丹の国・綾部 第六話 「蚕都をきづいた人々」 丹の国綾部へ

 並松の景勝をつくりながら、ゆるやかに西流している由良川沿岸の洪積台地には、多くの桑畑が散在してる.、「何鹿郡漢部」−この桑畑に綾部の養蚕の発端がある.
 古代由艮川本支流の流域には河川平野の外、山地帯に洪水地帯があって、自然に桑の立木が繁茂していたので、自然養蚕機織が営なまれるようになったと思われる。
 ここに綾部市の中心をなす市街地は古代漢部郷と称した所で、恐らく由良川をさかのぼってこの附近に土着した大陸糸の民族(即ち出雲族)が開拓したもので、彼等は一般に綾を織る技術に長じていたので、「アヤヒト」と呼ばれ集落を作って生産を始めるにつれて伴部の一種漢部としてその端を発したものであろう。
 また仁徳雄略朝(五世妃頃)の頃には急速に需要を増した絹織物大量生産のため、雄略天皇十六年詔して桑によろしき国県に課して桑を植えしめ、泰氏(応袖朝、大陸より帰化した弓月君の一族)を分ちうつして庸調を献ぜしめ、また漢部をあつめて其の伴造りを定む、とあって漢部の統率者として帰化人阿知使主の子孫が真姓を賜ったことも見えている。
 かように奈良朝から平安朝初期にかけては、伊勢、三河、相模などの国とともに、蚕糸絹業の先進地として隆盛を極め、朝廷へ数多く貢納していた。
 しかし、延喜、天歴の頃、朝威の衰退とともに、漸次、衰えはじめた。時代は保元、平治、承久の乱と続き戦国の世となり、絹の産地は全国僅か二、三ケ国となったが伝統ある綾部地方の蚕糸業は陣羽織、直衣袈裟などに需要を見い出し命脈を保ち続けた。
 更にこの蚕糸業の衰退に拍車をかけたのが江戸幕府の質素倹約の政策による禁絹令の公布であった。
 これらの厳しい環境にも拘わらず、綾部における蚕糸の強い生命力は山畑地帯、あるいは由艮川筋にわずかであるが、伝統の灯をともし続けたのである。
 我国で最も古いといわれる蚕書「蚕飼養法記」(1702年)のなかに”こまるまゆというは世上に丹波種というものなり″とあって当時すでに丹波のこまるまゆという品種が有名であったことがわかる。
ようやく、天下泰平の時代となり、庶民の間に華美の風が生まれはじめ、天和十二年遂に江戸幕府は禁絹令を解除し、蚕業奨励策へと大きく転換し、ここに綾部における養蚕業は、永年の苦難が漸く実を結び本格的発展の基盤の確立期を迎えようとした。
 然るに、この時期において封建制崩壊という大勢と、これを維持せんとする矛盾対立が複雑な様相を呈して農民は疲幣し、ひいては藩の財政をも枯らしてしまう結果となり、それに加えて飢饉、火災の頻発で綾部藩は疲幣を極めていた。
 このような藩経済の打開と窮民救済のため、藩主九鬼隆都は従来の米作を第一とする農業振興策から脱却するために、佐藤信渕を招聘し改善を要請した。それに応え信潮は領内を具さに巡察し、農村の立直しのため進歩的な改善策等を藩主に進言するとともに農村をも指導した。ところが保守的な藩役人の強硬な反対のため、思うに任せず特に蚕糸業は他の大藩に比し、積極的な奨励策をとらなかった。これが伝統ある綾部の蚕糸業の地位を大きく後退させたのである。
 安政の開国の時点において東北、関東地方の蚕糸業は機械化、工場化、そして品質向上の研究が着実に実行され、輸出体制が既に整っていた結果、明治初期には蚕糸業は主要輸出産業としての地位を確立したのに反し、千数百年の歴史を誇る綾部地方であるに拘らず旧態依然たる製法で且つ輸出には関心を示さず、内地向生糸の生産だけに甘んじ、従らに長夜の眠りを貧っていた。
 このため明治十八年、東京で開かれた全国五品共進会において、京都府出品の繭について「本会出品中、恐らくは粗の魁たらん」といわれ生糸については「該地方は人皆旧慣を墨守し、単に内地の需要にのみ充つるをもって、繰糸の方法は極めて拙く束装も区々なり」と、共に酷評をうけた。これによって長夜の夢は一時に覚めて、蚕糸業の発展向上のために奮起せぎるを得ない情勢となったのである。
 ここに救世主的存在として蚕業界に登場するのが、郷土の生んだ偉大な先覚者波多野鶴吉氏である。
 波多野氏は綾部藩下の大庄家羽室嘉右衛門氏の次男として生まれ幼名を鶴二郎、後鶴吉と改め慶応二年、九才にして上林の名門波多野弥左衛門氏の養子となった。
 氏の幼年時代は利口で負けずぎらいな元気者であったといわれる生まれながらのそれらの性格に加えて、実父嘉右衛門氏の厳格さ郷学校広畔堂における学業、養家の淋しい境遇の中でのかずかずの苦労、あるいは当時の外的環境一黒船騒動、桜田門外の変など一が若き波多野氏の自立心をはぐくむと同時に、明治初期における破壊より建設への青年の士の目覚ましい活躍は、氏を大きくゆさぶり、京都への遊学の意を決しさせたのである。
 京都での七年間は、養家の財を費い果たしたり、多額の借金を背負いこむなど放蕩三昧に日々を送っていたと一般には考えられていた。併しそれらは氏の向学心、探究心がなさしめたのであって 「啓蒙方程式」という著書にみられるように数学の研究、製塩事業など各種産業について、現在、将来性など綿密な調査、研究を貪欲に行っていたのである。氏の各種の試みは結果として、実現の運びとならず、経済的事情は極めて切迫し、意気に燃えて出京都した氏であるが、落魄の言い知れぬ苦悩と寂しさを胸に抱いて帰郷することとなった。
 しかし、この京都時代の試行錯誤は、氏の輝やかしい後半生の礎となったと考えられる。 帰郷後氏は小学校の教師をする傍ら、蚕業に関心をもち、蚕糸業の将来性と農村産業としての適宜性を見越し、その開発について着々と研究を進めていた。
 この過程における田中敬造氏の天蚕飼育に関する所見は事業上のそしてキリスト教への導きは精神上の大きな糧となった。
 ちょうどこの頃、綾部地方の繭や生糸が前述の「粗の魁」という烙印を押されたのである。この対策として、京都府はまず蚕糸業組合を組織し、業者共同の力によって改善をはかることが最も緊要であるとし、政府にその規則の発布方を建議し、これにより蚕糸業組合準則が発布された。
 その結果、綾部にも何鹿郡蚕糸業組合が設立され、初代組長にまだ小学校在職中で、蚕糸業とは未だ表面的には緑もゆかりもない二十九才の青年波多野氏が推され、遂に蚕糸業界の人となったのである。氏を組長にh推薦したのは、当時何鹿郡蚕糸業界の第一人者であり、蚕糸業組合設立の先頭に立っていた梅原和助氏である。この梅原氏の卓見は波多野氏個人はもとより、何鹿郡やがて京都府の、関西の、否、日本の蚕糸業に大きく貢献した。
 氏の組長就任時の綾部地方の蚕糸業は「粗の魁」と酷評されるのも頷ける状態であった。即ち、器械製糸と称するものは四十五工場座繰五十二工場のほか、手挽工場は七十にも及んだが、その規模は小さく、製糸技術も幼稚で品質も悪く、到底輸出し得る製品ではなかった。氏は高倉平兵衛氏などを群馬、福島の先進地へ派遣し、修学させ、その帰郷後、共同揚返所を設立し郡内の製品を集め、品質を検定して束装、荷造りし輸出生糸に必要な標準化、大量化をはかり次々と成果を収めていった。
 また明治二十年一頃より、各地に養蚕伝習所を開き、二十六年には高等養蚕伝習所を綾部に設立し、技術者を養成し新時代の蚕糸業界に活躍すべき人材が続々養成された。 氏の惜しみない熱意と懇切な指導精神が、やがて綾部の指導者精神にまで感化、成長したことは銘記すべきことであり、且つこれを素直に吸収した綾部人の気風は、賞賛に値するのではなかろうか。
 こうして、波多野氏を先達として何鹿郡、そして京都府の蚕糸業は躍進的発達を遂げ、漸く劣勢を挽回し、やがて郡是製糸の生るべき環境が徐々につくられてきたのである。併しこの時期における蚕糸業の実態は、まだ極めて小規模で不完全なものであった。従ってこれによる製品もまだまだ粗雑であり、綾部の蚕業は前途洋々たるではあったが、この状態では改良も増産も行い得ないのが実態であった。
 これを健全に発達させるには、資力が豊かで且つ優れた設備を有する大製糸場を創設しこれを中心として郡内蚕業の各方面の改艮発達を期すべきであると、波多野氏の胸中には大製糸工場の雄図が画かれ、時期の到釆を待っていたのである。
 忍苦精進、まさに十年、日清戦争後の経済界の好況と実業界の巨匠前田正名氏の産業開発上の国是、郡是についての綾部での大演説が郡民を刺激し、蚕糸業振興の気運が一挙に熟したのである。
 波多野氏はこの機を促え、製糸家独自の利益を目的とするのではなく、蚕糸業奨励機関、即ち産業組合製糸を根本精神として、郡民より一株二株の投資を得て郡民皆の会社である「郡是株式会社」を創立したのである。明治二十九年五月であった。
 会社は今日、内外の事情は大いに創立当時とは趣も異にしているとは言え、至純な創立精神は会社精神として、尽きることなくいよいよ浄められ、いよいよ拡充され、日本製糸業界の重鎮として確固たる地位にあり、躍進の一途を辿っている。蚕糸業発展の歴史、特に「郡是製糸株式会社」創立後その会社精神が地元綾部文化に与えた影響は計り知れない。また社員として全国各地から集る優秀な人材は、全国蚕業地のなかで、専門学校学以上の高等教育を終えた有識者の数において最高であったことにおいてもわかるように、会社の業務だけでなく、地域社会の各分野においてもそのレベルアップに計り知れない大きな役割を果していったのである。
 以上、蚕糸業の時代的変遷を綴ってきたが、幾多の試練に耐え、アヤヒトに端を発した綾部における蚕糸業を「郡是製糸株式会社」という形で、大飛躍させたのは波多野鶴吉氏の尽力もさることながら綾部人の郷土産業発展への熱意と大同団結の賜ものであろう。この蚕糸業の歴史を通じ、柔和気風の中に力強さと、そして郷土愛に満ち溢れた綾部人の姿を見い出すことが出来るのである
”私しや桑こき、桑さえこけばごえんりょはない、どなたにも”

 ここで、昭和十年頃の綾部の迎えた黄金期を記したい。それは郡是をはじめとする養蚕と製糸の農工一体の隆盛を誇った蚕都綾部と皇道大本の全盛を迎えた宗都綾部の両者が、見事に一致して開花しその満を得た時代であった。
 文献によると当時、人口は年々増加が著しく、その十ケ年間に実に四十六%の躍進的増加をなし、尚発展の途上にあり。”優良町の選に入り名誉の自治旗を授与さる。小都市にはまれな下水道の完備をはじめ、数々の都市設備、病院、教育研究機関が完備す。幾多の新聞、雑誌の刊行が行なわれ、広く各地に蚕糸業の指導啓発に寄与す。工業、商業、住宅に雄大な都市計画あり、綾部の将来やまさに刮目に値すべし”等の記録が見える。
 郡是は今や世界を市場に、大きく発展をとげつつあった。又神栄製糸系の中心工場であった新綾部製糸などをはじめとする繊維工業の発展をうたい、大本は大正の法難事件など幾多の紆余曲折を経過してなお、その度に教勢いよいよ振い、全国に千数百の支別院、支部を擁し、大本運動の海外進出を実行に移していた時代。綾部の花柳界である月見町には五十有余の芸子で賑い、並松の料亭、紫水に浮ぶ川舟に遊ぶお大尽は日夜絶えず、綾部銀座と呼ばれた西町商店街は当時としては希な、アーケードが完備し、百貨店あり、名店あり、札貨で鶴亀の飾り物を作り、それを盗られぬよう日夜商工会の青年団が張番したとか、三丹の購買客を商都綾部に引き寄せていた時代であった。
 まさしく、大古より脈々と流れて釆た綾部ナショナリズムの市民意識の高揚が、豊かな綾部の自然、産業、精神宗教を背景に燃え上った黄金期、昭和十年代であった。