泣き虫のこと
 女の子達が云う。「手を出して」。私はおずおずと手を差し出す。女の子は手を取り、一人が指を輪にして手首を握り、交互にずらしながら云う。「お・な・べ・す・、おなべす」。私はわっと泣き出す。また女の子が囃し立てる。「なべなべ底抜け、底が抜けたら帰えろ」。私はわっと泣き出す。
 本当にどうしようもない程の泣き虫でした。病気がちで、苦い薬を飲むのが嫌で、三角の飴をもらえるので飲んだ事を覚えています。赤トンボの歌のように、ねえやがいて、いつもおぶってもらい、ぐずっていたそうです。
 小学三年生の時に疎開してきて、一緒に暮らしていた母の妹の二人の叔母を、大きい姉ちゃん、小さい姉ちゃんと呼んで育ちましたが、私は負けず嫌いで、廻り将棋でも、ババ抜きでも負けては、勝たしてもらうまで泣いていたそうです。
 疎開児なので友達もいず、同級生は山育ちと云って良い程のバイタリティにあふれ、チャンバラゴッコなどで野山を駆け回っていました。たまたま仲間に入れてもらっても、八幡さんの坂道に崖崩れの恐い場所がありましたが、そこを覗き込まされて落とすと脅かされたこともありました。
 家から学校までは、山沿いの道を通学しました。池があり、竹薮がありの恐い通学路でした。それでも空襲警報が鳴ると、さらに山の中にある山道を走って帰りました、薄暗い立木の中の山道でした。
 虚弱児でしたので、整列の時に起立と言われてもじっと立っておれず、また顎を締めてと言うことが全く分からず、叱られてばかりいました。
 私は体育が全くの苦手でした。棒登り、跳び箱、懸垂など全く出来ませんでした。どんなに跳び箱を低くしてもらっても、跨ることがやっとでした。友達は皆が高い跳び箱を難なく飛び越すので、すごいと思いました。遠足も途中でリタイヤするのが通常でした。
 私が初めて喧嘩をしたのは、中学の卒業式の時です。式場に入るとき身長順に整列しましたが、私は前から3番目で、その前の子と震えながら喧嘩をしました。
 本当に皆からよく泣かされていましたが、現在よく云われる「いじめ」という感覚は全くありませんでした。今日、育友会や同窓会の役などをやると、同級生の女性からも、あのおとなしい人がと云われます。
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 泣き虫余話(私の名前
 鍋島、渡辺など「なべ」のつく名前はかなりありますが、子供の頃は、そんなことを知らなかったので、「おなべどん」を連想する鍋師の姓が嫌で、たびごとに先生達からも珍しかしがられ、綾部に良くある、四方、塩見、大槻などの姓を羨ましく思っていました。
 時には「鍋師有:なべしゆう」を「なベしあり」と読んで、「ベ」を抜いたら「なし・あり」になる珍しい名前だと言われたこともあります。今は同級生などから「なべちゃん・鍋さん」とよばれると、嬉しいばかりです。
 「有」の方も大変でした。名前の点呼に続き、私の名前を引き合いにして、黒板に「有」と大書され、左半分に「無」と大書して、英語の授業なのに、お寺さんの先生だったらしく、般若心経や平家物語を引きながら、「有」と「無」の関係について、授業の半分以上も話をされた先生もありました。
 先生としては、悪気があったわけでなく、生徒に、諸行無常の無常心などの深遠な人生哲学を教えたかったのだと思いますが、引き合いに名前を出された私にしてみれは大変な気持ちでした。現在は、名前をジョ−クの種にされる先生は、おられないと思います。
 昨年は梅原康会長が「無の宇宙相」から一瞬にして、「有の物質宇宙相」に変化した「宇宙創造:ビッグバン」の話をされましたが、「無」と「有」の間には科学や常識では究明されない不思議な神秘があるようです。「有」という名前も大切にしたいと思っています。
 脱線ついでに、先週は父が、彌仙山を越えて養子にきた話をしましたが、そこが私の本籍地で東八田村の於与岐町大又宮谷・番地といいます。育友会の地区同和研修会で行った時に、こんなことを知りました。
 「およぎにいってもおおまたのおくはみせん」つまり「於与岐=泳ぎ」に行っても「大又=太股」の奥は「彌仙山=見せん」ということです。なんとも故郷の悪口を言う人もあるものだと呆れましたが、あとに続く宮谷というのが大切で、谷奥には産着や乳型を供えた、子宝を授ける安産の神様を祭る「みくまり神社」があり、昔は多くの参拝者があったと言うことです。つまり故郷自慢の「落ち」があると気づきました。
 先日、隣組の花見がありました。以前は近くの波多野記念碑の広場やお寺の部屋、公会堂を借りていましたが、昨年あたりから料理旅館でやるようになりました。当番組長の準備や、あとかたずけが楽なのと、年配者が多い中で、カラオケが歌えるので好評です。
 その中に東八田出身の方がおられ、「およぎに・・・」の言葉を知っておられましたので、これはかなり広く世間に流されていた言葉のようです。現在は大原神社に安産祈願に行きますが、以前には「みくまり神社」にも行ったと言うことです。父が大阪時代に寄進したという名前の入った鳥居が立っていますが、今は無人で、すっかり荒れ果てた神社になっています。