はじめに;
 杵の宮神社の由縁:「杵で鮭の化け物を退治した」というだけの伝説をもとに、
綾部青年会議所十周年実行委員会の「丹の国・綾部」編集部会で話し合い、
私の同級生の故波多野 穣君(西町:波多野書店)が書き上げてくれた創作民話です。
 このホ−ムペ−ジへの収録を、謹んで故波多野 穣君の御霊前に捧げます。

丹の国・綾部
ふるさとへの回帰とその未来

第二話  民話・杵の宮伝説
 丹波に一丈二尺の乾鮭(からざけ)の宮あり・・・。(江戸時代、諸国の伝説珍奇なるものを集め書いた、井原西鶴の”諸国咄(ばなし)大下馬”に丹波を代表して出てくるお話の書き出しです。)

 その昔、天王平の谷裾から本宮山の麓にかけて野田川の流れる一帯は、丁度ひょうたんの形に似たドエライ大きな池でございました。

 このあたりは丈なす雑草や老樹生い茂り、昼なお暗く、それはまことに鬱蒼としたところでございました。

 須知山峠を越え、京の都へ通じる要路にあったこのあたりに、ぼやあきあかねが戯れはじめんも、薄穂が白くたなびき、あかあかとした晩秋のある日のことでございます。

 丹波から、みるからに漁夫を想わせるほど真っ黒に陽焼けした一人の乾鮭売りの男が、京への往路、寺村の山道を登りつめた、この池のほとりで一息いれようと背の荷物をおろし、キセルのひざらへ火をつけようとした時でございました。

 うしろの茂みでバタバタッと異様な物音に驚いて振り返ってみますと、村人が仕掛けておいたのでございましょう、罠に一羽の雉子(きじ)がかかって、もがいているのでございます。

 この男、生まれついての海育ち、海で獲れるもののほかは、すべてが珍しいのでございましょう。
 ”ほほ。こいつは珍しいものにお目にかかれたもんや、ひとつ京都への土産に貰うていっちやろ・・・”とばかりにこの雉子を失敬したのでございます。がこのままでは罠の主に申し訳が立たぬと想ってか、商売道具の小売り三分五厘也の乾鮭をとり出して置き、やがてスタコラサッサと急ぎ足で峠の方へと出掛けていったのでございます。

 やがてのどかだった一日もすぎ、夕焼けの陽も落ちはじめた頃、罠を仕掛けた村人が今日の獲物は・・・と、はやる気をおさえおさえやってまいりました。と、どうでしょう罠には思いもよらぬ魚がかかっており、その魚が何と鮭だったものですから、びっくり驚天、只々唖然とするばかりでございました。と申しますのもこのあたりは、大原天一位大明神(丹波国天田郡川合村)の氏子でございまして、鮭と鱒は手だに触れ申せぬ物の一ツだったのでございます。

 ”これは何ぞ神さんの思召(おぼしめ)しかも知れんぞ”と、しばらくは考えこんでおりましたものの、別段ほかによい思案も浮かばぬ事ゆえ、村人は”まあ成仏して、この池の主にでもなっとくなはれ・・・”と軽い気持ちでこの乾鮭を池の中へほうり投げたのでございます。

 くだんの鮭公、しばらく腹をみせては浮きつ沈みつしておりましたものの、やがて村人をば睨む様な目つきをしたかと思うとやがて沈んでいったのでございました。
 その光景たるや、まことに気味悪くゾッと悪寒を覚えたものですから村人はソソクサと、逃げ帰っていった様な事でございました。
 
 それから一年余り経ったでございましょうか・・・・・この池のあたりでは時々妙な事が起るようになったのでございます。
 小雨のしょぼふるある日の夕暮れどきでございました。一人の村人がこの池の端を歩いておりましたところ、何やら凄まじい姿をした異様なものを見たとかで、這々の体で家へ逃げかえったのでございます。

 そうしてその夜から突然得体の知れぬ高い熱にうなされだしたものですから、となり近所の人々が大勢あつまり、”何ぞの祟りかも知れんぞ・・・””こりゃ一体どないしたちゅうんや・・・”等と不安げに話し合っていたのでございます。とその時かの男、俄にムックリと起きあがり、おもむろにしゃべりはじめたのでございます。

 ”我大池の主なり、こののち我が言う如く、我を祀るにおいては別儀あらじ。言う如くにせざれば、彼の池のほとりの道筋を通るほどの者一人たりとも率直には通さじ、その上、近郷近在へも祟りをなすべし−−−。即ち、年々秋の末に至り、少女を一人づつ人身御供にそなえ申すべし。万一、この儀怠るに於いては、さまざまの祟りをなすべき事堅く申し渡すぞ−−−。”というやそのまま、又々夢路にさまよい、翌日は何ごともなかったかの風にて、すっかり元気な様子でございました。

 さて、寄り集まっておりました近所の人々、”こりゃどえらい事になったわい””いやそんなこと、気にする事はないて”等々、口々に話しておりましたものの、”やっぱり祟りは恐ろしいで・・・”という事になり結局、くじ引きでその年の不運とあきらめようという事になったのでございます。

 それから又、矢の如くに時が経ちました。丹後の乾鮭売りが、ふたたびこの綾の郷へやって来たのでございます。由良川で獲れる鮎の塩焼や地酒が大層楽しみなものの一つであったこの男、やがていつも馴じみの青野の宿に泊まりを乞うたのでございます。

 やがて夕膳も終り明朝の出立も早いことゆえ、寝所(ねどこ)へ入っておりましたところ、まもなく襖ごしにさめざめと、すすり泣く声が聞こえてくるのでございます。
 何事かと亭主をよんで仔細を尋ねましたところ、亭主曰く”大池の祟りのこと、人身御供のこと。又その不運が今年は我が家の順に。”等々、涙ながらに話したのでございました。

 黙って聞いておりました丹後の鮭売り、”さては”と思い当たる事があったものですから”ご亭主!!いかさま事情はよう分かりました。実は今の話し、少々思い当たるふしもあるんで、すべてはこの私めに任せて頂きたい。即ちその日は私も池の端までいって、必ずやご息女はお守りいたしますゆえ、どうか心配めされるな!ところで何か力草となる様なもんはないやろか”という事で、宿の亭主自ら、家中、村中を探しまわりまして、何処からか米かち杵をもってきたのでございます。
 ”こりゃ誠に結構々々・・・”とその男、腕をたたいて、その日のくるのを待っておったのでございます。

 愈 々その日がやってまいりました。朝から池の淵には高壇を築き、香華もそなえてのでございます。ももなく、恐ろしさにうち震える娘を一人高壇に残し、父母は勿論、近所の者皆がもの陰にかくれ垣間みておってのでございます。
 かの鮭売りの男、一人で「米かち杵」をかついで高壇の下に忍びこみ、息をひそめておりましたところ、やがて池の真中あたりが次第に波立ちはじめたのでございます。と、

 何やら得体の知れぬ怪異なものが姿をあらわし、ゆっくりと高壇の方へ近づいてくるのでございます。
 ようやく池の端までたどりついた怪物が水面をはね、あわや、娘をひき込まんとした時、くだんの鮭売りがおどり出て、、”この池の主は一体何物かと思うとったら、やっぱりあの時の三分五厘の乾鮭やないか!身の程知らずにも程があるわい。”と大声で怒鳴りながら、「米かち杵」で怪物の頭をメッタメタに、力の限り打ちのめしたのでございます。

 やがて波も静まり、物陰から急いで駈け出した父母は勿論、村の衆たちもしばらくは声もなく、ただただ肩をたたき合い、涙ながらに喜び合ったのでございました。

 ひとときが過ぎ、さて怪物の正体は?と近づいてみますと、何と五六尺はあるでしょうか、頭は鬼瓦の如しで魚の怪物でありながら翼の様なものが胸のあたりから生え、それはそれは、誠に恐ろしげな文字通り化物(おばけ)でしたから、漸くは身震いが止まらなかったと申します。

 さて、宿の亭主をはじめ村人達も、乾鮭売りがこうも易々と災いの根を断ってくれたのは、偏に氏神さんの変身であろうと、神仏の如くに敬ったのでございますが、鮭売り曰く”めっそうもない、この池の主を退治できたのは決して私の力と違いますのや、これは偏にこの「杵の威徳」やと思いますんで、どうぞこの「杵」を神さんとあがめて下され!”と、
 のちになって池田を見下ろす本宮山の中腹に祠を築き、神と仰ぐ様になったのでございます。                  あなかしこ。


 現在でもそうですが、本宮山と正歴寺のある那智山との間は、俗に、くら谷と呼ばれた位、陽の影さえ届かぬ誠に鬱蒼とした所でしたが、その間を切り開き、池の水を由良川へ流したところ、その跡は誠に広々とした田畑となったものですから、これを池田と名づけ現在に至っております。
 又それより少々高い所の諸木を伐り、明るい野原としたのが今の上野町一帯であります。

 その後、遙かに時移り、慶安年間に九鬼隆季(たかすえ)公の館が大火災により、坪の内下市場(現在の綾高校舎付近)より上野へ移された頃、
 杵の宮神社は、現在の若宮神社の境内に、鎮守の神様として崇められ、そののち三代藩主九鬼隆直(たかなお)公も、伊勢内外両宮の神明をも合祀され、九鬼一門の繁栄と武運長久を祈願されたと・・・記録にのこっております。