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なべちゃんの散歩道
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ジャンル:あやべの文化財
Blog数:535件
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2007/04/06のBlog
[ 21:11 ] [ あやべの文化財 ]
謹啓
 本年は暖冬でもう春のような気候が続いておりますが、皆様にはお変わりなく、お元気にお過しのこととお慶び申し上げます。
 さて、本年も当山恒例の稲荷大明神柴燈護摩供法要を厳修させていただく時期が近づいてまいりました。
 この稲荷大明神は家々の屋敷神、また豊作の神、大漁の神、商売繁盛の神など、あらゆる方面の神として色々な功徳をいただける神様です。
 当奉賛会では、その功徳を得て多くの人々に幸せな社会生活を送っていただけるように、例年柴燈護摩供を修祀いたし、商売繁盛・家内安全・交通安全・諸願成就を祈念させていただいております。
 つきましては、ご多忙のところ誠に恐縮に存じますが万障お繰合せの上、ご参詣下さいますようご案内申し上げます。本年より誠に勝手ではございますが日程が変更となっておりますので、宜しくお願い申し上げます。 合 掌
 記
○ 日 時 平成十九年四月八日(日) 午前十時三十分より
○ 会 場 綾部市神宮寺町 高野山真言宗 霊唐山 千手院 境内
○ 行 事
 一、柴燈大護摩供、並びに火生三昧(火渡り)奉修
一、旧祈祷札・旧神矢・旧お守り等魂抜き後供養
○ 接 待 当山名物稲荷寿司・甘酒
平成十九年三月吉日
 高野山真言宗 霊唐山神宮寺千手院内 四ツ尾稲荷奉賛会
以上を綾部の文化財を守る会事務局長:四方續夫氏にメ-ルで送った。取材に行かれると云うことである
2007/04/05のBlog
総会に変わる幹事会が4月5日行われ、綾部市文化協会会長:田所卓氏、京都府蚕種同友会会長:荒堀満氏から来賓祝辞をいただいたあと、木下芳信氏を議長に選出し、平成18年度事業・会計の報告、19年度の事業・予算計画が審議され承認されました。
・春の文化財研修は「播磨の国の国宝と文化財を訪ねて」浄土寺(小野市)、一乗寺(加西市)、鶴林寺(加古川市)、明石市立文化博物館。6月7日(木)
・秋の文化財研修は「醍醐寺・三宝院の秋の特別拝観と伏見の文化財研修」醍醐寺、三宝院、御香宮神社、伏見稲荷大社、11月20日(木)予定
・会長の大島文隆氏が勇退され、副会長の村上高一氏が会長に選ばれ就任されました。
・幹事会の詳細について、会員の皆様は近く配布される会報64号の記載記事をご参照ください。
・年会費1000円で年2回、20ペ-ジを超えるカラ-印刷の会報が配布されますので会員申し込みをどうぞ(綾部の文化財を守る会事務局:〒623-0004綾部市多田町後路28、四方續夫宛)
2007/01/05のBlog
(写真)綾部市指定文化財「紙本淡彩墨画白衣観音」京都国立博物館に預託中・玉泉寺(武吉町)・綾部市資料館提供
(記事)綾部の文化財を守る会事務局長:四方續夫氏「臨済宗南禅寺派の一等寺院・玉泉寺の文化財
2006/12/23のBlog
[ 21:47 ] [ あやべの文化財 ]
綾部の延喜式内社12座の紹介--こちらには、地図・HPもリンクしています--
京都府綾部市「もと何鹿郡(いかるがぐん)」には12の式内社がある。これは明治政府が明治7年(1874)6月から「教部省達書第28号」により各都道府県に調査を命じ、京都府は明治8年7月より寺社掛が調査編纂した。この「延喜式内並国史見在神社考証(えんきしきないならびにこくしけんざいじんじゃこうしょう)」と呼び、正確には20冊に編纂されたが、現在京都市内の部7冊が紛失し、13冊のみが、京都府総合資料館に保存されている。何鹿郡(いかるがぐん)之部では12社とされています。
須波岐部神社」(物部町)
阿須々伎神社」(金河内町)
御手槻神社」(位田町)
河牟奈備神社」(十倉名畑町)
伊也神社」(広瀬町)
赤国神社」(館町)
高倉神社」(高倉町)
高蔵神社」(西坂町)
佐須我神社」(私市)
嶋萬神社」(中筋町)
福太神社」(上八田町)
佐陀(大川)神社」(栗町)
 以上、綾部の文化財を守る会事務局長:四方續夫記
編者注)西国観音霊場と違い、式内社の順番は順不同です。
ついに年内に12座とも取材し公開完了ですね。素晴らしい記録です。
なお順次、本年の文化財取材記(綾部西国観音霊場、その他の神社仏閣)の目次を作成し、1年間のまとめにさせていただきます。
ふるさと綾部の輝かしい新春の初詣、初参りの参考にしてください
綾部西国観音霊場(33ケ寺・番外6ケ寺)の取材目次-こちらには、地図・HPもリンクしています-
京都府綾部市「もと何鹿郡(いかるがぐん)」には「綾部西国観音霊場会」(戦前は「何鹿郡観音霊場会」と呼ばれていた。)がありその会の主催で年2回春は梅雨明けの6月下旬、7月上旬、秋は大体11月中旬に「あやべ西国観音霊場巡り」がA.B.Cの3コースで33ヶ寺と番外6ヶ寺をマイクロバスで巡拝する一日コースが実施される。即ち、各コース一日13ヶ寺を回り、各寺「般若心経を3回」読み又、ご朱印帳他に押捺をしてもらう。参加費も昼食代を含めて6,000円~6,500円位と安いが朱印代は300円位,お賽銭は全て志納金である。前日、ホテル綾部に泊まれば集合場所まで迎えに来てもらえる。詳細は「第1番札所の真言宗・正暦寺(しょうれきじ)電話07773-42-0980)」へ事前に問い合わされると良い。
 わが国の観音信仰は古くは飛鳥時代にさかのぼり、法隆寺の救世観音、百済観音などを初めとして、白鳳から奈良時代に多くの美しい観音像がつくられた。当時の観音は国家安寧・病気平癒と云った現生利益をもたらす仏様として信仰されていた。奈良時代末の「日本霊異記(りょういき)には観音様の功徳を説くものが14編あります。その後、平安時代には密教の影響から変化(へんげ)観音が多数生まれ、多くの人々の要望に答えるようになった。更に、浄土思想を元に観音様は六道輪廻(りんね)する衆生を引導する仏として、又、極楽浄土への導き手として深く社会に浸透した。特に山岳修行行者の間に観音信仰が広まり、修行の地が決まり、後の観音霊場と成った。日本最古の観音霊場「西国33観音霊場」は「中山寺縁起」によると8世紀初めです。実際には、10世紀末「花山法王」の出家巡礼を契機に巡礼道が整備されたと云う。室町時代以降、「今生の罪と穢れを巡礼で消滅させる。」との願いが多くの人々に起こり、西国・坂東・秩父が100観音霊場として結ばれるのもこの頃です。綾部地方でも同じく室町時代に現在のあやべ観音霊場の前身である何鹿郡33ヶ所が決められた。今回、小生は現在の「綾部観音霊場会」の編集委員の方の依頼を受け,毎正月の例会で配られる檀家への冊子「慈光」の六道に関係する六観音を未熟者ですが、諸般の事情で已む無く取材・撮影することとなった。
1番札所:「正歴寺」高野山真言宗(寺町)・その2
2番札所、「隆興寺」臨済宗妙心寺派(神宮寺町)
3番札所、「宝住寺」臨済宗妙心寺派(味方町)
4番札所、「栴林寺」臨済宗妙心寺派(釜輪町)
5番札所、「照福寺」臨済宗妙心寺派(鷹栖町)
6番札所、「梅巌寺」臨済宗妙心寺派(下八田町)・その2 
7番札所、「佛南寺」臨済宗妙心寺派(里町)
8番札所、「円照寺」臨済宗妙心寺派(多田町)
9番札所、「東光院」高野山真言宗(上延町)
10番札所、「慈音寺」曹洞宗(上延町)
11番札所、「隠龍寺」曹洞宗(高津町)
12番札所、「浄泉寺」曹洞宗(位田町)
13番札所、「瑠璃寺」曹洞宗(大畠町)
14番札所、「楞巌寺」高野山真言宗(舘町)・その2
15番札所、「惣持院」高野山真言宗(小西町)
16番札所、「普門院」高野山真言宗(鍛冶屋町)
17番札所、「天王寺」高野山真言宗(小畑町)
18番札所、「高屋寺」臨済宗妙心寺派(物部町)
19番札所、「極楽寺」臨済宗東福寺派(白道路町)・その2・その3 
20番札所、「満福寺」高野山真言宗(西坂町)
21番札所、「長松寺」曹洞宗(坊口町)
22番札所、「宝満寺」高野山真言宗(西方町)
23番札所、「長福寺」曹洞宗(向田町)
24番札所、「慈眼寺」臨済宗妙心寺派(上八田町)
25番札所、「岩王寺」高野山真言宗(七百石町)
26番札所、「安国寺」臨済宗東福寺派(安国寺町)・その2
27番札所、「禅徳寺」臨済宗東福寺派(上杉町)
28番札所、「施福寺」高野山真言宗(上杉町)
29番札所、「日圓寺」高野山真言宗(井根町)
30番札所、「善福寺」高野山真言宗(睦合町)
31番札所、「上林禅寺」臨済宗南禅寺派(八津合町)
32、「五泉寺」臨済宗南禅寺派(五泉町)
33番札所、「光明寺」真言宗醍醐派(睦寄町)
番外1、「妙徳寺」臨済宗妙心寺派(渕垣町)
番外2、「長福寺」曹洞宗(栗町)
番外3、「雲源寺」臨済宗東福寺派(梅迫町)
番外4、「随岸寺」臨済宗東福寺派(和木町)
番外5、「高源寺」曹洞宗(小畑町)
番外6、「久香寺」真言宗御室派(梅迫町)
 真言宗や天台宗はもっとも古く秘仏が多く、ほとんど仏像の撮影は出来ません。曹洞宗永平寺派も難しい。綾部の真言宗の寺全部を掲載した冊子を出される計画で作業中と承知してますが、仏像の写真は一つもありません。小生の方が多く撮影してます。残りは来年となります。
以上、綾部の文化財を守る会事務局長:四方續夫さんのご苦労です。全部で39ケ所の内、すでに25ケ所の取材、文化財日誌に公開済みです。またこの掲示板には「花と綾部の文化財」のタイトルで投稿されているものです。
なおこの西国観音霊場は1999年に再編成された由、文化財を守る会会報記事の転載(HP)と変わるところもあります。
2006/12/09のBlog
[ 09:18 ] [ あやべの文化財 ]
犬越峠」か「大越峠」か?
拙文を綾部の文化財を守る会の四方續夫事務局長に「峠マニア」として紹介したところ、
>大越峠です。ここから和知へ抜けたと武吉町の久保自治会長の書類に書いてありました・・との連絡がありました。
直訴に旅立った3勇士の出国ル-トはやはりこの峠経由だったようです
ここで「大越峠」とあり、取り敢えずキ-ワ-ド検索してみました。最初の「犬越峠」の名称は山仲間の人から教えていただいたものです。
全国峠道一覧には「大越峠」が沢山ありますが、京都府下では「大越峠」は1件も検索で出ません。
次の2点が「犬越峠」を採用していました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は一応の権威か?と思います。また山仲間では「犬越峠」が通称のようです。
京都府道481号上杉和知線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%9C%E9%81%93481%E5%8F%B7%E4%B8%8A%E6%9D%89%E5%92%8C%E7%9F%A5%E7%B7%9A
綾部市武吉町~京丹波町西河内間の犬越峠では府道が途絶え、通行不可能となっている。また、この峠の周辺には無線中継所もある
マウンテンバイクで山を駆け抜けておられる「山であそぼっの山あそ」さんのHPです
http://yama-aso2.web.infoseek.co.jp/hachibuse.html
犬越峠にあった石仏たちから引用
綾部市武吉から船井郡和知に行く場合、由良川沿いの平地を行くよりもこの犬越峠を越える方が段違いに時間が短縮できる。それら往来の多さを証明するように峠には石仏、石塔がある。まずは峠の石仏にはめずらしく千手観音。横手の石碑には中央に『南無地蔵大士』左に施主の名前、右に『文政十三寅(1830)三月日』とある。無という漢字が見たことのないもので面白い。ちなみに文政十三年は吉田松陰の生まれた年です・・
和知町仏主峠に接続する「大栗峠」、大栗部落(和知)、大栗山(市境)があり、綾部の「忠町:たった3町の一つ」にも下りられます。これとの混同が「大越峠」では?・・。「大越峠」の出典についても確認する必要がありそうです
上林・和知、美山境の峠は南から北へ、「犬越峠」-「大栗峠」-「上林峠」-「洞峠」-「尼来峠」-「尼公峠」-「管の坂(萓待坂」)-「永谷坂峠」・・と並びます
綾部市境の峠道一覧 http://www.nbcayabe.com/sisakaiy.htm
最初に「犬越峠」の名称を教えていただいた舞鶴市のふじもと様からメ-ルがあり、林道開設の記念公園に建つ「民有林林道みちしるべ:和知町」の大きな案内図に書かれているとお知らせをいただきました。最上部の写真を部分拡大したこの写真が証明です。「犬越峠」に決定です。

四方續夫事務局長からも連絡が来ました。
>久保 自治会長の文でてきました。往路は上記の通りで、どの峠かかいてありませんが、三人を迎えて、国堺の山道=通常いなば堺に出迎え、ほんの心尽くししで、大根、柚子、唐辛子の生切れの肴で、慰労会をひらきーーーーと記載されています。お借りしている「丹の国綾部」をお返しする時、同封して置きます

HP「綾部の文化財」「あやべの文化財日誌」の投稿について、歴史上の人名や地名など固有名詞の誤り校正が必要で、1人では思い込みなども入り不十分なので、ホ-ムペ-ジ委員会の中で投稿の相互チェックをしています。私のこのブログも上記HPの下書き校正を兼ねて作成しています
2006/12/08のBlog
[ 08:29 ] [ あやべの文化財 ]
たったのこんぴらさん」が行われている村々に通じる犬越峠」の近くにある、パラボラ電波塔の「鉢伏山は、和知稲継橋より 3.8Km 北方向 綾部に向かって右斜めに良く見える
たったのこんぴらさん」で府道沿いの交通・駐車管理を勤められていた若い消防団員のお二人に「犬越峠」まで行ったことがありますかと聞くと、「昔は登ったと聞くが現在はない。自分も行っていない」と云われたのには失望した。この祭事の伝承となった舞台は「弥仙詣:黒石峠」と「江戸へ出国・和知大廉泊:犬越峠」「国境いなば境への出迎えと離別:犬越峠」と峠道経由なしには考えられないと思う。今は車で行動し、物事を考えがちであるが、祖先の行動をせめて村境までは実体験していて欲しいと思う
400mm望遠レンズで遠方より目立つ「鉢伏山のパラボラ電波塔」を撮りにGPSをつけて車でまわった。「武吉公民館」までしか行かなかったが、「犬越峠」に通じる「佃」の林道終点まで入るともっと良い地図になったと思う。
なお「釜の輪」の三角点「上滝ノ尾」の近くを通る「古峠」から、山家・谷藩主の庇護があったという「聖権現・日前(ひのくま)神社」に通じる山道もあり山家の広瀬町に出られる。
上滝ノ尾」から鉢伏山の少し南まで高圧送電線の走る三角点「奥山」にいたる尾根がある。これは「釜の輪川」の上流にある「乙見渓流荘」の先に続く頭上を高圧線が横切る林道があるが尾根ちがいになる。さらに和知に出るにはもう一山・奥山の由良川まで続く稜線を越えなければならない。
追っ手を逃れての江戸への直訴道中、未明に出立したとして、何処から国を脱出し、和知の大廉の宿まで1日間の道を辿ったのかを考えると、また帰国直前に出迎えた国境の「通称いなば境」:和知の鉢伏山が良く見える、稲継の地名、稲継橋もある。は何処かを考えると興味が尽きない
たったのこんぴらさん」の伝承、峠道関係の部分抜粋
圧政に耐えかねた農民は暴政を幕府に直接訴えようと計画し、その使を屈強な若者3人が志願した。旅費を日頃修験道などで弥仙詣をして知る、他領於与岐村の庄屋吉崎五左ヱ門にもとめた。三村あげてのこの企を知った吉崎はすべてを覚悟してこれに協力した。
3人は死を決して出発、和知大簾で宿を借りたり・・・領主のさしむけた追手をうまくのがれ江戸についた。そうして幕府に訴え願はかなえられ、代官は罰せられて領民はすくわれた。
3人の帰路、藩の追及がその若者に及ぶことを恐れ、国境の通称いなば境で村役達は出迎え、ほんの心尽くしで大根,柚子、唐辛子の生切れの肴で慰労会を開き、若い3人の身の安全のため、因果を含め今後地元へ帰還することなく潜伏生活を依頼した。ついで3人の偉業を子々孫々に顕彰するため、純朴な農民はこの越訴が成功したのは、一に日頃信仰するこんぴら大権現の御加護によるものと願がけの通り千年の講を行うこととし、其の後毎年盛大な講を営むことになったという
[ 07:42 ] [ あやべの文化財 ]
今年の「たったのこんぴらさん」が行われた近くの武吉町公民館前で刈り込みをするコンバイン。向かいの鉢伏山の上にパラボラ電波塔が目立つ
武吉町公民館より3.4Km西南方向 開けた所に全望できる
武吉町公民館前から撮影したパラボラ電波塔
綾部市と和知町の境に鉢伏山」という「パラボラ反射鏡」が鈴なりに乗ったランドマ-ク(陸標)が見える。寺山からも良く見える。中丹広域農道の福知山から高速舞鶴道の陸橋をくぐった当たりからも進行方向真正面に見え、遠く綾部市境を意識させてくれる。さらに
十倉交差点より 4.7Km西南方向 進行方向正面
和知稲継橋より 3.8Km 北方向 綾部に向かって右斜めに良く見える
京都に向かう由良川沿いの国道27号線、山家交差点付近から撮影。山家交差点より 5.9Km 西方向 進行方向正面右寄り
この「鉢伏山」のすぐ左下に「犬越峠」があり、府道481号(上林-和知)線(未開通)にあたる。
ホ-ムペ-ジ「電波塔のミステリ-鉢伏山(625.7m)を現地確認」
武吉~佃町を山に向かって進むとすぐに短い林道となる。終点から峠道が通じており急坂もなく手入れされた峠道である
稜線に出ると送電線塔があり、少しこの稜線を登ると「犬越峠」に着く。「之より北、丹波国何鹿郡」の道標が立っている
といきなり開けた展望のある林道に飛び出す。目の前に「林道:明石線完成記念碑、荒巻知事」の石碑が建つ公園がある。和知側は林道や電波塔、送電線鉄塔巡視路(車道)が縦横に走り開けている。まるで裏庭から表座敷に飛び出したような気分を味わう
上記から見ると、武吉・佃から山越えで江戸に向かうときに宿を借りたという「大廉」に通じる由良川に出られる。その距離は、直線距離にして7Kmほどで、昔の人の健脚ぶりから考えると非常に近いといえる。昔は山の向こうに京都に通じる街道があるの感覚だったのではなかろうか
2006/12/07のBlog
[ 17:47 ] [ あやべの文化財 ]
300年間続く建田の金比羅宮宝永講秋季大祭 綾部の文化財を守る会事務局長:四方續夫氏
京都府綾部市(もと何鹿郡いかるがぐん)武吉町浦入14番地の浦入源伍氏宅で11月10日(金)「建田(たった)の金比羅宮宝永講秋季大祭」が催された。これは今から300年の昔、いわゆる天下分け目の合戦の後遺症で圧政に耐えられず、当時約200戸、武吉(たけよし)・佃(つくだ)・忠(ただ)村の地元民は、子孫と村の将来を考え窮状打破するため生命の危険を冒し、江戸幕府へ直訴(実情を訴える、直訴者は通常断罪)することを決意し、当時唯一集まりが許される神仏の崇敬講に着目し、金比羅講に結集、協議した。直訴には各村から一人ずつ3名の若者が選ばれ、内一人は母子二人暮らしであったが、息子の壮途に憂いを残さないため母親は自決した。3人はこのような村人の信心、あらたかな神の加護、窮状に共感をえて於与岐(およぎ)の素封家:吉崎氏より旅費の供与を受け直訴に出発し、すぐ様、追跡にあったが多くの人々や神仏に助けられ、無事に江戸幕府へ直訴を成し遂げた。このことは当時では全国的にもまれな幸運な成功であった。3人の帰路、藩の追及がその若者に及ぶことを恐れ、国境の通称いなば境で村役達は出迎え、ほんの心尽くしで、大根,柚子、唐辛子の生切れの肴で慰労会を開き、若い三人の身の安全のため、因果を含め今後地元へ帰還することなく潜伏生活を依頼した。ついで三人の偉業を子々孫々に顕彰するため、併せて神の加護を感謝して,今後1千年間金比羅講を続けると約束した。
 今年は11月9日(木)午後5時秋季大祭前夜祭11月10(金)午前6時秋季大祭・遥拝式、それから特別祈願拝(これは、家の中に入り久保宮司様による御祓いを受ける)志納料は各自の自由だが一人千円から、1万円もお供えされる人もある諭旨)午後3時頃秋季大祭終了報告会、その後、佃町からの出迎えを受け「戸渡しの儀式」をえて佃町の民家の講元へ、そこで「遷座式」が行なわれ、平成18年11日10日から翌年の11月10日まで毎月10日に月礼祭が行なわれる。そして、平成19年11月10日には忠町へ、平成20年11月10日には再び武吉町の民家へ遷座される。この浦入家の裏庭には「天正八年(1580)正月廿八日 奉斎 堀 土佐守藤原宗光 」の石碑と巨大な古木の梨の木があった。浦入の地名を姓に持つこの浦入氏は元地方の豪族であったと思慮する。参拝者は昔、数千人だった諭旨、だが今でも1,700~1,800名参拝される。当会の会員吉美地区里町の木下清氏も参拝されたのに出会った。駐車場も地元の消防団の方々の案内で安心で無料です
写真:特別祈願を受けられるご夫婦
3時からの秋季大祭終了式に参加する3ヶ町の代表講員
「戸渡しの儀式」に参加する役員,いわれある大根、柚子、唐辛子の三種を使った膳
[ 08:27 ] [ あやべの文化財 ]
駐車した府道からまっすぐ下ってきた道に屋台店が並んでいた。路肩は畦道で里芋が植えられているのが見える。祭殿を祀った民家は、この田畑の向こう側にある
大判焼き、焼きそば
きれいな小物やおもちゃが置かれている。子供を抱いた家族連れ
おみやげ屋さん
たこやき屋、おもちゃやさん
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