丹の国・綾部 別冊
未来への対話
新しい生活圏の創造を目指して
綾部青年会議所編(HP編集者注:昭和46年、32年前の綾部JC10周年記念事業)/なお、色文字の部分は、出口栄二先生から頂きました加筆です。

別話−−−−宗教都市として
<大本の未来論>
 この項は、編集者が、直接大本本部に執筆を依頼、許可を得て掲載した。
「ふるさと綾部」に、発祥すべくして発祥した「大本」は、現在にいたるまで、その町の盛衰に大きな影響を与えて来た。今後も又、それはますます密接な関係で強まるにちがいない。この「大本」教団の、はじめて公表される未来観は、わたしたち綾部市民にとって興味以上の強烈なものを感じさせてくれる。
 特に教育・文化への洞察と具体的な提示は、切実をもってせまるものがあろう。
「斜陽都市」の中で、現実日本列島の裏側に存在する都市をすべてこの範疇にはめこみ乍らも、「綾部」の項では、この「大本」を特記し、他都市の一般的斜陽化と区別しているのは面白い。

・神の都・あやべ
・まつりの宴(うたげ)
・教育の杜(もり)
・生活の革新
・平和のとりで
・芸術の郷(さと)

神の都・あやべ
 四尾山の尾根をふみしめて綾部をみわたせば眼下には由良川が、平野をおしわけて「く」の字に流れ、まちなみが人々のなりわいに息づいて横たわる。
 本宮山を中にした四囲の山々は丹波高原につながり、山なみがおだやかで緑が美しい。「山紫水明」がぴったりする平和な郷である。
 大本の神が、明治25年に「綾部は結構なところ、昔から神が隠しておいた世の立替えの真誠の仕組の地場であるぞよ」「三千世界の神々様守護神殿に気をつけますぞよ、谷々の小川の水も大川へ末で一つに成る仕組、綾部世の本誠の神の住いどころ」といわれたことばが、なるほどとうなずかれ、ズッシリと心にひびく。
 真誠の神とは、艮金神・国常立尊であることはいうまでもない。綾部を経綸の拠点としたこの神は、まず三千世界の立替え立直しを断行して「みろくの世」の実現を約束された。 では「みろくの世」とは、どんな世の中なのであろうか。筆先には「今度天地の岩戸が開けたら、草木も、人民も、山も海も光り輝いて誠にそこら中がキラキラいたして、楽もしい世の穏やかな世になるぞよ。是が誠の神世であるぞよ。
 雨も欲しい時分に降り、風も欲しいときに吹いて、人民の身魂も清らかになりて、天下泰平、天地の身魂が勇む世になるぞよ。月も日もモット光り強くなりて、水晶のやうに物が透き通りて見え出すから、悪の身魂の隠れる場所が無きようになるぞよ(明36・旧6・4)」と示されている。
 そしてこの大理想を地上に具現するために、人民の改心と御用をよびかけている。言葉をかえれば、「みろくの世」とは、神と人の共働のもとに実現される「神と人と自然の調和した世界」ということであろう。
 そのために世界中をますかけひきならし一つに丸めてしまおうとされる神の構想は、実に雄大であり、かつ悠久である。
 だがここで注目すべき神のことばがある。明治25年に神は「氏神様の庭の白藤、梅と桜は出口直の御礼の庭木に植えさしたのであるぞよ。福知山、舞鶴は外囲ひ。十里四方は宮の内、綾部まん中になりて金輪王で世を治めるぞよ」とのべ、またその翌年には「神、仏事、人民なぞの世界中の洗濯いたして此世を飜(かへ)すぞよ−−−
 あとは宜(よ)くなりて綾部を都といたすぞよ。綾部に天地の神々のお宮を建て三千世界を守るぞよ」ともあるように、綾部を「都」といたすと宣言されていることである。
 そこには綾部にたいする神のビジョンがズバリ明示される。神の住いどころであり、仕組みの地場に神の都をきづくことは当然のことであるがそれだけではない。
「世界の型をしてみせるところ」ともいわれているように、みろくの世の型、神と人と自然の調和した世界のヒナ型をまず綾部を舞台にして具体化されようとするところに、神の都としてのふかい意義が見出される。
 綾部の大本神苑がこの神のビジョンに基づいて着実に造営されつつあることは言うまでもない。綾部の神苑は、本宮山を中心として広がっていく。
 本宮山は「天の御三体の大神が天地へ降り昇りをなされて、この世の守護を遊ばす」最高の至聖所であり、山自体が御神体とされる。晩年の出口王仁三郎が直接に指揮監督してつくられた「月山不二」を、今は礼拝の対象としているが、ゆくゆくは山へ登ることが許されなくなる。
 その南麓の高台約8000坪には、100年の歴史をほこり、多くの人材を世に送り出した綾部小学校があるが、この敷地が市民の理解を得て大本の神苑に編入され、これを機会に壮大な「錦の宮」の建設が予定されている。(建設すみ)
 「錦の宮」とは、仏教で七堂伽藍というように、神殿、拝殿を中心とした諸施設の総合体をさし、その青写真が次第に具体化されてゆく。今のみろく殿にかわる中心的拝殿は、今後の教勢の発展にてらして少なくとも約2万人が一時に収容できるくらいの規模は必要とされる。
 海外からの参拝者も考慮して畳と椅子を併用した神殿形式で、現代建築の粋を集めて丹波路にその偉容を見せることだろう。その時は、今のみろく殿が祖霊社となる。
 神殿としては、国常立尊、稚姫君命のお宮のほか、庶民になじみのふかい神々として、物質を守護する竜宮の乙女、安産の神・塩釜さま等のお宮、出口家の氏神であり大本とゆかりの深い熊野神社をはじめ、また悪魔ばらいとして知られる杵の宮などがつくられる。葬祭ならびに新霊を祭祀する新祭殿の建築もいそがれている。
 付帯の施設として参拝者、修行者を受け入れるため、休憩、食事、宿泊などを総合したホテル形式の宿舎をつくるが、これは機能主義に偏ることを避け、人と人が十分対話できるような構造、設備が配慮される。
 全国から集まった人々が膝つきあわせて語り合い、一夜にして10年の知己となりうるのも神都ならではの恩恵である。
 また駅前には、案内所を設けて参拝者の便宜をはかる。その他事務所をかねた社務所も必要なことであり、総合結婚式場も別棟に建設され、若き人々の新しい人世を飾ることだろう。
 本宮山の南にある天王平には、開祖をはじめ歴代教主の奥津城を中心に、花弁を植え込んだ公園墓地がひろがり、信徒の納骨堂と世界の戦死者、遭難者の霊を慰むる世界万霊供養塔など、自然とマッチした造形の美がおりこまれる。
 ところでこれらの神殿や施設は、どの範囲に点在するのであろうか。筆先には「福知山、舞鶴外囲ひ、十里四方は宮の内」と示され、史実によると明治34年(1901)7月に、出雲の土を開祖の言いつけで、一班は熊野神社下から和知川にそって下り、位田渡場まで撒き、他の一班は和知川に沿って上がり、本宮山南側の田野川をのぼり、安場から四尾山麓をまわって、ともに中筋を経てかえっている。
 これは「宮屋敷取り」といわれている神事であるがまた、熊野神社から上町−−本町を経て、てらこ履物店から田町をあがったあたりが、内苑となるという興味深い開祖の言葉が残されている。
 明治27年の筆先には「綾部本宮坪の内の出口直の屋敷は、神に因縁のある屋敷であるから、此屋敷に大地の金神様の御宮を建てるぞよ。気の毒乍ら村中家持って退いて下されよ。此村は因縁のある村であるから、人民の住居(すまひ)の出来ん村であるぞよ」と示されているように、だいたい旧綾部村の範囲が内苑となる。
 内外苑には、檜杉松榎などの常葉木や梅などが植え込まれ、植物園や神饌田がいろどりをそえる。本宮山を中心とした美しい自然の起伏と色合いの中に、神の都は生々として訪れる人々を迎えることだろう。
 この神殿づくりは、信徒をはじめ市民が世界の人々の協力により完成される。ここに注目されることは「今迄の世はぐわいこくの身魂が覇張(はば)る世で、金で面を張る世でありたなれど、二度目の世の立替えをいたす綾部の大本は、金では面は張らさんぞよ。今はわざとに此大本の中は淋しくいたしてみせてあれど、先に成りたら金銀は雨の降るごとくことわりにこまる様になりてくる世界の大本であるぞよ。
 此神表になりかけたら、我も私もと申して金銀持ちて世話さしてくれと申してつめかけてくるなれど、今後は身魂に因縁のなき人民の金は用いられんぞよ(明36)」と筆先で厳しく戒められ、庶民の宗教である大本神は、人々のまことの心を受けたまう。

まつりの宴(うたげ)
 まことの神の住まいどころである綾部は、大本の発祥の地であり、祭祀の中心的地場である。毎年節分大祭(2月)、みろく大祭(4月)、神集祭(旧7月)、大本開祖大祭(11月)の大みまつりが行われ、月々には大神様、竜宮乙姫、塩釜様、祖霊などの月並祭が執行されている。
 人々は、まつりをとおして神の心にかえり、あわせて世界の平和と人類の幸福を祈る。またまつりによって神と人と自然の調和がもたらされ、神とともに生き、働き、楽しむ地上の天国が実現される。大本の祭神は、宇宙の主宰神であり、一教団の神ではない。
 「万教同根」「万教帰一」を主張する大本は、ひらかれた宗教としてひろく民衆に呼びかけ、民衆が参加できうるよう、より一層の工夫がはらわれていく。
 大みまつりは、まず節分の夜からはじまる。祭典の状況は第一部で述べてあるが、大本の節分の意義づけは、今までの解釈とは全く違う。一般の人々には耳新しいことでもあるが、節分は太古に艮金神が隠退させられた受難の日であり、明治25年に再び綾部の大本に出現された記念の日なのである。
 この夜世間では「鬼正らい」鬼償い(おにやらい)として年男が煎豆をまくが、しかしその「鬼」が艮の金神と知る人はすくない。この神を再び世の表に出させまいとして、太古から邪神のしくんだ艮金神調伏の儀式が、長く社会的習慣として、神事や仏事の習わしとして民間に広められてきたのである。
 「鬼は外」といって煎豆をまくのは、艮金神を鬼にたとえて「煎豆に花が咲いたら世に出しましょう」ということで、煎豆に花が咲くはずはないから、この神を万却末代おしこめるというナゾなのである。そこには、宗教上の大切な価値の転換が鮮やかに見受けられる。
 正月にシメなわをはるのも金神をおしこめて世に出さないためで、五節句の祝い行事の起源はすべて艮金神の調伏につながっている。だから大本では白豆をお供えし「福は内鬼も内」といってお下げするのである。ついでだが大本では節分に神々へ甘酒を供えて祝い、一同にこの甘酒の接待がある。
 この夜は節分大祭に引き続き潔済の神事、人型大祓などが、みろく殿内と由良川で夜通し行われ、苑内は大篝火にかがやき、甘酒や福引きでにぎわう。
 せめて1年365日のうち節分の一夜だけは、殿内で祝詞をあげるのもよし、大篝火や甘酒でおかげをいただくのもよし、また家にありて静かにゆく年を追憶し、来る春の幸を祈るもやし、信徒も市民も共々に節分を祝い、節分に祈りたいものである。節分の夜に追放(やらわれ)し、艮の金神の再び現れます時は来にけり、−
 旧七月6日から7日間は、神集祭がおこなわれる。「末代の規則を制定(きめる)場所は綾部の大本と末代きまりたのであるぞよ。天のミロクの大神様と地の国常立尊が天地の王で末代の規則を制定(きめる)ぞよ」と筆先にも示されているように、八百万(やほよろず)の神々が主神を中心に天で集会され、1年間の世界の経綸を決められるときとされ、この間本宮山の月山不二で毎夕祭典が行われる。これは世界の将来にかかわることである。
 これからはせめて各方面の代表参拝でも行われるよう、意義の周知徹底など適当な方策がたてられてゆく。
 春の大みまつりは「みろく大祭」、秋は大本開祖大祭として行われ、豊年祈願祭、新穀感謝祭があわせて厳修されている。
 また大本と綾部の産土神との関係を見落とすことはできない。旧綾部町には熊野神社、若宮八幡、八幡宮、二の宮、三の宮、笠原、斎の七社が(尊崇されている)あるが、明治36年旧5月24日(4月28日)に開祖みずから、弥仙山の岩戸開きの御礼参拝をされ、今日も信徒は、秋祭りの宵宮には多数揃って参拝がなされている。
 とくに熊野神社は、開教以来総産土神として崇敬され、王仁三郎は「太古に素戔嗚尊が出雲から出て来られた時に、本宮山の上に母神である伊邪那美尊さまをおまつりになりこれを熊野神社と名づけられた」と神話的に述べられている。
 夏祭りは、7月28日水無月祭りとして人々に親しまれているが、この夜由良川の闇を彩る万燈流しは、明治40年(1907)旧9月に竜宮様へ献燈するため大本で28燈を点じ、王仁三郎の手によって川に流されたのが始まりとされる。
 こうして産土神のお祭りを通して大本と綾部の一体化がふかまり、氏子である市民の生活や、綾部の繁栄が促されていく。
 まつりはもともと民衆のものであり、神迎え・神と人の交歓・神送りの素朴な神事に芸能が結びついて、民族文化の素型として受け継がれ、培われてきたものである。しかしいつの間にか、まつりは儀式化、職能化して民衆性を失い、一方では土着的な神々への信仰と生産への喜びが失われてただ伝習として無気力な形骸と堕して行く。分極化しつつあるまつりを再び民衆の手にかえし、民衆のエネルギ−を結集し、新しい時代への文化創造の担い手となさなければならぬ。 綾部の発展の糸口は、またそこから開けてゆくにちがいない。

教育の杜(もり)
 日本における学校教育の普及率は、今後10年以内に後期中学校教育が90%、高校教育でも30%を超すものと予想されている。だがその中味が従来通りの立身出世のための受験教育だとしたら、その弊害は大きい。
 「園児450人の半分が塾に通っている幼稚園まであらわれ、0才からの英語教育、3才からの漢字教育など異常な早期教育」に熱中する傾向まであらわれている。
 今日の学校教育は、経済成長に適合させた極端な能力主義にゆがめられ、人間の成長を促す真の教育は影を潜めたともいえる。そのために先ず教育の姿勢を正すべきでないか。
 そのためには「教育が倫理的基礎、それも神よりきたる絶対的倫理のうえに統一」されねばならない。そして勇気をもって社会の方向を企業中心から民衆生活中心にきりかえ、人と自然と技術の調和した社会の造成へ向けねばならぬ。
 今日こそ「平和、文明、自由、独立、人権を守り、これを破る者に向かってあくまで戦う」人間を必要とし、「人の心にかんながらに内在する愛善の力を発揚せしめて、もって国家社会を正しくする道」としての教育、政治、「物質に内在する愛善の力を正しく利用する道」としての科学や産業が要請される。
 小学校から大学までこの方針で貫き、従属でなく自律と自治の教育、模倣でなく創造の教育、暗記でなく思考の教育が尊重されねばならぬ。
 こうした全人的教育の前提として、胎教、幼児のしつけ、女子教育を忘れることはできない。この目的を果たすためには上からの行政的画一化をさけて、地方自治、住民参加のシステムが配慮されねばならない。
 日本では、こうした理想を実現するため第一に大学の設置を考慮し、(出口王仁三郎聖師は、すでにこの事を考慮されて、北九州小倉に東筑紫学園(東筑紫短大付属幼稚園、照曜館中学校、東筑紫学園高等学校、東筑紫短期大学、九州栄養福祉大学)を設置し、礼儀作法、躾に重きをおく全人教育の学府づくりを実践されている。このことは、あまり綾部市民に知られていないと思われる)当面は農業、芸術、医学、語学などの部門が予想される。農業は公害の根源をたちきって人命を尊重し健康を増進するため農薬や化学肥料の弊害をさけた農法の研究、普及につくす。芸術では陶芸、機織、八雲琴など民族文化の伝統を基礎とした新たな創造を指向し、また医学は東洋医学に力点がおかれる。
 大学構想は、研究と育成指導の二面をもち、大学、高校、中学、小学などタテの体系と同時に、いわゆる市民教育として、青少年の夏季学級、文化教室、市民大学、母親学級などヨコの体系をもふくめて、幅広く総合教育センタ−の役割が果たせるよう配慮される。
 綾部の少年夏季学級はすでに23回を数え、信徒や市民の子弟が数多く参加して着実に実績をあげつつある。これが糸口となって高校生、大学生学級も発展して行くにちがいない。これらの根底では、徹底した人間教育に力点が置かれることは言うまでもない。
 そこには豊かな自然がある。生き甲斐ある学問がある。充実した生活がある。教師と学生の人間的ふれあいがある。鎮魂道場も設置されよう。何よりも神の恵みの下、人間の和がある。
「学校」と呼ぶより、あえて「教育の杜」といった方がふさわしいかも知れない。
 平和な環境と自由な人間のむれ、これを夢で終わらせたくはない。

生活の革新
 現在は、まさに病める社会であり、病める人間のあふれた時代である。一方には「徳義もなければ節操もなく、つねに意気傲然として入りては大厦高楼に起伏し、出てはすなわち酒池肉林、千金を春宵に散じて遊惰、安逸、放縦をこれ事として転化にはばからない」強者があるかと思えば、一方には「営々として喘ぎなおかつ粗雑な食にあまんじ、もってその飢えたる口腹を満たすに足らず痣憊困倒して九尺二間の陋屋に廃残の体躯を横たえる」貧者がいる。
 「我一方で勝手気儘(きまま)の仕放題(しほうだい)、悪い事のやりほうだいで恐いものなしに、奸智恵(わるぢえ)ばかりが働いて」「金さえありたら何もいらぬと申して、欲ばかりに迷ふて、人に憐(あわれ)みといふことをチットも知らずに、田地を求め、家倉を立派に建て我物と思ひ」「毎日毒ばかり飲んだり食らうたりして、皮相の美しいものでさえあれば、後のためにはちっともとんちゃくせんゆえ、われとわが手に毒を食らうて苦しみ悶え」てさらにかえりみようとしない。一体これはどうしたことだろう。
 これは金銀為本の経済政策に根本的欠陥があるのではないか。金銀の価値を人間の上におく結果「人世は戦場なりとして、自他ともに経済的戦争を是認するにいたり、その究極するところ国家の存亡を賭し、幾千万の生霊を犠牲となし弱肉強食、優勝劣敗の淘汰をもって人間社会の条理なり」となすにいたった。
 そのため「神さまが世界の人民を保護しておられるのを無にして、神の子たる多くの人民を苦しめて世界の地所、資本を独占」してはばからない「世に出ている悪人」「餓という虫」どもが横行し、「世界一切の生産物は一人一人の私有(もの)で無く、皆天地の所管(もの)で、世界の人民が安心と幸福をうけるために神さまのお造り遊ばしたものにかかわらず、世界の宝を横領し、世の中の難儀を高見から見物いたす厄介者、蛆虫人間」の存在を許すに至ったのである。
 そこで、「今の世界のこの有様、神はもう黙っては居れん事になりた」と愛なる神の怒りが爆発する。世界の蛆虫人間や厄介物をたいらげ、「これまでの世の行(や)り方、法律」「これまでの習慣制度(やりかたほじつ)をさつぱり革新(かえ)て了ふ」と宣言して、
 「金銀を余り大切にいたすと、世は何時までも治まらんから、艮の金神の天晴(あつぱれ)守護になりたら、天産物自給(おつちからあがりた)其国々の物で生活(いけ)る様にいたして、天地に御目にかける仕組がいたしてある」と、救済への構想を明示される。
 土地為本、天産物自給の方策が、具体的にどの様なことになるのか、今後の研究に待たねばならないが、基本的には、お土を大切にし、国土、季節、民族性を統一的に把握して、夫々の個性を尊重する理念に根ざし、天産物を開発して、天恵無尽の利沢を人生に均霑せしめることを目的としている。
 この方策は、資本主義的経済組織を根底からゆさぶり、生産、流通、分配、消費の各分野にわたって変革が要請される。
 「新(さら)つの世」を志す神の警告は、生活様式にたいしても、極めて厳しい。「衣類食物家屋倉庫(いえくら)までも変へさして、贅沢な事はいたさせんぞよ」「贅沢三昧は何うしても出来ぬように厳しく変わるぞよ。今迄のやうな生活方法(やりかた)では、世界中がモウ立行かんから、明治25年から筆先に出してある通りの心の持方をいたして居らぬと、大変に困窮事(こまること)が出来するぞよ」と、繰り返し戒められている。
 衣食住が経済や生活の基本であることは言うまでもなく、衣食住の乱れが、社会混乱の原因となっていると云っても言い過ぎではない。
 王仁三郎も「食制の改革が社会改造の第一義」と述べ、正食、正衣、清居の必要性を繰り返し説いているが、日常欠かせぬ事だけに、その影響と結果の違いは、極めて大きい。
 なぜ正食が必要なのであろうか。端的に言って、「食べものは人間の肉体ばかりでなく心まで支配」し、「正食は肉体の栄養になると同時に精神に活力を与え、魂の食物になる」からである。
 正食は天地の大恩を知ることから始まる。これは正衣、清居の場合も同じである。人間及び動物は、植物をとおして、太陽、月、空気、水、大地の気のミックスされた精気、エネルギ−を摂取して生きているのだから、この植物中にあるエネルギ−を出来るだけ効果的に多くとり入れ、同化し、血となし肉とするところに正しい食生活の原理がある。
 開祖や二代教主は、つねに神恩を感謝し、お土を大切にし、大根の葉一枚でも上手に料理して美味しく食されていたが、食物が氾濫し食生活が乱れている今日こそ、この天恩を無駄にしない食事法や料理の原則は、改めて見直されねばならない。
 また東洋には古来、身土不二の思想があり、住む土地にできるものが、肉体生命を真に養う食べ物だと考えてきた。
 王仁三郎は、日本の天から与えられた食べ物は、穀菜食であると唱え、この天則を守らなければ天寿を全うすることが出来ず、罪を犯すことさえあると説いている。
 もともと日本人は、米、麦をはじめ、あわ、ひえ、大豆、小豆などの穀物をとり混ぜて主食とし、豊かな酵素、ビタミン、ことに野生酵母を多く含む野菜、山菜、根菜などを常食として、血液を清らかに保ち、健康を増進してきた。
 また河海の魚介や海草などを摂って強壮にし、様々な加工品をつくって食生活を豊かなものとした。大豆からつくった「とうふ」「なっとう」「ゆば」「みそ」「しょうゆ」などは、日本の味を代表するものとして食卓に欠かせない。
 食べ物に特性があり、薬効があることも知っておくべきであろう。たとえば「米は陽性のもので、是を常食すれば勇気が出る。野菜を食えば仁の心が養われる。魚類を食えば智恵がわく」「肉類、魚類には多大の栄養分があるように思っているが、かなり大きい鯛と大きな大根1本と相当する位のものである」
 「動脈硬化症より免れようとするものは、断然肉食をやめて、菜食に移らねばならない。魚類もなるべく避けた方がよい。ことに刺身の類はよろしくない。たまにあっさりした川魚ぐらいは食べてもよい」「毒ガス除けには、らっきょうと梅干し、松の葉をかむこと、大根やねぎを生で食べるとよい」など、数多の説示がある。
 一方、悪食については、肉食の害がまずあげられる。「獣、鳥、魚などの肉は、いったん食べ物として消化されたものが肉となったのであるから、それを摂取してもあまり益はない。獣肉をたしなむと精欲が盛んになり、性質が獰猛になる。獣食する人は、本当の慈悲の心は持たない。神に近づくときは肉食してはよくない。霊覚を妨げるものである」。
 つぎに、今日流行している食品添加物を上げねばならない。添加物本来の目的は、食生活の健全化を計るためのものであるが、実際は、原因不明の慢性疾患の原因として、いつの間にか人体をむしばんでいる。
 着色剤、防腐剤、漂白剤、人工甘味料などであるが、自然の動植物を原料としているものは少なく、主に石油、石炭が原料となっているからである。その他、白米、白砂糖、白パンの「三白」や化学肥料、農薬による弊害など枚挙にいとまがない。
 次ぎに正衣とは何であろう。正食の場合と同様に、身土不二の天則に従って、理想としては日本の国土に算出する生糸や植物性の糸を草木染にして織り上げ、愛情を込めて縫い上げたものがよいとされる。
 大量生産、大量消費が支配している今日、この正衣は高嶺の花となったが、じつは先人が日常の生活の中で考え、織りあげ身に着けていた生活の知恵なのである。
 たとえば紫根(しこん)、藍、紅(べに)花、鬱金(うこん)など、すべて植物で染め上げた織布は、見た目が美しいばかりでなく、健康のためにも良く、医学的に見ても薬用効果がある。
 たとえば昔から乳児には鬱金で染めた着物を着せたが、これは乳児が着物をしゃぶっても、鬱金が腎臓の薬となるからである。
 これに反して化学繊維、化学染料の多くは、衣料公害をひきおこす「悪衣」と云うべきであろう。先般西ドイツの染料会社バイエル社が世論に屈して、数百類におよぶ化学染料の製造を中止したという事実に照らしても明かである。
 最後に、清居の問題にふれておこう。今日、土木、建築技術と建築材料の発達は、目を見張らしめるものがある。たちまちのうちに山を削り、海岸や凹地を埋め、住宅群が出現する。高層住宅がニョキニョキと立ち並び、プレハブ住宅化が進行する。
 何処を見てもコンクリ−トと鉄の冷たい色が跳ね返ってくる。だが果たしてこれでいいのだろうか。王仁三郎は次のように主張する。
 「天地は呼吸している。万物一切はイキ物である。したがって大地もまたイキ物である限り呼吸している。人間も地気をうけて生活しなければならない。地上をコンクリ−トで塗りつぶすと地気が昇らないから、土をはなれた生活様式は人間の健康にいつとなく害を及ぼし、地気がうっせきしてきた時には、災害の導因となることがある。とくに住居の下などは赤土などのねん土に石灰をまぜたタタキにすれば気も通って良い。人間の住居は、本来3階以上に住むことは不適当である。その理由は、大地の霊衣は地上三尺であるから、地上を高く離れれば離れるほど、地の霊気が薄くなる。人間は、天と地の霊気が交流する接点に生活するように創られている」と。
 また日本の場合、理想とする都市人口は10万人を基準とし、その居住地は、草木がよく繁茂する高原地帯で、よい水の湧く日当たりの良いところに、平屋建ての木造建築に住むことが、気候風土にあった最もふさわしい所であると説く。家屋の用材についても詳しく教えている。
 こうして見ると、みずから招いた災いとはいえ現在の人々が、いかに天則と自然を無視した、悪食、悪衣、悪居のなかに生活しているかがわかる。これでは病気をしないのが不思議というほかはない。
 そこには、人生の理想と物の本質を見失った人間の無智がある。人智と技術と欲望におぼれた人間の奢りがある。だがその根底を探れば、民衆の生命と生活を犠牲にして、巨大な富を蓄積している国家独占資本と大企業群のあくなき野望にゆきあたる。
 正食、正衣、清居が良いことだと判っていても、巨大なメカニズムのなかで、民衆が手にし実行することは難しい。
 社会の変革と救済をとなえる民衆の宗教が、この矛盾にみちた現実に当面して、生活の革新に熱情をそそぐのは急務である。まず生活の悪弊をうち破って、正食、正衣、清居の理想と原則に立ち、天則と技術と人間の調和した社会をみずからの内に実現する。それは生活センタ−を通して民衆のものとなる。
 綾部は豊かな自然に恵まれている。この地域共同体のなかで、生産、流通、消費の分野にわたり、自主的な打開の道はないものか。重化学工業化しつつある風潮のなかで、あえて生活関連産業、軽工業、平和産業に誇りを持ち、育成してゆく方策はないか。

平和のとりで
 平和は全人類の願いである。綾部の未来像も平和あってこそはじめて実現される。だが現実は厳しい。今世紀(20世紀)になって二度も大戦を経験し、戦争の悲惨をなめさせられた人類は、今日なおその恐怖から逃れることができない。こんなばかげたことが許されてよいものだろうか。
 今こそ「国同志の人の殺し合いといふやうなこんなつまらん事はないぞよ。一人の人民でも神からは大事であるのに・・・こんな大きな天地の罪犯して、まだ人の国までとろうといたしておるのは向先(むこさき)の見えぬ悪魔の所作」として戦争を否定し、「世界の戦いは運不運(うんぶ)をきらいたもう天帝の大御心にかなわぬ」と厳しく戒められた神の言葉に耳を貸すべきである。
 そして戦争と軍備は「世界数多の地主や資本家のため」にあるもので、「軍備や戦争のために徴兵の義務を負わざるべからず、一つよりなき肉体を捨てて血の河、骨の山をつくらねばならざるなり、多くの税金を政府へ払わざるべからず」。
 つねに犠牲をしいられる民衆にとっては、何一つ益のない事実をよくよく噛みしめるべきである。
 政府や「死の商人」たちは、自己の野望を隠して、戦争と軍備を合理化するため「国を守る」ためという。果たして戦争と軍備が平和の番人となりうるだろうか。
 王仁三郎は、天が下のおだやかに治まる道は、国民が神を厚く信じて誠の道をまもり、その品行のうるわしきによると主張し、「風俗うるわしからず、国民の心一致せぬ時は、幾千万の兵ありとてすぐに破れほろぶものである。ゆえに兵士や戦道具では国は治まらぬ」と断言している。
 開教以来の一貫したこの反戦平和の主張は、弾圧、敗戦という大峠をこえた直後の昭和20年12月、鳥取市吉岡における王仁三郎の談話にうけつがれ、より具体的に示されている。
 「いま日本は軍備はすっかりなくなったが、これは世界平和の先駆者として尊い使命がふくまれている。本当の世界平和は、全世界の軍備が撤廃したときはじめて実現され、いまその時代が近づきつつある」と。
 そしてこの中で「民主主義でも神に変わりがあるわけはない。ただ本当の存在を忘れ、自分の都合のよい神社を偶像化し、これを国民に無理に崇拝させたことが日本を誤らせた。ことに日本の官国幣社の祭神が神様でなく、唯の人間を祀つていることが間違いの根本だった」と指摘した発言が注目される。
 昭和27年(1952)に人類愛善会は再発足した。そして、昭和29年4月ビキニの水爆実験に抗議し、全国に先駆けて立ち上がり、2百万余の署名を獲得して内外の首脳や国連に原水爆の禁止を訴えた。
 原水爆禁止大会や平和行進には率先して参加し、世界連邦アジア会議や宗教世界会議をみろく殿で開催した。
 平和のための宗教協力や世界連邦運動を積極的に推進し、市民一体となって綾部に日本で初めての世界連邦平和都市宣言を実現したことは記憶に新しい。
 昭和35年(1960)新安保条約の批准によって平和運動は新しい事態に当面した。平和と民主主義の大黒柱である平和憲法を守る戦いが始まったのである。
 人類愛善会は平和を願う多くの大衆と協力し、「平和憲法の精神を生かし世界軍備の全廃を求める」運動を全国で展開した。
 真剣に祈り果敢に実践する宗教者としての行動は、宗教界に共鳴を呼び、やがて宗教者平和会議が組織されてゆく。
 この輝かしい実績はまた明日への実践につながる。平和への祈り平和へのたたかい、それは2回にわたる権力の弾圧に耐えて平和を勝ち取ってきた大本、その大本を支えてきた綾部が歩み行くべき道でもある。
 目を上げれば白雲が流れゆくかなた、美しい松と桜とつつじの緑に包まれてたつ、紫水ケ丘の平和の塔は、平和への決意を静かに語りかけている。民衆の都あやべは、平和のメッカとならねばならぬ。

芸術の郷(さと)

 幼い頃、土いじりして、顔から着物まで泥だらけになって遊びほうけ、お母さんに叱られた懐かしい思い出を誰もが持っている。人間には肌でじかに土に触れたいという強い本能的な欲求があるからだろう。
 「主なる神は土のちりで人を造り命の息をその鼻に吹き入れられた」と創世記に述べてあるが、神様でさえ土いじりして人間をこしらえたのだから、子供が泥んこで土いじりに夢中になるのはやむを得ない。
 ところで、神の土いじりからできた秀作品が人間だが、人間が土をいじって物する傑作は何だろう。それは火の精、土の芸術である陶芸だと思う。それは土と水という根源的な原材料に火と人の力が加わって造り出されるものである。
 この土の造形芸術は、わが国では数千年前の縄文時代にさかのぼることが出来るが、どの国よりも早くから盛んに数多くの優れた壺などがつくられた。そしてそれらの土器は、縄文文化の担い手ともいえる美意識において敏感ですぐれた女性たちの生活経験をとおして発明され、いろいろな技法が工夫されたものに違いない。これらの土器によって原始の生活が豊かに彩られたことであろう。
 日本のこの時代における縄文土器は芸術的評価の点で、また技術的な面から見ても優れたものである。まったく自由奔放で、見ていて楽しく作った人たちの歓びの声が聞こえてくるかとさえ思われる。
 今日、日本の陶芸は世界的に注目されるに至ったが、それは造形美と共に独自の豊かな芸術性が民族性の違いを越えて、強く世界の人々の心をうつからであり、その源泉が実に数千年昔の縄文文化を担った人々の手にあったことを見逃すことは出来ない。
 縄文文化についで稲作栽培が大陸半島を経て入ってきたが、このことは社会に大きな変化をもたらし、土器の面でも著しい進歩を与えた。
 古墳時代には、丸底の壺や甕などの実用品である「はじ」のうつわが焼かれたが、一方大陸の製陶技術が入り陶質の「すえ」のうつわが丘陵の傾斜を利用して縦穴を堀り、簡単な天井をつくって焼かれた。
 それまでのより硬質で耐久力があり、食膳用、保存用、携行用など用途も広く、形も大小さまざまで種類も増え、人々の生活を一段と豊かにした。のびのびとした思い思いの作品は、今見ても面白い。
 その後やきものは、時代の影響を受け様々の変遷、推移を経て今日を迎え、世界的水準を誇るに至ったが、その根底には先人たちの優れた技法の開発、工夫とその継承があったことは先述のとおりだが、さらに、作陶に最も必要な土や釉薬の主な原料となる植物などの種類が豊富で、窯をたく火の原料となる樹木が手近なところに繁茂して事欠かなかった自然の恩恵、また紋様や図柄に大きな影響を及ぼした風物や天然の美などに恵まれたことも忘れることは出来ない。
 こうした伝統と風土の中にあって、もともと丹波の陶歴は古く、立杭焼きは、六古窯の一つに数えられる。山深くに住んだ陶人たちは、素朴な祈りの中に暮らしの焼き物をつくりだし、その作品には、伝統の深さとふるさとの土の香り、人間的な味わいが滲んでいる。
 昭和36年(1961)、本宮山麓に、つるやま窯がもうけられたが、その窯は、庶民が生んだ素朴で古く豊かな造型の伝統、より直接的には丹波のそれを受け継いで生まれたのである。
 子供の土いじりから話しを始め、縄文の昔にさかのぼったのは、そのことに触れたかったからである。ところで大本の陶歴は、大正の末年頃からで、出口王仁三郎にはじまる。
 当初は亀岡に窯を築き、昭和10年までに約5000個の楽焼、大本事件後の2年間で約3000個の楽焼が王仁三郎の手で製作された。
 今日「耀?」「明日の茶?」として世に評価されるに至ったが、事件前の作品の多くは惜しくも弾圧でこわされた。この受難の歳月を踏み越えて「ぐれん」の炎は再び綾部の地に燃え立ったのである。
 大本の機織(はた)は開祖、出口なおに始まる。開祖は織物まではされなかったが、糸ひきはたいへん上手で、開祖のひかれた糸は光沢があり、普通の人のひいた糸とは違っていたと今に語り継がれている。
 その機織の元を受け継いで立派な織物とし、今日の「つるやま織草木染」を完成したのは、二代教主・出口すみ子であった。すみ子は「私は寝てもさめてもハタのことばかりや。クダにかけてる指先から私の魂が皆糸に吸いこまれてゆくような気がする」と語り、「夜も昼もわが魂は鶴山の織りゆく錦のなかにすむなり」と詠じているが、その一生はまさに「機織姫」であった。
 糸くずを丹念にほどき、水に濡らして梳きにかけ、乾かしてつなぎ工夫して緯(よこ)糸に織り込まれ、つづれ織りとされていたのが特徴で、昭和10年には、苦心の末発明された鉱泉染は「つるやま織」の声価を今日に高めたといえる。
 草木で染めた糸を神苑内の金竜海畔に山から湧き出る鉱泉に浸すと、自然の色は落ち着いた微妙な美しさに変化し、色あせない特徴を持つ。梅、松、杉、桃、紅梅、榎、せんぶり、椋、桑、笹、南天などの皮、葉、実などをはじめ、野菜や花などを採集し、乾燥させ、臼でついて染料とし、糸染めして鉱泉につける。
 蘇枋(すおう)で下染めした赤色は紫色に、くちなしの黄色はうす緑色に、番茶の茶色はねずみ色といった風に変化し、色あせしない。思わぬ色に変化(へんげ)で染め上がるのを待つ心は、茶?の窯出しのときと同様に生みの苦しみと楽しみが交錯して複雑である。
 昭和10年には、屑糸紬織りの経糸と緯糸の力の平均した美事な織物が苦心の末完成され、本宮山の上では50台ちかくの手機織(てばた)が、山麓の神光館では動力織機がフルに回転し、この地方で130軒にもおよぶ一般家庭で内職に携わっていた。だが惜しくも弾圧のため壊滅し、織機や製品まで一切売却された。
 新発足後いちはやく二代教主によって機織は綾部に再建され、その手法は三代教主・出口直日、出口直美へと受け継がれ、手びきの糸、草木染、手織の伝統のうえに近代的創意を加え、新たな作品が生み出されている。
 綾部はもと漢部(あやべ)といい、機織りのさととして歴史が古く、大本に機織が盛んなのは偶然ではない。一時綾羽取、呉羽取が本宮山にきて機を織ったという言い伝えもあるくらいで、丹波の土壌に育まれた機織りの伝統が脈々と生きている。
 とりわけ大本では「機のしぐみ」として意義づけされる。筆先に「機織の初り綾部が元ぞよ。神戸村(今の本宮神宮村)が錦の元ぞよ。この大本は錦の機の経綸であるぞよ」とおしえ、「出口(なお)上田(王仁三郎)は経緯(たてよこ)じゃ。機にたとえて仕組みてある」「破れカミシモを解いてすつくり緯糸に織りてツクネ直のかたをしてみせたぞよ。」「上下揃うて元の昔にかえす」などと示されている。
 また出口すみ子が「天地和合の世界平和のハタ織り」とも説いているように、「お仕組」としての神業と、尚又工芸の両面から独創的な宗教的意味をもつ機が日々織りなされている。
 大本の祭典に清明幽玄な趣を添えているものに八雲琴がある。八雲琴は、愛媛県宇摩郡天満村の兵法家であり医師であった中山琴主が文政3年10月に出雲の天日隅宮にこもり「夜もすがら天の沼琴の古を偲びつつ秘琴をかなで神に祈っていたが、夜半八雲山の神風が木々にふれ、竹にそよいで妙なる調べがおこり、聴き入るほどに、その音律の絶妙なるにうたれ、神の御託とおぼえて、宇迦の神山の大竹を伐り琴を作り、天地陰陽に比して二弦をすげ、八雲立つ出雲八重垣の歌に撥合せた」のが、その始まりとされる。
 大本では明治42年(1909)に綾部にはじめて神殿が完成したときから、祭典の奏楽として用いられた。それ以来祭典の奏楽には欠くことのできないものとして、奏楽の普及、人材の育成が続けられており、日本の文化財の一つとして今後の発展が期待される。
 今日世上では、高度の価値を持つ文化財や特定の芸術家がもてはやされる傾向にある。だが日本の文化は古くから外来文化の成果を取り入れつつ、日本の民衆が生活の場で、文化的に生活感情を交え、つくりだし、受け継いできたものである。
 その民衆性と生活性、芸術的に磨かれた美と生活に役立つ用を合わせたところに価値がある。土と火と人とが一体となって造り出される美と用にこそ生きた芸術と文化がある。大本の芸術がそこに根をおき、とくに綾部で陶芸と機織がさかんなのはそのためである。
 王仁三郎は「芸術と宗教とは、兄弟姉妹の如く親子の如く、夫婦の如きもので、二つながら人心の至情に根底を固め、共に霊最深の要求を充しつつ、人をして神の温懐に立ち遷らしむる人生の大導師である」とその大衆性を強調して、真の芸術と真の宗教の一致を説く。
 そして「美の理想を実現するにはまず美の源泉(神)を探らねばならぬ。その源泉に到着し、之と共に活き、之と共に働くのでなければ実現するものではない。しかしてその実現たるや、現代人のいわゆる芸術のごとく、形態の上に現わるる一時的の悦楽に非ず、内面的にその人格の上に、その生活の上に活現せなくてはならないのである。真の芸術なるものは生命あり、活用あり、永遠無窮の悦楽あるものでなければならぬ」とし、
 「活ける温かき己の霊性を材料として、神の御姿を吾が霊魂中に認めんとする真の芸術家とならねばならぬ」と主張して、これまでの芸術を批判し、価値の転換を求めている。
 この理想に基づいて、綾部には「鶴山窯」が築かれ、「つる山おり工房」が開かれている。かって出口すみ子は「ゆくゆくは世界一の大きな工場にしたい。強いあせない、ためのいいものをつくって皆様によろこんでいただきたいのが私の願い」とその抱負を語っていたが、この夢を綾部に実現するのが「私の願」にむくゆる道である。
 工房とならんで丹波文化研究所を建設を予定し、研究と同時に現地調査を重視し、指導と美術館が併置される予定である。これまで意図的に歴史の上から閑却され、地下に埋蔵されている丹波の文化を発掘して、日本文化の源流を探り、日本の歴史的面に貢献しよ(を正そうとする試みである。この中で古代大和と出雲の問題が当然解明されるだろう。
 また大本では、素戔嗚尊の「八雲立つ出雲八重垣妻こめに八重垣作るその八重垣を」にはじまる和歌や、大衆文芸としての冠句、伝統芸能としての能、茶道などが民族文化として尊重され、芸道として磨かれ広められてゆく。
 そこには小さくても伝統と創造の文化が民衆の生活に定着した芸術の郷がひらかれる。神の都は、平和と芸術の郷、民衆の生活するまちとして、綾部の繁栄を築く推進力となることだろう。
 綾部の前には、日本海を挟んでアジア、ヨ−ロッパ、アフリカ大陸が扇状にひろがる。ふりかえれば太平洋を越えてアメリカがある。地球一家族の時代といわれる今日、日本海は、綾部にとって内庭にしかすぎない。
 綾部に植え込まれた神のしぐみのタネと、人々の努力はやがて開花して世界に実をむすぶことであろう。最近の過疎現象をいたずらに嘆くことをやめ、綾部に残された豊かな自然と、汚れなき人の心に誇りを持って、雄大な未来の夢を描き、着実に実現に移していくべきではないか。