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2008/05/11のBlog
[ 07:08 ] [ 花だより・紅葉だより ]
[ 07:07 ] [ 花だより・紅葉だより ]
2008/05/10のBlog
[ 20:13 ] [ あやべの文化財 ]
平成17年4月「綾部の文化財を守る会」の中で宮本太資副会長、森田弘理事を中心に「丹波古美術研究会」が発足した。そして、平成19年度、京都府1/3,京都市町村振興協会から1/3の補助金をもらい「あやべ蒐集財振興会“彩工房”燦々堂」(代表宮本太資会長)が、平成20年1月19日(土)綾部市長代理・松本哲朗副市長、京都府中丹広域振興局長代理・永井秀明農林商工部長、綾部商工会議所・由良龍文会長、綾部市議会議長・川北敦氏、綾部市文化協会々長・田所卓氏、綾部の文化財を守る会々長・村上高一氏等、25名のご来賓を迎えてテープカット・オープンし、初釜と点心の接待が行なわれた。特に初釜は25名ずつ、5回に渡り計125名をも接待があった。
宮本会長の話では「この度、文化と癒し館“燦々堂(さんさんどう)は、築約80年の金物店(宮本三光堂)の建物を改装し、和室とギャラリーを兼ね備えたスペースとしてオープンしました。丹波地方の文化的なものを残すことと理解を深めることに加えて、お茶や囲碁会、音楽界などの高齢者交流の場として、叉、歴史文化財の展示による憩い場、生涯学習の場として、皆様のご支援で多目的にご利用頂ければと思っておりますので、宜しくお願いします。」とのが挨拶もありました。
宮本会長の話では「この度、文化と癒し館“燦々堂(さんさんどう)は、築約80年の金物店(宮本三光堂)の建物を改装し、和室とギャラリーを兼ね備えたスペースとしてオープンしました。丹波地方の文化的なものを残すことと理解を深めることに加えて、お茶や囲碁会、音楽界などの高齢者交流の場として、叉、歴史文化財の展示による憩い場、生涯学習の場として、皆様のご支援で多目的にご利用頂ければと思っておりますので、宜しくお願いします。」とのが挨拶もありました。
[ 19:31 ] [ 文化財を訪ねて ]
春、大勢の人込みの中で咲き誇っていた枝垂桜は今、葉を落とし身軽そうに、少し残った黄色く色ずいた葉が、小春日和の柔らかい風にゆらいでいた。
春と打って変わった静かな落ち着きも風情があった。
もみじは日当たりの良いところは赤く染まっていたが、日陰はまだ青々としていた。みたび醍醐寺を訪れる。
今回は「文化財を守る会」の秋の研修旅行でバス2台でやってきた。
専門のガイドの説明で、今まで見のがしていたところがよくわかる。
三宝院の庭は秀吉が病に臥したなかで設計して、亡くなって数ヶ月後に完成した。秀吉の思いがこもっているということや、平成に描かれた、浜田泰介画伯の襖絵、春の桜、秋の紅葉、冬の雪、見覚えがあるが夏がない。うらにまわってガイドが、障子戸をあけて見せてくれた。
そこには瀬戸内の海と多くの島々が、涼しげに描かれていた。
一般の人には少々わかりにくいだろう、高い欄間の彫刻に亀がいた。その亀に可愛い耳がついている。(かべに耳あり、かめに耳あり)と昔の人のユーモアを感じる。
勉強不足な私には、醍醐寺というと秀吉の花見の寺としか、イメージになかった。874年弘法大師の孫弟子、理源大師・聖宝が創建された。
醍醐・朱雀・村上天皇の三帝の帰依により次第に大きくなっていったものだということも、今回認識した。
国宝や重文など沢山の宝物があり、1994年に世界文化遺産になった。
霊宝館では沢山の仏像を見せてもらえるが、毎回私の一番好きな仏像に対面する。
十一面観音立像、高さ76センチ。なんと美しいのだろうか、美女をおもわせるお顔だち。今回一本の木から彫りだされたものと知った。
隣にある如意輪観音坐像も好きだ。光背がレース模様の精密さで作られて手を頬にあて、ちょっと首をかしげたお顔の愛らしい事。
古きいにしえの人は、深い信仰心と無垢の心をもって、これらの仏像を彫り上げていったのだろう。
そうでなかったら、こんなに美しいもの清らかなものが出来るはずは無い。
いつも下醍醐で帰ってしまうが、今度は是非上醍醐にも行ってみたい。
春と打って変わった静かな落ち着きも風情があった。
もみじは日当たりの良いところは赤く染まっていたが、日陰はまだ青々としていた。みたび醍醐寺を訪れる。
今回は「文化財を守る会」の秋の研修旅行でバス2台でやってきた。
専門のガイドの説明で、今まで見のがしていたところがよくわかる。
三宝院の庭は秀吉が病に臥したなかで設計して、亡くなって数ヶ月後に完成した。秀吉の思いがこもっているということや、平成に描かれた、浜田泰介画伯の襖絵、春の桜、秋の紅葉、冬の雪、見覚えがあるが夏がない。うらにまわってガイドが、障子戸をあけて見せてくれた。
そこには瀬戸内の海と多くの島々が、涼しげに描かれていた。
一般の人には少々わかりにくいだろう、高い欄間の彫刻に亀がいた。その亀に可愛い耳がついている。(かべに耳あり、かめに耳あり)と昔の人のユーモアを感じる。
勉強不足な私には、醍醐寺というと秀吉の花見の寺としか、イメージになかった。874年弘法大師の孫弟子、理源大師・聖宝が創建された。
醍醐・朱雀・村上天皇の三帝の帰依により次第に大きくなっていったものだということも、今回認識した。
国宝や重文など沢山の宝物があり、1994年に世界文化遺産になった。
霊宝館では沢山の仏像を見せてもらえるが、毎回私の一番好きな仏像に対面する。
十一面観音立像、高さ76センチ。なんと美しいのだろうか、美女をおもわせるお顔だち。今回一本の木から彫りだされたものと知った。
隣にある如意輪観音坐像も好きだ。光背がレース模様の精密さで作られて手を頬にあて、ちょっと首をかしげたお顔の愛らしい事。
古きいにしえの人は、深い信仰心と無垢の心をもって、これらの仏像を彫り上げていったのだろう。
そうでなかったら、こんなに美しいもの清らかなものが出来るはずは無い。
いつも下醍醐で帰ってしまうが、今度は是非上醍醐にも行ってみたい。
木造十一面観音立像
事務局追記:この文章はNさんのホームページの随想です。叉、この十一面観音立像は国や府の指定文化財でもありませんが、小生も家内も好きな像で広隆寺にある国宝第一号の木造弥勒菩薩半跏像を小さく、より可愛くした感じですね。
事務局追記:この文章はNさんのホームページの随想です。叉、この十一面観音立像は国や府の指定文化財でもありませんが、小生も家内も好きな像で広隆寺にある国宝第一号の木造弥勒菩薩半跏像を小さく、より可愛くした感じですね。
[ 17:32 ] [ 花だより・紅葉だより ]
[ 13:14 ] [ 花だより・紅葉だより ]
[ 08:58 ] [ 花だより・紅葉だより ]
[ 08:13 ] [ 文化財を訪ねて ]
一年のなかで最も美しい季節に京都を訪れるこの学習会を楽しみにしていました。
午前中は、かくれた紅葉の名所「醍醐寺」を見学し、午後は、「御香宮神社」へとむかいました。
平安時代にこの神社の境内から、「香」の良い水が湧き出たので、以来「御香宮」と呼ばれるようになったとか。バスを降り、いちょうや桜の色とりどりの落葉を踏みしめながら先ず拝殿へ。豪壮華麗な拝殿は、桃山時代の大型社殿として大変価値が高い京都府の指定重要文化財だそうです。
叉、拝殿から国の重要文化財の表門へ移り、そこで珍しい蠆股についての説明をお聞きしました。そこから本殿へ。この本殿も豪壮華麗で国の重要文化財です。その傍にこの神社の名の由来の清泉「石井の御香水」がこんこんと湧き出ていました。地元の人なのか、四・五人の方が大きなタンクで水を汲んでおられました。私も一口いただきましたが、思ったよりも温かく甘い水で優しく喉を潤してくれました。友達と「この水でコーヒーが飲みたいなあ。」と話しながら神社を後にしました。
次は今日の最後の見学場所である「伏見稲荷」です。「稲荷大神」は元々五穀をはじめとする全ての食物・蚕桑のことをつかさどる神として信仰されてきたのだそうです。まず、大社の前で全員で記念写真を撮り「千本鳥居」へ。見上げるとどこまでも、どこまでも続く朱の鳥居。
前の人に続き息をはずませ胸をドキドキさせながら「こんだけ歩いたら今晩はよう眠れるで。」との誰かの声に頷きながら何本も何本も鳥居をくぐりました。お願いごとをすませ下の茶屋で甘いものをいただきながら醍醐寺、御香宮のことをあれこれ話しました。
今日一日、雨に降られることもなく十一月にしては暖かい一日で、本当に思い出に残る学習会でした。お世話になった役員の方々、ありがとうございました。
写真:伏見稲荷大社(1・2号車全員)
午前中は、かくれた紅葉の名所「醍醐寺」を見学し、午後は、「御香宮神社」へとむかいました。
平安時代にこの神社の境内から、「香」の良い水が湧き出たので、以来「御香宮」と呼ばれるようになったとか。バスを降り、いちょうや桜の色とりどりの落葉を踏みしめながら先ず拝殿へ。豪壮華麗な拝殿は、桃山時代の大型社殿として大変価値が高い京都府の指定重要文化財だそうです。
叉、拝殿から国の重要文化財の表門へ移り、そこで珍しい蠆股についての説明をお聞きしました。そこから本殿へ。この本殿も豪壮華麗で国の重要文化財です。その傍にこの神社の名の由来の清泉「石井の御香水」がこんこんと湧き出ていました。地元の人なのか、四・五人の方が大きなタンクで水を汲んでおられました。私も一口いただきましたが、思ったよりも温かく甘い水で優しく喉を潤してくれました。友達と「この水でコーヒーが飲みたいなあ。」と話しながら神社を後にしました。
次は今日の最後の見学場所である「伏見稲荷」です。「稲荷大神」は元々五穀をはじめとする全ての食物・蚕桑のことをつかさどる神として信仰されてきたのだそうです。まず、大社の前で全員で記念写真を撮り「千本鳥居」へ。見上げるとどこまでも、どこまでも続く朱の鳥居。
前の人に続き息をはずませ胸をドキドキさせながら「こんだけ歩いたら今晩はよう眠れるで。」との誰かの声に頷きながら何本も何本も鳥居をくぐりました。お願いごとをすませ下の茶屋で甘いものをいただきながら醍醐寺、御香宮のことをあれこれ話しました。
今日一日、雨に降られることもなく十一月にしては暖かい一日で、本当に思い出に残る学習会でした。お世話になった役員の方々、ありがとうございました。
写真:伏見稲荷大社(1・2号車全員)
[ 08:11 ] [ 花だより・紅葉だより ]
2008/05/09のBlog
[ 20:48 ] [ あやべの文化財 ]
綾部市の郷土史講座では、平成19年秋の現地研修会が、地元の綾部、舞鶴で仏像の拝観を中心に、11月17日に開催されました。見学した寺院は、綾部で医王寺、安国寺、仏南寺、舞鶴で円隆寺でした。今回見学した四寺の中で医王寺のことについて書かせていただきます。その理由は誠に恥づかしいことですが、私の不勉強で医王寺のことについては未知で、全く初めての見学であり、仏像阿弥陀如来が端正で美しい姿であるのに感激し、また寺の護持法が特異であることが分かったからです。医王寺は国道27号線で、八田中学校前の点滅信号の南、約百メートルの地点から東北東へ約1キロメートル程行った山中(市内梅迫内谷)にあります。同寺について、綾部市観光協会、綾部の文化財を守る会、内谷自治会の三者で作成した駒札に記されている内容では、本寺は寛正年間(1460~65)」安国寺九世妙澤和尚の創建と伝えられているが、現在は一堂宇を残すのみである。元寺名の如く薬師如来が本尊であったが盗難のため、他から移された阿弥陀如来像が今本尊となっている。この木造阿弥陀如来像は国の重要文化財で像高70.9センチメートルで胎内には元享三年(1323)3月日法印尭円の銘を有し、京三条大仏師尭円の作である。鎌倉後期の華麗な盛上彩色の文様をあらわし、寄木造りで宋風の力強い作品である。
当日参加され、指導していただいた史談会の川端二三三郎先生の説明を少し付け加えますと、本尊の移動には当時の足利氏の力が動いているのではないか、本尊は玉眼入りで写実性の強い像であるとのことです。また当日の見学のお世話になった内谷自治会長辻井義明様の話では、この堂宇の周辺が医王寺の境内であり、同寺は現在まで長い間自治会の人たちによって年四回、春秋の彼岸、お釈迦様の誕生日、お盆の日にそれぞれの行事が行なわれ崇敬護持されているとのことです。本尊の拝観はお盆を除いて三回できるとのことです。この仏像については当会のインターネットホームページ「綾部の文化財」に掲載されています。 綾部の文化財を守る会会長 村上高一氏記
写真:木造阿弥陀如来座像
当日参加され、指導していただいた史談会の川端二三三郎先生の説明を少し付け加えますと、本尊の移動には当時の足利氏の力が動いているのではないか、本尊は玉眼入りで写実性の強い像であるとのことです。また当日の見学のお世話になった内谷自治会長辻井義明様の話では、この堂宇の周辺が医王寺の境内であり、同寺は現在まで長い間自治会の人たちによって年四回、春秋の彼岸、お釈迦様の誕生日、お盆の日にそれぞれの行事が行なわれ崇敬護持されているとのことです。本尊の拝観はお盆を除いて三回できるとのことです。この仏像については当会のインターネットホームページ「綾部の文化財」に掲載されています。 綾部の文化財を守る会会長 村上高一氏記
写真:木造阿弥陀如来座像
[ 20:48 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
4月29日(祭)に行われた「第5回綾部オープンミックス・テニス大会:春物語」は、好天気の中7チ-ムが参加、A・Bのブロックに分かれ予選の後、上位各2チ-ムが決勝戦を行い、1位:はるうらら、2位:南のビギナ-ズ、3位:ラフ、4位:綾部ロ-ンとなりました。
詳しくは次の戦績表(予選/決勝)/をご覧ください。
http://www5.nkansai.ne.jp/users/nbcayabe/mix08.xls
詳しくは次の戦績表(予選/決勝)/をご覧ください。
http://www5.nkansai.ne.jp/users/nbcayabe/mix08.xls
[ 20:47 ] [ 花だより・紅葉だより ]
[ 15:51 ] [ 花だより・紅葉だより ]
[ 13:08 ] [ 花だより・紅葉だより ]
[ 13:07 ] [ 花だより・紅葉だより ]
[ 09:12 ] [ 山野草 ]
紫鷺苔(むらさきさぎごけ)
tomato0714様「風景の色見本」、から「スミレ」でなく、「ムラサキサギゴケ」と、下記の花図鑑URLを教わりました。有り難うございました。
http://yoshino.hobby-web.net/hana/spring2/murasakigoke.html
花の形が鷺に似ているからこの名前になったようです。
tomato0714様「風景の色見本」、から「スミレ」でなく、「ムラサキサギゴケ」と、下記の花図鑑URLを教わりました。有り難うございました。
http://yoshino.hobby-web.net/hana/spring2/murasakigoke.html
花の形が鷺に似ているからこの名前になったようです。
2008/05/08のBlog
[ 12:55 ] [ 山野草 ]
紫鷺苔(むらさきさぎごけ)
tomato0714様「風景の色見本」、から「スミレ」でなく、「ムラサキサギゴケ」と、下記の花図鑑URLを教わりました。有り難うございました。
http://yoshino.hobby-web.net/hana/spring2/murasakigoke.html
花の形が鷺に似ているからこの名前になったようです。
tomato0714様「風景の色見本」、から「スミレ」でなく、「ムラサキサギゴケ」と、下記の花図鑑URLを教わりました。有り難うございました。
http://yoshino.hobby-web.net/hana/spring2/murasakigoke.html
花の形が鷺に似ているからこの名前になったようです。
[ 12:55 ] [ 山と峠と三角点 ]
[ 11:07 ] [ あやべの文化財 ]
金谷峠(推定標高200m)分岐路の標石(右:おくやま 左:山の口)
1 室尾谷の歴史・言い伝え
江戸時代の藩制が敷かれた時代の室尾谷南山地区(旧加佐郡河東村)は田辺藩(舞鶴城主)で、巡検師の一行は福知山藩から田辺藩に入る時は鬼ケ城峠を通り(鬼ケ城峠は江戸時代福知山藩から田辺藩へ通じる主要道であった)観音寺で休憩されたと思われる。
観音寺から金谷峠を通り、小畑~鍛治量~新庄~須波岐~白道路~上八田~七百石~上杉~於与岐まで一直線上(金谷峠入口から弥仙山が真直ぐに見える)で、弥仙山から丹後峠を越せば最短距離で田辺城(舞鶴城)へ入城出来たと思われる。
巡検師が陸路の場合は、大きな川もなく、峠も少ない道で入城されたと思われる。
室尾谷観音寺は行基菩薩が奈良時代、元明天皇の和銅7年(西暦714年)に開山されたと伝えられています。歴代の田辺藩主は毎年必ず1回参拝されたと記帳されています。
歴史街道の境界は福知山藩、田辺藩、綾部藩が交わる唯一の地域で、山野口は鉱山の関係で、天領(幕府の直轄地域)であった様です。今思う時、約3kmの範囲内にこの様な重要な地帯があったのかとロマンを感じます。
2 丹波・丹後歴史街道
(1)金谷峠 金谷峠道は江戸時代から多くの人々の往来があり、峠道を越え下った終点に室尾谷観音寺があり、四国八十八ヵ所の霊場(大師)が祀られ、参拝者が多く大師道とも呼びました。又、由良川を利用して船で由良から有路まで魚、塩、海産物等を運び、有路から陸路で金谷峠越えで運び込まれた。丹波・丹後の境界には金谷、山野口、室尾谷の三ケ所に、鉱山が有り、茶店・女郎屋が有り、その名残で通称名で女郎が谷の地名が残っています。
峠道は尾根より右に奥山・奈良原、左に山野口、真直ぐに室尾谷の四集落に出る事が出来ました。小学校の遠足時はお寺参りや鬼ケ域登りは山野口経由で、また由良川遊びは奥山越しと別れて行きました。
明治41年の大水害で草折峠の山崩れで、金谷から室尾谷までの一部区間の山道が無くなっていました。丹波・丹後の境界線にある歴史街道を約100年振りに2007年(平成19年)12月に地域住民の25名の作業で無事開通する事が出来ました。この歴史街道は、両入口付近は登坂道で、大半は尾根伝いの起伏が少ない約3kmの道中で新緑、紅葉の時期には、森林浴を楽しむ絶好の散歩道です。是非散歩して下さい。
(2)薬師如来堂(最終民家の右隣) 立派な薬師如来像が祀られ、金谷の薬師さんと呼ぱれ、鼻、耳、母乳の仏様として、穴の通った小石をお供えすると願いが通じると言われ、親しまれ、多くの人達のお参りが有りました。横にはお地蔵(石像)も祀られています。是非お参り下さい。
(3)不動明王(最終民家の右上の谷)不動明王が大きな岩の上に2対祀られ、奈良県の大嶺山に参拝する前に身を清め、道中の安泰を祈願された。又願い事をすれば必ず通じると多くの人達が参拝されました。
(4)宗谷峠 この峠は河守に出る一番の近道ですが、現在は雑草本の繁茂で通行不能です。
(5)河守地区(現在の大江町)は、真中を由良川が流れ大雨の度に水害に遭い、水稲が壊滅状態となった事で、小畑地区は肥沃な土地柄で見た目より多くの米が収穫され、余剰米を夜、人目を忍んで牛の背中に俵を乗せて売りに行ったと古老の方に間きました。
[丹波良い所、米所、嫁にやりたや、婿ほしや]のことわざがあります。
1 室尾谷の歴史・言い伝え
江戸時代の藩制が敷かれた時代の室尾谷南山地区(旧加佐郡河東村)は田辺藩(舞鶴城主)で、巡検師の一行は福知山藩から田辺藩に入る時は鬼ケ城峠を通り(鬼ケ城峠は江戸時代福知山藩から田辺藩へ通じる主要道であった)観音寺で休憩されたと思われる。
観音寺から金谷峠を通り、小畑~鍛治量~新庄~須波岐~白道路~上八田~七百石~上杉~於与岐まで一直線上(金谷峠入口から弥仙山が真直ぐに見える)で、弥仙山から丹後峠を越せば最短距離で田辺城(舞鶴城)へ入城出来たと思われる。
巡検師が陸路の場合は、大きな川もなく、峠も少ない道で入城されたと思われる。
室尾谷観音寺は行基菩薩が奈良時代、元明天皇の和銅7年(西暦714年)に開山されたと伝えられています。歴代の田辺藩主は毎年必ず1回参拝されたと記帳されています。
歴史街道の境界は福知山藩、田辺藩、綾部藩が交わる唯一の地域で、山野口は鉱山の関係で、天領(幕府の直轄地域)であった様です。今思う時、約3kmの範囲内にこの様な重要な地帯があったのかとロマンを感じます。
2 丹波・丹後歴史街道
(1)金谷峠 金谷峠道は江戸時代から多くの人々の往来があり、峠道を越え下った終点に室尾谷観音寺があり、四国八十八ヵ所の霊場(大師)が祀られ、参拝者が多く大師道とも呼びました。又、由良川を利用して船で由良から有路まで魚、塩、海産物等を運び、有路から陸路で金谷峠越えで運び込まれた。丹波・丹後の境界には金谷、山野口、室尾谷の三ケ所に、鉱山が有り、茶店・女郎屋が有り、その名残で通称名で女郎が谷の地名が残っています。
峠道は尾根より右に奥山・奈良原、左に山野口、真直ぐに室尾谷の四集落に出る事が出来ました。小学校の遠足時はお寺参りや鬼ケ域登りは山野口経由で、また由良川遊びは奥山越しと別れて行きました。
明治41年の大水害で草折峠の山崩れで、金谷から室尾谷までの一部区間の山道が無くなっていました。丹波・丹後の境界線にある歴史街道を約100年振りに2007年(平成19年)12月に地域住民の25名の作業で無事開通する事が出来ました。この歴史街道は、両入口付近は登坂道で、大半は尾根伝いの起伏が少ない約3kmの道中で新緑、紅葉の時期には、森林浴を楽しむ絶好の散歩道です。是非散歩して下さい。
(2)薬師如来堂(最終民家の右隣) 立派な薬師如来像が祀られ、金谷の薬師さんと呼ぱれ、鼻、耳、母乳の仏様として、穴の通った小石をお供えすると願いが通じると言われ、親しまれ、多くの人達のお参りが有りました。横にはお地蔵(石像)も祀られています。是非お参り下さい。
(3)不動明王(最終民家の右上の谷)不動明王が大きな岩の上に2対祀られ、奈良県の大嶺山に参拝する前に身を清め、道中の安泰を祈願された。又願い事をすれば必ず通じると多くの人達が参拝されました。
(4)宗谷峠 この峠は河守に出る一番の近道ですが、現在は雑草本の繁茂で通行不能です。
(5)河守地区(現在の大江町)は、真中を由良川が流れ大雨の度に水害に遭い、水稲が壊滅状態となった事で、小畑地区は肥沃な土地柄で見た目より多くの米が収穫され、余剰米を夜、人目を忍んで牛の背中に俵を乗せて売りに行ったと古老の方に間きました。
[丹波良い所、米所、嫁にやりたや、婿ほしや]のことわざがあります。
[ 07:06 ] [ 山と峠と三角点 ]
[ 07:05 ] [ 文化財を訪ねて ]
丹波、丹後歴史街道について
この古道(金谷峠道)は、江戸時代から昭和中期以前の乗り物が発達、普及していない時代に、当時、加佐郡大江町の奥山、奈良原、広畑、尾藤、室尾谷、何鹿郡佐賀村の山野口地区等の親戚、縁者が往来。丹後から海産物、また小畑から生産物の物流の道として盛んに利用されていました。
また室尾谷の観音寺に八十八ケ所のお大師が祀られ多くの参拝者もあり、古道が大師道とも呼ばれていました。小畑の子供達は、この大師道を通り、観音寺、鬼ケ城へ行くことが遠足の慣例コ-スでもありました。
更に小畑地区以外の人々も大師詣り、山草採り、福知山への最短距離の道として、買い物、散策等に通行されていました。
今回2007年(平成19年)11月12日に小畑地区住民の有志が、古道の復旧を願い、繁茂した雑草木を伐採、山道の一部(明治以後大震災で崩壊し新設の作業)、整地、道しるべの設置等を行い、多くの人々に丹波、丹後歴史街道を楽しく散策していただくことにいたしました。
2008(平成20)年2月吉日 丹波、丹後歴史街道保存会
この古道(金谷峠道)は、江戸時代から昭和中期以前の乗り物が発達、普及していない時代に、当時、加佐郡大江町の奥山、奈良原、広畑、尾藤、室尾谷、何鹿郡佐賀村の山野口地区等の親戚、縁者が往来。丹後から海産物、また小畑から生産物の物流の道として盛んに利用されていました。
また室尾谷の観音寺に八十八ケ所のお大師が祀られ多くの参拝者もあり、古道が大師道とも呼ばれていました。小畑の子供達は、この大師道を通り、観音寺、鬼ケ城へ行くことが遠足の慣例コ-スでもありました。
更に小畑地区以外の人々も大師詣り、山草採り、福知山への最短距離の道として、買い物、散策等に通行されていました。
今回2007年(平成19年)11月12日に小畑地区住民の有志が、古道の復旧を願い、繁茂した雑草木を伐採、山道の一部(明治以後大震災で崩壊し新設の作業)、整地、道しるべの設置等を行い、多くの人々に丹波、丹後歴史街道を楽しく散策していただくことにいたしました。
2008(平成20)年2月吉日 丹波、丹後歴史街道保存会
[ 07:05 ] [ 山と峠と三角点 ]
このGWに小畑六左衛門の嫁の実家に通じる「三坂峠」~空山を散策したあと、時間があったので、小畑町の奧の金谷峠も散策してきた。昼過ぎで峠口の最奧の付近に農家の方が数人居られたので声をかけると、金谷峠の地図と歴史を記したパンフレットをいただいた。
最奧に車を置き、峠道を歩く。小さな砂防ダムがある。
最奧に車を置き、峠道を歩く。小さな砂防ダムがある。
[ 07:05 ] [ 山と峠と三角点 ]
小畑の本庄奥を西に進むと金谷峠(推定標高:200m)がある。綾部市の西に張り出した最先端、福知山市との市境である。近くに三角点「宗谷(285.9m)」がある。地元の有志の方の努力で峠道が整備され散策コ-スとして蘇った。このGWに登ってきたので紹介する。
2008/05/07のBlog
[ 17:40 ] [ 花だより・紅葉だより ]
[ 17:40 ] [ 花だより・紅葉だより ]
[ 16:12 ] [ 花だより・紅葉だより ]
[ 14:50 ] [ 花だより・紅葉だより ]
[ 11:25 ] [ 花だより・紅葉だより ]
[ 10:27 ] [ 花だより・紅葉だより ]
[ 08:30 ] [ 花だより・紅葉だより ]