貫きて之を衣る。禾稲、紵麻を植え、蚕桑をつむぎ、細紵、?綿を出す。倭の地は温暖、冬夏生菜を食す。皆はだし。--

 この時代の人々の願いは、何であっただろうか。それは死への怖れ、生への願い、豊かな食料の確保、雨雪、暴風、洪水など季節の変化に伴う飢えへの恐れであったろう。

 そして人々の信仰は、高い山、大きな岩、大木、流れる川水などに、この自然のみのりを支配する神々の姿をみ、自然崇拝の祈りを生じたのであろう。

 原始人のものの考え方は、現代人のような科学的、合理的なものと違い、そこから原始人特有の呪術、儀礼、信仰などが発達していった。
 やがて大陸より稲作栽培が伝わり広まるが、その伝播も日本海側地帯を経由して、大陸から流入し、各地に伝播していったに違いない。

 このとき稲作技術とともに高い文化も伝播し、この時代の人々の信仰は、春の耕作前の豊作を願う祈り、秋の収穫のあとの神に捧げる感謝の祈りとなって田の神々への信仰に人々をかりたてたであろう。

 春の訪れ、雪解けと共に輝きを増した太陽の神は高山のいただき、大きな木、大きな岩に下り来まし、火となり、流れる水の神々とともに里に下りおり、田の神となるといった信仰儀礼が行われた。
 それは、高い山で行われた国見の儀式、また儀礼に用いられたという銅鐸が山より発掘されることによっても伺い知れる。

 稲作の普及によって支配階級が発生し、他氏族の統合が始まると、それは氏族統一結合のための神となっていった。
 信仰は各氏族の祖先と結びつき、氏族の守り神となり、その集落の信仰となっていった。ここに国津神々の誕生をみるのである。

 丹波という地名はまた、出雲の神である大国主命(おおくにぬしのみこと)の経営する田庭より出たと伝えられ、出雲と共に山陰道の旧国である。

 当初丹波は、出雲文化の影響のもとにあった。そこには豊作を祈る春先に行われる神事であった竹の子占い、みょうが占い、松占いなどの土産神(うぶすながみ)信仰として今日残っている土地の神々や、庶民的な恋をし、いたずらし、事荒ぶる神々といわれた須佐之男命(すさのおのみこと)、大国主命(おおくにぬしのみこと)その他さまざまな国つ神々が祭られていた。

 古代において祭礼は政治でもあった。姉の巫女(みこ)が、神託を得て祭礼を行ない、部族を統一し、弟が政治を行なう形態が普通であった。

 魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に、邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼(ひみこ)が神に仕え、その神託によって弟王が国を治めたとあるように、国津神々を祭る民俗信仰は、部族の団結を培うものであった。

 争乱のつづいた弥生中期を経て、三世紀の弥生後期には、各地に部族国家が統一されるが、ここ丹波にも丹波王国と言うべき独立国が成立した。

 これは、後代の加悦(かや)谷の巨大古墳群の存在、あるいは丹波各地に群在する古墳群によって、この地に大勢力集団があったことは明かである。

 大和朝廷の成立とその勢力拡大と共に、丹波もその勢力下に入るが、当初はまだ土地の神々や国津神々の信仰は、制限されない自治的な関係であった。

 しかしその国津神々の信仰も、それまでの三輪王朝に代わり即位した崇神天皇以後、新たに大和政権の拡大を推し進めた全国制覇に伴う、天津神々の丹波への降臨をもってその座をゆずる。

 古事記は、御肇国天皇(はつくにしらしめすすめらみこと)とよばれた崇神天皇の御代に、軍と共に天照大神を大和から各地に遷座して、新政権への従属をしいたと記している。

 丹波何鹿郡には、四道将軍の一人、彦座(うみざ)命の来臨、また丹波道主命の来臨があったといい、伊也神社にまつられているのを見る。
 こうして丹波は完全に大和朝廷の政権下に入る。

 この時代の日本人は、あげて古墳という巨大な墓作りに熱中していた。

 人々の信仰は、一応の生活の安定を得、強大な政治権力を成立せしめた時代においては、その巨大権力を誇示し、或いは個性の永遠化、永生の信仰、自らが聖なる山、神になろうとする望みとなった。
 政権の世襲化とともに、死者に対する生者の深い愛情がそれを可能にした。

 丹波においても、その有力氏族の長を祭る古墳が、その権力を基に造られた。今日各地に存在発見される大小の古墳、九州西都原の古墳群に匹敵するといわれた以久田野古墳群などがそれである。

 またあやめ塚、聖(ひじり)塚などの日本当初のものと見られる、大陸墓制の形状を伝える方墳が存在することは、当地の大陸文化との関係に何か示唆を与えてくれる。

 この古墳時代もやがて到来する仏教、儒教思想の伝播とともに終わりを告げる。それは、新思想がもはや古墳などによって権力の誇示や永生思想、世界意志の表現をする必要をなくしたときであった。
丹の国・綾部 ふるさとへの回帰とその未来

 第一話 国津神のふるさと --編:なべちゃん-
こころのふるさとというとき、私達日本人は何か自然に宿る神秘なもの、精神的なものの存在にそれを見出すのではないだろうか。

 それは古代日本人より受け継がれて来た山、石、水、火、太陽などに宿る神々への信仰にはじまり、庶民の生活に根づいた道祖神、土産神、あるいは、恋し冒険し土の臭いのする八百万の国つ神々への信仰の中になお強く感じられる。

 又それは今日になお細々と、しかし根強く伝承されて来た庶民の生活の喜び、悲しみ、怖れなどの感情を歌いあげたお祭り、祝事、神事、伝説、神話などに接するとき、又村々の古びた宮社などに接したとき、私達の心によみがえってくる郷愁でもある。

 もちろんそれは、日本を統一した皇祖神の天つ神々の信仰、そして外国より伝来した仏教、儒教などの経典、仏像、寺院などの中にもあるが、それらは歴史の中で政治の主流として、余りにも形式化されてしまったように思える。

 それは今日の物質的西洋文明の合理主義に偏し進んで来た社会。機械化、情報化、非人間化、人間疎外、過密、公害、享楽的なレジャ-、低俗な精神文明などの洪水の中であえいでいる私達の心に、それら日本古来のものは、心のふるさととして、何かひっそりと、しかも高まる情緒をもって語りかけて来るのである。

 そしてここ日本のふるさと、日本人の心のふるさとである丹波(たんば)、何鹿(いかるが)の里、綾部の歴史を回想しながら、この地を逍遙するとき、私達はいたるところでふるさとを発見し、昔(いにしえ)の日本人の大らかな心に感銘を覚える時間が持てる。

 綾部地方は、非常に古くから人が住みつき開けていった。ここは日本のほぼ中央に位置し近畿の北の玄関口といえる日本列島最大屈曲部をなす入り江である若狭舞鶴湾に背面して立地している。

 原始時代の運まかせの大陸からの移住、出雲地方、さらに遠く北九州から海岸沿いの水路による近畿地方への人々の侵入は、ずっと以後の大和朝廷の成立する時代に、大陸から九州、瀬戸内を経由し、大和平野に上陸する海上ル-トが確立されるが、それまでは日本海を利用する短い海上交通を経て、日本海側より行われた。

 民族の移住にともなう文化の伝播交流などを考えると、日本海側地帯こそ今日と違い日本の表側であったといえよう。
 丹波は、中国山脈の東端に位置する低い、なだらかな山稜と、その間を流れる大小の河川ぞいに展開する平野、盆地、谷あいからなる非常におだやかな地形のところである。

 丹波唯一の大河である由良川は、京都市北山の分水嶺にその端を発し、清く豊かな水量をもって流れ、丹波ラインと呼ばれる景勝地をなしている。
 その流域の両側には、段丘状の広い洪積台地が発達し、また綾部に入っては広く開けて、綾部盆地より続く福知山盆地の自然美に富んだ沃野を緩流し、再び河守などの広い氾濫原を経て、丹後由良より若狭湾にそそいでいる。
 古代人は、由良川河口より水路を遡上し、川沿いに移住していったと思える。

 丹波は、非常に豊かな山野の稔りがあり、狩猟生活時代の古代人が、季節的に徘徊して食料を得るには、まさに最適の恵まれた自然であったに違いない。

 由良川の大氾濫原に点在する川、湖、沼に住む、あゆ、ます、こい、ふな、なまず、うぐい等の川魚、しじみ、からす貝、たにし等の貝類、河原に群生する桑の実、竹の子、そしてまわりの低い山地は、栗、かし、しい、なら、どんぐり、くるみ、とちの実などの、保存のきく粉食用の堅果類の宝庫であり、稲作農業以前にあったといわれる堅果類栽培農業の立地条件に近い自然であったと思える。

 柿、なつめ、あけび、山ぐみ、野いちご等の果物、わらび、ぜんまい、やまいも、みょうが、さんしょう等の山菜、しいたけ、まったけ等のきのこ類。いのしし、鹿、かもしか、野うさぎ、くま、さる等の小動物。かも、きじ、山ばと、こうのとり等の野鳥。
 これらは今日の丹波を特色づける数々の産物である。また桑に自生する蚕(かいこ)よりとれる糸は、当時より貴重な衣料として利用された。
2005/10/29のBlog
[ 10:15 ] [ 丹(に)の国・綾部 ]
冊子「丹の国・綾部」: 1972年(昭和46)に綾部青年会議所の認証10周年記念事業として編集・出版されました。3千部の限定出版であり、その後JCル-ムが類焼により被災、一切の資料が失われました。それで冊子「丹の国・綾部」の再録を私の課題として取り組んできましたが、まだ半分を終えたところです。
 このプロロ-グ再録を、プロロ-グの執筆者であり、「丹の国」の生みの親:綾部青年会議所 第6代理事長・認証10周年実行委員長 故塩見 清毅氏の御霊前に、氏が、ふるさとあやべに対して限りなく燃やされた情熱と先見性と業績を偲びながら捧げます。
------------------------------------
プロロ-グ 著:故塩見清毅氏
燃えよ 丹の国

太古
丹波は丹の湖であった
赤々とした水面が
果しない拡がりを見せ
その波うつさまは
まるで燎原の火であった

大国主命が
この丹の湖の水を
今の保津川に引きこんで
干拓したと伝えられ
豊饒にして、古い
日本の原像を秘めた
この国の歴史は始まった

既に長い長い年月は流れ
現在---
この国の山も水も邑も
陰湿な濃霧につつまれ
泥土の如く沈み
黙りこくってしまった

文明の海の流れは
誘蛾燈のように
人々を乱舞させ狂喜させたが
そのあとは・・・・・・
いいようもない
虚無と倦怠と残滓に
おそわれ・・・・・・

心ある人々は
眼を細めるようにして
遠い太古の
丹々とした
燃えるような
湖の色を 光を
恋うようになった

丹は 赤
人間のあたたかい心であり
その波よせるところ
丹波の国である
人々のもとめる真実の灯の流れは
実は この陰湿な泥土と化した
この国の地底にある

霧をはらって
ポンペイの発掘の一鍬は
この国の中真
「綾部」の邑から
土着した 自らの手で
今こそ
始められねばならない

虚構から真実へ
物質から精神への
新しい大きな歴史のうねりの中で
渇仰する人々のためにも
そして自らのためにも
始められねばならない

おそらくは
積層された泥土は
深く 厚いにちがいない
しかし 掘りあてた
地下水の 耐えに耐えた
その赤いほとばしりは
一瞬にして
野山を
赤き満々たる
太古の丹の湖に
再現するであろう
2004/07/17のBlog
[ 13:42 ] [ 丹(に)の国・綾部 ]
綾部の都市像づくりに、大きな示唆を提供してきました「丹の国・綾部」
「第4話:九鬼氏と綾部の人々」をHPに再録しました。
当時の編集長、執筆者の吉田藤治氏の紹介文もご覧ください。

丹の国・綾部 「第4話:九鬼氏と綾部の人々」再録にあたって
 30年前、当時の綾部青年会議所は、今は亡き賢人、塩見清毅さんのリ-ダ-シップの下、鍋師有、大槻高仁、高嶋善夫、故波多野穣、池田博之、吉田等が相集い、昼となく夜となく、綾部の再発見と明るい未来を目指して市内をくまなく廻り、市内の数え切れない方々と語らい、写真を撮り、神社仏閣、史跡、古文化財、山、川と出会い、物狂いのように活動したものでした。
 その間、数多の方々のお世話になり、心温まるおもてなしを受け、心交わせた時間を持つことが出来ましたし、私達もまた如何に勉強が足らないかを痛感したものでした。
 かように綾部青年会議所発足以来の綾部に対する熱い思いは、先輩諸氏の若者らしい活発なる諸事業の積み重ねという大きな財産の上に、芽から苗、若木へと成長し、「ふるさと綾部の再発見と明るい未来像を目指して」を一つの集大成として、「丹の国・綾部」2冊組が、丹の色の函に入った大冊として発刊されたのであります。
 この一見無謀とも云える事業は、当時の文化協会の皆様方、ことに山崎巌先生を始め歴史学者の先生方から、こういうアプロ-チもあるという一定の評価を頂き、日本青年会議所会頭賞にノミネ-トされるという栄誉に浴したのでした。
 その後、久木、平野など後輩諸氏の更なる活動の積み重ねにより、綾部市民憲章制定後の活動展開へと昇華して行ったのであります。
しかしながら、その後の高度経済成長、いわゆるバブルとその崩壊の年月を経て、この精神は次第に影薄きものとなり、いつしか過去のものとなった観がありましたが、バブル崩壊後の低成長、国際化、IT化等の流れの中で、日本の国全体が全ての面でといっていいほど混迷からの再生へ向かって、混沌と改革の歩みをつづける今日であります。
 綾部自体も新しい都市像を確立すべき時がやって来たように思うにつけても、この「丹の国・綾部」の精神は間違っていなかったと思いますし、
 綾部市の新しい都市像に「平和と環境」という中心柱をしっかと打ち立て、「やさしさ」と「いやし」と「やすらぎ」の丹の国・綾部に向かって、今こそ市民一丸となり、しっかりと歩み出すべき時が来たと思うのであります。
 この「第二の丹の国運動」ともいうべき市民運動の大きなうねりを促すためにも、この
「丹の国・綾部」HPの再録は、時宜に適った快挙であると思うと共に、世の評価をあら
ためて問いたいと思う心、切であります。
 h16,7,7 星の美しい夜に 吉田藤治(丹の国・綾部編集部長)
 HP編集者注:文中、綾部JC会員の敬称を略しました。
 http://www5.nkansai.ne.jp/users/nbcayabe/kaiki/kuki.htm

 追記:母なる大河「由良川」の流れに映す、綾部の歴史の要約、吉田藤治さんの名文です。
 古代より悠々と流れ、大地を潤し、時には氾濫して人々を恐れせしめ、また舟を通わせて他国の物産と情報を伝え、丹波ラインに並松に私達の心を和ませてくれる由良川は、綾部のことを次の様に語ってくれる。
 「出雲文化の土壌の上に大陸の文明が融和して高度な民力を養い、強力に流れ入る平安文化は更に伝統に磨きをかけ、足利尊氏を生んだ誇り高き里は、平和な二百三十年の九鬼氏の治世を経て、初めて郡是と大本による綾部ナショナリズムの第一の開花を見るのである」と。
2004/07/07のBlog
表記の文章を収録し、当時の執筆者である吉田藤治さんに送った。
HP再録の前書き紹介文を書いて貰い同時に公開する予定である。
 偶然にも、文化財を守る会の35周年記念講演会で
綾部史談会会長の山崎 巌氏が「九鬼氏歴代の藩主とその藩士たち」の
テ-マで話されると聞き、山崎先生のお宅へ伺った。

九鬼氏の角をとった「鬼:カミ」その中でも重要な方位として祀られた
「うしとらの金神
大本の主宰神、隠退再現説の「うしとらの金神」の一致を、
丹波綾部の風土の中で考えられないかの質問をした。

 綾部には、福知山、舞鶴とはまた違った精神的風土がある。大本しかり、
郡是のキリスト教精神による女工教育、戦後の世界連邦の取り組みしかり
という事であった。

 善政をしかれた九鬼の殿様を慕って広まった「鬼も内」の節分の逸話は、
すでに考察されているが、この「うしとらの金神」について、吉田藤治さんにそれらの
資料を渡し、地場綾部市民ナショナリズムでの「丹の国・捕話=創作」の執筆も
お願いしてきた。
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