はじめに
 
32年前(昭和46)に当時34才であった私が、冊子「丹の国・綾部」の「ふるさとへの回帰とその未来」に取り組むべく、編集部の1員として、塩見清毅、吉田藤治さんの両先輩と連れだって、資料収集のために、綾部町史の編纂者の村上祐二氏を安場の自宅に訪ねました。 たまたま村上祐二氏は、私の弟の岳父であり、快く相談に乗っていただきましたが、その年に故人となってしまわれました。 綾部青年会議所として、次にお世話になったのが、私の綾中3年担任の木下禮次先生でした。木下禮次先生には、その後も「丹の国・絵はがき」製作の監修をお願いするなど、いろいろとお世話になりました。 浅学の私が、何とかこの第一話「国津神のふるさと」を書き上げられたのは、両先生のご指導のお陰でした。 そして木下先生から、丹波・山陰は、大和朝廷文化圏の最果てという常識を書き換えて、山陰こそ大陸文化往来の表玄関であったという「丹の国構想」を、メルヘンであると評価していただきました。 これを契機に、先生から綾部の文化財を守る会の幹事、綾部郷土資料館建設推進協議会の事務局長に推挙いただく事となり、先生方のお手伝いをさせていただきました。
 
ここに本HP収録版を公開するに当たり、先生の思い出を偲び、御霊前に捧げるものであります。

丹の国・綾部
ふるさとへの回帰とその未来

 第一話  国津神のふるさと
 こころのふるさとというとき、私達日本人は何か自然に宿る神秘なもの、精神的なものの存在にそれを見出すのではないだろうか。

 それは古代日本人より受け継がれて来た山、石、水、火、太陽などに宿る神々への信仰にはじまり、庶民の生活に根づいた道祖神、土産神、あるいは、恋し冒険し土の臭いのする八百万の国つ神々への信仰の中になお強く感じられる。

 又それは今日になお細々と、しかし根強く伝承されて来た庶民の生活の喜び、悲しみ、怖れなどの感情を歌いあげたお祭り、祝事、神事、伝説、神話などに接するとき、又村々の古びた宮社などに接したとき、私達の心によみがえってくる郷愁でもある。

 もちろんそれは、日本を統一した皇祖神の天つ神々の信仰、そして外国より伝来した仏教、儒教などの経典、仏像、寺院などの中にもあるが、それらは歴史の中で政治の主流として、余りにも形式化されてしまったように思える。

 それは今日の物質的西洋文明の合理主義に偏し進んで来た社会。機械化、情報化、非人間化、人間疎外、過密、公害、享楽的なレジャ−、低俗な精神文明などの洪水の中であえいでいる私達の心に、それら日本古来のものは、心のふるさととして、何かひっそりと、しかも高まる情緒をもって語りかけて来るのである。

 そしてここ日本のふるさと、日本人の心のふるさとである丹波(たんば)、何鹿(いかるが)の里、綾部の歴史を回想しながら、この地を逍遙するとき、私達はいたるところでふるさとを発見し、昔(いにしえ)の日本人の大らかな心に感銘を覚える時間が持てる。

 綾部地方は、非常に古くから人が住みつき開けていった。ここは日本のほぼ中央に位置し近畿の北の玄関口といえる日本列島最大屈曲部をなす入り江である若狭舞鶴湾に背面して立地している。

 原始時代の運まかせの大陸からの移住、出雲地方、さらに遠く北九州から海岸沿いの水路による近畿地方への人々の侵入は、ずっと以後の大和朝廷の成立する時代に、大陸から九州、瀬戸内を経由し、大和平野に上陸する海上ル−トが確立されるが、それまでは日本海を利用する短い海上交通を経て、日本海側より行われた。

 民族の移住にともなう文化の伝播交流などを考えると、日本海側地帯こそ今日と違い日本の表側であったといえよう。
 丹波は、中国山脈の東端に位置する低い、なだらかな山稜と、その間を流れる大小の河川ぞいに展開する平野、盆地、谷あいからなる非常におだやかな地形のところである。

 丹波唯一の大河である由良川は、京都市北山の分水嶺にその端を発し、清く豊かな水量をもって流れ、丹波ラインと呼ばれる景勝地をなしている。
 その流域の両側には、段丘状の広い洪積台地が発達し、また綾部に入っては広く開けて、綾部盆地より続く福知山盆地の自然美に富んだ沃野を緩流し、再び河守などの広い氾濫原を経て、丹後由良より若狭湾にそそいでいる。
 古代人は、由良川河口より水路を遡上し、川沿いに移住していったと思える。

 丹波は、非常に豊かな山野の稔りがあり、狩猟生活時代の古代人が、季節的に徘徊して食料を得るには、まさに最適の恵まれた自然であったに違いない。

 由良川の大氾濫原に点在する川、湖、沼に住む、あゆ、ます、こい、ふな、なまず、うぐい等の川魚、しじみ、からす貝、たにし等の貝類、河原に群生する桑の実、竹の子、そしてまわりの低い山地は、栗、かし、しい、なら、どんぐり、くるみ、とちの実などの、保存のきく粉食用の堅果類の宝庫であり、稲作農業以前にあったといわれる堅果類栽培農業の立地条件に近い自然であったと思える。

 柿、なつめ、あけび、山ぐみ、野いちご等の果物、わらび、ぜんまい、やまいも、みょうが、さんしょう等の山菜、しいたけ、まったけ等のきのこ類。いのしし、鹿、かもしか、野うさぎ、くま、さる等の小動物。かも、きじ、山ばと、こうのとり等の野鳥。
 これらは今日の丹波を特色づける数々の産物である。また桑に自生する蚕(かいこ)よりとれる糸は、当時より貴重な衣料として利用された。

 この古代日本人の習俗は、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)によく伺える。
 男子は大小となく皆いれずみす。−−今、倭の水人好んで沈没して魚蛤を捕え−−男子は皆みずらし(けさ衣)木綿を以って頭にかけ、その衣は横幅、但々結束して相連ね、略々縫うこともなし、婦人は被髪屈?し、衣を作ること単衣の如く、その中央を穿ち、頭を貫きて之を衣る。禾稲、紵麻を植え、蚕桑をつむぎ、細紵、?綿を出す。倭の地は温暖、冬夏生菜を食す。皆はだし。−−

 この時代の人々の願いは、何であっただろうか。それは死への怖れ、生への願い、豊かな食料の確保、雨雪、暴風、洪水など季節の変化に伴う飢えへの恐れであったろう。

 そして人々の信仰は、高い山、大きな岩、大木、流れる川水などに、この自然のみのりを支配する神々の姿をみ、自然崇拝の祈りを生じたのであろう。

 原始人のものの考え方は、現代人のような科学的、合理的なものと違い、そこから原始人特有の呪術、儀礼、信仰などが発達していった。
 やがて大陸より稲作栽培が伝わり広まるが、その伝播も日本海側地帯を経由して、大陸から流入し、各地に伝播していったに違いない。

 このとき稲作技術とともに高い文化も伝播し、この時代の人々の信仰は、
春の耕作前の豊作を願う祈り、秋の収穫のあとの神に捧げる感謝の祈りとなって田の神々への信仰に人々をかりたてたであろう。

 春の訪れ、雪解けと共に輝きを増した太陽の神は高山のいただき、大きな木、大きな岩に下り来まし、火となり、流れる水の神々とともに里に下りおり、田の神となるといった信仰儀礼が行われた。
 それは、高い山で行われた国見の儀式、また儀礼に用いられたという銅鐸が山より発掘されることによっても伺い知れる。

 稲作の普及によって支配階級が発生し、他氏族の統合が始まると、それは氏族統一結合のための神となっていった。
 信仰は各氏族の祖先と結びつき、氏族の守り神となり、その集落の信仰となっていった。ここに国津神々の誕生をみるのである。

 丹波という地名はまた、出雲の神である大国主命(おおくにぬしのみこと)の経営する田庭より出たと伝えられ、出雲と共に山陰道の旧国である。

 当初丹波は、出雲文化の影響のもとにあった。そこには豊作を祈る春先に行われる神事であった竹の子占い、みょうが占い、松占いなどの土産神(うぶすながみ)信仰として今日残っている土地の神々や、庶民的な恋をし、いたずらし、事荒ぶる神々といわれた須佐之男命(すさのおのみこと)、大国主命(おおくにぬしのみこと)その他さまざまな国つ神々が祭られていた。

 古代において祭礼は政治でもあった。姉の巫女(みこ)が、神託を得て祭礼を行ない、部族を統一し、弟が政治を行なう形態が普通であった。

 魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に、邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼(ひみこ)が神に仕え、その神託によって弟王が国を治めたとあるように、国津神々を祭る民俗信仰は、部族の団結を培うものであった。

 争乱のつづいた弥生中期を経て、三世紀の弥生後期には、各地に部族国家が統一されるが、ここ丹波にも丹波王国と言うべき独立国が成立した。

 これは、後代の加悦(かや)谷の巨大古墳群の存在、あるいは丹波各地に群在する古墳群によって、この地に大勢力集団があったことは明かである。

 大和朝廷の成立とその勢力拡大と共に、丹波もその勢力下に入るが、当初はまだ土地の神々や国津神々の信仰は、制限されない自治的な関係であった。

 しかしその国津神々の信仰も、それまでの三輪王朝に代わり即位した崇神天皇以後、新たに大和政権の拡大を推し進めた全国制覇に伴う、天津神々の丹波への降臨をもってその座をゆずる。

 古事記は、御肇国天皇(はつくにしらしめすすめらみこと)とよばれた崇神天皇の御代に、軍と共に天照大神を大和から各地に遷座して、新政権への従属をしいたと記している。

 丹波何鹿郡には、四道将軍の一人、彦座(うみざ)命の来臨、また丹波道主命の来臨があったといい、伊也神社にまつられているのを見る。
 こうして丹波は完全に大和朝廷の政権下に入る。

 この時代の日本人は、あげて古墳という巨大な墓作りに熱中していた。

 人々の信仰は、一応の生活の安定を得、強大な政治権力を成立せしめた時代においては、その巨大権力を誇示し、或いは個性の永遠化、永生の信仰、自らが聖なる山、神になろうとする望みとなった。
 政権の世襲化とともに、死者に対する生者の深い愛情がそれを可能にした。

 丹波においても、その有力氏族の長を祭る古墳が、その権力を基に造られた。今日各地に存在発見される大小の古墳、九州西都原の古墳群に匹敵するといわれた以久田野古墳群などがそれである。

 またあやめ塚、聖(ひじり)塚などの日本当初のものと見られる、大陸墓制の形状を伝える方墳が存在することは、当地の大陸文化との関係に何か示唆を与えてくれる。

 この古墳時代もやがて到来する仏教、儒教思想の伝播とともに終わりを告げる。それは、新思想がもはや古墳などによって権力の誇示や永生思想、世界意志の表現をする必要をなくしたときであった。

 丹波はまた古代より蚕桑の適地であった。五世紀以後大陸との交渉が激しくなると、その地から帰化する人々の数も増え、その中でも養蚕機織りをおもな仕事とする漢氏(あやし)、秦氏(はたし)などが、この地に住みついていった。

 大和朝廷に属する品部の一種として、漢部(あやべ)が織物をもって朝廷に奉仕する部曲として成立する。雄略天皇の十五年には、秦氏一八〇部、一八,六七〇人あり、翌十六年七月勅して、桑に適せる国縣に命じて桑を植えしめ、秦氏を分かちて、これに住居せしめ庸調を献ぜしめ給いき、冬十月勅して漢部を集め、その伴造(とものみやっこ)を定め給うと記録に見える。

 この漢部=綾部の地には、当時すでに蚕桑織物を職とする大集落が成立していたのであろう。そして、この勅によって当地の綾人をはじめとする丹波と、京都の太秦(うずまさ)などの山城地方に住む綾人たちが、大和朝廷下の養蚕の適地に移住していったのであろう。

 丹波はまた王領たる県(あがた)があり、王室とも関係が深く、市辺忍歯皇子が雄略天皇に殺されるとき、皇子であった仁賢、顕宗天皇が難をさけて身をひそめたとあり、当時を示す物部、私部、草賀部、三宅などの地名が残っている。

 五世紀に入り氏姓制度の乱れとともに、有力氏族の争い、中央権力に反発する地方首長の動きが活発になり、武烈天皇の後継者争いが起こった。
 日本書紀には、その時の大臣、大伴金村によって、丹波に住む倭彦王(やまとひこおう)(仲哀天皇の孫)の擁立が画策されたが、王は身に危険を感じこれを受けなかったとある。

 六世紀には、仏教の大和朝廷の礼拝をめぐって、進歩的な尊仏派である大臣(おおおみ)の蘇我(そが)氏と、皇祖神派の大連(おおむらじ)の物部(もののべ)氏の大和朝廷をまきこんで血を洗う争いが起きるが、仏教崇拝派が勝ち、全国に仏教寺院の建立と仏教の礼拝の普及をみることとなる。

 丹波綾部には、帰化人文化の集積と、蚕糸業の隆盛による経済力を背景として、当時地方には稀な寺院建築が行われ、美しい仏教芸術を伴う七堂伽藍の大寺であったと伝えられる、綾中廃寺趾などがそれと思える。

 更に六世紀末、政治の革新に当たり聖徳太子は、仏教政策をもって日本統一の絆となしたが、丹波綾部には、太子の開設と伝えられる君王山光明寺がある。
 また当地を何鹿(いかるが)と呼ぶのも仏典によると伝える。

 綾部には、奈良時代に設立された寺院は数多い。僧行基の開設によるものとして高源寺、普門院、日円寺、西照寺、東照寺があり、林聖上人の開基によるという楞厳(りょうごん)寺など、今日に残る由緒有ある寺院が多い。

 また仏教寺院の建設に刺激され、それまで自然物崇拝、あるいは神木、神柱の崇拝だった神々についても神社建築が行われるようになった。
 丹波綾部には、阿須々岐(あすすぎ)神社(和銅六年改祭)、島万神社(天平九年建立)などあり、以後平安時代にかけて無数の天つ神、国つ神々を祭る神社などが建立せられた。

 そして綾部は、この民衆の信仰、国津神々への祈りを基調として、日本神道、仏教、儒教思想などを総合調和し、その思想をもって今日の人間に、世界に問いかけ話しかける、平和宗教、大本を生み出した聖地として、未来に生きつづける心のふるさとである。

 綾部を散策するとき、幾多の古びた神社仏閣が、素朴な石仏達が、のどかな美しい山陰の自然の中にあり、昔の日本人の思考に私達を誘いかけるように静かな姿を見せてくれている。

 美しく目に映える青い田畑の中、新緑の山麓の中、乱れ咲く野の花々、薄紫の山つつじの花、桜、紅葉、白雪の自然に囲まれ、さえずる野鳥の声に包まれて建つ、その姿は、ふるさとの風情そのものである。