三郡山 みこおりやま(497.9m)  里山散策   四つ尾山の四季へ   
 綾部の市街地から東南の稜線上に、2本の鉄塔が並んで見えるので、ことさらに目を惹く山である。この鉄塔を確認に山へ上がった。
 山家村史に「三群山 大字上原(注:何鹿郡山家村)の南に聳え船井郡下和知村、天田郡河合村の三郡に跨る故に此の名あり」と載っている山である。(注:内田嘉弘氏著「京都丹波の山」より引用)

 
府道広野綾部線に岩根山行者堂の祭礼の立て札がある。ミュ−ジカル「アテルイ」のチケットを貰いに山家の田中正行市議のところに寄り、その足でこの三郡山の登山道の下調査を兼ねて行者堂の取材をする予定で上がった。行者堂は随分の高所にあり、結局そのまま登頂することとした。
 ところが山家駅前の自販機で落としたお茶缶3本だけの飴玉の1個とてない登山になってしまった。
 下りに道を間違えかなり苦しい下降と登りを余儀なくされ、結局送電線が空を渡っている直下の池のある林道に出て、府道広野綾部線をテクテク歩き、行者堂登山口まで登ることとなり、どっと疲れた。   
 写真にマウスを当てると説明が出ます。
行者堂登り口まで車で上がれる 参道はよく手入れされている 途中の子地蔵 登山道の分岐点、ここまでの登りもかなりのもの
行者堂登り口まで車で上がれる 参道はよく手入れされている 途中の地蔵さん 登山道の分岐点、ここまでの登りもかなりのもの
行者堂の鳥居 瓦葺きの行者堂 側に行者像を祀ったお堂 少し荒れた山道に引き返して登る、細谷山390を回り込むコ−ス
行者堂の鳥居 瓦葺きの行者堂 側に行者像を祀ったお堂 少し荒れた山道に引き返して登る、細谷山390を回り込むコ−ス
倒木も目立つ 両側が下がる背尾根 市境の稜線の山道は広く良く手入れされている 関電の鉄塔の標識
倒木も目立つ 両側が下がる背尾根 市境の稜線の山道は広く良く手入れされている 関電の鉄塔の標識
鉄塔の向こうにも鉄塔が見える、並び鉄塔 随分立派な大鉄塔 空を仰ぐと目が回りそうな感じに 市境の峠に立つ地蔵
鉄塔の向こうにも鉄塔が見える、並び鉄塔 随分立派な大鉄塔 空を仰ぐと目が回りそうな感じに 市境の峠に立つ地蔵
峠の両脇に赤・黄の標注が立つ、ここを左に登る 頂上につるされたプレ−ト 3等三角点標柱と標石 三角点標石
峠の両脇に赤・黄の標注が立つ、ここを左に登る 頂上につるされたプレ−ト 3等三角点標柱と標石 三角点標石
下り道を間違えて池のあるところに下りる、頭上を送電線が走り両方の山に鉄塔が見える 立派な林道が走っている、 萩の花がきれい 府道:広野−綾部線に出る、向かい正面の山にも送電線が延び鉄塔が上がっている
下り道を間違えて池のあるところに下りる、頭上を送電線が走り両方の山に鉄塔が見える 立派な林道が走っている、 萩の花がきれい 府道:広野−綾部線に出る、向かい正面の山にも送電線が延び鉄塔が上がっている
彼岸の中日、彼岸花が咲いている 山家観光やな漁の幟が立つ 山家運動公園の表示板 府道脇に岩根山行者堂の大祭看板、ここから山へ折れる
彼岸の中日、彼岸花が咲いている 山家観光やな漁の幟が立つ 山家運動公園の表示板 府道脇に岩根山行者堂の大祭看板、ここから山へ折れる
道の入り口に常夜灯が立つ 細谷山を背に山家運動公園がある
道の入り口に常夜灯が立つ 細谷山を背に山家運動公園がある
○岩根山行者堂 上原町惣谷
 本尊 行者菩薩、役の小角尊像(二尺八寸) 厨手前五尺社付、上家弐間半に三間
 谷家代々行者の尊心あつかったが、第七代谷衛秀公帰依深く、安永六年(1777)十月六日大和国吉野の角の坊住職権大憎都盛永法印にたのんで此の山を開き、貝留地蔵と共に建立した。神変行者菩薩像は、古野の本覚本尊と同本を彫刻したもので、行基菩薩の作と伝えられていて是を安置している。安永八年(1779)五月建替三間半に四間の御堂にしたが、天明元年(1781)三月十八日火災により堂宇焼失した。幸にも本尊・鐘・宝物は持出し焼失を免れた。同月二十八日時の領主第八代鶴太郎衛量公が援助して再建した。明治三十九年二月十三日改築の許可を受け、虔寺院の広瀬町御山寺が維新で廃寺となったので、ここも廃堂同然となっていたのを、谷量恒が発願者となって瓦葺きのお堂に改築した。昭和三十三年六月三日屋根・本尊厨子を改修した。春五月一日戸開け、秋九月一日戸閉めの式を祭行している。
 領主御念持仏の不動尊が岩根山山麓の免地の行屋に安置されていたが、損傷も甚しく修理して、行者尊の脇立に安置した。安政四年(1857)二月のことである。
○登山周遊コースとして絶好の地で、東・北ののぞき・貝留地蔵・稲荷・秋葉と眺望絶景のコースである。  (山家史誌より収録)