はじめに                                       丹の国・綾部へ
丹の国・綾部 「第4話:九鬼氏と綾部の人々」再録にあたって
 30年前、当時の綾部青年会議所は、今は亡き賢人、塩見清毅さんのリ−ダ−シップの下、鍋師有、大槻高仁、高嶋善夫、故波多野穣、池田博之、吉田等が相集い、昼となく夜となく、綾部の再発見と明るい未来を目指して市内をくまなく廻り、市内の数え切れない方々と語らい、写真を撮り、神社仏閣、史跡、古文化財、山、川と出会い、物狂いのように活動したものでした。
 その間、数多の方々のお世話になり、心温まるおもてなしを受け、心交わせた時間を持つことが出来ましたし、私達もまた如何に勉強が足らないかを痛感したものでした。
 かように綾部青年会議所発足以来の綾部に対する熱い思いは、先輩諸氏の若者らしい活発なる諸事業の積み重ねという大きな財産の上に、芽から苗、若木へと成長し、「ふるさと綾部の再発見と明るい未来像を目指して」を一つの集大成として、「丹の国・綾部」2冊組が、丹の色の函に入った大冊として発刊されたのであります。
 この一見無謀とも云える事業は、当時の文化協会の皆様方、ことに山崎巌先生を始め歴史学者の先生方から、こういうアプロ−チもあるという一定の評価を頂き、日本青年会議所会頭賞にノミネ−トされるという栄誉に浴したのでした。
 その後、久木、平野など後輩諸氏の更なる活動の積み重ねにより、綾部市民憲章制定後の活動展開へと昇華して行ったのであります。
 しかしながら、その後の高度経済成長、いわゆるバブルとその崩壊の年月を経て、この精神は次第に影薄きものとなり、いつしか過去のものとなった観がありましたが、バブル崩壊後の低成長、国際化、IT化等の流れの中で、日本の国全体が全ての面でといっていいほど混迷からの再生へ向かって、混沌と改革の歩みをつづける今日であります。
 綾部自体も新しい都市像を確立すべき時がやって来たように思うにつけても、この「丹の国・綾部」の精神は間違っていなかったと思いますし、
 綾部市の新しい都市像に「平和と環境」という中心柱をしっかと打ち立て、「やさしさ」と「いやし」と「やすらぎ」の丹の国・綾部に向かって、今こそ市民一丸となり、しっかりと歩み出すべき時が来たと思うのであります。
 この「第二の丹の国運動」ともいうべき市民運動の大きなうねりを促すためにも、この「丹の国・綾部」HPの再録は、時宜に適った快挙であると思うと共に、世の評価をあらためて問いたいと思う心、切であります。
                       h16,7,7 星の美しい夜に 吉田藤治(丹の国・綾部編集部長)
                             HP編集者注:文中、綾部JC会員の敬称を略しました。

第四話 九鬼氏と綾部の人々

鬼氏とその家風

 寛永十年(1933年)九鬼隆季公が綾部藩二万石の藩主として入部し、以前にその近辺を支配した梅原氏の屋敷地の提供をうけ由良川左岸下市場に陣屋を構築した。
 九鬼氏は藤原北家より出て十九代藤原教真が熊野別当職となり、隆真の代に紀州九鬼に住み足利尊氏に仕えた。これが九鬼氏の祖である。熊野別当職は、伝統的に南海の水軍の元締めとして隠然たる力をもっており、九鬼氏も次第に勢力を伸ばし、嘉隆の代に秀吉に仕えて、日本水軍の総大将としての地位を確立した。
 秀吉朝鮮出兵の文禄の役には旗艦に日の丸をかかげて戦い、これが日本で日の丸を使用した最初であると伝えられる。
 しかるに徳川時代に入り、海運の要衝鳥羽にあって、水軍の総元締めとして全国的な勢力を持つ九鬼氏の実力は、鎖国の方針を固めた徳川幕府のきらう所となり、その内訌に乗じられて伊予の来島氏と同様、内陸山間の綾部に封じ込められる形となったのである。
 九鬼氏は代々熊野別当職を襲い、古代神道の姿を伝える京都吉田神道とも深い関係がある。その九鬼氏が熊野信仰に厚い平氏の所領地として特に平重盛公がこよなく愛され、そして足利尊氏ゆかりの土地である綾部で新しい発足をみたことは、けだし深い因縁というべきであろう。
 その当時の何鹿郡は、旧綾部町と二、三の村部が九鬼藩にまとまっているが、あとは大名、旗本の所領地が入りくんで、お互いに一つの力となり得ず、むしろ次第に疲弊していくのである。これは特に日本制覇の興廃を決めるが如き、丹波の地場を恐れるあまり、幕藩体制の一つの仕組みとしてとられた徳川幕府の政策によるものであった。
 幕府中心の幕藩体制は必然的に諸藩の財政の貧窮と農村経済の崩壊をもたらすのであるが、九鬼氏は入部早々、下市場の陣屋及びその周辺の町屋のほとんどを火災で失い、新しく江田氏綾部城の故地に館をかまえ、今日の町並みの原型が出来上がったようである。
 その後の九鬼藩は度重なる城下の出火、江戸藩邸の焼失、出水、旱魃による不作の連続により息つくまもなく、次第に財政窮迫をつげていく。
 元来九鬼家の家風は、藩祖以来何となく穏やかで藩主と家臣あるいは領民とのつながりの中に温かい情が流れていた様である。これは、九鬼家が古来神に仕える家柄であり、また水軍の出身として船乗り気質の現れが、きびしい封建領主としてよりも、支配、被支配の感情をこえて、領民あっての藩主であるという気持ちが伝統として伝えられていたからであるといえる。
そのことは歴代、農民の保護政策に力をそそぎ、また入部以前からの土地の神社、寺院を大切にし、初代隆季公を始め歴代、田地、祭料の寄進、社殿の改築等を行っていることから見てもうかがわれる。

飢饉と強訴
 日本における飢饉の障害は、多くは風水害、旱魃、虫害、冷害によるが、文献にあるものだけでも欽明天皇二十八年以来、明治初年までに実に二百二十五回に及んでいる。
 しかしながら前述の九鬼家の家風と古来の綾部地方の温和にして率直なる人々の気風があいまって、他藩にあったような苛烈な百姓一揆は起こらなかったのである。
すでに綾部藩初期の延宝元禄に二度強訴があり話し合いで説得している。宝暦の強訴は藩内あげての大がかりなものであったが、打ち壊しをともなわない陳情的なもので、藩よりの申し渡し状も願い出の条々について懇切にしかも今しばらく辛抱するよう情を明かしてたのみこんでいる。
 その後、綾部地方では由良川の氾濫を始め、冷害、旱魃によって度々飢饉に見舞われるのであるが、特に享保、天明、天保を三大飢饉といっている。天明の飢饉などは全国的なもので、奥州一国の餓死人数およそ二百万といわれたが、綾部領内では他領に米を売らず、他国よりも安く小売りさせ、藩の保有米で救いきれず奥羽から船で米を買い集めて一人も餓死者を出さなかった。天保の飢饉は比較的近年で今だに語りつたえられるが、葛の根はもとより、りょうぼ、蕗の芽、榎の葉まで食べ尽くした位で、九代隆都公は高値の他国米を買い入れ救民に専念し、領国よりほとんど餓死者を出さなかった、と伝えられる。

九代、九鬼隆都公の治世
 九鬼家には歴代明君が出て善政がしかれたが、特に九代隆都公は傑出しており、その治世を通じて近代綾部の基礎が固められたといって過言ではないと思う。
 封建制度の中にあって当時としては、明るい領民の気持ちを大切にした政治が、約二百三十年間続いたことが現在の綾部地方の人々に与えた影響ははかり知れない。
 ”福は内、鬼も内”九鬼の殿様を慕う意味で綾部地方に唱えられた節分のこの独特の呼称は、吉田神道にも説かれるように古代の人々の心を直ぐに現したものであるが、民衆の宗教大本に自然に取り入れられ、更に価値転換、価値附加されて、今も大本の人々を通じて日本国中となえられつつあるのである。
 隆都公の領民を思う心ばえは、天保の飢饉のおりに重役に与えられた覚え書きに面目躍如として現れており、領民の生活安定こそ藩主の責任であり使命であると信じ、領民を見殺しにする位なら自ら食を絶って死ぬまで、と言っている。ここに公の政治の出発があり、佐藤信淵の思想に共鳴した原因がある。

 次席へ納戸より内々可致通達文覚書部分・・
此上又存込も相立不申領内小前之一人に而も見殺し候様に相成候儀に而は、我等、公儀へ対し天智に向い申訳も無之様に候間、一統も我等存込を察し呉不申儀に候えば、幾日に而も食事も不致、此前領内小百姓を見殺し致し罪を存、我も同様餓死致可申し存念に候間左様に致承知候様存候・・・

隆都公と佐藤信淵
”大雷”と称せられる藩内の粛正を敢行した隆都公は、領民の疲弊は稲作改良や窮民救済等の姑息な手段では到底解決しないと考え、ブレ−ンであった新宮涼庭や奥山弘平との接触を経て、天保九年当時としては非常に進歩的な国家社会主義思想に立脚した社会運動家であり能楽の大家、佐藤信淵を招聘することに決意した。これは徳川封建制度の立脚する米麦作本位の経済政策をゆるめて商品的作物の栽培へ転換し、本格的な資本主義経済移行を目指したものだけに当時としては思い切った決断であり、綿糸、木綿、茶、煙草、蚕糸等の物産を豊かにし、農村の共栄意識を高め、明治における綾部経済興隆の基を築いたものと言わねばならない。

佐藤信淵と社倉講
 
信淵は沼田安平、安楽嶋孫六、名張儔次郎、中西紋蔵等のまたとない協力者を得て、領内七郷をつぶさに巡察し、栽培、施肥の方法を指導し、独特の泉源法即ち社倉構の実施を施行した。これは社倉(共同貯蔵庫)を設けて、凶作対策として種籾の貯蔵と、それを利用する利殖および日掛貯金を実行する方法である。
 隆都公は財政の苦しい中から種金となる軒別銀三分づつを領民に与え、領民はこれに感激して万歳を唱えたということである。
 この社倉構は上からの命令で出来上がったものでなく、信淵の指導によって下から盛り上がったものであったから、後世永く続けられ明治中葉まで村々に残った。
 また信淵の農村指導は、直接農民を相手とし、農民の心に喰い入り、農民の味方として労をいとわず指導したので、他藩に不可能であった社倉構の設立が綾部藩において始めて可能となった。
 信淵の改革は漸次領内に綿、茶、煙草、桑等の増産となり、これらを商品化する仲買人の出現、殊に綿を原料とする木綿の製造は、家内工業化して行き広く各地に売り捌かれた。
 藩自身も国産木綿会所を設立して京都大阪方面に売り出し、その利潤によって藩財政の回復を計るなど、幕末に相当活発な産業活動が展開されることとなったのである。

丹波巡察記
 佐藤信淵は隆都公の請を入れて領内各村を巡り、つぶさに気候、地形、土質、作物の適否、人口動態、人情風俗等あらゆるめんから観察し、農村刷新の方策を思考し、秘記として献じたものが巡察記である。
 巡察記を貫く精神は、藩主隆都公に対する為政者としての教訓即ち領主は領民の為の存在であり、政治の根本は富の偏在をさけ、領民に恒産あらしめる安民対策にあるとする政治観であり、最早米麦作一本の自然経済では到底商業経済へ移行して行く時代には成立たないから、水田に綿を植え茶、煙草、桑等の特産物を栽培して農作物の商品化を計り、現金収入を増大せねばならないとする革新的な経済政策である。
 しかし、当時としてはあまりに革新的であったため、藩内上下の混乱を恐れられた隆都公によって手文庫の奥深く秘蔵され、ただ藩主の心を大きくゆさぶるにとどまった。

綾部藩の文教政策
 九鬼氏は歴代学問を重んじ、特に九代隆都公は山鹿素水を招いて兵学をおさめ。幕臣大野広城を預かり、奥山弘平、佐藤信淵をまねいて治世と経済立て直しの大方針を確立し、蘭学者であり名医であった新宮涼庭を接見して、治国平天下の道を説かしめた。更に十代隆備は、山崎闇斎派の学者三上是庵を、また藩医として増山守正を招いた。これらの人々と藩士の近藤勝直等の教化が相まって幕末から明治にかけて綾部の教育文化の担い手となった近藤勝由、沢井広重、宮崎清風等を生んだ。


藩校および郷学校
 綾部藩では四代隆寛の頃、藩校を進徳館と改め、藩士の教育に力を注いでいたが、慶応元年、十代隆備は藩の碩学近藤勝直を総督に任じ、大いに藩校を充実すると共に、領内栗村、高津、小畑等六ケ所に郷学校を建てて庶民教育に努力した。中でも栗村の広畔堂は、郷学校中随一のもので、近藤勝直の高弟沢井広重が専任教師として指導にあたった。門人には羽室嘉左衛門、芦田鹿之助、波多野鶴吉他地方のために活躍した人を多数輩出し、明治における綾部発展の基礎となったことは郷土の教育史上特筆すべきである。
 封建制度下百姓町民も自由に入りうる学校が藩の力で作られたことは日本の歴史のうちでも稀なことで、綾部はおろか遠く亀岡あたりからも入学を希望して多くの人が集まった。
 こうしてこれらの郷学校は明治五年学制発布によってその伝統を受け継いでいく各地小学校として発展して行った。

綾部藩と由良川
 九鬼氏の治世をしのぶとき必ず思い出されるのは、丹波にとって母なる大河由良川である。山間の地に 塞せしめられた日本水軍の総帥九鬼氏の郷愁をなぐさめた由良川は、古来郷土の文化、産業、経済、交通その他あらゆる社会事象の母胎をなして来た。明治までの日本海表日本への物質の運搬はほとんど、大島福知山由良湊を経て通船で行われた。川筋の村々には船舶があり、庄屋は船問屋役をかねて大いに繁盛した。
 ”位田、栗村、大島、高津、人の情けのない所”と、いまだに人々の口にされるのは、川筋の村々にとって度重なる洪水との戦いと、通船による商いの活発化によって、綾部人としてはどちらかといえば、きびしい合理性を身につけていたためと推察される。
 丹波からの下り船は、茶、木綿、うるし実、木材、竹、桐油美、木炭、楮三つ又、こんにゃく、柿、大豆等であり、上り船は酒、油かす、干いわし、塩等であった。
由良川水路が商業交通路として重要であったことは、京都、長柄屋治兵衛が宝暦九年(1759)に由良川と保津川とを運河で結んで京阪神と北国の物産とを直結しようと計ったことでもわかる。
 由良川の水を治めて五穀豊穣を願う心は、古来から綾部領主の願う処で、並松の景勝を作る綾部井堰、義人吉次郎の物語も悲しい位田井堰は、両丹最大の灌漑施設で、その建設年代も定かでない。九鬼隆季公が寛永十年(1633)入部された時の陣屋古図にはすでに井堰用水路が描かれており、それ以前の記録はないが、井倉八幡宮の社伝には、平氏の施工と伝えられており、福原新都の大工事をなしとげた平氏の実力からして、正歴寺熊野新宮社ゆかりの重盛公がなされたとしても、少しも不思議ではない。
 領民の幸せを願う九鬼氏の心は、この井堰の改修にはたえず力をそそぎ、井堰中興の祖と仰がれる近藤代官(勝由)の名と共に綾部人にとって忘れてはならないものである。
 ”綾部川の水のひびきの中にきく
     人の心の高きしらべを”  吉井 勇
 古代より悠々と流れ、大地を潤し、時には氾濫して人々を恐れせしめ、また舟を通わせて他国の物産と情報を伝え、丹波ラインに並松に私達の心を和ませてくれる由良川は、綾部のことを次の様に語ってくれる。
 「出雲文化の土壌の上に大陸の文明が融和して高度な民力を養い、強力に流れ入る平安文化は更に伝統に磨きをかけ、足利尊氏を生んだ誇り高き里は、平和な二百三十年の九鬼氏の治世を経て、初めて郡是と大本による綾部ナショナリズムの第一の開花を見るのである」と。